4月29日の読書メモ
2006年4月29日コメント (2)
角田光代の『Presents』(双葉社)を一編だけ読む。
女性が一生のうちに貰う贈り物にまつわる短編集。読んだのは、「うに煎餅」という話。
大筋はこうだ。大学の頃から付き合っている同い年の彼氏がいる"私"は、先に就職先を決めてしまったがために、その彼氏とぎくしゃくし始め、そのうち、新しい年上の男性と知り合う。雑学豊富で美味しいお店をたくさん知っている新しい男に、"私"は色々なことを教わる。おごってもらったことも、荷物を持ってもらったことも、ドアを開けてもらったことも、大人しかいないバーに連れていってもらったこともなかった"私"は、初めて自分が女の子であると知り、元の彼氏と格安居酒屋では味わえなかったトキメキを、新しい男に求める。
私がなぜこのような本を読もうとしたかというと、ある人(女性)が薦めてくれたから。薦めてくれたというより、彼女は読んだ瞬間の興奮をいち早く私に伝えたかっただけのような。というのも、まるでこの私が話題を提供したのではないかというほど、設定やディテールがそっくりだから。
「アナタが特別だと思いこんでいる人生なんてね、本当はどこにでもあるありふれた事件ばかりで構成されたありきたりの人生なのよ!」
という台詞を思い出した。これは当時の私の心に深く突き刺さり、後の考え方に大きな影響を与えた。以来、私は、何かを考えようとするときに「こんなことを他人が知ったところで何になろう。」という前提を設けるようになった。かといって自身の内に籠もるようになったというわけではなく、むしろ、この歳までずっとオープンだった。が、私がオープンマインドを発揮して自分の与太話を披露する際、「聞いて、聞いて!」と言いながら、どこかで何かを諦めている冷静な自分が必ずいた。恋バナは好き。が、どれだけエキサイティングな恋バナでも、行き着くところはいつも自分の中。人が聞いて何かを得られる類のものではない、と思っていた。
つまり。
私が特別だと思いこんでいる現在の状況を、他人が聞いて何になろう、と。これだけ自らの感情を暴露しておいて何をいまさら、とお思いになる方もいるだろうが、角田光代が20代半ばで初めて知った(と思われる)感情も、私がこうして繰り返すように、私がハッと気付いたすべてを私より下の世代がまた繰り返す。たぶん。
私は、自分が知った新しい感情が「ありきたり」なことを悲しんでいるわけじゃない。むしろ小説にすらなり得る題材(小説になり得ない題材なんて無い気もするけど)だとわかっただけで十分な気が。
今回の件に限らない。私は、たとえ自分が稀有な体験をしたとしても、そこに流れる感情の渦は百年前から変化してない気がしている。私に限らず、健全な肉体と健全な精神を持った大人の条件を満たす皆に言えること。にも関わらず「表現」が誕生するのは、誰にでも理解できる類の普遍的な感情を、どういう切り口で切り取れるか、ということに懸かっている。扱う内容は同じ。ただ、どうやって切り取るか。
このことについて、私は、現在、目の前の仕事の次くらいに注目している。
女性が一生のうちに貰う贈り物にまつわる短編集。読んだのは、「うに煎餅」という話。
大筋はこうだ。大学の頃から付き合っている同い年の彼氏がいる"私"は、先に就職先を決めてしまったがために、その彼氏とぎくしゃくし始め、そのうち、新しい年上の男性と知り合う。雑学豊富で美味しいお店をたくさん知っている新しい男に、"私"は色々なことを教わる。おごってもらったことも、荷物を持ってもらったことも、ドアを開けてもらったことも、大人しかいないバーに連れていってもらったこともなかった"私"は、初めて自分が女の子であると知り、元の彼氏と格安居酒屋では味わえなかったトキメキを、新しい男に求める。
私がなぜこのような本を読もうとしたかというと、ある人(女性)が薦めてくれたから。薦めてくれたというより、彼女は読んだ瞬間の興奮をいち早く私に伝えたかっただけのような。というのも、まるでこの私が話題を提供したのではないかというほど、設定やディテールがそっくりだから。
「アナタが特別だと思いこんでいる人生なんてね、本当はどこにでもあるありふれた事件ばかりで構成されたありきたりの人生なのよ!」
という台詞を思い出した。これは当時の私の心に深く突き刺さり、後の考え方に大きな影響を与えた。以来、私は、何かを考えようとするときに「こんなことを他人が知ったところで何になろう。」という前提を設けるようになった。かといって自身の内に籠もるようになったというわけではなく、むしろ、この歳までずっとオープンだった。が、私がオープンマインドを発揮して自分の与太話を披露する際、「聞いて、聞いて!」と言いながら、どこかで何かを諦めている冷静な自分が必ずいた。恋バナは好き。が、どれだけエキサイティングな恋バナでも、行き着くところはいつも自分の中。人が聞いて何かを得られる類のものではない、と思っていた。
つまり。
私が特別だと思いこんでいる現在の状況を、他人が聞いて何になろう、と。これだけ自らの感情を暴露しておいて何をいまさら、とお思いになる方もいるだろうが、角田光代が20代半ばで初めて知った(と思われる)感情も、私がこうして繰り返すように、私がハッと気付いたすべてを私より下の世代がまた繰り返す。たぶん。
私は、自分が知った新しい感情が「ありきたり」なことを悲しんでいるわけじゃない。むしろ小説にすらなり得る題材(小説になり得ない題材なんて無い気もするけど)だとわかっただけで十分な気が。
今回の件に限らない。私は、たとえ自分が稀有な体験をしたとしても、そこに流れる感情の渦は百年前から変化してない気がしている。私に限らず、健全な肉体と健全な精神を持った大人の条件を満たす皆に言えること。にも関わらず「表現」が誕生するのは、誰にでも理解できる類の普遍的な感情を、どういう切り口で切り取れるか、ということに懸かっている。扱う内容は同じ。ただ、どうやって切り取るか。
このことについて、私は、現在、目の前の仕事の次くらいに注目している。
コメント
そうっすよねー。ふむふむ。角度っていうか切り口っていうか・・・・・。フィルターとか言うやつ・・・・。それがセンスってやつなんでしょうか・・・・・・・・。
わ、コメントありがとうございます!嬉しいです。
そうなんです。私の敬愛するある方が、以前、「本物の作家は、多分、4次元というか、普通の人間が世界を見ている次元と別のところから世の中を見ることができる。」とおっしゃったんです。
ここから先は私の解釈ですが、4次元は、私たちの生きる3次元とまったく異なる異世界ではなく、3次元的要素を内包した世界だと思っています。4次元にあるものは限りなく現実世界のものに近く。現実世界(3次元の世界)をスパッと切り裂いたとき、誰も切れなかった新しい切り口部分に4次元が発生するようなイメージですね。
故に、レッドアイさんおっしゃるところの「センスのある人」は、何か特別なものを見ているのではなく、皆と同じものを深く深く眺めることができる人なんじゃないかな、と私は思います。