ロミオとジュリエット効果について考えてみる火曜日。

夕刻、取引先のレセプションに招かれる。シャンパン飲んでポワポワしたり、エラそうな人とどーもどーもと名刺交換したり、ケータリングの少なさに(心の中で)文句を垂れたり、すみっこでこっそり名刺のストックを数えたり(足りないよー)。

Nくんは本日も絶好調。

外国人だらけの会場。英語で話しかけられてもキョトンとするしかない私の代わりに矢面に立つN。流暢に喋り続ける外国人紳士と、負けじと流暢に喋り続ける帰国子女・N。「今、何て言ってたの?」「現在はうちと取引がないけどいずれは、って。」「外国版社交辞令やね。」「そうかな。あと、ビューティフル、って言ってましたよ。」「私のこと?」「僕も聞き間違いかと思ったんですけどね。」「わーいわーい!」「でも、ワイフだと思われてましたよ。」「否定しろよ!!」「すみません。」という遅すぎる会話の後に、ノーノーアイアムシングール!!と追いかけて叫びたくなった。

その後、先輩・Yさんとサシ飲み。

サッパリ姉さんキャラのYさん。人に媚びず、いつもまともなことを言う。グラスワインが高すぎる、と笑いながら、ビールでいいよ、とビールを飲む。ナイフとフォークが面倒くさいと語るYさんは、別にいいじゃん、と手づかみで揚げ物を食べる。ああこの適当さ、潔さ。

30になるのが恐かった。…のは、小さい頃の話。男も女も30を過ぎたら中年だと。そろそろ20代中旬に差し掛かる私の感覚は、小学生当時と違う。限定された世界が心地よかった私は積み上がる年齢を恐れていたはずなのに、気付けば彼氏は今年30だし、尊敬できる友人も30を迎えた人ばかり。そして、社会に出た。自分より年下がいない社会に。

「奔放だね。」と揶揄される私はたしかに行儀が悪いけど、演技じゃない。社会的に問題アリなマナーさえ直せば私はこれでもいいのでは。「元気がいいね。」で済ませられる諸性質も、若さゆえ。が、そろそろ若くない。私が若さを失って社会に適合し30を迎える頃、「元気がいいね。」で通用しなくなった諸性質が別の意味を持つのでは、と。別の意味。別の魅力。それは今得ようとしても得られない。

私が好きなYさんはたしかに奔放だけど、同じことをすればみっともないと思われる私と違い、Yさんは積み上げた何かゆえにいつでも格好良い。凛とした気品を失わない貴婦人が胸を張って下界に出るようで。思想も、仕草も、何もかも、お上品を目指してそれ以外を排除するところに「気品」は生まれない気がしてて、かといって究極の理想を求めた私は少しやり方を間違えてて。私が望む「気品」とは、思想も、仕草も、何もかも、あらゆる可能性を一度は受け入れた上で最善と思われる選択をすること。上品さにまみれた前提を外して。

とはいえ。

「Nくんとりんちゃんがデキたら面白いのに。」「よしてください。」「わざと二人きりにしちゃおうかな。」「よしてください!」「りんちゃん、すごーーーく年上の彼氏がいるんだっけ?」「なぜかそんな話になってますよね。」「しかも人に言えない出会い方したんだって?」「ええっ!?誰がそんなこと言ったんですか!?」「誰も言ってない。カマかけただけ。」「なんだ…(よかった)。」「でも、今のでわかった。君は年上の人と人に言えない出会い方したんだな!?」「そんな、先輩、ヒドイです!」「出会い系か?ナンパか?さあ、吐け!」「そんな、先輩、ヒドイです!!」と、Yさん、奔放すぎ。

楽しく飲んだ後、七夕が近いな、と思う。そうか、私はジュリエットではなく織り姫になるべきだ、と(わけのわからない)決意をして帰宅。

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