素敵な秘書への道険し
2006年9月7日コメント (2)新規事業部にて、新たに興す事業の業務フロー作成を依頼される。
まずは企画を出せ、と。企画はひとりでできること。企画ができたら打ち合わせ。ここからはマンパワーが入ってくるのでスケジューリングが発生する、と。打ち合わせが終わったら次は人員計画の概念が必要になる、と。ここまでできたら稼働可能。が、いざ始めると机上論が現実化するのでなにが不要だったかわかってくる、と。ここで「リストラ」が発生するんです、「リストラ」とは必ずしも人に対して適用される言葉ではないのですよりんさん、という専務の話をふむふむと聞く。
話は続く。
以上の一連の流れ(循環)は「企業の新陳代謝」といえる。なんとこれは自然のロジックと同じである、と。この流れがきちんとできているかどうかチェックするために年に一回時間をとめて会社をみる、これをなんというか知っていますかりんさん、決算ですか、その通り、「決算」とは新陳代謝をチェックすること、つまり、会社の健康診断なんですね、と。健康診断によって「儲け」がわかります、最終的にすべての部門損益がここ(「儲け」)にたどり着くわけです、と。
キーワードは、「現金」「在庫」「人員」である、と。循環がうまくいかないとき、それは「現金」に誤差が出たり、「在庫」の数が合わなかったり、「人材」が思うように動かないとき。日常の不可抗力で発生するこれら諸問題に対応するためには「ルール」が必要である、と。まずは営業のこと、経理のこと、庶務のこと、それらを頭に入れなさい、これらが頭に入ると「ルール」がわかってきます、「ルール」とは最大公約数のことですからね、と。
すっかり頭が沸騰したので、オフィスを出てアイスを食べる。
なんだかエライことになってきたなあ、と。某ターミナル駅周辺はやや整備されて、空がやけに高く見えた。大学を受験するときも(ちなみに私は文学部出身だ)、そして就職活動をするときも(最初は出版業界を攻めていた)、私は井戸の中から限定された空を見てたのかな。実体のないものを動かす気になれなかった(証券や生保・損保は受けなかった)からこそ、私はメーカーを志望したし、また、目に見えるサービスを提供したかったんだな、と。"モノ作りとモノ売り"がしたかった。
"モノ作りとモノ売り"のほんの一部分、つまりひとりでできる「企画」の部分だけを、まるで切り取られた空のように見てたのかな、と。某ターミナル駅の空は、区切られた街や敷かれた線路を無視して、遙か、遙か、ずーっと遠くまで広がっている。山を越えて。海さえ越えて。
終業後、今月から新たに一緒になった同期・Mくん(関西から上京)とトーク@帰り道。
速水もこみちを善人っぽくアレンジしたような今どきのイケメン・Mくんに、これこれこんなわけなのだよ、という話をしたところ、「俺は、あさってから東京ねっていきなり言われてこっち来たんだぜ…」という拉致めいた話を聞かされ、そうか私の状況の方がまだマシだな、と笑う(←ヒドイ)。なんしか、お互い、ブランニュー・プレイス。
まずは企画を出せ、と。企画はひとりでできること。企画ができたら打ち合わせ。ここからはマンパワーが入ってくるのでスケジューリングが発生する、と。打ち合わせが終わったら次は人員計画の概念が必要になる、と。ここまでできたら稼働可能。が、いざ始めると机上論が現実化するのでなにが不要だったかわかってくる、と。ここで「リストラ」が発生するんです、「リストラ」とは必ずしも人に対して適用される言葉ではないのですよりんさん、という専務の話をふむふむと聞く。
話は続く。
以上の一連の流れ(循環)は「企業の新陳代謝」といえる。なんとこれは自然のロジックと同じである、と。この流れがきちんとできているかどうかチェックするために年に一回時間をとめて会社をみる、これをなんというか知っていますかりんさん、決算ですか、その通り、「決算」とは新陳代謝をチェックすること、つまり、会社の健康診断なんですね、と。健康診断によって「儲け」がわかります、最終的にすべての部門損益がここ(「儲け」)にたどり着くわけです、と。
キーワードは、「現金」「在庫」「人員」である、と。循環がうまくいかないとき、それは「現金」に誤差が出たり、「在庫」の数が合わなかったり、「人材」が思うように動かないとき。日常の不可抗力で発生するこれら諸問題に対応するためには「ルール」が必要である、と。まずは営業のこと、経理のこと、庶務のこと、それらを頭に入れなさい、これらが頭に入ると「ルール」がわかってきます、「ルール」とは最大公約数のことですからね、と。
すっかり頭が沸騰したので、オフィスを出てアイスを食べる。
なんだかエライことになってきたなあ、と。某ターミナル駅周辺はやや整備されて、空がやけに高く見えた。大学を受験するときも(ちなみに私は文学部出身だ)、そして就職活動をするときも(最初は出版業界を攻めていた)、私は井戸の中から限定された空を見てたのかな。実体のないものを動かす気になれなかった(証券や生保・損保は受けなかった)からこそ、私はメーカーを志望したし、また、目に見えるサービスを提供したかったんだな、と。"モノ作りとモノ売り"がしたかった。
"モノ作りとモノ売り"のほんの一部分、つまりひとりでできる「企画」の部分だけを、まるで切り取られた空のように見てたのかな、と。某ターミナル駅の空は、区切られた街や敷かれた線路を無視して、遙か、遙か、ずーっと遠くまで広がっている。山を越えて。海さえ越えて。
終業後、今月から新たに一緒になった同期・Mくん(関西から上京)とトーク@帰り道。
速水もこみちを善人っぽくアレンジしたような今どきのイケメン・Mくんに、これこれこんなわけなのだよ、という話をしたところ、「俺は、あさってから東京ねっていきなり言われてこっち来たんだぜ…」という拉致めいた話を聞かされ、そうか私の状況の方がまだマシだな、と笑う(←ヒドイ)。なんしか、お互い、ブランニュー・プレイス。
9月6日のうっふん日記
2006年9月6日コメント (2)専務と挨拶回り。
異動前から同じフロアにいたけど、こうして二人きりになるのは初めてだ。重い鞄を持っているのに渋谷の人混みをすいすい抜けていく専務を追いかける。「いろいろな方を見てきましたけど、仕事ができる人は歩くのも速い傾向がありますね。覚えておくといいですよ。」とのこと。歩きやすい靴を買おう。
小田急線車内にて。
私をずっと見ていたらしい専務いわく、私は内弁慶タイプだと。愛想よく振る舞い屈託なく笑うけど、本当は人と話したくないでしょ、と。本当は家でむずかしいこと考えてるでしょ、と。そして、揺るがないものを既に心に秘めてるでしょ、実は誰よりあなたは冷静だ、と。地下鉄より慣性の力が緩い気がする小田急線、専務の声とともに私を控えめに揺らしてた。
スモーカーの専務に駅地下でアイスコーヒーをご馳走になった後は、禁煙席に移動して早速むずかしいことを考える(笑)。
渋谷駅地下の喫茶室(セルフサービス)は穴場で、客のほとんどが休憩中のサラリーマン。専務とともにご挨拶した取引先は、「先生」と呼ばれる人の集まるところだった。法律、教育、医療、それらから離れた場所で就職活動をした私がここで酸味の強いホットコーヒーを飲むように、隣りで皿を空っぽにしたおじさんも今まで地道に働いてきたのかな、と。野菜ばかりよけて食べてた今日の「先生」を思い出す。
ひろくておおきい渋谷の駅地下にぎゅっと集まった「労働者」の中で、私も見事に馴染んでる。でも地上に出れば、やっぱりひろくておおきいよな、と。せまい喫茶室のすみっこでひそやかにアイスコーヒーを飲んだわけだが、喫茶室のあっちからこっちへ移動して今度はホットを飲む私。そういえば私は、接客をしたり、電卓を叩いたり、外回りをしたり、キャッチコピーを書いたり、校正をしたり、市場調査をしたり、マーケティング論を学ばせられたり、お茶を出したり。
禁煙と喫煙が曖昧な喫茶室のように境目のない場所に、家に帰ればゆく私。上司(専務ではない)から「就職活動中に○○業界を回ってたの?」「○○業界も回ってたでしょ?」「○○関係の本も好きでしょ?」と聞かれるたびに、正解もあれば不正解もあるな、と。私のバックにあるモヤモヤしたものの気配を感じているらしい上司たちも、なにもまったく根拠がない上でそんなことを言うはずもなく。私のバックのモヤモヤが原因で配属を決めかねているとまでは思えないけど、「うっふん」と(心の中で)笑いながら空っぽになるまでコーヒーを飲んだ。
異動前から同じフロアにいたけど、こうして二人きりになるのは初めてだ。重い鞄を持っているのに渋谷の人混みをすいすい抜けていく専務を追いかける。「いろいろな方を見てきましたけど、仕事ができる人は歩くのも速い傾向がありますね。覚えておくといいですよ。」とのこと。歩きやすい靴を買おう。
小田急線車内にて。
私をずっと見ていたらしい専務いわく、私は内弁慶タイプだと。愛想よく振る舞い屈託なく笑うけど、本当は人と話したくないでしょ、と。本当は家でむずかしいこと考えてるでしょ、と。そして、揺るがないものを既に心に秘めてるでしょ、実は誰よりあなたは冷静だ、と。地下鉄より慣性の力が緩い気がする小田急線、専務の声とともに私を控えめに揺らしてた。
スモーカーの専務に駅地下でアイスコーヒーをご馳走になった後は、禁煙席に移動して早速むずかしいことを考える(笑)。
渋谷駅地下の喫茶室(セルフサービス)は穴場で、客のほとんどが休憩中のサラリーマン。専務とともにご挨拶した取引先は、「先生」と呼ばれる人の集まるところだった。法律、教育、医療、それらから離れた場所で就職活動をした私がここで酸味の強いホットコーヒーを飲むように、隣りで皿を空っぽにしたおじさんも今まで地道に働いてきたのかな、と。野菜ばかりよけて食べてた今日の「先生」を思い出す。
ひろくておおきい渋谷の駅地下にぎゅっと集まった「労働者」の中で、私も見事に馴染んでる。でも地上に出れば、やっぱりひろくておおきいよな、と。せまい喫茶室のすみっこでひそやかにアイスコーヒーを飲んだわけだが、喫茶室のあっちからこっちへ移動して今度はホットを飲む私。そういえば私は、接客をしたり、電卓を叩いたり、外回りをしたり、キャッチコピーを書いたり、校正をしたり、市場調査をしたり、マーケティング論を学ばせられたり、お茶を出したり。
禁煙と喫煙が曖昧な喫茶室のように境目のない場所に、家に帰ればゆく私。上司(専務ではない)から「就職活動中に○○業界を回ってたの?」「○○業界も回ってたでしょ?」「○○関係の本も好きでしょ?」と聞かれるたびに、正解もあれば不正解もあるな、と。私のバックにあるモヤモヤしたものの気配を感じているらしい上司たちも、なにもまったく根拠がない上でそんなことを言うはずもなく。私のバックのモヤモヤが原因で配属を決めかねているとまでは思えないけど、「うっふん」と(心の中で)笑いながら空っぽになるまでコーヒーを飲んだ。
坂道でねえダーリン
2006年9月4日
遅ればせながら、9月2日(土)の日記。
「10時間ほど密室で待機」というミッションを仰せつかった本日、仕事中にもかかわらず、川上弘美の『センセイの鞄』(文春文庫)を最初から最後まで読む。
「センセイはゆっくりと杯を干し、手酌でふたたび杯を満たした。一合徳利をほんのちょっと傾け、とくとくと音をたててつぐ。杯すれすれに徳利を傾けるのではなく、卓上に置いた杯よりもずいぶん高い場所に徳利を持ち、傾ける。酒は細い流れをつくって杯に吸い込まれるように落ちてゆく。一滴もこぼれない。」という描写を読んだら、ふと、ある人に会いたくなった。「手酌」という言葉さえ知らなかった私に初めて日本酒を飲ませた人に。
ミッションを終え、タクシーに飛び乗り、「近いんですけど」と目的地を告げた。ワンメーター660円。時刻は午後九時。コンビニに寄って「GABA」を買う。
休日とはいえ、こんな時間にいるはずない。わかっちゃいたけど、ある人がいるはずないマンションのエントランスはやけに明るい。いる、いない、いる、いない、いる…と、花占いよろしく願いを込めて、オートロックされた部屋番号を押す。
買ったばかりの「GABA」と川上弘美の描写をおみやげに、せめてこれは置いていこう。郵便受けの密集するスペースにしゃがみこんで、否、四つんばいになって手紙を書く。郵便物を取りにきた住人に「ひィッ!」と怯えられること数回。封筒があればよかったけどそんなに準備はよくないので、お気に入りのティッシュカバー(赤のちりめん)の中をあけて、その中に。"ストレス社会で闘うあなたへ"。
帰りはお気に入りの街を抜けてゆく。今がいちばん賑やかな時刻のこの街は、ひとりで旅をした金沢の茶屋町に似てる。はじめての一人旅は、たしかちっとも楽しくなかった。兼六園から当時の彼氏に電話をした。兼六園から香林坊に抜け、私はスタバを見つけて入った。茶屋町、浅野川大橋、長町武家屋敷、それなりに物珍しかったけど、それなりだった。
坂を下る途中、前を歩く子ども(小学校低学年)が歌を歌った。
ねえダーリン こっちむいて♪
ダーリンじゃないよムーミンだよ!と心の中で突っ込む私をよそに、母に手を引かれる子どもは歌い続けた。母はなぜ訂正しないのだろう。
ねえダーリン こっちむいて
はずかしがらないで
モジモジしないで
おねんねネ
「あらまあ どして」
けど でも わかるけど
男の子でしょ
だから ねえ こっち向いて
ムーミンをダーリンに変えても妙に筋が通ってて可笑しくて、私は下を向いて笑った。
交差点をわたると出店があった。産地から来たばかりの桃を売る店。暗いのに、まだ売ってる。通り過ぎようとしたら、おねえさん、たのむよ、買ってよ、ねえ、買ってってよー、と懇願する兄ちゃんが。甘いならいいよ、甘いよ、ほんとなの、ほんとだって、というやりとりを信じたわけじゃないし、普段はこんな買い物しないけど。いっこ700円という高級桃(?)が、なんと3個で300円。しかたねえ。
桃3個をぶらさげて買える道すがら、こんなことを考えた。あれから二年経った今、もしかして金沢もすこし楽しいかもしれないな、と。"センセイ"と"ツキコさん"のあいだに流れるゆったりした空気がちょっと教えてくれたことは、人と人、街と人、とのあいだにはリズムがある、ってこと。ちょっと落ち着いてリズムを整えさえすれば、人とお酒を飲むことも街を歩くこともこんなに楽しい、ってこと。「ああー鍋がおいしい季節になる!」とそろそろ言い出すに違いない人に、手酌ではなく私が酌をする日が楽しみだ。
「10時間ほど密室で待機」というミッションを仰せつかった本日、仕事中にもかかわらず、川上弘美の『センセイの鞄』(文春文庫)を最初から最後まで読む。
「センセイはゆっくりと杯を干し、手酌でふたたび杯を満たした。一合徳利をほんのちょっと傾け、とくとくと音をたててつぐ。杯すれすれに徳利を傾けるのではなく、卓上に置いた杯よりもずいぶん高い場所に徳利を持ち、傾ける。酒は細い流れをつくって杯に吸い込まれるように落ちてゆく。一滴もこぼれない。」という描写を読んだら、ふと、ある人に会いたくなった。「手酌」という言葉さえ知らなかった私に初めて日本酒を飲ませた人に。
