通勤中も仕事に追われる木曜日。

起きて早々、資料が山のように積み上がったマイ・ルームの状況が目に入り、そのまま現実逃避したくなる。「これをひとつひとつ分類して頭に叩き込むのか…無理だ…。」と思いながらも資料整理→鞄に詰め込んで出発。そうか、社会人になると部屋が散らかるのだな。

始業早々、待ってましたとばかりに勃発する緊急事態(オイオイ)。

青ざめてる暇はない。とにかく緊急事態につき、終始ゴリ押しで危機回避。急遽手配した軽トラックの前に運転手、荷台に荷物(と私とNくん)。「これ以上は無理!」というレベルで詰め込まれた商品と商品の間、小窓さえないトラックの荷台で体育座りしながら都会を走る。ああ神様、どうか間に合って。

「りんさん、やつれてません?」「そうかもね。」「最近、得意の"思い出し笑い"もしてないし。」「思い出すような楽しいことがないもん。」「たしかに。」「Nよ、聞け。私は森に住みたいよ。」「森、ですか?」「森で摘んだ花をカゴに詰めて街で売るの。」「ほう。」「花を売って稼いだお金で自分と家族の食べるものを買って帰るの。」「ほう。」「夕食後は物語を書くの。隣には木こりの夫がいてね。」「ほう。」「木こりの夫は切った木でギターを作って、筆をとる私のために歌うの。」「ほう…。」「そんな生活がしたい。」「花屋に就職したいんですか?」「オマエは何もわかっとらんな!!」と業務中もキレまくり(すっかりキレキャラだ)。

何もわかっとらんNを放置して退社。

地下鉄で中吊りを見る。なんて色鮮やかな車内。そうかもうすぐ夏がくる。徐々にボルテージが上がるこの季節、私はただの「消費者」じゃない。「消費者」であり「生産者」。「ホレホレ!」と何かを迫る中吊り(媒体)の裏に「生産者」の意図がある。一見楽しいだけのすべての娯楽には意図がある。人間が喜ぶように仕向けられたすべての娯楽、施設、商品は、「たのしー!」と喜ぶ人の裏であくせく働く「生産者」の上にある。いつだってそう。

過剰な「楽しさ」を生むためにこの世に商品が溢れるなら、誰もが必要十分だと感じる「楽しさ」のレベルを少し下げて。だから、その分、感度は上げて。あるだけのものに「楽しさ」を見いだせるように。何もないと思われる森の中で物言わぬ花を愛でるように。あるだけのもの(花)から生計を立てて。あるだけのもの(木)から「楽しさ」を抽出して。ないものは抽象世界に求めて。抽象世界から生まれるもの、物語や歌。そしていつだって仔猫がじゃれ合うように本能に従って月とともに眠り、陽とともに目覚めたい。

どこにも行くつもりはないし行けないけど、現代に生きるあまねく男女は幸福なようで不幸だ。だからこそ、まさに今、あるだけのもの(私の現実)にこそ感度を働かせ「楽しさ」を見いだせるように。そうでなければどこに行っても同じだから。たとえアルプスの山の上でも。

明日も仕事か。楽しもう(難儀だ)。

人生に口づけを!

2006年5月23日
外回りに行かんとするタイミングで雨が降り出す火曜日。

規則正しい生活をするようになったせいか妙に肌ツヤが良い私は、本日もNくん(同期)と一蓮托生。「りんさんってよく見ると肌キレイですね。白いし。」「ありがとう(よく見なくてもそう思って欲しい)。」「水着とか似合いそう。」「黒い方が水着は似合うでしょ(セクハラか?)。」「明日俺サーフィンやるんですよ。りんさん、サーフィン好きですか?」「サーフィン?サーモンなら好き。」「明日は彼氏と会うんですか?」「会わないよ。うちの彼、ドイツ人だから。」「ドイツ人なんですか!?」「ばかね。ものの例えよ。」「?? そうそう、この前行ったあそこで食事したことあります?」「あ、私にかかってきた電話かも、ちょいと失礼!」と煙に巻く。どうも雲行きが怪しい。

その後、終業時刻を過ぎてからも嫌がらせのように勃発する事件に対処するうちに、待ち合わせ予定時刻を大幅にオーバー → 走れ走れ京王線。二ヶ月ぶりに会うSねーさん(元バイト先の先輩)。「遅れてスミマセン!!し、仕事が…。」と謝る日がまさか私に来るなんて。

婚約中のSねーさん宅からフィアンセを追い出し(?)、酒盛り開始。

話は多岐に及ぶ。私の仕事の話、私が辞めた後のバイト先の状況、共通の知人の噂、などなど。ねーさんと話すたびに思うことがある。「ああ、この方はなんて健やかなんだろう。」と。よく食べ、よく眠り、よく怒り、よく笑う。「あなたもそうよ。」とねーさんは言う。そうかもしれない。

私は幸福だ。自信を持って言える。むしろこんなに恵まれていいのかと恐くなる。そうはいっても私の人生、思うに任せないこともある。あるつもり。が、その度に思うのは、信心深い祖母の教え、「それらはすべて禊ぎなり」。仮に私の人生からすべての苦痛が取り払われるとしても、それを私は望まない。禊がれ、苦悩し、乗り越えたい。苦悩も喜びもバランスよく組み込まれた今回の人生に異論ない。

しかし、私は思う。健やかと自認する私はたまたま幸運だっただけではないか、と。たまたま幸運だった私は、まるで自分の精神が健全だからこそ現在もポジティブだと思いこんで、本来ポジティブになれるはずだった誰かの気持ちを想像できないのではないか、と。

Sねーさんと同じ人生を歩める気がしない。クリエイティブな仕事に就きたいとお約束通りに夢見て、でも中途半端な決意はたやすく壊され、そのままひとり都会に出る勇気もなく、ただ大卒という肩書きが欲しかった。ニートになるのが嫌だった。フリーターになるのも嫌だった。自由になれなかった私は敷かれたレールを全速力で走るように23年を生き(さらに言うならたまたま滞りなく事が済み)、そうでない人への想像力がおそらく乏しい。

Sねーさんは言う。「それは違う。」と。

たとえば水がない状況でも。「水がない!掘ってみるか!?」と井戸を掘るのがSねーさん。泥まみれになっても手が痛くなっても、水が出る日を信じてる。「なんで水が出ねーんだよ…。」と文句を言うより、きっと、掘りたい。「どうせ俺なんて…」と謙虚なフリをして本当は自分にふさわしくない事象を切り捨てる人は、おそらくプライドが高い。そして「こんなはずじゃなかった…。」と嘆きながら、こんなはずにならなかった(神話たる)もう一方の人生を夢想する。泥仕事をしないまま。

仮に私の人生がここまでうまくいっていなかったとして、私はどんな精神でいるだろう。私が幸せだと信じる私と同じ人生を送ったとして、別の誰かは「こんなはずじゃなかった…。」と思ったりするのかな。Sねーさんの「それは違う。」という言葉がとても嬉しい。が、私は、自分が"たまたま"幸運だったからこその今の人生を神に感謝する、というスタイルで何かを紡いでいくのも悪くないと思う。枯渇しそうな他者への想像力だけは失わないようにして。

焼き鳥、キムチ、冷や奴をツマミに更けゆく火曜日の夜。

246 is beautiful.

2006年5月22日
ほぼ完徹状態で迎えた月曜日。

前日深夜、「仕事が終わるまで待ってちゃだめ?」と働くお兄さんに圧力を与えながら、ケータイを耳の真下に置いて就寝。明け方5時、メールが鳴る。その後、朝まで(もう朝だけど)思いっきり生電話。駅のホームでグイッと一発。ゲンキンなもので、定時に眠り定時に起きる朝より元気だ。貴男は私のリポビタンD(非売品)。

出勤後。

「この前、りんさん以外の人(女性)と外回りしたんですよ。」「あらそう。で?」「あーいいからいいから俺が運ぶから!って感じでした。やっぱパートナーはりんさんじゃないとね。」「どういう意味!?」と、いきなり穏やかじゃない始まりだ。ふう、そろそろ終わり、と油断するそばから「ああ、無かったことにしたい!」と国外逃亡したくなるような用件の電話が鳴り、つい受話器をとった自分を呪う。ああ、無かったことにしたい。

タクシーで246号線を赤坂方面へ。

東京が「東京」でしかなかった当時、どこに行っても同じだった。「東京」にも色々あるよ、と私をあちこち連れ回した人に教わった今は考える。外堀、内堀、日比谷公園、新橋の高いビル、麻布の名坂、神宮外苑の銀杏、実はいわく付きの信濃町、水が流れる渋谷、隔離された新宿御苑、戦後の希望を背負った東京タワー、何かを忘れていない浅草、寄る闇には理由がある池袋etc…。それらの中のいくつかの景色、国道246号線から見える景色、景色には要素がある。ビルの数(要素)も道路の色(要素)も同じ。空の色と木々だけが微妙に違う。それにしても、私と誰かの目に映る景色は違うだろう。今の私と当時の私の目に映る景色が違うように。

