お休みゆえ惰眠をンガンガと貪る水曜日。

森茉莉の『記憶の絵』(ちくま文庫)を読みながら優雅にブランチタイム。輝石が散りばめられたような描写は甚だ美しい。が、私はなんだかんだでオチがあるものが好きなんだな、と気付いたり。尻切れトンボのような読後感は(時と場合によるが)気持ち悪く、私自身が世界のあらゆる事象に自分なりの結論をつけようと奮闘しているせいかな、と。この日記だってそうだ。

久々にデニムを穿いて外出(←休日の醍醐味)。

統合されたばかりの某銀行にて通帳記帳。一年間通い続けた料理教室退会につきキャッシュバックが少々、初任給の振り込みを数字で再確認、ガクンと減った携帯電話代、初めてのクレジットカードによる引き落とし、などなど、急スピードで変動した私の4月〜5月はこうして数字に表れる。今後は5桁ではなく6桁(本当は7桁希望…)が主流になるであろう残高が馴染まない。

紛失したコンタクトを購入後、市街地を後にする。

天気もいいしと、徒歩にて帰宅。ぐるぐるぐるぐる考える。気のせいではなく、入社後、私は脳が活発に動いている。以前から考え過ぎの傾向はあった(らしい)が、漠然とした思い→客観的に考察→現時点での最良の結論、という手続きがよりシャープに的確になった。論理的という言葉がこれほど似合わない女はいない、と自分では思っていたが、人に言わせると私ほど理論を重視している女もいない、とのこと。そうかな? 私はかの手続きを踏みつつも、絞り出した最良の結論が所詮自分の頭の中でしか適用されない現実を承知しているつもり。

予備校と思しき建物を横目に。

ああ今日は平日やんな、と気付いたのは、制服姿の高校生を発見したから。今思えば大学なんてどこに行っても大差無かったなと思うのに、当時はこの世の終わりを恐れるが如く悩んでいたような。そして、同じクラスの男の子との恋に夢中だった。卒業すればそれぞれ別々の道を歩むのに、今日は目が合った、同じ班になった、と一喜一憂し、相手に好きな人がいるとわかればそれさえこの世の終わりと等しかった。パワーに溢れていた当時、それならば別の人を好きになるまでよ、と殺しても殺しても甦るゾンビのように私は元気だった。記憶の絵(by森茉莉)の中の私は若く眩しい。が、キャピキャピと私の横を通り過ぎていく後輩たちを見て思ったことがある。

絶対戻りたくない。

普通のOLになるなんてまっぴらよ、と鼻息が荒かった当時。私の夢はクリエイティブと評される職種に就くことで、キャンパスラブを謳歌した後にその相手と結婚して幸せな家庭を築くことだった。美大進学を反対された高三の春、普通のOLになると決まった大四の春、キャンパスラブを謳歌した相手にフラれた大四の夏、私の夢はその度にことごとく砕かれ木っ端微塵になったが、バラバラになったそれらが予想だにしなかった独自の輝きを見せ始めた。輝く可能性を予想できなかった当時の自分より、少しはフレキシブルに考えられるようになった今の自分の方が好き。

ひとつひとつ(高校卒業後四大進学、大学時代に大失恋、今は普通のOL、親と同居)を取り上げるとやけに平凡な私の人生。当時の私に「今はこうなってるよ。」と告げたら落胆するかしらん。普通と呼ばれる人生の中に思いもよらない何かを見出した今の自分と、そうはいっても当時はまったく予想しなかった方向に進んだ人生(の一部分)を冷静に見る自分がいる。そうか、思い通りになる方が少ないのだろう。なんとなく平凡に進んできた私の人生だからこそ、10年後もなんとなく平凡に落ち着いてるだろうことが予想されるけど、たぶん、その予想通りにはいかない。かといって、当時は「ありえない!」と決めつけていたことが「案外アリだったな…。」と思える今の自分のように、今は「ありえない!」と決めつけていることが「案外アリだったな…。」と思えるだろう10年後の自分を想像すると少しだけワクワクする。

そうか、こんなことばかりうねうねと考えているから、人から「りんは五月病だ。」などと揶揄されるのだな、と気付いたので、ふいに思い出した高校時代の友人・C嬢にtel。

そんなことぶっちゃけちゃっていいの、と思われるギリギリのラインでする話は楽しい、それを聞いて笑ってくれるCの反応が嬉しい、ああこうして騒ぐ私は高校のときからちっとも変わってないよね、でもそれでいいんじゃん、という会話の後、妙に清々しい気持ちで家に着いちゃった。

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