三連休一日目・未明。
頻繁に会わない人と電話にて。会うスパンがどんどん長くなってきているので、何かを伝えようと思うとき、肝心なのはその「何か」なのに、「何か」に至るまでの詳細をいちいち説明しなきゃいけないことにハタと気付き、そのプロセスをねぶねぶと再生するうちにどうしようもない違和感を感じた。コレうちの会社にいなきゃわからないよな、と。
先週の木曜日、同じフロアで働く同期クンと仕事帰りにもんじゃ焼きを食べた。
身長185cmでスラリと足が長い同期クンはストライプのスーツを着て、ポケットチーフにカフス、先の尖った靴と、初めて彼を見た日は「ギャル男出身か?いけすかねえ」と思ったものだが、広島の山奥で素朴な青春時代(猪と対決、地元の田舎ヤクザにボコられる等)を送ったらしい話を聞き、「人は話してみないとわからんな」と思う。とはいえ、常に同じフロアにいるというのに、現在の私(と私の上司)の置かれている状況をまったく理解しておらず、「あのねえ…」と最初から説明したい衝動に駆られる。が、プカプカ煙草をふかす彼を眺めながらしめじとバターを一緒に焼いたりしているうちに、最初から説明したかった「何か」は宙に浮いたまま、煙草から昇る煙に紛れてどこかに消えてしまった(たぶん、どうでもよくなった)。
そんな木曜日を思い出しつつ電話は続く。
ここに「距離」があるからだろうか、と。受話器越しならまだマシで、媒体が文字(メール)だとその傾向はもっと強まる。とはいえ、電話の相手が同期クンと違うのは、「言わなくてもわかってる部分」が多いこと。言わなくてもわかっているのに"敢えて"コンタクトをとろうとして双方かしこまるから、説明+蛇足が増える。なぜそんなことになるかといえば、「言わなきゃわかってもらえない」人も世の中にはたくさんいるからで、そういう人を相手にしているうちに、「説明」というプロセスを踏めば見かけだけでもわかってもらえたような気分になるし、だからこそ私は「説明」にも価値がある気がしてて。
それでも久々にメールじゃなくて電話を通じてわかったことは、私には「言わなくてもわかってる部分」をかなり高いレベルで共有できてる人がたしかにいて、その稀有な関係はやはり稀有なものだな、と。生まれつき性質が似ているからか、それとも… と考えてひとつだけ思い当たることは、どう頑張っても本質が見えてしまうところで互いに「説明」を散々し合ってきた過去があるからか、と。私と相手がついに到達した地点に至るまでには、「説明」というプロセスも必要だった気がやはりする。
何が言いたいかというと、「距離」を保った状態で文字(たとえばメール)を媒体に語り合うことも、「距離」を挟まずにうんと近くで「あ・うん」で理解し合うことも、どちらがより素晴らしいという話ではなくて、どっちも関係性のレベルに応じて必要だということ。そして、「距離」を保った状態でしなきゃいけない手続きをある程度済ませたあとは、以前なら有効だった対話の方法も徐々に変えていかなければ互いに違和感が生まれるのだろうな、と。
わけのわからないことを言い出す人とも一緒に仕事をしなきゃいけない昨今、そういう人は違う星の住民かと思うこともある。だからこそ「交信」(説明)をしなきゃいけないわけだけど、同じ星に生きながら、さらに星が同じ位置に見えるくらい近い場所に立ちながら、きっと同じ夜空を見てるよねわたしたち、と実感し合える相手は貴重だな、と思う。
頻繁に会わない人と電話にて。会うスパンがどんどん長くなってきているので、何かを伝えようと思うとき、肝心なのはその「何か」なのに、「何か」に至るまでの詳細をいちいち説明しなきゃいけないことにハタと気付き、そのプロセスをねぶねぶと再生するうちにどうしようもない違和感を感じた。コレうちの会社にいなきゃわからないよな、と。
先週の木曜日、同じフロアで働く同期クンと仕事帰りにもんじゃ焼きを食べた。
身長185cmでスラリと足が長い同期クンはストライプのスーツを着て、ポケットチーフにカフス、先の尖った靴と、初めて彼を見た日は「ギャル男出身か?いけすかねえ」と思ったものだが、広島の山奥で素朴な青春時代(猪と対決、地元の田舎ヤクザにボコられる等)を送ったらしい話を聞き、「人は話してみないとわからんな」と思う。とはいえ、常に同じフロアにいるというのに、現在の私(と私の上司)の置かれている状況をまったく理解しておらず、「あのねえ…」と最初から説明したい衝動に駆られる。が、プカプカ煙草をふかす彼を眺めながらしめじとバターを一緒に焼いたりしているうちに、最初から説明したかった「何か」は宙に浮いたまま、煙草から昇る煙に紛れてどこかに消えてしまった(たぶん、どうでもよくなった)。
そんな木曜日を思い出しつつ電話は続く。
ここに「距離」があるからだろうか、と。受話器越しならまだマシで、媒体が文字(メール)だとその傾向はもっと強まる。とはいえ、電話の相手が同期クンと違うのは、「言わなくてもわかってる部分」が多いこと。言わなくてもわかっているのに"敢えて"コンタクトをとろうとして双方かしこまるから、説明+蛇足が増える。なぜそんなことになるかといえば、「言わなきゃわかってもらえない」人も世の中にはたくさんいるからで、そういう人を相手にしているうちに、「説明」というプロセスを踏めば見かけだけでもわかってもらえたような気分になるし、だからこそ私は「説明」にも価値がある気がしてて。
それでも久々にメールじゃなくて電話を通じてわかったことは、私には「言わなくてもわかってる部分」をかなり高いレベルで共有できてる人がたしかにいて、その稀有な関係はやはり稀有なものだな、と。生まれつき性質が似ているからか、それとも… と考えてひとつだけ思い当たることは、どう頑張っても本質が見えてしまうところで互いに「説明」を散々し合ってきた過去があるからか、と。私と相手がついに到達した地点に至るまでには、「説明」というプロセスも必要だった気がやはりする。
何が言いたいかというと、「距離」を保った状態で文字(たとえばメール)を媒体に語り合うことも、「距離」を挟まずにうんと近くで「あ・うん」で理解し合うことも、どちらがより素晴らしいという話ではなくて、どっちも関係性のレベルに応じて必要だということ。そして、「距離」を保った状態でしなきゃいけない手続きをある程度済ませたあとは、以前なら有効だった対話の方法も徐々に変えていかなければ互いに違和感が生まれるのだろうな、と。
わけのわからないことを言い出す人とも一緒に仕事をしなきゃいけない昨今、そういう人は違う星の住民かと思うこともある。だからこそ「交信」(説明)をしなきゃいけないわけだけど、同じ星に生きながら、さらに星が同じ位置に見えるくらい近い場所に立ちながら、きっと同じ夜空を見てるよねわたしたち、と実感し合える相手は貴重だな、と思う。
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