「世界は美しい」という言葉が好き。"世界は美しい"という言葉は美しい、と私は思う。だって世界は美しい。やけに天気が悪い今年の春、曇り空と降る雨に舌打ちをしながら愚痴をこぼす日もあれば、すべてが美しく見える今日のような日もある。要素は同じ。違うのは私。世界は同じ。違うのは心。世界はいつだって「美しい」と言われる準備ができている。

恋をしてない日はなかった。ああそれに文句を言われる筋合いはないが(←なぜかケンカ腰)、恋をするからより美しく見えるはずの世界が、恋をするからこそ醜く見える日もあって。ただ、ニュートラルなままなら醜く見えることがないとはいえ、もっともっと美しくなるはずの可能性を切り捨てて臆病に生きるより、私は恋をしたい。だから、「やってられねーぜ!この○※★!」と叫んでしまったなら、そのすぐ後に「うそ!やっぱり貴男って最高!」と同じ威力の言霊で打ち消したい。醜いときもあるけど、うそ、やっぱ世界は美しい、といつまでも言っていたい。

仕事もね。振り子が振れるように。

2006年5月20日
高速で時間が過ぎゆく土曜日。

朝から同時多発的に勃発するプチ緊急事態への対処に追われる。本日は外回り(という名の肉体労働)が無いのでホッとしていた私に下されたのは、壊れた家電を今すぐ買ってきて、という指令。「アイアイサー!」と朝から電器屋に急行するのは、アイアイサー以外に言葉を持たない手下のような新入社員(←私のこと)。

昼を回っても相変わらず。

"鳴らない電話"を見つめる世の乙女には申し訳ないが、我が社にあるのは"鳴りやまない電話"。お電話ありがとうございます、お電話ありがとうございます、お電話ありがとうございます、とオウムのように連発する私と、「りんさん、こっち入って!」「はいっ!」「りんさん、こっちも!」「はいっ!」「りんさん、電話鳴ってるよ!」「はいっ(どっちを優先すればよいのじゃー)!」と右往左往するうちに爪が折れたりブラのホックが外れたり。

本日も日付が変わってから帰宅。

ようやく見るのは"鳴らない電話"。パチンと畳んで考える。考えた私は文章を書く。作家・小川洋子はかつてこう語ったという。「作品はすでに、人知れぬ場所に存在する洞窟の壁に、全て書かれている。私の仕事はその洞窟を見つけ出すことに始まるのです。」と、この話を教えてくれたのは尊敬するOにーさん。

「言葉」というメディアの便利さに気付いた私はかつて大興奮した。「言葉」こそもっとも素晴らしいメディアだと。変換時の精密さでは映像に及ぶべくもないが、だからこそいざ正確に言葉に変換できたときの喜びは大きい。その興奮は今も忘れてないけど、小川さん言うところの洞窟を必死で探して言尽くすとき、「言葉」を求めているはずの私は不思議と「言葉」から遠ざかる。

言尽くし尽くされないところに愛はないと思っていた。言尽くすために愛しい人の前に立ち、見つめ、口を開く。デートを重ねて言尽くす。キスをして唇が離れた瞬間に言尽くす。肌を合わせて言尽くす。言尽くすことが目的だったはずの私はいつしか目的を見失い、言尽くさない「行為」にのみ注目し、得られなければ逆上した。

時は過ぎ。

「言葉」がそれほど優秀なメディアじゃないと(いつの間にか)教えられた私は、「言葉」と「行為」がセットになってパッキングされた「ザ・日本の男女交際」に疑問を持つ。言尽くすのはかまわない。行為があるのは結構なことだ。が、このバリューセットの怖いところは、目的を見失いやすいことだろう。「言葉」も「行為」も本来は同等だ。同等のそれらと一線を画したところにこそ、「目的」がある。「言葉」+「行為」<「目的」。

「目的」をしかと見つめて真剣に言尽くすとき、「言葉」を探したはずの私は「言葉」のない世界に立っている。待つ女が美しいのは、言尽くせない現状に一度絶望し、「言葉」も「行為」もない世界に旅立つからじゃないかな。「言葉」も「行為」もない世界には「目的」がある。「目的」を私なりに定義するなら、人間にはなかなか見ることができない概念ばかりの世界で唯一確かな、誰かをどうしようもなく好いているから伝えたい、という、到底言語化できない純粋な何か。

「ザ・日本の男女交際」を多くの人がおいしいおいしいと貪る中、「目的」を果たすために奮闘するごく少数のチームに私は加わりたい。加われると信じたい。なぜなら、なんとしても言尽くそうと奮闘した私を掬い上げた人と出会ったのは、「言葉」より優秀な「映像」さえない概念の世界においてだから(←なんか微妙に意味不明)。

さて、仕事しよう。


目が覚めて消える夢ならもっといい 恋は現実 愛は生活 (佐藤真由美)
すべての歯車が噛み合わなかった金曜日。

本日は一名で移動。ってことは荷物が少ないのかしら、と思いきやいつも通り(二名でもいっぱいいっぱいの量)。本日の荷量=概算して赤ちゃん10人分。「商品をお持ちしました!一回じゃ運びきれないのでここに一度置かせていただいてよろしいでしょうか(ゼエゼエ)!?」と尋ねたところ、「あー責任とれないので置かないでください。」とのお返事。なんだとほかに言い方あるだろうよ、絶対モテないでしょアナタ、あーそうかいそうかいわかったよ次会ったときは覚えてろニャロメ、などとまさか言えるはずがない。

某駅のカレーショップから出てきたリーマンに話しかけてしまい、「あっ…すみません…知り合いに似てたもので…。」と謝りながら帰社(←完璧な人違い)。

次の取引先にて。「この商品、破損してますよ。」「えっ!?」「使えません、これじゃ。」「左様でございますね(私なら使うけどなあ)。」「新しいもの持ってきてください。」「かしこまりました(神経質め)。」という展開で元来た道を引き返す途中、地下鉄で傘を無くす。帰社後、新しい商品の手配に四苦八苦。回線が少ないのかいつかけても繋がらない電話の相手に「ムキーッ!」と(心の中で)ヒステリーを起こしたり、約束の時間に間に合わないよーと1リットルほど汗をかいたり、赤ちゃん10人分を抱えてハイソな街を疾走したり、雨に濡れたり、気が利かないタクシーの運ちゃんに物申したり。

日付が変わってから帰宅。

こうしてヘトヘトになるまで働いて、その勢いですぐに眠ると、朝がまたくる。明日も仕事だ。仕事、仕事、仕事。仕事が必ずしも嫌というわけではなく、まるで自分じゃない誰かが働いている様子を上から眺めるように、私は自分の精神が徐々に変形していくのを客観的に見る。そしてようやく気付く。この世界に存在していたはずの温度差に。「今は忙しくてそれどころじゃないのよ。」という、一番言いたくないし聞きたくなかった台詞の存在理由に。

私が言尽くすのは、伝えたい思いがあるから。より正確に、より真剣に。伝えるための努力を惜しまなかった私の軌跡が、この日記。以前、ある人は言った。「年をとると面倒くさくなるんです。丁寧さを欠くんです。プロセス抜きで「いきなり結論」になりがちなんです。」と。本当は言尽くしたい思いの核だけを抽出して「いきなり結論」で語る力、クイックレスポンスを常に迫られる社会人が持つべき力、ああ、私が本当に欲しい"何か"こそ、核の周りを包む一見無駄で切り捨てられるべきものの中にあったはずでは、と。きっと私はいつか言う。年上の私をキラキラ輝く眼差しで見つめる若い誰かに「年をとると面倒くさくなるんです。」と。だって、私には時間がない。

変わりゆくかもしれない私が仮にいるとして、それは避けるべきこと? わからない。わからないけど、もともと世界に存在していたはずの(仕事人とそうでない人との間の)温度差を知った私は、一度死んで死後の世界の存在を知った後に甦った不死鳥のように、炎に焼かれてもビクともしないためのエネルギーを何かに使うべきかもしれない。誰のために? 同じように働く誰かのため? それとも仕事を離れて生きる別の誰かのためだろうか。

朝がまたくる。

年輪夢想

2006年5月17日
「○○さんは女のコだからあっちを手伝って。あ、りんさんはこっち!」と、肉体労働をさせられる水曜日(何かがおかしい)。

肉体労働が多い我が社。「頭がクラクラする…。」と弱音を吐くNくん(同期)を、「男のくせに甘えてんじゃねー!」と叱咤 → オラオラオラオラと西へ東へ。狭い通用口で引っかかった私が「あっ、あっ、いやっ、痛っ…!」と呻いたら、「卑猥な声出さないでください!気が散ります!」と叱られる。アンタが挟んだんでしょーが!!