ミッションを終え、タクシーに飛び乗り、「近いんですけど」と目的地を告げた。ワンメーター660円。時刻は午後九時。コンビニに寄って「GABA」を買う。
休日とはいえ、こんな時間にいるはずない。わかっちゃいたけど、ある人がいるはずないマンションのエントランスはやけに明るい。いる、いない、いる、いない、いる…と、花占いよろしく願いを込めて、オートロックされた部屋番号を押す。
買ったばかりの「GABA」と川上弘美の描写をおみやげに、せめてこれは置いていこう。郵便受けの密集するスペースにしゃがみこんで、否、四つんばいになって手紙を書く。郵便物を取りにきた住人に「ひィッ!」と怯えられること数回。封筒があればよかったけどそんなに準備はよくないので、お気に入りのティッシュカバー(赤のちりめん)の中をあけて、その中に。"ストレス社会で闘うあなたへ"。
帰りはお気に入りの街を抜けてゆく。今がいちばん賑やかな時刻のこの街は、ひとりで旅をした金沢の茶屋町に似てる。はじめての一人旅は、たしかちっとも楽しくなかった。兼六園から当時の彼氏に電話をした。兼六園から香林坊に抜け、私はスタバを見つけて入った。茶屋町、浅野川大橋、長町武家屋敷、それなりに物珍しかったけど、それなりだった。
坂を下る途中、前を歩く子ども(小学校低学年)が歌を歌った。
ねえダーリン こっちむいて♪
ダーリンじゃないよムーミンだよ!と心の中で突っ込む私をよそに、母に手を引かれる子どもは歌い続けた。母はなぜ訂正しないのだろう。
ねえダーリン こっちむいて
はずかしがらないで
モジモジしないで
おねんねネ
「あらまあ どして」
けど でも わかるけど
男の子でしょ
だから ねえ こっち向いて
ムーミンをダーリンに変えても妙に筋が通ってて可笑しくて、私は下を向いて笑った。
交差点をわたると出店があった。産地から来たばかりの桃を売る店。暗いのに、まだ売ってる。通り過ぎようとしたら、おねえさん、たのむよ、買ってよ、ねえ、買ってってよー、と懇願する兄ちゃんが。甘いならいいよ、甘いよ、ほんとなの、ほんとだって、というやりとりを信じたわけじゃないし、普段はこんな買い物しないけど。いっこ700円という高級桃(?)が、なんと3個で300円。しかたねえ。
桃3個をぶらさげて買える道すがら、こんなことを考えた。あれから二年経った今、もしかして金沢もすこし楽しいかもしれないな、と。"センセイ"と"ツキコさん"のあいだに流れるゆったりした空気がちょっと教えてくれたことは、人と人、街と人、とのあいだにはリズムがある、ってこと。ちょっと落ち着いてリズムを整えさえすれば、人とお酒を飲むことも街を歩くこともこんなに楽しい、ってこと。「ああー鍋がおいしい季節になる!」とそろそろ言い出すに違いない人に、手酌ではなく私が酌をする日が楽しみだ。
新人マーチ
2006年9月3日
休日出勤フゥー☆
仕事とはまったく関係ありませんが、原田宗典の『新人だった!』(角川書店)を電車内で読了。
原田宗典という作家に出会ったのは中学1年−12歳の頃。群れを離れて学級文庫ばかり読んでいたシューベルトそっくりのクラスメイトに、「何読んでるの?」と尋ねたのがきっかけだ。そのとき見せられた『大サービス』(集英社刊)というハードカバーは今も私の本棚にありますが、なにしろ学級文庫から失敬したものなので、でかでかと「平成○年度バザー基金図書・○○市立○○中学校」と表紙に貼ってあるのがちょいと傷です(もう時効?)。
彼の新刊が出るたびにチェックするようになった。5冊、10冊、20冊…古いものも新しいものも含め、本棚に徐々に著作が増えていった。10代後半から20代にかけてゲキドーの青春を送ったらしい原田さんは、義務教育の最中にあった私のアイドルだった。父親が博打で多額の借金をこさえて一家離散という状況で、弱冠19歳だった原田青年は、どんな苦悩やどんな窮乏やどんな困難があっても、どうせ全部小説にしてやるんだもんね、というスタンスで生きたそうな。早稲田の一文に通いながら、生活費も家賃も学費も、すべて自分で賄ったという。
ちょうど思春期だった私は、「若いときの苦労は買ってでもしろ」と熱く語る原田さんの影響をモロに受けた気がします。浪人までして早稲田の一文に入ろうとしたのもおそらくそのせいだ。早稲田に入れば原田さんのような人がうじゃうじゃいると思っていた(←すごい偏見)。恵まれた環境で蝶よ花よと育てられた私は、自分の生い立ちに感謝しつつも家が疎ましく、たとえものすごいしっぺ返しを受けるとしても、身一つで生きてみたかった。とはいえ、自分がそんな風にフットワーク軽く生きることに関しては早々と諦めていた節があり、それならばせめてと、そのように生きる人と触れようとした。世間知らずの娘にとって、原田さんの描く早稲田はひどく魅力的でした。
卒論とフランス語の単位を残して留年した原田青年は、「宣伝会議」が開催するコピーライター養成講座に通いながら、コピーライター・岩永嘉弘氏のもとでアシスタントとして働き、その傍らでちまちまと小説を書いていたという。岩永氏はかなり厳しいタイプのお師匠さまで、毎日のように何かしら叱られたらしい。コピーライティングに関してばかりではなく、電話の応対や請求書の書き方、机上の整理、文字の汚さに至るまで、みっちり仕込まれて毎日ヘトヘトだったという。原田さんいわく「ぼくはまだ二十代の前半で、若々しい力と発想に溢れていたし、何も失うものがなかった。」と。
ここからは、私の話。
月曜以降本格化する私の新しい業務。「たぶん、三・四回は泣くと思いますよ」としょっぱなからいきなり恐ろしいことを言い出す上司に付き、私は原田さんのように生きられるだろうかと、若干、いや、大いに不安です。
が、自分のしでかしたことがすべて自分に返ってくる環境を、私は、今思えばずいぶん昔(原田さんを読み始めた頃)から望んでた。ハードワークをこなしながらときに「やってられねーぜ」とボヤきつつ、最後には「なーんちゃって!」となんでもないことのように笑える男に、いや、私は女ですが、なりたかった。失うものがなにもないかといえばそうでもなくて、それを私は性別や生い立ちのせいにしてたけど、重すぎた腰を上げる日も近い。観念的には今にはじまったことじゃありませんが、今度は誰の目にもそれとわかる方法で。そのうち降り積もる年月が、「いやーあの頃は若かった!」と原田さんのように笑える私を作るだろうかと、今から少し楽しみです。
仕事とはまったく関係ありませんが、原田宗典の『新人だった!』(角川書店)を電車内で読了。
原田宗典という作家に出会ったのは中学1年−12歳の頃。群れを離れて学級文庫ばかり読んでいたシューベルトそっくりのクラスメイトに、「何読んでるの?」と尋ねたのがきっかけだ。そのとき見せられた『大サービス』(集英社刊)というハードカバーは今も私の本棚にありますが、なにしろ学級文庫から失敬したものなので、でかでかと「平成○年度バザー基金図書・○○市立○○中学校」と表紙に貼ってあるのがちょいと傷です(もう時効?)。
彼の新刊が出るたびにチェックするようになった。5冊、10冊、20冊…古いものも新しいものも含め、本棚に徐々に著作が増えていった。10代後半から20代にかけてゲキドーの青春を送ったらしい原田さんは、義務教育の最中にあった私のアイドルだった。父親が博打で多額の借金をこさえて一家離散という状況で、弱冠19歳だった原田青年は、どんな苦悩やどんな窮乏やどんな困難があっても、どうせ全部小説にしてやるんだもんね、というスタンスで生きたそうな。早稲田の一文に通いながら、生活費も家賃も学費も、すべて自分で賄ったという。
ちょうど思春期だった私は、「若いときの苦労は買ってでもしろ」と熱く語る原田さんの影響をモロに受けた気がします。浪人までして早稲田の一文に入ろうとしたのもおそらくそのせいだ。早稲田に入れば原田さんのような人がうじゃうじゃいると思っていた(←すごい偏見)。恵まれた環境で蝶よ花よと育てられた私は、自分の生い立ちに感謝しつつも家が疎ましく、たとえものすごいしっぺ返しを受けるとしても、身一つで生きてみたかった。とはいえ、自分がそんな風にフットワーク軽く生きることに関しては早々と諦めていた節があり、それならばせめてと、そのように生きる人と触れようとした。世間知らずの娘にとって、原田さんの描く早稲田はひどく魅力的でした。
卒論とフランス語の単位を残して留年した原田青年は、「宣伝会議」が開催するコピーライター養成講座に通いながら、コピーライター・岩永嘉弘氏のもとでアシスタントとして働き、その傍らでちまちまと小説を書いていたという。岩永氏はかなり厳しいタイプのお師匠さまで、毎日のように何かしら叱られたらしい。コピーライティングに関してばかりではなく、電話の応対や請求書の書き方、机上の整理、文字の汚さに至るまで、みっちり仕込まれて毎日ヘトヘトだったという。原田さんいわく「ぼくはまだ二十代の前半で、若々しい力と発想に溢れていたし、何も失うものがなかった。」と。
ここからは、私の話。
月曜以降本格化する私の新しい業務。「たぶん、三・四回は泣くと思いますよ」としょっぱなからいきなり恐ろしいことを言い出す上司に付き、私は原田さんのように生きられるだろうかと、若干、いや、大いに不安です。
が、自分のしでかしたことがすべて自分に返ってくる環境を、私は、今思えばずいぶん昔(原田さんを読み始めた頃)から望んでた。ハードワークをこなしながらときに「やってられねーぜ」とボヤきつつ、最後には「なーんちゃって!」となんでもないことのように笑える男に、いや、私は女ですが、なりたかった。失うものがなにもないかといえばそうでもなくて、それを私は性別や生い立ちのせいにしてたけど、重すぎた腰を上げる日も近い。観念的には今にはじまったことじゃありませんが、今度は誰の目にもそれとわかる方法で。そのうち降り積もる年月が、「いやーあの頃は若かった!」と原田さんのように笑える私を作るだろうかと、今から少し楽しみです。
循環
2006年9月1日オフィスを移ることになりました。
生まれて初めて参加した合コンもたしかここだったなあ、と。大学一年生だった。あの日、私は(ほぼ)初めてこの街に降りたって、道幅の広さと人のあまりの多さに閉口した。わたしの服はダサくないかしらということばかり気になって、鏡ばかり見ていた。郊外から出てきたばかりの私には、当時、この街がものすごく刺激的だった。この街で飲むというだけで、少し大人になった気がしてた。
新しい職場は、私と同じように異動してきたばかりの人、他社からヘッドハントされた人、などなど、わたしたちどういう因果でここに、という「一期一会」を感じられる場所。ここで新規事業を興す。
帰る途中、ちょっと遠回りして、昔バイトしてた店に顔を出しました。当時のメンバーもまだたくさん残ってて、店内もあまり変わってなかった。変わったのは私だった。ついさっきまですまし声で電話に出たりしてたのに、この店に来たら「ちょっとアンタたち、がんばってんのォ!?」と姉さん気取り。そのギャップが自分で可笑しくて。
私がついていくことになった専務(とてもダンディで穏やか)はおっしゃいました。「りんさん、私がいなくなっても平気なように私は頑張るんです」と。「いつまでも同じ人間がリーダーじゃ組織は駄目なんです」と。専務がそんなことを言うなんて、専属秘書の私は少し悲しい。
「んもうこの子たちわあ。あたしがいなきゃだめなんだからこの子たちわあ」と育てた(つもりの)バイトの後輩たちが、今は当時の私より昇格してて。店は滞りなく回ってて。
秋になって冬が近づくとこの街は華やかになる。舞い戻ったこの街のイルミネーションを見るのは今年で五回目になるけど、当時のままのものはほとんど残ってない。岩井克人は、著書『貨幣論』の中で「貨幣が貨幣であるためには、それは人間による日々の売り買いによってよって、たえず貨幣として確認され、たえず貨幣として更新されていかなければならない。」と語る。先日買って部屋に飾ったガーベラも、水を頻繁に変えてやらないとすぐに茎が腐ってしまう。
唐突な気がするけど、変化を恐れず、当時の街にいながら、ここではないどこかへ、わたしも。
仕事にも精が出る 金曜の午後
タクシーもすぐつかまる 飛び乗る 目指すは君
風にまたぎ月へ登り
僕の席は君の隣り
ふいに我に返りクラリ
春の夜の夢のごとし
Traveling 君を Traveling 乗せて
アスファルトを照らすよ
Traveling どこへ Traveling 行くの?
遠くなら何処へでも
Traveling 胸を Traveling 寄せて
いつもより目立っちゃおう
Traveling ここは Traveling いやよ
目的地はまだだよ
(宇多田ヒカル・「Traveling」より)
生まれて初めて参加した合コンもたしかここだったなあ、と。大学一年生だった。あの日、私は(ほぼ)初めてこの街に降りたって、道幅の広さと人のあまりの多さに閉口した。わたしの服はダサくないかしらということばかり気になって、鏡ばかり見ていた。郊外から出てきたばかりの私には、当時、この街がものすごく刺激的だった。この街で飲むというだけで、少し大人になった気がしてた。
新しい職場は、私と同じように異動してきたばかりの人、他社からヘッドハントされた人、などなど、わたしたちどういう因果でここに、という「一期一会」を感じられる場所。ここで新規事業を興す。
帰る途中、ちょっと遠回りして、昔バイトしてた店に顔を出しました。当時のメンバーもまだたくさん残ってて、店内もあまり変わってなかった。変わったのは私だった。ついさっきまですまし声で電話に出たりしてたのに、この店に来たら「ちょっとアンタたち、がんばってんのォ!?」と姉さん気取り。そのギャップが自分で可笑しくて。
私がついていくことになった専務(とてもダンディで穏やか)はおっしゃいました。「りんさん、私がいなくなっても平気なように私は頑張るんです」と。「いつまでも同じ人間がリーダーじゃ組織は駄目なんです」と。専務がそんなことを言うなんて、専属秘書の私は少し悲しい。
「んもうこの子たちわあ。あたしがいなきゃだめなんだからこの子たちわあ」と育てた(つもりの)バイトの後輩たちが、今は当時の私より昇格してて。店は滞りなく回ってて。
秋になって冬が近づくとこの街は華やかになる。舞い戻ったこの街のイルミネーションを見るのは今年で五回目になるけど、当時のままのものはほとんど残ってない。岩井克人は、著書『貨幣論』の中で「貨幣が貨幣であるためには、それは人間による日々の売り買いによってよって、たえず貨幣として確認され、たえず貨幣として更新されていかなければならない。」と語る。先日買って部屋に飾ったガーベラも、水を頻繁に変えてやらないとすぐに茎が腐ってしまう。
唐突な気がするけど、変化を恐れず、当時の街にいながら、ここではないどこかへ、わたしも。
仕事にも精が出る 金曜の午後
タクシーもすぐつかまる 飛び乗る 目指すは君
風にまたぎ月へ登り
僕の席は君の隣り
ふいに我に返りクラリ
春の夜の夢のごとし
Traveling 君を Traveling 乗せて
アスファルトを照らすよ
Traveling どこへ Traveling 行くの?
