八月のリスタート

2006年8月11日
ひねもすデスクにて。

私の働く意味ってなんだろう。そんなことを考えるようになりました。

就職活動中に熟考したはずなのに、結局答えは出ていなかったようです。就職活動はしばしば恋愛に例えられますが、当時の私が生娘だとするなら、今の私はついに会社とキスをしたのです。生娘だった私は、まだ彼氏もいないのに未来の結婚生活を想像しろと言われていたようなものです。何もわかっていませんでした。今もわかっていませんが。

店舗を離れることになった私は、会社の基幹部門で働くことになりました。「頭脳労働をさせたい。」とのことですが、ほかの言い回し(「あなたは物事を正面から受けとめるから。」「最初に現場を知ってほしいと思ったんだけど…。」)を考慮すると、外回りが向いてないと判断してのことでしょうか。面白いのは、「おまえはくの一か。」というツッコミです。どうも前に出すぎる傾向があるようで。「手裏剣を無駄にしないで、お屋敷の奥で少しは内助を学んでみぃ。」とのことです。

そうかあ、と思ったものの。

店舗なくして弊社の利益は上がりません。お客と直に触れることができる現場(店舗)に常駐し、取引先に出かけ、私はわかりやすい動機の中にいたのです。わかりやすい動機とは、「すべてはお客さまのため!」というものです。失敗しても、叱られても、そのわかりやすい動機を礎にして私は次の日も会社に行ったものでした。

幹部は言いました。「ゆくゆくは会社を担う人間にしたい。」と。総務に限りなく近い部分で働くということは、たとえ直接的ではないにしろ、結果的にはお客さまのためになることです。しかし、今後、わかりやすい動機は失われました。私は組織の人間で、「会社のために」働くのです。「今後は幹を太くしていかないと」「会社が大きくなるためにはね…」と力強く語る幹部を前に、私は、自分でない誰かに白羽の矢が立つのを遠くから眺めるような気分で「はあ。」「はあ。」と答えつつ、ゆっくり、ゆっくり、コーヒーを飲んでいました。少し飲み残しました。

弊社の事業は多岐に及びます。あるニッチマーケットの存在に目をつけた創業者(現在の代表取締役)が全国規模にまでした基幹事業。ビジネスは成功し、「こういうものが欲しかったのよ〜!」と泣いて喜んだ人たちがいたことでしょう。会社は次々と新規事業を開始します。会社設立時に力強く存在していたはずの「ないから私たちが提供する!」という熱い気持ち(があったと思うのよね。たぶん。)は少しずつ空洞化し、会社は「外」ではなく「内」に目がいくほどの規模になりました。「内」を見るようになった弊社に未だ足らない何か。それを補う人材になるべく仕込まれるのが今後の私です。

しかし、私は思うのです。

社会に何かを提供したいという純な気持ちから始まったはずなのに、「内」を見るようになることで伴う危険があると思うのです。「外」に提供するどころか「内」の利益ばかりに目がいって、どんどん、どんどん、むしろ囲い込まれていくのではないか、と。囲われた範囲の中で営利を貪る人々が今世紀に入って次々と摘発されていく様を見るたびに、「こういう大人になっちゃいけないよ。」と暗に諭されている気がしたのです。新世紀に突入してもしばらくの間、私は学生でした。暗に諭された中から華麗に飛び出したばかりの新卒が今考えるべきことはなんでしょう?

すぐに答えが出るとも思えませんが、帰宅途中、電車の中でこんな光景を目にしました。

酔いつぶれたサラリーマンが車両の床に伏してしまい、皆に迷惑をかけていました。「大丈夫ですか?」と声をかけてもピクリともしません。そのうち気付いた駅員さんが駆けつけました。その間、列車は某駅に停車していました。大の大人(リーマン)を大の大人(駅員)が「うんしょ、うんしょ」と運び出し、ホームに降り立つと、白いシャツの背中がライトを頭上に掲げました。キラッと光ると、扉が閉まり、列車は動き出しました。その後、白いシャツを着た駅員さんは再び業務に戻ったのでしょう。

シャツが汗で張り付いていました。

働くこと。色々な人が背中で教えてくれている気がします。

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