すっかりコンビと化したNくんと一本の傘で帰宅(何かがおかしい)。

仕事しながら考えたこと。

Nくんも私も新入社員。何もできない。何もわからない。直属の上司にベタ付きで、入れても入れてもいっぱいにならない井戸に水を汲むように知識を得る。今日も明日も明後日も。直属の上司、さらに上の上司、そして社長、彼(彼女)らは何でも知ってるようで私たちには眩しい(そして、ちょっとコワイ)。

数ヶ月ぶりに日記を読み返した先週末。

その後の自分の身に起こることを知らない無邪気な自分がいた。個人的に節目と思われる2005年を経て、当時の自分が夢想していた場所(オン・オフ問わず)にまさに立っているのが、今の自分。「よーいどん!」で走るのが得意で、がんばるぞーと決めたら目標まで一直線。目標は遠く果てしない。至らない自分ばかりが目につき、早くたどり着きたくて仕方ない。私は"苦しんで"いた。苦しんだ証拠が一年分。

思うに任せないことばかりなのは、今も同じ。私は"苦しんで"るの? わからない。何を得たいの? わからない。全速力で走りまくる今はたしかに辛い。全速力で走らなくていい日が待ち遠しい。それはたしかにそう。それはたしかにそうなんだけど、あたふたと走り回る私たちの横でどかっと構える上司が羨ましくもあり羨ましくない。

夢見る少女だった頃(今も?)、彼氏ができたらどんな感じだろう、あんなことするのかな、こんなことするのかな、いやーはずかしい、でもきっと素敵よね、きっと幸せよね、ああ早く大人になりたい、と思って願った。今は素敵だ、幸せだ。とはいえ、私は何かを失った。お化粧をして、マニキュアをして、香水をつけて、パンプスを履いて、お酒を飲んで、親友ができて、尊敬できる恋人ができて、社会的身分さえ得た。ここがゴールか、当時の自分よ。

無我夢中で仕事を覚え、いつの日か順応し、(きっと)ひとりで色々なことでできるようになる。(きっと)やり甲斐もできる。(きっと)楽しくなる。が、今は想像しかできない未来に「さて。」と立つ頃、私はもう取り返しがつかない年齢を迎えているに違いない。いったい何を取り返したくなるかは謎だけど。

一日、一日、ゆっくりと、だが着実に、私は年をとる。

昇って華になる

2006年5月15日
見たい夢を見るコツを取得した月曜日。

大きな窓から太陽の光が燦々と降り注ぐ我が社。久しぶりに晴れた本日、朝の掃除にも力が入る。カーペットの埃をコロコロ取り去り、ガラスをキュキュッと磨いて、箒でしゃかしゃかゴミを掃く。白い床が朝の光を反射して眩しい。ああ、これぞ人間の生活。たとえ世が平成とはいえ、私たちの身体は、朝の眩しい陽の中で掃除をすることに喜びを感じるように作られている。

帰宅後。

更新頻度がやけに高いことで有名な(?)私の日記。その座を奪うかもしれないあるものの執筆に私はとりかかる。パソコンの電源を入れて、ぬるい麦茶を飲みながら。私が文章を書くとき、なぜか心には「歌う」という動詞が浮かぶ。理由はわからない。私は書く。私は歌う。

文章から離れて生きる日々の中で、私は多くの人と接し、多くのことを見て、聞いて、排泄物のように溜まる濁毒を抱え込む。愛しい気持ちで満たしたいはずの胸さえも、わかっちゃいるけどやめられない行為の果てに黒く濁る。この世の多くのことは、わかっちゃいるけどやめられないんだ。

「オマエの書く文章はわけがわかんねーよ。つまらない。」とかつて言われたことがあり、ひどく傷ついた。たぶんそれは正しい。でも、歌わずに心を悪しきもので満たしていくより、下手の横好きとなじられても私は歌いたい。正しい理論に基づく美しい歌でなくとも、ああ好きよ、ああ美しい、ああ楽しい、ああ生まれてよかった、と、私は大声で叫んでみたい。それがただの無秩序な発声ではなく、つぎはぎだらけのメロディに聞こえるときもあるんじゃないかな。

「昇華」とは、物事が一段上の状態に高められること。私の中に溜まる悪しきものを放置して発酵を待つのではなく、私の思う私にとって一番良い方法で発散し、昇華させよう。この世に芸術が生まれたのも、私たちの中に醜い感情があったからこそ。それを善しとしなかったのは、同じくらい美しい感情。「止揚」といってもいい。私の心はときに醜い。だからこそ美しさを際だたせるために、昇華させる必要があるのだろう。

私は歌いたいが、ひとりではひどく寂しい。聞き惚れてくれる人がいたらいいのに、と思う。思っていた。でも、あたりかまわず歌いまくる日々はそろそろ終わりにして、もっと一曲一曲の精密度を上げていきたいな、と最近は思う。好きだ、好きだ、と言い過ぎの自分を温かく見守ってくれた人がいるなら、今後どのような方法が周りにとっても自分にとっても最適か。私は、先週末、日長考えた。

ここはアタイにゃ狭すぎるぜ(←「日本は俺には狭すぎる」口調で)。
りんの素敵な外勤OLへの道
たまには(今どきの)OLっぽい日記を。

戦闘服(ジャケット)を羽織って、インナーはキャミソール。コンサバに落ち着きがちなジャケット&タイトスカートという組み合わせも、流行のテイスト(パイピング、金ボタン)を加えてこなれ感を演出。制服があるとばかり思っていた元姉ギャルの私。「きちんとした格好」と言われても、初任給未払いの現状では限界がある。…と思っていたら、「りんさんは普段もそんなに大人っぽい格好なんですか?」と尋ねられる。ふふふ、演出大成功。

外勤OL七つ道具(財布、名刺入れ、地図、フリスク、ハンカチ、手帳、筆記用具)を外回り用の小バッグに詰めて、いざ活動開始。

肝心の業務は本日も難航。「さあて、これを片づけるか!」と決めたところで、あるはずの物があるべき場所に無かったり、コピー機が故障したり、疑問点を尋ねたい人が電話してたり、なかなかスムーズにいくもんじゃない。私は気付いた。仕事というものは、必要なものがすべて揃っていて、必要十分な時間があって、それを片づけるに必要な知識がすべて頭に入っていて…という「万全」な状態であれば、できない人などいない。大抵は「万全」じゃないからこそ、処理能力に差が生じる。処理能力をアップさせるために、まずは「万全神話」をかなぐり捨てるところから始めるべきではないか?

やれやれと退社。

遅くまで営業してる「THE BODY SHOP」にてフレグランスをチェケ。好きなのはバニラなどのスウィート系だが、キャラと一致するものは爽やかなオシアヌスなどのさっぱり系らしい。嗜好と現状に差があるパーソナリティは厄介だ。保留。フットスクラブやボディバターを物色。「コレとコレはどう違うんですか?」「こっちはみずみずしいハリを保ちます。こっちはエネルギッシュで元気な肌になります。」「そうですか(どっちも同じやん)。」と説明を聞く。自慢じゃないが、お風呂で洗う以外にボディを磨いたことは一度もない(そんなやつがここに来るな、って感じか)。

帰宅後は恒例のエクササイズ&ストレッチ。

ブリトニーなんて聴きながら、二の腕を中心に。サークルで鍛えた上に毎日重い商品と格闘しているので、二の腕の表側は無問題。見落としがちな裏側のプルプルを防止するために、ダンベルを2〜3秒キープ×30。おおー痛い痛い。キュッと細いウェストを目指して、腰をひねって20セット。おおーねじれるー。心臓が強いのか血行がやけに良い私は脚のむくみ知らずだが、疲れはする。脚を高い位置に固定&足指を開いて毒素排出。おおー流れるー。最後の仕上げは逆立ち(←日課)。下半身に溜まりがちな血液を頭に流してリフレッシュ。んー快感。

本日はネイルの日。

日本の美しくなりたい女性のカリスマ・安野モヨコによると、ネイルの良いところは数多くあれど、顕著なのは、塗っている間の「女子の幸福感」だそうで。同感。とにかく夢中で自分のことしか考えてません、とのこと。まったくだ。長い爪だと細かい作業がしづらいのは百も承知だが、何が嬉しいって、飲食店のバイトを辞めてからは爪を伸ばせること。3〜4ミリほどはみ出した爪にデキル女系ブラウンのネイルカラーを重ね塗り→仕上げはトップコート。塗り終わってから乾くまで、という馬鹿馬鹿しい"女子の時間"を満喫(手を使う作業ができないので母を顎で使う)。

タンスをひっくり返して明日のコーディネートを考えた後は、女性誌のメイク特集をパラパラ。どのページを見ても、キーワードは「ナチュラル」。ナチュラルねえ。こうして日記を書いてみて気付いたが、女子っぽいところをあまりアピールせずにやや難解で(?)わけわからん文章ばかり書いている私も、なんだかんだで色々やらざるを得ない。ナチュラルに美しい女子が大好物の男性諸君のためとは必ずしも言わないが、ナチュラルに美しい女子は、ナチュラルに見せるための努力を不自然なほどに続けてるに決まってる(←ああ、この世の矛盾)。

