光線の上の未来と過去
2006年7月11日とても大切なことを思い出した火曜日。
やや意外な方から一通のメール。飲みかけた酒の蓋を閉め直し、今日は素面で考えよう、とメールを読む。悶々と考え続ける日々を一筋の光が貫き、光の先には未来が見えた。未来を照らしてくれたそのメールは、同時に、過去をも照らした。今よりさらに深い闇の底にいたかつての私を、この光は一度照らしたことがある。人は忘れる。すぐに忘れる。
2005年・8月26日の日記を読み返す。
膨れあがった「好き」を伝える人がいなくなり、行き場を失った私の想い。頑張ればすべてが叶うと信じていた私。自分の努力ではどうにもできないことがあると知った夏。どうにも服従させることができない「他者」の存在を理解した私は、ある方法を思いついた。ただ祈るしかない、と。「好き」という気持ちは、私が発して誰かが受けとめて、その移動がお互いを幸せにするのだと、そう頑なに信じてた。そうじゃない。「好き」という気持ちはただそこにあるだけで、仮に受けとめる人がいなくても、発する者自身を幸せにできる力を既に秘めている。その思いつきは、どん底にいた私を照らし出す唯一の光だった。
どん底にいた私は、別の女の元へ走ったかつての彼氏に「祈り」を捧げるがごとく、見返りも求めず、まったくの丸腰で、何も得るところはないと思われた場所で「好き」を発した。それが、"ここ"。この場所を、こう表現した人がいる。「肩書きや、社会的地位や、金銭をまったく失った状態です。なんの後ろ盾もなく、一人荒野に放り出されているような状況です。」と。それが、"ここ"。元カレに泣きつくこともせず、ただただ溢れる涙とともに彼への愛を"ここ"に綴っていた私は、あのとき、たしかに祈っていたと思う。
思想家・レヴィナスによると、「他者」から奪いとることができないならば、自分のものを相手に捧げるしかない、と。それが唯一の「他者」との関わり方である、と。そして、その善意を捧げるときには、決してお返しを要求してはいけないという。なぜなら、お返しを要求することは、「他者」を自分の中に取り込もうという態度を意味するから。定義上、未来永劫取り込めない存在が、すなわち、「他者」。どうしても支配できないはずの「他者」が、向こうから手を差しのべ、好意を向けてくれる。これはほとんど奇蹟である、と。奇蹟のためにただ祈りなさい、と。
何の見返りも求めずに"ここ"で祈り続けた私に応答してくれた人がいた。そして、それは、あの夏の奇蹟だった。
剥いて剥いて剥いた中に大切な雌しべを隠す大輪の華のように、肩書き・身分・容姿・すべてを剥いて剥いて剥いた中に存在した私の一番核の部分。核を露わにして、ただ祈ってた。同じように、剥いて剥いて剥いた中に隠されていたある「他者」の核を発見し、私は惹かれた。ともに裸だった。流星雨が100年やまないかのような奇蹟。見返りばかり求めて男と付き合っていた私が、痛い目に遭って「祈り」を学び、意外なかたちで叶えられた奇蹟。私はすぐに忘れてしまった。
2005年・9月9日の日記を読む。
スーパーマン。ピンチのときに飛んでくる。民間人にとっては、彼の存在こそ奇蹟。何の見返りも求めずに祈りを捧げた私に応答した「他者」は、スーパーマン。時空を超えてやってきた。シュワッチと飛び去らなかったスーパーマンはただの「マン」になったけど、喉もとを過ぎて忘れる熱物のように奇蹟を扱うべきじゃない。…と、一通のメールが教えてくれた。メールの主こそ、時空を超えてやってきたもうひとりのスーパーマン。そう、奇蹟は繰り返す。
さあ前を見ようよ、と未来を照らした光は、振り返ればすでに過去から発されている。だから、ただ、もう一度、当時のように光を辿って、もっと、もっと、前へ。一度はできたことだから。そして、もっかい、祈ろう。祈ったところで寝るとしよう。
