Mama used to say
2006年3月29日Sねーさんたちとお花見(花は見なかったけど)。
幹事のSねーさん宅に、正午、参上。ベビーシッターをしているねーさんが預かったベビー(4歳・男の子)に「でへぇ〜」と迎えられて、りん姉さん、えびす顔。ベビーくんを連れて買い出しへ。「走ると転んじゃうよ!」→ 案の上、転ぶ。
"花冷え"の本日。晴れてはいるもののあまりに寒いので、「部屋花見」に変更。続々とゲスト到着。フライパンで炒めただけのビーフピラフに、オーブンで5分のピザ・マルガリータ、さっと茹でただけのウィンナー、などなど、ほとんど冷凍食品だが、かわゆいお皿とかわゆいコップがあれば問題ナッシング。
…と思ったら、ベビーの投げたクッションがコップに命中し、ヒビが!! さらに、「本読んで。」と言うからあぐらの上に乗せて読んであげたものの、ほとんど聞いていない。さらに、着ていたカーディガンのボタンは外されるし、さらにさらに、油断していたら突然耳元で囁かれて「ひいぃッ!!」となる。そういうことは大人になってからカノジョにしてあげなさいね、と。
改めて思ったのは、結婚と育児はおままごとじゃないぞ、と。
できちゃった結婚をする知り合いがここ数ヶ月で二名も発生したが、「それはちょっとねえ…。」とSねーさんは語る。そんなSねーさんも、30歳になる今年、ついに結婚する。もう何年も付き合っている彼氏がいながら、預かったベビーを乳児の頃から見ていたねーさんは、色々と思うところがあったのだろう。「もはやこの年になると欲しいものは、ときめきよりもいつまでも変わらない、空気のような家族のような安心感。血の繋がってない人と家族になるってことは、そりゃもう大冒険よ。」と、ねーさんは語る。できちゃった結婚が悪いとまでは言わないけど、血の繋がらない人の妻になる覚悟、ちっとも言うことをきかない我が子を抱える母になる覚悟、そういう覚悟を決めるためには少々時間が必要だろう、と。
なるほどと思って帰宅した私は、母とチゲ鍋をつつきながらトーク。
母いわく「それはたしかにそうなんだけど。」と。
生む前にどれだけ覚悟を決めても、その覚悟を易々とぶち壊すようないろーーーーんなことがある、と。結婚も同じ。散々熟考して、よし、この人なら、と思って結婚しても、結婚以前に考えたことなんてほとんど役に立たない、と。そして、「覚悟を決めないまま母になる人と、覚悟を決めてから母になる人の間にそこまで差は無いの。」とマイ・マザーは語る。なぜなら、覚悟を決めて「一人前の母」になるのではなく、生まれた瞬間からすべての女が「母親見習い」としてスタートするからだ、と。子どもが幼ければ母も「母」として幼い。試行錯誤しながら隙のないように育てても、「ああ。」と後悔することはいくらだってあるんだ、と。
さらに。
慎重になることはたしかに素晴らしい。でも、「石橋を叩いて渡る人」は、見方を変えれば「臆病者」ともとれる、と。これなら大丈夫と決めて結婚できるまで、どれだけかかる?これなら大丈夫と決めて子どもを生めるまで、どれくらいかかる?これだけ大変なことに立派な覚悟が必要なら、誰も踏み出せないわよ、と。
二浪の末に大学に滑り込んで、四年間、麻雀と酒と女の日々に溺れたマイ・ファザー。そして半人前どころか四分の一人前にもなっていなかった社会人一年目の彼について、ひとりっ子のお嬢様だったマイ・マザーは故郷を離れ、結婚した。若いゆえに浅はかだった考えとともに。ただ「好き!」という情熱だけを持って。親も友達もいない場所で、帰宅が遅い夫を待ちながら、新入社員で悩み多き夫の愚痴を聞きながら、言うことを聞かない子どもを大きくした。その後脱サラして未だ脳天気な父の嫌がる家計の計算をし、嫁姑問題に悩みながら、子どもを大学まで出した。
虚弱で、繊細で、傷つきやすく、甘ったれで、子離れができていない(ように見える)我が母だけど、彼女にも譲れない思いはたしかにあって、ふと、その片鱗が見えるときがある。そして、私のなりたい「凛とした女性」とは、あからさまな強さこそ持っていないけど奥にぶっとい一本の芯がある彼女のような女性では、と思ったりする。
------------------------------------------------------------------
備忘とつぶやき。
●本日のBGM。
オムニバスコーナーにてゲットした『LOVE PARA2(ラブパラパラ)』。
謳い文句は、「好きでしょっ!!愛のパラ騒ぎ!!」。全国のイベサー、ギャルサー完全対応教則DVD付き! まさに、ギャル/ギャル男による、ギャル/ギャル男のための超凄ヒット盛り!…というCD。
申し訳ないけど(←誰に謝ってるんだろ、私)、こういう曲が大好きです。パラパラとか、やってみたら案外ハマッて、毎晩繰り出して、ギャルに混ざって踊りまくっていたかもしれない。ヤマンバにはさすがに抵抗があったが、もう少し早く生まれてジュリアナ全盛期だったら本当に危険だったと思う。あと、盆踊りとか好きなんですよ、私。
これで明日から、朝も、昼も、夜もノリノリ、チェケラッチョ!
●RPGでいこう!
「HP高そうだよね。」と言われた。ただし、MPは低そう、とも。どーゆーこっちゃ。
ひとりでは回復できないので、パーティ編成が重要らしい。魔法使いキャラ、募集中。
幹事のSねーさん宅に、正午、参上。ベビーシッターをしているねーさんが預かったベビー(4歳・男の子)に「でへぇ〜」と迎えられて、りん姉さん、えびす顔。ベビーくんを連れて買い出しへ。「走ると転んじゃうよ!」→ 案の上、転ぶ。
"花冷え"の本日。晴れてはいるもののあまりに寒いので、「部屋花見」に変更。続々とゲスト到着。フライパンで炒めただけのビーフピラフに、オーブンで5分のピザ・マルガリータ、さっと茹でただけのウィンナー、などなど、ほとんど冷凍食品だが、かわゆいお皿とかわゆいコップがあれば問題ナッシング。
…と思ったら、ベビーの投げたクッションがコップに命中し、ヒビが!! さらに、「本読んで。」と言うからあぐらの上に乗せて読んであげたものの、ほとんど聞いていない。さらに、着ていたカーディガンのボタンは外されるし、さらにさらに、油断していたら突然耳元で囁かれて「ひいぃッ!!」となる。そういうことは大人になってからカノジョにしてあげなさいね、と。
改めて思ったのは、結婚と育児はおままごとじゃないぞ、と。
できちゃった結婚をする知り合いがここ数ヶ月で二名も発生したが、「それはちょっとねえ…。」とSねーさんは語る。そんなSねーさんも、30歳になる今年、ついに結婚する。もう何年も付き合っている彼氏がいながら、預かったベビーを乳児の頃から見ていたねーさんは、色々と思うところがあったのだろう。「もはやこの年になると欲しいものは、ときめきよりもいつまでも変わらない、空気のような家族のような安心感。血の繋がってない人と家族になるってことは、そりゃもう大冒険よ。」と、ねーさんは語る。できちゃった結婚が悪いとまでは言わないけど、血の繋がらない人の妻になる覚悟、ちっとも言うことをきかない我が子を抱える母になる覚悟、そういう覚悟を決めるためには少々時間が必要だろう、と。
なるほどと思って帰宅した私は、母とチゲ鍋をつつきながらトーク。
母いわく「それはたしかにそうなんだけど。」と。
生む前にどれだけ覚悟を決めても、その覚悟を易々とぶち壊すようないろーーーーんなことがある、と。結婚も同じ。散々熟考して、よし、この人なら、と思って結婚しても、結婚以前に考えたことなんてほとんど役に立たない、と。そして、「覚悟を決めないまま母になる人と、覚悟を決めてから母になる人の間にそこまで差は無いの。」とマイ・マザーは語る。なぜなら、覚悟を決めて「一人前の母」になるのではなく、生まれた瞬間からすべての女が「母親見習い」としてスタートするからだ、と。子どもが幼ければ母も「母」として幼い。試行錯誤しながら隙のないように育てても、「ああ。」と後悔することはいくらだってあるんだ、と。
さらに。
慎重になることはたしかに素晴らしい。でも、「石橋を叩いて渡る人」は、見方を変えれば「臆病者」ともとれる、と。これなら大丈夫と決めて結婚できるまで、どれだけかかる?これなら大丈夫と決めて子どもを生めるまで、どれくらいかかる?これだけ大変なことに立派な覚悟が必要なら、誰も踏み出せないわよ、と。
二浪の末に大学に滑り込んで、四年間、麻雀と酒と女の日々に溺れたマイ・ファザー。そして半人前どころか四分の一人前にもなっていなかった社会人一年目の彼について、ひとりっ子のお嬢様だったマイ・マザーは故郷を離れ、結婚した。若いゆえに浅はかだった考えとともに。ただ「好き!」という情熱だけを持って。親も友達もいない場所で、帰宅が遅い夫を待ちながら、新入社員で悩み多き夫の愚痴を聞きながら、言うことを聞かない子どもを大きくした。その後脱サラして未だ脳天気な父の嫌がる家計の計算をし、嫁姑問題に悩みながら、子どもを大学まで出した。
虚弱で、繊細で、傷つきやすく、甘ったれで、子離れができていない(ように見える)我が母だけど、彼女にも譲れない思いはたしかにあって、ふと、その片鱗が見えるときがある。そして、私のなりたい「凛とした女性」とは、あからさまな強さこそ持っていないけど奥にぶっとい一本の芯がある彼女のような女性では、と思ったりする。
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備忘とつぶやき。
●本日のBGM。
オムニバスコーナーにてゲットした『LOVE PARA2(ラブパラパラ)』。
謳い文句は、「好きでしょっ!!愛のパラ騒ぎ!!」。全国のイベサー、ギャルサー完全対応教則DVD付き! まさに、ギャル/ギャル男による、ギャル/ギャル男のための超凄ヒット盛り!…というCD。
申し訳ないけど(←誰に謝ってるんだろ、私)、こういう曲が大好きです。パラパラとか、やってみたら案外ハマッて、毎晩繰り出して、ギャルに混ざって踊りまくっていたかもしれない。ヤマンバにはさすがに抵抗があったが、もう少し早く生まれてジュリアナ全盛期だったら本当に危険だったと思う。あと、盆踊りとか好きなんですよ、私。
これで明日から、朝も、昼も、夜もノリノリ、チェケラッチョ!