お肌のために早めに就寝(←これもナチュラルに見せるための努力)。

ラーメンマンデー

2006年5月8日
「大人っぽい」という評価が「おばちゃんっぽい」になってしまった月曜日。

やや馴染んだ感のある我が職場。美しい人が多くて困る。"峰不二子"と勝手に(心の中で)名付けた先輩・Mさんにおちょくられる午前中。先日のワインの飲み方が30代っぽいという話をされたり、今どきの子はコンポをラジカセとは言わないと指摘されたり、身振り手振りが大袈裟でウケると笑われたり、年齢詐称疑惑さらに深まる。

本日は外回り。

借りてきた猫のような男・Nくん(同期)と取引先へ。タクシー乗車後は私がナビ。「青山通りを渋谷方面へ。で、あそこで曲がってください。」「へい。」「で、その次を左折で…」「あ、りんさん!一方通行ですよ!」「ええッ!?」「どういたしやしょう?」「ううううううう…じゃ、じゃあ、六本木通りまで出ていただいて…外苑西を大きく回ってください!」「それじゃすごく大回りになりますよ!」「だって仕方ないじゃん!」と、たかだかワンメーターかそこらの距離だったはずなのに大騒ぎ。領収書ください。

帰社後、息つく間もなく次の取引先へ。

「絶対ムリ!!」と叫び出したくなるような量の商品を、両手、両足、背中を駆使して運ぶ。ひー。「私がここで荷物持ってるからタクシー呼んできてッ!」「一台に乗るか、コレ!?」「乗せてみせる!」とまたしても大騒ぎでタクシーをゲット。タクシーの運ちゃんもビックリの荷物をぎゅう詰めにしたら、人間(私&Nくん)の乗る場所がない。アクロバティックな格好で外堀通りをぶっ飛ばす新入社員×2。領収書ください。

やや青ざめて退社。

部署は違うが同じ職場に配属された同期チーム三人でラーメンを召す。「座ってばっかりでお尻痛い。」「Kちゃんはそうだよね。」「俺は会議で眠くなった。」「お疲れさま(Nくんはタクシーでも寝てたよなあ)。」と、性別も育った環境も違うのに湧いてくるこの感情はなんだろう。

中・高・大と、チームプレイを要求されるクラブに入り続けた。女子校ではなかったが、ほとんどが女の園だった。同じ地域で育った。コミュニティに属した瞬間に発生する諸々の問題に頭を悩ませたつもりだった。それすらも今思えば、(あくまで自分の中では)ややレベルの低い話だよな、と。いろーーーんな人がいる社会で、いろーーーんな人がいる職場で、そこには友情だの愛だのはほぼ存在しない、でもたしかに発生する何かがある。年齢や性別やらを飛び越えるその何かは、同じゴールを目指して同じ障害を乗り越えるときにこそ発生する。

友情や愛の類が生まれるときに用いられがちな「好み」が入り込まないニュートラルな"何か"を、私は、NくんとKちゃんに対して持つ。人間が持つことのできる公平さでは極限に近い感情だ。そう、きっと、この感情こそが原点。友情だの愛だのが生む「悲劇」があるゆえに人間が神から追放されたのなら、ほんの少しの希望のように残った人間のこの感情はきっと尊ぶべきもの。私にもこのような美しい感情を発生させる素地があったのか。

などと(一見)良さそうなことを考えながら、ラーメンをすする。領収書…は要りません(危ない、危ない)。

さて、明日も仕事。
12時間も働いてしまった日曜日。

本日はデスクワーク中心。「課長の○○ですね。只今お繋ぎ致します。」と電話口で告げる際、課長がそばにいるとどうしても呼び捨てに抵抗がある(別に間違っていないのだが)。そのほか、「これファックスして。」「かしこまりました。」「これファイリングして。」「かしこまりました。」「これ分類して。」「かしこまりました。」と、やることが次から次へと降ってくるにも関わらず、電話は鳴る。「えーっと、その件に関してはすぐにわかりかねますので、お調べ致します!」と調べてる間にまたすぐ電話が鳴り、えっと、えっと、と対処し終わると、進めていたはずの仕事もどこまでやっていたのやら。あひー。

痛む頭を抱えながら昼食。

午後はパソコンとにらめっこ。何が辛いって、しばらくは自分のデスクが無いので、居場所が無い。あれー電卓が必要だ、と思って開けようにも引き出しはロックされてるし、あれーポストイットはどこだ、と思っても借りているデスク上には無かったり、どないせえっちゅうねん!しかも電話は鳴る。「えーっとえーっと…その件に関してはすぐにわかりかねますので…(以下、繰り返し。)」

遅めの晩ゴハンを済ませた後、マイ・ルームで。

CDラックをひっくり返して、あるCDを探す。発見。聴く。イイ。タイトルは『DORA・THE・BEST』。お馴染みドラえもんの映画主題歌その他を収録した、ドラ生誕20周年記念CD豪華二枚組、である。なんでこんなものを持っているかと問われるとあまり答えたくないので敢えてここには書かないが、なんにせよ、イイものはイイ。

ドラえもんパワーで大きくなったと言っても過言じゃない私。"みんなで力を合わせて"とか、"最後に愛は勝つ"とか、"さあ出発だ、希望に満ちた未来へ"とか、「バッカじゃない!」と鼻で笑われそうなテーマで満ちたかつてのアニメを思い出すと、なぜか、私の胸はきゅんとなる。ひとりっ子でビデオばかりが友達だった私は、幼児期に随分多くそういったテーマに触れてしまって、その影響は今もある。私は今もみんなで力を合わせたいし、最後に愛は勝つと信じているし(笑)、さあ出発だゴーゴー、といつでも思っているような。

とはいっても、なぜわざわざ私が今こんなCDを引っ張り出してきたかというと、否が応でも社会に適応していく自分をひしひしと感じるから。

職場は子どもを排除するし、プライベートで親しい人はもはや完全な大人ばかり。23歳という年齢が少し嫌いだった。早く歳をとりたかった。が、もし、今の私にあって完全な大人に無いものがあるなら、自分ではかろうじて残っていると思われるこういう感覚ではないかな、と。嗚呼、きっと、若いって素晴らしい。若い私は美しい(←自分で言います)。社会に出ても忘れたくないものがある。今は少しだけ残っているこの感覚を(ときに子どもっぽいと言われても)忘れないようにと、私はドラちゃんに会う。

目覚めた時は 窓に夕焼け
妙にさみしくて 目をこすってる
そうか僕は 陽ざしの中で
遊び疲れて 眠ってたのか
夢の中では 青い空を
自由に歩いて いたのだけれど
夢から覚めたら 飛べなくなって
夕焼け空が あんなに遠い

ああ僕はどうして大人になるんだろう
ああ僕はいつごろ大人になるんだろう

(映画『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』主題歌・「少年期」より。)

逸らして

2006年5月5日
こどもの日。大人の私は休日出勤。

就業開始より早い時間に来てくれとおっしゃる取引先を呪詛しながら起床。日だまりの猫顔で眠り続けるマイ・ラヴァーを尻目に、しゃこしゃこと歯磨き。「働く」とは、自分の長所を生かして何かを創造すること? 否、「働く」とは、誰かが眠っていても朝の支度をする気合いを自分に入れることだ。

出会った頃、既に社会に出ていたマイ・ラヴァー。365日ほぼ休日といっても過言じゃなかった大学四年生の私は、たとえば彼の家に泊まることがあっても、自分の裁量で翌朝の予定をどうにでもできる日々を送っていた。そんな私の横で「起きなきゃ…」と呻いていた当時の彼に今の私が「ありがとう」と告げるのも変な話だが、たしかに彼は"働いていた"と思う。そして、ありがとう。

とはいっても、名残惜し(以後省略)。

出勤後、微妙に違うが似たような部署に配属された同期クンと、あーでもないこーでもないと言いつつ協力して仕事を片づける。彼(Nくん)は、こちらが日本語で話しかけているのに突然ドイツ語を喋り出したりする異端児ではあるが、こんな状況では誠に頼もしく思える。電話が鳴って「ひいィッ!」とおののく私の横で「お電話ありがとうございます。」と答えるNくんは、「電話くらいでビビるなんて、りんさんらしくないですよ。」と微笑みながら言う。その姿は、今や、立派な社会人。

昨晩一緒に飲んだばかりのJねーさんのかつての話を思い出す。

Jねーさんが読んだ森瑶子の小説に、「人に優しくすることは、愛しさえしていなければなんて簡単なことだろう」というような内容があったという。ねーさんが感銘を受けたのとは状況が違うが、私が突然こんなことを思い出したのにもきっと理由がある。

私は確実にNくんを愛していないけど、常にタッグを組むこととなった彼のことを認めている。上司に「なってない!」と怒られた内容を、私が繰り返すことのないように伝えてくれる。一緒に重い商品を運ぶとき、ヨタヨタしつつも我先にと重い方を持ってくれる。そして、「りんさんの分も押しておいたよ。」といつも微笑みながらタイムカードを切る。そんな彼には親切にしたい。そして、親切にできる。なぜなら、私はNくんを愛してないから。

