牛乳を買ってきてと言われたのに間違えて食パンを買ってしまった木曜日。
「落ち度があってはならない!!」と気合いを入れて入社した日から四ヶ月が経とうとしている。どんなことがあっても、笑顔で、前向きに、元気良く。だって、それしかできない。そう思っていたけど、どれだけ気合いを入れてもミスがある。100%全力を注いでも防げない何かを突きつけられ、せめて笑顔の無駄遣いはやめようか、と思う。常に最大出力(しかも笑顔)だった私は、仕事にも、心にも、物腰にも、すべてにメリハリがあれば、と思う。
願い続ければ叶うようで外見にも変化が出たらしい。「りんさん、最近まったりしてますね。」と指摘したのは、外回り中のN氏。「そう見える?」「それくらいで丁度いいですよ。」「そうかもね。」と無駄口を叩いている間にケータイが鳴る。本社で事件勃発。「…どうします?」「んー、まあ、どうにかなるっしょ。」「…りんさんらしくないですね。」「なんで?」「前だったら、ぎゃーとか叫んだり、さあNくん行くよっ、って僕を叱咤したのに。」という指摘には「そうかしら?」と答える以外にない。そうかしら?
同じ路線、同じ光景、同じ車両。パブロフの犬のように反射する私は、毎晩のように同じ場所で同じことを思い出す。毎日考える。そして答えは一緒なの。
つい他人と比較する。新入社員の私が遅刻を恐れてダッシュしたすぐ後に悠々と現れる上司。職場で堂々と私用電話をかけるその人の会話を狭いフロアで強制的に聞かされながら、彼女の幸福値を測定する。同様に自分の幸福値も数値化して、比較し、「for me」としか名付けられない類の歌を心の中で歌うんだ。「自分に同情するのは最低の行為だ」といつか聞いたことがあるけど、なにゆえ最低なのか、私は未だにはっきりした答えを知らない。
そうは思いつつも。
比較するには共通点が必要だ。ボールペンと担々麺のどっちが優れているかを比較するのは不可能だが、ボールペンと鉛筆なら比べることができる。ということは、私と誰かを比べるときも、世界をカテゴリー分けせずにいられない。自分に都合のいいように線引きをして世界を分断する私は、私と上司が共通して持つ要素だけ取り出して、自分を可哀想がってみる。まことに恣意的な行為だろう。
鉛筆よりボールペンの方が優れていると思うとき、それは単に「書いたら消えない」という点にのみ注目しているからだろう。私が他人より不幸だと思い込んでも、それは、「私」の中から自分に都合のいい部分だけを取りだして勝手に比較してるだけ。「私」の中から勝手に取り出した要素をネタに、「あたしの方が不幸だわ!」と叫ぶ人がもし私の目の前に現れたら、言ってやりたいことがある。「私の要素は私だけのもの。誰とも共有していない。」と。そう、比較はナンセンス。
だからこそ私は思う。今夜も同じ場所で思う。
たかがそれぐらい、と自分でも笑い飛ばしたくなるようなことで悶々と悩み続ける私。たかがそれぐらい、と思うのも、他人の抱えるもっと大層な悩みと比較してるから。たしかに人に言ったら笑われる(と思う)。それでも比較しないでほしい。自分も比較しないから。私の悩みは他人以上でも他人以下でもなく、世界にひとつだけ存在するオリジナル。「あなたより辛い人はいるのよ。」と仮に言われても、私はこの世に一本しかない鉛筆だという気がする。鉛筆とよく似たボールペンと比べられることはあれど、「よく似てる」だけで、一緒じゃない。
比較したがる人(自分を含む)、いくらでも共通点を見つけられるこの世のすべての物質、それらが溢れる世界。数値化もカテゴリー分けもできないと理解して目を瞑れば、もう一度目を開いたとき、自分の心の保ちよう次第で幸せにも不幸にもなるアメーバのように流動的な世界が広がる気がする。
「落ち度があってはならない!!」と気合いを入れて入社した日から四ヶ月が経とうとしている。どんなことがあっても、笑顔で、前向きに、元気良く。だって、それしかできない。そう思っていたけど、どれだけ気合いを入れてもミスがある。100%全力を注いでも防げない何かを突きつけられ、せめて笑顔の無駄遣いはやめようか、と思う。常に最大出力(しかも笑顔)だった私は、仕事にも、心にも、物腰にも、すべてにメリハリがあれば、と思う。
願い続ければ叶うようで外見にも変化が出たらしい。「りんさん、最近まったりしてますね。」と指摘したのは、外回り中のN氏。「そう見える?」「それくらいで丁度いいですよ。」「そうかもね。」と無駄口を叩いている間にケータイが鳴る。本社で事件勃発。「…どうします?」「んー、まあ、どうにかなるっしょ。」「…りんさんらしくないですね。」「なんで?」「前だったら、ぎゃーとか叫んだり、さあNくん行くよっ、って僕を叱咤したのに。」という指摘には「そうかしら?」と答える以外にない。そうかしら?
