秘書の戯れ言 vol.3
2006年8月29日
平川克美の『反戦略的ビジネスのすすめ』(洋泉社)読了。
私は我が社の経営のトップ陣を毎日見ています。小さい会社ですが、小さいながらも事業は全国規模になり、それでもやっぱりまだまだ小さくて、小さいからこそまるで箱庭を上から眺めるように「会社とは、ビジネスとは、なにか」という命題に触れるのが容易だともいえます。
国民経済という枠組みのなかでは、生活のレベルで今日より明日はより良くなるだろうという進歩の幅が確実に小さくなり、もはや"のりしろ"がほとんどなくなるほどに成長を遂げたようです。「必要は供給の培地」であることを終え、生産者(供給者)は人々の欲望に点火することで需要をむりくり創出します。ニーズが満たされているのになお必要なものはたしかに存在し、それはお金では買うことができないもの(他者からの尊敬とか承認)です。本来はお金で買えなかったもの、つまり、通常は流通しなかったものに市場性を持たせることが、消費資本主義における最後のマーケティング課題になった
…と、上記は平川さんがおっしゃったことですが。
伸び盛りの弊社の売上実績を見る限り、社長は「デキる人」に違いありません。社長の経営哲学に(おそらく)心酔した創業メンバーも、皆、私のそばにいます。経営のトップらは経営について(おそらく)正しいことを言うのですが、たとえそれがものすごく正しいことだとしても、それこそ私みたいな小娘の鼻なんて簡単にへし折れるくらい正しいことだとしても、「正しくてもやりたくない」という謎の感情を私たち社員に抱かせちゃってるのが甚だ不思議であります。
平川さんいわく、起業家が起業家であるためには、自分がどのようにして価値を作り出し、自分の作り出すどのような価値がお金と交換されるのかについてのヴィジョンを持ち続けなければならないはずだ、と。つまり、事業から収入を得るという当たり前の認識を常に持ち続ける必要があるということ。なぜなら、お金でお金を交換したりしはじめた瞬間から、起業家は起業家から別のものになりはじめるから。起業して、お金持ちになって、で、結局どうしたいの?という問いに、明確に答え続ける必要性があるそうで。
会社が創業者の個人的な思いから離れ、やがてひとつの共同体・仲間(カンパニー)として機能していくためには、チーム全員が共有できる「意欲の源泉」が必須だそうで。「意欲の源泉」を見いだせるような「場」を共有できなければ、トップは「財貨」「昇進」「権力」などのインセンティブを切り売りし、やがて会社は収益措置になっていくのです、と。
かといって、なにも、我が社がそういう状態(収益措置)に向かって突っ走っていると言いたいわけではなく。なぜなら、新人の私には見えない部分もわからないことも多すぎて、どうがむしゃらに働いても本を読んでも、「若造の甘い戯れ言」から離れられない前提があるんですね。脆弱な前提の上に立つ理論(この日記)を、たとえ平川さんの文章でどれだけ補強しても…げ、限界が。
ただ、冒頭で書いたように、そろそろ飽和をむかえたこの日本で、つまり、未開拓市場(残っているのかしらん)に潜む埋蔵資源への利益獲得競争というすさまじい様相を呈したこの状態だからこそ、「それでも、なお、モノとサービスを!」と思えた哲学と、その哲学に共感できるだけの"言葉(ノンバーバルでもけっこう)"を、私は欲している気がします。日本人が共有する高度経済成長期の記憶もやや遠くなり、失われた十年を経て、就職氷河期もいつしか終わろうとしている今、もしかしたら景気が良くなろうとしているかもしれない今、ここ数年のあいだに期間限定で発生した私たち新卒は、もしかしたら期間限定かもしれない稀有な就職観を持っているのかもしれないなあ、なんて、私と同じように働くようになった学生時代の友達のブログを読むと思います。
私は我が社の経営のトップ陣を毎日見ています。小さい会社ですが、小さいながらも事業は全国規模になり、それでもやっぱりまだまだ小さくて、小さいからこそまるで箱庭を上から眺めるように「会社とは、ビジネスとは、なにか」という命題に触れるのが容易だともいえます。
国民経済という枠組みのなかでは、生活のレベルで今日より明日はより良くなるだろうという進歩の幅が確実に小さくなり、もはや"のりしろ"がほとんどなくなるほどに成長を遂げたようです。「必要は供給の培地」であることを終え、生産者(供給者)は人々の欲望に点火することで需要をむりくり創出します。ニーズが満たされているのになお必要なものはたしかに存在し、それはお金では買うことができないもの(他者からの尊敬とか承認)です。本来はお金で買えなかったもの、つまり、通常は流通しなかったものに市場性を持たせることが、消費資本主義における最後のマーケティング課題になった
…と、上記は平川さんがおっしゃったことですが。
伸び盛りの弊社の売上実績を見る限り、社長は「デキる人」に違いありません。社長の経営哲学に(おそらく)心酔した創業メンバーも、皆、私のそばにいます。経営のトップらは経営について(おそらく)正しいことを言うのですが、たとえそれがものすごく正しいことだとしても、それこそ私みたいな小娘の鼻なんて簡単にへし折れるくらい正しいことだとしても、「正しくてもやりたくない」という謎の感情を私たち社員に抱かせちゃってるのが甚だ不思議であります。
平川さんいわく、起業家が起業家であるためには、自分がどのようにして価値を作り出し、自分の作り出すどのような価値がお金と交換されるのかについてのヴィジョンを持ち続けなければならないはずだ、と。つまり、事業から収入を得るという当たり前の認識を常に持ち続ける必要があるということ。なぜなら、お金でお金を交換したりしはじめた瞬間から、起業家は起業家から別のものになりはじめるから。起業して、お金持ちになって、で、結局どうしたいの?という問いに、明確に答え続ける必要性があるそうで。
会社が創業者の個人的な思いから離れ、やがてひとつの共同体・仲間(カンパニー)として機能していくためには、チーム全員が共有できる「意欲の源泉」が必須だそうで。「意欲の源泉」を見いだせるような「場」を共有できなければ、トップは「財貨」「昇進」「権力」などのインセンティブを切り売りし、やがて会社は収益措置になっていくのです、と。
かといって、なにも、我が社がそういう状態(収益措置)に向かって突っ走っていると言いたいわけではなく。なぜなら、新人の私には見えない部分もわからないことも多すぎて、どうがむしゃらに働いても本を読んでも、「若造の甘い戯れ言」から離れられない前提があるんですね。脆弱な前提の上に立つ理論(この日記)を、たとえ平川さんの文章でどれだけ補強しても…げ、限界が。
ただ、冒頭で書いたように、そろそろ飽和をむかえたこの日本で、つまり、未開拓市場(残っているのかしらん)に潜む埋蔵資源への利益獲得競争というすさまじい様相を呈したこの状態だからこそ、「それでも、なお、モノとサービスを!」と思えた哲学と、その哲学に共感できるだけの"言葉(ノンバーバルでもけっこう)"を、私は欲している気がします。日本人が共有する高度経済成長期の記憶もやや遠くなり、失われた十年を経て、就職氷河期もいつしか終わろうとしている今、もしかしたら景気が良くなろうとしているかもしれない今、ここ数年のあいだに期間限定で発生した私たち新卒は、もしかしたら期間限定かもしれない稀有な就職観を持っているのかもしれないなあ、なんて、私と同じように働くようになった学生時代の友達のブログを読むと思います。
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