やや意外な方から一通のメール。飲みかけた酒の蓋を閉め直し、今日は素面で考えよう、とメールを読む。悶々と考え続ける日々を一筋の光が貫き、光の先には未来が見えた。未来を照らしてくれたそのメールは、同時に、過去をも照らした。今よりさらに深い闇の底にいたかつての私を、この光は一度照らしたことがある。人は忘れる。すぐに忘れる。
2005年・8月26日の日記を読み返す。
膨れあがった「好き」を伝える人がいなくなり、行き場を失った私の想い。頑張ればすべてが叶うと信じていた私。自分の努力ではどうにもできないことがあると知った夏。どうにも服従させることができない「他者」の存在を理解した私は、ある方法を思いついた。ただ祈るしかない、と。「好き」という気持ちは、私が発して誰かが受けとめて、その移動がお互いを幸せにするのだと、そう頑なに信じてた。そうじゃない。「好き」という気持ちはただそこにあるだけで、仮に受けとめる人がいなくても、発する者自身を幸せにできる力を既に秘めている。その思いつきは、どん底にいた私を照らし出す唯一の光だった。
どん底にいた私は、別の女の元へ走ったかつての彼氏に「祈り」を捧げるがごとく、見返りも求めず、まったくの丸腰で、何も得るところはないと思われた場所で「好き」を発した。それが、"ここ"。この場所を、こう表現した人がいる。「肩書きや、社会的地位や、金銭をまったく失った状態です。なんの後ろ盾もなく、一人荒野に放り出されているような状況です。」と。それが、"ここ"。元カレに泣きつくこともせず、ただただ溢れる涙とともに彼への愛を"ここ"に綴っていた私は、あのとき、たしかに祈っていたと思う。
思想家・レヴィナスによると、「他者」から奪いとることができないならば、自分のものを相手に捧げるしかない、と。それが唯一の「他者」との関わり方である、と。そして、その善意を捧げるときには、決してお返しを要求してはいけないという。なぜなら、お返しを要求することは、「他者」を自分の中に取り込もうという態度を意味するから。定義上、未来永劫取り込めない存在が、すなわち、「他者」。どうしても支配できないはずの「他者」が、向こうから手を差しのべ、好意を向けてくれる。これはほとんど奇蹟である、と。奇蹟のためにただ祈りなさい、と。
何の見返りも求めずに"ここ"で祈り続けた私に応答してくれた人がいた。そして、それは、あの夏の奇蹟だった。
剥いて剥いて剥いた中に大切な雌しべを隠す大輪の華のように、肩書き・身分・容姿・すべてを剥いて剥いて剥いた中に存在した私の一番核の部分。核を露わにして、ただ祈ってた。同じように、剥いて剥いて剥いた中に隠されていたある「他者」の核を発見し、私は惹かれた。ともに裸だった。流星雨が100年やまないかのような奇蹟。見返りばかり求めて男と付き合っていた私が、痛い目に遭って「祈り」を学び、意外なかたちで叶えられた奇蹟。私はすぐに忘れてしまった。
2005年・9月9日の日記を読む。
スーパーマン。ピンチのときに飛んでくる。民間人にとっては、彼の存在こそ奇蹟。何の見返りも求めずに祈りを捧げた私に応答した「他者」は、スーパーマン。時空を超えてやってきた。シュワッチと飛び去らなかったスーパーマンはただの「マン」になったけど、喉もとを過ぎて忘れる熱物のように奇蹟を扱うべきじゃない。…と、一通のメールが教えてくれた。メールの主こそ、時空を超えてやってきたもうひとりのスーパーマン。そう、奇蹟は繰り返す。
さあ前を見ようよ、と未来を照らした光は、振り返ればすでに過去から発されている。だから、ただ、もう一度、当時のように光を辿って、もっと、もっと、前へ。一度はできたことだから。そして、もっかい、祈ろう。祈ったところで寝るとしよう。
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