●RPGでいこう!
「HP高そうだよね。」と言われた。ただし、MPは低そう、とも。どーゆーこっちゃ。
ひとりでは回復できないので、パーティ編成が重要らしい。魔法使いキャラ、募集中。
3月28日の読書メモとワンダーランドの話
2006年3月28日コメント (2)
竹内薫の『99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』(光文社新書)、読了。
以前書いたことと若干ダブるが(12月29日の日記参照。)、私はある人と「真実はあるのか?」という話をよくする。彼は「真実があるって言い切る姿勢はどうかな。」と言って眉をひそめる。
「数学と科学の決定的な違い」について、著者は語る。
科学の場合、ある種の実験をすると、ある理論が正しいということが決定的に決まるイメージがある。が、100万回実験を行って理論を支持するような実験結果が出てきたとしても、その次の100万1回目に否定的な結果、理論がうまくいかないことを示すような精密実験データが出てきたら、その時点でその理論は通用しなくなる。要するに、決定的な証明は永遠にできない、ということ。なぜなら永遠に実験をすることは不可能だから。
一方、数学の場合、証明することができる。なぜなら、数学は概念だから。すべてが頭の中の出来事だから、一度証明してしまえばそれで終わり。科学はそうじゃない。科学は、頭の中の仮説がどれくらい頭の外、つまり物理世界と一致するかを問題にする、と。
もうひとつ。
アインシュタインの相対性理論についても、著者は触れている。
たとえば、太郎君と次郎君がいて、お互いに別のロケットに乗って宇宙空間ですれ違ったとする。そのすれ違う瞬間にお互いの時計を望遠鏡で見た場合、太郎君には自分の時計に比べて次郎君の時計が遅れているように見えるが、一方、次郎君にも自分の時計に比べて太郎君の時計が遅れているように見える。そんなことはありえない、と思うなら、それは「世界には時間の流れがひとつしかないという仮説」に馴れきっている証拠。世界には複数の時間の流れがあってもいいという仮説をとるなら、全然かまわない、と。要は、全体を統一する絶対的な唯一の仮説が無いということだ。どっちが正しいかではなく、両方とも正しいというのが、相対性理論の根っこの考え方だという。
ここで、もう一度、科学と数学の話に戻る。
科学と数学のどちらが良いかを述べるつもりはないが、私が数学をあまり好きになれなかった根本(のようなもの。数学をバリバリ勉強してる頃は意識してなかったけど。)が、改めてはっきりした気がする。
というのも、「絶対的な唯一の仮説」が必ず証明される数学はロマンチックと思う人もいるようだけど、まったく同じ理屈で、私はそこ(「絶対的な唯一の仮説」が必ず証明される)に魅力を感じない。なぜなら、やはり、どこまでいっても頭の中の出来事に過ぎないから。普段からワンダーランドに飛びがちな私にとって、自分の頭の中でのみ存在しうる世界を、どれだけリアルワールドに適応させるかが幼い頃からの課題だった。
リアルワールドには色々な人がいる。そして、それぞれの頭の中に"真実"を持っている。私は、最近になって、自分のワンダーランド内で証明された"真実"を声高に叫ぶのは傲慢なのでは? ということに段々気付いてきた。12月にも思ったことだけど、必ず"真実"が出るはずだという前提の上で問題を解く数学者より、"真実"が所詮自分の頭の中でしか証明できないことに気付きながらそれでも良く生きようとする姿勢の人に、私はどうしても惹かれる。
最後にもうひとつ。
ホーキングという宇宙論学者は現実と夢を区別していなかったそうだけど、私は、実は、同じような傾向がある(←って書くと、すごく危ない人みたい…)。そして、アインシュタインの相対性理論の概要を聞く以前に、「世界には時間の流れがひとつしかないという仮説」を否定する準備ができていたような。
私が生まれたのは地球という星の西暦1982年だけど、たとえば100年後の2082年に死ぬとして、60ウン億年という地球の歴史の中の100年だけ存在したことになる。宇宙にひとつ確かな時間の流れがあるとして、一度誕生した私が次に生まれ変わるなら、地球という星の2082年以降でないと、つじつまが合わない。でも、そうじゃないような気がして。私は宇宙空間に浮遊する時間に縛られない魂で、今回は地球という星の西暦1982年に生まれたけど、次は地球という星の西暦794年の平安の都に生まれて恋の歌でも詠んでるかもしれない。
私が今世で出会ったある人も、もしかしたら西暦4080年とかに生まれたことがあって、そして、私も西暦4082年に生まれたこともあるかもしれなくて、一度出会った魂同士なのかもしれないなあって。時間を取り払った空間に生きる魂同士が出会うこと、それには強烈な意味がやはりあるような気がして。だからこそ、人は恋をするんじゃないかな。運命じゃない恋も現世にはたくさんあるけど、もしも、もしもだよ、運命の恋(←って書くと、さすがの私も恥ずかしい…)があるとして、「見た目が好き、思いやりがあるから好き、明るいから好き」などの客観的項目がぶっ飛んでもなお「なんだかよくわからんけど好きになっちまったー!!」と私たちに思わせるのは、時間に縛られない宇宙の中で本当に触れ合った記憶のせいじゃないかな、と。それこそを親子の因縁、親友の因縁、そして恋人同士の因縁と呼ぶのではないかな、と。
さてさて。固い話はこのくらいにして寝ます。
以前書いたことと若干ダブるが(12月29日の日記参照。)、私はある人と「真実はあるのか?」という話をよくする。彼は「真実があるって言い切る姿勢はどうかな。」と言って眉をひそめる。
「数学と科学の決定的な違い」について、著者は語る。
科学の場合、ある種の実験をすると、ある理論が正しいということが決定的に決まるイメージがある。が、100万回実験を行って理論を支持するような実験結果が出てきたとしても、その次の100万1回目に否定的な結果、理論がうまくいかないことを示すような精密実験データが出てきたら、その時点でその理論は通用しなくなる。要するに、決定的な証明は永遠にできない、ということ。なぜなら永遠に実験をすることは不可能だから。
一方、数学の場合、証明することができる。なぜなら、数学は概念だから。すべてが頭の中の出来事だから、一度証明してしまえばそれで終わり。科学はそうじゃない。科学は、頭の中の仮説がどれくらい頭の外、つまり物理世界と一致するかを問題にする、と。
もうひとつ。
アインシュタインの相対性理論についても、著者は触れている。
たとえば、太郎君と次郎君がいて、お互いに別のロケットに乗って宇宙空間ですれ違ったとする。そのすれ違う瞬間にお互いの時計を望遠鏡で見た場合、太郎君には自分の時計に比べて次郎君の時計が遅れているように見えるが、一方、次郎君にも自分の時計に比べて太郎君の時計が遅れているように見える。そんなことはありえない、と思うなら、それは「世界には時間の流れがひとつしかないという仮説」に馴れきっている証拠。世界には複数の時間の流れがあってもいいという仮説をとるなら、全然かまわない、と。要は、全体を統一する絶対的な唯一の仮説が無いということだ。どっちが正しいかではなく、両方とも正しいというのが、相対性理論の根っこの考え方だという。
ここで、もう一度、科学と数学の話に戻る。
科学と数学のどちらが良いかを述べるつもりはないが、私が数学をあまり好きになれなかった根本(のようなもの。数学をバリバリ勉強してる頃は意識してなかったけど。)が、改めてはっきりした気がする。
というのも、「絶対的な唯一の仮説」が必ず証明される数学はロマンチックと思う人もいるようだけど、まったく同じ理屈で、私はそこ(「絶対的な唯一の仮説」が必ず証明される)に魅力を感じない。なぜなら、やはり、どこまでいっても頭の中の出来事に過ぎないから。普段からワンダーランドに飛びがちな私にとって、自分の頭の中でのみ存在しうる世界を、どれだけリアルワールドに適応させるかが幼い頃からの課題だった。
リアルワールドには色々な人がいる。そして、それぞれの頭の中に"真実"を持っている。私は、最近になって、自分のワンダーランド内で証明された"真実"を声高に叫ぶのは傲慢なのでは? ということに段々気付いてきた。12月にも思ったことだけど、必ず"真実"が出るはずだという前提の上で問題を解く数学者より、"真実"が所詮自分の頭の中でしか証明できないことに気付きながらそれでも良く生きようとする姿勢の人に、私はどうしても惹かれる。
最後にもうひとつ。
ホーキングという宇宙論学者は現実と夢を区別していなかったそうだけど、私は、実は、同じような傾向がある(←って書くと、すごく危ない人みたい…)。そして、アインシュタインの相対性理論の概要を聞く以前に、「世界には時間の流れがひとつしかないという仮説」を否定する準備ができていたような。
私が生まれたのは地球という星の西暦1982年だけど、たとえば100年後の2082年に死ぬとして、60ウン億年という地球の歴史の中の100年だけ存在したことになる。宇宙にひとつ確かな時間の流れがあるとして、一度誕生した私が次に生まれ変わるなら、地球という星の2082年以降でないと、つじつまが合わない。でも、そうじゃないような気がして。私は宇宙空間に浮遊する時間に縛られない魂で、今回は地球という星の西暦1982年に生まれたけど、次は地球という星の西暦794年の平安の都に生まれて恋の歌でも詠んでるかもしれない。