人に優しくすることは、愛しさえしていなければなんて簡単なことだろう

私がどうしても優しくしてしまう相手はたしかに別にいる。奥からどんどん溢れ出す優しさの源は愛にある、と思っていた。それはたしかにその通り。が、きっと、人は人を愛した瞬間、どうしても向かい合う。向かい合い、視線を合わせる。その後、二人同時に視線を逸らして前方の進むべき道をともに見ようとするなら、問題は起こらない。同じ道を歩みながらいつも隣にいる前提がある。不安に駆られてひとりだけ隣を見ると、合わない視線に戸惑う羽目になる。そして、人はいがみ合う。隣をついつい見てしまう人は誰かをどうしようもなく愛している。

なんてことを考えている暇は、仕事中はもちろん無い。

ある部署に配属された私は、Nくんを除く同期とはちと違う業務を抱えることとなったが、ソレはソレ、らしい。取引先を飛び回りながら、余った時間は接客を(二刀流!?)。一オクターブどころか三オクターブくらい高いのでは、と思われるボイスで「こんにちは。」と言ってみたり、終始口角を上げなくては、と気負ったり。ふう。

ぐったり帰宅。明後日(休日出勤パート2)も頑張るぞ。
世界でいちばんおいしい休日
グループデート(?)に興じるG.W。

スカッと晴れた空の下、遠路はるばるいらっしゃったOさん&Sさんを、まずは、本日のホスト二名(私&マイ・ラヴァー)でお出迎え。「どーもどーも!」と常にどーもから始まるOさんと、「さっき黒豚がいたんです〜!」といきなり(Oさんいわく)わけわからんSさん。お変わりないようで何より。

私が心から愛する街、神楽坂。晴れた日は坂を下るだけで幸せになる魔法の街。魔法をかけられたような気分で坂を下り、飯田橋駅から徒歩一分、外堀に浮かぶ「CANAL CAFE」へ。「こういうところに連れてきてほしいんです〜!」「いつもはOさんとどんなところへ?」「どこにも行ってません…。」「わははは!(←笑っちゃ失礼?)」などと話しながら、水上デッキでピザをシェア。さっそくビールなんて飲んじゃう男性陣を前に、ともに飲んだくれの彼氏を持つ女性二名は無言の結束を誓う。

お茶(酒?)を楽しんだ後、山手線で移動。

12月にSさんらの地元をご案内いただいた恩もあるし、と、今回の町歩きプランニングに関して、ねじりはちまきレベルの気合いを入れていた"東京組"。…のはずが、今回のプランナーは、休みが不規則な上に直前にケータイを紛失した役立たずの私と、昼夜逆転の生活を元気に送り続けるマイ・ラヴァー。霊園を右手に昭和の匂いが感じられる一帯へ。

古い家屋と、寺院と、商店街。「このへんは素敵ですねぇ。」「ねえ〜!」「付き合い始めた頃、(マイ・ラヴァーに)いきなりこのあたりを案内されてビビりましたけどね。」「いやぁ〜!こんなところに連れてこられたらみんなメロメロになります!」と、男性の好みがそっくりなようで、実は違うと思いきや、やっぱり似てる気がする私とSさん。

台東区をブラブラ → 文京区の往来道書店経由 → 東京大学構内へ。

農学部・工学部を横目に、安田講堂、三四郎池へ。鬱蒼と茂った木々の中に突然現れたかのごとく広がる池を前に、私、(心の中で)キャアキャア。「俺らの大学にこんな池があったら絶対飛び込むな。」「ははは!たしかに!」と話す同じ大学出身の男性陣と、にこにこしながらそれを見守るSさんの、さらに後ろから見守る私が思ったこと。

シンメトリーには秩序が見いだせるが、「男・女・男・女」という一見対称に見える和は、実は完全なシンメトリーじゃない。「男と女」という一対の組み合わせがときにデコボコして秩序を失うとしても、同じものをもう一対持ってきたときのバランスは、僅か一対では成し遂げられない何かを生む。かといって、世界にまったく同じカップルが存在しないように、どれだけ対称でありたいと願ってもそれは叶わない。だからこそ1/4の互いが1になるために均衡を保とうとする瞬間が、私は好き。不思議だ。不思議な縁をしみじみと実感する瞬間、私はいつも敬虔な気持ちになる。そして、生まれてきて良かったとさえ思ったりもする(大袈裟?)。生まれたばかりの私のために「良き出会いがあるように。」と、両親はおそらく願ったはず。23年前に放たれた願いは世界を駆けめぐって多くのものを孕んで、今の私に何かを運んできた。20年プラスαをかけて同じように世界を回ってきた願い同士は、私たちには見えない世界でぶつかって、共鳴して、ときに砕けてキラキラと輝くように奇跡を生む。そのきらめきこそを、人は「縁」と呼ぶ。

その後、さらに不思議な縁の末に出会ったJねーさん合流。

初対面同士のSさん&Jさん。互いに"お噂はかねがね"。「Jさんは素敵な人です。」とSさんに言い続けてきたが、実際にお会いしたら「ステキという三文字じゃ言い表せません!」と言い出すSさん。長女、O型、関西出身、という我らで(勝手に)チーム結成。次回以降も楽しみだ。食べ物の好き嫌いがほとんど無い私以外の四人は、世の中に対しての好き嫌いも少ないんじゃないかな、などと思う。後に批判はしてもまずはすべてをしなやかに受けとめようとする彼らの姿勢が好きだ。

それはそれとして、五時間ほど飲みまくる平均年齢27.8歳の面々。

「酒が好き」と「酒が強い」は似て非なるものだな…と気付く。「実はあのお二方(Oさん&マイ・ラヴァー)ってそんなに強くないですよね。」とJねーさんにこっそり告げ口。彼らが共通して持つ"ある特性"(←ってなんだろう笑)に私は惹かれたものだけど、両者は実はまったく違うと語るJねーさん。"ちょい悪予備軍"(byJねーさん)のマイ・ラヴァーと一緒にタクシーを降り、千鳥足の行方を追いながらマンションへ。再会の日を夢に見ながら、ちょい悪’sラヴァーは眠りにつきましたとさ。



みなさま。ぜひ、また。
先輩の下でちょこまかと働く火曜日。

配属二日目の本日、名刺を持っていざ出発。荷物が多いゆえタクシー×2で取引先へ。「私の後を付いて来てね。」と言った先輩の乗った車が消え、大都会東京に取り残される新人OL×1。「あのう…どちらに伺えば…?」と言われても、私だってわからない。「えーとえーとえーと、とりあえず外苑前の交差点までお願いします!」「へい。」「そ、そ、それでですね、えーと、えーと、永田町方面へ向かってください!」「わかりやしたあ。」と、昭文社の文庫版『東京都市図』フル活用。ひー。

本日は、新卒一同の歓迎会。

ビールではなくワイン、というあたりに我が社の(オシャレに対する)こだわりが感じられる。上司の方々に「如何ですか?」とお酌したり、陽気な社長に笑わされたり。「りんちゃん、落ち着いてるねー。」「ありがとうございます。」「みんな言ってるよ。」「これは私たちの予想なんだけど、ものすごーーーーく年上の彼氏がいるでしょ?」「いえいえ(ものすごーーーーくって程ではないな)。」「本当に23歳?」「本当ですよ!」などと話していたら、早速、年齢詐称疑惑が持ち上がる(がくっ)。

空きっ腹に大量のワインを投入したため、久しぶりに足元がやや覚束なくなるほど酩酊→ケータイを電車内で紛失。

「無くした!」と気付いた瞬間酔いは醒め、JRに問い合わせ。「ケータイ無くしました!!」「ピンポンパーン♪本日の業務は終了いたしました。」「ひー(機械に向かって喋っちゃったよー)!」と、配属早々、踏んだり蹴ったりだ。自宅以外で唯一覚えてる番号の主に無くした旨をご連絡、と思ったものの、深夜だというのに音沙汰無し。

なかなか連絡が取れないマイ・ラヴァーとJRに教わったこと。

私にとってはたったひとつの携帯でも、大量の落とし物のひとつひとつをその特徴から発見場所やらまでデータに落としている人がいる。私が楽しくお酒を飲んでいる間も、地下鉄は滞りなく走り、街のネオンは光り、信号は点滅し、落とし物の情報は打ち込まれ、マイ・ラヴァーの勤める会社の灯は点り続ける。

日本がどんどん豊かになるということは、つまり、選択肢が増えるということ。たとえば、お茶を飲みたいと思ってコンビニに行けば、緑茶からウーロン茶からジャスミン茶まで大量に揃えてある中から選ぶことができる。それは、一見嬉しいこと。嬉しい消費者がたくさん生まれるということは、必ず、その分、どこかに「余剰」のしわ寄せがきているということ。豊か過ぎる日本は、その"豊か度"とピッタリ等しい「余剰」を抱え、本来は普通にゴハンを食べ普通の時刻に眠るはずの誰かの時間を奪う。

