新人マーチ
2006年9月3日
休日出勤フゥー☆
仕事とはまったく関係ありませんが、原田宗典の『新人だった!』(角川書店)を電車内で読了。
原田宗典という作家に出会ったのは中学1年−12歳の頃。群れを離れて学級文庫ばかり読んでいたシューベルトそっくりのクラスメイトに、「何読んでるの?」と尋ねたのがきっかけだ。そのとき見せられた『大サービス』(集英社刊)というハードカバーは今も私の本棚にありますが、なにしろ学級文庫から失敬したものなので、でかでかと「平成○年度バザー基金図書・○○市立○○中学校」と表紙に貼ってあるのがちょいと傷です(もう時効?)。
彼の新刊が出るたびにチェックするようになった。5冊、10冊、20冊…古いものも新しいものも含め、本棚に徐々に著作が増えていった。10代後半から20代にかけてゲキドーの青春を送ったらしい原田さんは、義務教育の最中にあった私のアイドルだった。父親が博打で多額の借金をこさえて一家離散という状況で、弱冠19歳だった原田青年は、どんな苦悩やどんな窮乏やどんな困難があっても、どうせ全部小説にしてやるんだもんね、というスタンスで生きたそうな。早稲田の一文に通いながら、生活費も家賃も学費も、すべて自分で賄ったという。
ちょうど思春期だった私は、「若いときの苦労は買ってでもしろ」と熱く語る原田さんの影響をモロに受けた気がします。浪人までして早稲田の一文に入ろうとしたのもおそらくそのせいだ。早稲田に入れば原田さんのような人がうじゃうじゃいると思っていた(←すごい偏見)。恵まれた環境で蝶よ花よと育てられた私は、自分の生い立ちに感謝しつつも家が疎ましく、たとえものすごいしっぺ返しを受けるとしても、身一つで生きてみたかった。とはいえ、自分がそんな風にフットワーク軽く生きることに関しては早々と諦めていた節があり、それならばせめてと、そのように生きる人と触れようとした。世間知らずの娘にとって、原田さんの描く早稲田はひどく魅力的でした。
卒論とフランス語の単位を残して留年した原田青年は、「宣伝会議」が開催するコピーライター養成講座に通いながら、コピーライター・岩永嘉弘氏のもとでアシスタントとして働き、その傍らでちまちまと小説を書いていたという。岩永氏はかなり厳しいタイプのお師匠さまで、毎日のように何かしら叱られたらしい。コピーライティングに関してばかりではなく、電話の応対や請求書の書き方、机上の整理、文字の汚さに至るまで、みっちり仕込まれて毎日ヘトヘトだったという。原田さんいわく「ぼくはまだ二十代の前半で、若々しい力と発想に溢れていたし、何も失うものがなかった。」と。
ここからは、私の話。
月曜以降本格化する私の新しい業務。「たぶん、三・四回は泣くと思いますよ」としょっぱなからいきなり恐ろしいことを言い出す上司に付き、私は原田さんのように生きられるだろうかと、若干、いや、大いに不安です。
が、自分のしでかしたことがすべて自分に返ってくる環境を、私は、今思えばずいぶん昔(原田さんを読み始めた頃)から望んでた。ハードワークをこなしながらときに「やってられねーぜ」とボヤきつつ、最後には「なーんちゃって!」となんでもないことのように笑える男に、いや、私は女ですが、なりたかった。失うものがなにもないかといえばそうでもなくて、それを私は性別や生い立ちのせいにしてたけど、重すぎた腰を上げる日も近い。観念的には今にはじまったことじゃありませんが、今度は誰の目にもそれとわかる方法で。そのうち降り積もる年月が、「いやーあの頃は若かった!」と原田さんのように笑える私を作るだろうかと、今から少し楽しみです。
仕事とはまったく関係ありませんが、原田宗典の『新人だった!』(角川書店)を電車内で読了。
原田宗典という作家に出会ったのは中学1年−12歳の頃。群れを離れて学級文庫ばかり読んでいたシューベルトそっくりのクラスメイトに、「何読んでるの?」と尋ねたのがきっかけだ。そのとき見せられた『大サービス』(集英社刊)というハードカバーは今も私の本棚にありますが、なにしろ学級文庫から失敬したものなので、でかでかと「平成○年度バザー基金図書・○○市立○○中学校」と表紙に貼ってあるのがちょいと傷です(もう時効?)。
彼の新刊が出るたびにチェックするようになった。5冊、10冊、20冊…古いものも新しいものも含め、本棚に徐々に著作が増えていった。10代後半から20代にかけてゲキドーの青春を送ったらしい原田さんは、義務教育の最中にあった私のアイドルだった。父親が博打で多額の借金をこさえて一家離散という状況で、弱冠19歳だった原田青年は、どんな苦悩やどんな窮乏やどんな困難があっても、どうせ全部小説にしてやるんだもんね、というスタンスで生きたそうな。早稲田の一文に通いながら、生活費も家賃も学費も、すべて自分で賄ったという。
ちょうど思春期だった私は、「若いときの苦労は買ってでもしろ」と熱く語る原田さんの影響をモロに受けた気がします。浪人までして早稲田の一文に入ろうとしたのもおそらくそのせいだ。早稲田に入れば原田さんのような人がうじゃうじゃいると思っていた(←すごい偏見)。恵まれた環境で蝶よ花よと育てられた私は、自分の生い立ちに感謝しつつも家が疎ましく、たとえものすごいしっぺ返しを受けるとしても、身一つで生きてみたかった。とはいえ、自分がそんな風にフットワーク軽く生きることに関しては早々と諦めていた節があり、それならばせめてと、そのように生きる人と触れようとした。世間知らずの娘にとって、原田さんの描く早稲田はひどく魅力的でした。
卒論とフランス語の単位を残して留年した原田青年は、「宣伝会議」が開催するコピーライター養成講座に通いながら、コピーライター・岩永嘉弘氏のもとでアシスタントとして働き、その傍らでちまちまと小説を書いていたという。岩永氏はかなり厳しいタイプのお師匠さまで、毎日のように何かしら叱られたらしい。コピーライティングに関してばかりではなく、電話の応対や請求書の書き方、机上の整理、文字の汚さに至るまで、みっちり仕込まれて毎日ヘトヘトだったという。原田さんいわく「ぼくはまだ二十代の前半で、若々しい力と発想に溢れていたし、何も失うものがなかった。」と。
ここからは、私の話。
月曜以降本格化する私の新しい業務。「たぶん、三・四回は泣くと思いますよ」としょっぱなからいきなり恐ろしいことを言い出す上司に付き、私は原田さんのように生きられるだろうかと、若干、いや、大いに不安です。
が、自分のしでかしたことがすべて自分に返ってくる環境を、私は、今思えばずいぶん昔(原田さんを読み始めた頃)から望んでた。ハードワークをこなしながらときに「やってられねーぜ」とボヤきつつ、最後には「なーんちゃって!」となんでもないことのように笑える男に、いや、私は女ですが、なりたかった。失うものがなにもないかといえばそうでもなくて、それを私は性別や生い立ちのせいにしてたけど、重すぎた腰を上げる日も近い。観念的には今にはじまったことじゃありませんが、今度は誰の目にもそれとわかる方法で。そのうち降り積もる年月が、「いやーあの頃は若かった!」と原田さんのように笑える私を作るだろうかと、今から少し楽しみです。
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