仕事について真面目に考えてみる月曜日。
会社へ向かう電車の中で、大叔父(祖父の弟)が残した受賞作を読む。「わたしが もし スペインに生まれていたら闘牛士を 十年おくれて日本に生まれていたらカーレーサーを めざしていたことだろう どちらの場合もうまくいかなくて やはり へたくそな小説を かいていたことだろう」と、おじさん(←私はこう呼んでいた)は最初で最後のあとがき内で語る。
先日、F1(サン・マリノGP予選)をテレビで観る機会があった。
おじさんが目指していたかもしれないカーレースの世界を、私は不思議な気持ちで眺めた。「これって何周するの?」「何周だと思う?」「5週くらい?」「まさか!何十週もするよ!」という話を聞いて驚いたのは、約一ヶ月前の話。そうか、レーサーたちは、擦り切れたタイヤを替えるほどぐるぐると同じところを走り続けるのね、と理解して観たのが先週のこと。
接客の基本を机上で叩き込まれて、練習して、練習して、練習して、練習している。私は本当にこの職種を選んで良かったのか…と悩まない人は、たぶん、いない。私が気付いたのは、「じゃあ、ここまで頑張ってね!」と明らかに提示されたゴールが無いことはなんと心許ないことよ、と。これは社会人になってすぐに気付いたことだけど、たとえば「一週間」という区切りを持たせることは、必要なときと必要じゃないときがある。一週間という区切りの中で生きる私は、金曜が嬉しい。では月曜は?
誰の目にもハッキリとわかる区切りが、私にとって「卒業」だった。何かを目指して頑張っていると、いざその何かが終わったとき、広い大海に放り出されたような何とも心許ない気分になる。高校を卒業して浪人、じゃあ次は受験日まで頑張ろう、合格、じゃあ次は大学四年間頑張ろう、…といつも区切りを設けてそれまでは遮二無二頑張ってきた私だけど、今度のレースは何周だ? ああ、たぶんあれがゴールだ、という先が見えないレースに参加した私は、かつて走ったことのないサーキットで、その終わり(なんて無いかもしれないのに)を探して、見つからなくて、こうして心許ない気分になる。
思うに。
私の職場で身につけるべき「資格」は、専門職としての「資格」ではあるが、どこに行っても通じると(上司は語る)。逆を返せば、これができなきゃどこに行っても通じない。たとえば営業をすることになっても、たとえばタクシーの運転手になっても、たとえば街で売り子になっても。そのことに気付いた私は、「わー!」とか「ひえー!」とか(心の中で)叫びながら、「資格」を得ようと必死で走る。バイト時代に一度どころか何度も走ったはずの道を、ぐるっと回ってまた走る。
細分化され複雑化した社会も、社会人が持つべきあるひとつの能力さえあれば、どんなところに行っても柔軟に対応できるのでは、と。その能力をうまく言葉にできなかったどっかのお偉いさんが「コミュニケーション能力」などとラベルを貼って、耳にタコができるほど私たちに聞かせる。そして、いざ社会に出て、私はその「ある能力」を得たくてなかなか得られない。
なまけものでいいかげんなところがあるから世の中をななめに見ていた、こどものときから失敗ばかりをくりかえしてきたから世の中のことは順調にいくほうがおかしいとおもっているのである、と語るおじさんが、未曾有の大繁栄を築いた経済戦争(六十年安保闘争の頃だ)の最中、書くことに何かを求めた。結果としておじさんはひとかどの成功を収めたから良かったものの、とまらないレースに背を向けてそれで寂しくなかったの、と、おじさんの生意気な甥の子(←私のこと)はちょっとばかし思う。ゴールが見えるレースに対し、とまらないレースは怖い。でも逃げたくない、と、おじさんと同じく書くことに何かを見出した私は、観客のようにレースを客観視しつつ、自分で走ることもしたいよ。
おじさんに会いたくなった。
もうこの世にいないけど。
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備忘と雑感。
●コンビニにて。
仕事で使う情報誌を買い求めて。「○○ありますか?」と私。「えーっと…」と探す男性店員(推定年齢25歳)。その後彼の口から飛び出した衝撃の台詞↓
「このコーナーはあまりちゃんと見たことが無いのでわかりません。」
こんなことが許されていいんですか。
●二日明けて、髪型が気に入らない。
●私服が着たい。
会社へ向かう電車の中で、大叔父(祖父の弟)が残した受賞作を読む。「わたしが もし スペインに生まれていたら闘牛士を 十年おくれて日本に生まれていたらカーレーサーを めざしていたことだろう どちらの場合もうまくいかなくて やはり へたくそな小説を かいていたことだろう」と、おじさん(←私はこう呼んでいた)は最初で最後のあとがき内で語る。
先日、F1(サン・マリノGP予選)をテレビで観る機会があった。
おじさんが目指していたかもしれないカーレースの世界を、私は不思議な気持ちで眺めた。「これって何周するの?」「何周だと思う?」「5週くらい?」「まさか!何十週もするよ!」という話を聞いて驚いたのは、約一ヶ月前の話。そうか、レーサーたちは、擦り切れたタイヤを替えるほどぐるぐると同じところを走り続けるのね、と理解して観たのが先週のこと。
接客の基本を机上で叩き込まれて、練習して、練習して、練習して、練習している。私は本当にこの職種を選んで良かったのか…と悩まない人は、たぶん、いない。私が気付いたのは、「じゃあ、ここまで頑張ってね!」と明らかに提示されたゴールが無いことはなんと心許ないことよ、と。これは社会人になってすぐに気付いたことだけど、たとえば「一週間」という区切りを持たせることは、必要なときと必要じゃないときがある。一週間という区切りの中で生きる私は、金曜が嬉しい。では月曜は?
