飽和
2006年4月19日昨日の日記の「危ない人っぷり」に驚いた水曜日。
「自分、ガンバレー」「エイエイオー」という一人芝居を、まさかの同期に発見される→赤面。休憩中のお供は携帯電話と文庫本(読んでないけど)。それにしても、「あっ、メール来てる♪」と、ウキウキしながら開いた瞬間の迷惑メールほど迷惑なものはない。まさに迷惑メール。死刑を求刑する。
就業後、電車で本を読む余裕さえ無いまま帰宅。
本が読めない。私より確実に忙しい人たちが一体どうやって読書の時間を作っているのか、本当に不思議だ。そもそも、「読む」より「書く」方が好き、というあたりに問題があるような。そう、私は読むより書きたい。
私がなぜ日記を書くかといえば、書いてみるまで自分が何を思っているのかわからないから。書いてみて、初めてわかる。「ああ、自分はこんなことを考えてたのか。」と思う。何にせよ、そういった"気付き"のみが目的なら、日記は日記のままでいいはず。というのも、私は、最近、この「日記」という形式にどうしようもない限界を感じるのだ。
りんという匿名の人物が綴るこの内容は、まさに、りんの身に実際に起こった日々の記録(この場合、「日記には事実のみを書く」という前提が必要だが)。当たり前だが、楽しいことばかり起こるわけじゃない。そして、あまり人に話すべきではない(と思われる)負の内容でさえ、「日記」の中では、いつだってりんのものになってしまう。さらに、胸が震えてどうしようもなくなる瞬間の記録は、意図せずとも官能的表現にならざるを得ない。それは恥ずかしいこと? たぶん、恥ずかしいこと。
これは持論だが。
私たちが詩をこっぱかずかしいと思う由縁は、そのスタイルが「詩」であり「日記」じゃないから。詩人は、詩にしたくなるような熱い想いの中から熱さだけを抽出して、具体性を省く。具体性を省かれた想いはますます解放されて、たぶん、爆発する(こっぱずかしくなる)。具体性を省くとは、誰の感情かわからなくすること。その詩人が書いた詩なんだからその詩人のものだろう、という明らかに黒に近い真偽のほども、「詩」というスタイルなら決して黒にならない。グレーのまま。事件は起こった。犯人はいない。
これも持論だが。
なぜ「愛の詩(あいのうた)」が生まれたのか。愛する人に伝えることが目的なら、直接、手紙を書けばいい。自分の気持ちを整理することが目的なら、ただ日記を書けばいい。世界で最初に愛を唄った詩人は、そのどちらもしたかった。ただ、きっと、その想いが熱すぎて、ダイレクトに本人に伝えるにはさすがに恥ずかしくためらわれ、かといって「日記」には収まらない。伝えたい。伝えたくない。だから、具体性を省き、熱い部分のみを言の葉にする。その想いは匿名だ。が、本人には伝わる。
というわけで、マイ持論において、「愛の詩」に贈り手がいないことは原則的にありえない。「愛の詩」は唄い手のものであり、唄い手が愛する人のもの。かつて私は、恥ずかしい愛の言葉を口にしてくれる(可能なら詩にしてくれる)言語野が発達したキザな男性が現れないものかと切に願った。自分がしたいことを相手に求めてただけだな、とようやく気付いた。恋に恋する少女は「してほしい」しか言えない時期を終え、自分から動くことを覚え、そろそろ(既に?)少女じゃなくなるような。
ここで最初の話に戻るが、私は、最近、「日記」という形式にどうしようもない限界を感じる。
やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君(与謝野晶子)
やすやすと 制度に従ふししむらをしぐれに打たせ 他人のごとし(島田修二)
「自分、ガンバレー」「エイエイオー」という一人芝居を、まさかの同期に発見される→赤面。休憩中のお供は携帯電話と文庫本(読んでないけど)。それにしても、「あっ、メール来てる♪」と、ウキウキしながら開いた瞬間の迷惑メールほど迷惑なものはない。まさに迷惑メール。死刑を求刑する。
就業後、電車で本を読む余裕さえ無いまま帰宅。
本が読めない。私より確実に忙しい人たちが一体どうやって読書の時間を作っているのか、本当に不思議だ。そもそも、「読む」より「書く」方が好き、というあたりに問題があるような。そう、私は読むより書きたい。
私がなぜ日記を書くかといえば、書いてみるまで自分が何を思っているのかわからないから。書いてみて、初めてわかる。「ああ、自分はこんなことを考えてたのか。」と思う。何にせよ、そういった"気付き"のみが目的なら、日記は日記のままでいいはず。というのも、私は、最近、この「日記」という形式にどうしようもない限界を感じるのだ。
りんという匿名の人物が綴るこの内容は、まさに、りんの身に実際に起こった日々の記録(この場合、「日記には事実のみを書く」という前提が必要だが)。当たり前だが、楽しいことばかり起こるわけじゃない。そして、あまり人に話すべきではない(と思われる)負の内容でさえ、「日記」の中では、いつだってりんのものになってしまう。さらに、胸が震えてどうしようもなくなる瞬間の記録は、意図せずとも官能的表現にならざるを得ない。それは恥ずかしいこと? たぶん、恥ずかしいこと。
これは持論だが。
私たちが詩をこっぱかずかしいと思う由縁は、そのスタイルが「詩」であり「日記」じゃないから。詩人は、詩にしたくなるような熱い想いの中から熱さだけを抽出して、具体性を省く。具体性を省かれた想いはますます解放されて、たぶん、爆発する(こっぱずかしくなる)。具体性を省くとは、誰の感情かわからなくすること。その詩人が書いた詩なんだからその詩人のものだろう、という明らかに黒に近い真偽のほども、「詩」というスタイルなら決して黒にならない。グレーのまま。事件は起こった。犯人はいない。
これも持論だが。
なぜ「愛の詩(あいのうた)」が生まれたのか。愛する人に伝えることが目的なら、直接、手紙を書けばいい。自分の気持ちを整理することが目的なら、ただ日記を書けばいい。世界で最初に愛を唄った詩人は、そのどちらもしたかった。ただ、きっと、その想いが熱すぎて、ダイレクトに本人に伝えるにはさすがに恥ずかしくためらわれ、かといって「日記」には収まらない。伝えたい。伝えたくない。だから、具体性を省き、熱い部分のみを言の葉にする。その想いは匿名だ。が、本人には伝わる。
というわけで、マイ持論において、「愛の詩」に贈り手がいないことは原則的にありえない。「愛の詩」は唄い手のものであり、唄い手が愛する人のもの。かつて私は、恥ずかしい愛の言葉を口にしてくれる(可能なら詩にしてくれる)言語野が発達したキザな男性が現れないものかと切に願った。自分がしたいことを相手に求めてただけだな、とようやく気付いた。恋に恋する少女は「してほしい」しか言えない時期を終え、自分から動くことを覚え、そろそろ(既に?)少女じゃなくなるような。
ここで最初の話に戻るが、私は、最近、「日記」という形式にどうしようもない限界を感じる。
やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君(与謝野晶子)
やすやすと 制度に従ふししむらをしぐれに打たせ 他人のごとし(島田修二)
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