思春期の中学生のような夢を見て寝覚めサイアクな火曜日。

最悪なのは夢見だけじゃない。出社して早々、虫の居所が悪かったらしい某上司の標的となる。明らかに自分が正しいと信じて疑わないその人は大声でまくしたて、今日も皆に明らかになるように私を叱る。

「お昼行ってきまーす。」と表面上はにこやかに取り繕いながら事務所を出る。

菓子パンを買ったものの涙の味しかしない。ふっ、うっ、とパンと感情を飲み込んだつもりが、堪えていたここ数ヶ月の諸々が爆発して、陽の当たるベンチで「わああああああああああああああああ!!!!!」と泣く。公私入り交じった感情は発散される場所を求めて見つからず、昇華せず、さらに淀み、終いにはNGワードとなって脳内で叫ばれる。聞かせたい、聞かせられない。見せてやりたい、でも見られたくない、こんな醜い自分。嫌いな人にも好きな人にも。

素敵な人になりたい。そう願って邁進するのは自分のためだと思ってた。年をとればとるほど汚れかねない私たちは、徐々に増える汚れを相殺する必要があろう。その努力を怠ったとき、女は「年増」と罵られ、本来年齢のせいじゃない部分まで年齢に起因するものだと受け取られる。

年をとりたくないわけじゃない。むしろ、年をとって今より成熟するかもしれない未来の自分に会ってみたい。が、不断の努力を伴わずにただ不毛に年を重ねることは、自分にとってというより、周囲にとって不利益だ。素敵になりたいと願うこと、一見エゴイストととられかねないその行為は、実はものすごく奉仕精神に満ちたものかもしれない。今日は機嫌が悪かったのねと片付けられる類じゃない要因ばかりで満ちた人、そういう人を陰で冷静に分析する私のような若い人に、いつか同じように蔑みを秘めた目で見られることを想像するとやりきれない。

涙を拭いてさらに考える。

いつだってベストな人なんていない。ここ(日記上)にこうして良さげなことばかり書く私だって、怒る日もあれば泣く日もある。それで仕事が左右されるのは精神が未熟な証拠かもしれないが、私がそうなるまいと耐えたところで仕事の相手が常に機嫌良いわけがない。その中で働くしかない。それはそう。それは理解できた。が、レギュラーもイレギュラーも込みの「全体像」がそもそも素敵じゃない、そんな人にはなりたくない。なってたまるか。泣いてたまるか。

帰宅後、卒業式の記念DVD(←親バカの父が注文したらしい)が届いているのを発見→再生。持ち帰った仕事(服の丈上げ)をチクチクと進めながら縫子は3月に帰る。


吹き荒れる風に騒ぐポールではなく、そよぐ柳のようにしなやかであれ!


そう語ったのは我が出身大学の総長。三ヶ月前に感銘を受けたこの台詞が、このタイミングで再び私に届けられる。吹き荒れる嵐のような社会に出ることはわかってた。自分の導き出した理論にしっかと掴まってポジティブであろうと努力していた私はポールだったのかもしれない。ときには醜い感情を排出する自分を(人には迷惑をかけずに)認めて「まいっか、ムカついたんだもーん。」とのほほんと生きる人は無責任ではなく、しなやかだ。

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余談ですが、DVDを見た後お風呂に入って頭にタオルを巻いたらカメムシに首を噛まれました。洗濯して干したタオルにくっついてた模様です。おかげでカメムシ臭くて大変です。何しろ自分の首が臭いので、逃げても逃げても臭さは追ってきます。

泣きっ面に蜂、とはよく言いますが、泣きっ面にカメムシって。
外国かぶれのyouに幸あれ
筆が滑るから深夜に日記を書くのはやめようと決意する月曜日。

すっかり恒例となったNくん(同期)との外回り。本日のドライバーは私。「今日は30度近くなるらしいですよ。」と出発する前から恐ろしいことを言うレンタカー屋のおじちゃんに見送られ、ブロロロロロンとP→Dへ。車内、暑い。テンション、低い。

「暑い!」「暑いっすねえ。」「CDのボリューム上げて!」「これ、SUNSHINE TRANCEですか?」「そう。トランス好きなの、私。今日の陽気にピッタリでしょ?」「僕もトランス好きです。」「(珍しく)気が合うね。」「英語が好きなんですよ。…カモーン!…ぇぁぅ…ェジぇ…カモーン!」「英語好きなわりにハッキリ歌える部分はCome onだけなんだね。」「ぇぁ…カモーン!」と、相変わらず人の話をあまり聞いてないNくん。

駐車して搬入を済ませる間に、車内の温度は最高値に達す。

「だーっ!!暑い!!」「暑いっす!!」「荷物重い!!」「重いっす!!」とアドレナリン大放出の二者はともにカッチリスーツ姿。どっちが汗臭いのかわからない(どっちもか)。「ごめんっ、私、脱ぐ!」と車内でキャミソール一枚になる私と、あまりの暑さに目眩を起こし薄着の私に目もくれない(くれられちゃ困るけど)Nくん。「ブラとパンツだけになりたーい!!」「カモーン!!」と二人してすっかりおかしいテンションになった頃、今日ばかりはきっちり昼休憩をとろう、パスタがいいっす、いやだ定食を食べたいの、と大いに揉めた後、ついでにコーヒーブレイクもしちゃおう、とドトールで力尽きる。がくっ。

Nくんと優雅な(?)コーヒーブレイク中、衝撃の告白を聞く。

パスタやパンを主食とするN、ご飯と味噌汁を主食とする私。ただの好みの違いかと思ってた。「僕、りんさんの言ってることにピンポイントで反応できてないっすよね?」「たしかに。さっきも私がキャラクター物は苦手って言ってるのに、じゃあプーさんは好きですか、とか言ってたしね。」「僕、たぶん、日本語が第二言語なんです。」と語った帰国子女のNは、日本を出たかった。2001年以降厳しくなったアメリカのビザ取得が実現し次第、Nは会社を辞める。

「うん、アナタはその方が合ってるよ。」「…今日は怒らないんですね。」「小さいことでは怒るけど、本当に大切なことに関しては寛容なの。」「…。」「理屈じゃない部分への感度には自信があるの。英語が好き、パンが好き、という理屈抜きでも、アナタがここじゃない空気を欲しててその中で生き生きするだろうことは想像できる。仕事もうまくいくよ。」「僕、もし逆の立場だったら…りんさんが辞めるって言ったら…寂しいです。」「…。」「すみません。」「向こうでのアテはあるんでしょ?」「あります。がんばります。」と力強く語ったNは、同期・Nくんじゃない、男・N氏の顔をしてた。見たことない顔。ああこんな顔もできるのか。今は頼りないそのあどけなさの先に、童顔なのに頼りがいのある某男性の面影が。きっと男は最初から男じゃない。

ドトールを出て、再び搬入へ。

「Nくん!フェアに使った商品、片付けてって言ったじゃない!」「あっ…片付けましたよ。」「じゃあ、あそこにあるアレは何!?」「…商品ですね。」「もういい、私がやる!」と同い年なのに叱りとばす私と、なぜか従順なNくん。頼りない。使えない。情けない。イケてない。格好よくない。つまらない。大人しい。優しい。温かい。心地よい。

Come on, You are my partner(期間限定).
生暖かい雨が降る日曜日。

本日はお休み。ゆえに朝寝坊。覚めなければいいのに、と夢の中で夢と気付くほどに幸福な眠りの後、起きていきなりケータイを見る。新着メール一通受信。仕事を終え、これから眠りにつくらしい。私が起きるとあの人は眠る。私が眠るとあの人は起きる。今日もそのようだ。

自分が彼と同じ生活(仕事)をすることを想像すると、最後まで参らずにいられる自信がない。参ってないだろうか、と心配した私の心配は所詮杞憂で、送られてくる「無事の知らせ」はいつも温かさと余裕に満ちている。私が嫉妬するくらいの余裕。年上だから? 社会人経験が長いから? そのふたつのアドバンテージを手に入れたとして、私は彼と同じように振る舞うだろうか。そのふたつのアドバンテージがなかったとして、あの人は恋人に優しいだろうか。たぶん優しい。

深夜、衝撃的なブログを読む。

最近別途にブログを起ち上げたらしいおねえさんのニュー・ブログによると、モーリス・ベジャールのモダン・バレエ『バレエ・フォー・ライフ』を最近観に行ったそうで、その詳細が綴られていた。フレディ・マーキュリーとジョルジュ・ドンという共に45歳という若さでエイズで死に至ったアーティストへの追悼をこめたバレエとのことで、ドンが死んでから何年も経つ今も最愛の人を失った重みの中で生きるベジャールに、ねーさんはいたく感銘を受けたご様子。「こういう人がいた、という証を、あせることなく、世に留めたい!」という感情の爆発が作品を生み、人(ねーさんを含む)の心を揺るがし、悲しみでしかなかった(はずの)感情は悲しみで終わらずに昇華する。他者が生きた証を残したいと願うベジャールの根底には「愛してる!ジョルジュ!」というシンプルで強い想いがあるのみ、と。

派生して、私が昔好きだったアーティストを思い出す。

大好きだったSIAM SHADEのVo.栄喜はかつて言った。「自分の生きた証を残したい。」と。というのも、自身の音楽性の方向を模索して途方に暮れたある日、彼は、ある小さな美術館で作品を発表していた画家の「死んだ後も生き続けたい。」というメッセージに触れ、感銘を受け、その後も歌い続ける道を選んだから。その話はたしかに感動的だったけど、私にはいまいちピンとこなかった。自分が死んだ後もそんなに多くの人に覚えていてもらえなくてもいいし、たとえ大切な人の記憶に残りはしても、その大切な人が死んだらやはりそれっきりだろう、と。私は諦念に満ちていた。

先日飲んだばかりのねーさんと「書くこと」について熱く語る以前から、私は、「表現」がただの表現として終わらない方向へ続く可能性を考えている。自分にたまたま与えられた「表現」の手段は「書くこと」で、毎日書きたい想いが募る。が、爆発しそうな想いに理由付けをしても、「自分の生きた証を残したい。」にはならないような。その代わり、今日、ねーさん(とモーリス・ベジャール)が改めて教えてくれた「表現」の源に、私は体の奥から湧き上がる血潮が沸騰するように共感した。

