人生に口づけを!

2006年5月23日
外回りに行かんとするタイミングで雨が降り出す火曜日。

規則正しい生活をするようになったせいか妙に肌ツヤが良い私は、本日もNくん(同期)と一蓮托生。「りんさんってよく見ると肌キレイですね。白いし。」「ありがとう(よく見なくてもそう思って欲しい)。」「水着とか似合いそう。」「黒い方が水着は似合うでしょ(セクハラか?)。」「明日俺サーフィンやるんですよ。りんさん、サーフィン好きですか?」「サーフィン?サーモンなら好き。」「明日は彼氏と会うんですか?」「会わないよ。うちの彼、ドイツ人だから。」「ドイツ人なんですか!?」「ばかね。ものの例えよ。」「?? そうそう、この前行ったあそこで食事したことあります?」「あ、私にかかってきた電話かも、ちょいと失礼!」と煙に巻く。どうも雲行きが怪しい。

その後、終業時刻を過ぎてからも嫌がらせのように勃発する事件に対処するうちに、待ち合わせ予定時刻を大幅にオーバー → 走れ走れ京王線。二ヶ月ぶりに会うSねーさん(元バイト先の先輩)。「遅れてスミマセン!!し、仕事が…。」と謝る日がまさか私に来るなんて。

婚約中のSねーさん宅からフィアンセを追い出し(?)、酒盛り開始。

話は多岐に及ぶ。私の仕事の話、私が辞めた後のバイト先の状況、共通の知人の噂、などなど。ねーさんと話すたびに思うことがある。「ああ、この方はなんて健やかなんだろう。」と。よく食べ、よく眠り、よく怒り、よく笑う。「あなたもそうよ。」とねーさんは言う。そうかもしれない。

私は幸福だ。自信を持って言える。むしろこんなに恵まれていいのかと恐くなる。そうはいっても私の人生、思うに任せないこともある。あるつもり。が、その度に思うのは、信心深い祖母の教え、「それらはすべて禊ぎなり」。仮に私の人生からすべての苦痛が取り払われるとしても、それを私は望まない。禊がれ、苦悩し、乗り越えたい。苦悩も喜びもバランスよく組み込まれた今回の人生に異論ない。

しかし、私は思う。健やかと自認する私はたまたま幸運だっただけではないか、と。たまたま幸運だった私は、まるで自分の精神が健全だからこそ現在もポジティブだと思いこんで、本来ポジティブになれるはずだった誰かの気持ちを想像できないのではないか、と。

Sねーさんと同じ人生を歩める気がしない。クリエイティブな仕事に就きたいとお約束通りに夢見て、でも中途半端な決意はたやすく壊され、そのままひとり都会に出る勇気もなく、ただ大卒という肩書きが欲しかった。ニートになるのが嫌だった。フリーターになるのも嫌だった。自由になれなかった私は敷かれたレールを全速力で走るように23年を生き(さらに言うならたまたま滞りなく事が済み)、そうでない人への想像力がおそらく乏しい。

Sねーさんは言う。「それは違う。」と。

たとえば水がない状況でも。「水がない!掘ってみるか!?」と井戸を掘るのがSねーさん。泥まみれになっても手が痛くなっても、水が出る日を信じてる。「なんで水が出ねーんだよ…。」と文句を言うより、きっと、掘りたい。「どうせ俺なんて…」と謙虚なフリをして本当は自分にふさわしくない事象を切り捨てる人は、おそらくプライドが高い。そして「こんなはずじゃなかった…。」と嘆きながら、こんなはずにならなかった(神話たる)もう一方の人生を夢想する。泥仕事をしないまま。

仮に私の人生がここまでうまくいっていなかったとして、私はどんな精神でいるだろう。私が幸せだと信じる私と同じ人生を送ったとして、別の誰かは「こんなはずじゃなかった…。」と思ったりするのかな。Sねーさんの「それは違う。」という言葉がとても嬉しい。が、私は、自分が"たまたま"幸運だったからこその今の人生を神に感謝する、というスタイルで何かを紡いでいくのも悪くないと思う。枯渇しそうな他者への想像力だけは失わないようにして。

焼き鳥、キムチ、冷や奴をツマミに更けゆく火曜日の夜。

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