生暖かい雨が降る日曜日。

本日はお休み。ゆえに朝寝坊。覚めなければいいのに、と夢の中で夢と気付くほどに幸福な眠りの後、起きていきなりケータイを見る。新着メール一通受信。仕事を終え、これから眠りにつくらしい。私が起きるとあの人は眠る。私が眠るとあの人は起きる。今日もそのようだ。

自分が彼と同じ生活(仕事)をすることを想像すると、最後まで参らずにいられる自信がない。参ってないだろうか、と心配した私の心配は所詮杞憂で、送られてくる「無事の知らせ」はいつも温かさと余裕に満ちている。私が嫉妬するくらいの余裕。年上だから? 社会人経験が長いから? そのふたつのアドバンテージを手に入れたとして、私は彼と同じように振る舞うだろうか。そのふたつのアドバンテージがなかったとして、あの人は恋人に優しいだろうか。たぶん優しい。

深夜、衝撃的なブログを読む。

最近別途にブログを起ち上げたらしいおねえさんのニュー・ブログによると、モーリス・ベジャールのモダン・バレエ『バレエ・フォー・ライフ』を最近観に行ったそうで、その詳細が綴られていた。フレディ・マーキュリーとジョルジュ・ドンという共に45歳という若さでエイズで死に至ったアーティストへの追悼をこめたバレエとのことで、ドンが死んでから何年も経つ今も最愛の人を失った重みの中で生きるベジャールに、ねーさんはいたく感銘を受けたご様子。「こういう人がいた、という証を、あせることなく、世に留めたい!」という感情の爆発が作品を生み、人(ねーさんを含む)の心を揺るがし、悲しみでしかなかった(はずの)感情は悲しみで終わらずに昇華する。他者が生きた証を残したいと願うベジャールの根底には「愛してる!ジョルジュ!」というシンプルで強い想いがあるのみ、と。

派生して、私が昔好きだったアーティストを思い出す。

大好きだったSIAM SHADEのVo.栄喜はかつて言った。「自分の生きた証を残したい。」と。というのも、自身の音楽性の方向を模索して途方に暮れたある日、彼は、ある小さな美術館で作品を発表していた画家の「死んだ後も生き続けたい。」というメッセージに触れ、感銘を受け、その後も歌い続ける道を選んだから。その話はたしかに感動的だったけど、私にはいまいちピンとこなかった。自分が死んだ後もそんなに多くの人に覚えていてもらえなくてもいいし、たとえ大切な人の記憶に残りはしても、その大切な人が死んだらやはりそれっきりだろう、と。私は諦念に満ちていた。

先日飲んだばかりのねーさんと「書くこと」について熱く語る以前から、私は、「表現」がただの表現として終わらない方向へ続く可能性を考えている。自分にたまたま与えられた「表現」の手段は「書くこと」で、毎日書きたい想いが募る。が、爆発しそうな想いに理由付けをしても、「自分の生きた証を残したい。」にはならないような。その代わり、今日、ねーさん(とモーリス・ベジャール)が改めて教えてくれた「表現」の源に、私は体の奥から湧き上がる血潮が沸騰するように共感した。

とてもシンプル。私が書きたかったのはたしかに「生きた証を残したい。」という理由によるけど、自分の生きた証じゃない。自分じゃなくて、自分の周りの愛しい人の生きた証。現時点では後付けに見えるこの理由がいずれは本物になるように。私の(ブログ以外での)表現が「表現」として完成するとき、私の言葉でもう一度それを言いたい。

この気付きがきっかけで多くのことが納得できた。

私が友達に「ね、ね、ね、聞いてよーうちの彼ってば…」といちいち言いたくなるのも、恋をする度に軌跡を詳細に報告したくなるのも、そこまでは話しちゃアカンという部分を話したくてウズウズするのも、単に喋りたがりという性質がそうさせるのではないような。どうせノロケるなら世界一素晴らしいノロケ(ってスゴイな笑)をしてやろう、と思うほどの覚悟が決まったとき、私は「表現」にひとつの可能性を見た。そして書く。自分が世界一素敵だと信じる人の素晴らしい所以を。だってこんなに格好良いの、だってこんなに優しいの、だってこんなに素敵なの、と。それがただのノロケではなく「表現」として完成したとき、私以外の誰かが同じようにあの人を素晴らしいと思えばいい、と私は願う。願いながら書く。書きながら祈る。

というわけで今日の結論↓

私の彼氏になる人は書かれる覚悟を持たねばならない

…なーんちゃって(←最近の口癖)。

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本日のW杯雑感。

●日本vsクロアチア。

●キックオフと同時に爆睡し、後半30分頃に目が覚める。

●GK川口のファインプレーをリプレイで見る羽目になり、大層口惜しい。

●決勝トーナメント進出が危ぶまれる昨今、選手と監督はもちろんだが、侍ブルーに期待してものすごいお金をかけたスポンサー連中のことを考えるとやりきれない。なーんて社会人目線で考えてみたり。

コメント

nophoto
じゅんじゅん
2006年6月19日19:23

うわ、ありがとう!!笑
りんさんにこういう文章を書いてもらえただけで、あのブログ、書いてよかったと思った!
実は、書いている時に、ふとりんさんの顔がうかんでたんですよ(笑)。

あたしは、ちょっとりんさんとは違うと思うけど、
昔ブログに書いたことがあると思うんだけど、
「意思を継ぐ者」というモチーフにめちゃめちゃ弱いんです。
女性でも、「パートナーの意思を継ぐ女性」にものすごい憧れを抱く。
なんか、自分にそういう欲求がすごくあるんだな・・・って思います。

にしても、

>どうせノロケるなら世界一素晴らしいノロケ(ってスゴイな笑)をしてやろう

って、いいね、迫力あって(笑)。
ノロケを引き出す存在である某男性の「ぎょ。ぎょ、ぎょ、ぎょ」という顔が、目に浮かぶわ(笑)!

りん
りん
2006年6月20日2:27

>じゅんじゅんさま

うわ、こちらこそありがとうございます!!
いつもじゅんじゅんさんの日記にインスピレーション求めてばかりで申し訳ない…とさえ思ってました。
それにしても、あんな素晴らしいお話の最中、私なぞを思い出してくださったなんて光栄過ぎます。鴻上尚史さんのお話のときもそうでしたよね?嬉しいです。

「パートナーの意思を継ぐ女性」に惹かれるというお話…書いてらっしゃいましたね。共感した記憶があります。共感します。なんでしょう、恋人や配偶者がいなきゃ生きていけない、っていうとすごく甘ったれた自立できてない女性のように思われがちですが、そうではなく。

父に依存しっぱなしの私の母が、実はほかに何も要らなくて、父への愛ひとつを養分として生きていけてる、その事実って逆にものすごく強く(一見)孤立無援の状態ではないかと日々思ったりします。パートナーにただただ愛を注いで(経過においては自立できてないように見えても)それを永遠に受け継ぐ、そうですね、その姿にはたしかに何かがありますね。ものすごーく強い何かが。すみません、まとまらなくて…。新しいブログ楽しみにしてます。

某男性、読んでるのかな。また怒られちゃう…。

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