5月27日の仕事雑感
2006年5月27日本社に一人きりの土曜日。
立寄&直帰ばかりの昨今、溜まりに溜まったデスクワークを片づける。パチパチパチ(←キーボードの音)。トイレに立ったそばから電話が鳴り、「わー誰か出てくれー!」と思うものの誰もいない。「大変お待たせしましたッ!」と受話器をとった私のファスナーは全開(ヒドイ話だ)。
しとしと降る雨の音を聞きながら。
最近(私が入社してから)組織変更があった本社には何もない。掃除も備品の発注も新人の仕事。電話機まで新品なので不便この上ない。ピポピポと短縮ダイヤル登録。いったい何件あるんだろう、と調べた挙げ句に気が遠くなる。そのほか、「これ、よろしくね。」と積み上げられた新聞の山をスクラップ。単純作業は嫌いじゃない。が、ソレはソレとして、こういう作業を日長続けていると何かを忘れそうにはなる。
就職活動をしていた当時、自分が所属する(かもしれない)業界の未来を真剣に憂い、扱う商品への興味関心の有無はひどく重要だった。私は自分の所属する業界が好き。扱う商品も好き。が、就活生が考えるようなレベルの(大抵はスケールが大きい)ことは、一社員の考えることじゃない。強いて言うなら幹部クラスの考えること。
私が思うに。
個人にできることには限界があって、会社が大きくなればなるほど(つまり業務が増えれば増えるほど)「分担」せざるを得なくなる。だって誰しも三度の食事と睡眠は必要。素人にもそれとわかるほど魅力的な企業ほど、「分担」の割合は高くなる。ただ、完全な素人(就活生含む)ほどスケールの大きいことしか見えないから、「分担」の末に統合された集合体としての商品しか目に入らない。
集合体としての商品をいかに運用するかを考えるのは楽しい(はず)。たとえば、ターゲット層を絞って打ち出す広告の内容(どんなタレントを使うか、とか)を考えるだけなら魅力的な仕事だ。問題は、いざ広告を打ち出そうと決まった瞬間に発生する莫大な量の業務、それらを「分担」して自分がどれを担当するのか、ということ。我が社が扱う(私の大好きな)商品、我が社が起用した(私の大好きな)タレント、それらが掲載された媒体をいちいちビデオ録画したり、もしくはスクラップしたり、そういう"一見つまらない仕事"が今の私の仕事。
"一見つまらない仕事"が集まって初めて、誰もが魅力的だと思う商品の総合的な姿になる。「分担」は避けられない。たったひとりで全国をカバーする私の直属の上司、彼女はおそらく現在の日本の中ではかなりオイシイ仕事をしてはいる。そのたったひとりの部下がこの私。「分担」が少なければ少ないほど、残業は増え、休日出勤は増え、福利厚生なんだそれ状態になる。要はどっちをとるか。自分の時間がやけにいっぱいあるのに仕事内容は誰もが羨むタイプのもの、そんなことあるはずない。
漠然と憧れていたマイ・ラヴァーの携わる仕事(といっても働いてるところを実際に見たことはないのですが)、彼が扱う商品だっていわば集合体。現実の彼はといえば、眠る時間を削って、好きなはずの旨いものを食べる機会も減らして、好きなはずの本を読む時間も減らして、好きなはずの(?)私と会う機会も減らして、それだけを費やしても商品のほんの一部にしか反映されない。そして、彼も私もよっぽど出世しない限り、この現実は変わらない。
が、「なんでオイラがこんなつまらないことを?」と考えている限り、仕事の本質には触れられない。私は"一見つまらない"作業を淡々とこなしながら、数奇な運命の果てに付くことになった直属の上司(本日欠席)のデスクを見る。たしかに私は甘っちょろい就職観のもとに今の会社への入社を決めたわけだが、何もかも自分でセッティングしなければならない(たとえば短縮ダイヤルの登録)この現状を、むしろ幸運なこととして受け止めている。諸々が整ってない我が社の一側面を見れば「なんていい加減なの!」と罵られない可能性もないが、私が一度でも携わってみたかった仕事を(諸々が整ってないゆえに)たったひとりでこなす上司、彼女の仕事を手伝えることが単純に嬉しい。
そして私は今日も単純作業に明け暮れる。