とてもシンプル。私が書きたかったのはたしかに「生きた証を残したい。」という理由によるけど、自分の生きた証じゃない。自分じゃなくて、自分の周りの愛しい人の生きた証。現時点では後付けに見えるこの理由がいずれは本物になるように。私の(ブログ以外での)表現が「表現」として完成するとき、私の言葉でもう一度それを言いたい。

この気付きがきっかけで多くのことが納得できた。

私が友達に「ね、ね、ね、聞いてよーうちの彼ってば…」といちいち言いたくなるのも、恋をする度に軌跡を詳細に報告したくなるのも、そこまでは話しちゃアカンという部分を話したくてウズウズするのも、単に喋りたがりという性質がそうさせるのではないような。どうせノロケるなら世界一素晴らしいノロケ(ってスゴイな笑)をしてやろう、と思うほどの覚悟が決まったとき、私は「表現」にひとつの可能性を見た。そして書く。自分が世界一素敵だと信じる人の素晴らしい所以を。だってこんなに格好良いの、だってこんなに優しいの、だってこんなに素敵なの、と。それがただのノロケではなく「表現」として完成したとき、私以外の誰かが同じようにあの人を素晴らしいと思えばいい、と私は願う。願いながら書く。書きながら祈る。

というわけで今日の結論↓

私の彼氏になる人は書かれる覚悟を持たねばならない

…なーんちゃって(←最近の口癖)。

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本日のW杯雑感。

●日本vsクロアチア。

●キックオフと同時に爆睡し、後半30分頃に目が覚める。

●GK川口のファインプレーをリプレイで見る羽目になり、大層口惜しい。

●決勝トーナメント進出が危ぶまれる昨今、選手と監督はもちろんだが、侍ブルーに期待してものすごいお金をかけたスポンサー連中のことを考えるとやりきれない。なーんて社会人目線で考えてみたり。

女神 is working

2006年6月17日
女神 is working
接客要員として稼働する土曜日。

先月末支給されたばかりの制服を纏って、化粧を直して、目薬IN、気合い十分で店頭へ。「この仕事は女優業よ。」と語る上司の指導を受けずとも、最初から人を喜ばせることを目的に作られた店内はあまりに眩しく、自然、私は切り替わる。OFF→ONへ。ただの女→アドバイザーへ。

「りんさん、しゃがむときに足を開かないの。」「声が大きいわね、アナタは。」「笑い方はエレガントに。」「汗で化粧が崩れてるわよ。」と、何をするにも叱られる。その度に「ハイッ!!」と体育会風に返事をするとまた叱られるので、「かしこまりましたぁ。」と女神のように(←当店ではよく使われる比喩)微笑みながら「こんなの私じゃない!」と心の中で葛藤…してる場合じゃない。いらっしゃいませぇ♪

緊張で脂汗をかく女神(←私のこと)。

来週に迫るプチデビューに備え、不二子先輩(5月8日の日記参照)にベタ付き。「ひとりでやってごらん。」と放置されてる間はお客様と二人きり。かじったばかりの商品知識をさも詳しいかのごとく披露したり、失敗しやしないかと想像して目眩を起こしたり、静かな場所で心臓の音が聞こえるのではないかと恐れたり、それでもパッと見は女神のごとく。

本日の接客を終えてから考えたこと。

私の日々の業務(接客以外)は売上アップのためにある。業務内容は細分化され、まるで砂を集める作業のよう。本来は砂のお城を完成させることが目的だったのに原料の砂を集める作業につい没頭するように、私はたまに目的を見失う。完成した砂のお城に感動して就職活動をしたはずの私は、そのお城の裏には美しいだけじゃ済まない諸々があることをきちんと理解して、あまりに理解し過ぎていたのかも。

ゴール地点を最終目標として飛び出せば、なんとか届く、もしくは届かずに手前で終わる。ゴールよりさらに先を見据えて飛び出せば、いつの間にか目的は達成してるものだろう。それと同じように、失敗を恐れて接客を行い「ああ、ミスしなくてよかった。」とホッとしている私は、おそらく到達できてない。私の感動した砂のお城は、たとえ資本主義社会でときに「無駄だ」と批判される脆い牙城だとしても、「これだけはどれだけ世の中が荒んでも存続してほしい。」と当時の私が心から願ったはずのもので、それだけの価値がある(と信じている)。価値ある商品を世界で一番幸せなはずの彼女(お客様)のために。いつかは私も世界で一番幸せになりたい、という幼い頃からの夢が募り行き場を変えてこの業界に私を導いたのも道理。「ああ、ミスしなくてよかった」に終始してはならない思いが私にはあったはずで、その思いは、販促活動、資材回収、という諸々の付随業務にまみれるべきじゃない。

自分の所属する業界と、商品を求める購買層、私たちと購買層の二者から発される雰囲気が、私は無条件に好きだ。

「人は聖人になどなれない」と語った私を二月に諫めたある人のように、今日は私も語ってみよう。企業理念が砂のお城だとしても、つまり体裁だけ良くしようと取り繕った部分が(どんな業界・企業にも)あるとしても、その悲しい事実がすべてじゃないし、美しい理念がすべてでもない。「人は聖人になれない」と諦めるのではなく、聖人(美しいもの)になれる可能性をもっともっと取り出してそれがすべてであるように見せること。そういう姿勢が大事なんじゃないかな。私の所属する会社が謳う理想はたしかに理想に過ぎないけど、舞台裏の醜い諸々がまるで無いかのごとく、集う接客員とお客様が共有する美しい幻想がすべてのように、そういう姿勢を私はこれからも持たねば、と思う。

舞台裏では「あー、だりー。」とか言ってお菓子モリモリ食べたり、事務所に逃げ帰ってPCで遊んだり、お尻掻いたり、あくびしたり、立て膝ついたりしてるわけだが。それでも私は女神。パッと見は女神。

I feel so warm.

2006年6月15日
香水をつけたらクシャミが誘発された木曜日。ぶえっくしょい。

昼ゴハンを食べ損ねてフラフラの本日、帰りの山手線内で一通のメールを受信。Sさん(大阪在住)だ。西の地から頻繁に届けられるこの贈り物は、いつも私にとってジャストのタイミング。愉快で、愛らしく、たまにちょっと切なくて、それでも最後は元気の出る内容だ。先日の(私の)女子力全開の返信に対し、今回も女子ならではの内容。

「秘密」は隠微だ。Sさんと「秘密」を共有するとき、その内容は隠微さを増し守るべき大切なものになる。他人にはくだらないと揶揄されかねない内容を「ね、ね、Sさん、誰にも言わないでね。聞いて、聞いて。」と差し出すと、批判されがちな私の想いは途端に大切なもののごとし扱いを受けることがある。嬉しい。そして楽しい。

「ブログもあるし、メールもあるし、りんさんたちとの(東京−大阪間の)距離をそれほど感じません。」とSさん(とSさんの彼氏)は語る。東京−大阪は遠い。それはその通り。でも、Sさんの言う通り。たしかに会いたい。会えればいい。が、「距離」という邪魔者が私たちを分かっても、遙々西からやってくるSさんの波動は参りそうな私をいつも救うし、今日だってそう。

帰宅してテレビを点ける。

自分が携わった商品が画面に映る。友人が所属する会社のCMが流れる。マイ・ラヴァーの仕事に大きく関わる報道が為される。大きい仕事がしたい、と鼻息荒かった人々を思い出す。メディアに登場する仕事が大きい仕事? 資本主義社会でリーマン(OL)になるということは消費者ありきを前提にするということだから、誰でも(消費者と企業の間の)メディアに関わる可能性がある。表層の目立つ部分にしか反応できなかったあの時代がどんどん遠ざかる。

テレビを消して雑誌を読む。その後、PCを起ち上げる。テレビ、雑誌、ネット、すべての媒体の前で私は「ああ、生きている。」と思う。

人と人の交感について考える。テレビという媒体、雑誌という媒体、ネットという媒体。媒体を通して感じるあの人の体温。彼氏が隣にいるのにやたらくっつきたがり直接的な温もりを欲した(そしてなかなか得られなかった)数年前、媒体を間に挟むのは余分な手続きの気がしてた。間接より直接を愛してた。直接的って何? 大声で「好き」と叫ぶこと? 愛を表現するために抱きしめること? できない多くの男を「不実」と決めつけた。

自分は「不実」じゃないと信じてた女は、媒体の前で何かを学ぶ。

直接的になれる範囲など実は自分の身の回りにしかない、と。大きすぎる世界のほんのほんのほんの僅かな範囲。自分と世界を異にする多くの人には触れられないのが現実だ。完全に隔絶された自己と他者。そもそも、それが前提。だから媒体がある。レギュラーな直接接触の感動を下げるのが媒体か。そんなことないってば。もともとイレギュラーな直接接触の感動を呼び覚ますのが媒体なのか。

大きな森の中で耳を澄ませると、遙か彼方から銃声が聞こえる。そんなイメージか。私が銃を向ける対象は目の前の仕事で、目の前の問題で、目の前の相手。皆もそう? 私はひとりぼっちなのかなと誤解して目に見えるものばかり欲しがったけど、私の構える銃は一本、一回に撃てる弾数に限りがある、それは誰にとってもそう。だから、皆、各々の場所に散って違う対象に銃を向ける。たしかに聞こえる銃声を、私は媒体を通して聞く。寂しいどころかむしろ頼もしい。私が発砲する銃がもっと大きな音を出せばいいのに、と。銃声が誰かに聞こえるように。私が媒体に触れてあの人の体温を感じられるように、私のこの熱すぎる体温が誰かに届くように。その人を元気にするように。頼もしいと思えるように。

ここでない媒体でいつか、ね。

さてさて、かかとのケア(最近のマイ・ブーム)して寝るとしよう。
高校時代の友人C(音大所属)と飲む。

18時過ぎに地元の百貨店前に集合→父の日のプレゼント選びに同行してもらう。「何あげるの?」「パジャマの予定。」と話しながら、5階紳士服売り場・ナイティコーナーへ。寒がりのマイ・ファザーは夏でも長袖を着るマイノリティゆえ厄介だ。あれー長袖はどこだーと物色してたら、肌着コーナーにいたはずのCが満面の笑みで「りんちゃん!ふんどしが売ってるよ!!」と遠くから報告してくれた。随分嬉しそうだ。

