あたしをあいしてる

2006年7月18日
空模様と瞼がリンクした火曜日。

長期休養から復活した同期N氏を連れ、久々にドライブデート搬入へ。重苦しい雰囲気の車内。理由もないのに会話がない。しょっちゅう一緒にいるから、何も言わなくても伝わっちゃう。「りんさんの気持ちはわかります。」と彼は言う。その言葉にほっとした私は何を期待したのだろう?

「あなたにわかるはずがない。」という禁句を飲み込んだ。システマティックになりつつある世界を抜けて本質を見極めたいと思うようになった私は、所詮は多勢に受け入れてもらえない信念を吹聴するのではなく、小箱にしまうようにそっと胸に秘めよう、と。たとえここには書いたとしても。

竹内まりやを口ずさみながらタイムカードを切る。

一日に何度も振動しない携帯でメールをチェック。受信履歴ではなく送信履歴を。仕事絡みの野暮用に紛れて、感情に任せてつい送った何件かのメール。自己犠牲の精神を重んじる傾向がある私は、本当は押し殺し難い思いがあっても露骨に文章にするのを(なるべく)控えるようになったけど、それはいつからだったろう?

自己犠牲の精神が間違っているということじゃなくて、「自己犠牲=慈愛」と短絡的に考えていた私は、自分が我慢しさえすれば相手を愛することに繋がると信じ込み、いつからか、「ホラ、私、こんなに我慢してるのよ、ねえ、みて、みて?」と、むしろ逆手にとって愛を押しつけていたのではないか。ここ数ヶ月のメールから読み取れたこと。

約一年前、(今考えると)自分を大切にしていなかった私に、年上のある人がメールをくれた。「こっちが"大切に"思っている女の子が、自分自身のことを大切にしていないっていうことがすごく悲しい」と、当時の彼はそう言った。いまいちピンと来なかった私。そんな私は自分を大切に扱うべき存在と思えないままだったのに、二本の腕と十本の指でまるで壊れもののように扱われる経験を得た。そんな風に扱われるうちに、私は、当時より深いところで「自身を大切にすべき」という彼の台詞を理解できるようになったかも。

イイ女になりきれない今の自分をあまり好きになれないとしても、その度に自己を否定してどんどんと落ちていく私は、たとえ「貴方のためです。」と理由を愛になすりつけてもね。たしかにあまりイイ女じゃない私でも、自分を許容することで心が安らかになるのなら、それで健やかでいられるのなら、その時点ではじめて人を愛すことができるのかも。自分より相手の人間性を素晴らしいと思った私は、彼をリスペクトし、さらにさらに上へと飛翔させた。自分はどうしてたかというと、地上で扇を仰ぐがごとく。本当に彼をリスペクトしたいなら、自分も地を蹴って舞い上がり、高いところで直に彼の人間性に触れ、むしろ自分が彼より高い位置から天へ導くくらいでいいのかも。

つまり。

人を心から愛するために私がしなくてはいけないことは、まず、自分を愛すること。私が自分を心から愛して今日も明日も元気でいられたら、健やかな私を見てきっと安心する人がいる。人を心から愛するとは、一見、相手をじっと見つめる行為のよう。でも、本当はそうじゃなくて、自分をより深く掘り下げる訓練の末に奇蹟のように得られる「結果」の正体がすなわち愛ではないか、と思う。

こうして色々なことを覚えてゆきます。

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