同じ路線、同じ光景、同じ車両。パブロフの犬のように反射する私は、毎晩のように同じ場所で同じことを思い出す。毎日考える。そして答えは一緒なの。
つい他人と比較する。新入社員の私が遅刻を恐れてダッシュしたすぐ後に悠々と現れる上司。職場で堂々と私用電話をかけるその人の会話を狭いフロアで強制的に聞かされながら、彼女の幸福値を測定する。同様に自分の幸福値も数値化して、比較し、「for me」としか名付けられない類の歌を心の中で歌うんだ。「自分に同情するのは最低の行為だ」といつか聞いたことがあるけど、なにゆえ最低なのか、私は未だにはっきりした答えを知らない。
そうは思いつつも。
比較するには共通点が必要だ。ボールペンと担々麺のどっちが優れているかを比較するのは不可能だが、ボールペンと鉛筆なら比べることができる。ということは、私と誰かを比べるときも、世界をカテゴリー分けせずにいられない。自分に都合のいいように線引きをして世界を分断する私は、私と上司が共通して持つ要素だけ取り出して、自分を可哀想がってみる。まことに恣意的な行為だろう。
鉛筆よりボールペンの方が優れていると思うとき、それは単に「書いたら消えない」という点にのみ注目しているからだろう。私が他人より不幸だと思い込んでも、それは、「私」の中から自分に都合のいい部分だけを取りだして勝手に比較してるだけ。「私」の中から勝手に取り出した要素をネタに、「あたしの方が不幸だわ!」と叫ぶ人がもし私の目の前に現れたら、言ってやりたいことがある。「私の要素は私だけのもの。誰とも共有していない。」と。そう、比較はナンセンス。
だからこそ私は思う。今夜も同じ場所で思う。
たかがそれぐらい、と自分でも笑い飛ばしたくなるようなことで悶々と悩み続ける私。たかがそれぐらい、と思うのも、他人の抱えるもっと大層な悩みと比較してるから。たしかに人に言ったら笑われる(と思う)。それでも比較しないでほしい。自分も比較しないから。私の悩みは他人以上でも他人以下でもなく、世界にひとつだけ存在するオリジナル。「あなたより辛い人はいるのよ。」と仮に言われても、私はこの世に一本しかない鉛筆だという気がする。鉛筆とよく似たボールペンと比べられることはあれど、「よく似てる」だけで、一緒じゃない。
比較したがる人(自分を含む)、いくらでも共通点を見つけられるこの世のすべての物質、それらが溢れる世界。数値化もカテゴリー分けもできないと理解して目を瞑れば、もう一度目を開いたとき、自分の心の保ちよう次第で幸せにも不幸にもなるアメーバのように流動的な世界が広がる気がする。
コメント
うーむ…。
私もですが、サイヤパパもかなりお疲れのようですな。