贖罪ラプソディ
2006年5月28日ベッドの中で延々考える日曜日。
前日深夜、「当方、24時間営業中です!(訳:24時間電話待ってます!)」と、またしても働くお兄さんに圧力を与えたため、お疲れの彼から電話をいただく。久々の電話があまりに嬉しくて、得意の(?)抽象的な話をする余裕もなく、最近起こったことをメインに近況報告を。話しても話してもまだ足らない近況報告を。
マシンガンのように話す私の話を「ウン、ウン。」と聞きながら、ときに(ややつまらない)ジョークも混ぜつつ、まるで子どもが「おかあさん、今日ね、学校でね!」とまとわりつくのを煩がるでもなく受けとめる彼を、電話を切ったあとも私は想う。
話は変わるが。
「すべての人間が背負っている罪」を贖ったのがイエス・キリストだという話を聞いたとき、まさか自分にも罪の刻印が刻まれているとは考えもしなかった。考えはしたが、信じはしなかった。だって悪いことをした記憶がない。私はかの教義を信じるほど信仰深くはないが、納得できる別の仮定を信じている。どういう仮定かというと、ひとりの人間がこの世に発生した瞬間に世界におよぼす影響は少なからずある、という仮定。たとえば世界が果てなく広がる水面だとすれば、ほんの手のひらサイズの石を投げ込めばどこまでも波紋が広がる。それと同じ。私が泣いたり怒ったり笑ったりするほどの大きなエネルギー(世界からすればほんの手のひらサイズでも)を発するのだから、私という存在が世界になかったことには決してならないだろう、と。
私が考える「良き女」が、仮に「忙しいカレを理解して優しく包み込む」というものだったとして。たとえば「なんで会えないのー!?」とゴネるのは誰が考えてもあんまりなことだとは思うが、そんなことをしなかったとしても、「彼の恋人」という肩書きを持つ私が世界に存在する時点で、"そもそも"何かを背負っている気がする。
じゃあどう振る舞うのが一番良いのかを考えてみると、惜しみない愛を注ぐ私がいなかったらもしかしたら少しは寂しい思いをするのかもしれないが、その分彼は本来自分のものだったはずの時間を最大限に使うことができる。電話もメールもしないで済む。「彼の恋人」がこの世に存在しなければ。
普遍的だと思われる理想型が、「無理して電話くれなくてもいいから。」と気を遣う私と「本当にいつもゴメンな。」と謝る彼の間に育まれるなら、そうしない私という女はあるべき姿じゃない。が、"そもそも"前提として(彼に対しての)罪を背負った私は、何をしても罪になる。私が消えない限り、彼は、忙しい合間に「寂しがっているだろうか。」とふと考えてしまうだろうし、私が平気なフリをすればするほど本当はバレバレな何かに気付くことになるだろう。
ではどうすればよいのか。
罪にならない方法は(まだ)思い浮かばないけど、人生経験未熟な私が慈愛に満ちた行為だと定義できたような行為がはたして本物かといえば、かなり怪しい。かなり怪しいけど、こうして「人のためになる何か」を、あーこれも違うこれも違うこれも違うと考える過程無しにはたどり着けないところに何かがあって、それがもしかしたら今の私には想像すらできないものである可能性はある。
最近わかってきた。考えてすぐに答えが出るようなことなどほとんどなくて、若かった私は考えてすぐに答えが出る中でベストなものを掬い上げることには長けていたのかもしれないけど、答えを出さずに放置する状態に耐え抜いた後にポツンと残るだろう何かを探してみよう、ここであるべき女性像を熱く語るのもアリだとは思うけどそれが本当にあるべき女性像かといえばたぶんそんなこともないだろう、と思いつつある。すきー、すきー、と叫びかねない私はいわゆる愛を歌っている状態ではあるけど、そしてその愛はもしかしたら誰かに感動される類のものかもしれないけど、愛を歌いながらも歌っているその愛の中身に注目するより、本当はそこに本質はないと理解している自分でいたい。
つまり。
私がたしかにある人の幸福を願っていることは間違いないから、最終的にはどんな手段をとったとしてもある人に良きものをもたらせるように、たとえどの手段も結果的には罪になったとしても、ある人の幸福に繋がらないと初めから予想できるような行為だけはしないように。そうして試行錯誤する過程ではその都度ある人に迷惑をかけるのだろうが、なるべくならご容赦いただきたい、なーんてね。試行錯誤してあーでもないこーでもないと騒がしい今の私が、もしかしたら自分の予想だにしない方向へ向かうかもしれない可能性に今は懸けたいし、そうなればいいなと思う。
うーん…。ここにこうして書くのがそもそもねぇ。まあ、今は、ってことで。
ああ言えばよかった メール打ちかけて
消してわたしは短歌をつくる
(佐藤真由美)
ああ言えばよかった メール打ちかけて
消してわたしは日記をかく
(りん)
