Ta Da I Ma
2006年4月27日仕事中なのに妄想がとまらない木曜日。
「もっと丁寧に扱いなさい!」「スミマセン!」「それは逆さまでしょ!」「スミマセン!」「喋り方はもっとエレガントに!」「スミマセン!」「ホラ、後ろも見て!体中に目をつけなさいって言ってるでしょ!」「スミマセン!」と、朝から晩まで注意されっぱなしでフラフララ。おまけに不器用。できない。おかあさーん!!
泣いている場合ではない。
残業を終え、帰宅。機嫌の悪い母と対面。不機嫌さの原因は謎。原因が何であれ、疲れて帰宅してすぐに笑顔で「おかえり。」と言ってもらえないことの寂しさよ。
私は考えた。もし私が一人暮らしだったら、と。そして、いつも疲れているはずの世の勤め人のことを。部活や勉強やバイトが大変(だと当時は思ってたのよね)だった頃、フラストレーションを解消する術は「喋ること」以外に無いと思っていた。ストレスフルな私の生活が60億分のたった1だとするなら、そんな1とまったく同じタイミングで共鳴し合う都合のいい人がいるのか、と、今ならわかるのに。
どういうことかというと、私が「今日ね、こんな嫌なことがあってさ!」と話したところで、相手が私と同じように「嫌な一日」を過ごしたとは限らない、ということ。私の人生が60億分のたった1なら、彼女(母)の人生も同じように60億分のたった1。秋の空のように変化する私の心と彼女の心が共鳴し合う可能性は計測不可能だ。
たとえば相思相愛の恋人同士でも、たとえば長年連れ添った夫婦同士でも、まさか朝から晩までべったり一緒にいるはずがないし、60億分の1のお互いは、どれだけ親密な間柄でも決してリンクし得るはずがないプライベートな部分を保ったまま、たまーに共鳴したり、しなかったり、そんなことの繰り返しだろう。リンクし合わない部分を補うのは、ほとんどカラカラになった雑巾を無理矢理絞るようにひねり出す「想像力」しかない。想像しよう、自分の知らない誰かの生活を。想像しよう、自分の生活を誰も具体的にイメージできるはずがないこの悲しい事実を。
ひとりぼっちで夕飯を食べながら。
疲れて帰宅した誰か(私でもいい)がいるなら、とりあえず60億分の1的人生をリセットした状態で「おかえり。」と言えたら、と思う。「いつも元気でいて欲しい。」と言われたことがあるが、そう言ったある人は、おそらく、色々と抱えながらもゴハンを食べたら「おいしー!」と言ったり、素敵なものを見たら「ステキー!」と言ったり、そんな元気な私を好いた(はず)。"元気な私"は、自分が60億分の1という事実を一度どこか遠くに置いてフラットになり、濁りのない水のような精神で誰かを癒すのかもしれない。そして、私を癒す誰かが本当に大変な生活をしているかどうかがなかなか想像できない(なぜなら、相手は濁りを見せないから)からこそ、私は、水のようにいつも清らかなかの人を愛す。
誰かと一緒に暮らすなら、親子でも、夫婦でも、恋人でも、見ず知らずのルームメイトでも、すべてをリセットして「ただいま。」「おかえり。」と言える準備を伴うような。
日常にはびこるすべての雑多な出来事を排除することで、私はいつも抽象を極める。そんな私を見て「良し」と思うなら、この現実世界で揉まれて擦り切れる私の何もかもを捨てて、いつでも誰かの目には"元気な私"が映るように、私はこうして文章(←具体的事実を排除した文章)を書く。最後は前を向く文章を。この日記が究極の「ただいま。」になるように。そして、これを読む誰かが「おかえり。」と言いたくなるように。
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雑感、諸々。
●配属発表の日は近い。
●給料日はまだか。
●毎週のように使っていたら調子が良かったので、「メンズビオレ・スーパースクラブ洗顔」をついに購入。
私の肌はメンズ対応だったのか…
●メンソレータムをニキビに塗ったらとても良い。
●一向に痩せる気配が無い。
「もっと丁寧に扱いなさい!」「スミマセン!」「それは逆さまでしょ!」「スミマセン!」「喋り方はもっとエレガントに!」「スミマセン!」「ホラ、後ろも見て!体中に目をつけなさいって言ってるでしょ!」「スミマセン!」と、朝から晩まで注意されっぱなしでフラフララ。おまけに不器用。できない。おかあさーん!!