目当ての品(長袖・サッカー生地)をゲット。チーン。

「Cは何あげるの?」「どうしよっかな。」「ふんどしにすれば(笑)?」「あははは!」「パパにとってもいいネタになるよ。」「ネタにしかならないよ!」「私、初任給でマイ・ラヴァーに何もあげてないんだよね。ふんどしにしよっかな。」「りん’sラヴァーはふんどし似合いそうだよね!!」「やっぱりそう思う!?」「思う思う!!」と閑静な紳士服売り場で笑い転げる二名→ふんどしを物色。「ふんどしって"クラシックパンツ"って言うんだね。」「気取りやがってなあ。」「あ、じんべえも売ってるよ。」「じんべえでもいいよね。」「○○さんはじんべえも似合いそうだね!!」と笑うC。同感だ。

じんべえ(と、ふんどし)は見送って地元の居酒屋へ。

場末感が漂うカウンター席で野球中継をお供に中生×2。おつかれさまでーす。イカの塩辛、鰹の刺身、もつ煮込み、豆腐そうめん、を次々と注文。可愛い顔してひたすら塩辛をつまむCは我が高校のアイドルで、「Cさんとの仲を取り持って!」と何度頼まれたかしらない(ついでに、なんでオマエがCさんと友達なのか不思議、とまで言われた)。可愛い顔して実は私以上にラディカルなCの素顔は、この私が知っている。

「体に悪いことがしたいなあ。」「恋って体に悪いよね。」「ねえ、ラーメン食べたくない?」「それは体に悪いなあ、行こう行こう!」と街へ繰り出す。ネオン輝く小さな街。高校時代に何度も通った街。「明日は仕事?」「仕事だよ。」「じゃあ今夜はあんまりおバカなことできないよね?」「いや、おバカなことをしようよ。」という展開で、ラーメン屋からカラオケ屋に変更。二名でーす。

歌い始めたら酔いが回り、「幸せになりたーい!!」「キスがしたーい!!」と叫びながら広瀬香美を歌う。「ロマーーーンスの神様、この人でしょーーか!?」「合コンに良い出会いなんてないっつーのなあ!」「性格良けーーればいい、そんなの嘘っ、だとっ、思いませぇ〜〜〜んかああああ!?」「思う、思うぞーーー!!」と大騒ぎ。

互いに働き尽くした悪事のすべてを知る私たち。あの教室でともに赤点を取り、ともに数学B以降を履修せず、テスト期間中を狙ってカラオケに行き、修学旅行先で告り計画を練り、バレンタイン大作戦を立て、なんであんなに好きだったのかと首をひねるような相手と恋に落ち、同じ2005年・夏に玉砕し、Cは過激な行動に出始め、私は懲りずにまた恋をして、教室の記憶は遠くなり、飲んでたジュースはビールになった。あれから8年。私がこうあるべきと望む理想の女性像は徐々に具体的になってきたけど、そうなれない現実にぶち当たる度に私は悩む。気心の知れた人だと思い込むゆえに人を傷つける。私が理想の女性像を描いて邁進する以前から私を知るCは、弟子入りする前の"弟子未満"をずっと見ている。そんなCの前では取り繕っても仕方ないね。

帰宅後、Cのブログを読む。

理屈抜きで私のことが好きだという。そうか、と膝を打つ。理屈抜き。私とCの間に理屈はない。歳をとって理論武装し出した私は武装する以前の自分を真正面から捉えるCの視線が痛いけど、痛がる必要はない、と行間から滲み出るCの優しさが嬉しい。私も理屈抜きにあなたが好きです。

なめりん

2006年6月13日
ソイバニララテ(@スタバ)を吹きこぼしてスカートに染みを作った火曜日。

本社と支店を行ったり来たり。支店で作業中のN氏(同期・要注意人物)にtel。「お電話ありがとうございます。○○店のY本でございます。」「あ、Y本さん。お疲れさまです、本社のりんです。Nさんいらっしゃいますか?」「ああ、旦那ね、いますよー。Nくーん、奥さんから電話ー!」…という対応を受けた数十分後、またしても野暮用発生。「もしもし、度々すみません。Nさんお願いします。」「Nくんはさっき出られましたよ。」「あ、そうなんですね。じゃあ戻り次第折り返しください、とお伝えいただけますか?」「了解です。妻に電話するように言っておきまーす。ガチャ。」と電話を切られ、私、受話器を持ったまま呆然。

本日はクレーム対応。

ただでさえ最悪な状況なのにアポに遅れたら…想像するだに氷点下。ダッシュ、ダッシュ、とにかくダッシュ。平謝りしつつ、私は日本のビジネスについて思いを巡らす。日本? 否、世界中がそう? すべてのビジネスは"机上の空論"の上に成り立っている。私が売り上げを伸ばしたい支店には取引先がいて顧客がいる。彼らとの素敵な関係を維持するためにシステムを構築するが、それはいつだって「前提」の上にある。

どういうことかというと、たとえば一軒のおしるこ屋があれば、おしるこ一杯でいくら儲かるかを計算して来店客数を予想する。これが「前提」。その「前提」に合わせておしるこの素(餡とか白玉粉とか)を用意する。ただ、実際におしるこ屋をオープンさせてみると、アホな店員がおしるこの入った鍋をひっくり返すかもしれないし、雨が降って客足が遠のくかもしれない。万が一の事前策を考えて考えて考えて考えたとしても、おしるこ屋のたった一人の店長が開店直後に心臓発作で倒れないとは言い切れない。

それと同じ。私たちが厳密な(とそのときは思われる)マーケティングを行っても、取引先がこうきたらこういう対応をしようと思っても、お客がこれだけ来るだろうからこれとこれを用意しようと考えても、A→B→C、と頭の中のシミュレーション(前提)通りに事が運んだ例しがない。ターゲットが「この指とーまれ!」と子どものように集まることはないし、取引先は納品予定日に納品しないし、お客は椅子が足らないほどの人数で押し寄せる。そして、私は自分がすべてを「前提」で片付けていたことに気付き、驚き、慌て、疲れ、痩せ、鰹節のように眠る。いっそ削られてやろうか。

なんしか。

想像力が根本的に欠如した輩は、取引先でも身内でも始末が悪い。ああ、きっと、仕事ができない人(相手の状況を想像できない人)は恋人ともうまくいかないだろう。この商品をあそこに運んで搬入して、という流れしか目に入らない人は、商品を持ちながら混み合う切符売り場で切符を買うのがどれだけ大変かを考えないし、もしくは搬入先の最低の奥行きと商品の丈を事前に調べることさえしない。思いつきもしない。そして空虚な「前提」で人を動かし、自分はどんどん現場を離れ、想像力をますます枯渇させていく。

なめんなよ!

そういえば、私が生まれた頃、「なめんなよ猫」、略して「なめねこ」が流行ったらしい。学ランを着、鉢巻きをし、大声で叫びたい気分だ。あれをパロってみよう。私はりん。なめんなよりん。なめりん、なめりん…。そうか、なめりんか。

ああ、くだらない。寝よう。
またしても都内をひた走る月曜日。

(※詳しくは昨日の日記を参照のこと。)

「今日はCD持ってきましたよ。」「でかした。何持ってきた?」「BACK STREET BOYSです。」「へえ…(また王道なものを)。とにかく発進して。」「What can I〜♪」「歌うな!」「歌う男は嫌いですか?」「好きとか嫌いとかそういう問題じゃないよ!ま、どちらかといえば好きだけど…。」「What can I〜♪」「オマエは歌うな!」と本日もドライブ…じゃなかった、外回りに出発。

六本木通りを爆走。

「あ、全日空ホテルですよ!」「ほんとだ。」「僕、このホテルのラウンジにウィスキーのボトルキープしてるんですよ。」「そうなんだ。」「デートにピッタリですよね。」「そうか?」「りんさんの好みのタイプは少しわかってきましたけど、嫌いなタイプってどんなですか?」「そうねえ…全日空ホテルのラウンジにウィスキーのボトルキープしてるような奴かな。」「ええっ!?じゃあ好きなタイプは!?」「場末の鮨屋に芋焼酎キープしてるような人だね。」「ほかには?」「助平で寝坊助で女にモテないとなお良いね。」「変な趣味ですね。」「変とか言うな!失敬な!!」「わ、びっくりした!なんでそんなに怒るんですか!?」「べつに…。」と、まるで痴話喧嘩。

そうはいっても必死な二名。朝から晩まで外回り、外回り、外回り。雨に濡れる日もある(パンツの中までぐしょ濡れ)。足を擦りむくこともある(ストッキング血だらけ)。商品が重くて腰を痛める(ああ、ボキボキ)。明らかに容量オーバーの物品搬入に充てられた時間は僅か。それでもやるっきゃない。文句を言う前に走るっきゃない。

上司に「今日一日費やしてコレだけ?」と叱られた(←りんに痛恨の一撃!)後、退社。

帰りの地下鉄で大振りの広告を見る。昔流行ったあの映画の続編が出るらしい。そうかあれからそんなに経つのか、と。見てないのに大嫌いになった映画。昔好きだった人が私に嘘をついて別の女のコと観に行った映画。そういえばこれだけじゃない。あの人は私に嘘をついてクラブに出かけ、女のコをナンパして、バレて謝ったあとも何食わぬ顔で無邪気に過ごし、また別の女のコを好きになり私の元を去って行った。

それだけのことがあっても私は彼を信じていた。「ごめんね、別のコと遊んじゃった。でも、僕、モテないから大丈夫。」と、たしかにあまりモテなかった彼を私は信じてた。彼のベーシックな部分は無邪気かつ天真爛漫で、たまに顔を出す邪な部分があるにすぎない、と。今の私は首を(横に)振ろう。"結果"だけに目を向けよう。たまに邪な部分がある男? それは邪な男だ。私を悲しませたという結果は"結果"にすぎないし、普段は無邪気だったというプロセスは所詮"プロセス"。

私がどれだけ大変だったか(プロセス)を語っても限界がある。

そういえば、私は、随分前に似たようなこと(結果がすべてという)を書いた。そうか。人がある程度大きくなってから考えることはほとんど同じなのかもね。人として成熟していく過程とは、どんどん新しい真理をストックしていくというより、一度思いついた(自分なりの)真理を徐々に洗練させていくことかもね。結果がすべてだと鼻息荒く語っていた就活中の私と、ようやく就職して新しい現実にぶち当たった私と、思っていることは同じなのに。限りなく正しいと(現時点では)思われる真理も、「これが真理だ!」と大声で叫ぶより、「これが真理なんだね。」と聞こえるか聞こえないかの声でひっそりと語ろう。それが優しくなるということかもね。

