瞬間、心、正確に

2006年7月8日
高校時代の友人C嬢と会う@赤坂見附。

Cは音大の修士二年。酒もクラシック音楽も必需品じゃない私だが、彼女は私を飲みに誘うし、ときにコンサートにも誘う。生演奏を聴きながらお酒が飲める店で友達が演奏するから、という誘いは今の私にありがたい。仕事を終え、銀座線で赤坂へ。

演奏は二部制で、私がようやく到着した頃、二部が始まったところだった。臨場感溢れる生演奏は仕事で疲れた体を揺さぶった。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノの四重奏は、狭い店内のさらに最前列の私の目の前で苦しく切ない音を高く響かせ、店外の遙か遠くまで届きそうだった。コロコロとピアノを弾く彼女と知り合いだというCの横で、誰の知り合いでもない私はポテトをつまむのも憚られるほど興奮した。

演奏は(本当に)あっという間に終わり、三週間振りに会うC嬢と控えめに語り合う。もっといっぱい食べたいね、と意気投合した我らは挨拶の後に店を出て、すぐ隣で飲み直す。並ぶ紅白のグラスワイン。鶏レバーのペースト、海老とアボガドのディップ、ミートボール入りトマトソーススパゲッティ。夏の夜のテラス席は暑くも寒くもない。

生演奏中に考えたこと。

なんとなく見てしまったサッカーの試合@ドイツ。気まぐれでつけた中継はヨーロッパ同士の試合だった。世界の上位チームの試合はすごかった。ひょいひょいと相手国のディフェンスを抜いていくフランスの某選手の足取りは軽やかで、ド素人の私には魔法のようだった。どうしてそんなことができるの、と。軽やかな音色の四重奏も、私にとってはまるで魔法。どうしてあんなことができるの、と。

切ないのか、苦しいのか、それとも真剣なだけか、目を潤ませながらヴィオラを弾き続ける女性。音をひとつひとつ分解して、単音の精度をつぶさに確認し妥協を許さない姿勢。その姿は誰かとかぶる。生まれてから23年、なんとなく模索してなんとなく見つけて、今はたしかにコレだと認識できる私の「表現」の手段。サッカーでも、器楽でもない。なぜか表現したくて仕方ない私の衝動は、たまたま文章というかたちをとって世に流される。ジダンがボールを蹴るように。彼女がヴィオラを弾くように。

「表現」には才能が必要かな、と私はときどき思うけど、才能が与えられない人にも衝動は(きっと)あるはずで、要は発露の手段の問題で。プロサッカー選手じゃない上川主審が彼なりの「表現」として笛を鳴らすように、どんなことも手段たり得る。と、私は思う。我が両親は、習字、ピアノ、ブラスバンド、などなど、私に色々とさせてくれたけど、事前策が必ずしも功を奏しないのは世の常で、その人に合った「表現」の手段は本人でさえときに予想できない場所に、きっと、密やかに存在する。

ヴィオラの彼女が瞳を潤ませながら弦を弾くように、私はここにこうして書くことで、何かを見る。音をひとつひとつ分解するように、己が心を分解して精度を確認しつつ言葉を選ぶ。目的があって始めた「表現」は、いつしかそれ自体目的となり、真の音楽家が無心で音の精度を高めるがごとく、私はときに無心で手段を施行したいと願ったり。あくまでニュートラルに。自分の心をただ正確に。何も足さずに。何も引かずに。果ては、悲しみも怒りもない世界に似ている。

その後、我が地元より終電が早い地域に住むC嬢を伴い、帰宅。

「泊まっていけよ。」と誘った私と、「りんが男だったらよかったのに。」と呟くC。今夜は寝かせないぜ、と二人きりの熱い夜に必要なもの(お菓子)を買ったのに、わりと早めに寝ちゃった。

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