泣いている場合ではない。
残業を終え、帰宅。機嫌の悪い母と対面。不機嫌さの原因は謎。原因が何であれ、疲れて帰宅してすぐに笑顔で「おかえり。」と言ってもらえないことの寂しさよ。
私は考えた。もし私が一人暮らしだったら、と。そして、いつも疲れているはずの世の勤め人のことを。部活や勉強やバイトが大変(だと当時は思ってたのよね)だった頃、フラストレーションを解消する術は「喋ること」以外に無いと思っていた。ストレスフルな私の生活が60億分のたった1だとするなら、そんな1とまったく同じタイミングで共鳴し合う都合のいい人がいるのか、と、今ならわかるのに。
どういうことかというと、私が「今日ね、こんな嫌なことがあってさ!」と話したところで、相手が私と同じように「嫌な一日」を過ごしたとは限らない、ということ。私の人生が60億分のたった1なら、彼女(母)の人生も同じように60億分のたった1。秋の空のように変化する私の心と彼女の心が共鳴し合う可能性は計測不可能だ。
たとえば相思相愛の恋人同士でも、たとえば長年連れ添った夫婦同士でも、まさか朝から晩までべったり一緒にいるはずがないし、60億分の1のお互いは、どれだけ親密な間柄でも決してリンクし得るはずがないプライベートな部分を保ったまま、たまーに共鳴したり、しなかったり、そんなことの繰り返しだろう。リンクし合わない部分を補うのは、ほとんどカラカラになった雑巾を無理矢理絞るようにひねり出す「想像力」しかない。想像しよう、自分の知らない誰かの生活を。想像しよう、自分の生活を誰も具体的にイメージできるはずがないこの悲しい事実を。
ひとりぼっちで夕飯を食べながら。
疲れて帰宅した誰か(私でもいい)がいるなら、とりあえず60億分の1的人生をリセットした状態で「おかえり。」と言えたら、と思う。「いつも元気でいて欲しい。」と言われたことがあるが、そう言ったある人は、おそらく、色々と抱えながらもゴハンを食べたら「おいしー!」と言ったり、素敵なものを見たら「ステキー!」と言ったり、そんな元気な私を好いた(はず)。"元気な私"は、自分が60億分の1という事実を一度どこか遠くに置いてフラットになり、濁りのない水のような精神で誰かを癒すのかもしれない。そして、私を癒す誰かが本当に大変な生活をしているかどうかがなかなか想像できない(なぜなら、相手は濁りを見せないから)からこそ、私は、水のようにいつも清らかなかの人を愛す。
誰かと一緒に暮らすなら、親子でも、夫婦でも、恋人でも、見ず知らずのルームメイトでも、すべてをリセットして「ただいま。」「おかえり。」と言える準備を伴うような。
日常にはびこるすべての雑多な出来事を排除することで、私はいつも抽象を極める。そんな私を見て「良し」と思うなら、この現実世界で揉まれて擦り切れる私の何もかもを捨てて、いつでも誰かの目には"元気な私"が映るように、私はこうして文章(←具体的事実を排除した文章)を書く。最後は前を向く文章を。この日記が究極の「ただいま。」になるように。そして、これを読む誰かが「おかえり。」と言いたくなるように。
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雑感、諸々。
●配属発表の日は近い。
●給料日はまだか。
●毎週のように使っていたら調子が良かったので、「メンズビオレ・スーパースクラブ洗顔」をついに購入。
私の肌はメンズ対応だったのか…
●メンソレータムをニキビに塗ったらとても良い。
●一向に痩せる気配が無い。
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