…なーんちゃって(←きっとこういう台詞が大事)。

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W杯雑感、諸々。

●日本VSオーストラリア。

●四年ぶりに(←私に限らずだろうけど)W杯を観戦する。ニッポン、ニッポン、とものすごい歓声が聞こえるが、あそこに応援に行っている人たちは仕事どうしてるんだろう…ということが試合結果より気になる。

●普段は生活を異にする多くの人が同じ画面を眺めていると思うと、ナショナリズムの意味はともかく生まれた背景がわかる気がする。単に、何かを共有したい、という根源的な欲求かもね。

●グループリーグ突破すればベスト16ということですが…、「勝ち点」の意味をつい一昨日理解した私には覚えることが多すぎる。
6月9日 AM9:40 〜 PM10:30 の記録。

出勤後。

外回りと物品搬入にコストがかかり過ぎる!と判断した上司から指令が下る。「これから都内を回るときはタクシーじゃなくてレンタカーだから。」「え!?」「一番大きい車にしたから商品いっぱい入るよ。」「え!?」「ナビも多分ついてるから。」という展開の末に二名(私とNくん)が駆り出される。

「りんさん、都内詳しいですか?」「なんでそんなこと聞くの?」「いやー、僕は地方出身だし、りんさんが道わからないなら勉強しなくちゃなって。」「私がわかってても勉強しろよ!ちなみに全然わからん!」とギャーギャー言いながらエンジンON。ブロロロロン。エルグランドはでかい。不安もでかい。

まずは赤坂、市ヶ谷、そのまま飯田橋へ。運転はN氏。

「どういう道で行くつもり?」「地図で見ると…ここって神楽坂ですよね?」「そうだけど…オイ、なんでこんな狭い道を行くのさ!?」「ナビが指示したから…。」「バカ!ナビを信用するな!この時間の神楽坂は大久保通り方面に一方通行なんだよ!右折できないってば!」「そうなんですか!?詳しいですね!」「鳴らされてるよ、Nくん!」「どうしましょう!?」「左折するしかないでしょ!」「でもあそこは神楽坂通り沿いなんですよ!」「じゃあ一度大久保通りに出て飯田橋交差点方面にぐるっと回って!そこからもう一度外堀通りに出て神楽坂下を曲がり直して!」「具体的な地名言われてもわかりませんから!」「なんでだよ!私は道に詳しい男が好みなんだよ!」「りんさん!プライベートな話になってます!」と、狭い車内で大騒ぎ。

神楽坂を後にして、今度は代官山方面へ。

「これは…路駐するしかないですね…。」「そりゃそうだ、あ、あそこに駐めればいいじゃん。」「あの車と車の間ですか!?」「そうだよ。」「すっごく狭いですよ!」「男なら縦列駐車くらい一発で決めたまえ!」「だってこの車すっげでかいじゃないですか!」「うーむ。」「しかも商品のせいで後ろが見えないし!」「だってここに駐めるしかないもん!」「…(無言でハンドルを切る)。」「Nくん、早くしないと!めっちゃ鳴らされてるよ!」「あー!!後ろが見えないっす!!」「早く早く!」「これは絶対無理です!」「もういい、どいて!!」→選手交代→「言い忘れたけど、うちの家は配達業やってるの!配達車は重いしでかいの!私をなめるな!」「じゃありんさんが運転した方が絶対いいですよ!」「運転できる男が好きなんだよおおお!!」「またプライベートな話になってます!」と、どこに行っても大騒ぎ。

お昼を食べる暇もない。再びハンドルを握るNの口に唐揚げを突っこみながら、私は助手席で地図を片手にサンドイッチを飲み込む。

「いやー、これからレンタカー借りるときはCDとか持ってきた方がいいっすね。」「そうだね。」「ほんと、ドライブみたいですね。」「そうだね…。」「今度、休みの日にもレンタカー借りてどっか行きましょうよ、海とか。」「普段もドライブなのに、どうして休日までアナタとドライブしなきゃいけないのさ!」「ひひひ。」「嬉しそうな顔をするな!」「彼氏とはラブラブですか?」「ええ、ラブラブです。」「どれくらい?」「南極の氷も溶けるくらい。」「そうなんですか。」「他人が入り込む隙間は髪の毛一本ありません。」「ひひひ。」「何が可笑しい!」とすっかりボケツッコミが定着してしまった感のある新入社員二名。

ぐったり帰社。その後残業。あらあら事実の羅列で終わってしまった本日の日記。

こんな日もある。
6月9日 AM0:45 〜 AM9:40 の記録。

※前回までのあらすじ
(Jねーさんとついつい話し込んでしまった私は終電を逃し、大都会・東京で路頭に迷う。明日も仕事。しかも雨。さてどうしたものか。)

仕事中とはわかっていたけど、マイ・ラヴァーに電話。「どうしたの?」「終電逃しちゃった…。」「えー、じゃあ鍵取りにおいで。会社の下まで一瞬出ていくから。」「うん、ごめん。」という展開でタクシーに乗る。都心で先に車を降りた私は、そのまま自宅に向かうJねーさんに手を振って彼を待つ。うー私が終電を逃すなんてええええええという気持ちが膨らみ過ぎてすっかり自己嫌悪に陥った頃、マイ・ラヴァー到着、鍵をゲット。タクシーの運ちゃんに「ここをこう行って、ああ行って、あのあたりまで。」と行き先指定までしていただき、一足どころか二足も三足も早く彼のマンションへ。

人の鍵を使って人の部屋に侵入。

「脱ぎっぱなしのアレが放置してあるけどお気になさらず!」「新しいタオルが洗濯物の山の中にあるからシャワーとか勝手に使って!」「ベッドと壁の間にリモコンがあるから除湿するといいよ!」と、私が来ることなどまったく予想してなかっただろう彼から、仕事中にもかかわらず何度もメールを受け取る。脱ぎっぱなしのアレをくすくすと片付け、うっかり彼の使いかけのタオルを使い、リモコンを発見できなかったので換気扇を回す。もう2時になる。

昨日(もう昨日になる)のJねーさんとの逢瀬で思いついたことをさらに煮詰める。

流しそうめんのようにわらわらとぶら下がった色とりどりのネクタイ群、スーツを着る用が減った彼にはこんなに要らないだろう。用途じゃない。そして目を凝らす。「物」(もともとあったものじゃなくて、人間が生産したもの)には用途があって、そこだけに注目すると甚だ現代的かつ理路整然とした状態になる。私が(たとえば)彼のネクタイを見るとき、明らかに用途は問題としていない。私は作家でもなんでもないけど、書きたくなるとき、それはこういうときなんだなあ、と。

ネクタイはネクタイ、それを首に巻く彼を好きなのはその通り。ただ、首に巻く本人がいない今だって、私は(用途を欠いた単なるものとしての)ネクタイから何かを抽出する。用途を孕んだ「物」で占められた世界とは、私たちの周りにいつでも存在するリアルワールド。「物」が「物」としてではなく漠然とした「もの」として私に迫るとき、その漠然とした何かを私なりの形にしたくて文章を書く。大抵は書き表せないが。ネクタイがただそこにある、それのいったい何が嬉しいのか、すべては謎だ。私がセクシャルだと感じる多くのことはマイ・ラヴァーが本質的に持っており、彼の持ち物にも(リアルワールドの裏で)かたちを変えて宿る。持ち物に宿ったその正体を、かつての私は"形跡"と書いた。女は形跡に恋をする、とも。

早朝6時過ぎ、家主帰宅。

あと3時間、あと3時間以内に私は会社に行かなくちゃ。リアルワールドには、彼と私の会社があって、サラリーマンとしての彼がいて、OLとしての私がいる。そもそも会社なんて存在しなかったあるがままの世界にワープすると、私は文章を書いているときと似た高揚感を覚え、同時に心から安らぐ。その世界では私は社会的身分をまったく持たないただの女で、目を瞑った状態では体温と呼吸音のみになった彼も社会的身分をまったく持たないただの男だ。

AM9:40 今日もリアルに働きます。

6月8日、不束夜

2006年6月8日
6月8日、不束夜
Jねーさんとゴハン@南青山。

私が仕事の関係で見つけたこのお店は、オープンダイニングが自慢(?)のカジュアルフレンチレストラン。ブルーノート・ジャズクラブがプロデュースしたそうで、先月初めて来たばかり。その日一番美味しいタパスを並べて見せてくれる(豚なら丸々一頭!)ので、待つそばから腹グーグー。ねーさん何にしますか、フォアグラですかさすがですね、このキノコが美味しいんですよ、と、久しぶりの再会が嬉しくて食べる前からテンション上がりっぱなし(←反省)。

シャンパンで乾杯後。

「あのドイツ人は元気にしてます?」「あ、Jさんに伝えてくれ、ってドイツ人の彼から伝言を預かってます。」「えーなになにー?」「"今度、僕とフレンチしてください!"って。しかもちょい悪っぽく伝えてくれ、って。」「あははは!」「あ、フレンチじゃ幅が狭くて困るから食事ならなんでもいい、って付け足してました。」「あははは!キモイ!」と、ねーさんがマイ・ラヴァーをたたっ斬る発言がスキ。調子に乗って私も斬る。斬って、斬って、斬りまくり、血まみれ(ねーさんと会うといつもこうなってしまう)…。

一通り斬り終わった後は(終始斬ってた気もするが)、ややディープな話。

ねーさんが私の日記を読むようになって早一年弱。恥ずかしいことを中心に色々書いてきたけど、"ここ"を離れて何かがしたい。次から次へと溢れる私の気持ちを言葉に収めることにやや限界を感じてはいたが、収めないよりはまだいい。かつてねーさんは言った。「りんさんは、おそらくその時の鮮やかな気持ちを、その歳でしか書けない鮮やかな文章で残せる人だと思ってます。」と。そうだろうか。私には勿体ないと思われるねーさんの美し過ぎる言の葉は、いつも私を奥の奥から揺り動かす。大阪育ち、血液型が同じ、共にひとりっ子、共学出身、と共通点はたしかに多いけど何かが違うはずのねーさんが私の心の中に居場所を作ったとき、私は、実の姉を想う妹より遙かに妹らしい気持ちでいたと思う。「おねえちゃん、読んで読んでー!」と習作を差し出す妹でありたくて、私はこうして日記を書いていたのかもしれない。