遠くなら何処へでも
Traveling 胸を Traveling 寄せて
いつもより目立っちゃおう
Traveling ここは Traveling いやよ
目的地はまだだよ
(宇多田ヒカル・「Traveling」より)
秘書の戯れ言 vol.3
2006年8月29日
平川克美の『反戦略的ビジネスのすすめ』(洋泉社)読了。
私は我が社の経営のトップ陣を毎日見ています。小さい会社ですが、小さいながらも事業は全国規模になり、それでもやっぱりまだまだ小さくて、小さいからこそまるで箱庭を上から眺めるように「会社とは、ビジネスとは、なにか」という命題に触れるのが容易だともいえます。
国民経済という枠組みのなかでは、生活のレベルで今日より明日はより良くなるだろうという進歩の幅が確実に小さくなり、もはや"のりしろ"がほとんどなくなるほどに成長を遂げたようです。「必要は供給の培地」であることを終え、生産者(供給者)は人々の欲望に点火することで需要をむりくり創出します。ニーズが満たされているのになお必要なものはたしかに存在し、それはお金では買うことができないもの(他者からの尊敬とか承認)です。本来はお金で買えなかったもの、つまり、通常は流通しなかったものに市場性を持たせることが、消費資本主義における最後のマーケティング課題になった
…と、上記は平川さんがおっしゃったことですが。
伸び盛りの弊社の売上実績を見る限り、社長は「デキる人」に違いありません。社長の経営哲学に(おそらく)心酔した創業メンバーも、皆、私のそばにいます。経営のトップらは経営について(おそらく)正しいことを言うのですが、たとえそれがものすごく正しいことだとしても、それこそ私みたいな小娘の鼻なんて簡単にへし折れるくらい正しいことだとしても、「正しくてもやりたくない」という謎の感情を私たち社員に抱かせちゃってるのが甚だ不思議であります。
平川さんいわく、起業家が起業家であるためには、自分がどのようにして価値を作り出し、自分の作り出すどのような価値がお金と交換されるのかについてのヴィジョンを持ち続けなければならないはずだ、と。つまり、事業から収入を得るという当たり前の認識を常に持ち続ける必要があるということ。なぜなら、お金でお金を交換したりしはじめた瞬間から、起業家は起業家から別のものになりはじめるから。起業して、お金持ちになって、で、結局どうしたいの?という問いに、明確に答え続ける必要性があるそうで。
会社が創業者の個人的な思いから離れ、やがてひとつの共同体・仲間(カンパニー)として機能していくためには、チーム全員が共有できる「意欲の源泉」が必須だそうで。「意欲の源泉」を見いだせるような「場」を共有できなければ、トップは「財貨」「昇進」「権力」などのインセンティブを切り売りし、やがて会社は収益措置になっていくのです、と。
かといって、なにも、我が社がそういう状態(収益措置)に向かって突っ走っていると言いたいわけではなく。なぜなら、新人の私には見えない部分もわからないことも多すぎて、どうがむしゃらに働いても本を読んでも、「若造の甘い戯れ言」から離れられない前提があるんですね。脆弱な前提の上に立つ理論(この日記)を、たとえ平川さんの文章でどれだけ補強しても…げ、限界が。
ただ、冒頭で書いたように、そろそろ飽和をむかえたこの日本で、つまり、未開拓市場(残っているのかしらん)に潜む埋蔵資源への利益獲得競争というすさまじい様相を呈したこの状態だからこそ、「それでも、なお、モノとサービスを!」と思えた哲学と、その哲学に共感できるだけの"言葉(ノンバーバルでもけっこう)"を、私は欲している気がします。日本人が共有する高度経済成長期の記憶もやや遠くなり、失われた十年を経て、就職氷河期もいつしか終わろうとしている今、もしかしたら景気が良くなろうとしているかもしれない今、ここ数年のあいだに期間限定で発生した私たち新卒は、もしかしたら期間限定かもしれない稀有な就職観を持っているのかもしれないなあ、なんて、私と同じように働くようになった学生時代の友達のブログを読むと思います。
私は我が社の経営のトップ陣を毎日見ています。小さい会社ですが、小さいながらも事業は全国規模になり、それでもやっぱりまだまだ小さくて、小さいからこそまるで箱庭を上から眺めるように「会社とは、ビジネスとは、なにか」という命題に触れるのが容易だともいえます。
国民経済という枠組みのなかでは、生活のレベルで今日より明日はより良くなるだろうという進歩の幅が確実に小さくなり、もはや"のりしろ"がほとんどなくなるほどに成長を遂げたようです。「必要は供給の培地」であることを終え、生産者(供給者)は人々の欲望に点火することで需要をむりくり創出します。ニーズが満たされているのになお必要なものはたしかに存在し、それはお金では買うことができないもの(他者からの尊敬とか承認)です。本来はお金で買えなかったもの、つまり、通常は流通しなかったものに市場性を持たせることが、消費資本主義における最後のマーケティング課題になった
…と、上記は平川さんがおっしゃったことですが。
伸び盛りの弊社の売上実績を見る限り、社長は「デキる人」に違いありません。社長の経営哲学に(おそらく)心酔した創業メンバーも、皆、私のそばにいます。経営のトップらは経営について(おそらく)正しいことを言うのですが、たとえそれがものすごく正しいことだとしても、それこそ私みたいな小娘の鼻なんて簡単にへし折れるくらい正しいことだとしても、「正しくてもやりたくない」という謎の感情を私たち社員に抱かせちゃってるのが甚だ不思議であります。
平川さんいわく、起業家が起業家であるためには、自分がどのようにして価値を作り出し、自分の作り出すどのような価値がお金と交換されるのかについてのヴィジョンを持ち続けなければならないはずだ、と。つまり、事業から収入を得るという当たり前の認識を常に持ち続ける必要があるということ。なぜなら、お金でお金を交換したりしはじめた瞬間から、起業家は起業家から別のものになりはじめるから。起業して、お金持ちになって、で、結局どうしたいの?という問いに、明確に答え続ける必要性があるそうで。
会社が創業者の個人的な思いから離れ、やがてひとつの共同体・仲間(カンパニー)として機能していくためには、チーム全員が共有できる「意欲の源泉」が必須だそうで。「意欲の源泉」を見いだせるような「場」を共有できなければ、トップは「財貨」「昇進」「権力」などのインセンティブを切り売りし、やがて会社は収益措置になっていくのです、と。
かといって、なにも、我が社がそういう状態(収益措置)に向かって突っ走っていると言いたいわけではなく。なぜなら、新人の私には見えない部分もわからないことも多すぎて、どうがむしゃらに働いても本を読んでも、「若造の甘い戯れ言」から離れられない前提があるんですね。脆弱な前提の上に立つ理論(この日記)を、たとえ平川さんの文章でどれだけ補強しても…げ、限界が。
ただ、冒頭で書いたように、そろそろ飽和をむかえたこの日本で、つまり、未開拓市場(残っているのかしらん)に潜む埋蔵資源への利益獲得競争というすさまじい様相を呈したこの状態だからこそ、「それでも、なお、モノとサービスを!」と思えた哲学と、その哲学に共感できるだけの"言葉(ノンバーバルでもけっこう)"を、私は欲している気がします。日本人が共有する高度経済成長期の記憶もやや遠くなり、失われた十年を経て、就職氷河期もいつしか終わろうとしている今、もしかしたら景気が良くなろうとしているかもしれない今、ここ数年のあいだに期間限定で発生した私たち新卒は、もしかしたら期間限定かもしれない稀有な就職観を持っているのかもしれないなあ、なんて、私と同じように働くようになった学生時代の友達のブログを読むと思います。
ママの交通事故
2006年8月26日
江國香織の『神様のボート』(新潮文庫)を読む。金曜日に泊めてもらった友達に借りたもの。
この頃は山田詠美が胃にもたれる。角田光代は落ち込むし、唯川恵は読むとくしゃみが出る。この江國の代表作は、必ず戻るといって消えたパパを待つママと娘の物語。
仕事を終え、家に帰り、今日は私のママ(と呼んだことはないけど)と二人きり。私のパパ(と呼んだこともないけど)は今日の夕方大阪に発ち、またしばらく帰って来ません。
遅い夕食後、私はソファで江國を読み、母は100kmマラソンに挑んだアンガールズの特番を見てました。お風呂から出ると母はグラスでビールを飲み、私は平川克美を読みました。父がいなくても私は本を読むし、母はテレビとビールを楽しみます。けれど、こういう晩、私はきまって「待つ時間を食べて女は生きる」という文句(どこで聞いたのだろう)を思い出します。食べるべきものを家中にためこんで、"あたしのママ"は今日も綺麗です。
『神様のボート』の中で、登場人物のママは、昔、「骨ごと溶けるような恋」をした。その結果生まれた娘に、登場人物のママはこう言います。「あなたにもいつかああいうことが起こったら素敵ね」と。でもそのたびに、いかにもすまなそうに「おんなじことは起こるはずがないけれど。あなたのパパみたいな人は世界じゅうにただ一人だもの」と付け加える。
"あたしのママ"には古い友達がいて、その友達は好きでもない人と結婚して大失敗したそうな。この話をするたびに、「でも、おかあさんは、大好きな人と結婚したのに大失敗してるけど」と笑います。多くをつぎ込んで終えた"あたしのママ"流の子育ては若干成功の兆しを見せているのでは、と。"あたしのママ"が最終的に私に何を望んでいたのか、実は少しだけわかる気がしてるんです。
待つ時間を食べるのはやはりちょっぴり退屈だろうと思うので、こういう日は、お父さんを好きな理由をおしえて、なんて言ってみます。好きに理由はないでしょ、と母は言います。私は、理由はないけどあるよ、と。理由って、ひとつじゃなくて、パズルみたいにこまかいのがいくつも繋がってできるときもあるから、その理由になってないような全体の一部分でいいから知りたいの、たとえば、私は、うしろから見たときまっすぐでツヤツヤ光ってる髪がすき、そういうやつ、と言ってみると、母は、
当時、あんたのおとうさんは、徹夜で麻雀やって、昼はグーグー寝て、夜起きて、そのせいで顔が青白くて生気がなくて、なんか、そこがセクシーだった あと、くせっ毛がうねうねしててかわいかった
…と。(がくっ。)
いつの時代も恋は交通事故のようなものですね(避けられない。そして、大怪我)。
この頃は山田詠美が胃にもたれる。角田光代は落ち込むし、唯川恵は読むとくしゃみが出る。この江國の代表作は、必ず戻るといって消えたパパを待つママと娘の物語。
仕事を終え、家に帰り、今日は私のママ(と呼んだことはないけど)と二人きり。私のパパ(と呼んだこともないけど)は今日の夕方大阪に発ち、またしばらく帰って来ません。
遅い夕食後、私はソファで江國を読み、母は100kmマラソンに挑んだアンガールズの特番を見てました。お風呂から出ると母はグラスでビールを飲み、私は平川克美を読みました。父がいなくても私は本を読むし、母はテレビとビールを楽しみます。けれど、こういう晩、私はきまって「待つ時間を食べて女は生きる」という文句(どこで聞いたのだろう)を思い出します。食べるべきものを家中にためこんで、"あたしのママ"は今日も綺麗です。
『神様のボート』の中で、登場人物のママは、昔、「骨ごと溶けるような恋」をした。その結果生まれた娘に、登場人物のママはこう言います。「あなたにもいつかああいうことが起こったら素敵ね」と。でもそのたびに、いかにもすまなそうに「おんなじことは起こるはずがないけれど。あなたのパパみたいな人は世界じゅうにただ一人だもの」と付け加える。
"あたしのママ"には古い友達がいて、その友達は好きでもない人と結婚して大失敗したそうな。この話をするたびに、「でも、おかあさんは、大好きな人と結婚したのに大失敗してるけど」と笑います。多くをつぎ込んで終えた"あたしのママ"流の子育ては若干成功の兆しを見せているのでは、と。"あたしのママ"が最終的に私に何を望んでいたのか、実は少しだけわかる気がしてるんです。
待つ時間を食べるのはやはりちょっぴり退屈だろうと思うので、こういう日は、お父さんを好きな理由をおしえて、なんて言ってみます。好きに理由はないでしょ、と母は言います。私は、理由はないけどあるよ、と。理由って、ひとつじゃなくて、パズルみたいにこまかいのがいくつも繋がってできるときもあるから、その理由になってないような全体の一部分でいいから知りたいの、たとえば、私は、うしろから見たときまっすぐでツヤツヤ光ってる髪がすき、そういうやつ、と言ってみると、母は、
当時、あんたのおとうさんは、徹夜で麻雀やって、昼はグーグー寝て、夜起きて、そのせいで顔が青白くて生気がなくて、なんか、そこがセクシーだった あと、くせっ毛がうねうねしててかわいかった
…と。(がくっ。)
いつの時代も恋は交通事故のようなものですね(避けられない。そして、大怪我)。
華
2006年8月25日
職場近くの花屋にて。
私の母親は本当に花が好きで、特に切り花より鉢植えや観葉植物を好む人です。リビングには主に蘭、シンビジウム、オンシジウム、ファレノプシス、カトレア、デンファレ。階段にはアンスリウム、幸福の木、スパティフィラム。ダイニングにはベンジャミン、セントポーリアetc…。家に花があふれているのが当たり前でした。
母が「みて、今年はカトレアに花芽がついたの!」とはしゃいでも、それがどれだけすごいことなのかわからず、私も父も「ふうん」と答えるばかり。母にはいつも「あんたら親子は情緒がない!」と罵られたものですが、幼い私にとって、花は「たまに見る美しいもの」ではなく「いつもそこにあるもの」だったから。
就職して家にお金を入れるようになった頃(といっても最近だけど)からか、私と両親のあいだには僅かばかりの距離ができて、家に帰ってもなぜか自分の居場所じゃないような気がして、たまにどこかに行きたくなります。どこかに行かなきゃいけないような。
仕事場からの帰り道、週末だけ少し遅くまで開いている花屋があって、私は金曜の夜、たまにそこを覗きます。特に花が好きだという認識のなかった私ですが、生活の大半を占める職場での日々に花がないのがなにか辛いような気がして、なんとなく行くようになって。
私がいつか母の元を離れても、そこには花があるような気がします。
花の名前も花言葉もろくに知らない私なので、こんなことを母に話したら「まさか!」と笑う気がするけど、ほぼ予感ではなく確信として。
いつでもどこにも馴染めなかったと昔を語る母は、小説や日記や詩を書くのが好きで、やや厭世的で。ただ、私は鉢植えより切り花の方が好きだし、必ずしも人間より自然の方が素晴らしいとも思わないし、「だったら別々に暮らしましょう」という提案をいつかしても、花がないのはいやだなという気がする。もともとそういう性質があったのか、育った環境によるものか、そこらへんは曖昧だけど。
金曜の今夜、大学時代の友人に会うのでめずらしく花を買いました。そのコのイメージで選んだガーベラを一晩の宿代にと、透明フィルムとオレンジのリボンをかけてもらって。
「花言葉」は、英国のエリザベス朝からヴィクトリア朝時代にかけて、貴婦人が秘めた思いを花に託し恋などを楽しむことで発展したことが起源とされているそうですが、人に花を贈る風習がもっとポピュラーになればいいのに、と思います。卒業とか、引退とか、そういう特別な場面じゃなく、なんでもない日に唐突に「はい」って。もちろん花言葉も意識して。
私の母親は本当に花が好きで、特に切り花より鉢植えや観葉植物を好む人です。リビングには主に蘭、シンビジウム、オンシジウム、ファレノプシス、カトレア、デンファレ。階段にはアンスリウム、幸福の木、スパティフィラム。ダイニングにはベンジャミン、セントポーリアetc…。家に花があふれているのが当たり前でした。
母が「みて、今年はカトレアに花芽がついたの!」とはしゃいでも、それがどれだけすごいことなのかわからず、私も父も「ふうん」と答えるばかり。母にはいつも「あんたら親子は情緒がない!」と罵られたものですが、幼い私にとって、花は「たまに見る美しいもの」ではなく「いつもそこにあるもの」だったから。
就職して家にお金を入れるようになった頃(といっても最近だけど)からか、私と両親のあいだには僅かばかりの距離ができて、家に帰ってもなぜか自分の居場所じゃないような気がして、たまにどこかに行きたくなります。どこかに行かなきゃいけないような。
仕事場からの帰り道、週末だけ少し遅くまで開いている花屋があって、私は金曜の夜、たまにそこを覗きます。特に花が好きだという認識のなかった私ですが、生活の大半を占める職場での日々に花がないのがなにか辛いような気がして、なんとなく行くようになって。
私がいつか母の元を離れても、そこには花があるような気がします。
花の名前も花言葉もろくに知らない私なので、こんなことを母に話したら「まさか!」と笑う気がするけど、ほぼ予感ではなく確信として。
いつでもどこにも馴染めなかったと昔を語る母は、小説や日記や詩を書くのが好きで、やや厭世的で。ただ、私は鉢植えより切り花の方が好きだし、必ずしも人間より自然の方が素晴らしいとも思わないし、「だったら別々に暮らしましょう」という提案をいつかしても、花がないのはいやだなという気がする。もともとそういう性質があったのか、育った環境によるものか、そこらへんは曖昧だけど。
金曜の今夜、大学時代の友人に会うのでめずらしく花を買いました。そのコのイメージで選んだガーベラを一晩の宿代にと、透明フィルムとオレンジのリボンをかけてもらって。
「花言葉」は、英国のエリザベス朝からヴィクトリア朝時代にかけて、貴婦人が秘めた思いを花に託し恋などを楽しむことで発展したことが起源とされているそうですが、人に花を贈る風習がもっとポピュラーになればいいのに、と思います。卒業とか、引退とか、そういう特別な場面じゃなく、なんでもない日に唐突に「はい」って。もちろん花言葉も意識して。
りんの夏休み3
2006年8月21日
8月21日 天気 晴れ
地元の映画館で『日本沈没』(のつづき)鑑賞。
なんでこんなにこの映画にこだわるのかといえば特にこれといった理由はないのですが、ラブロマンスとコメディの次に気になるのはパニック映画、という性質によるものかもしれない。私はあまり映画館に足を運ぶタイプではなく、そんな私があえて大画面で見ようかなと積極的になる映画には、このようなパニック物が多いことについ最近気付きました。すっごい古いところだと『タイタニック』(って書くのはなんか恥ずかしい。この感情はなんだろう?)、かなり前だと『ドラゴンヘッド』『宇宙戦争』、やや最近なら『大停電の夜』『キング・コング』など。
「わーすっげー」と拳を握ってるかといえば実はそうでもなく、むしろ、「うーこわい見とうない見とうない」と指と指の隙間から画面をのぞき見る、というくらいの根性なしです。今回の映画でいえば、大阪の道頓堀一帯が水没しているシーンや、函館の港を津波がどどーんと襲うシーンなど、自分の住む国がみるみる破壊されていく映像を見て、たとえ作り物と知ってはいても、そんな、「わーすっげー」と興奮できるほど自分は悪趣味じゃないと信じてます。
パニック物を観るたびに、上映中、必ず思うことがあります。
もし わたしが あそこにいたら いったい何をしたいと思うかしら?