そして何より重要なのは、「余剰」の中で働く誰かが必ずしも「スゴイね!」と言われるような仕事をしているとは限らない、ということか。就職活動をしていた頃は漠然としていた「働くということ」が少しずつ明らかになってきた今、ようやくわかったことがある。「働く」とは、自分の長所を生かして何かを創造すること? そういうときもあるだろう。しかし、今の私は敢えて言う。「働く」とは、持ち主不明の携帯をその色から機種名からストラップの有無に至るまで羅列しPCに打ち込むことだ。

ふと思い立って、井上あずみを聴く。

あの地平線 輝くのは
どこかに君をかくしているから
たくさんの灯がなつかしいのは
あのどれかひとつに、君がいるから

(『天空の城ラピュタ・サウンドトラック-飛行石の謎-』より。)

リスタート

2006年5月1日
配属初日。

「本日付で、なんちゃらかんちゃらうんたらかんたら○○部に配属になりましたりんと申します。」とご挨拶したいのはやまやまだが、何しろ自分の部署名がやたら長ったらしい上に舌を噛みそうで困難を窮める。何はともあれ、あっちでペコリ。こっちでペコリ。そして舌を噛む。

自己紹介を終え、さて、お茶でも。

もちろんそんなはずはなく、先輩指導の下、早速外回りへ(いきなり外かい!)。初夏の陽気の中、ジャケットの下にびっしょり汗をかく。それに加え、ポケットに入れる羽目になった(←情けなや…)簡易名刺をシュパシュパとさばきながらの挨拶回りは、暑さのせいじゃない汗をかく。あ、どーも。あ、どーも。

さらに、私のこれから覚える仕事は、取引先をぐるぐると回りながら運ぶべき物が妙に重い。「重いでしょ?大丈夫?」「私、力に関しては申し分ありません!」「よし!」と、サークル活動で得た能力がまさかこんなところで役立つことになろうとは。

先輩と一緒にタクシーで移動。

「今後、ひとりでタクシーに乗るときは道を案内できるようにね。」「えっ!?」「そこが○○通りで、ここを一本入って…」「えっ、えっ!?」「都内には詳しくならなきゃね。」「は、は、はいっ!」「帰りはたぶん車だけど、電車で行った方が早いか車で行った方が早いかとか、色々考えられるようにならなきゃね。」「…はいっ(ひー)!」と、頭の中にコンパスが無いことで有名な女は、仕事中に激しく動揺。都内をタクシーでぶっ飛ばす日がまさかこの私に来ようとは(←まったく蚊帳の外だと思ってたらしい)。戯れで買ったはずの地図が、私の鞄の中で今後光り輝く。

先週まで一緒に電話応対の研修を受けていたはずの同期が、私のすぐそばにいるのに遙か遠くに感じられるデスクの上で電話を受ける。

私がまさか外勤OLになるとは予想してなかったように、彼女もまた本社勤務になるとは思ってなかったはず。「こんな部署がありますよ〜。」「そうですか〜。」と知ってはいたけど、いざ配属された私たちは、まさに今日から始まる日々を具体的にイメージして就職活動をしただろうか。

未来を100%想像するなんて不可能だ。それにしても、強い想像力を兼ね備えた人だけが可能性の多岐に渡って夢想するからこそ叶う「願い」は、私の場合、仕事の方面に向けられていたのかな。まさに今日から始まるこの日々のために、私たちは就職活動をした。まさに今日から始まるこの日々のために、私たちは自己分析をした。そして、まさにすべてが始まる今日になっても、私は自分が何に向いているのかわからない。それでも、今日、私とは違う部署で電話を受け続ける涙もろい彼女は、研修中より頼もしく見えた。早速飛び回るこの私は、彼女の目にどう映っただろう。

さあ、始動。

あるOLの平凡な休日

2006年4月30日
穏やかに時間が流れゆく日曜日。

会社に提出する書類をゴリゴリと作成。枚数も体裁も定められておらず、まったくフリーな状況。皆(同期)はどう書いているのかしらん、と思ったそばからメールがじゃんじゃん届く。「レポートと感想の違いって何?」という問い。ふーむと考える。

浪人までして滑り込んだ大学なのに高校以前より成績が良かった理由が、最近になってようやくわかった。体育と給食(お弁当)の次に好きだったのが、国語と現代文だ。年を経ることに課される義務はどんどん抽象的になり、終いには「〜について述べなさい。」とのみ印字されたテスト用紙が配られるようになった。空欄にキーワードを埋めるだけで良かった高校以前、学校の勉強が嫌だった。大学以降、「楽だな。」と思うようになったのも、ほんの少しの誤差も認めない空欄補充から解放されたせいではないか? 人によってはそれこそが苦痛だと感じたのかもしれないが、こと私にとって、文章作成は苦痛を伴う作業じゃなかった。

入社後、もちろんテストは無くなった。が、どうしても無くならないものがある。

現代文のテスト対策として、高校〜浪人時代、趣旨を掴む練習をした。趣旨を掴み、要点を頭の中に羅列する。具体的な設問にぶち当たらないとなかなか考える機会が無かったけど、幸か不幸か、そこそこ人並みの設問数をこなした気がする。そして、設問からようやく解放された今になって、私たちが生きる世界はダラダラと長くてわかりにくい現代文のようなものではないか、と気付いた。決して立派とは言い難いキーワードばかりが詰まった現代社会で、私たちはなんとか趣旨を掴もうとしている。

国語教育を見直そうと世の教育に携わる人は考えているようだけど、何も学校でやって差し上げずとも、趣旨を掴む訓練はできよう。私は、子どもができたら必ずしも塾に通わせようとは思っていないが、日記は書かせたいなと思っている。「きょうはかれーをたべました。」などの具体的事実とともに、必ず、今日一番印象に残ったことを書くように指導したい。人がああ言った、こう言った、これを見た、あれを見た、という事実の中から自分が取りだしたもっとも重要なこと(趣旨)を。

重要なのは、趣旨を掴むだけじゃない。掴んだ趣旨をどう表現できるかも大事な能力だろう。女を口説くのに必要なのは、複雑な現代を如何に色っぽく噛み砕いて理解しているか云々とともに、理解した趣旨を最適な言葉で表現できるかにも懸かっているような。(珍しく)断言しよう。現代文ができなきゃ、モテるはずがない。

(余談だが、現代文の成績は良いのにモテないって人も多くいるのが最大の問題な気もする。)

複雑化した現代をぎゅっと凝縮して解きやすくしたのが、「現代文」だろう。だからこそ"現代"文と呼ぶのだろう。そして、学校を卒業してもなお続けなくてはいけない勉強こそ、数学でもなく、理科でもなく、一番簡単なようで一番難しい「現代文」のような気がする。

その後、終わらない書類作成を放り出して、百貨店へ。

給料が入らなくても消耗品は必要だ。すべてカード払いで基礎化粧品諸々を購入(あああ、どんどん負債が溜まっていく…)。カウンターでメイク直ししてもらう瞬間こそ、至福のひととき。お世辞を連発する美容部員を体よくあしらいつつ、新しいものから定番品まで一通り。

すっかりイイ気分になった後は、母の回数券を拝借して近所の中国気功整体院へ。

「ぐえええぇぇ…!!」と声が漏れそうになる瞬間を重ね、「か、かなりコッテますネー!」と中国から渡来した仙人もビックリの身体を任せる。そう、これが一ヶ月間の研修の成果だ(←違う)。「一週間にイッカイは来てネ。」とのこと。(金銭的にも時間的にも)無理だ。

さて、また書類と向き合うぞ。
角田光代の『Presents』(双葉社)を一編だけ読む。

女性が一生のうちに貰う贈り物にまつわる短編集。読んだのは、「うに煎餅」という話。

大筋はこうだ。大学の頃から付き合っている同い年の彼氏がいる"私"は、先に就職先を決めてしまったがために、その彼氏とぎくしゃくし始め、そのうち、新しい年上の男性と知り合う。雑学豊富で美味しいお店をたくさん知っている新しい男に、"私"は色々なことを教わる。おごってもらったことも、荷物を持ってもらったことも、ドアを開けてもらったことも、大人しかいないバーに連れていってもらったこともなかった"私"は、初めて自分が女の子であると知り、元の彼氏と格安居酒屋では味わえなかったトキメキを、新しい男に求める。

私がなぜこのような本を読もうとしたかというと、ある人(女性)が薦めてくれたから。薦めてくれたというより、彼女は読んだ瞬間の興奮をいち早く私に伝えたかっただけのような。というのも、まるでこの私が話題を提供したのではないかというほど、設定やディテールがそっくりだから。