閑話休題。

ねーさんのご友人にビターな方がいらっしゃる。そのビターなお方は、かつてご自身の日記上で「"心の闇"を失ったとき、作家は作品を書かなくなる。」とおっしゃった。そうかもしれない。「書きたい!」という衝動から創作が為されるのは確か。が、一般的に素晴らしいことと捉えられがちな"創作活動"たる小説執筆は、たとえばアルコール依存症患者が酒を飲むように、麻薬中毒者が腕に針を刺すように、ただただトリップしたいという強烈な欲望から為されることもある。それはあまりみっともよくない。のたうち回るほどの感情の渦から逃れようとして、文章依存症患者は仕方なく作家になり、心の闇を見つめ、書き、見つめ、書き、見つめ、書き、落ちていく(だから彼らの多くは命を絶つのかも)。ヒロイズムの頂点に君臨するような文学は(なぜか)多くの読者に感動をもたらし、その一方で著者は心の闇を拡大するのだろう。

繊細な国・日本が輩出した多くの作家が"心の闇"と対峙しない限り作品を書けないなら、私は別の出発点が欲しい。闇からパッと開けた光の中で私は恋をし、新しい感情を知り、"心の光"に従って文章を書き、現実世界である人に恋い焦がれながら、概念世界に新たに誕生したある人(同一人物)にもう一度恋をした。私の場合は思慕がきっかけだったけど、人によって"心の光"に引きつけられるスイッチは色々あるだろう。"心の光"が眩しすぎる嫉妬を煽りそうな文章より、人の不幸は蜜の味、"心の闇"から派生した作品の方が好まれそうだ。が、私は、ニッチマーケットかもしれない"心の光"を見せられる場所をどこかに求めてこうしてネット上を彷徨う。人に受け入れられるべきもう一種類の文学の在り方を模索して。

…と、今日も私は自分の話ばかり。

あまりにも楽しいがゆえに逃した終電に気づき、土砂降りの中、ねーさんとタクシーに乗る。文章にするとやけに落ち着いて見える(らしい)りんとしての自分と、テーブル上でも行儀が悪く要らんことまでついつい口をついてしまう自分。誰かとお酒を飲んだ帰り道、そのギャップにいつも悩まされ、相手が失望もしくは辟易したのではないかと不安になる。今夜も大人の女の落ち着きを振りまいて去りゆくねーさんを降車後も見送りながら、次会うときはもう少し私も落ち着こう、と毎回考えているのに、一向に進歩がない。

ま、また飲みましょう(←ちょっと弱気)。
お休みゆえ惰眠をンガンガと貪る水曜日。

森茉莉の『記憶の絵』(ちくま文庫)を読みながら優雅にブランチタイム。輝石が散りばめられたような描写は甚だ美しい。が、私はなんだかんだでオチがあるものが好きなんだな、と気付いたり。尻切れトンボのような読後感は(時と場合によるが)気持ち悪く、私自身が世界のあらゆる事象に自分なりの結論をつけようと奮闘しているせいかな、と。この日記だってそうだ。

久々にデニムを穿いて外出(←休日の醍醐味)。

統合されたばかりの某銀行にて通帳記帳。一年間通い続けた料理教室退会につきキャッシュバックが少々、初任給の振り込みを数字で再確認、ガクンと減った携帯電話代、初めてのクレジットカードによる引き落とし、などなど、急スピードで変動した私の4月〜5月はこうして数字に表れる。今後は5桁ではなく6桁(本当は7桁希望…)が主流になるであろう残高が馴染まない。

紛失したコンタクトを購入後、市街地を後にする。

天気もいいしと、徒歩にて帰宅。ぐるぐるぐるぐる考える。気のせいではなく、入社後、私は脳が活発に動いている。以前から考え過ぎの傾向はあった(らしい)が、漠然とした思い→客観的に考察→現時点での最良の結論、という手続きがよりシャープに的確になった。論理的という言葉がこれほど似合わない女はいない、と自分では思っていたが、人に言わせると私ほど理論を重視している女もいない、とのこと。そうかな? 私はかの手続きを踏みつつも、絞り出した最良の結論が所詮自分の頭の中でしか適用されない現実を承知しているつもり。

予備校と思しき建物を横目に。

ああ今日は平日やんな、と気付いたのは、制服姿の高校生を発見したから。今思えば大学なんてどこに行っても大差無かったなと思うのに、当時はこの世の終わりを恐れるが如く悩んでいたような。そして、同じクラスの男の子との恋に夢中だった。卒業すればそれぞれ別々の道を歩むのに、今日は目が合った、同じ班になった、と一喜一憂し、相手に好きな人がいるとわかればそれさえこの世の終わりと等しかった。パワーに溢れていた当時、それならば別の人を好きになるまでよ、と殺しても殺しても甦るゾンビのように私は元気だった。記憶の絵(by森茉莉)の中の私は若く眩しい。が、キャピキャピと私の横を通り過ぎていく後輩たちを見て思ったことがある。

絶対戻りたくない。

普通のOLになるなんてまっぴらよ、と鼻息が荒かった当時。私の夢はクリエイティブと評される職種に就くことで、キャンパスラブを謳歌した後にその相手と結婚して幸せな家庭を築くことだった。美大進学を反対された高三の春、普通のOLになると決まった大四の春、キャンパスラブを謳歌した相手にフラれた大四の夏、私の夢はその度にことごとく砕かれ木っ端微塵になったが、バラバラになったそれらが予想だにしなかった独自の輝きを見せ始めた。輝く可能性を予想できなかった当時の自分より、少しはフレキシブルに考えられるようになった今の自分の方が好き。

ひとつひとつ(高校卒業後四大進学、大学時代に大失恋、今は普通のOL、親と同居)を取り上げるとやけに平凡な私の人生。当時の私に「今はこうなってるよ。」と告げたら落胆するかしらん。普通と呼ばれる人生の中に思いもよらない何かを見出した今の自分と、そうはいっても当時はまったく予想しなかった方向に進んだ人生(の一部分)を冷静に見る自分がいる。そうか、思い通りになる方が少ないのだろう。なんとなく平凡に進んできた私の人生だからこそ、10年後もなんとなく平凡に落ち着いてるだろうことが予想されるけど、たぶん、その予想通りにはいかない。かといって、当時は「ありえない!」と決めつけていたことが「案外アリだったな…。」と思える今の自分のように、今は「ありえない!」と決めつけていることが「案外アリだったな…。」と思えるだろう10年後の自分を想像すると少しだけワクワクする。

そうか、こんなことばかりうねうねと考えているから、人から「りんは五月病だ。」などと揶揄されるのだな、と気付いたので、ふいに思い出した高校時代の友人・C嬢にtel。

そんなことぶっちゃけちゃっていいの、と思われるギリギリのラインでする話は楽しい、それを聞いて笑ってくれるCの反応が嬉しい、ああこうして騒ぐ私は高校のときからちっとも変わってないよね、でもそれでいいんじゃん、という会話の後、妙に清々しい気持ちで家に着いちゃった。

りん流ユートピア

2006年6月6日
すっぴん&メガネで出勤する火曜日。

(※詳しくは昨日の日記を参照のこと。)

昼休み、同期Kちゃんを交えて井戸端会議。これが給湯室なら完璧だ。「つまりね、私の欲しいものは原理的に得られないのよ。」「どういうこと?」「DTほど魅力的なものはないと思うの。ただ、どれだけ魅力的なDTでも、付き合ったらDTじゃなくなっちゃうじゃない。」「DTはイヤだよ〜。」「私が理想とするのは、いつまでも悶々とした気持ちを忘れない永遠のDTなの。原田宗典のような。」「じゃあ付き合ってもDTのままにしておけばいいわけ?」「いや、至近距離にDT力全開の奴がいたらそれはそれで暑苦しい。」「ということは?」「結論は出ないよ。」「なんしか、DTはイヤだよ〜。」「俺はDTですよ。」「入ってくるな!」と、まったく得るところのない話を延々と。

取引先の返事待ち。退屈だ。人が出払った本社にてパンをかじる。

おいしくない。バカな。たかがパンじゃないか。そういえば、先日ン年振りに行ったカラオケ屋(通っていた高校のすぐそば)の唐揚げの不味さに驚いたが、私はあの日を覚えている。あの日とは高校時代。子どもだましと気付かなかったツマミの諸々が、私はやけに好きだった。大学生になり、ビールも銘柄にこだわらず、たまに連れていかれたオシャレっぽい店の雰囲気だけで満足で、それこそ子どもだましと思われる込み入った名前のカクテルを飲んでいた。口に入ればよかった。卒業を間近に控え、私は飲んだことのなかった酒(日本酒、ワイン、焼酎)を飲むようになり、大人しかいない店に行くようになり、本当に美味しいものを食べる機会ができた。それでも何を食べても美味しくて、自分はグルメじゃないと信じてた。

パンをかじりながらYahoo!ニュースを見る。

逮捕された村上世彰。またか、という感想しかない。グルメだったという堀江貴文のことさえ思い出す。不味いパンを飲み込んだ後、本社に唯一残った先輩のそばでケータイを(こっそり)チェック。忙しい時期が終わったら水族館に行こう、という約束が待ち遠しい。「水族館ってもしかしたら行ったことないかも。」と語る某氏に対して、バカな、と思うも、そういえば私たちはどこに行ってたろう、と目を瞑って考える。ディズニーランドも、ヒルズも、お台場も、汐留も、ザ・デートスポットがことごとく苦手な彼女を持ったある人(やはり大変なのかな)は、それでも私を楽しませようと休日の度に靴を履いていたような。

思い出すには時間がかかった。たとえば私たちは新宿御苑に行ったことがあるけど、思い出せる御苑の景色は遙か遠い。が、強烈に覚えていることがある。その強烈な何かは、たとえ御苑に戻らずとも、こうして職場にいても、リアルな感動とともに甦る。食べ物だってそう。味覚は徐々に当時の興奮を忘れ、それでも私は未だ忘れない強烈な何かゆえにまたあの店に行きたいと思う。そうか。私は、色々な場所に行きつつも、色々なものを食べつつも、こうして職場にいても思い出せるあの世界を愛でていたんだ、と気付く。