疑似体験とはいえ、極限状態に追いつめられないと考えないことを煮詰めるために、私は映画館に足を運ぶのかもしれません。
日本は(今のところ)平和なので、平和の上にどんどん積み上がったものを自分の気が済むまで突き詰めることができます。それは趣味とか、ライフワークとか、使命とか、色々な言葉に置き換えられます。ある人にとってはただの趣味でも、ある人にとっては仕事とリンクしていたり、仕事が高じて生き甲斐になる場合もあります。たまに思うのは、これらに没頭するのはまるでルーペをのぞくようなもので、仕事やライフワークは個人への負担や影響が大きいゆえにそれらが本来より深刻な意味を持つことがある、ということ。だから、極限状態にならない限り忘れてしまうこともあると思うのです。
画面上で火山が噴火し、地面が裂け、海が荒れ、そんな中、「もしわたしがあそこにいたらいったい何をしたいと思うかしら?」と考えました。「レスキュー隊に所属して人命救助をしたい」という大層なことを自らの使命にできたらどんなに素敵だろう、とも思います。実は警察官になりたいと切望したこともあります。その熱い痕跡は今も私の心にありますが、もう少し違った角度の視点もあります。
私の好きなことは誰かに褒められる類のものとは必ずしも言いきれませんが、好きなことにムリヤリ立派な理由付けをせずとも、100年後、私は確実にこの世にいないから。たとえば花火が一瞬だけ夢みたいに輝くように、あとから「光ったのは何か意味があったの?」と問えば、「人を楽しませるため」とかいくらでも言いようはありますが、今私が好きでやっていることに意味があっても、なくても、今回の映画の主人公・小野寺(草?剛)の母が強がるでもなく「あの頃が、いっちばん、楽しかった」と背筋を伸ばして笑ったように、私もいつか微笑むことができる気が、少しだけ、します。
好きなことを好きなように。問題は人から見てほどほどかどうか、というところですね。
地元の映画館で『日本沈没』(のつづき)鑑賞。
なんでこんなにこの映画にこだわるのかといえば特にこれといった理由はないのですが、ラブロマンスとコメディの次に気になるのはパニック映画、という性質によるものかもしれない。私はあまり映画館に足を運ぶタイプではなく、そんな私があえて大画面で見ようかなと積極的になる映画には、このようなパニック物が多いことについ最近気付きました。すっごい古いところだと『タイタニック』(って書くのはなんか恥ずかしい。この感情はなんだろう?)、かなり前だと『ドラゴンヘッド』『宇宙戦争』、やや最近なら『大停電の夜』『キング・コング』など。
「わーすっげー」と拳を握ってるかといえば実はそうでもなく、むしろ、「うーこわい見とうない見とうない」と指と指の隙間から画面をのぞき見る、というくらいの根性なしです。今回の映画でいえば、大阪の道頓堀一帯が水没しているシーンや、函館の港を津波がどどーんと襲うシーンなど、自分の住む国がみるみる破壊されていく映像を見て、たとえ作り物と知ってはいても、そんな、「わーすっげー」と興奮できるほど自分は悪趣味じゃないと信じてます。
パニック物を観るたびに、上映中、必ず思うことがあります。
もし わたしが あそこにいたら いったい何をしたいと思うかしら?
疑似体験とはいえ、極限状態に追いつめられないと考えないことを煮詰めるために、私は映画館に足を運ぶのかもしれません。
日本は(今のところ)平和なので、平和の上にどんどん積み上がったものを自分の気が済むまで突き詰めることができます。それは趣味とか、ライフワークとか、使命とか、色々な言葉に置き換えられます。ある人にとってはただの趣味でも、ある人にとっては仕事とリンクしていたり、仕事が高じて生き甲斐になる場合もあります。たまに思うのは、これらに没頭するのはまるでルーペをのぞくようなもので、仕事やライフワークは個人への負担や影響が大きいゆえにそれらが本来より深刻な意味を持つことがある、ということ。だから、極限状態にならない限り忘れてしまうこともあると思うのです。
画面上で火山が噴火し、地面が裂け、海が荒れ、そんな中、「もしわたしがあそこにいたらいったい何をしたいと思うかしら?」と考えました。「レスキュー隊に所属して人命救助をしたい」という大層なことを自らの使命にできたらどんなに素敵だろう、とも思います。実は警察官になりたいと切望したこともあります。その熱い痕跡は今も私の心にありますが、もう少し違った角度の視点もあります。
私の好きなことは誰かに褒められる類のものとは必ずしも言いきれませんが、好きなことにムリヤリ立派な理由付けをせずとも、100年後、私は確実にこの世にいないから。たとえば花火が一瞬だけ夢みたいに輝くように、あとから「光ったのは何か意味があったの?」と問えば、「人を楽しませるため」とかいくらでも言いようはありますが、今私が好きでやっていることに意味があっても、なくても、今回の映画の主人公・小野寺(草?剛)の母が強がるでもなく「あの頃が、いっちばん、楽しかった」と背筋を伸ばして笑ったように、私もいつか微笑むことができる気が、少しだけ、します。
好きなことを好きなように。問題は人から見てほどほどかどうか、というところですね。
りんの夏休み2
2006年8月20日
8月20日 天気 (たぶん)晴れ
第88回全国高校野球選手権大会・決勝戦をTVで観戦。応援歌を口ずさみつつ早稲田実業を応援する人の隣で、私もなんとなく早実を応援。
どうして一番打つ人が四番なのか、ランナーニ・三塁の守備側がわざと満塁にするのはなぜか、犠牲フライとはなにか、スクイズとはなにか、王監督と荒木大輔が早実出身ということ、駒大苫小牧と早実の差異、などなど、プレーが中断してもしなくても、斉藤投手が15回投げきる間にたくさんのことを教わりました。私があまりにものを知らないので呆れられることも最近は多いのですが、「教えて。」と言うと、「いいかい?」とウンチクがスタートします。
ちょっと話は変わって、最近読んだばかりの本の話。
元国立天文台理論天文学研究系教授・池内了氏が監修した『お父さんが話してくれた宇宙の歴史』シリーズ。
宇宙の最初(ビッグバン)の頃、最初はあらゆる素粒子がひとかたまりになった熱い火の玉でした。その火の玉が膨張しながらだんだん冷えてきて、クォークができ、電子ができ、ニュートリノができ、宇宙が始まって0.1秒経った頃、ニュートリノがほかの素粒子に邪魔されずにまっすぐ飛べるようになり、生まれた光がニュートリノと同じようにさらに遠くまで広がることができたので、宇宙は光で満ち、パッと晴れ上がったそうです。
小学校を卒業し、中学、高校、大学と進むうちに、私は視野を広げたような気でいて、むしろどんどん細かい部分(資本主義社会への適応の仕方とか)に目を向けるようになった気がします。
よく考えればあたりまえのことですが、私は関東在住で、日本に住んでいて、日本はアジアで、アジアは地球の一地域で、地球は太陽系第三惑星で、太陽系第三惑星は太陽のまわりをぐるぐる回ってる。一方、私の肉体は分子でできていて、分子は粒々の原子で構成されていて、原子は真ん中に原子核を持ちそのまわりを電子がぐるぐる回ってる。視野を大きくしても、小さくしても、結局はぐるぐる回ってる。これはなんとなく偶然とは思えません。私や電子や太陽を含む「世界」が結局はどんな構造になっているのか、なにか驚くべきシステムの一部なのか、そうじゃないのか、私が死ぬまでに解明されるとは到底思えないのですが、どっちにしろ、生まれてすぐは覚えていたかもしれない「世界と自分の距離感」を、こういう本を読むと思い出すことができるような。
こうしてたかが野球の話とはいえ、「そうなの!?」「そうだったの!?」「へえー!」と聞いていると、「世界と自分の距離感」に驚いてばかりいた小さい頃の感覚とリンクして、そういえば世の中はこんなに驚くべきことであふれていたんだ!と、いつもハッとして、そしてワクワクします。野球中継の流れる小さな部屋は、ときに宇宙に変わります(あくまで私の心の中で)。
第88回全国高校野球選手権大会・決勝戦をTVで観戦。応援歌を口ずさみつつ早稲田実業を応援する人の隣で、私もなんとなく早実を応援。
どうして一番打つ人が四番なのか、ランナーニ・三塁の守備側がわざと満塁にするのはなぜか、犠牲フライとはなにか、スクイズとはなにか、王監督と荒木大輔が早実出身ということ、駒大苫小牧と早実の差異、などなど、プレーが中断してもしなくても、斉藤投手が15回投げきる間にたくさんのことを教わりました。私があまりにものを知らないので呆れられることも最近は多いのですが、「教えて。」と言うと、「いいかい?」とウンチクがスタートします。
ちょっと話は変わって、最近読んだばかりの本の話。
元国立天文台理論天文学研究系教授・池内了氏が監修した『お父さんが話してくれた宇宙の歴史』シリーズ。
宇宙の最初(ビッグバン)の頃、最初はあらゆる素粒子がひとかたまりになった熱い火の玉でした。その火の玉が膨張しながらだんだん冷えてきて、クォークができ、電子ができ、ニュートリノができ、宇宙が始まって0.1秒経った頃、ニュートリノがほかの素粒子に邪魔されずにまっすぐ飛べるようになり、生まれた光がニュートリノと同じようにさらに遠くまで広がることができたので、宇宙は光で満ち、パッと晴れ上がったそうです。
小学校を卒業し、中学、高校、大学と進むうちに、私は視野を広げたような気でいて、むしろどんどん細かい部分(資本主義社会への適応の仕方とか)に目を向けるようになった気がします。
よく考えればあたりまえのことですが、私は関東在住で、日本に住んでいて、日本はアジアで、アジアは地球の一地域で、地球は太陽系第三惑星で、太陽系第三惑星は太陽のまわりをぐるぐる回ってる。一方、私の肉体は分子でできていて、分子は粒々の原子で構成されていて、原子は真ん中に原子核を持ちそのまわりを電子がぐるぐる回ってる。視野を大きくしても、小さくしても、結局はぐるぐる回ってる。これはなんとなく偶然とは思えません。私や電子や太陽を含む「世界」が結局はどんな構造になっているのか、なにか驚くべきシステムの一部なのか、そうじゃないのか、私が死ぬまでに解明されるとは到底思えないのですが、どっちにしろ、生まれてすぐは覚えていたかもしれない「世界と自分の距離感」を、こういう本を読むと思い出すことができるような。
こうしてたかが野球の話とはいえ、「そうなの!?」「そうだったの!?」「へえー!」と聞いていると、「世界と自分の距離感」に驚いてばかりいた小さい頃の感覚とリンクして、そういえば世の中はこんなに驚くべきことであふれていたんだ!と、いつもハッとして、そしてワクワクします。野球中継の流れる小さな部屋は、ときに宇宙に変わります(あくまで私の心の中で)。
りんの夏休み
2006年8月19日
8月19日 天気 晴れ
秋葉原で日比谷線に乗り換え、六本木駅で下車。青山ブックセンターでお目当ての雑誌を発見、巻末の内田樹氏(神戸女学院大学教授)のインタビュー記事をようやく読む。
本屋を出て六本木ヒルズへ戻り、ヴァージンTOHOシネマズにて『日本沈没』の指定席をゲット、夕暮れの森タワー前広場に腰を下ろす。映画開始まであと一時間半、スタバでアイスコーヒー購入。
その後、まさにこれからクライマックス!というタイミングで映画館を抜け出し、暗くなった空と六本木の灯りの中を、ひとり、全速力で走りました。なんか映画みたい、と思ったのも、主演の草?剛&柴咲コウによるドラマティックな空気にすっかりあてられたせいであります。いつだってロマンチストで困ります(苦笑)。
ヒルズのすぐ近くで開催されていた「麻布十番納涼祭り」。毎年8月下旬の金・土・日の三日間、麻布十番の街は約40万人の人口であふれ、世界各国の特産品や食品が出品される国際バザール、盆踊り、お化け屋敷、人気コメディアン達による十番の納涼寄席、お囃子(おはやし)など盛りだくさんのプログラムとのことですが、一見したところ、お好み焼きとかき氷ばかりやけに多い露店が延々続くだけにも見えます。渋滞と化してなかなか進まない人混みを少し外れて、焼き鳥一本ずつ、ビールをそれぞれ一杯と半分こ、うずらの卵が入った大味の焼きそばを、ぺたんと座って交互に食べました。焼きそば屋の兄ちゃんに「割り箸はいくつ?」と聞かれ、お金を払った隣の人が迷うことなく「あ、ひとつで!」と答えたことが実は嬉しくて、もうひとつ、カナダから来たウクライナ系外国人陶芸家の作った一輪挿しが欲しくなって、隣をちらと見る前に「買ってあげるよ。」と言われたことも嬉しくて、さらにもうひとつ、私より半歩先で人混みをすり抜ける人と唯一繋がった連結点を、ちょっと前の携帯のCMみたいにそこだけ(こっそり)撮影して、それが今も私の携帯に入っていることが嬉しいです(ふふふ)。
もう一度ひとりになった後は、東京の中心にある知る人ぞ知るバーへ行き、一歳年下のバーテンを捕まえて五杯も飲んでしまった(〆て7000円強)。
話は前後しますが、せっかくスタバで飲み物を買うなら期間限定のドリンクにした方が楽しいだろうし、せっかく六本木に来たなら普段入らないカフェに入ってもいいのに、カロリーと値段が気になって結局いつもアイスコーヒーだし、ぶらぶらするのが面倒くさくて携帯をいじってしまうし、こんな日にかぎって読みかけの本は家に置いてきちゃうし。「誰かと会う」「この本を買う」というハッキリした目的がない限り私はあまり外出しませんが、「点と点を一本の線で結ぶことしかできない機械的思考」を再確認しつつ、初めてひとりで映画を見て、何度目かのひとり飲みを経験し、(たぶん)こじつけでもやせ我慢でもなく、なんとなーく、ほんとになんとなーくですが、自分が今後乗り越えたい壁を少ーしだけ上ったかも、という瞬間が多くあった気がします。
秋葉原で日比谷線に乗り換え、六本木駅で下車。青山ブックセンターでお目当ての雑誌を発見、巻末の内田樹氏(神戸女学院大学教授)のインタビュー記事をようやく読む。
本屋を出て六本木ヒルズへ戻り、ヴァージンTOHOシネマズにて『日本沈没』の指定席をゲット、夕暮れの森タワー前広場に腰を下ろす。映画開始まであと一時間半、スタバでアイスコーヒー購入。
その後、まさにこれからクライマックス!というタイミングで映画館を抜け出し、暗くなった空と六本木の灯りの中を、ひとり、全速力で走りました。なんか映画みたい、と思ったのも、主演の草?剛&柴咲コウによるドラマティックな空気にすっかりあてられたせいであります。いつだってロマンチストで困ります(苦笑)。
ヒルズのすぐ近くで開催されていた「麻布十番納涼祭り」。毎年8月下旬の金・土・日の三日間、麻布十番の街は約40万人の人口であふれ、世界各国の特産品や食品が出品される国際バザール、盆踊り、お化け屋敷、人気コメディアン達による十番の納涼寄席、お囃子(おはやし)など盛りだくさんのプログラムとのことですが、一見したところ、お好み焼きとかき氷ばかりやけに多い露店が延々続くだけにも見えます。渋滞と化してなかなか進まない人混みを少し外れて、焼き鳥一本ずつ、ビールをそれぞれ一杯と半分こ、うずらの卵が入った大味の焼きそばを、ぺたんと座って交互に食べました。焼きそば屋の兄ちゃんに「割り箸はいくつ?」と聞かれ、お金を払った隣の人が迷うことなく「あ、ひとつで!」と答えたことが実は嬉しくて、もうひとつ、カナダから来たウクライナ系外国人陶芸家の作った一輪挿しが欲しくなって、隣をちらと見る前に「買ってあげるよ。」と言われたことも嬉しくて、さらにもうひとつ、私より半歩先で人混みをすり抜ける人と唯一繋がった連結点を、ちょっと前の携帯のCMみたいにそこだけ(こっそり)撮影して、それが今も私の携帯に入っていることが嬉しいです(ふふふ)。
もう一度ひとりになった後は、東京の中心にある知る人ぞ知るバーへ行き、一歳年下のバーテンを捕まえて五杯も飲んでしまった(〆て7000円強)。
