昇って華になる

2006年5月15日
見たい夢を見るコツを取得した月曜日。

大きな窓から太陽の光が燦々と降り注ぐ我が社。久しぶりに晴れた本日、朝の掃除にも力が入る。カーペットの埃をコロコロ取り去り、ガラスをキュキュッと磨いて、箒でしゃかしゃかゴミを掃く。白い床が朝の光を反射して眩しい。ああ、これぞ人間の生活。たとえ世が平成とはいえ、私たちの身体は、朝の眩しい陽の中で掃除をすることに喜びを感じるように作られている。

帰宅後。

更新頻度がやけに高いことで有名な(?)私の日記。その座を奪うかもしれないあるものの執筆に私はとりかかる。パソコンの電源を入れて、ぬるい麦茶を飲みながら。私が文章を書くとき、なぜか心には「歌う」という動詞が浮かぶ。理由はわからない。私は書く。私は歌う。

文章から離れて生きる日々の中で、私は多くの人と接し、多くのことを見て、聞いて、排泄物のように溜まる濁毒を抱え込む。愛しい気持ちで満たしたいはずの胸さえも、わかっちゃいるけどやめられない行為の果てに黒く濁る。この世の多くのことは、わかっちゃいるけどやめられないんだ。

「オマエの書く文章はわけがわかんねーよ。つまらない。」とかつて言われたことがあり、ひどく傷ついた。たぶんそれは正しい。でも、歌わずに心を悪しきもので満たしていくより、下手の横好きとなじられても私は歌いたい。正しい理論に基づく美しい歌でなくとも、ああ好きよ、ああ美しい、ああ楽しい、ああ生まれてよかった、と、私は大声で叫んでみたい。それがただの無秩序な発声ではなく、つぎはぎだらけのメロディに聞こえるときもあるんじゃないかな。

「昇華」とは、物事が一段上の状態に高められること。私の中に溜まる悪しきものを放置して発酵を待つのではなく、私の思う私にとって一番良い方法で発散し、昇華させよう。この世に芸術が生まれたのも、私たちの中に醜い感情があったからこそ。それを善しとしなかったのは、同じくらい美しい感情。「止揚」といってもいい。私の心はときに醜い。だからこそ美しさを際だたせるために、昇華させる必要があるのだろう。

私は歌いたいが、ひとりではひどく寂しい。聞き惚れてくれる人がいたらいいのに、と思う。思っていた。でも、あたりかまわず歌いまくる日々はそろそろ終わりにして、もっと一曲一曲の精密度を上げていきたいな、と最近は思う。好きだ、好きだ、と言い過ぎの自分を温かく見守ってくれた人がいるなら、今後どのような方法が周りにとっても自分にとっても最適か。私は、先週末、日長考えた。

ここはアタイにゃ狭すぎるぜ(←「日本は俺には狭すぎる」口調で)。

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