立寄&直帰ばかりの昨今、溜まりに溜まったデスクワークを片づける。パチパチパチ(←キーボードの音)。トイレに立ったそばから電話が鳴り、「わー誰か出てくれー!」と思うものの誰もいない。「大変お待たせしましたッ!」と受話器をとった私のファスナーは全開(ヒドイ話だ)。
しとしと降る雨の音を聞きながら。
最近(私が入社してから)組織変更があった本社には何もない。掃除も備品の発注も新人の仕事。電話機まで新品なので不便この上ない。ピポピポと短縮ダイヤル登録。いったい何件あるんだろう、と調べた挙げ句に気が遠くなる。そのほか、「これ、よろしくね。」と積み上げられた新聞の山をスクラップ。単純作業は嫌いじゃない。が、ソレはソレとして、こういう作業を日長続けていると何かを忘れそうにはなる。
就職活動をしていた当時、自分が所属する(かもしれない)業界の未来を真剣に憂い、扱う商品への興味関心の有無はひどく重要だった。私は自分の所属する業界が好き。扱う商品も好き。が、就活生が考えるようなレベルの(大抵はスケールが大きい)ことは、一社員の考えることじゃない。強いて言うなら幹部クラスの考えること。
私が思うに。
個人にできることには限界があって、会社が大きくなればなるほど(つまり業務が増えれば増えるほど)「分担」せざるを得なくなる。だって誰しも三度の食事と睡眠は必要。素人にもそれとわかるほど魅力的な企業ほど、「分担」の割合は高くなる。ただ、完全な素人(就活生含む)ほどスケールの大きいことしか見えないから、「分担」の末に統合された集合体としての商品しか目に入らない。
集合体としての商品をいかに運用するかを考えるのは楽しい(はず)。たとえば、ターゲット層を絞って打ち出す広告の内容(どんなタレントを使うか、とか)を考えるだけなら魅力的な仕事だ。問題は、いざ広告を打ち出そうと決まった瞬間に発生する莫大な量の業務、それらを「分担」して自分がどれを担当するのか、ということ。我が社が扱う(私の大好きな)商品、我が社が起用した(私の大好きな)タレント、それらが掲載された媒体をいちいちビデオ録画したり、もしくはスクラップしたり、そういう"一見つまらない仕事"が今の私の仕事。
"一見つまらない仕事"が集まって初めて、誰もが魅力的だと思う商品の総合的な姿になる。「分担」は避けられない。たったひとりで全国をカバーする私の直属の上司、彼女はおそらく現在の日本の中ではかなりオイシイ仕事をしてはいる。そのたったひとりの部下がこの私。「分担」が少なければ少ないほど、残業は増え、休日出勤は増え、福利厚生なんだそれ状態になる。要はどっちをとるか。自分の時間がやけにいっぱいあるのに仕事内容は誰もが羨むタイプのもの、そんなことあるはずない。
漠然と憧れていたマイ・ラヴァーの携わる仕事(といっても働いてるところを実際に見たことはないのですが)、彼が扱う商品だっていわば集合体。現実の彼はといえば、眠る時間を削って、好きなはずの旨いものを食べる機会も減らして、好きなはずの本を読む時間も減らして、好きなはずの(?)私と会う機会も減らして、それだけを費やしても商品のほんの一部にしか反映されない。そして、彼も私もよっぽど出世しない限り、この現実は変わらない。
が、「なんでオイラがこんなつまらないことを?」と考えている限り、仕事の本質には触れられない。私は"一見つまらない"作業を淡々とこなしながら、数奇な運命の果てに付くことになった直属の上司(本日欠席)のデスクを見る。たしかに私は甘っちょろい就職観のもとに今の会社への入社を決めたわけだが、何もかも自分でセッティングしなければならない(たとえば短縮ダイヤルの登録)この現状を、むしろ幸運なこととして受け止めている。諸々が整ってない我が社の一側面を見れば「なんていい加減なの!」と罵られない可能性もないが、私が一度でも携わってみたかった仕事を(諸々が整ってないゆえに)たったひとりでこなす上司、彼女の仕事を手伝えることが単純に嬉しい。
そして私は今日も単純作業に明け暮れる。
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