終業パレード
2006年4月14日空の歯磨き粉を、くぬっ、くぬっ、と絞り出すように働く金曜日。
朝から晩まで顔を突き合わせている同期は、もはや、家族よりも恋人よりも友達よりも近しい。もはよう、おまいら。就業中にプシュ〜〜〜とガス欠を起こした私を「りん、がんばって!今日は金曜だからね!」と励ましたり、「お弁当、足りた?私のあげようか?」と気遣ったり、皆(同期)大変そうだ。誠に有り難い。
研修資料を眺めながら、一瞬、アッチの世界へ飛ぶ。
接客業に携わる誰もが一度は思う。どうしたら"感じの良い人"になれるだろう、と。同時に、"感じの悪い人"にも敏感になる。無論、私もだ。"感じの悪い人"を見るにつけ、自分はそうなるまいと気を付けるし、自分が"感じ悪い人"だとはこれっぽっちも思っていなかった。
たとえば、私がどこかのお店に行ったとして。店員さんが妙に不機嫌そうだったら、「まあ、感じの悪い人。」と思うだろう。その人には(大抵の場合)二度と会うことはないし、一生、"感じの悪い人"とインプットされたままだ。が、その人は、たまたまその日に限り面白くないことがあっただけかもしれない。「通常モード」は人当たりの良い朗らかな人で、その日はたまたまそうなれなかった。
この定義を私は自分に適用していた。つまり、自分は、基本、"感じの良い人"で、そうじゃない日もたまにはあるよ。でも、大まかに言えば感じが良いよ、と。そして、私の周りの人もそれはわかっているに違いない、と。前回書いた「学生は甘い」をもう一度使うなら、私は甘かった。
頭でわかっていても感情が追いつかない。
と、人はときに言う。私もよく聞く。聞く度に、「あーわかるー。」と思うし、言う。二週間前に入社して色々と考えた私は、今日、こう思い直した。頭でわかっていても感情が追いつかないなら、「頭でわかっていても」を枕詞のようにつけるべきじゃない。単に、「感情が追いつかない」。度量の狭い自分を擁護すべきじゃない。
そして、「今日はイレギュラーなの、普段は感じが良いの!」と主張したところで何になろう。「通常モード」がそもそも感じ悪い人なんて、そうそういないのでは? 私が判断できるレベルの"感じの悪さ"とは、「通常モード」がどうのではなく、(誰もが目を瞑って欲しいと願う)一瞬のエントロピーを放出している状態ではないか。
そして、もし、どうしても感じを良くしておきたい人が私にも貴方にもいるのなら、(誰もが目を瞑って欲しいと願う)一瞬にさえ、むしろその一瞬にこそ、魂を込めるべきだろう。大袈裟な書き方をしたが、魂を持ち出すほどの覚悟が要るからこそ、人は人を愛すことができるし、"本質を欠いた愛"が流布して「愛」という言葉だけが一人歩きしているのも、多くの人にこの覚悟が足りないせいではないか。
と、業務に全然関係ない方面にひとしきり飛んだところで、終業。
私は自分に厳しくありたい。「むむむ…。」と思うことがあっても、相手に100%非があるのか、と立ち止まる(つもり)。そして自分にも多少責任があるなら、と考えているうちに世の中に何も言えなくなり、ストレスが蓄積されていく。たとえば誰かを責めたいとき、無心で「あんたはさあ…!」と罵ることができたらどんなに楽だろう、と。自分に厳しくあれと育てられたし、そうありたい。そんな私の考え方を好きだと言ってくれた人がいて大分救われたが、常に世の事象とガチンコでぶつかる羽目になり疲弊する。嫌ではない。自分が望んで選んだ道だ。
今後、社会人として、そんなとき(疲弊したとき)どうすればよいかを考えた。そして、良い方法が見つかった。
エントロピーを排出したら人に見つかる。だから、何も無いかのごとく、水面上は優雅な白鳥のごとく日中は過ごそう。そして、誰に忠義立てする必要も無い場所で、ひとり、「よしよし、そうだよね、辛かったね、悲しかったね、えらかったね。」と、自分を自分でイイコイイコして、エントロピーを思う存分放出しよう。
海の見える駅のホームで、ひとり、イイコイイコしながら「今日は金曜(明日は休日)じゃん!」と、目に見えないグラスで乾杯&行進を。金曜日はパレードだ。