前日深夜、「当方、24時間営業中です!(訳:24時間電話待ってます!)」と、またしても働くお兄さんに圧力を与えたため、お疲れの彼から電話をいただく。久々の電話があまりに嬉しくて、得意の(?)抽象的な話をする余裕もなく、最近起こったことをメインに近況報告を。話しても話してもまだ足らない近況報告を。
マシンガンのように話す私の話を「ウン、ウン。」と聞きながら、ときに(ややつまらない)ジョークも混ぜつつ、まるで子どもが「おかあさん、今日ね、学校でね!」とまとわりつくのを煩がるでもなく受けとめる彼を、電話を切ったあとも私は想う。
話は変わるが。
「すべての人間が背負っている罪」を贖ったのがイエス・キリストだという話を聞いたとき、まさか自分にも罪の刻印が刻まれているとは考えもしなかった。考えはしたが、信じはしなかった。だって悪いことをした記憶がない。私はかの教義を信じるほど信仰深くはないが、納得できる別の仮定を信じている。どういう仮定かというと、ひとりの人間がこの世に発生した瞬間に世界におよぼす影響は少なからずある、という仮定。たとえば世界が果てなく広がる水面だとすれば、ほんの手のひらサイズの石を投げ込めばどこまでも波紋が広がる。それと同じ。私が泣いたり怒ったり笑ったりするほどの大きなエネルギー(世界からすればほんの手のひらサイズでも)を発するのだから、私という存在が世界になかったことには決してならないだろう、と。
私が考える「良き女」が、仮に「忙しいカレを理解して優しく包み込む」というものだったとして。たとえば「なんで会えないのー!?」とゴネるのは誰が考えてもあんまりなことだとは思うが、そんなことをしなかったとしても、「彼の恋人」という肩書きを持つ私が世界に存在する時点で、"そもそも"何かを背負っている気がする。
じゃあどう振る舞うのが一番良いのかを考えてみると、惜しみない愛を注ぐ私がいなかったらもしかしたら少しは寂しい思いをするのかもしれないが、その分彼は本来自分のものだったはずの時間を最大限に使うことができる。電話もメールもしないで済む。「彼の恋人」がこの世に存在しなければ。
普遍的だと思われる理想型が、「無理して電話くれなくてもいいから。」と気を遣う私と「本当にいつもゴメンな。」と謝る彼の間に育まれるなら、そうしない私という女はあるべき姿じゃない。が、"そもそも"前提として(彼に対しての)罪を背負った私は、何をしても罪になる。私が消えない限り、彼は、忙しい合間に「寂しがっているだろうか。」とふと考えてしまうだろうし、私が平気なフリをすればするほど本当はバレバレな何かに気付くことになるだろう。
ではどうすればよいのか。
罪にならない方法は(まだ)思い浮かばないけど、人生経験未熟な私が慈愛に満ちた行為だと定義できたような行為がはたして本物かといえば、かなり怪しい。かなり怪しいけど、こうして「人のためになる何か」を、あーこれも違うこれも違うこれも違うと考える過程無しにはたどり着けないところに何かがあって、それがもしかしたら今の私には想像すらできないものである可能性はある。
最近わかってきた。考えてすぐに答えが出るようなことなどほとんどなくて、若かった私は考えてすぐに答えが出る中でベストなものを掬い上げることには長けていたのかもしれないけど、答えを出さずに放置する状態に耐え抜いた後にポツンと残るだろう何かを探してみよう、ここであるべき女性像を熱く語るのもアリだとは思うけどそれが本当にあるべき女性像かといえばたぶんそんなこともないだろう、と思いつつある。すきー、すきー、と叫びかねない私はいわゆる愛を歌っている状態ではあるけど、そしてその愛はもしかしたら誰かに感動される類のものかもしれないけど、愛を歌いながらも歌っているその愛の中身に注目するより、本当はそこに本質はないと理解している自分でいたい。
つまり。
私がたしかにある人の幸福を願っていることは間違いないから、最終的にはどんな手段をとったとしてもある人に良きものをもたらせるように、たとえどの手段も結果的には罪になったとしても、ある人の幸福に繋がらないと初めから予想できるような行為だけはしないように。そうして試行錯誤する過程ではその都度ある人に迷惑をかけるのだろうが、なるべくならご容赦いただきたい、なーんてね。試行錯誤してあーでもないこーでもないと騒がしい今の私が、もしかしたら自分の予想だにしない方向へ向かうかもしれない可能性に今は懸けたいし、そうなればいいなと思う。
うーん…。ここにこうして書くのがそもそもねぇ。まあ、今は、ってことで。
ああ言えばよかった メール打ちかけて
消してわたしは短歌をつくる
(佐藤真由美)
ああ言えばよかった メール打ちかけて
消してわたしは日記をかく
(りん)
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