13時間も眠ってしまった日曜日(我ながらヒドイ)。

休日は料理の日。冷製料理が美味しいこの時期、新鮮なエビをボイルして冷やし、熟れたアボガド、絞りたてのレモン、マヨネーズで和えた後に、クレイジーソルトで味付けを。メインはゴーヤー・チャンプルー。料理には季節感が必要だ。手間暇かけて作った料理を前に、缶ビールを開け、「料理には季節感が必要だ。」などとひとり呟く私は村上春樹みたい。

午後九時、親愛なるSさんから着信アリ。

電話の趣旨は、先月末に誕生日を迎えたSさんに贈ったプレゼントのお礼。メールや電話という手段を用いずにもっともっと近いところで話をしたい、と願う私たちには距離がある。500キロもの距離がある。プレゼントのお礼にとどまらないところで、Sさんは私と(漠然と)話がしたかったのではないかと推測する。なぜなら私はそうだから。

多岐に及ぶ話の中、印象的な話をひとつ。

「それは考えすぎですよ!」と突っ込みたくなる内容についてぐるぐる考え続けるSさんは、(おそらく)私とは違う。私もかなり考え込むタイプだが、いざ愛情表現をすると、両者(私とSさん)は本当に違う。「いつでも立ちどまりながらすすんでいきたいんです。」と柔らかい関西弁で語るSさんは、かたちのないものに言葉をあてがうことを恐れるのだろう。かたちのないものにとりあえず言葉を与える私に「りんさんは乙女ですね。」とSさんは言う。私は乙女? わからない。

好きな人に「すき」と告げること。私の中では、至極、当たり前。恋人がいて、自分がいて、一緒にいるといつの間にか発生する気持ちに「すき」という言葉をあてがう。膨大な感情を「すき」という僅か二文字で表現するなんて不正確。たしかに。でも、とりあえず言ってみて。たしかに不正確なその言葉にはパワーがあって、告げた相手が(もしかして)喜ぶと同時に、自分も嬉しくなる。そういう信念で生きてきた。そうできない人を蹴散らしながら。言ってくれない男、言おうとしない女友達、すべての人を諭してきた。

Sさんはある文章に共感したそうな。

「すき」に限らず、本当は単純化できる物事を単純に表すことを良しとせず、人にはあまり理解されないと知りつつもぐるぐると悩み続ける。Sさんはそういう人だ。Sさんが共感を覚えた人もそういう人。そういう人じゃない自分を私はよくわかってて、それが寂しかった時期(って書くと随分昔みたいだけど、結構最近だな笑)もある。Sさんのような人たちに私がいつも言ってた台詞はこう。「大層な何かを大層だと判断してるのは自分。言葉にした瞬間に、実はいたく単純だと気付くのさ。」

最近はこう思う。

すべての人が自分の基準を持っていて、それで世界を測っている。私が把握していた「世界」はたったひとつで、その中のある地点に自分が立っており、Sさんを含む私と異なる人たちは、別のある地点に立っている。近づきたくて、近づいてほしくて、私は、諭したり、譲歩したり。私が導き出したのは、「世界」はひとつじゃないのかも、という仮定。人の数だけ「世界」があって、私が自分の基準でしか生きられないように、彼・彼女らもまた自らの基準でしか生きられない。介入する権利がない。介入する義務もない。

ともすれば落ち込みかねない最近の私を救うように、Sさんはこんな話をした。「それでも、人と人って、うまーくできているんですね。」と。

Sさんが乙女と認定する私がある人の彼女になったように、ちょっと考えすぎのSさんにも彼氏ができた。凸は凹を見て「自分と違う」と判断するけど、遠目に見る人からは凹に凸がピタリとはまっているだけ。人と人の関係性を判断するに何よりも必要なのは、「客観性」だろう。いつでも立ち止まりながら進みたいと語るSさんは、きっと、ここらへんを既に理解済みで、なるべく客観的になりたいがために、「世界」に誠実であるために、今日も明日も悩み続ける。この事実は寂しくない。

電話は約一時間に及ぶ。

天使のような人、という比喩も誠に不正確だ。天使が実在するなら、神と同じように、絵にも言葉にもできないかもしれない。すぐに言葉を用いる私がなぜ比喩を多用するか、その理由を少しわかってほしくて、私は今日も言葉をあてがう。そしてタイトルをつけた。

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