あるOLの平凡な休日
2006年4月30日穏やかに時間が流れゆく日曜日。
会社に提出する書類をゴリゴリと作成。枚数も体裁も定められておらず、まったくフリーな状況。皆(同期)はどう書いているのかしらん、と思ったそばからメールがじゃんじゃん届く。「レポートと感想の違いって何?」という問い。ふーむと考える。
浪人までして滑り込んだ大学なのに高校以前より成績が良かった理由が、最近になってようやくわかった。体育と給食(お弁当)の次に好きだったのが、国語と現代文だ。年を経ることに課される義務はどんどん抽象的になり、終いには「〜について述べなさい。」とのみ印字されたテスト用紙が配られるようになった。空欄にキーワードを埋めるだけで良かった高校以前、学校の勉強が嫌だった。大学以降、「楽だな。」と思うようになったのも、ほんの少しの誤差も認めない空欄補充から解放されたせいではないか? 人によってはそれこそが苦痛だと感じたのかもしれないが、こと私にとって、文章作成は苦痛を伴う作業じゃなかった。
入社後、もちろんテストは無くなった。が、どうしても無くならないものがある。
現代文のテスト対策として、高校〜浪人時代、趣旨を掴む練習をした。趣旨を掴み、要点を頭の中に羅列する。具体的な設問にぶち当たらないとなかなか考える機会が無かったけど、幸か不幸か、そこそこ人並みの設問数をこなした気がする。そして、設問からようやく解放された今になって、私たちが生きる世界はダラダラと長くてわかりにくい現代文のようなものではないか、と気付いた。決して立派とは言い難いキーワードばかりが詰まった現代社会で、私たちはなんとか趣旨を掴もうとしている。
国語教育を見直そうと世の教育に携わる人は考えているようだけど、何も学校でやって差し上げずとも、趣旨を掴む訓練はできよう。私は、子どもができたら必ずしも塾に通わせようとは思っていないが、日記は書かせたいなと思っている。「きょうはかれーをたべました。」などの具体的事実とともに、必ず、今日一番印象に残ったことを書くように指導したい。人がああ言った、こう言った、これを見た、あれを見た、という事実の中から自分が取りだしたもっとも重要なこと(趣旨)を。
重要なのは、趣旨を掴むだけじゃない。掴んだ趣旨をどう表現できるかも大事な能力だろう。女を口説くのに必要なのは、複雑な現代を如何に色っぽく噛み砕いて理解しているか云々とともに、理解した趣旨を最適な言葉で表現できるかにも懸かっているような。(珍しく)断言しよう。現代文ができなきゃ、モテるはずがない。
(余談だが、現代文の成績は良いのにモテないって人も多くいるのが最大の問題な気もする。)
複雑化した現代をぎゅっと凝縮して解きやすくしたのが、「現代文」だろう。だからこそ"現代"文と呼ぶのだろう。そして、学校を卒業してもなお続けなくてはいけない勉強こそ、数学でもなく、理科でもなく、一番簡単なようで一番難しい「現代文」のような気がする。
その後、終わらない書類作成を放り出して、百貨店へ。
給料が入らなくても消耗品は必要だ。すべてカード払いで基礎化粧品諸々を購入(あああ、どんどん負債が溜まっていく…)。カウンターでメイク直ししてもらう瞬間こそ、至福のひととき。お世辞を連発する美容部員を体よくあしらいつつ、新しいものから定番品まで一通り。
すっかりイイ気分になった後は、母の回数券を拝借して近所の中国気功整体院へ。
「ぐえええぇぇ…!!」と声が漏れそうになる瞬間を重ね、「か、かなりコッテますネー!」と中国から渡来した仙人もビックリの身体を任せる。そう、これが一ヶ月間の研修の成果だ(←違う)。「一週間にイッカイは来てネ。」とのこと。(金銭的にも時間的にも)無理だ。
さて、また書類と向き合うぞ。
会社に提出する書類をゴリゴリと作成。枚数も体裁も定められておらず、まったくフリーな状況。皆(同期)はどう書いているのかしらん、と思ったそばからメールがじゃんじゃん届く。「レポートと感想の違いって何?」という問い。ふーむと考える。
浪人までして滑り込んだ大学なのに高校以前より成績が良かった理由が、最近になってようやくわかった。体育と給食(お弁当)の次に好きだったのが、国語と現代文だ。年を経ることに課される義務はどんどん抽象的になり、終いには「〜について述べなさい。」とのみ印字されたテスト用紙が配られるようになった。空欄にキーワードを埋めるだけで良かった高校以前、学校の勉強が嫌だった。大学以降、「楽だな。」と思うようになったのも、ほんの少しの誤差も認めない空欄補充から解放されたせいではないか? 人によってはそれこそが苦痛だと感じたのかもしれないが、こと私にとって、文章作成は苦痛を伴う作業じゃなかった。
入社後、もちろんテストは無くなった。が、どうしても無くならないものがある。
現代文のテスト対策として、高校〜浪人時代、趣旨を掴む練習をした。趣旨を掴み、要点を頭の中に羅列する。具体的な設問にぶち当たらないとなかなか考える機会が無かったけど、幸か不幸か、そこそこ人並みの設問数をこなした気がする。そして、設問からようやく解放された今になって、私たちが生きる世界はダラダラと長くてわかりにくい現代文のようなものではないか、と気付いた。決して立派とは言い難いキーワードばかりが詰まった現代社会で、私たちはなんとか趣旨を掴もうとしている。
国語教育を見直そうと世の教育に携わる人は考えているようだけど、何も学校でやって差し上げずとも、趣旨を掴む訓練はできよう。私は、子どもができたら必ずしも塾に通わせようとは思っていないが、日記は書かせたいなと思っている。「きょうはかれーをたべました。」などの具体的事実とともに、必ず、今日一番印象に残ったことを書くように指導したい。人がああ言った、こう言った、これを見た、あれを見た、という事実の中から自分が取りだしたもっとも重要なこと(趣旨)を。
重要なのは、趣旨を掴むだけじゃない。掴んだ趣旨をどう表現できるかも大事な能力だろう。女を口説くのに必要なのは、複雑な現代を如何に色っぽく噛み砕いて理解しているか云々とともに、理解した趣旨を最適な言葉で表現できるかにも懸かっているような。(珍しく)断言しよう。現代文ができなきゃ、モテるはずがない。
(余談だが、現代文の成績は良いのにモテないって人も多くいるのが最大の問題な気もする。)
複雑化した現代をぎゅっと凝縮して解きやすくしたのが、「現代文」だろう。だからこそ"現代"文と呼ぶのだろう。そして、学校を卒業してもなお続けなくてはいけない勉強こそ、数学でもなく、理科でもなく、一番簡単なようで一番難しい「現代文」のような気がする。
その後、終わらない書類作成を放り出して、百貨店へ。
給料が入らなくても消耗品は必要だ。すべてカード払いで基礎化粧品諸々を購入(あああ、どんどん負債が溜まっていく…)。カウンターでメイク直ししてもらう瞬間こそ、至福のひととき。お世辞を連発する美容部員を体よくあしらいつつ、新しいものから定番品まで一通り。
すっかりイイ気分になった後は、母の回数券を拝借して近所の中国気功整体院へ。
「ぐえええぇぇ…!!」と声が漏れそうになる瞬間を重ね、「か、かなりコッテますネー!」と中国から渡来した仙人もビックリの身体を任せる。そう、これが一ヶ月間の研修の成果だ(←違う)。「一週間にイッカイは来てネ。」とのこと。(金銭的にも時間的にも)無理だ。
さて、また書類と向き合うぞ。
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