私が今世で出会ったある人も、もしかしたら西暦4080年とかに生まれたことがあって、そして、私も西暦4082年に生まれたこともあるかもしれなくて、一度出会った魂同士なのかもしれないなあって。時間を取り払った空間に生きる魂同士が出会うこと、それには強烈な意味がやはりあるような気がして。だからこそ、人は恋をするんじゃないかな。運命じゃない恋も現世にはたくさんあるけど、もしも、もしもだよ、運命の恋(←って書くと、さすがの私も恥ずかしい…)があるとして、「見た目が好き、思いやりがあるから好き、明るいから好き」などの客観的項目がぶっ飛んでもなお「なんだかよくわからんけど好きになっちまったー!!」と私たちに思わせるのは、時間に縛られない宇宙の中で本当に触れ合った記憶のせいじゃないかな、と。それこそを親子の因縁、親友の因縁、そして恋人同士の因縁と呼ぶのではないかな、と。
さてさて。固い話はこのくらいにして寝ます。
3月26日の日記、二本立て。
学科の友達四人衆(ミキティ、まゆげ、Qoo、りん)で卒業パーティ。
式後、各々の用事を済ませ、Qoo宅に集合。近所のスーパーで大量の酒と食べ物を購入。欲望のままに買いまくったのが災いし、いざ食べようとした段になって「肉と揚げ物しかないよ!」と気づく。女が四人もいるというのになんたる有様だ、と嘆きながら、さらにソーセージの乗ったピザを注文。一晩で一気に肥える予感。
何はともあれシャンパンで乾杯。「卒業、おめでとう!」
学生最後の晩、Qoo&まゆげから予想だにしなかった衝撃の告白を聞いてしまい、「栄枯盛衰は世の理よのう…。」と、ひとり、嘆息。風邪気味らしいQooと傷心のまゆげは、早々に就寝。布団にくるまりながら物思いに耽るミキティと私。
男女交際に関して。
私は少し誤解していた。恋人がいたとして、その人と"一緒にいる"ことが目的であって、"付き合う"ことが目的じゃない。だから、たとえ喧嘩をするにしても、一緒にいるためにどうすればよいかを考えるべきではないか? 私たちの人生を旅にたとえるなら、恋人と向かい合ってても何も始まらない。二人で前方を見据え、とりあえずあれを目標にしようか、と決め、そこに至るまでに出くわす障害物(喧嘩)を協力して乗り越えたい。互いに向かい合って相手が障害物になってしまうような付き合いは悲しい。ベクトルは常に前方(未来)に向けたい。その人と"一緒にいたい"と思うなら。
自分を愛せないのに他人を愛せるはずがない、と聞いたことがあるけど、当時は「そう?」程度に思っていた。最近になって「ああ、そうかもなあ。」と思う。なぜなら、自分に余裕がなければ、注目するのはいつだって「自分」になってしまう。「自分」が気持ちよくあるために付き合うべきじゃない。付き合うとは、余裕を持てるようになった大人の行為。「自分」のためではなく、「自分と相手」のための行為だろう。
そんなことをうねうねと考えながら、早朝五時半、就寝。
------------------------------------------------------------------
起床後。
新着メール一件受信 from 土日連続で休日出勤中のマイ・ラヴァー。
サリーちゃんのパパ状態になった髪を濡らしてブローして、酒臭くないかしら自分、と気にしながらQoo宅を出発 → 仕事を翌朝に持ち越した彼と待ち合わせ@新宿。遅ればせながらホワイトデーのプレゼントを買ってくださるとのことで、東急ハンズへ連行。
ずっと欲しかったパティシェナイフや、ケーキの回転台や、粗熱をとるための大きめの網、タルトレット型などを物色。「こんなのでいいの?」と言われながら、ケーキの焼き型×2と粉ふるい器を買っていただく。こんなのでいいの。これが欲しいの。
夕飯は駒込の居酒屋で。…と思いきや。
「●駒」という居酒屋の雰囲気が良いとのことで付いていったものの、「この風景は違う…。」と言い出すマイ・ラヴァー。普段用も無いのに持ち歩いてる地図も、こんな日に限って無いらしい。どないすんのん?と思い始めた頃、衝撃の台詞が。
「「●駒」という店名に騙されてた!駒込じゃなくて大塚だった!いやー俺としたことが。不覚!さあ、行こう!」
( ̄□ ̄;)!!
落語のような展開にもくじけず、気を取り直して大塚へ。ようやく見つけた「●駒」にて乾杯。「卒業、おめでとう。」「ありがとう。」ジョッキよりグラス派の私は瓶ビールをリクエスト。二人で一本を片づけた後、彼は舞浜の地ビールを、私は泡盛の入ったスッキリ梅酒を。ぼんちりのぽんず和えや、ホカホカのおでん(大根、つくねなど)をつまみつつ、ディープな話を。
人とお酒を飲む。ただそれだけなのに、楽しい場合と楽しくない場合がある。どうしてだろう。誰かと100%一致する価値観を持ち合わせるなんてあり得ないけど、より多く一致してる人と話す方が楽しい、そう思っていた。そうでもないな、と。この人と意見を交わすようになって一年近く経つが、最初は随分一致してると思ってた部分も些細なところでやはり違うことに気づいた。それでも楽しい。価値観とは「何を語るか」でしか表せないけど、「どう語るか」が重要なんだろうな、と。だから、少々考え方が違っても、話すときのテンション、目線の合わせ方、笑うタイミング、などが自分にとって心地良い人となら、きっと、どんな話でもできる。逆もまた然り(←悲しいことだけど)。
某駅で電車を降りるマイ・ラヴァー。別れ際はいつもそうだけど、姿が見えなくなるまで見てしまう。後ろ姿でも見られればそれでいいのに、何度も振り返ってくれる。恋愛にまつわる悩みを聞く度に、私は頭をひねる。たしかに「付き合う」とは大変なことだ。でも私は、恋愛に付きものの悩みがどうのこうのというよりも、「自分が恋をしている。」という胸がぎゅーっとする事実の方が気になって仕方ない。
学科の友達四人衆(ミキティ、まゆげ、Qoo、りん)で卒業パーティ。
式後、各々の用事を済ませ、Qoo宅に集合。近所のスーパーで大量の酒と食べ物を購入。欲望のままに買いまくったのが災いし、いざ食べようとした段になって「肉と揚げ物しかないよ!」と気づく。女が四人もいるというのになんたる有様だ、と嘆きながら、さらにソーセージの乗ったピザを注文。一晩で一気に肥える予感。
何はともあれシャンパンで乾杯。「卒業、おめでとう!」
学生最後の晩、Qoo&まゆげから予想だにしなかった衝撃の告白を聞いてしまい、「栄枯盛衰は世の理よのう…。」と、ひとり、嘆息。風邪気味らしいQooと傷心のまゆげは、早々に就寝。布団にくるまりながら物思いに耽るミキティと私。
男女交際に関して。
私は少し誤解していた。恋人がいたとして、その人と"一緒にいる"ことが目的であって、"付き合う"ことが目的じゃない。だから、たとえ喧嘩をするにしても、一緒にいるためにどうすればよいかを考えるべきではないか? 私たちの人生を旅にたとえるなら、恋人と向かい合ってても何も始まらない。二人で前方を見据え、とりあえずあれを目標にしようか、と決め、そこに至るまでに出くわす障害物(喧嘩)を協力して乗り越えたい。互いに向かい合って相手が障害物になってしまうような付き合いは悲しい。ベクトルは常に前方(未来)に向けたい。その人と"一緒にいたい"と思うなら。
自分を愛せないのに他人を愛せるはずがない、と聞いたことがあるけど、当時は「そう?」程度に思っていた。最近になって「ああ、そうかもなあ。」と思う。なぜなら、自分に余裕がなければ、注目するのはいつだって「自分」になってしまう。「自分」が気持ちよくあるために付き合うべきじゃない。付き合うとは、余裕を持てるようになった大人の行為。「自分」のためではなく、「自分と相手」のための行為だろう。
そんなことをうねうねと考えながら、早朝五時半、就寝。
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起床後。
新着メール一件受信 from 土日連続で休日出勤中のマイ・ラヴァー。
サリーちゃんのパパ状態になった髪を濡らしてブローして、酒臭くないかしら自分、と気にしながらQoo宅を出発 → 仕事を翌朝に持ち越した彼と待ち合わせ@新宿。遅ればせながらホワイトデーのプレゼントを買ってくださるとのことで、東急ハンズへ連行。
ずっと欲しかったパティシェナイフや、ケーキの回転台や、粗熱をとるための大きめの網、タルトレット型などを物色。「こんなのでいいの?」と言われながら、ケーキの焼き型×2と粉ふるい器を買っていただく。こんなのでいいの。これが欲しいの。
夕飯は駒込の居酒屋で。…と思いきや。
「●駒」という居酒屋の雰囲気が良いとのことで付いていったものの、「この風景は違う…。」と言い出すマイ・ラヴァー。普段用も無いのに持ち歩いてる地図も、こんな日に限って無いらしい。どないすんのん?と思い始めた頃、衝撃の台詞が。
「「●駒」という店名に騙されてた!駒込じゃなくて大塚だった!いやー俺としたことが。不覚!さあ、行こう!」
( ̄□ ̄;)!!
