I feel so warm.
2006年6月15日香水をつけたらクシャミが誘発された木曜日。ぶえっくしょい。
昼ゴハンを食べ損ねてフラフラの本日、帰りの山手線内で一通のメールを受信。Sさん(大阪在住)だ。西の地から頻繁に届けられるこの贈り物は、いつも私にとってジャストのタイミング。愉快で、愛らしく、たまにちょっと切なくて、それでも最後は元気の出る内容だ。先日の(私の)女子力全開の返信に対し、今回も女子ならではの内容。
「秘密」は隠微だ。Sさんと「秘密」を共有するとき、その内容は隠微さを増し守るべき大切なものになる。他人にはくだらないと揶揄されかねない内容を「ね、ね、Sさん、誰にも言わないでね。聞いて、聞いて。」と差し出すと、批判されがちな私の想いは途端に大切なもののごとし扱いを受けることがある。嬉しい。そして楽しい。
「ブログもあるし、メールもあるし、りんさんたちとの(東京−大阪間の)距離をそれほど感じません。」とSさん(とSさんの彼氏)は語る。東京−大阪は遠い。それはその通り。でも、Sさんの言う通り。たしかに会いたい。会えればいい。が、「距離」という邪魔者が私たちを分かっても、遙々西からやってくるSさんの波動は参りそうな私をいつも救うし、今日だってそう。
帰宅してテレビを点ける。
自分が携わった商品が画面に映る。友人が所属する会社のCMが流れる。マイ・ラヴァーの仕事に大きく関わる報道が為される。大きい仕事がしたい、と鼻息荒かった人々を思い出す。メディアに登場する仕事が大きい仕事? 資本主義社会でリーマン(OL)になるということは消費者ありきを前提にするということだから、誰でも(消費者と企業の間の)メディアに関わる可能性がある。表層の目立つ部分にしか反応できなかったあの時代がどんどん遠ざかる。
テレビを消して雑誌を読む。その後、PCを起ち上げる。テレビ、雑誌、ネット、すべての媒体の前で私は「ああ、生きている。」と思う。
人と人の交感について考える。テレビという媒体、雑誌という媒体、ネットという媒体。媒体を通して感じるあの人の体温。彼氏が隣にいるのにやたらくっつきたがり直接的な温もりを欲した(そしてなかなか得られなかった)数年前、媒体を間に挟むのは余分な手続きの気がしてた。間接より直接を愛してた。直接的って何? 大声で「好き」と叫ぶこと? 愛を表現するために抱きしめること? できない多くの男を「不実」と決めつけた。
自分は「不実」じゃないと信じてた女は、媒体の前で何かを学ぶ。
直接的になれる範囲など実は自分の身の回りにしかない、と。大きすぎる世界のほんのほんのほんの僅かな範囲。自分と世界を異にする多くの人には触れられないのが現実だ。完全に隔絶された自己と他者。そもそも、それが前提。だから媒体がある。レギュラーな直接接触の感動を下げるのが媒体か。そんなことないってば。もともとイレギュラーな直接接触の感動を呼び覚ますのが媒体なのか。
大きな森の中で耳を澄ませると、遙か彼方から銃声が聞こえる。そんなイメージか。私が銃を向ける対象は目の前の仕事で、目の前の問題で、目の前の相手。皆もそう? 私はひとりぼっちなのかなと誤解して目に見えるものばかり欲しがったけど、私の構える銃は一本、一回に撃てる弾数に限りがある、それは誰にとってもそう。だから、皆、各々の場所に散って違う対象に銃を向ける。たしかに聞こえる銃声を、私は媒体を通して聞く。寂しいどころかむしろ頼もしい。私が発砲する銃がもっと大きな音を出せばいいのに、と。銃声が誰かに聞こえるように。私が媒体に触れてあの人の体温を感じられるように、私のこの熱すぎる体温が誰かに届くように。その人を元気にするように。頼もしいと思えるように。
ここでない媒体でいつか、ね。
さてさて、かかとのケア(最近のマイ・ブーム)して寝るとしよう。