話は前後しますが、せっかくスタバで飲み物を買うなら期間限定のドリンクにした方が楽しいだろうし、せっかく六本木に来たなら普段入らないカフェに入ってもいいのに、カロリーと値段が気になって結局いつもアイスコーヒーだし、ぶらぶらするのが面倒くさくて携帯をいじってしまうし、こんな日にかぎって読みかけの本は家に置いてきちゃうし。「誰かと会う」「この本を買う」というハッキリした目的がない限り私はあまり外出しませんが、「点と点を一本の線で結ぶことしかできない機械的思考」を再確認しつつ、初めてひとりで映画を見て、何度目かのひとり飲みを経験し、(たぶん)こじつけでもやせ我慢でもなく、なんとなーく、ほんとになんとなーくですが、自分が今後乗り越えたい壁を少ーしだけ上ったかも、という瞬間が多くあった気がします。
秘書の戯れ言 vol.2
2006年8月18日秘書室(という名のデッドスペース)にて平川克美の『反戦略的ビジネスのすすめ』をこっそり読む。
同書にはビジネスを成功させるための参考になるようなノウハウも要諦も書かれていない(と、著者・平川さんはおっしゃっています)し、もし社長が目次の「ビジネス書はつまらない」「会社は売れても組織は売れない」「人はなぜ働くのか」という項目をご覧になったら、キサマ心の奥で何を考えてるんだうちの会社になんか不満あんのか、という誤解(というか正解)を招きそうだ。というより、いくら休憩中とはいえ、職場で堂々と読書をするのはあまり褒められる行為じゃなさそうなので、物陰でこっそり読むのです。
ビジネスの本質はどこにあるのか、働くとはなにか、たとえ正解がどこかにあるとしてもないとしても、自分の中ではせめて「これだ!」と言えるようなちっぽけな何かさえ、入社して未だ半年未満の私には到底存在しないのですが、今日は、秘書の私が付いている専務(仮にKさんとしよう)の話。
秘書になって一日目、「これを整理していただけますか?」「かしこまりました。」というやり取りの後に手渡された書類は、専務が現在指揮する事業部の重要書類で、我が社がなぜその事業部設立に踏み切ったか、もっといえばなぜ社長が同事業を含むすべてを始めようと思い立ったのか、そこ(核心)に触れるといっても過言じゃない書類。それらをちまちまと校正してファイリングするだけの作業。
上司が部下に仕事を任せるとき、そこには何かしらの意図がある気がします。重要書類をただ整理するだけなのか、そこから何かを読み取るのか、Kさんは私を試していたような気がします。続々依頼される仕事のなかには、単にそれを片付けたいというほかに、今後自分の専属秘書になる私の力を見る意図もあるでしょう。さらに、部下に任せることで発生するリスクだけは認識済みで完璧に次善策を講じているのが、できるようでなかなかできないことなんじゃないかな、と、新入社員の私でさえ、「想定の範囲内の出来事ですよ。」と言われた瞬間は感嘆したものです。
口数のあまり多くないKさんが「りんさん、今日は元気がないですね。」と、ピンポイントで指摘してくる日は、まず確実に、何かがあったとき。職場でプライベートな話をするのは控えるべきだ(と思う)し、私は「え、ええっ!?そう見えますか?」と言葉を濁すけど、ほかの上司のように「何かあったの?」「飲んで話すか!」などと言わないKさんは、自分の恩師の話を交えて普遍的な真理を語る。自分の具体的な悩みを普遍的概念の型にはめられるのを嫌う私だけど、上司と部下というほぼ確実に上から下を見ることになってしまう状況で、若い私を諭すでもなくやわらかく見守る(しかも多くを聞き出してないのに当たっている)Kさんの姿勢の前では素直になれる気がします。
ビジネスがなんだという問題は保留中ですが、せめて秘書でいる間はこの方の下でいっぱい色々なことを吸収しよう、という健康的な意欲はあります。
同書にはビジネスを成功させるための参考になるようなノウハウも要諦も書かれていない(と、著者・平川さんはおっしゃっています)し、もし社長が目次の「ビジネス書はつまらない」「会社は売れても組織は売れない」「人はなぜ働くのか」という項目をご覧になったら、キサマ心の奥で何を考えてるんだうちの会社になんか不満あんのか、という誤解(というか正解)を招きそうだ。というより、いくら休憩中とはいえ、職場で堂々と読書をするのはあまり褒められる行為じゃなさそうなので、物陰でこっそり読むのです。
ビジネスの本質はどこにあるのか、働くとはなにか、たとえ正解がどこかにあるとしてもないとしても、自分の中ではせめて「これだ!」と言えるようなちっぽけな何かさえ、入社して未だ半年未満の私には到底存在しないのですが、今日は、秘書の私が付いている専務(仮にKさんとしよう)の話。
秘書になって一日目、「これを整理していただけますか?」「かしこまりました。」というやり取りの後に手渡された書類は、専務が現在指揮する事業部の重要書類で、我が社がなぜその事業部設立に踏み切ったか、もっといえばなぜ社長が同事業を含むすべてを始めようと思い立ったのか、そこ(核心)に触れるといっても過言じゃない書類。それらをちまちまと校正してファイリングするだけの作業。
上司が部下に仕事を任せるとき、そこには何かしらの意図がある気がします。重要書類をただ整理するだけなのか、そこから何かを読み取るのか、Kさんは私を試していたような気がします。続々依頼される仕事のなかには、単にそれを片付けたいというほかに、今後自分の専属秘書になる私の力を見る意図もあるでしょう。さらに、部下に任せることで発生するリスクだけは認識済みで完璧に次善策を講じているのが、できるようでなかなかできないことなんじゃないかな、と、新入社員の私でさえ、「想定の範囲内の出来事ですよ。」と言われた瞬間は感嘆したものです。
口数のあまり多くないKさんが「りんさん、今日は元気がないですね。」と、ピンポイントで指摘してくる日は、まず確実に、何かがあったとき。職場でプライベートな話をするのは控えるべきだ(と思う)し、私は「え、ええっ!?そう見えますか?」と言葉を濁すけど、ほかの上司のように「何かあったの?」「飲んで話すか!」などと言わないKさんは、自分の恩師の話を交えて普遍的な真理を語る。自分の具体的な悩みを普遍的概念の型にはめられるのを嫌う私だけど、上司と部下というほぼ確実に上から下を見ることになってしまう状況で、若い私を諭すでもなくやわらかく見守る(しかも多くを聞き出してないのに当たっている)Kさんの姿勢の前では素直になれる気がします。
ビジネスがなんだという問題は保留中ですが、せめて秘書でいる間はこの方の下でいっぱい色々なことを吸収しよう、という健康的な意欲はあります。
秘書の戯れ言
2006年8月17日
たまには仕事の話を。
言語学、歴史学、政治学など、すっかり「学問」として定着している分野については、学ぼうとする意欲の有無が何より重要だろうと思う。その気になれば(学校で)教えを乞うこともできるし、関連書物も数多い。言語も、歴史も、政治も、なべて中心にあるのは普遍的な人間の活動で、突き詰めれば「人間学」と呼べるらしい。「人間学」は学際的要素が強い言葉だけど、要は、どんな学問もまず人間ありきという点で共通してるということらしい、です(たぶん)。
166におよぶ文化圏で行われた調査の結果、人類学者は147の文化の中に「恋愛」の証拠を見つけているらしい。古代シュメールの街ウルクには、シュメールの女王が羊飼いの少年に送った楔形文字の詩が残されており、「わが最愛の人、わが瞳のよろこびよ」という言葉に託された情熱が、五千年という歳月を経て、現代に生きる私の元にも届けられる。古代ギリシア人は恋愛を「神々の狂乱」と呼んだそうな。激情はときに大の大人さえも狂わせ、天に舞い上がらせたかと思えば次の瞬間に地に突き落とす。人の生にここまで多大な影響を与える点では、著名な思想家や、有力な政治家だってなかなかかなわないと思う。
人の生にかくも影響を与えるというのに、未だメジャーな学問たりえない「恋愛学」「結婚学」に関して、だから私たちは自力で学ぶしかなく。特定の誰かの姿を人混みに見つけるだけで きゅん とするこのわけわからんパワーを解明することもできないまま、私たちは自らのからだを献体するがごとく恋に落ちちゃう。成分不明の薬を「えーい!」と飲むのと同じくらい無鉄砲な行為なのに、皆、一回しかない自らの生を潔く捧げちゃう。潔く恋に落ちたあとにふと立ち止まり、じっと相手と自分を見返せば、偉大なるソクラテスの手にさえ余った「恋愛学」「結婚学」が、ロマンスから生じる甘美さと学問としての凛々しさの双方を保持して人に迫るのかもしれないね。
おっと、仕事の話でした。
上記に述べた通り、「恋愛・結婚とはなんぞや?」とは、未だに人類共通のテーマたる。私は、日々の仕事の合間に、「恋愛とは…こういうものか!?」とか「そうかッ、結婚とはもしや!?」とか、何かと答えめいたものを発見できたような気になることもあるんだけど、たとえばレンブラントが絵の具をどう混ぜどう塗ったかについて正確に知っていたとしても作品に対して抱く畏怖や驚嘆の程度があまり変わらないように、ただ「わー!すっごい!」と思うことには変わりない。驚く気持ちを失わないように、それだけはいつまでも忘れずにいたいと思う(余談だが、この業界に所属し続けてもなおこの新鮮な驚きを保持することは、警察官が正義感を忘れないのと同じくらい重要なことだと個人的には思っているんだよね)。
さて、本日のインスピレーション。
「結婚」にまつわる雑誌はたくさんあるけど、特にゼク●ィのような"情報誌"に偏ることは、結婚に関する細分化された情報をカスタマイズして完成させるという意味で、「結婚」が「最終目標」になりかねない。たとえば2006年7月発売のCREAのように、「結婚」を人間活動の一環として相対的に捉えるためのソースとなり得る本も加えれば、「結婚」が「最終目標」ではなく、ほかにもたくさん存在する「人生において大切なこと」のひとつになるだろう予感がする。「結婚」はある意味"絶対"だけど、"絶対"に頼りすぎて我を見失うと途端に何かが瓦解するというパラドックスがあるようだ。
なにも「結婚」にかぎらない。以前(2006年6月29日)、私は、相対ではなく絶対の中に生きよ、というメッセージめいた日記を書いたことがあるのでそれと矛盾するとは思うのだけど、「目標を常に置いてそれまではがんばる」という姿勢には、きっと、危険が伴う。というのも、土日を楽しみに五日間労働するとたしかに週末を迎えた瞬間は嬉しいけど、月曜の朝にはぽっかりと穴が開いたような虚しさが湧いちゃうから。ご褒美めいたものを念頭に置くことは、精神を健全に保つ意味でも重要だと思うけど、完全な"絶対"ではなく、少しばかりの相対を散りばめた余裕を残しておかないと、リスクヘッジとしてはイマイチ、だよね。
雑誌をチェックするたびに思うこと。
「結婚」が「最終目標」と化すべく仕向ければ、新郎新婦に気合いが入り、それだけ各社の利益が上がる(と思う)ので、それは、まあ、よろしいことなんですが、(プロフェッショナルとしては)ちと不安です。半世紀前の倍になったといわれる情報が私たちにたくさんの選択肢を与え、現代の多くの若者がこの豊かすぎる社会に生きながらどうしようもない喪失感を同時に抱いているように、唯一の「最終目標」となった「結婚」が結果的に世のお嬢さんに与える(結婚後の)喪失感を思うと…
結論は急がんとこっと。なんしか、仕事しながら考えるべきこととしては申し分ないテーマです。
言語学、歴史学、政治学など、すっかり「学問」として定着している分野については、学ぼうとする意欲の有無が何より重要だろうと思う。その気になれば(学校で)教えを乞うこともできるし、関連書物も数多い。言語も、歴史も、政治も、なべて中心にあるのは普遍的な人間の活動で、突き詰めれば「人間学」と呼べるらしい。「人間学」は学際的要素が強い言葉だけど、要は、どんな学問もまず人間ありきという点で共通してるということらしい、です(たぶん)。
166におよぶ文化圏で行われた調査の結果、人類学者は147の文化の中に「恋愛」の証拠を見つけているらしい。古代シュメールの街ウルクには、シュメールの女王が羊飼いの少年に送った楔形文字の詩が残されており、「わが最愛の人、わが瞳のよろこびよ」という言葉に託された情熱が、五千年という歳月を経て、現代に生きる私の元にも届けられる。古代ギリシア人は恋愛を「神々の狂乱」と呼んだそうな。激情はときに大の大人さえも狂わせ、天に舞い上がらせたかと思えば次の瞬間に地に突き落とす。人の生にここまで多大な影響を与える点では、著名な思想家や、有力な政治家だってなかなかかなわないと思う。
人の生にかくも影響を与えるというのに、未だメジャーな学問たりえない「恋愛学」「結婚学」に関して、だから私たちは自力で学ぶしかなく。特定の誰かの姿を人混みに見つけるだけで きゅん とするこのわけわからんパワーを解明することもできないまま、私たちは自らのからだを献体するがごとく恋に落ちちゃう。成分不明の薬を「えーい!」と飲むのと同じくらい無鉄砲な行為なのに、皆、一回しかない自らの生を潔く捧げちゃう。潔く恋に落ちたあとにふと立ち止まり、じっと相手と自分を見返せば、偉大なるソクラテスの手にさえ余った「恋愛学」「結婚学」が、ロマンスから生じる甘美さと学問としての凛々しさの双方を保持して人に迫るのかもしれないね。
おっと、仕事の話でした。
上記に述べた通り、「恋愛・結婚とはなんぞや?」とは、未だに人類共通のテーマたる。私は、日々の仕事の合間に、「恋愛とは…こういうものか!?」とか「そうかッ、結婚とはもしや!?」とか、何かと答えめいたものを発見できたような気になることもあるんだけど、たとえばレンブラントが絵の具をどう混ぜどう塗ったかについて正確に知っていたとしても作品に対して抱く畏怖や驚嘆の程度があまり変わらないように、ただ「わー!すっごい!」と思うことには変わりない。驚く気持ちを失わないように、それだけはいつまでも忘れずにいたいと思う(余談だが、この業界に所属し続けてもなおこの新鮮な驚きを保持することは、警察官が正義感を忘れないのと同じくらい重要なことだと個人的には思っているんだよね)。
さて、本日のインスピレーション。
「結婚」にまつわる雑誌はたくさんあるけど、特にゼク●ィのような"情報誌"に偏ることは、結婚に関する細分化された情報をカスタマイズして完成させるという意味で、「結婚」が「最終目標」になりかねない。たとえば2006年7月発売のCREAのように、「結婚」を人間活動の一環として相対的に捉えるためのソースとなり得る本も加えれば、「結婚」が「最終目標」ではなく、ほかにもたくさん存在する「人生において大切なこと」のひとつになるだろう予感がする。「結婚」はある意味"絶対"だけど、"絶対"に頼りすぎて我を見失うと途端に何かが瓦解するというパラドックスがあるようだ。
なにも「結婚」にかぎらない。以前(2006年6月29日)、私は、相対ではなく絶対の中に生きよ、というメッセージめいた日記を書いたことがあるのでそれと矛盾するとは思うのだけど、「目標を常に置いてそれまではがんばる」という姿勢には、きっと、危険が伴う。というのも、土日を楽しみに五日間労働するとたしかに週末を迎えた瞬間は嬉しいけど、月曜の朝にはぽっかりと穴が開いたような虚しさが湧いちゃうから。ご褒美めいたものを念頭に置くことは、精神を健全に保つ意味でも重要だと思うけど、完全な"絶対"ではなく、少しばかりの相対を散りばめた余裕を残しておかないと、リスクヘッジとしてはイマイチ、だよね。
雑誌をチェックするたびに思うこと。
「結婚」が「最終目標」と化すべく仕向ければ、新郎新婦に気合いが入り、それだけ各社の利益が上がる(と思う)ので、それは、まあ、よろしいことなんですが、(プロフェッショナルとしては)ちと不安です。半世紀前の倍になったといわれる情報が私たちにたくさんの選択肢を与え、現代の多くの若者がこの豊かすぎる社会に生きながらどうしようもない喪失感を同時に抱いているように、唯一の「最終目標」となった「結婚」が結果的に世のお嬢さんに与える(結婚後の)喪失感を思うと…
結論は急がんとこっと。なんしか、仕事しながら考えるべきこととしては申し分ないテーマです。
真夏の夜の夢じゃなくて現実
2006年8月15日コメント (2)遅ればせながら日曜の備忘を。
"大阪からいらしたおにいさんを囲む会"に出席@新大久保。