落語のような展開にもくじけず、気を取り直して大塚へ。ようやく見つけた「●駒」にて乾杯。「卒業、おめでとう。」「ありがとう。」ジョッキよりグラス派の私は瓶ビールをリクエスト。二人で一本を片づけた後、彼は舞浜の地ビールを、私は泡盛の入ったスッキリ梅酒を。ぼんちりのぽんず和えや、ホカホカのおでん(大根、つくねなど)をつまみつつ、ディープな話を。
人とお酒を飲む。ただそれだけなのに、楽しい場合と楽しくない場合がある。どうしてだろう。誰かと100%一致する価値観を持ち合わせるなんてあり得ないけど、より多く一致してる人と話す方が楽しい、そう思っていた。そうでもないな、と。この人と意見を交わすようになって一年近く経つが、最初は随分一致してると思ってた部分も些細なところでやはり違うことに気づいた。それでも楽しい。価値観とは「何を語るか」でしか表せないけど、「どう語るか」が重要なんだろうな、と。だから、少々考え方が違っても、話すときのテンション、目線の合わせ方、笑うタイミング、などが自分にとって心地良い人となら、きっと、どんな話でもできる。逆もまた然り(←悲しいことだけど)。
某駅で電車を降りるマイ・ラヴァー。別れ際はいつもそうだけど、姿が見えなくなるまで見てしまう。後ろ姿でも見られればそれでいいのに、何度も振り返ってくれる。恋愛にまつわる悩みを聞く度に、私は頭をひねる。たしかに「付き合う」とは大変なことだ。でも私は、恋愛に付きものの悩みがどうのこうのというよりも、「自分が恋をしている。」という胸がぎゅーっとする事実の方が気になって仕方ない。
卒業私信
2006年3月25日
卒業式。
戦場のような着付け会場で袴姿に変身!ちょっと地味だったかなあ…と気にしてたけど、ヤンキー崩れ風の美容師さんに「大丈夫、アンタの顔によく合ってる。」とタメ語で励まされ、そっかーよかったー、と安心し、いそいそと学校へ。
気合いを入れてメイクしたり、髪をあっちこっちへ引っ張られたり、帯をぎゅーぎゅー締められたり、ひきつり笑顔で写真を撮られたり、などなど、朝から盛りだくさんのため腹ぺこ。盛りだくさんじゃない日も大抵腹ぺこだが、それはそれとして、ランチタイム。袴姿でずんずん入店→ナプキンを首もとに突っ込んでeating。「今日、会える?」「今どこにいる?」「どこどこにいるから来て!」など、常に鳴りっぱなしの携帯を片手に、ニコッ、パシャッ、ニコッ、パシャッ、を数百回(は大袈裟だな)繰り返すうちにあっという間に式の時間。
私の人生始まって以来の晴れ舞台。リハーサルは行わないという衝撃の知らせを受け、なんと、ぶっつけ本番(!)で大役を務めることに。マジかよーと青ざめている間に来賓は到着し、総長は帽子をかぶり、曲は流れ出す。万事滞り無い。
壇上で思ったこと。
所定の課程を修め、私は學士の學位を授かった。私が学んだことは何? たくさんある。言葉にできない。それでも、実際より随分長く感じられた授与の瞬間、色々なことを思い出した。大学生になって初めて覚えた感情が多すぎて、「ああ、世の中にはこんなに素晴らしいことがあったのか。」と思うのと同時に「ああ、世の中にはこんなにやりきれないことがあったのか。」と、いちいち感動するので精一杯だった。小説や映画や漫画などから聞きかじった知識だけで構成されていた私が、自分の身を使って、ひとつずつ、「感情」を学んだ。誰もがひっそりと共有する類のありふれた(と、敢えて書く)感情でも、発見できたことがただ嬉しくて、笑ったり、泣いたり、騒いだりした。「発見する」ことこそ大学で為すべきことで、私はそれらをすっかり修めきったつもりだった。「俺がおまえの大学生活そのものだよね?」と問われて、バカ、そんなはずがない、まだ発見してないことがあったんだ、そして今は「発見」を繰り返すという渦中にいるけど、いずれ「発見した感情」を客観視できる状態に持っていくことが私の目標で、その冷静な状態への道筋らしきものを発見したこと、その過程こそが私の大学生活だ、と。
私は、今日、ある人にどうしてもお礼が言いたい。(以下、私信↓)
あなたが私のことをどう思っているかは想像しかねますが、
あなたの定義する「素敵な人」の因子を私の中にも見出してくださるなら
それは、仮にあったとしても、私が一人で作り出したものではありません。
父や母に授かったのはもちろんですが、
その因子は誰かに見つけてもらえなければどうしようもなく。
因子があるのに見つけてもらえない人が潜在的に多くいる中、
あなたが「因子らしきもの」を認めてくださったおかげで、
「因子らしきもの」が「因子」になる準備ができました。
どうやって「因子らしきもの」を「因子」にするかですが、
それはもうちょっと考えていきたいと思ってます。
見つけてくれてありがとう。
大学生活で得た何よりの財産です。
(私信、終わり。)
風よ 主を歌え 雲よ 主をほめよ
ハレルヤ ハレルヤ
朝日よ さぁ歌え 夕月よ さぁほめよ 主である神を
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
主を賛美するとは、すなわち、神が創った(といわれる)人間を賛美することだろう、と、クリスチャンじゃない私は勝手に思っている。だから、この歌は人間を賛美する歌であり、巣立つ私たちへの祝福の歌だ。
我が大学生活にいっっっっっっっっっっぺんの悔い無し! ハレルヤ!
戦場のような着付け会場で袴姿に変身!ちょっと地味だったかなあ…と気にしてたけど、ヤンキー崩れ風の美容師さんに「大丈夫、アンタの顔によく合ってる。」とタメ語で励まされ、そっかーよかったー、と安心し、いそいそと学校へ。
気合いを入れてメイクしたり、髪をあっちこっちへ引っ張られたり、帯をぎゅーぎゅー締められたり、ひきつり笑顔で写真を撮られたり、などなど、朝から盛りだくさんのため腹ぺこ。盛りだくさんじゃない日も大抵腹ぺこだが、それはそれとして、ランチタイム。袴姿でずんずん入店→ナプキンを首もとに突っ込んでeating。「今日、会える?」「今どこにいる?」「どこどこにいるから来て!」など、常に鳴りっぱなしの携帯を片手に、ニコッ、パシャッ、ニコッ、パシャッ、を数百回(は大袈裟だな)繰り返すうちにあっという間に式の時間。
私の人生始まって以来の晴れ舞台。リハーサルは行わないという衝撃の知らせを受け、なんと、ぶっつけ本番(!)で大役を務めることに。マジかよーと青ざめている間に来賓は到着し、総長は帽子をかぶり、曲は流れ出す。万事滞り無い。
壇上で思ったこと。
所定の課程を修め、私は學士の學位を授かった。私が学んだことは何? たくさんある。言葉にできない。それでも、実際より随分長く感じられた授与の瞬間、色々なことを思い出した。大学生になって初めて覚えた感情が多すぎて、「ああ、世の中にはこんなに素晴らしいことがあったのか。」と思うのと同時に「ああ、世の中にはこんなにやりきれないことがあったのか。」と、いちいち感動するので精一杯だった。小説や映画や漫画などから聞きかじった知識だけで構成されていた私が、自分の身を使って、ひとつずつ、「感情」を学んだ。誰もがひっそりと共有する類のありふれた(と、敢えて書く)感情でも、発見できたことがただ嬉しくて、笑ったり、泣いたり、騒いだりした。「発見する」ことこそ大学で為すべきことで、私はそれらをすっかり修めきったつもりだった。「俺がおまえの大学生活そのものだよね?」と問われて、バカ、そんなはずがない、まだ発見してないことがあったんだ、そして今は「発見」を繰り返すという渦中にいるけど、いずれ「発見した感情」を客観視できる状態に持っていくことが私の目標で、その冷静な状態への道筋らしきものを発見したこと、その過程こそが私の大学生活だ、と。
私は、今日、ある人にどうしてもお礼が言いたい。(以下、私信↓)
あなたが私のことをどう思っているかは想像しかねますが、
あなたの定義する「素敵な人」の因子を私の中にも見出してくださるなら
それは、仮にあったとしても、私が一人で作り出したものではありません。
父や母に授かったのはもちろんですが、
その因子は誰かに見つけてもらえなければどうしようもなく。
因子があるのに見つけてもらえない人が潜在的に多くいる中、
あなたが「因子らしきもの」を認めてくださったおかげで、
「因子らしきもの」が「因子」になる準備ができました。
どうやって「因子らしきもの」を「因子」にするかですが、
それはもうちょっと考えていきたいと思ってます。
見つけてくれてありがとう。
大学生活で得た何よりの財産です。
(私信、終わり。)
風よ 主を歌え 雲よ 主をほめよ
ハレルヤ ハレルヤ
朝日よ さぁ歌え 夕月よ さぁほめよ 主である神を
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
主を賛美するとは、すなわち、神が創った(といわれる)人間を賛美することだろう、と、クリスチャンじゃない私は勝手に思っている。だから、この歌は人間を賛美する歌であり、巣立つ私たちへの祝福の歌だ。
我が大学生活にいっっっっっっっっっっぺんの悔い無し! ハレルヤ!