昼ゴハンを食べ損ねてフラフラの本日、帰りの山手線内で一通のメールを受信。Sさん(大阪在住)だ。西の地から頻繁に届けられるこの贈り物は、いつも私にとってジャストのタイミング。愉快で、愛らしく、たまにちょっと切なくて、それでも最後は元気の出る内容だ。先日の(私の)女子力全開の返信に対し、今回も女子ならではの内容。
「秘密」は隠微だ。Sさんと「秘密」を共有するとき、その内容は隠微さを増し守るべき大切なものになる。他人にはくだらないと揶揄されかねない内容を「ね、ね、Sさん、誰にも言わないでね。聞いて、聞いて。」と差し出すと、批判されがちな私の想いは途端に大切なもののごとし扱いを受けることがある。嬉しい。そして楽しい。
「ブログもあるし、メールもあるし、りんさんたちとの(東京−大阪間の)距離をそれほど感じません。」とSさん(とSさんの彼氏)は語る。東京−大阪は遠い。それはその通り。でも、Sさんの言う通り。たしかに会いたい。会えればいい。が、「距離」という邪魔者が私たちを分かっても、遙々西からやってくるSさんの波動は参りそうな私をいつも救うし、今日だってそう。
帰宅してテレビを点ける。
自分が携わった商品が画面に映る。友人が所属する会社のCMが流れる。マイ・ラヴァーの仕事に大きく関わる報道が為される。大きい仕事がしたい、と鼻息荒かった人々を思い出す。メディアに登場する仕事が大きい仕事? 資本主義社会でリーマン(OL)になるということは消費者ありきを前提にするということだから、誰でも(消費者と企業の間の)メディアに関わる可能性がある。表層の目立つ部分にしか反応できなかったあの時代がどんどん遠ざかる。
テレビを消して雑誌を読む。その後、PCを起ち上げる。テレビ、雑誌、ネット、すべての媒体の前で私は「ああ、生きている。」と思う。
人と人の交感について考える。テレビという媒体、雑誌という媒体、ネットという媒体。媒体を通して感じるあの人の体温。彼氏が隣にいるのにやたらくっつきたがり直接的な温もりを欲した(そしてなかなか得られなかった)数年前、媒体を間に挟むのは余分な手続きの気がしてた。間接より直接を愛してた。直接的って何? 大声で「好き」と叫ぶこと? 愛を表現するために抱きしめること? できない多くの男を「不実」と決めつけた。
自分は「不実」じゃないと信じてた女は、媒体の前で何かを学ぶ。
直接的になれる範囲など実は自分の身の回りにしかない、と。大きすぎる世界のほんのほんのほんの僅かな範囲。自分と世界を異にする多くの人には触れられないのが現実だ。完全に隔絶された自己と他者。そもそも、それが前提。だから媒体がある。レギュラーな直接接触の感動を下げるのが媒体か。そんなことないってば。もともとイレギュラーな直接接触の感動を呼び覚ますのが媒体なのか。
大きな森の中で耳を澄ませると、遙か彼方から銃声が聞こえる。そんなイメージか。私が銃を向ける対象は目の前の仕事で、目の前の問題で、目の前の相手。皆もそう? 私はひとりぼっちなのかなと誤解して目に見えるものばかり欲しがったけど、私の構える銃は一本、一回に撃てる弾数に限りがある、それは誰にとってもそう。だから、皆、各々の場所に散って違う対象に銃を向ける。たしかに聞こえる銃声を、私は媒体を通して聞く。寂しいどころかむしろ頼もしい。私が発砲する銃がもっと大きな音を出せばいいのに、と。銃声が誰かに聞こえるように。私が媒体に触れてあの人の体温を感じられるように、私のこの熱すぎる体温が誰かに届くように。その人を元気にするように。頼もしいと思えるように。
ここでない媒体でいつか、ね。
さてさて、かかとのケア(最近のマイ・ブーム)して寝るとしよう。
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