「アナタが特別だと思いこんでいる人生なんてね、本当はどこにでもあるありふれた事件ばかりで構成されたありきたりの人生なのよ!」

という台詞を思い出した。これは当時の私の心に深く突き刺さり、後の考え方に大きな影響を与えた。以来、私は、何かを考えようとするときに「こんなことを他人が知ったところで何になろう。」という前提を設けるようになった。かといって自身の内に籠もるようになったというわけではなく、むしろ、この歳までずっとオープンだった。が、私がオープンマインドを発揮して自分の与太話を披露する際、「聞いて、聞いて!」と言いながら、どこかで何かを諦めている冷静な自分が必ずいた。恋バナは好き。が、どれだけエキサイティングな恋バナでも、行き着くところはいつも自分の中。人が聞いて何かを得られる類のものではない、と思っていた。

つまり。

私が特別だと思いこんでいる現在の状況を、他人が聞いて何になろう、と。これだけ自らの感情を暴露しておいて何をいまさら、とお思いになる方もいるだろうが、角田光代が20代半ばで初めて知った(と思われる)感情も、私がこうして繰り返すように、私がハッと気付いたすべてを私より下の世代がまた繰り返す。たぶん。

私は、自分が知った新しい感情が「ありきたり」なことを悲しんでいるわけじゃない。むしろ小説にすらなり得る題材(小説になり得ない題材なんて無い気もするけど)だとわかっただけで十分な気が。

今回の件に限らない。私は、たとえ自分が稀有な体験をしたとしても、そこに流れる感情の渦は百年前から変化してない気がしている。私に限らず、健全な肉体と健全な精神を持った大人の条件を満たす皆に言えること。にも関わらず「表現」が誕生するのは、誰にでも理解できる類の普遍的な感情を、どういう切り口で切り取れるか、ということに懸かっている。扱う内容は同じ。ただ、どうやって切り取るか。

このことについて、私は、現在、目の前の仕事の次くらいに注目している。

不夜城で乾杯を

2006年4月28日
不夜城で乾杯を
研修最終日。

緊張の最中、ついに辞令が。予想だにしてなかった配属に衝撃を受ける私と、「りんはそうなりそうな気がしてたよ。」と語る同期一同。大口を叩きまくった人事面談を後悔したり、心の奥底ではこういう展開を期待してたのでは、と気付いたり。

末端の業務を知らずして我が社に入ってくれるなとばかりに知識を詰め込まれた研修期間、自分はこの仕事(末端業務)を極めていくのだろう、と信じて疑わず、就活当初のピュアな気持ちを忘れていた。末端業務を馬鹿にしているのでは決してなく、むしろ自分にできるかどうかだけが不安だった。エレガントな身のこなし、顧客の気持ちを慮る力、いつでも自分を綺麗に保つ努力、等々、できないと決めつけていたわけじゃない。営業・企画系の業種を目指していた就職活動初期、それら企業に軒並み×を出され、追いつめられた私は天啓の如く閃いた新しい思いつき(「私は接客に向いているはず!」)にすがりついた。そして、その方向で就活は成功(?)し、優雅な残りの学生時代を過ごし、奇妙な星の巡り合わせで、私は今回の辞令を受ける。

なぜか男性の仕事だと思いこんでいた「ハード」を扱う仕事。

自分が女だという事実を気に入りたいがために、「ソフト」ばかりに注目しようとしていた。「女だから女にできる何かを」と思っていた私は、性に対してフリーだったとは決して言えない。むしろ、誰よりも性に囚われていたような。性に対して本当にフリーになるということは、扱うものが「ハード」か「ソフト」かどうかということをあまり考えず、ただ自分の目の前にある仕事を着実にこなそうとする状態かもしれない。ソフトを欠いたハードはただの箱だし、ソフトはハードが無ければ役にも立たない。要は、自分が会社という大きな枠組みの中で、どちらから物事を切り取るか。

何にせよ、私が男性の仕事だと勝手に思いこんでいたように、これから私が飛び込む世界には同じように考える人々の割合が少なくない(たぶん)。そんな中、自分の不甲斐なさを何かのせい(たとえば、「女性だから」という事実)にするのではなく、「社会人」としての穴を埋めていく作業に目を向けよう。そして、闘う!



(酒が飲めない率が高い我が社で、珍しく私が酒飲みだと上司らが知ることとなった、という事実が今回の辞令とまったく無関係だとは言い切れないが。)



それはそれとして、研修最終日、金曜、新宿、という三つの条件を満たした新卒一同は、初の「同期飲み」開催。

こんな楽しい飲み会は久々だ。一ヶ月間、まったく同じ壁にぶつかり、同じ悩みを抱え、同じ時間を過ごした私たちは来月一日からバラバラになる。寂しいような、心強いような。なぜ心強いかと言えば、こうして一度育まれた絆がちょっとやそっとじゃ壊れない自信が、私たちの誰にもあるから。ビール×3、カルーアミルク×1。

素面で帰宅後、何を思い立ったか長渕剛など聴く。そして、私の配属を聞いた元営業職の先輩から久々のTel。「偉そうに語ってゴメン。」と語る決して偉そうに響かない声が、私の五臓六腑にビールよりも染み渡る。

かたい絆に 想いをよせて
語り尽くせぬ 青春の日々
時には傷つき 時には喜び
肩をたたきあった あの日

乾杯! 今君は人生の
大きな 大きな舞台に立ち
遙か長い道のりを 歩き始めた
君に幸せあれ!

(長渕剛・「乾杯」より)

Ta Da I Ma

2006年4月27日
仕事中なのに妄想がとまらない木曜日。

「もっと丁寧に扱いなさい!」「スミマセン!」「それは逆さまでしょ!」「スミマセン!」「喋り方はもっとエレガントに!」「スミマセン!」「ホラ、後ろも見て!体中に目をつけなさいって言ってるでしょ!」「スミマセン!」と、朝から晩まで注意されっぱなしでフラフララ。おまけに不器用。できない。おかあさーん!!

泣いている場合ではない。

残業を終え、帰宅。機嫌の悪い母と対面。不機嫌さの原因は謎。原因が何であれ、疲れて帰宅してすぐに笑顔で「おかえり。」と言ってもらえないことの寂しさよ。

私は考えた。もし私が一人暮らしだったら、と。そして、いつも疲れているはずの世の勤め人のことを。部活や勉強やバイトが大変(だと当時は思ってたのよね)だった頃、フラストレーションを解消する術は「喋ること」以外に無いと思っていた。ストレスフルな私の生活が60億分のたった1だとするなら、そんな1とまったく同じタイミングで共鳴し合う都合のいい人がいるのか、と、今ならわかるのに。

どういうことかというと、私が「今日ね、こんな嫌なことがあってさ!」と話したところで、相手が私と同じように「嫌な一日」を過ごしたとは限らない、ということ。私の人生が60億分のたった1なら、彼女(母)の人生も同じように60億分のたった1。秋の空のように変化する私の心と彼女の心が共鳴し合う可能性は計測不可能だ。

たとえば相思相愛の恋人同士でも、たとえば長年連れ添った夫婦同士でも、まさか朝から晩までべったり一緒にいるはずがないし、60億分の1のお互いは、どれだけ親密な間柄でも決してリンクし得るはずがないプライベートな部分を保ったまま、たまーに共鳴したり、しなかったり、そんなことの繰り返しだろう。リンクし合わない部分を補うのは、ほとんどカラカラになった雑巾を無理矢理絞るようにひねり出す「想像力」しかない。想像しよう、自分の知らない誰かの生活を。想像しよう、自分の生活を誰も具体的にイメージできるはずがないこの悲しい事実を。

ひとりぼっちで夕飯を食べながら。

疲れて帰宅した誰か(私でもいい)がいるなら、とりあえず60億分の1的人生をリセットした状態で「おかえり。」と言えたら、と思う。「いつも元気でいて欲しい。」と言われたことがあるが、そう言ったある人は、おそらく、色々と抱えながらもゴハンを食べたら「おいしー!」と言ったり、素敵なものを見たら「ステキー!」と言ったり、そんな元気な私を好いた(はず)。"元気な私"は、自分が60億分の1という事実を一度どこか遠くに置いてフラットになり、濁りのない水のような精神で誰かを癒すのかもしれない。そして、私を癒す誰かが本当に大変な生活をしているかどうかがなかなか想像できない(なぜなら、相手は濁りを見せないから)からこそ、私は、水のようにいつも清らかなかの人を愛す。

誰かと一緒に暮らすなら、親子でも、夫婦でも、恋人でも、見ず知らずのルームメイトでも、すべてをリセットして「ただいま。」「おかえり。」と言える準備を伴うような。

日常にはびこるすべての雑多な出来事を排除することで、私はいつも抽象を極める。そんな私を見て「良し」と思うなら、この現実世界で揉まれて擦り切れる私の何もかもを捨てて、いつでも誰かの目には"元気な私"が映るように、私はこうして文章(←具体的事実を排除した文章)を書く。最後は前を向く文章を。この日記が究極の「ただいま。」になるように。そして、これを読む誰かが「おかえり。」と言いたくなるように。