朝から晩まで顔を突き合わせている同期は、もはや、家族よりも恋人よりも友達よりも近しい。もはよう、おまいら。就業中にプシュ〜〜〜とガス欠を起こした私を「りん、がんばって!今日は金曜だからね!」と励ましたり、「お弁当、足りた?私のあげようか?」と気遣ったり、皆(同期)大変そうだ。誠に有り難い。
研修資料を眺めながら、一瞬、アッチの世界へ飛ぶ。
接客業に携わる誰もが一度は思う。どうしたら"感じの良い人"になれるだろう、と。同時に、"感じの悪い人"にも敏感になる。無論、私もだ。"感じの悪い人"を見るにつけ、自分はそうなるまいと気を付けるし、自分が"感じ悪い人"だとはこれっぽっちも思っていなかった。
たとえば、私がどこかのお店に行ったとして。店員さんが妙に不機嫌そうだったら、「まあ、感じの悪い人。」と思うだろう。その人には(大抵の場合)二度と会うことはないし、一生、"感じの悪い人"とインプットされたままだ。が、その人は、たまたまその日に限り面白くないことがあっただけかもしれない。「通常モード」は人当たりの良い朗らかな人で、その日はたまたまそうなれなかった。
この定義を私は自分に適用していた。つまり、自分は、基本、"感じの良い人"で、そうじゃない日もたまにはあるよ。でも、大まかに言えば感じが良いよ、と。そして、私の周りの人もそれはわかっているに違いない、と。前回書いた「学生は甘い」をもう一度使うなら、私は甘かった。
頭でわかっていても感情が追いつかない。
と、人はときに言う。私もよく聞く。聞く度に、「あーわかるー。」と思うし、言う。二週間前に入社して色々と考えた私は、今日、こう思い直した。頭でわかっていても感情が追いつかないなら、「頭でわかっていても」を枕詞のようにつけるべきじゃない。単に、「感情が追いつかない」。度量の狭い自分を擁護すべきじゃない。
そして、「今日はイレギュラーなの、普段は感じが良いの!」と主張したところで何になろう。「通常モード」がそもそも感じ悪い人なんて、そうそういないのでは? 私が判断できるレベルの"感じの悪さ"とは、「通常モード」がどうのではなく、(誰もが目を瞑って欲しいと願う)一瞬のエントロピーを放出している状態ではないか。
そして、もし、どうしても感じを良くしておきたい人が私にも貴方にもいるのなら、(誰もが目を瞑って欲しいと願う)一瞬にさえ、むしろその一瞬にこそ、魂を込めるべきだろう。大袈裟な書き方をしたが、魂を持ち出すほどの覚悟が要るからこそ、人は人を愛すことができるし、"本質を欠いた愛"が流布して「愛」という言葉だけが一人歩きしているのも、多くの人にこの覚悟が足りないせいではないか。
と、業務に全然関係ない方面にひとしきり飛んだところで、終業。
私は自分に厳しくありたい。「むむむ…。」と思うことがあっても、相手に100%非があるのか、と立ち止まる(つもり)。そして自分にも多少責任があるなら、と考えているうちに世の中に何も言えなくなり、ストレスが蓄積されていく。たとえば誰かを責めたいとき、無心で「あんたはさあ…!」と罵ることができたらどんなに楽だろう、と。自分に厳しくあれと育てられたし、そうありたい。そんな私の考え方を好きだと言ってくれた人がいて大分救われたが、常に世の事象とガチンコでぶつかる羽目になり疲弊する。嫌ではない。自分が望んで選んだ道だ。
今後、社会人として、そんなとき(疲弊したとき)どうすればよいかを考えた。そして、良い方法が見つかった。
エントロピーを排出したら人に見つかる。だから、何も無いかのごとく、水面上は優雅な白鳥のごとく日中は過ごそう。そして、誰に忠義立てする必要も無い場所で、ひとり、「よしよし、そうだよね、辛かったね、悲しかったね、えらかったね。」と、自分を自分でイイコイイコして、エントロピーを思う存分放出しよう。
海の見える駅のホームで、ひとり、イイコイイコしながら「今日は金曜(明日は休日)じゃん!」と、目に見えないグラスで乾杯&行進を。金曜日はパレードだ。
コメント