「キムギョプサルをたべよう」ということで注文したものの、テーブルからはみ出しそうなほどの韓国料理の中のどれがキムギョプサルだったのか、実は未だにわかってません。先日誕生日を迎えたばかりのおにいさんの32歳を祝し、ケーキ風にアレンジされた豆腐の上のローソクをふーっ。誕生日、異動、etc、おめでとうございます。
印象的だったこと。
テーブルには四人(男、男、女、女)。ふと会話がやんだとき、私は密かにこんなことを思っていたんです。ものすごくシンプルに「21世紀に生まれてよかったなあ」と。ちょっと前でもだめで、もう少し後でもだめかもしれなかったから。さらに言うなら、そんな時代の中にあって、あの日(とってもよく覚えてるんです)、あのとき(午前三時でした)、あの場所(自室のデスク)で、何気なく行動したことが歯車を動かして、もっと言うなら私ひとりが動いてもだめで、それぞれがそれぞれのタイミングでたまたま(だと思うんです)歯車を動かして、くるくる、くるくる、くるくる、くるくる、四つの運命の歯車が回って噛み合って月日は経ち、今日、この会は開かれたんです。
ふと静かになったとき、私がこっそりそう思っていたら、隣で百済酒を飲んでたおねえさんが、私とまったく同じタイミングで、似たようなことをぽつりとおっしゃったんです。そのとき正確に何という言葉だったかうまく思い出せないんですが、バラバラに見える「四」という数字の中にふっと滑り込んで溶け合った何かの気配(言葉にできないんです)をおねえさんも感じてて、お酒と一緒に味わっていたのではないかと。
最近の傾向として。
「大切な人たちが急にいなくなるかもしれない」という得体の知れない恐怖に襲われるときがあって、なぜか最近はその頻度が高くて、自分でもどうしてそんな気持ちになるのかわからないのですが。ただ、ちょっと、思ったことがありまして。
あの日、あのとき、あの場所で、たまたま動いたことが今日に繋がったと書いたけど、もしかして、PCなんてない時代に生まれても、会うべくして会う人とは会えるように仕組まれているんじゃないかしらね? だからね、PCなんてもちろんなかっただろう動乱の世でも、山奥で木を切って暮らす木こりのおにいさんと、拍子に合わせて華麗に舞う白拍子のおねえさんと、学者が集まる草庵で書物を読みふけるおにいさんと、都に出たいと夢見ながら草を刈る農民の娘は、21世紀とは違ったかたちで、それでも人と人の間に滑り込んで溶け合った何かの気配を個々が感じて、それにしたがって歯車を回して、ふっと、たまたま、でも偶然ではなく必然として、いつか出会ったのかも、なんて。
本当に失いたくない関係があるとして、それは大切だからこそ夢みたいに消えるんじゃないかという不安に襲われるわけだけど、もし必然だったと呼べるような"ホンモノ"なら、きっと失われないように仕組まれてるはずで。繊細で綺麗な何かを信じるのはすごく恐いけど、おねえさんと感じたシンクロニシティが幾分か背を押してくれたような気分です。
その後、カラオケ。さらにその後はちょっと(ちょっとじゃないかも)人に迷惑をかけました…。
"大阪からいらしたおにいさんを囲む会"に出席@新大久保。
「キムギョプサルをたべよう」ということで注文したものの、テーブルからはみ出しそうなほどの韓国料理の中のどれがキムギョプサルだったのか、実は未だにわかってません。先日誕生日を迎えたばかりのおにいさんの32歳を祝し、ケーキ風にアレンジされた豆腐の上のローソクをふーっ。誕生日、異動、etc、おめでとうございます。
印象的だったこと。
テーブルには四人(男、男、女、女)。ふと会話がやんだとき、私は密かにこんなことを思っていたんです。ものすごくシンプルに「21世紀に生まれてよかったなあ」と。ちょっと前でもだめで、もう少し後でもだめかもしれなかったから。さらに言うなら、そんな時代の中にあって、あの日(とってもよく覚えてるんです)、あのとき(午前三時でした)、あの場所(自室のデスク)で、何気なく行動したことが歯車を動かして、もっと言うなら私ひとりが動いてもだめで、それぞれがそれぞれのタイミングでたまたま(だと思うんです)歯車を動かして、くるくる、くるくる、くるくる、くるくる、四つの運命の歯車が回って噛み合って月日は経ち、今日、この会は開かれたんです。
ふと静かになったとき、私がこっそりそう思っていたら、隣で百済酒を飲んでたおねえさんが、私とまったく同じタイミングで、似たようなことをぽつりとおっしゃったんです。そのとき正確に何という言葉だったかうまく思い出せないんですが、バラバラに見える「四」という数字の中にふっと滑り込んで溶け合った何かの気配(言葉にできないんです)をおねえさんも感じてて、お酒と一緒に味わっていたのではないかと。
最近の傾向として。
「大切な人たちが急にいなくなるかもしれない」という得体の知れない恐怖に襲われるときがあって、なぜか最近はその頻度が高くて、自分でもどうしてそんな気持ちになるのかわからないのですが。ただ、ちょっと、思ったことがありまして。
あの日、あのとき、あの場所で、たまたま動いたことが今日に繋がったと書いたけど、もしかして、PCなんてない時代に生まれても、会うべくして会う人とは会えるように仕組まれているんじゃないかしらね? だからね、PCなんてもちろんなかっただろう動乱の世でも、山奥で木を切って暮らす木こりのおにいさんと、拍子に合わせて華麗に舞う白拍子のおねえさんと、学者が集まる草庵で書物を読みふけるおにいさんと、都に出たいと夢見ながら草を刈る農民の娘は、21世紀とは違ったかたちで、それでも人と人の間に滑り込んで溶け合った何かの気配を個々が感じて、それにしたがって歯車を回して、ふっと、たまたま、でも偶然ではなく必然として、いつか出会ったのかも、なんて。
本当に失いたくない関係があるとして、それは大切だからこそ夢みたいに消えるんじゃないかという不安に襲われるわけだけど、もし必然だったと呼べるような"ホンモノ"なら、きっと失われないように仕組まれてるはずで。繊細で綺麗な何かを信じるのはすごく恐いけど、おねえさんと感じたシンクロニシティが幾分か背を押してくれたような気分です。
その後、カラオケ。さらにその後はちょっと(ちょっとじゃないかも)人に迷惑をかけました…。
8月14日の鼻歌日記
2006年8月14日コメント (2)嬉しかったので書いておこう。
お風呂を出たら父と母が喧嘩をしてまして、なんだかひとり無関係な顔をして寝るのもちょっとどうかなということで、久々に父とふたりきりで話をしてみました。
我が両親は私に干渉しすぎる傾向がある(ように思える)ので、今秋24歳になるというのに未だに反抗期チックなことを私は続けているんだけど、一度深呼吸をして、真っ向から否定することをやめ、素直で穏やかな気持ちで話を聞いてみると、親というものはここまで子どものことをわかっているんだな、とやはり納得せざるをえない気がする。
「○○(私の名前)はマジメなんだな。」と父は言った。24年間私を見続けた父がそう言うんだから、そうなのかも。それだけだったら反発するところなんだけど、今日はぐっと堪えて、とりあえず受け入れてみた。「うん、そうなのかな。」と。それに対して父は、「うん、そうなんだよ。すぐに意味を見つけちゃうんだ。お母さんと一緒だね。でもね、人の行動がすべて理路整然とした意味を持ってることはないんだよ。みんな、なんとなく行動してるんだ。会社の人だって、友だちだって、みんなそうだよ。だから、人の一挙一動を意味づけして自分の何かが悪かったからこの人はこういうことを言うのかな、って思わなくていいんだよ。お母さんもお父さんの行動にいちいち意味づけするんだけど、お父さん、何も考えてないんだよね。」と答えてくれた。
「実体がない悩みだね。一度、自分でなにが不安なのかを書き出してみるといいよ。バーッと箇条書きにするんだ。対処法が思いつくならそれも書いてみる。そしたらそんなに大したことじゃないってことがわかってくるよ。」と父は言った。「それからね、そういう気持ちは人に話してもいいけど、続けて何度も話すとお父さんはきっと困っちゃう。でも苦しいから話したいんだね。マジメだから意味を探しちゃうんだね。でもさ、掃除は明日でいっかって思うときがあるだろ?それと同じように心の中の整理だって明日でいっかって思えばいいんだよ。」と。
反発する理由はないので「うん。」と言ってみた。
私のお父さんはしょちゅう鼻歌を歌うんだけど、それに対してお母さんは「うるさい!」って言うんだけど、鼻歌には意味がないからかなあ、と。ただ、たしかに鼻歌に意味なんて全然ないんだけど、今日は、ずーっと頭の中で回ってたくるりの「東京」のイントロを、「ジャーンジャーンジャジャジャジャンジャーン♪」って私も歌ってみました。歌ってるうちになんか笑えてきた。なんていうのか、お父さんも私の込み入った話を聞けば「そうか、○○(私の名前)はこんなことで悩んでるのか。」ってわかるだろうけど、それによって理解を深めなくても、「ジャーンジャーンジャジャジャジャンジャーン♪」って歌ってる私を見る方が嬉しいだろうな、って。
「悩みをあまり人に話すな。」とは小さい頃から父によく言われたものですが、どうして?と思うばかりで、でも、ちょっとだけわかったかも。こうして日記を書いているのは、悩みを聞いて聞いて、って誰かに言いたいというより(たしかに以前はそうだったけど)、特に今日はお父さんに「書いてみるとわかるよ。」って言われたから書いてみたって感じです。やっぱり頭が整理されるね。
ジャーンジャージャジャジャジャンジャーン!(←すっかりお気に入り。)
お風呂を出たら父と母が喧嘩をしてまして、なんだかひとり無関係な顔をして寝るのもちょっとどうかなということで、久々に父とふたりきりで話をしてみました。
我が両親は私に干渉しすぎる傾向がある(ように思える)ので、今秋24歳になるというのに未だに反抗期チックなことを私は続けているんだけど、一度深呼吸をして、真っ向から否定することをやめ、素直で穏やかな気持ちで話を聞いてみると、親というものはここまで子どものことをわかっているんだな、とやはり納得せざるをえない気がする。
「○○(私の名前)はマジメなんだな。」と父は言った。24年間私を見続けた父がそう言うんだから、そうなのかも。それだけだったら反発するところなんだけど、今日はぐっと堪えて、とりあえず受け入れてみた。「うん、そうなのかな。」と。それに対して父は、「うん、そうなんだよ。すぐに意味を見つけちゃうんだ。お母さんと一緒だね。でもね、人の行動がすべて理路整然とした意味を持ってることはないんだよ。みんな、なんとなく行動してるんだ。会社の人だって、友だちだって、みんなそうだよ。だから、人の一挙一動を意味づけして自分の何かが悪かったからこの人はこういうことを言うのかな、って思わなくていいんだよ。お母さんもお父さんの行動にいちいち意味づけするんだけど、お父さん、何も考えてないんだよね。」と答えてくれた。
「実体がない悩みだね。一度、自分でなにが不安なのかを書き出してみるといいよ。バーッと箇条書きにするんだ。対処法が思いつくならそれも書いてみる。そしたらそんなに大したことじゃないってことがわかってくるよ。」と父は言った。「それからね、そういう気持ちは人に話してもいいけど、続けて何度も話すとお父さんはきっと困っちゃう。でも苦しいから話したいんだね。マジメだから意味を探しちゃうんだね。でもさ、掃除は明日でいっかって思うときがあるだろ?それと同じように心の中の整理だって明日でいっかって思えばいいんだよ。」と。
反発する理由はないので「うん。」と言ってみた。
私のお父さんはしょちゅう鼻歌を歌うんだけど、それに対してお母さんは「うるさい!」って言うんだけど、鼻歌には意味がないからかなあ、と。ただ、たしかに鼻歌に意味なんて全然ないんだけど、今日は、ずーっと頭の中で回ってたくるりの「東京」のイントロを、「ジャーンジャーンジャジャジャジャンジャーン♪」って私も歌ってみました。歌ってるうちになんか笑えてきた。なんていうのか、お父さんも私の込み入った話を聞けば「そうか、○○(私の名前)はこんなことで悩んでるのか。」ってわかるだろうけど、それによって理解を深めなくても、「ジャーンジャーンジャジャジャジャンジャーン♪」って歌ってる私を見る方が嬉しいだろうな、って。
「悩みをあまり人に話すな。」とは小さい頃から父によく言われたものですが、どうして?と思うばかりで、でも、ちょっとだけわかったかも。こうして日記を書いているのは、悩みを聞いて聞いて、って誰かに言いたいというより(たしかに以前はそうだったけど)、特に今日はお父さんに「書いてみるとわかるよ。」って言われたから書いてみたって感じです。やっぱり頭が整理されるね。
ジャーンジャージャジャジャジャンジャーン!(←すっかりお気に入り。)
八月のリスタート
2006年8月11日ひねもすデスクにて。
私の働く意味ってなんだろう。そんなことを考えるようになりました。
就職活動中に熟考したはずなのに、結局答えは出ていなかったようです。就職活動はしばしば恋愛に例えられますが、当時の私が生娘だとするなら、今の私はついに会社とキスをしたのです。生娘だった私は、まだ彼氏もいないのに未来の結婚生活を想像しろと言われていたようなものです。何もわかっていませんでした。今もわかっていませんが。
店舗を離れることになった私は、会社の基幹部門で働くことになりました。「頭脳労働をさせたい。」とのことですが、ほかの言い回し(「あなたは物事を正面から受けとめるから。」「最初に現場を知ってほしいと思ったんだけど…。」)を考慮すると、外回りが向いてないと判断してのことでしょうか。面白いのは、「おまえはくの一か。」というツッコミです。どうも前に出すぎる傾向があるようで。「手裏剣を無駄にしないで、お屋敷の奥で少しは内助を学んでみぃ。」とのことです。
そうかあ、と思ったものの。
店舗なくして弊社の利益は上がりません。お客と直に触れることができる現場(店舗)に常駐し、取引先に出かけ、私はわかりやすい動機の中にいたのです。わかりやすい動機とは、「すべてはお客さまのため!」というものです。失敗しても、叱られても、そのわかりやすい動機を礎にして私は次の日も会社に行ったものでした。
幹部は言いました。「ゆくゆくは会社を担う人間にしたい。」と。総務に限りなく近い部分で働くということは、たとえ直接的ではないにしろ、結果的にはお客さまのためになることです。しかし、今後、わかりやすい動機は失われました。私は組織の人間で、「会社のために」働くのです。「今後は幹を太くしていかないと」「会社が大きくなるためにはね…」と力強く語る幹部を前に、私は、自分でない誰かに白羽の矢が立つのを遠くから眺めるような気分で「はあ。」「はあ。」と答えつつ、ゆっくり、ゆっくり、コーヒーを飲んでいました。少し飲み残しました。
弊社の事業は多岐に及びます。あるニッチマーケットの存在に目をつけた創業者(現在の代表取締役)が全国規模にまでした基幹事業。ビジネスは成功し、「こういうものが欲しかったのよ〜!」と泣いて喜んだ人たちがいたことでしょう。会社は次々と新規事業を開始します。会社設立時に力強く存在していたはずの「ないから私たちが提供する!」という熱い気持ち(があったと思うのよね。たぶん。)は少しずつ空洞化し、会社は「外」ではなく「内」に目がいくほどの規模になりました。「内」を見るようになった弊社に未だ足らない何か。それを補う人材になるべく仕込まれるのが今後の私です。
しかし、私は思うのです。
社会に何かを提供したいという純な気持ちから始まったはずなのに、「内」を見るようになることで伴う危険があると思うのです。「外」に提供するどころか「内」の利益ばかりに目がいって、どんどん、どんどん、むしろ囲い込まれていくのではないか、と。囲われた範囲の中で営利を貪る人々が今世紀に入って次々と摘発されていく様を見るたびに、「こういう大人になっちゃいけないよ。」と暗に諭されている気がしたのです。新世紀に突入してもしばらくの間、私は学生でした。暗に諭された中から華麗に飛び出したばかりの新卒が今考えるべきことはなんでしょう?