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雑感、諸々。

●配属発表の日は近い。

●給料日はまだか。

●毎週のように使っていたら調子が良かったので、「メンズビオレ・スーパースクラブ洗顔」をついに購入。
私の肌はメンズ対応だったのか…

●メンソレータムをニキビに塗ったらとても良い。

●一向に痩せる気配が無い。
仕事について真面目に考えてみる月曜日。

会社へ向かう電車の中で、大叔父(祖父の弟)が残した受賞作を読む。「わたしが もし スペインに生まれていたら闘牛士を 十年おくれて日本に生まれていたらカーレーサーを めざしていたことだろう どちらの場合もうまくいかなくて やはり へたくそな小説を かいていたことだろう」と、おじさん(←私はこう呼んでいた)は最初で最後のあとがき内で語る。

先日、F1(サン・マリノGP予選)をテレビで観る機会があった。

おじさんが目指していたかもしれないカーレースの世界を、私は不思議な気持ちで眺めた。「これって何周するの?」「何周だと思う?」「5週くらい?」「まさか!何十週もするよ!」という話を聞いて驚いたのは、約一ヶ月前の話。そうか、レーサーたちは、擦り切れたタイヤを替えるほどぐるぐると同じところを走り続けるのね、と理解して観たのが先週のこと。

接客の基本を机上で叩き込まれて、練習して、練習して、練習して、練習している。私は本当にこの職種を選んで良かったのか…と悩まない人は、たぶん、いない。私が気付いたのは、「じゃあ、ここまで頑張ってね!」と明らかに提示されたゴールが無いことはなんと心許ないことよ、と。これは社会人になってすぐに気付いたことだけど、たとえば「一週間」という区切りを持たせることは、必要なときと必要じゃないときがある。一週間という区切りの中で生きる私は、金曜が嬉しい。では月曜は?

誰の目にもハッキリとわかる区切りが、私にとって「卒業」だった。何かを目指して頑張っていると、いざその何かが終わったとき、広い大海に放り出されたような何とも心許ない気分になる。高校を卒業して浪人、じゃあ次は受験日まで頑張ろう、合格、じゃあ次は大学四年間頑張ろう、…といつも区切りを設けてそれまでは遮二無二頑張ってきた私だけど、今度のレースは何周だ? ああ、たぶんあれがゴールだ、という先が見えないレースに参加した私は、かつて走ったことのないサーキットで、その終わり(なんて無いかもしれないのに)を探して、見つからなくて、こうして心許ない気分になる。

思うに。

私の職場で身につけるべき「資格」は、専門職としての「資格」ではあるが、どこに行っても通じると(上司は語る)。逆を返せば、これができなきゃどこに行っても通じない。たとえば営業をすることになっても、たとえばタクシーの運転手になっても、たとえば街で売り子になっても。そのことに気付いた私は、「わー!」とか「ひえー!」とか(心の中で)叫びながら、「資格」を得ようと必死で走る。バイト時代に一度どころか何度も走ったはずの道を、ぐるっと回ってまた走る。

細分化され複雑化した社会も、社会人が持つべきあるひとつの能力さえあれば、どんなところに行っても柔軟に対応できるのでは、と。その能力をうまく言葉にできなかったどっかのお偉いさんが「コミュニケーション能力」などとラベルを貼って、耳にタコができるほど私たちに聞かせる。そして、いざ社会に出て、私はその「ある能力」を得たくてなかなか得られない。

なまけものでいいかげんなところがあるから世の中をななめに見ていた、こどものときから失敗ばかりをくりかえしてきたから世の中のことは順調にいくほうがおかしいとおもっているのである、と語るおじさんが、未曾有の大繁栄を築いた経済戦争(六十年安保闘争の頃だ)の最中、書くことに何かを求めた。結果としておじさんはひとかどの成功を収めたから良かったものの、とまらないレースに背を向けてそれで寂しくなかったの、と、おじさんの生意気な甥の子(←私のこと)はちょっとばかし思う。ゴールが見えるレースに対し、とまらないレースは怖い。でも逃げたくない、と、おじさんと同じく書くことに何かを見出した私は、観客のようにレースを客観視しつつ、自分で走ることもしたいよ。

おじさんに会いたくなった。

もうこの世にいないけど。

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備忘と雑感。

●コンビニにて。
仕事で使う情報誌を買い求めて。「○○ありますか?」と私。「えーっと…」と探す男性店員(推定年齢25歳)。その後彼の口から飛び出した衝撃の台詞↓

「このコーナーはあまりちゃんと見たことが無いのでわかりません。」

こんなことが許されていいんですか。

●二日明けて、髪型が気に入らない。

●私服が着たい。
午前中起床、大成功。

過去最高MAX(←頭痛が痛い、みたいなもんか?)と語られる散らかり度の部屋にて、さわやかに「おはよう」と言われても。今だからわかるが、「ちょっと散らかってるけど、どうぞ。」と言われるがままに初めて通された当時の部屋が、ちょっと散らかっているどころか過去最高MAXに綺麗だったのだな、と。どんどん塗り替えられる新記録を、生温かい目で見守るつもり。

「今日は何を着よう?」と迷うマイ・ラヴァーのファッションチェック。

クローゼットを物色。原色が無い(着られても困るが)。黒、紺、茶、緑の基本四原色から抜け出せないらしい彼のセンスは、たぶん、そこまで悪くない。あら、コレ素敵。コレも素敵。コレも素敵ぢゃない! なんでこれらを着ないのよ、と問えば、「買っても、結局、気に入ったやつしか着ないんだよね。」とのお答え。秋に見た紺のシャツ(たぶん気に入ってたんだと思われる)の裾には穴が開いてたし、冬に見たこれまた紺のニットは身頃と身頃の繋ぎ目が派手にほつれてたし、もっと回してくれ、と切に願う。

サンボマスター(←テンション高過ぎ!)を聴きながら、お着替え。

半袖白Tシャツの上に、買ったばかりのロンTを。お兄さん、襟元から白が見えるよ。「変だよね?」「そうですね、変です。」「うーむ。」「タンクトップとか無いの?」「タンクトップは無い。」「Uネックも無いの?」「Uネックも無いし、Vネックも無い。」「なんで?」「ちょいワルじゃない?Vネックとかって。」「…(わけわからんなあ)。」「タトゥーとか入ってそうなイメージ。」たしかに、彼とタトゥーの相性は、納豆にクリームソーダを付け合わせるくらい悪そうだ。

カチャカチャとベルトを締める彼を眺めながら突然思い出したこと。

昨夜のディナー中、需要と消費についての話をした。たとえば、私はこう見えて、女のコが希望しがちな「かわゆいチャペルで牧師様に愛を!」というキリスト教式は自分で挙げるつもりがさらさらないのだが、日本はいつからこうなったのだろう、と。日本が無宗教国家だというなら、教会でのキリスト教式でもなく、神社で八百万の神に許しを乞うでもなく、人前挙式という日本らしいスタイル(と、私は思うのだけど)がもっと定着していても良いのでは? 何にせよ、今、日本の適齢期女性は教会での挙式に憧れる。需要がある。が、それは「需要→供給」という手順を踏んでここまで来たのかな。

文明開化の全盛期はもう100年以上前だけど、私たち女性がテーマパーク(たとえばディズニーシー)を好むのも、アッチの国の雰囲気をインポートして真似っこした様がたぶん好きだから。たとえば、ニューヨークスタイルと聞けば、なんとなく良さそうな気がしてしまう。「多分こうしたら皆食いつくぜ。」という強力な定番(往々にして欧米風)がバーンと供給されたら、もともと強烈に欲していなくても「ん?」と気になる。マイ・ラヴァー曰く、たとえば受験中、グラビアアイドルのことなんて一切考えていなくても、突然ギリギリの服装&お色気たっぷりの試験官が現れたら、「あ。」と鉛筆が止まると(笑)。かといって色気を欲していたわけではない。そこに需要は無かったはず。

それとちょっと似ているのは、私は「現実肯定主義」とでも言えば良いのか、あてがわれると大抵は気に入る。もともと好みじゃなくても、その人が自分を好きと言ってくれれば「振るのは勿体ない。」と思いがち(もちろん残念ながら例外はある笑)。そんなある種ノンポリの私も、「クリスチャンじゃないのに神に愛を誓っていいの?」と思うし、譲れないところはどうやらある。そして、「現実肯定主義」は誉められるべきことのようで実はそうでもないのでは? 私は自分の「心からの需要」に目を向けよう、向けた結果がここにある、と、ここでようやく現実の世界に帰る。私は流されたのでは決してなく、心から需要して着替える彼を見ることができる身分になった。


心の声をつなぐのが これ程怖いモノだとは
僕等なぜか声を合わす
今までの過去なんてなかったかのように歌い出すんだぜ

愛と平和!
悲しみで花が咲くものか!

新しい日々の僕達は 高なる予感がしてるのさ
君と僕が夢を叫ぶ 世界はそれを待っているんだぜ

あなたのために歌うのが これ程怖いモノだとは
だけど僕等確かめ合う
今までの過去なんてなかったかのように
悲しみの夜なんてなかったかのように歌いだすんだぜ

世界じゃそれを愛と呼ぶんだぜ
LOVE & PEACE!

(サンボマスター・「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」より。)

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