目を瞑って「もし水族館に行ったら」と考える。イルカがいて、ラッコがいて、クラゲがいて、でもそういった具体的な何かより、私はまたあの世界を欲すだろう。そして「もっと色々話して!」とせがむだろう。あれもこれもと消費者の需要に応えるための日々の仕事の合間に、美味しいものや行きたい場所を夢想しつつ、私はこれさえあればいい、と思う。これさえあればいい、という思いが(もしかしたら)人より強い私は、本気で消費者のことを考えるべきメーカーの仕事は不向きかも。それでもやるよ。仕事だから。「今日は何もできないからたまには早く帰りな。」と私を追い出そうとする先輩に挨拶をして、私は今日も帰りの電車で目を瞑る。

これさえあればいい。が、これ以外のものを「不必要だ」と切り捨てるのは人でなしと思う。だから、これ以外のものに皆と一緒に一瞬は興じつつ、誰も想像できないはずのこの世界を個々人が持っていれば、という理想郷を思う。そうなれば犯罪も無くなるのにね、と週刊誌の広告を見ながら考える。
いつの間にかダイエットに成功していた月曜日。

ジャストサイズ(某氏の家に泊まった翌日はいつもこう思う)のベッドでぐずぐず。起きたくない。行きたくない。熱あればいいのに、と小学生のようなことを思う。仏頂面で起きた後、某氏の家に基礎化粧品一式を忘れたことに気づき愕然。愕然としてたらコンタクト(←買ったばかり)を排水溝に流すし、嗚呼、踏んだり蹴ったり。今日も出勤。

組織変更が為されたばかりの本社にて。

袖をしつらえた専用デスクが与えられない下っ端の私とNくん。ちんまりとスペースを作って城とする。とはいっても猫の額どころか鼠の額ほどの机に大の大人がふたりとは。「Nくん、近いよ!」「仕方ないじゃないですか…。」「しかもNくん、汗かきすぎだよ!」「僕のことは気にしないでください。」「体温が伝わるんだよう!」「ひひひ。」「嬉しそうな顔をするな!」と、接触欲が強い私とはいえ相手は選びたい。

午後は他社にて会議。

上司に「今度入ったウチの子」と紹介された後は用無しラフランス。そうかー、そりゃ大変だ、ウンウン弊社もがんばります、と、とりあえずは顔に書いておいてまったく別のことを考える。それなりに聞いているフリをしながらあんなことやこんなことを考えてウッヒッヒと(こっそり)ほくそ笑むのは、そういえば小さい頃から得意だった。まじめにやれ? そのうちね。

タクシーを拾って本日は直帰ナリ。

疲れた。眠い。明日の服を選ぶ元気もない。メイクを落とすのも大儀だ。ケータイを見るのもしんどい。とか言いつつPCに向かう私は一体何を求めているのか。終わりなきレースのようなこの毎日、どうなったら周りと自分は満足するのだろう。視界が未だ開けない今、大事なのは、きっと、ラストスパートをかけるように全速力で走ることじゃない。それよりも、地味にコツコツゆっくりとペースを乱さずに。私の苦手とすることだ。

私は考え過ぎらしい。周りが感じるように私だって感じてる。仕事も恋も自己啓発も、と女性誌の謳い文句の如し人生を夢見た私には体力が必要だ。体力には自信アリ。"体"ならね。"心"はどう? と自分に問いかける。世の中には色々な役割の人がいてもいい。穏やかに溢れる泉のように懐の大きい人がいてもいいし、激しく流れる滝のような私がいてもいい。そんな気がしてた。私の中にはいつも激しく熱い血が流れる。そして身を焦がす。私はこれでいいのだろうか。

近々会う予定のJねーさんから一通のメールが。



りんさんのように
人一倍いろいろな想いを持っている人の人生は、
たぶん、何倍も美しい



想いが溢れて疲れるよ、Jねーさん。と、姉のいない私は泣きそうな気分でこれを読む。溢れる想いに言葉が追いついてないからこそ言葉を尽くして日記を書くのよね、とねーさんは言う。そうかもしれない。そうだと思う。暑苦しくないだろうか、と、ときに私は自らの姿勢に疑問を持つけど、かつては私のように勢いで色々やっちゃってた過去を匂わせるねーさんのように、私もいつか穏やかで落ち着いた30代になれるかな、と空想しながら8日(←ねーさんと会う日)は何を食べようかと思案する。
何度も同じことを注意される土曜日。

弊社が社運を懸けて(?)打ち出したプロジェクト。鼻息荒いその現場にヘルプに行ってと放り出されたところで、新人の私に何ができるというのか。何も知らないお客を相手に「先日担当したお客様がね〜(←嘘。担当なんて持ったことない)」「これ可愛いですよね〜(←嘘。自分だったらちょっとイヤ)」「やーん、素敵ですう(ヤレヤレ)。」と、意外になんとかなるもんだ。

今日に限って残業。

一ヶ月弱振りに会うマイ・ラヴァー。私が彼を待たせるなんて。今日もプチ出社したと語る彼はいつもスマイリー。キッチリ週休二日の私がやや不機嫌で、今日もそれなりに無理して来たはずの彼がスマイリー。葛藤。手の内を見せることこそ誠実だと思いこんでた時期はたしかに終わったけど、それでも私はここに書くしか謝罪の術がない。今は。

ワガママを言って宿泊

…を決めたものの、散らかった部屋に応急処置を施すという人のため、コンビニで待機。ピューピューと血が噴き出す頸動脈にバンドエイドを貼るような処置だと思われたが、「お待たせしました!」と迎えに来た彼とファミマでデザートを買う。コレ旨そうだなー、お、コレも旨そう、迷うなー、あ、ティラミスがいい、とニコニコ顔でおっしゃる人がいる。嬉しい(←何が?)。たかがコンビニなのに。ああコンビニなのに。

スポーツ新聞を読む彼の隣で『働きマン』(by安野モヨコ)を読む。

「仕事」と「それ以外」を分ける自分、そんな自分のアホらしさが恥ずかしくなかったわけじゃない。「仕事」と「それ以外」を分けて考えるから女は「どっちが大事なの!?」と男に詰め寄るし、"生活"の愚痴をこぼすし、「仕事」と「それ以外」を(たぶん)あまり分けない男は「女ってみっともないな。」と思うのだろう。これは推測。ただ、それなりに賢い女ならそもそも「仕事」と「それ以外」を分けて考えることが低俗だとわかった上で、数百万年の歴史を経て脈々と受け継がれた女脳に結局は導かれ、理想(「仕事」と「それ以外」も融合したひとつの生活だという)とそうならない現状(自分はどうしても分けてしまうという)の間の溝を発見する。これも推測。

恥ずかしい。仕事をする人から見る私のような女はみっともないとわかるから。『働きマン』の主人公・松方弘子がたとえ"働きマン"に変身しても、彼女だってスイッチが入らない限り、ふとした合間に仕事以外の自分を思い出す。男スイッチが入った彼女は普段の三倍のスピードで仕事をする。その間、寝食恋愛衣飾衛生の観念は消失する。スイッチが入れば、だけど。仮に彼女が優秀でも、それは男スイッチを入れたらの話? 女はそうかも。男はそもそもスイッチを入れるのか。

思うに、私はまだまだ「仕事」と「それ以外」でいえば「それ以外」しかなかった頃の記憶が多く、徐々に「仕事」の方がレギュラーになるのだろうと予想がつく。なんにせよ、徐々にそうなっていく過程で、私は「ザ・日本のOLにありがちな問題」に心揺さぶられ、子どもだった私がまんまと思い描いていたいわゆる状態になり、そこで(アホな女として)終わるか、その先で(働きマンとして)乗り越えるのか。

『働きマン』を置いた後。

「それ以外」で何かを見出しすぎちゃった私のことは私が一番よく知っている。漠然とした妄想の中でうねうねと考えて落ちていくのが普段の私なら、直接的な刺激を目から耳からあらゆるところから受けて私は今日も一皮剥ける。強烈な事実。私が「女」として何かを乗り越えても、素晴らしい働きマンになっても。どこかで方向性を誤った私が彼の望む方向に軌道修正して優秀な(OLじゃなくて)サラリーマンになるとも思えない。6歳年上で社会人というだけで手放しで尊敬していたのが学生時代の私。優秀なサラリーマンの彼(たぶん笑)と、優秀になる予定のOLの私は違う。彼のようになりたいと漠然と真似するのではなく、私は私のフィールドで最高に素敵なOLになろう、と。些細なディテールに至上の喜びを見出す今夜、私は「女」に生まれてよかったと思うし、「女」にしかわからないこの感覚を持ったままそれでも人への優しさは忘れないように。「女」も「男」も持つべき優しさを。

「素敵なOLへの道」は険しい。

みぎかひだりか

2006年6月1日
大学時代の友人・H之と飲み@高田馬場。

「高田馬場駅の早稲田側じゃない改札に集合ね♪」「早稲田口じゃない方ね、了解。」という打ち合わせの後、「着いたー?」「着いたけどりんが見あたらないぞ。」「間違えた!早稲田口の早稲田じゃない方ってこと!」と、私が待ち合わせ場所を指定するとろくなことがない。

知り合いが「東京一のコストパフォーマンスを誇る店」と語る地下のワインバーへ。

オイオイここ高いんじゃないの、と思わせるのは、薄暗いカウンターの奥に積まれた大量ワイン。子ども禁制。いいの、もう大人だから(たぶん)。10人も座るといっぱいになっちゃうカウンターにH之と並んで腰掛けて、まずはハートランドビールで乾杯を。8歳年上のOにーさんにここを教えてもらったのは8ヶ月前のこと。楽しい夜だった。あのとき食べた牛ホホ肉煮とムール貝のワイン蒸しが忘れられず、いつかまたここに来よう、と思った"いつか"が就職してからになるとはね。

サッカー好きのH之はかつてスポーツ誌編集に携わりたかったようで、途中で何かを諦めた私とは逆に、今は結果的にサッカーにまつわる仕事をしている。「大変そうね。」「メシ食う時間が無いから痩せちゃったよ。」「でも生き生きしてるね。」「あー仕事は楽しいかもね。」という仕事の話と、同じように出版社を受験した経歴から派生した「書くこと」に関する話も少々。