すぐに答えが出るとも思えませんが、帰宅途中、電車の中でこんな光景を目にしました。
酔いつぶれたサラリーマンが車両の床に伏してしまい、皆に迷惑をかけていました。「大丈夫ですか?」と声をかけてもピクリともしません。そのうち気付いた駅員さんが駆けつけました。その間、列車は某駅に停車していました。大の大人(リーマン)を大の大人(駅員)が「うんしょ、うんしょ」と運び出し、ホームに降り立つと、白いシャツの背中がライトを頭上に掲げました。キラッと光ると、扉が閉まり、列車は動き出しました。その後、白いシャツを着た駅員さんは再び業務に戻ったのでしょう。
シャツが汗で張り付いていました。
働くこと。色々な人が背中で教えてくれている気がします。
私の働く意味ってなんだろう。そんなことを考えるようになりました。
就職活動中に熟考したはずなのに、結局答えは出ていなかったようです。就職活動はしばしば恋愛に例えられますが、当時の私が生娘だとするなら、今の私はついに会社とキスをしたのです。生娘だった私は、まだ彼氏もいないのに未来の結婚生活を想像しろと言われていたようなものです。何もわかっていませんでした。今もわかっていませんが。
店舗を離れることになった私は、会社の基幹部門で働くことになりました。「頭脳労働をさせたい。」とのことですが、ほかの言い回し(「あなたは物事を正面から受けとめるから。」「最初に現場を知ってほしいと思ったんだけど…。」)を考慮すると、外回りが向いてないと判断してのことでしょうか。面白いのは、「おまえはくの一か。」というツッコミです。どうも前に出すぎる傾向があるようで。「手裏剣を無駄にしないで、お屋敷の奥で少しは内助を学んでみぃ。」とのことです。
そうかあ、と思ったものの。
店舗なくして弊社の利益は上がりません。お客と直に触れることができる現場(店舗)に常駐し、取引先に出かけ、私はわかりやすい動機の中にいたのです。わかりやすい動機とは、「すべてはお客さまのため!」というものです。失敗しても、叱られても、そのわかりやすい動機を礎にして私は次の日も会社に行ったものでした。
幹部は言いました。「ゆくゆくは会社を担う人間にしたい。」と。総務に限りなく近い部分で働くということは、たとえ直接的ではないにしろ、結果的にはお客さまのためになることです。しかし、今後、わかりやすい動機は失われました。私は組織の人間で、「会社のために」働くのです。「今後は幹を太くしていかないと」「会社が大きくなるためにはね…」と力強く語る幹部を前に、私は、自分でない誰かに白羽の矢が立つのを遠くから眺めるような気分で「はあ。」「はあ。」と答えつつ、ゆっくり、ゆっくり、コーヒーを飲んでいました。少し飲み残しました。
弊社の事業は多岐に及びます。あるニッチマーケットの存在に目をつけた創業者(現在の代表取締役)が全国規模にまでした基幹事業。ビジネスは成功し、「こういうものが欲しかったのよ〜!」と泣いて喜んだ人たちがいたことでしょう。会社は次々と新規事業を開始します。会社設立時に力強く存在していたはずの「ないから私たちが提供する!」という熱い気持ち(があったと思うのよね。たぶん。)は少しずつ空洞化し、会社は「外」ではなく「内」に目がいくほどの規模になりました。「内」を見るようになった弊社に未だ足らない何か。それを補う人材になるべく仕込まれるのが今後の私です。
しかし、私は思うのです。
社会に何かを提供したいという純な気持ちから始まったはずなのに、「内」を見るようになることで伴う危険があると思うのです。「外」に提供するどころか「内」の利益ばかりに目がいって、どんどん、どんどん、むしろ囲い込まれていくのではないか、と。囲われた範囲の中で営利を貪る人々が今世紀に入って次々と摘発されていく様を見るたびに、「こういう大人になっちゃいけないよ。」と暗に諭されている気がしたのです。新世紀に突入してもしばらくの間、私は学生でした。暗に諭された中から華麗に飛び出したばかりの新卒が今考えるべきことはなんでしょう?
すぐに答えが出るとも思えませんが、帰宅途中、電車の中でこんな光景を目にしました。
酔いつぶれたサラリーマンが車両の床に伏してしまい、皆に迷惑をかけていました。「大丈夫ですか?」と声をかけてもピクリともしません。そのうち気付いた駅員さんが駆けつけました。その間、列車は某駅に停車していました。大の大人(リーマン)を大の大人(駅員)が「うんしょ、うんしょ」と運び出し、ホームに降り立つと、白いシャツの背中がライトを頭上に掲げました。キラッと光ると、扉が閉まり、列車は動き出しました。その後、白いシャツを着た駅員さんは再び業務に戻ったのでしょう。
シャツが汗で張り付いていました。
働くこと。色々な人が背中で教えてくれている気がします。
転機
2006年8月9日宣言に代えて。
入社して四ヶ月経ちますが、オンでもオフでも色々なことが起こりました。一連の大騒ぎを自分の中だけで解決できなくて、ここ(日記上)に書いたり、大切な人たちや家族にも迷惑をかけました。
先々週末の日中、私は初めて蝉の声を聞きました。クーラーを点けずに寝て、起きて、自分の体が汗でびっしょりになっていることに気付くあの感覚。そして、眩しい太陽の光。梅雨が明けて夏が来ました。記憶が遠くなっても、体が覚えているんです。嗅覚は記憶と直結しているといいますが、アスファルトが灼ける匂いやスイカを切った瞬間の瑞々しい匂いが、私に一年前のあの出来事を思い起こさせるんです。
去年の夏、私は自分を見つめました。ひとつの恋が終結したのをきっかけに、自分がひどく「恋愛」に依存していたことを知ったのです。好きな人さえいればいいと思っていた私は、ひとつのおかずを食べ続ける子どもと同じだったのかもしれません。これさえあればいいと思っていた唯一の「これ」を奪われ、私は自分に何もないことを知りました。趣味は「恋愛」だと豪語していた私のその他の趣味は、オシャレ、料理、恋愛映画を観ること、恋愛小説を読むこと、ラブソングを聴くこと、すべて好きな人に直結するものだったので、その好きな人がいなくなったことをきっかけに、数珠繋ぎのように失われてしまったのです。好きな人さえいればいいと思っていた私は、ほかをないがしろにしているつもりは微塵もないつもりでしたが、友達や家族をやはり傷つけていたのです。
私は自分の人生を充実させる旅に出たつもりでした。失恋をきっかけに、何か別の趣味を持とう、と。決意は固まったものの、神様はこんな私にも優しくて、僅か一ヶ月で私の人生には新たな風が吹きました。そして、私は「書くこと」に何かを見出すようになったのです。
季節は一回りしました。私は、自分が「書くこと」と「恋愛」を自分に都合の良いように結びつけていたと気付かされ、またしても依存していたことを知ったのです。生産的な趣味がどのようなものかは未だにわかりませんが、帰宅し、PCに向かい、祈ると見せかけてただ自分の感情(良いものも悪いものも含め)を垂れ流していたこの数ヶ月は、悪趣味と罵られても仕方ないものでしょう。「書くこと」と「恋愛」に依存していた私は、ふと、そのふたつを一度に失うのではないかという恐怖に襲われ、「ああやはり私には何もない」と、去年からあまり進歩していないことに愕然としたのです。
会社から辞令が下り、私は、去年と少しだけ違う自分の立ち位置を省みました。今や私は社会人で、社会に果たせる何かがあるのです。顧客のために働くんだというわかりやすい動機は失われましたが、経営者、そのブレーン、そういった人たちと机を並べて仕事ができる環境に置かれることとなり、自分がようやく成熟して新たに社会に還元できる可能性に気付いたのです。
単なる趣味という枠を越え、私にはもはや「何もない」という絶望はないはずです。というのも、私の周りには何もないどころか、多くの友人、素晴らしい文化、家族、義務、美しい世界、それらが当時と変わらず存在していることに、もう一度、改めて気付いたのです。
去年と今とで何が違うかといえば、私にもっとも近いところで美しい「言葉」を与えてくれる人が、去年はいなかったこと。そして、当時は知り合ってさえいなかった人たちが、今は「言葉」によって私に多くの刺激を与えてくれること。さらに、当時も今も変わらずそばにいてくれる古い友人たちがより深い「言葉」を私に与えてくれること。
だから、私も、当時と違う方法で何かしらの「言葉」を発していきたいんです。季節が一回りする間に、私は「言葉」に多くの意味を見出したつもりでしたが、ここにきてリセットしたいんです。一般的な「言葉」と、伝えたい相手への「メッセージ」を混同することのないように、今まで以上に細心の注意を払いながら。ここ(DiaryNote)を便利なツールとするのではなく(ツールはツールとして認めつつも)、そうではなく、垂れ流すのではく、残しておきたい何かを昇華させるために。
当時も今も「恋愛」が私にとっての一大事という事実は変わりません。今年の夏、私は改めて自身の性質を受け入れます。が、その性質はなかなか変わらないとしても、その性質を存分に発揮するべき時期の果てに、私ができること、私にしかできないこと、そういった何かがあるだろうことを、今回の辞令がまさに終止符として打たれ、それによって私は再確認したのです。
辞令は終止符でしたが、偶然出会ったあるふたつの「言葉」も私にとって終止符でした。↓
愛のなかには、つねにいくぶんかの狂気がある
しかし狂気のなかにはつねにまた、いくぶんかの理性がある
(ニーチェ・『ツァラトゥストラはかく語りき』第一部「読むことと書くこと」より。)
私がその初めにおいて私の恋愛を肯定したのは、
私にとってはそれが自我の主張であり、
発展であったことはいうまでもないことでした
しかるにこの自我の主張であり、発展であった恋愛は
実は人生の他の一面である他愛的生活に通ずる一つの門戸であったのです
(『平塚らいてう評論集』より。)
入社して四ヶ月経ちますが、オンでもオフでも色々なことが起こりました。一連の大騒ぎを自分の中だけで解決できなくて、ここ(日記上)に書いたり、大切な人たちや家族にも迷惑をかけました。
先々週末の日中、私は初めて蝉の声を聞きました。クーラーを点けずに寝て、起きて、自分の体が汗でびっしょりになっていることに気付くあの感覚。そして、眩しい太陽の光。梅雨が明けて夏が来ました。記憶が遠くなっても、体が覚えているんです。嗅覚は記憶と直結しているといいますが、アスファルトが灼ける匂いやスイカを切った瞬間の瑞々しい匂いが、私に一年前のあの出来事を思い起こさせるんです。
去年の夏、私は自分を見つめました。ひとつの恋が終結したのをきっかけに、自分がひどく「恋愛」に依存していたことを知ったのです。好きな人さえいればいいと思っていた私は、ひとつのおかずを食べ続ける子どもと同じだったのかもしれません。これさえあればいいと思っていた唯一の「これ」を奪われ、私は自分に何もないことを知りました。趣味は「恋愛」だと豪語していた私のその他の趣味は、オシャレ、料理、恋愛映画を観ること、恋愛小説を読むこと、ラブソングを聴くこと、すべて好きな人に直結するものだったので、その好きな人がいなくなったことをきっかけに、数珠繋ぎのように失われてしまったのです。好きな人さえいればいいと思っていた私は、ほかをないがしろにしているつもりは微塵もないつもりでしたが、友達や家族をやはり傷つけていたのです。
私は自分の人生を充実させる旅に出たつもりでした。失恋をきっかけに、何か別の趣味を持とう、と。決意は固まったものの、神様はこんな私にも優しくて、僅か一ヶ月で私の人生には新たな風が吹きました。そして、私は「書くこと」に何かを見出すようになったのです。
季節は一回りしました。私は、自分が「書くこと」と「恋愛」を自分に都合の良いように結びつけていたと気付かされ、またしても依存していたことを知ったのです。生産的な趣味がどのようなものかは未だにわかりませんが、帰宅し、PCに向かい、祈ると見せかけてただ自分の感情(良いものも悪いものも含め)を垂れ流していたこの数ヶ月は、悪趣味と罵られても仕方ないものでしょう。「書くこと」と「恋愛」に依存していた私は、ふと、そのふたつを一度に失うのではないかという恐怖に襲われ、「ああやはり私には何もない」と、去年からあまり進歩していないことに愕然としたのです。
会社から辞令が下り、私は、去年と少しだけ違う自分の立ち位置を省みました。今や私は社会人で、社会に果たせる何かがあるのです。顧客のために働くんだというわかりやすい動機は失われましたが、経営者、そのブレーン、そういった人たちと机を並べて仕事ができる環境に置かれることとなり、自分がようやく成熟して新たに社会に還元できる可能性に気付いたのです。
単なる趣味という枠を越え、私にはもはや「何もない」という絶望はないはずです。というのも、私の周りには何もないどころか、多くの友人、素晴らしい文化、家族、義務、美しい世界、それらが当時と変わらず存在していることに、もう一度、改めて気付いたのです。
去年と今とで何が違うかといえば、私にもっとも近いところで美しい「言葉」を与えてくれる人が、去年はいなかったこと。そして、当時は知り合ってさえいなかった人たちが、今は「言葉」によって私に多くの刺激を与えてくれること。さらに、当時も今も変わらずそばにいてくれる古い友人たちがより深い「言葉」を私に与えてくれること。
だから、私も、当時と違う方法で何かしらの「言葉」を発していきたいんです。季節が一回りする間に、私は「言葉」に多くの意味を見出したつもりでしたが、ここにきてリセットしたいんです。一般的な「言葉」と、伝えたい相手への「メッセージ」を混同することのないように、今まで以上に細心の注意を払いながら。ここ(DiaryNote)を便利なツールとするのではなく(ツールはツールとして認めつつも)、そうではなく、垂れ流すのではく、残しておきたい何かを昇華させるために。
当時も今も「恋愛」が私にとっての一大事という事実は変わりません。今年の夏、私は改めて自身の性質を受け入れます。が、その性質はなかなか変わらないとしても、その性質を存分に発揮するべき時期の果てに、私ができること、私にしかできないこと、そういった何かがあるだろうことを、今回の辞令がまさに終止符として打たれ、それによって私は再確認したのです。
辞令は終止符でしたが、偶然出会ったあるふたつの「言葉」も私にとって終止符でした。↓
愛のなかには、つねにいくぶんかの狂気がある
しかし狂気のなかにはつねにまた、いくぶんかの理性がある
(ニーチェ・『ツァラトゥストラはかく語りき』第一部「読むことと書くこと」より。)
私がその初めにおいて私の恋愛を肯定したのは、
私にとってはそれが自我の主張であり、
発展であったことはいうまでもないことでした
しかるにこの自我の主張であり、発展であった恋愛は
実は人生の他の一面である他愛的生活に通ずる一つの門戸であったのです
(『平塚らいてう評論集』より。)
ホンジツハ セイテン ナリ
2006年7月30日
仕事の夢ばかり見ていたら「寝顔が変だ」と笑われた日曜日。
交渉した挙げ句に入れてもらったマイ・ラヴァー’s room。ノーメンテナンスの数ヶ月を経てとてもレディを入れられる状況じゃない、とゴネた彼。彼が本格的に忙しくなる以前、少し片付けるからコンビニで待ってて、と何度も置き去りにされたことがある(昨夜もそうだ)。ひとつ言えるのは、私は散らかったこの部屋が嫌いじゃない、ということ。
部屋をぐるりと見回して。
