りんの夏休み3
2006年8月21日
8月21日 天気 晴れ
地元の映画館で『日本沈没』(のつづき)鑑賞。
なんでこんなにこの映画にこだわるのかといえば特にこれといった理由はないのですが、ラブロマンスとコメディの次に気になるのはパニック映画、という性質によるものかもしれない。私はあまり映画館に足を運ぶタイプではなく、そんな私があえて大画面で見ようかなと積極的になる映画には、このようなパニック物が多いことについ最近気付きました。すっごい古いところだと『タイタニック』(って書くのはなんか恥ずかしい。この感情はなんだろう?)、かなり前だと『ドラゴンヘッド』『宇宙戦争』、やや最近なら『大停電の夜』『キング・コング』など。
「わーすっげー」と拳を握ってるかといえば実はそうでもなく、むしろ、「うーこわい見とうない見とうない」と指と指の隙間から画面をのぞき見る、というくらいの根性なしです。今回の映画でいえば、大阪の道頓堀一帯が水没しているシーンや、函館の港を津波がどどーんと襲うシーンなど、自分の住む国がみるみる破壊されていく映像を見て、たとえ作り物と知ってはいても、そんな、「わーすっげー」と興奮できるほど自分は悪趣味じゃないと信じてます。
パニック物を観るたびに、上映中、必ず思うことがあります。
もし わたしが あそこにいたら いったい何をしたいと思うかしら?
疑似体験とはいえ、極限状態に追いつめられないと考えないことを煮詰めるために、私は映画館に足を運ぶのかもしれません。
日本は(今のところ)平和なので、平和の上にどんどん積み上がったものを自分の気が済むまで突き詰めることができます。それは趣味とか、ライフワークとか、使命とか、色々な言葉に置き換えられます。ある人にとってはただの趣味でも、ある人にとっては仕事とリンクしていたり、仕事が高じて生き甲斐になる場合もあります。たまに思うのは、これらに没頭するのはまるでルーペをのぞくようなもので、仕事やライフワークは個人への負担や影響が大きいゆえにそれらが本来より深刻な意味を持つことがある、ということ。だから、極限状態にならない限り忘れてしまうこともあると思うのです。
画面上で火山が噴火し、地面が裂け、海が荒れ、そんな中、「もしわたしがあそこにいたらいったい何をしたいと思うかしら?」と考えました。「レスキュー隊に所属して人命救助をしたい」という大層なことを自らの使命にできたらどんなに素敵だろう、とも思います。実は警察官になりたいと切望したこともあります。その熱い痕跡は今も私の心にありますが、もう少し違った角度の視点もあります。
私の好きなことは誰かに褒められる類のものとは必ずしも言いきれませんが、好きなことにムリヤリ立派な理由付けをせずとも、100年後、私は確実にこの世にいないから。たとえば花火が一瞬だけ夢みたいに輝くように、あとから「光ったのは何か意味があったの?」と問えば、「人を楽しませるため」とかいくらでも言いようはありますが、今私が好きでやっていることに意味があっても、なくても、今回の映画の主人公・小野寺(草?剛)の母が強がるでもなく「あの頃が、いっちばん、楽しかった」と背筋を伸ばして笑ったように、私もいつか微笑むことができる気が、少しだけ、します。
好きなことを好きなように。問題は人から見てほどほどかどうか、というところですね。
地元の映画館で『日本沈没』(のつづき)鑑賞。
なんでこんなにこの映画にこだわるのかといえば特にこれといった理由はないのですが、ラブロマンスとコメディの次に気になるのはパニック映画、という性質によるものかもしれない。私はあまり映画館に足を運ぶタイプではなく、そんな私があえて大画面で見ようかなと積極的になる映画には、このようなパニック物が多いことについ最近気付きました。すっごい古いところだと『タイタニック』(って書くのはなんか恥ずかしい。この感情はなんだろう?)、かなり前だと『ドラゴンヘッド』『宇宙戦争』、やや最近なら『大停電の夜』『キング・コング』など。
「わーすっげー」と拳を握ってるかといえば実はそうでもなく、むしろ、「うーこわい見とうない見とうない」と指と指の隙間から画面をのぞき見る、というくらいの根性なしです。今回の映画でいえば、大阪の道頓堀一帯が水没しているシーンや、函館の港を津波がどどーんと襲うシーンなど、自分の住む国がみるみる破壊されていく映像を見て、たとえ作り物と知ってはいても、そんな、「わーすっげー」と興奮できるほど自分は悪趣味じゃないと信じてます。
パニック物を観るたびに、上映中、必ず思うことがあります。
もし わたしが あそこにいたら いったい何をしたいと思うかしら?
疑似体験とはいえ、極限状態に追いつめられないと考えないことを煮詰めるために、私は映画館に足を運ぶのかもしれません。
日本は(今のところ)平和なので、平和の上にどんどん積み上がったものを自分の気が済むまで突き詰めることができます。それは趣味とか、ライフワークとか、使命とか、色々な言葉に置き換えられます。ある人にとってはただの趣味でも、ある人にとっては仕事とリンクしていたり、仕事が高じて生き甲斐になる場合もあります。たまに思うのは、これらに没頭するのはまるでルーペをのぞくようなもので、仕事やライフワークは個人への負担や影響が大きいゆえにそれらが本来より深刻な意味を持つことがある、ということ。だから、極限状態にならない限り忘れてしまうこともあると思うのです。
画面上で火山が噴火し、地面が裂け、海が荒れ、そんな中、「もしわたしがあそこにいたらいったい何をしたいと思うかしら?」と考えました。「レスキュー隊に所属して人命救助をしたい」という大層なことを自らの使命にできたらどんなに素敵だろう、とも思います。実は警察官になりたいと切望したこともあります。その熱い痕跡は今も私の心にありますが、もう少し違った角度の視点もあります。
私の好きなことは誰かに褒められる類のものとは必ずしも言いきれませんが、好きなことにムリヤリ立派な理由付けをせずとも、100年後、私は確実にこの世にいないから。たとえば花火が一瞬だけ夢みたいに輝くように、あとから「光ったのは何か意味があったの?」と問えば、「人を楽しませるため」とかいくらでも言いようはありますが、今私が好きでやっていることに意味があっても、なくても、今回の映画の主人公・小野寺(草?剛)の母が強がるでもなく「あの頃が、いっちばん、楽しかった」と背筋を伸ばして笑ったように、私もいつか微笑むことができる気が、少しだけ、します。
好きなことを好きなように。問題は人から見てほどほどかどうか、というところですね。
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