ともに文学部に所属した私とH之。ともに「書くこと」が好き。とはいっても、文系極北と自認する私と理系の領域にも精通するH之はちと違う。データ(たとえば試合の結果)をもとに正確な推敲を日々行うH之が使うのは左脳かもしれない。これは入社してすぐに思ったことだけど、「書くこと」をあまり要求されない私の仕事は何よりも正確さを求められる。取引先との約束は約束、金額は金額、履歴は履歴。主観を省いた事実をあくまで誠実に(←ここポイント)処理するときに使うのは左脳。理系か文系かは関係ない。誰にでも脳はふたつある。

それはそれとして、酷使した左脳を抱えて帰宅する私は(たぶん本能的に)右脳の活性化を求めて日記を書く。「日記」はデータ(その日起こったこと)を元にするけど、データから抽出した思い(主観的な部分)をどう膨らませるかは自由。それが楽しい。本文を書き終えた私は目を瞑り(本文を見ずに)右脳の声に耳を澄ませてタイトルをつける。こういうキーワードが出てきたからこう、という左脳的処理ではなく、語感と語呂に気を遣いつつあくまで漠然と湧いたイメージで。

このバーを教えてくれたOにーさんのメールより。「今日、村上春樹と柴田元幸の共著、『翻訳教室』(文春新書)を読んでいたら、冒頭で村上さんが、"小説をずっと書いていると頭の右側が使われていて、翻訳をすると頭の左側を使う感じで、バランスがとれる気がする"てなことを仰っていたのですね。」と。なるほど、よくわかる。仕事中に「あー今は左を使ってるなー。」といちいち考えているわけじゃないけど、アンバランスに偏った脳を放置したまま眠ると気分が悪い。だから私は小説を書く、というわけじゃないけど、日記を書き、音楽を聴き、PCもコンポも落とした後はワンダーランドへ飛ぶ。まったくの抽象世界。自分がヒロインになれる世界。身勝手なヒロイズムは、ひとり、ベッドの中で生み殺す。

しばらくは今の仕事を軌道に乗せていくことを考えると語るH之の求める世界はどっちだろう、と私は(勝手に)考える。データを扱う領域に注目して今後はプロフェッショナルの編集者になっていくのか、仏文科に自らを導いた才能に着目してさらには好きなサッカーそのものに目を向けていくのか。右か左か。

〆てサンゴー(やすい…)。

高田馬場から私は新宿へ。H之は池袋へ。新宿行の山手線内で発車を待つ私は開いたままのドアからホームで手を振る彼を見る。と思ったら携帯ブルブル。「もしもし…??」「ああ、今日はお疲れ!」と、2メートル向こうに立つ彼を見ながら耳元で響く声を聞くのは不思議だ。にっくいね、この色男!

本日一番笑った台詞:「"オフ会"って響きはサイテーだな!」 わはは同感(笑)。

限界ライジング

2006年5月30日
つい無口になる火曜日。

始業早々ペンを取り落としそうになる速報が。人生最良の日を迎えるはずだったある顧客に悲劇が起こる。人生最良になるはずだった日の一週間前に、ふたつでひとつになるはずだった片割れが事故で命を落とす。この速報以来、追っても追ってもなかなか頭に入らない目前の書類を持てあまし、業務に支障をきたす。

その流れのまま昼食を。

七時までにファイリングを終えないと、あれー新品のファイルがない、おーい○○さん、ってあら電話中だわ、じゃあこれはこのままここに置いておいてファックスを先に、あら大量ファックス受信中だわ、えーとえーと、あらあら今度は私に電話ですか、もしもしお電話代わりました、ええ…、ええ…、ああ…、ハイ…、うわー面倒な用件だぞこれは、わかる者に確認いたしますので折り返しご連絡差し上げます、ガチャン、えっとわかる人って誰だ、あれあれそういえば私はファイルを探してたんだった、おっとこっちのコピーが先ですか、ハイハイすぐやります、ありゃりゃ紙詰まり、うーうー紙が挟まって取れないよー、ふう直った、えっ今度は用紙切れ、用紙はどこ用紙はどこ、おーい○○さーん、って、まだ電話中かい!!(イライラ。)

なぜかいつもコンビにされる同期・Nと作業。

「今日中にこれをしなきゃいけないらしいわ。」「あっ、そうなんですか。」「私はこっちをやるからそっちお願い。」「りんさん、これはどうしますか?」「わ、私に聞かれてもね…。」「??」「こうしてこうしてこうすべきじゃない?常識で考えたらさ。」「あ、ハイ。じゃあこれはどうしますか?」「どうしますか、って別に私のプライベートな用事を頼んでるわけじゃないんだから、一緒に考えてよ。みんなの仕事じゃん。」「??」「聞いてる?」「あっ、これもやらなきゃ。りんさん、こういうときはどうしましょう?」「だからさあ…。」とイライラは頂点に達する。

"ストレス社会で闘うあなたに"というキャッチフレーズを眺めながらGABAを噛む。

ひとりっ子の私は「もし親がいなくなったら」という前提とともに生きる。親が死んだら私はひとり。最後に頼りになるのは自分だから、という信念のもとに私を育てたはずの父と、そんな父に依存しまくりの母。彼と彼女の極端な特性を併せ持ったのが、ふたつを比較しながら育った私。「もし親がいなくなったら」という前提とともに生きたとはいえ、「いつかはひとりになるからこそ繋がりを求めるし、それは幸福なこと」と信じる母寄りだった。それでも独立したかった。精神的な意味での独立を。アンバランスなひとりっ子。アンバランスな甘えっ子。

「えっ、こういうときはどうしたらいいの?」と思うときこそ、私は最後の切り札たる両親に安住を求めたような。だからこそ、本当に本当にどうしようもないときに自分の力でなんとかしようと思うハングリー精神がもしかしたら少し欠けていたのかも。四月以降、私の前に大きく広がったフィールドを前に、私を含む新入社員は戸惑い、考え、少しずつギリギリになっていく状態と闘う。少しずつギリギリになっていく中で、あと一歩、あと一歩、これ以上は無理と思える限界を僅か数ミリでも押しやって。そういう粘り強さを少しずつ。

四歳の頃、「おとうさんとおかあさんが死ぬ日がいつか来る」という事実に生まれて初めてぶち当たり、夜中に突然大声で泣いた。今でも覚えているのは、「りんちゃん、あなたの頭はひとつ。腕は二本しかないし、足も二本しかないの。だからね、それだけのものでなんとかしなきゃいけないの。」という台詞。私が物心ついて初めて教わった悲しいけど美しい(母の信じる)真理で、20年後の今も覚えている。ときどき忘れるけど。ときどき忘れるからこそ、私はたまに四歳児になる。

不思議なもので、「そうか。私の武器は、このひとつの頭と、二本の腕と、二本の足か。」と諦めた瞬間にこそ、本来は人に分けてもらうはずだった「甘え」と「限界」の癒着は消え、裸で放り出された「限界」は少しずつでも押し上げられる。そして私は二本しかない足で立ち、二本しかない腕で何かを抱え、ひとつしかない頭を使う。

これしかないと嘆くのではなく、これしかない、だからこそ、だからこそそれらを存分に使っていつかはひとりで生きて、と言いたげな(言わなかったけど。そして守ってくれたけど。)両親の信じる真理は、ふいに思い出した今日もやはり悲しい。でも美しい。

GABAが旨い。でも甘い。

がんばらナイト

2006年5月29日
大学時代の友人・TKとゴハン@新宿。

TKは同い年で百貨店勤務。同じ新入社員。同じ10月生まれ。うわー残業してなるものかーと五時くらいから早送りで業務遂行。タクシー乗っちゃいたい、いや金がない、あっ、でも間に合った、ってな感じで集合(ホッ)。生まれ変わった三越アルコットにほど近いTKオススメのレストラン(?)へ連行される、否、案内される。

サーカス小屋風の店内。

「若向けのお店ですねえ。」と若くない人みたいな発言を繰り出しつつ着席。ちょい悪だ…、この店はちょい悪だ…、とぶつぶつ(頭の中で)呟く私と、メニューを見るTK。でっかいTKと大食いの私にはこのテーブルは小さいんじゃないかと思うも、今日はこのテーブルに収まる程度に食べよう、と決意→たやすく崩れる。大好きな砂肝のソテーや、これまた大好きなユッケの入ったサラダをオーダー。ビールよりワインに傾きつつある私の意向を汲んでもらい、カラフェで白、赤を。ああイイ気分。

TKと腰を据えてじっくり話す機会はここ一・二年でぐっと増えた。まるで小学生が自動的にクラスを決められてしまうように、半ば自動的に集った私たち(TKを含む男女六人)は徐々に嗜好の違いを認め始めている。もともとの性質がどうであれ、二十歳を過ぎて、人はもう一度生まれ変わるのかもしれない。そして話をする相手を選ぶ。

色々と思い出した。

「男友達」という存在がかつて嬉しかった私は、まず友達になる前に相手の性別に注目した。いつからかはわからないけど、自分の「女」という性を一度でも認められて以降、私には「ある執着」がなくなったような。頭で考えるだけではダメで、実際に生々しい感触とともに五感で理解する儀礼。とても時間がかかっちゃった。不思議なもので、そういう「ある執着」が消えて以来、逆に私には男友達が増えた。

自分の書棚を見ても、過去の日記を読んでも、もしくはいつの間にか所属した自分の業界を見ても、私は、考えてみれば至極当然な「世の中には男と女がいる」という事実でさえ、"何も足さず何も引かず見る"という姿勢からかけ離れたところにいた。偏っていたと思う。それに気付くチャンスが「ある男を失う」という時期に訪れたはずなのに、人はぐるぐると同じところを回るもので、こうして螺旋のように繰り返しながら徐々に気付いて体得していくしかないのかな、と半ば絶望してたのかもしれない。