別離
2006年3月24日卒業式を明日に控え、最後の身辺整理。
大量の服をいただいたのを契機に、まずは洋服ダンスから。タンスを整理するのはもちろん初めてじゃないけど、整理の度に「もう着ないんだけど、捨てるのはちょっと…。」という服が出るわ出るわで私を悩ませていた。が、今日は違う。今捨てなかったらいつ捨てるのだ!? と思われたので、満を持してポイ。あ、ポイ、ポイ。
ラインストーンがびっしり付いた超ハデハデのデニムや、肩ががばっと開いたラメニットや、チラリズムなんてもんじゃない位に短いマイクロミニや、ジャラジャラがいやっちゅう程ぶら下がったベルトなどが、奥の方からうじゃうじゃ出てくる。うーむ、若かったんだなあ。と、思わず苦笑。あ、ポイ、ポイ。
洋服ダンスの次は、雑貨の詰まったクローゼットを。
吹奏楽部時代に後輩からもらった手紙、約10年分の年賀状、サークル時代の衣装…
と、ここまではまだいい。
性に目覚めた頃の証拠品、中学〜高校までのプリクラ帳、バンドを追っかけてた頃の切り抜き、ファン同士で送り合った手紙(ライブネーム入り)、ライブ録音のテープ、ラジオ番組を山ほど録りだめしたテープ、昔書いた小説、雑誌に投稿してた頃のイラスト、スクリーントーン、好きだったアニメのグッズ、などなど、「ぎゃああああああ!!!!」と叫びながら国外逃亡したくなるような品々が、ジャーンと過去から飛び出してきた。
ポイする前に、すべてに目を通す(笑)。
驚くべきことに、それらが生活の大部分を占めていた頃の記憶が、かなりの確率で失われている。起きている間の85%位は好きなギタリストのことを考えていたのに、「ああ、こんな雑誌に載ってたっけねえ…。」という程度の認識。そして、明け方までかかって描きまくっていたイラストも、自分じゃない他人が描いたように見える。なんだ、私、結構ウマイじゃない、など、すっかり忘れてた特技(?)を思い出したり。
もう一度繰り返すが、それらが生活の大部分を占めていた頃の記憶が、かなりの確率で失われている。
一生続くとは思ってなかったけど、それでも永遠のように感じられた当時。私はあるバンドがずっと好きだと思ってたし、当時のライブネームもずっと使うと思ってたし、当時仲良くしてたファンの友人たちともずっと親しいと思ってたし、将来はイラストを描く職業に就きたいと思ってたし、誰かに自分の書いた文章を読んで欲しいと思ってたし、すべてがものすごく重要なことだった。あのバンドのことを考える時間、イラストや小説のことを考える時間、好きな人のことを考える時間、それらが欠ける生活がまったく想像できなかった。本当に、これっぽっちも。三度の食事と同じくらい、すべてが私にとって必要で自然なことだった。
以前、母に「高校時代、どんなことを考えてた?」と聞いたら、「あんまり覚えてないのよねえ…。」という答えが返ってきて、現役高校生の私には衝撃だった。こんなに充実してて、悩んだり、喜んだり、驚いたりしてることを、人は忘れるのだろうか、と。
今ならわかる。人は忘れる。
23歳の私が、今(まさに今)、とても大切にしてるすべてのことも、大学を卒業して、仕事を始めて、目の前の業務に手一杯になっているうちに、どんどん思い出せなくなっていくのだろう。尊い、好きだ、大切だ、楽しい、嬉しい、悲しい、嫌いだ、怖い、などなど、必ずしも前向きな感情ばかりが浮かぶ毎日ではないけど、人が(というより、私が)日記をつけたいと思った最初の思いつきに、今日、改めて共感し直した。
明日、卒業します。
大量の服をいただいたのを契機に、まずは洋服ダンスから。タンスを整理するのはもちろん初めてじゃないけど、整理の度に「もう着ないんだけど、捨てるのはちょっと…。」という服が出るわ出るわで私を悩ませていた。が、今日は違う。今捨てなかったらいつ捨てるのだ!? と思われたので、満を持してポイ。あ、ポイ、ポイ。
ラインストーンがびっしり付いた超ハデハデのデニムや、肩ががばっと開いたラメニットや、チラリズムなんてもんじゃない位に短いマイクロミニや、ジャラジャラがいやっちゅう程ぶら下がったベルトなどが、奥の方からうじゃうじゃ出てくる。うーむ、若かったんだなあ。と、思わず苦笑。あ、ポイ、ポイ。
洋服ダンスの次は、雑貨の詰まったクローゼットを。
吹奏楽部時代に後輩からもらった手紙、約10年分の年賀状、サークル時代の衣装…
と、ここまではまだいい。
性に目覚めた頃の証拠品、中学〜高校までのプリクラ帳、バンドを追っかけてた頃の切り抜き、ファン同士で送り合った手紙(ライブネーム入り)、ライブ録音のテープ、ラジオ番組を山ほど録りだめしたテープ、昔書いた小説、雑誌に投稿してた頃のイラスト、スクリーントーン、好きだったアニメのグッズ、などなど、「ぎゃああああああ!!!!」と叫びながら国外逃亡したくなるような品々が、ジャーンと過去から飛び出してきた。
ポイする前に、すべてに目を通す(笑)。
驚くべきことに、それらが生活の大部分を占めていた頃の記憶が、かなりの確率で失われている。起きている間の85%位は好きなギタリストのことを考えていたのに、「ああ、こんな雑誌に載ってたっけねえ…。」という程度の認識。そして、明け方までかかって描きまくっていたイラストも、自分じゃない他人が描いたように見える。なんだ、私、結構ウマイじゃない、など、すっかり忘れてた特技(?)を思い出したり。
もう一度繰り返すが、それらが生活の大部分を占めていた頃の記憶が、かなりの確率で失われている。
一生続くとは思ってなかったけど、それでも永遠のように感じられた当時。私はあるバンドがずっと好きだと思ってたし、当時のライブネームもずっと使うと思ってたし、当時仲良くしてたファンの友人たちともずっと親しいと思ってたし、将来はイラストを描く職業に就きたいと思ってたし、誰かに自分の書いた文章を読んで欲しいと思ってたし、すべてがものすごく重要なことだった。あのバンドのことを考える時間、イラストや小説のことを考える時間、好きな人のことを考える時間、それらが欠ける生活がまったく想像できなかった。本当に、これっぽっちも。三度の食事と同じくらい、すべてが私にとって必要で自然なことだった。
以前、母に「高校時代、どんなことを考えてた?」と聞いたら、「あんまり覚えてないのよねえ…。」という答えが返ってきて、現役高校生の私には衝撃だった。こんなに充実してて、悩んだり、喜んだり、驚いたりしてることを、人は忘れるのだろうか、と。
今ならわかる。人は忘れる。
23歳の私が、今(まさに今)、とても大切にしてるすべてのことも、大学を卒業して、仕事を始めて、目の前の業務に手一杯になっているうちに、どんどん思い出せなくなっていくのだろう。尊い、好きだ、大切だ、楽しい、嬉しい、悲しい、嫌いだ、怖い、などなど、必ずしも前向きな感情ばかりが浮かぶ毎日ではないけど、人が(というより、私が)日記をつけたいと思った最初の思いつきに、今日、改めて共感し直した。
明日、卒業します。
春の進化形スタイル独占SCOOP・りんの巻
2006年3月23日コメント (4)
歯科助手・Nちゃんと今週も会う。
5年前に行ったっきりのNちゃん宅へ、HONDAスパイクを飛ばす。当時はバスで行った(たしか…)ので、まったく道がわからない。卒業アルバムの住所を唯一の手がかりにして、地図の読めない女代表のような私がゴーゴーと出発。案の定、迷う。
車内のBGMは「キューティハニー」(by倖田來未)。イヤよ、イヤよ、イヤよ見つめちゃイヤ〜とか歌ってる場合じゃないぞ、と一人突っ込みしながらぐるぐると住宅街をさまよった挙げ句、どうにかたどり着く。この頃はやりの女の子(Nちゃんのことね)は今日も可愛いらしい…と思いきや、高校時代のジャージで登場。私もよく穿きます(笑)。
最近服のテイストが変わったらしいNちゃん。もう着なくなった服が多くて困るとのことで、新生活に向けて一枚でも多く欲しい私が譲り受ける。COUP DE CHANCEのジャケット(新品!)や、ef−deのニット、スカート、キャミソール、Le soukのベアトップなど、どれもこれもすぐに使えそうなアイテムたち。
その他、なんと、日本で普通に買ったら¥104,000のヴィトンのバッグを無料でいただく!!!!
こ、こ、これ、当時の私が泣いて欲しがった(いや、まあ、泣いてはいなかったけど)シテMM!! (←パピヨンGM、リードPMと並ぶ、「エビちゃんOLマスト・バイ!」の一品。)
さらに、さらに、エルメスの王道フールトゥまで無料でいただく!!!
こんなの貰ってよかですか!? と小刻みに震える私を尻目に、いたってクールなNちゃん。「りんは…ヴィトンとか持つ?」とわざわざ気にしてくれたNちゃんと、ここ数年間のオシャレ歴を振り返り、どうやら私と似たような道を辿ってたらしいことが判明。蛯原友里、押切もえ、など、魅力的なモデルの真似をしたくて、雑誌に載ってるアイテム(大抵は「バカ売れ!」と記載)をゲットし、雑誌に載ってるそのままのコーディネートができると満足だった。ヴィトンのモノグラムが良いか悪いかどうかは別として、雑誌に載ってる・みんなが持ってるというだけで安心だったから、私はどうしてもそれらが欲しかった。
Nちゃんが(おそらく)ある日気づいたように、私も、ある日気づいた。
帰宅後、ヴィトン・シテMMをぽんと膝に置いて検証。ダブルファスナーだし、マチも広い。中身が一目瞭然なのも使い勝手が良さそうだ。最近思うのは、良い物は良い物として使うのが一番自然なんじゃないかと。たしかにヴィトンは皆が持ってるけど、圧倒的多数を占める「ヴィトンだから持つ」という人以外にも、「物が良いから持つ」という人もいるんじゃない?
ブランドの"ダサさ"に気づいたとき、「もう持ちたくない。」と思ったけど。そして、私やNちゃんのように考える人も、日本には多くいると思うけど。たとえば私がよく知りもしないのに誰かを「嫌いだ!」と罵ったら、非難されても仕方ない。なぜなら、人でも、物でも、たとえ目に見えないものでも、そのものの本質に目を向ける努力を怠ることは重罪だから。ヴィトンを「ヴィトンだから。」という理由で好むのはダサいことかもしれないが、同じように「ヴィトンだから。」という理由でただ嫌うのも、ね。
Nちゃんに「りんは、これこれこういうタイプだよね!」と言われて、決意を新たにしたことが。
たとえば自分のキャラクターを枠にはめたとして、もともとそうじゃなかった部分までその枠通りになってしまうことはある。思いこみは怖い。そうだとしても、私はNちゃんに「活発なアネゴ肌」と言われたことで、タンスの中の「キャラじゃない服」だけじゃなく、自分の中の「世の中に迎合してた私」を少し整理できそうな気がした。そして、本来持っているベクトルに見た目も中身も気持ちよく沿わせたときこそ、雑誌にかじりついていた当時よりも、"めちゃ★モテ"になれそうな気がする。
ま、モテちゃ困るんですけど。今は。
なんてね。
------------------------------------------------------------------
備忘と雑感。
●本日のコーディネート。
お蔵入りしてたカナリアイエローのニットに、ベージュのスタンドカラージャケットをON。やや短め丈のジャケットを選んだのも、大きなボタンがお尻についたインディゴブルーデニムを際だたせるため、すべて計算済み。
ネックレスはお休みして(毎日使うと良くないらしいので)、赤い実の柄スカーフをアクセントに。本日の最大のポイントなり。
●最近エロネタが少ないとの苦情が殺到している。たぶんこのままでしょう。ごめんね。
●イルカの『全曲集〜なごり雪/花一輪』を聴く。
良いものは、良い。
5年前に行ったっきりのNちゃん宅へ、HONDAスパイクを飛ばす。当時はバスで行った(たしか…)ので、まったく道がわからない。卒業アルバムの住所を唯一の手がかりにして、地図の読めない女代表のような私がゴーゴーと出発。案の定、迷う。
車内のBGMは「キューティハニー」(by倖田來未)。イヤよ、イヤよ、イヤよ見つめちゃイヤ〜とか歌ってる場合じゃないぞ、と一人突っ込みしながらぐるぐると住宅街をさまよった挙げ句、どうにかたどり着く。この頃はやりの女の子(Nちゃんのことね)は今日も可愛いらしい…と思いきや、高校時代のジャージで登場。私もよく穿きます(笑)。
最近服のテイストが変わったらしいNちゃん。もう着なくなった服が多くて困るとのことで、新生活に向けて一枚でも多く欲しい私が譲り受ける。COUP DE CHANCEのジャケット(新品!)や、ef−deのニット、スカート、キャミソール、Le soukのベアトップなど、どれもこれもすぐに使えそうなアイテムたち。
その他、なんと、日本で普通に買ったら¥104,000のヴィトンのバッグを無料でいただく!!!!
