最後の日記です。

この日記は大学四年生の春に始めた。りんというハンドルネームは、直感で決めた。凛とした女性になりたい、という思いが(たしか)あったし、語感が自分で気に入っていた。

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この日記には起承転結がない。ただの「記録」である。

それ以上でもないし、それ以下でもない。

だけど当時の私にとって、この日記は“それ以上”であり、この日記がきっかけでたくさんの不思議な体験もした。

すべてが楽しい出来事だったわけではないが、この記録を納得いくかたちで終えておくことが、いつか振り返ったときに「素敵だ」もしくは「アホだ笑」と思えるために必要なことだと今は思う。
(地球は美しいことも醜いことも引っくるめてただ回っている。良いか悪いか、人間には永遠に絶対的判断を下すことができない。←最後らしく大袈裟な比喩で…)



とはいえ、過去を振り返るには材料が多すぎるので、現在の気持ちを書いて終えようと思う。

この日記のおかげでわかったことは、ずいぶん前から発症していた自分の病気について、である。

「躁うつ病」の特徴として、やる気もあって新しいことを始めるけど、気分にムラがあり、さらにひどくなると、「自分はすごい超能力がある」「選ばれた人間だ」などの誇大妄想が出たりするらしい。

プラスα、躁の時にしたことを思い出して自己嫌悪に陥ったり、多弁になり、相手を無視して喋りまくる。

人に依存しやすくなり、繋がりが断たれると動揺するが、本人に病識(自分が病気だという自覚)がないことが多く、快方への努力を薦める家族や友人をじゃま者扱いする。

私の場合、幸いにも病気の原因がハッキリしていたので、長い時間はかかったけど、快方へ向かっているだろう、と思う。(何しろ本人なので「完治」の基準はわからないが、きっと大丈夫。と書いておきたい。)

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「誇大妄想」の最たるものとして

夜中に白目を剥いて天の啓示を受けたような勢いがあり、それって自分で思い返してみても「明らかに変…」と断言できるけど、

私が、恵まれていたなあ…と思うのは、あそこまでひとつのこと(ひいては、ひとりの人)に究極的意味を見出してわき目もふらずに熱中できるってのは、世間からの許容と周囲のサポートがなければ決してできなかったと思うし、いわゆる社会的価値がいっさいなかったとしても、今はこれっぽっちの後悔もない。

後悔が無いかわりに、その過程で失ったもの(友だちとか、人からの信頼とか)も多く、そんだけ周りに迷惑かけてやり遂げたことが、失ったものに匹敵するくらいの結果を私にもたらしたかといえば、ぜんぜんそんなことなくて、むしろ「(現段階で)人生最大の挫折」とも言える気がしている。

繰り返すけど、私が、恵まれていたなあ…と思うのは、少なくとも自分自身に関していえば、

「音楽でも深く感動し、書物でも胸が高鳴る。理由は同じである。人生を発見して、自分が深くなったような気がするからである。それは錯覚(妄想)かもしれない。しかし自分を深めるのは、学歴でも地位でもない。どれだけ人生に感動したかである。」(曽野綾子/『うつを見つめる言葉』より 出典:「それぞれの山頂物語」)

…という言葉に集約されるのかもしれない。

私が最後まで「それでも生き続けることは、死ぬことより素晴らしい」と疑わずにすんだことは、本当の最後まで見放さないでくれた人たちのおかげであり、25歳までに私に与えられたことの中に良いものが多かったからだろう、と思っている。

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「人は恋をしたら賢明ではありえず、賢明であれば恋はできない」とはシルスの言葉だが、

恋に限定せずとも、若いという状態がそもそも賢明とはほど遠いだろう。だが賢明に近づく分だけできないことも増えていくのではないか。同時に、二度と見ることができないものも年齢とともに増えていくだろう。

目に見えないものが見えていた。たしかにここに記録されている。

それを愛おしいと思えるのは(私が認識できる限り)未来の自分だけだろう。もし、何らかのきっかけでここを訪れる人がいたら、万一その人に何らかのプラス(暇つぶしになるとか、固有名詞や情報が役だつとか)があったとしたらこんなに喜ばしいことはないし、今になって思うのは、そもそも人が他人にしてあげられることはすべて、それくらいの気持ちでやるのが結果的に一番良いのだろう、ということだ。

(歴史とは、ひとりの人間が能動的に刻むものではなく、自然に残ったものの中から後世が勝手に読み取るものなんだろう。って大袈裟に書くほど、これは大した記録ではないが…)

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今日、最後の日記を書き、私は(おそらく)二度と戻ってこないはずだけど、それは現実を生きるということだ。

私は文章を書くのが好きだし、今後も、抽象世界を愛している。

が、抽象世界に存在し得ない(だからこそ、抽象世界はときに絶対的に美しい)ものを全身に受けて生きていくのも悪くないし、「生きる」とはそういうことかもしれない、とも思っている。思うようになった。

思うに「家族」とは、(歴史と一緒で)個人が能動的に選んでいくものというより、結果的に残っているから、ああ一緒に生きているのね、と思える存在なのかもしれない。狭義での家族という意味を越えて、私がこれからも一緒に生きていくだろう人は、私の小さい認識を越えて、いつだって現実に、(文句を言いながらも)ただ存在し続けている。

現実を生きるといっても、べつに大したことはできない。(むしろ、“りん”の方がいつも立派なこと言ってる…)でも、がんばるよ。


この記録が愛おしいと思える日はいつか来るだろうが、やはり現段階で、この日記(抽象世界)が私はすでに格別に愛おしい。

ここを読んでくれる人に言いたいことは、当時の私が何を書いていようとも、今この文章を綴っている私が何を言おうとも、良いことも悪いことも引っくるめて私は「他者」を愛している。何がどうなっても、世界を、愛している。

信じていただきたい。


だから、きっと、事実は小説(抽象世界)より奇なり。

いつか、現実世界で、たまたま会いましょう。“貴方”(他者)を愛しています。

2007年9月29日
凛 拝

コメント

nophoto
サイヤ人
2007年9月30日1:46

いろいろ大変だったみたいだね。
現実の世界は嫌なこともたくさんあるけどガンバレ!
きっと大丈夫、がんばれるよ〜

おつかれさま〜♪

ぱでぃ
ぱでぃ
2007年9月30日3:30

りんさん
はじめまして。
あなたの日記が大好きでした。
現実世界であなたが幸せになれますように。
祈っています。
どうかお元気で。

道化
道化
2007年9月30日23:09

お久しぶりです&お疲れ様でした。道化です。
またいつか、現実世界で偶々。

僕は暫く、日記というにはあまりにもとりとめもない日記を止める事はないでしょうし、気分が乗ったらまた戻ってきてください。

らっと
らっと
2007年10月1日13:29

りんちゃん、いつ更新するのかなぁ…と思ってました。
今もステキにOL中?私はかろうじてOL中。
でも来年頭には、辞めようと思ってます。

ここの日記、気楽に書いちゃってもいいと思うよー。
私はいろんなことを吐き出すために、使ってるようなもの。
またいつでも戻っておいでー☆

Dr.ユー
Dr.ユー
2007年10月21日15:34

お久しぶりですね。
しばらくこっちに来ていなかったので見るのが遅くなってしまいました。
読んでて泣きそうになりました。
寂しいですがお互いこれからもいろいろ頑張りましょう!
いつでも戻ってきてくださいね。
それまでどうかお元気で。

あ、それから、きっと素敵な医者になってみせます!
それでは。。。

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