悲しいのは、自分が「女」であり目の前の相手が「男」であるという事実を"何も足さず何も引かず見る"というスタンスをうまく保てていると思った次の瞬間に、相手から"何かを足している"と思われる信号を受け取ること。「男」と「女」の間に千歳の岩のごとし友情が生まれるのは、「男」と「女」が愛し合う以上に難しいのかな。難しさを少しでもぼやかすために、私はかなり年上の男を友人に選びたい欲求があったし、そうして一度は育まれた友情も、相手に彼女がいて私にも彼氏がいるという期間限定の条件が必要だった。一度はわかり合えたはずの二人が恋に落ちて素晴らしい瞬間を重ねるなら、それと引き替えに、一度ならず何度もわかり合えたはずの何かを失うのかな。気持ちの振れ幅が大きすぎるその手続きもいいけど、こういう穏やかな関係(もしかしたら期間限定でも)が愛しい、と思うようになった私は少し老けたのだろう。

もちろんそんなややこしい話をしたわけじゃない。

「俺、新規四件とったんだよ。」「それはスゴイの?」「新入社員としてはたぶん異例。」「おお!」「それでもね、やっぱ上司は色々言うわけだ。」「ほう。」「じゃあオマエ自分が新人のとき四件も取れたのかよっ!ってな。」「わははは!!」と話しながらワインをくいっ。「私も色々あったよ。」「色々あるよなあ。」「ねえ。」「俺も心の中ではいつも"いやです!"って言ってるもん。」「わははは!言う、言う!心の中でね!!」と話しながらワインをくいっ。ああ、何かが解けていく。

仕事の後に飲むっていいね。

贖罪ラプソディ

2006年5月28日
ベッドの中で延々考える日曜日。

前日深夜、「当方、24時間営業中です!(訳:24時間電話待ってます!)」と、またしても働くお兄さんに圧力を与えたため、お疲れの彼から電話をいただく。久々の電話があまりに嬉しくて、得意の(?)抽象的な話をする余裕もなく、最近起こったことをメインに近況報告を。話しても話してもまだ足らない近況報告を。

マシンガンのように話す私の話を「ウン、ウン。」と聞きながら、ときに(ややつまらない)ジョークも混ぜつつ、まるで子どもが「おかあさん、今日ね、学校でね!」とまとわりつくのを煩がるでもなく受けとめる彼を、電話を切ったあとも私は想う。

話は変わるが。

「すべての人間が背負っている罪」を贖ったのがイエス・キリストだという話を聞いたとき、まさか自分にも罪の刻印が刻まれているとは考えもしなかった。考えはしたが、信じはしなかった。だって悪いことをした記憶がない。私はかの教義を信じるほど信仰深くはないが、納得できる別の仮定を信じている。どういう仮定かというと、ひとりの人間がこの世に発生した瞬間に世界におよぼす影響は少なからずある、という仮定。たとえば世界が果てなく広がる水面だとすれば、ほんの手のひらサイズの石を投げ込めばどこまでも波紋が広がる。それと同じ。私が泣いたり怒ったり笑ったりするほどの大きなエネルギー(世界からすればほんの手のひらサイズでも)を発するのだから、私という存在が世界になかったことには決してならないだろう、と。

私が考える「良き女」が、仮に「忙しいカレを理解して優しく包み込む」というものだったとして。たとえば「なんで会えないのー!?」とゴネるのは誰が考えてもあんまりなことだとは思うが、そんなことをしなかったとしても、「彼の恋人」という肩書きを持つ私が世界に存在する時点で、"そもそも"何かを背負っている気がする。

じゃあどう振る舞うのが一番良いのかを考えてみると、惜しみない愛を注ぐ私がいなかったらもしかしたら少しは寂しい思いをするのかもしれないが、その分彼は本来自分のものだったはずの時間を最大限に使うことができる。電話もメールもしないで済む。「彼の恋人」がこの世に存在しなければ。

普遍的だと思われる理想型が、「無理して電話くれなくてもいいから。」と気を遣う私と「本当にいつもゴメンな。」と謝る彼の間に育まれるなら、そうしない私という女はあるべき姿じゃない。が、"そもそも"前提として(彼に対しての)罪を背負った私は、何をしても罪になる。私が消えない限り、彼は、忙しい合間に「寂しがっているだろうか。」とふと考えてしまうだろうし、私が平気なフリをすればするほど本当はバレバレな何かに気付くことになるだろう。

ではどうすればよいのか。

罪にならない方法は(まだ)思い浮かばないけど、人生経験未熟な私が慈愛に満ちた行為だと定義できたような行為がはたして本物かといえば、かなり怪しい。かなり怪しいけど、こうして「人のためになる何か」を、あーこれも違うこれも違うこれも違うと考える過程無しにはたどり着けないところに何かがあって、それがもしかしたら今の私には想像すらできないものである可能性はある。

最近わかってきた。考えてすぐに答えが出るようなことなどほとんどなくて、若かった私は考えてすぐに答えが出る中でベストなものを掬い上げることには長けていたのかもしれないけど、答えを出さずに放置する状態に耐え抜いた後にポツンと残るだろう何かを探してみよう、ここであるべき女性像を熱く語るのもアリだとは思うけどそれが本当にあるべき女性像かといえばたぶんそんなこともないだろう、と思いつつある。すきー、すきー、と叫びかねない私はいわゆる愛を歌っている状態ではあるけど、そしてその愛はもしかしたら誰かに感動される類のものかもしれないけど、愛を歌いながらも歌っているその愛の中身に注目するより、本当はそこに本質はないと理解している自分でいたい。

つまり。

私がたしかにある人の幸福を願っていることは間違いないから、最終的にはどんな手段をとったとしてもある人に良きものをもたらせるように、たとえどの手段も結果的には罪になったとしても、ある人の幸福に繋がらないと初めから予想できるような行為だけはしないように。そうして試行錯誤する過程ではその都度ある人に迷惑をかけるのだろうが、なるべくならご容赦いただきたい、なーんてね。試行錯誤してあーでもないこーでもないと騒がしい今の私が、もしかしたら自分の予想だにしない方向へ向かうかもしれない可能性に今は懸けたいし、そうなればいいなと思う。

うーん…。ここにこうして書くのがそもそもねぇ。まあ、今は、ってことで。



ああ言えばよかった メール打ちかけて
消してわたしは短歌をつくる

(佐藤真由美)



ああ言えばよかった メール打ちかけて
消してわたしは日記をかく

(りん)

5月27日の仕事雑感

2006年5月27日
本社に一人きりの土曜日。

立寄&直帰ばかりの昨今、溜まりに溜まったデスクワークを片づける。パチパチパチ(←キーボードの音)。トイレに立ったそばから電話が鳴り、「わー誰か出てくれー!」と思うものの誰もいない。「大変お待たせしましたッ!」と受話器をとった私のファスナーは全開(ヒドイ話だ)。

しとしと降る雨の音を聞きながら。

最近(私が入社してから)組織変更があった本社には何もない。掃除も備品の発注も新人の仕事。電話機まで新品なので不便この上ない。ピポピポと短縮ダイヤル登録。いったい何件あるんだろう、と調べた挙げ句に気が遠くなる。そのほか、「これ、よろしくね。」と積み上げられた新聞の山をスクラップ。単純作業は嫌いじゃない。が、ソレはソレとして、こういう作業を日長続けていると何かを忘れそうにはなる。

就職活動をしていた当時、自分が所属する(かもしれない)業界の未来を真剣に憂い、扱う商品への興味関心の有無はひどく重要だった。私は自分の所属する業界が好き。扱う商品も好き。が、就活生が考えるようなレベルの(大抵はスケールが大きい)ことは、一社員の考えることじゃない。強いて言うなら幹部クラスの考えること。

私が思うに。

個人にできることには限界があって、会社が大きくなればなるほど(つまり業務が増えれば増えるほど)「分担」せざるを得なくなる。だって誰しも三度の食事と睡眠は必要。素人にもそれとわかるほど魅力的な企業ほど、「分担」の割合は高くなる。ただ、完全な素人(就活生含む)ほどスケールの大きいことしか見えないから、「分担」の末に統合された集合体としての商品しか目に入らない。

集合体としての商品をいかに運用するかを考えるのは楽しい(はず)。たとえば、ターゲット層を絞って打ち出す広告の内容(どんなタレントを使うか、とか)を考えるだけなら魅力的な仕事だ。問題は、いざ広告を打ち出そうと決まった瞬間に発生する莫大な量の業務、それらを「分担」して自分がどれを担当するのか、ということ。我が社が扱う(私の大好きな)商品、我が社が起用した(私の大好きな)タレント、それらが掲載された媒体をいちいちビデオ録画したり、もしくはスクラップしたり、そういう"一見つまらない仕事"が今の私の仕事。

"一見つまらない仕事"が集まって初めて、誰もが魅力的だと思う商品の総合的な姿になる。「分担」は避けられない。たったひとりで全国をカバーする私の直属の上司、彼女はおそらく現在の日本の中ではかなりオイシイ仕事をしてはいる。そのたったひとりの部下がこの私。「分担」が少なければ少ないほど、残業は増え、休日出勤は増え、福利厚生なんだそれ状態になる。要はどっちをとるか。自分の時間がやけにいっぱいあるのに仕事内容は誰もが羨むタイプのもの、そんなことあるはずない。

漠然と憧れていたマイ・ラヴァーの携わる仕事(といっても働いてるところを実際に見たことはないのですが)、彼が扱う商品だっていわば集合体。現実の彼はといえば、眠る時間を削って、好きなはずの旨いものを食べる機会も減らして、好きなはずの本を読む時間も減らして、好きなはずの(?)私と会う機会も減らして、それだけを費やしても商品のほんの一部にしか反映されない。そして、彼も私もよっぽど出世しない限り、この現実は変わらない。

が、「なんでオイラがこんなつまらないことを?」と考えている限り、仕事の本質には触れられない。私は"一見つまらない"作業を淡々とこなしながら、数奇な運命の果てに付くことになった直属の上司(本日欠席)のデスクを見る。たしかに私は甘っちょろい就職観のもとに今の会社への入社を決めたわけだが、何もかも自分でセッティングしなければならない(たとえば短縮ダイヤルの登録)この現状を、むしろ幸運なこととして受け止めている。諸々が整ってない我が社の一側面を見れば「なんていい加減なの!」と罵られない可能性もないが、私が一度でも携わってみたかった仕事を(諸々が整ってないゆえに)たったひとりでこなす上司、彼女の仕事を手伝えることが単純に嬉しい。

そして私は今日も単純作業に明け暮れる。

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