こ、こ、これ、当時の私が泣いて欲しがった(いや、まあ、泣いてはいなかったけど)シテMM!! (←パピヨンGM、リードPMと並ぶ、「エビちゃんOLマスト・バイ!」の一品。)
さらに、さらに、エルメスの王道フールトゥまで無料でいただく!!!
こんなの貰ってよかですか!? と小刻みに震える私を尻目に、いたってクールなNちゃん。「りんは…ヴィトンとか持つ?」とわざわざ気にしてくれたNちゃんと、ここ数年間のオシャレ歴を振り返り、どうやら私と似たような道を辿ってたらしいことが判明。蛯原友里、押切もえ、など、魅力的なモデルの真似をしたくて、雑誌に載ってるアイテム(大抵は「バカ売れ!」と記載)をゲットし、雑誌に載ってるそのままのコーディネートができると満足だった。ヴィトンのモノグラムが良いか悪いかどうかは別として、雑誌に載ってる・みんなが持ってるというだけで安心だったから、私はどうしてもそれらが欲しかった。
Nちゃんが(おそらく)ある日気づいたように、私も、ある日気づいた。
帰宅後、ヴィトン・シテMMをぽんと膝に置いて検証。ダブルファスナーだし、マチも広い。中身が一目瞭然なのも使い勝手が良さそうだ。最近思うのは、良い物は良い物として使うのが一番自然なんじゃないかと。たしかにヴィトンは皆が持ってるけど、圧倒的多数を占める「ヴィトンだから持つ」という人以外にも、「物が良いから持つ」という人もいるんじゃない?
ブランドの"ダサさ"に気づいたとき、「もう持ちたくない。」と思ったけど。そして、私やNちゃんのように考える人も、日本には多くいると思うけど。たとえば私がよく知りもしないのに誰かを「嫌いだ!」と罵ったら、非難されても仕方ない。なぜなら、人でも、物でも、たとえ目に見えないものでも、そのものの本質に目を向ける努力を怠ることは重罪だから。ヴィトンを「ヴィトンだから。」という理由で好むのはダサいことかもしれないが、同じように「ヴィトンだから。」という理由でただ嫌うのも、ね。
Nちゃんに「りんは、これこれこういうタイプだよね!」と言われて、決意を新たにしたことが。
たとえば自分のキャラクターを枠にはめたとして、もともとそうじゃなかった部分までその枠通りになってしまうことはある。思いこみは怖い。そうだとしても、私はNちゃんに「活発なアネゴ肌」と言われたことで、タンスの中の「キャラじゃない服」だけじゃなく、自分の中の「世の中に迎合してた私」を少し整理できそうな気がした。そして、本来持っているベクトルに見た目も中身も気持ちよく沿わせたときこそ、雑誌にかじりついていた当時よりも、"めちゃ★モテ"になれそうな気がする。
ま、モテちゃ困るんですけど。今は。
なんてね。
------------------------------------------------------------------
備忘と雑感。
●本日のコーディネート。
お蔵入りしてたカナリアイエローのニットに、ベージュのスタンドカラージャケットをON。やや短め丈のジャケットを選んだのも、大きなボタンがお尻についたインディゴブルーデニムを際だたせるため、すべて計算済み。
ネックレスはお休みして(毎日使うと良くないらしいので)、赤い実の柄スカーフをアクセントに。本日の最大のポイントなり。
●最近エロネタが少ないとの苦情が殺到している。たぶんこのままでしょう。ごめんね。
●イルカの『全曲集〜なごり雪/花一輪』を聴く。
良いものは、良い。
3月22日の読書メモ・その他
2006年3月22日コメント (2)所用を済ませるため、朝から銀座某所へ。
ここに来るといつもどんよりしてしまうので、気分を紛らわすため、置いてあった『MAQUIA』・3月号を読む。そういえば、自分でこの雑誌を買ったことはなかったな、と気づく。化粧は決して嫌いじゃないのに(むしろ、そこそこ好き)、化粧品は最低限でいい、と思っている節がある。単に学生で金が無かったからか、元々物欲が薄いのか、そこらへんは謎だ。
ま、私が「最低限」と思って揃えているものたちを「不必要」と捉えさらに質素な暮らしをしている女性もいるだろうから、安易に自分を定義づけるのも危険だけど、もっと化粧品に金をかけている人はいるしなあ、と。そして、「最大限」の美しさを手に入れようと奮闘する彼女らをターゲットにしたのが、この雑誌なんだなあ、と。
気になったのは、冬の乾燥でダメージを受けた肌に対するレスキュー特集。
元伊●丹コスメバイヤーと、美容ライター歴○年、という二人の「美のスペシャリスト」が、我らの間違ったスキンケアを指摘する、というもの?(←内容うろ覚え。)
私は洗顔後、化粧水しか使わない。美容液は買ったことが無いし、化粧水を浸透させる際もコットンは使わない。イプサクルーの友人によると、この手法は「邪道」と罵られてもおかしくないようで、「そうか、この手入れは間違っているのね。」と認識し始めて早ウン年経つが、まったく改善される気配がない。特集によれば、なんやかや色々と塗りたくるとお肌はメキメキ復活する、といった内容だけど。
さらに。
帰りの電車で、竹内薫の『99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』(光文社新書)を読む。
「ロボトミー手術」という前頭葉を切除する治療が、1930年代に考案された。精神病患者に手術を施すと攻撃性が無くなるという。考案者のエガス・モニスはノーベル生理学医学賞まで受賞したが、戦後、この手術がとんでもない副作用を引き起こすとして、「有用だ。」という仮説が180度ひっくり返った。誰もがロボトミー手術を「有用だ。」と信じていた。どれだけ正しいと思われることも「仮説」に過ぎない、と著者は語る。仮説だからいつでもひっくり返る。皆が当然のように信じていた天動説が、ある日ひっくり返ったように。
美しくなると信じて使用した高級クリームが、肌荒れを引き起こす有害物質を含まないと誰が保証できる?いくら「治験済みだから大丈夫です。」と言われても、その「仮説」がひっくり返らないとどうして言える? …と思っちゃうの、私。「こうするのが一番良いスキンケアです!」と言われても、10年後にはひっくり返るような気がして不安になっちゃうの、私。
「肌はいじりすぎても良くない」というマイ仮説(←これもひっくり返るかもね。)を裏付けるのは、半年くらい前から注目しているある男性の存在だ。彼は、どうやら水でバシャバシャと洗顔するだけで、たまにしか洗顔料を使わず、当たり前だが泡立てネットも使わず、化粧水も、美容液も所持しない。それでも肌はモチモチ・ツルツル(しかも白い…)だし、つまり、そういうことなんじゃないの? って。
ま、今日書いたすべても、私(と竹内薫氏)の「仮説」に過ぎない。
帰宅後。
胡蝶蘭、カトレア、シンビジウムなどなど、数年かけてコツコツと集めた蘭コレクションに水をやりながら、母とトーク。
5年前に買った白いファレノプシスが、今年もまた花芽をつけた。蘭は、手入れさえちゃんとしてやれば、何年も、何十年も、同じように花を咲かせる。よく考えると、これってスゴイ。人は「花盛り」を過ぎると老いていくけど、蘭はそうじゃない。生物学的には、植物は動物より優れているそうな。他の動物を殺さなくても、元々あるもの(空気、光、水)を養分にして生きることができる。何年も、何十年も、何百年も、何千年も。母いわく「動物なんてね、地球にはびこっちゃいけないのよ。何もかもね、自然が一番なのよ。」と。そんな母は石けんで顔を洗い、具合が悪くても市販の薬を飲まず、サプリメントさえ撮らない。
私は、「まっとうな何か」を自身の内に築いて、(あくまで自分では)まっとうな見方・考え方をしてると信じたいけど、「こういう母」に育てられた、という影響を鑑みずに世の中を切り取ってはいけないな、と、ちいとばかし思った。
-----------------------------------------------------------------
TSUTAYA雑感、諸々。
●倖田來未の『BEST 〜first things〜』を借りる。
倖田來未が好きだ、と言ったら、「すごく納得…。」と言われてしまう。ついでに言うなら、椎名林檎も好き。島谷ひとみとBOAも好き。古いけど、相川七瀬も好き。ちょっと格好良くて、アクティブで、でも女らしさとセクシーさは忘れない、というバランスが私の理想か。
やっぱり「Trust Tour Love」がお気に入り。
今すぐ抱きしめて My babe
言葉だけじゃ足りないの
素敵!
●「似てる。」と言われたジャズシンガーを検索。改めて見ても、似てない…と思うけど。あっ、笑うと三日月型になる目…?