ひとり暮らしの部屋にしては多すぎる本棚、それだけあるのに収まりきらない本、積み上げられてできたCDのタワー、空いた缶ビール、新聞と雑誌の山、その山の上にふぁさふぁさと被さる洗濯物、常に開きっぱなしのクローゼット、蹴躓くとパタパタと倒れるペットボトルたち、液晶が埃を帯びたノートパソコン、履いたのか履いてないのかわからない靴下、使ったのか使ってないのかわからないタオル、物が多すぎて三分の一しか開かない居間と廊下を繋ぐ扉、いちいち物をどかさないと寝ることさえできないベッド。唯一の居場所と化したそのベッドの上で私は思う。やっぱりこの部屋嫌いじゃない。
ベッドの上で壁にもたれて、本棚に詰まった本のラベルを左から右へ、上から下へ、ゆっくり眺めた。タイトルのすべてが家主の彼を構成する要素。仕事を終え、帰宅して、ここに座って、あの本を読んで、あのCDをかけて、床に転がるペットボトルのひとつに口をつけ、あそこに服を脱いだのかな、と想像が具体的になる。自分で「俺はこういう人間だよ」と語らない彼のすべてがここにある。整理されてないこの部屋は、真理を記号的に片付けることを嫌う彼そのものを表しているようで、もはや言い訳できないレベルの証拠ともいえる。彼の部屋と心を見ることができるのは私だけ。
とはいえ。
洗面所の棚の一部を分けてもらい、私は化粧品とコンタクトの洗浄保存液を置く。口をすすぐコップの中に私のピンクの歯ブラシが一本。風呂場を覗けば、私の持ち込んだクレンジングオイルもある。私が少しだけ浸食した彼のスペース。彼の心に占める私の割合は、はたしていかほどか。帰り際、いつも少しだけせつなくて、わざと残していきたいものがある。せめて香りだけでも残らないものかと私は料理をしたり、そのほかにも色々なところに仕掛けを残す。これみよがしではない(と信じてる)その仕掛けは、目には見えないから、彼のスペースを浸食しない。そんな風にさりげなく彼の心にも形跡を残せれば、と思う。
近所のイタリアンレストランでランチを食べ、その後、彼は部屋の大掃除、私は電車に乗って自宅へ。
いい天気。
「6月9日が梅雨入りで、今日が梅雨明け。」と言った私に、「ベタな比喩をするなよ…。」という彼のツッコミ。彼に最後に会ったのが6月9日で、再会したのが昨日。会えると思ったら延期になり、終わると思ったら梅雨も長引いた。たまたまだ。もしたまたまじゃないなら、これからしばらくは晴れる日が続くのかな。台風がきても、その後には台風一過があるし、と信じてやっていくつもり。これは正真正銘、ベタな比喩です。
交渉した挙げ句に入れてもらったマイ・ラヴァー’s room。ノーメンテナンスの数ヶ月を経てとてもレディを入れられる状況じゃない、とゴネた彼。彼が本格的に忙しくなる以前、少し片付けるからコンビニで待ってて、と何度も置き去りにされたことがある(昨夜もそうだ)。ひとつ言えるのは、私は散らかったこの部屋が嫌いじゃない、ということ。
部屋をぐるりと見回して。
ひとり暮らしの部屋にしては多すぎる本棚、それだけあるのに収まりきらない本、積み上げられてできたCDのタワー、空いた缶ビール、新聞と雑誌の山、その山の上にふぁさふぁさと被さる洗濯物、常に開きっぱなしのクローゼット、蹴躓くとパタパタと倒れるペットボトルたち、液晶が埃を帯びたノートパソコン、履いたのか履いてないのかわからない靴下、使ったのか使ってないのかわからないタオル、物が多すぎて三分の一しか開かない居間と廊下を繋ぐ扉、いちいち物をどかさないと寝ることさえできないベッド。唯一の居場所と化したそのベッドの上で私は思う。やっぱりこの部屋嫌いじゃない。
ベッドの上で壁にもたれて、本棚に詰まった本のラベルを左から右へ、上から下へ、ゆっくり眺めた。タイトルのすべてが家主の彼を構成する要素。仕事を終え、帰宅して、ここに座って、あの本を読んで、あのCDをかけて、床に転がるペットボトルのひとつに口をつけ、あそこに服を脱いだのかな、と想像が具体的になる。自分で「俺はこういう人間だよ」と語らない彼のすべてがここにある。整理されてないこの部屋は、真理を記号的に片付けることを嫌う彼そのものを表しているようで、もはや言い訳できないレベルの証拠ともいえる。彼の部屋と心を見ることができるのは私だけ。
とはいえ。
洗面所の棚の一部を分けてもらい、私は化粧品とコンタクトの洗浄保存液を置く。口をすすぐコップの中に私のピンクの歯ブラシが一本。風呂場を覗けば、私の持ち込んだクレンジングオイルもある。私が少しだけ浸食した彼のスペース。彼の心に占める私の割合は、はたしていかほどか。帰り際、いつも少しだけせつなくて、わざと残していきたいものがある。せめて香りだけでも残らないものかと私は料理をしたり、そのほかにも色々なところに仕掛けを残す。これみよがしではない(と信じてる)その仕掛けは、目には見えないから、彼のスペースを浸食しない。そんな風にさりげなく彼の心にも形跡を残せれば、と思う。
近所のイタリアンレストランでランチを食べ、その後、彼は部屋の大掃除、私は電車に乗って自宅へ。
いい天気。
「6月9日が梅雨入りで、今日が梅雨明け。」と言った私に、「ベタな比喩をするなよ…。」という彼のツッコミ。彼に最後に会ったのが6月9日で、再会したのが昨日。会えると思ったら延期になり、終わると思ったら梅雨も長引いた。たまたまだ。もしたまたまじゃないなら、これからしばらくは晴れる日が続くのかな。台風がきても、その後には台風一過があるし、と信じてやっていくつもり。これは正真正銘、ベタな比喩です。
Can I Celebrate?
2006年7月29日買ったばかりの服・マニキュア・グロスで身を飾り、染めたばかりの髪を梳って家を出た。
二ヶ月振りに会うマイ・ラヴァー。たかが二ヶ月。されど二ヶ月。外回り中に何度も走った外堀通りを二人で行く。時刻は午後七時。御茶ノ水、飯田橋、市ヶ谷、四ッ谷、このあたりの開けた風景が私は好きで、特に飯田橋と市ヶ谷を結ぶ外濠沿いには何か深い思い入れがある。思い入れはあるが思い出はない。一緒にこの道を歩くのは初めてじゃないけど、こうして何度か歩くことで、大好きな外濠の存在価値がさらに高まる日が来るのでは、と。湿気が多いのか、壕の反対の岸は少し煙ってた。
九段北を横切って靖国通りへ折れる途中。
一緒に歩くと周りを見ない私は左折するタクシーに気付かなかった。さして身長の変わらない彼が私を引き寄せたとき肩に肩がコツンとぶつかって、ああ危なかったね、という感想しか私にはなかったけど、私たちの前を通り過ぎていった車の後部座席の女性(40歳くらい?)がこちらを見ていたという。
彼と出会い、隣に立つことに慣れ、一緒に歩くことに慣れ。私はすっかり忘れてたけど、そういえばこの人はこういう人だった。私を守るどころかどんどん先を行ってしまう人の後ろをちょこまか追いかけていた頃、今の彼に出会い、ある話を聞いた。道を一緒に歩くとき女のコをどう守るか、という話だ。当時の恋人に不信感を抱き始めていた私は「こんな人の彼女だったら幸せだろうな。」と本気で思ったものだが、数奇な運命の果てにこうして隣を歩くことになった。「女のコがこうなったときには…」と語っていたマイ・ラヴァーにとっての"女のコ"が今の自分だということがふと判明した今夜、プレイバックしてもう一度、私を轢きそうになったタクシーの中から、私と私を引き寄せる彼を客観的に見たかった。
深夜12時過ぎ、高いところ(場所は秘密)から夜景を見る。
つい反っくり返ったら、宝石箱みたいな街が逆さまに見えた。雲が多い今夜は星が見えなくて残念だけど、夏の風が頬と半袖の腕に心地よい。東京の中心で反っくり返ったら、右目にはサンシャイン、左目には六本木ヒルズらしきものが映り、遙か下からは喧噪と車の音が聞こえた。それ以外は、空、空、空。目を瞑ったら空さえ消えて、私は五感のひとつを失い、残った四感を研ぎ澄ませた。そして二ヶ月分を精算する。
その後。
「りんに"数独"を教えてあげる。」と言う彼と並んで寝ころんで、パズルを解く。2005年にイギリスでブームになったこのペンシルパズルは、3×3のブロックに区切られた9×9の正方形の枠内に1〜9までの数字を入れるという、いたってシンプルなルール。ともに最高学府を立派な成績で(?)卒業した二名が、うーんうーん、と頭を付き合わせて、「わかった!」「えっ!?」「なんだ簡単だな。」「ここからはどうするの?」「あ、全然簡単じゃない…。」「でも、これ、初級編だよね?」と言い合いながら問題と格闘。
何もなくていい。仮に何か与えられるなら、こんなシンプルなパズルでいい。
二ヶ月振りに会うマイ・ラヴァー。たかが二ヶ月。されど二ヶ月。外回り中に何度も走った外堀通りを二人で行く。時刻は午後七時。御茶ノ水、飯田橋、市ヶ谷、四ッ谷、このあたりの開けた風景が私は好きで、特に飯田橋と市ヶ谷を結ぶ外濠沿いには何か深い思い入れがある。思い入れはあるが思い出はない。一緒にこの道を歩くのは初めてじゃないけど、こうして何度か歩くことで、大好きな外濠の存在価値がさらに高まる日が来るのでは、と。湿気が多いのか、壕の反対の岸は少し煙ってた。
九段北を横切って靖国通りへ折れる途中。
一緒に歩くと周りを見ない私は左折するタクシーに気付かなかった。さして身長の変わらない彼が私を引き寄せたとき肩に肩がコツンとぶつかって、ああ危なかったね、という感想しか私にはなかったけど、私たちの前を通り過ぎていった車の後部座席の女性(40歳くらい?)がこちらを見ていたという。
彼と出会い、隣に立つことに慣れ、一緒に歩くことに慣れ。私はすっかり忘れてたけど、そういえばこの人はこういう人だった。私を守るどころかどんどん先を行ってしまう人の後ろをちょこまか追いかけていた頃、今の彼に出会い、ある話を聞いた。道を一緒に歩くとき女のコをどう守るか、という話だ。当時の恋人に不信感を抱き始めていた私は「こんな人の彼女だったら幸せだろうな。」と本気で思ったものだが、数奇な運命の果てにこうして隣を歩くことになった。「女のコがこうなったときには…」と語っていたマイ・ラヴァーにとっての"女のコ"が今の自分だということがふと判明した今夜、プレイバックしてもう一度、私を轢きそうになったタクシーの中から、私と私を引き寄せる彼を客観的に見たかった。
深夜12時過ぎ、高いところ(場所は秘密)から夜景を見る。
つい反っくり返ったら、宝石箱みたいな街が逆さまに見えた。雲が多い今夜は星が見えなくて残念だけど、夏の風が頬と半袖の腕に心地よい。東京の中心で反っくり返ったら、右目にはサンシャイン、左目には六本木ヒルズらしきものが映り、遙か下からは喧噪と車の音が聞こえた。それ以外は、空、空、空。目を瞑ったら空さえ消えて、私は五感のひとつを失い、残った四感を研ぎ澄ませた。そして二ヶ月分を精算する。
その後。
「りんに"数独"を教えてあげる。」と言う彼と並んで寝ころんで、パズルを解く。2005年にイギリスでブームになったこのペンシルパズルは、3×3のブロックに区切られた9×9の正方形の枠内に1〜9までの数字を入れるという、いたってシンプルなルール。ともに最高学府を立派な成績で(?)卒業した二名が、うーんうーん、と頭を付き合わせて、「わかった!」「えっ!?」「なんだ簡単だな。」「ここからはどうするの?」「あ、全然簡単じゃない…。」「でも、これ、初級編だよね?」と言い合いながら問題と格闘。
何もなくていい。仮に何か与えられるなら、こんなシンプルなパズルでいい。
7月27日の異動雑感
2006年7月27日コメント (2)昨夜、イカの足を噛みながら今後のキャリアプラン(というほど大したものではない)を練っていたところ、「秘書になりたいなあ…。」と唐突に思った。なので、「秘書とは」でGoogle検索したり、「秘書検定1級」ってどれくらい難しいんだべ?と調べたりして遊んでいたら、朝、出社していきなり秘書になることが決定した。私は母から「牛乳を買ってきて。」と頼まれて食パンを買ってくるような女だが、秘書の適正としては申し分ないのだろうか。早速母に報告したら「アンタが秘書を雇った方がいい。」とのこと。私もそう思う。
美大に行くはずだった私が大学に入り、警察官を志望し、後に編集者を志望し、営業に配属されたかと思いきや今度は秘書になるというのだから、人生の大半のことは予測がつかない。というわけで私は今後も何かを予測しない。
異動前の何やかや(PCのお気に入り整理とか)を済ませ、同期・Kちゃんと飲み@会社近くの居酒屋。
「これからは土日休みなんだね、りんちゃん。」「うん、そうみたい。」「もう外回りはしないんだね。」「そういうことだね。」「Nくんが知ったら悲しむよ。」「アイツはどうでもよろしい。」「あははは!」「Nとこれ以上行動を共にしないってだけで長い冬が明けたような気分だ。」「わかるよ。いざってときに頼りないなんてサイアクよね。」「でしょう?」「大体ね、男なんてね、いざってときにダメなのよ!弱いのよ!頼りないのよ!」「…Kちゃん?」「ほんっっっと、男ってさ!!」「…Kちゃん?」と、なぜか今夜はとまらないKちゃん(何があったのだろう?)。
以下、本日の特記事項。
帰りの電車にて。混み合う車内で私のすぐ前にいたのは、推定年齢28歳のサラリーマン。読みたくないのにメールが見えちゃう。あ、あ、連続で何件も女性の名前。彼女かな?
「マリちゃんはタケちゃんのせいで今日プンプンなの!だからバイバイ!(`ε´)」
「ごめんね。今度こそチューしたげるからね(>_<)」
おー。タケちゃんよ、アナタも大変ね。あーメールって恥ずかしい。
…待てよ。
帰りの電車でメールを打つ機会が多い私。ふと恐ろしくなって、こっそり自身の受信履歴をチェック。(以下、マイ携帯より抜粋↓)
「これから洗濯して出社です。」
「帰宅後、ビールを一口舐めたら、ほとんどその瞬間即寝してました。」
「買わずに我慢してた『大人の週末』カレー・冷やし中華特集、買っちゃった。」
「昔からの課題で、旨い冷やし中華の店を調査中です。」
「今、ビールとカレーと読書の時間(我ながら優雅)を終え、帰路につきました。」
見られてもまったく問題なさそうだ。
美大に行くはずだった私が大学に入り、警察官を志望し、後に編集者を志望し、営業に配属されたかと思いきや今度は秘書になるというのだから、人生の大半のことは予測がつかない。というわけで私は今後も何かを予測しない。
異動前の何やかや(PCのお気に入り整理とか)を済ませ、同期・Kちゃんと飲み@会社近くの居酒屋。
「これからは土日休みなんだね、りんちゃん。」「うん、そうみたい。」「もう外回りはしないんだね。」「そういうことだね。」「Nくんが知ったら悲しむよ。」「アイツはどうでもよろしい。」「あははは!」「Nとこれ以上行動を共にしないってだけで長い冬が明けたような気分だ。」「わかるよ。いざってときに頼りないなんてサイアクよね。」「でしょう?」「大体ね、男なんてね、いざってときにダメなのよ!弱いのよ!頼りないのよ!」「…Kちゃん?」「ほんっっっと、男ってさ!!」「…Kちゃん?」と、なぜか今夜はとまらないKちゃん(何があったのだろう?)。
以下、本日の特記事項。
帰りの電車にて。混み合う車内で私のすぐ前にいたのは、推定年齢28歳のサラリーマン。読みたくないのにメールが見えちゃう。あ、あ、連続で何件も女性の名前。彼女かな?
「マリちゃんはタケちゃんのせいで今日プンプンなの!だからバイバイ!(`ε´)」
「ごめんね。今度こそチューしたげるからね(>_<)」
おー。タケちゃんよ、アナタも大変ね。あーメールって恥ずかしい。
…待てよ。
帰りの電車でメールを打つ機会が多い私。ふと恐ろしくなって、こっそり自身の受信履歴をチェック。(以下、マイ携帯より抜粋↓)
「これから洗濯して出社です。」
「帰宅後、ビールを一口舐めたら、ほとんどその瞬間即寝してました。」
「買わずに我慢してた『大人の週末』カレー・冷やし中華特集、買っちゃった。」
「昔からの課題で、旨い冷やし中華の店を調査中です。」
「今、ビールとカレーと読書の時間(我ながら優雅)を終え、帰路につきました。」
見られてもまったく問題なさそうだ。