誰の目にもハッキリとわかる区切りが、私にとって「卒業」だった。何かを目指して頑張っていると、いざその何かが終わったとき、広い大海に放り出されたような何とも心許ない気分になる。高校を卒業して浪人、じゃあ次は受験日まで頑張ろう、合格、じゃあ次は大学四年間頑張ろう、…といつも区切りを設けてそれまでは遮二無二頑張ってきた私だけど、今度のレースは何周だ? ああ、たぶんあれがゴールだ、という先が見えないレースに参加した私は、かつて走ったことのないサーキットで、その終わり(なんて無いかもしれないのに)を探して、見つからなくて、こうして心許ない気分になる。
思うに。
私の職場で身につけるべき「資格」は、専門職としての「資格」ではあるが、どこに行っても通じると(上司は語る)。逆を返せば、これができなきゃどこに行っても通じない。たとえば営業をすることになっても、たとえばタクシーの運転手になっても、たとえば街で売り子になっても。そのことに気付いた私は、「わー!」とか「ひえー!」とか(心の中で)叫びながら、「資格」を得ようと必死で走る。バイト時代に一度どころか何度も走ったはずの道を、ぐるっと回ってまた走る。
細分化され複雑化した社会も、社会人が持つべきあるひとつの能力さえあれば、どんなところに行っても柔軟に対応できるのでは、と。その能力をうまく言葉にできなかったどっかのお偉いさんが「コミュニケーション能力」などとラベルを貼って、耳にタコができるほど私たちに聞かせる。そして、いざ社会に出て、私はその「ある能力」を得たくてなかなか得られない。
なまけものでいいかげんなところがあるから世の中をななめに見ていた、こどものときから失敗ばかりをくりかえしてきたから世の中のことは順調にいくほうがおかしいとおもっているのである、と語るおじさんが、未曾有の大繁栄を築いた経済戦争(六十年安保闘争の頃だ)の最中、書くことに何かを求めた。結果としておじさんはひとかどの成功を収めたから良かったものの、とまらないレースに背を向けてそれで寂しくなかったの、と、おじさんの生意気な甥の子(←私のこと)はちょっとばかし思う。ゴールが見えるレースに対し、とまらないレースは怖い。でも逃げたくない、と、おじさんと同じく書くことに何かを見出した私は、観客のようにレースを客観視しつつ、自分で走ることもしたいよ。
おじさんに会いたくなった。
もうこの世にいないけど。
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備忘と雑感。
●コンビニにて。
仕事で使う情報誌を買い求めて。「○○ありますか?」と私。「えーっと…」と探す男性店員(推定年齢25歳)。その後彼の口から飛び出した衝撃の台詞↓
「このコーナーはあまりちゃんと見たことが無いのでわかりません。」
こんなことが許されていいんですか。
●二日明けて、髪型が気に入らない。
●私服が着たい。
コメント
裸なのかと思ってドキドキしました(笑)
「シフク」ね、「私、服が着たい・・・」じゃなくてね。
常にそうゆうことを考えてらっしゃるから、そんな読み間違いをなさるのでは(笑)?
ま、たしかに、夜にPCに向かう際はわりとイヤーンな格好をしてるので、「私、服が着たい。」もあながち間違いではないような。