誰か検証してください。
●知人の薦めに従い、ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ first season』を借りる。どうやら私が好きそうな内容だ(わくわく)。
ここに来るといつもどんよりしてしまうので、気分を紛らわすため、置いてあった『MAQUIA』・3月号を読む。そういえば、自分でこの雑誌を買ったことはなかったな、と気づく。化粧は決して嫌いじゃないのに(むしろ、そこそこ好き)、化粧品は最低限でいい、と思っている節がある。単に学生で金が無かったからか、元々物欲が薄いのか、そこらへんは謎だ。
ま、私が「最低限」と思って揃えているものたちを「不必要」と捉えさらに質素な暮らしをしている女性もいるだろうから、安易に自分を定義づけるのも危険だけど、もっと化粧品に金をかけている人はいるしなあ、と。そして、「最大限」の美しさを手に入れようと奮闘する彼女らをターゲットにしたのが、この雑誌なんだなあ、と。
気になったのは、冬の乾燥でダメージを受けた肌に対するレスキュー特集。
元伊●丹コスメバイヤーと、美容ライター歴○年、という二人の「美のスペシャリスト」が、我らの間違ったスキンケアを指摘する、というもの?(←内容うろ覚え。)
私は洗顔後、化粧水しか使わない。美容液は買ったことが無いし、化粧水を浸透させる際もコットンは使わない。イプサクルーの友人によると、この手法は「邪道」と罵られてもおかしくないようで、「そうか、この手入れは間違っているのね。」と認識し始めて早ウン年経つが、まったく改善される気配がない。特集によれば、なんやかや色々と塗りたくるとお肌はメキメキ復活する、といった内容だけど。
さらに。
帰りの電車で、竹内薫の『99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』(光文社新書)を読む。
「ロボトミー手術」という前頭葉を切除する治療が、1930年代に考案された。精神病患者に手術を施すと攻撃性が無くなるという。考案者のエガス・モニスはノーベル生理学医学賞まで受賞したが、戦後、この手術がとんでもない副作用を引き起こすとして、「有用だ。」という仮説が180度ひっくり返った。誰もがロボトミー手術を「有用だ。」と信じていた。どれだけ正しいと思われることも「仮説」に過ぎない、と著者は語る。仮説だからいつでもひっくり返る。皆が当然のように信じていた天動説が、ある日ひっくり返ったように。
美しくなると信じて使用した高級クリームが、肌荒れを引き起こす有害物質を含まないと誰が保証できる?いくら「治験済みだから大丈夫です。」と言われても、その「仮説」がひっくり返らないとどうして言える? …と思っちゃうの、私。「こうするのが一番良いスキンケアです!」と言われても、10年後にはひっくり返るような気がして不安になっちゃうの、私。
「肌はいじりすぎても良くない」というマイ仮説(←これもひっくり返るかもね。)を裏付けるのは、半年くらい前から注目しているある男性の存在だ。彼は、どうやら水でバシャバシャと洗顔するだけで、たまにしか洗顔料を使わず、当たり前だが泡立てネットも使わず、化粧水も、美容液も所持しない。それでも肌はモチモチ・ツルツル(しかも白い…)だし、つまり、そういうことなんじゃないの? って。
ま、今日書いたすべても、私(と竹内薫氏)の「仮説」に過ぎない。
帰宅後。
胡蝶蘭、カトレア、シンビジウムなどなど、数年かけてコツコツと集めた蘭コレクションに水をやりながら、母とトーク。
5年前に買った白いファレノプシスが、今年もまた花芽をつけた。蘭は、手入れさえちゃんとしてやれば、何年も、何十年も、同じように花を咲かせる。よく考えると、これってスゴイ。人は「花盛り」を過ぎると老いていくけど、蘭はそうじゃない。生物学的には、植物は動物より優れているそうな。他の動物を殺さなくても、元々あるもの(空気、光、水)を養分にして生きることができる。何年も、何十年も、何百年も、何千年も。母いわく「動物なんてね、地球にはびこっちゃいけないのよ。何もかもね、自然が一番なのよ。」と。そんな母は石けんで顔を洗い、具合が悪くても市販の薬を飲まず、サプリメントさえ撮らない。
私は、「まっとうな何か」を自身の内に築いて、(あくまで自分では)まっとうな見方・考え方をしてると信じたいけど、「こういう母」に育てられた、という影響を鑑みずに世の中を切り取ってはいけないな、と、ちいとばかし思った。
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TSUTAYA雑感、諸々。
●倖田來未の『BEST 〜first things〜』を借りる。
倖田來未が好きだ、と言ったら、「すごく納得…。」と言われてしまう。ついでに言うなら、椎名林檎も好き。島谷ひとみとBOAも好き。古いけど、相川七瀬も好き。ちょっと格好良くて、アクティブで、でも女らしさとセクシーさは忘れない、というバランスが私の理想か。
やっぱり「Trust Tour Love」がお気に入り。
今すぐ抱きしめて My babe
言葉だけじゃ足りないの
素敵!
●「似てる。」と言われたジャズシンガーを検索。改めて見ても、似てない…と思うけど。あっ、笑うと三日月型になる目…?
誰か検証してください。
●知人の薦めに従い、ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ first season』を借りる。どうやら私が好きそうな内容だ(わくわく)。
終了モラトリアム
2006年3月20日大学の友達6人組で、最後のお泊まり会。
●構成メンバー。
TK … 男、王子系、特技は突然高い声を出すこと。
A香 … 女、新しいモノ好き、趣味はケータイの機種変。
H之 … 男、水戸出身、モットーは「人と違うことをする」。
Aっぺ… 女、小振り、チャームポイントは細すぎる目。
K子 … 女、滑舌が良くない、口癖は「お母さん、ゴメン!」
りん … 女、才色兼備。
13時に大学の正門集合。
「お昼は各自済ませること!」と記載したにも関わらず、集まってからぽつぽつとコンビニに消える面々。このグダグダさもそろそろ最後。本日のメインイベントは、構内での写真撮影。自慢の一眼レフが壊れたらしいTKが、仕方なくデジカメ持参。しょっちゅう集まっていた陽の当たるエリアにて、集合写真を。その後、個人に分かれてバストアップ×1、全身×1。
そういえばまだ入学したての頃、昼休みに新館で鬼ごっこをしたなあ、と思い出す。ハタチを過ぎてする鬼ごっこがやけに新鮮で、それがきっかけだったのか、(一見)くだらないことを大マジで行うスタイルが私たちに定着してしまった。遊びもマジ。勉強もマジ(?)。そしてきっと仕事もマジ。最後のくだらないこととして、大規模なかくれんぼを計画していたが、なんとなくそんな気分になれず中止。この気まぐれさもいつも通り。
「いつもの店で。」という店を持たない我らは、春から一人暮らしを始めるA香宅を会場に。
生活感のあまり感じられない(物が少ない、白が基本色の)部屋はまことにA香らしい。「これでも増えた方なんだけどねー。」とA香。大量購入した菓子とカップラーメンをつまみながら、酒の存在をすっかり忘れてたことにハタと気づき、慌てて飲み始める。いつもそうだが、全員が決して下戸ではないのにそこまで酒を飲む気にならない。素面でいい。
話は、自然、大学四年間を振り返るような流れに。色々あった。そして、全員に彼氏・彼女が同時にいた期間が一度もない。誰かが付き合い始めると、誰かが別れた。高校時代までをリセットして入学した私たちは、当然のように湧き出る問題にぶち当たって(チーム内部でも外部でも)、うーんうーんと悩んで、ここに来てもう一度リセットする。ただ、リセットが許される試用期間がもうあまり長くないことを各々が理解していて、それを嬉しいことと受け止めているのかどうかには、たぶん、個人差がある。私に関して言うなら、嬉しくもあり悲しい。もうリセットしなくていいよなと自然に思えるようになる頃、皆、「責任」と「家族」を持つのかな。私は何をしてるかな。
本日のメインイベントその2、卒業証書授与式。
イイ歳して何やってんだという突っ込みは禁止、という暗黙のルールの下、手作りの卒業証書に「このチームからは卒業できません!」と記載(G.Crew使用)し、BGMとともに授与。
その後、自他共に認めないインテリの私がトランプ大会に参戦。「七並べ」や「大貧民」などを。終盤は、「ウィンクキラー」。6人が押し黙って顔を見合わせる中、鬼がこっそりウィンクし、された人は死ぬ、でも鬼がウィンクするのを第三者が発見したらセーフ、いうルール。目の細いAっぺはやや有利だが、ポーカーフェイスをとことん苦手とするK子がゲームを乱す。つぶらな瞳のTKはまばたきがウィンクに見えるし、A香とH之はソツがないので目を合わせられない。私はといえば、鬼になると殺気が感じられるそうで不向きらしい。
引っ越したばかりで布団が無いA香宅。家主のA香と小振りのAっぺはベッドに。その他は、一枚しかない毛布を奪い合うように、かつ、隙間を埋めるように(ジグソーパズルのようだ…)就寝。
いびきや、寝言や、その他色々なものがこだまする中、夢を見た。
起きたらTKとK子はいなくて、それぞれのメモが机の上に。集まったのは同時だったけど、解散は一人ずつ。私も同じようにメモを残して、これ以上ないっちゅうくらいに晴れ渡った空の下へ。眩しい。こんな風にぽつぽつと私たちは旅立つけど、今日の天気が素晴らしいように、我らの前途も光に満ちている、はず。うん。たぶん。ね?
●構成メンバー。
TK … 男、王子系、特技は突然高い声を出すこと。
A香 … 女、新しいモノ好き、趣味はケータイの機種変。
H之 … 男、水戸出身、モットーは「人と違うことをする」。
Aっぺ… 女、小振り、チャームポイントは細すぎる目。
K子 … 女、滑舌が良くない、口癖は「お母さん、ゴメン!」
りん … 女、才色兼備。
13時に大学の正門集合。
「お昼は各自済ませること!」と記載したにも関わらず、集まってからぽつぽつとコンビニに消える面々。このグダグダさもそろそろ最後。本日のメインイベントは、構内での写真撮影。自慢の一眼レフが壊れたらしいTKが、仕方なくデジカメ持参。しょっちゅう集まっていた陽の当たるエリアにて、集合写真を。その後、個人に分かれてバストアップ×1、全身×1。
そういえばまだ入学したての頃、昼休みに新館で鬼ごっこをしたなあ、と思い出す。ハタチを過ぎてする鬼ごっこがやけに新鮮で、それがきっかけだったのか、(一見)くだらないことを大マジで行うスタイルが私たちに定着してしまった。遊びもマジ。勉強もマジ(?)。そしてきっと仕事もマジ。最後のくだらないこととして、大規模なかくれんぼを計画していたが、なんとなくそんな気分になれず中止。この気まぐれさもいつも通り。
「いつもの店で。」という店を持たない我らは、春から一人暮らしを始めるA香宅を会場に。
生活感のあまり感じられない(物が少ない、白が基本色の)部屋はまことにA香らしい。「これでも増えた方なんだけどねー。」とA香。大量購入した菓子とカップラーメンをつまみながら、酒の存在をすっかり忘れてたことにハタと気づき、慌てて飲み始める。いつもそうだが、全員が決して下戸ではないのにそこまで酒を飲む気にならない。素面でいい。
話は、自然、大学四年間を振り返るような流れに。色々あった。そして、全員に彼氏・彼女が同時にいた期間が一度もない。誰かが付き合い始めると、誰かが別れた。高校時代までをリセットして入学した私たちは、当然のように湧き出る問題にぶち当たって(チーム内部でも外部でも)、うーんうーんと悩んで、ここに来てもう一度リセットする。ただ、リセットが許される試用期間がもうあまり長くないことを各々が理解していて、それを嬉しいことと受け止めているのかどうかには、たぶん、個人差がある。私に関して言うなら、嬉しくもあり悲しい。もうリセットしなくていいよなと自然に思えるようになる頃、皆、「責任」と「家族」を持つのかな。私は何をしてるかな。
本日のメインイベントその2、卒業証書授与式。
イイ歳して何やってんだという突っ込みは禁止、という暗黙のルールの下、手作りの卒業証書に「このチームからは卒業できません!」と記載(G.Crew使用)し、BGMとともに授与。
その後、自他共に認めないインテリの私がトランプ大会に参戦。「七並べ」や「大貧民」などを。終盤は、「ウィンクキラー」。6人が押し黙って顔を見合わせる中、鬼がこっそりウィンクし、された人は死ぬ、でも鬼がウィンクするのを第三者が発見したらセーフ、いうルール。目の細いAっぺはやや有利だが、ポーカーフェイスをとことん苦手とするK子がゲームを乱す。つぶらな瞳のTKはまばたきがウィンクに見えるし、A香とH之はソツがないので目を合わせられない。私はといえば、鬼になると殺気が感じられるそうで不向きらしい。
引っ越したばかりで布団が無いA香宅。家主のA香と小振りのAっぺはベッドに。その他は、一枚しかない毛布を奪い合うように、かつ、隙間を埋めるように(ジグソーパズルのようだ…)就寝。
いびきや、寝言や、その他色々なものがこだまする中、夢を見た。
起きたらTKとK子はいなくて、それぞれのメモが机の上に。集まったのは同時だったけど、解散は一人ずつ。私も同じようにメモを残して、これ以上ないっちゅうくらいに晴れ渡った空の下へ。眩しい。こんな風にぽつぽつと私たちは旅立つけど、今日の天気が素晴らしいように、我らの前途も光に満ちている、はず。うん。たぶん。ね?
スタンド・バイ・ユー
2006年3月18日コメント (2)あるカップルのなんでもない日常の記録。
午前起床の後、洗濯機を回すマイ・ラヴァーと、昨夜に引き続き台所を片付ける私。人ではない何か(本とかCDとか)が溢れる廊下を通る際は、「ちょっと退いて。」と断らないと通れない。『二人では狭すぎる』というタイトルの小説になりそうだな、と、本が溢れる部屋で暮らす片付けない男と、本はあまり読まないけど書くことと掃除が好きな女の話の構想を、ぼんやりと練ってみた。
もう何回も一緒に過ごせない(と思われる)週末は、近所でフレンチのコースを。オードブルに、私は鴨肉のパテを。彼は鰤のカルパッチョを。メインに、私は半生サーモンのフルーツソース添えを、彼は牛ホホ肉の香草パン粉焼きを。
ワイングラスで水を飲みながら、村上春樹の小説を思い出す。
あの人の小説に出てくる男女の会話が好きだ。特に食事をしながらの。村上氏に書かせると、ただ焼いただけの肉も魚も香りが漂ってきそうな程美味しそうに感じられるし、こんな台詞を聞きながら食事ができたらと思わせるような言動を男がする。村上さんに今日の私たちのランチタイムを材料として与えたら、どんな会話を取り出して料理するかな。材料にすらならないとは誰にも言ってほしくない有意義な時間を過ごした後、一度家に帰って映画の時間を調べ、すすぎが終わった洗濯物を干して、渋谷へ。
パルコブックセンター渋谷店にて物色後、雨に降られる。
本屋には本しか無いし、渋谷には人しかいない。「自分はこの人を好きなのか?」と悩みながら街を歩いたことが随分昔にある。そう悩む時点で、たぶん、好きじゃなかった。本しか無くても、人しかいなくても、雨が降っても、風が吹いても、会話はやまない。某男性にかかれば本屋には宇宙ができるし、渋谷には人がいなくなる。
今日こそ映画『ミュンヘン』を観ようと、再び電車に乗って新宿へ。
公開されてしばらく経つせいか、午後遅い回のみ上映。とりあえず最終回の券を押さえ、時間までお茶でもしようか、という話に。目の前にロッテリアがあるのにまったく見えていないのかそうでないのか、社会人と学生の感覚の違いに戸惑いつつも口には出さず。「こっち、こっち。」と先を行くマイ・ラヴァーの隣に並ぼうとして、事件発生。
パンプスのヒールが石畳にはまった!
片足ピョンピョン状態になった私と、引き返して靴を引っこ抜く彼。女性ならわかると思うが、この瞬間は結構痛い。ジンジンする右足を靴に収め、何事も無かったように歩き出す。すぐに忘れてお茶の場所を探すも、私はこっそり思ったことがある。
少し前のことだけど、それまでそこそこ順調に歩いていた私が足をとられたとき、いつの間にかそばにいたマイ・ラヴァーが私の足を気遣ってくれた。つまずいた瞬間に突然現れたわけではなく、私がエイエイと歩く様子を見ていて、ああ、危ないな、と思ってたのだと思う。それでも手を貸さず、遠くからただ私を見ていた。ロマンチックな出会い方をしたとは思ってるけど、それはそれとして、傷んだ足も元に戻ったし、これからやらねばいかんことが多分あって。
少し話はズレるが、私は開き直っていたのだと思う。繊細な物腰が身に付いた誰かを見ても、そういう人は努力しなくても素敵なレディになれるからいいわね、と、頑張ることを少しばかり放棄していた。ハンデを背負った(元々の性質が粗野な)自分は人より努力する必要があって、だから可哀相だと。徐々にわかってきたのは、繊細な動きや思考をする誰もが些細な努力を常にしてるってこと。可哀相じゃない人なんて元々いないってこと。
それとこれとがどうして結びつくかは省く。とにもかくにも、私は洗練されたレディになろうと決意したし、そうすることが、いつか過去の私のようにつまずくかもしれない彼を助けることに繋がるのではないか、という気が今はしている。ま、彼がパンプスを履くことはないと思うけど(笑)、あくまで象徴的な意味で。
映画鑑賞後、バイバイと手を振りながら、「あー、次会うときはもう学生じゃないんだなあ。」と気付く。小田急線との連絡口に向かって歩いていく彼を後ろから眺めながら、西と東と別々の方面に向かいつつも、ぐるっと回ってたまにすれ違って「あら、いたの?」「おお、いたよ。」「頑張ってね。」「そっちもね。」と言い合えるような、「恋人同士」であり「社会人同士」でいたいな、と思った。これも象徴的な意味で。
------------------------------------------------------------------
映画の備忘。
●スティーヴン・スピルバーグ監督の『ミュンヘン』(2006年)
とても丁寧に作られた映画だな、という印象。
世代的に「ミュンヘン事件」を知らないし、史実に関する知識も少ない。色々思ったことはあるのだが、観終わってから口にしようとしてもなかなか出てこなくなる、そんな圧力を秘めた作品。「平和」や「人種」といったキーワードを使うと通り一遍のことしか言えないので、あくまでも私個人の備忘として記す。
テロに関与したパレスチナゲリラたちが次々と殺される(報復、という名目で)シーンにて。
事件後の今日、殺される彼らにも大切な人や家族がいて、そこ(大切な人が死ぬ、という事実)だけ取り出せば悲劇以外の何物でもない、と、私にとって大切な人の隣で観たせいもあるやもしれんが、そんな風に思った。醜い感情(憎い、許せない、ムカつく、殺してやりたい、等の)がまったく無い世界、イコール、愛に満ちた世界じゃない。美しい感情(好き、大切だ、守りたい、等の)と醜い感情は常に同じ量だけ存在するからややこしい、ということを改めて理解。ベッドシーンと惨殺の記憶をかぶせたのも、そういう意味を込めたかったからじゃないかな。
なんしか、スゴイ作品だ。
午前起床の後、洗濯機を回すマイ・ラヴァーと、昨夜に引き続き台所を片付ける私。人ではない何か(本とかCDとか)が溢れる廊下を通る際は、「ちょっと退いて。」と断らないと通れない。『二人では狭すぎる』というタイトルの小説になりそうだな、と、本が溢れる部屋で暮らす片付けない男と、本はあまり読まないけど書くことと掃除が好きな女の話の構想を、ぼんやりと練ってみた。
もう何回も一緒に過ごせない(と思われる)週末は、近所でフレンチのコースを。オードブルに、私は鴨肉のパテを。彼は鰤のカルパッチョを。メインに、私は半生サーモンのフルーツソース添えを、彼は牛ホホ肉の香草パン粉焼きを。
ワイングラスで水を飲みながら、村上春樹の小説を思い出す。
あの人の小説に出てくる男女の会話が好きだ。特に食事をしながらの。村上氏に書かせると、ただ焼いただけの肉も魚も香りが漂ってきそうな程美味しそうに感じられるし、こんな台詞を聞きながら食事ができたらと思わせるような言動を男がする。村上さんに今日の私たちのランチタイムを材料として与えたら、どんな会話を取り出して料理するかな。材料にすらならないとは誰にも言ってほしくない有意義な時間を過ごした後、一度家に帰って映画の時間を調べ、すすぎが終わった洗濯物を干して、渋谷へ。
パルコブックセンター渋谷店にて物色後、雨に降られる。
本屋には本しか無いし、渋谷には人しかいない。「自分はこの人を好きなのか?」と悩みながら街を歩いたことが随分昔にある。そう悩む時点で、たぶん、好きじゃなかった。本しか無くても、人しかいなくても、雨が降っても、風が吹いても、会話はやまない。某男性にかかれば本屋には宇宙ができるし、渋谷には人がいなくなる。
今日こそ映画『ミュンヘン』を観ようと、再び電車に乗って新宿へ。
公開されてしばらく経つせいか、午後遅い回のみ上映。とりあえず最終回の券を押さえ、時間までお茶でもしようか、という話に。目の前にロッテリアがあるのにまったく見えていないのかそうでないのか、社会人と学生の感覚の違いに戸惑いつつも口には出さず。「こっち、こっち。」と先を行くマイ・ラヴァーの隣に並ぼうとして、事件発生。
パンプスのヒールが石畳にはまった!
片足ピョンピョン状態になった私と、引き返して靴を引っこ抜く彼。女性ならわかると思うが、この瞬間は結構痛い。ジンジンする右足を靴に収め、何事も無かったように歩き出す。すぐに忘れてお茶の場所を探すも、私はこっそり思ったことがある。
少し前のことだけど、それまでそこそこ順調に歩いていた私が足をとられたとき、いつの間にかそばにいたマイ・ラヴァーが私の足を気遣ってくれた。つまずいた瞬間に突然現れたわけではなく、私がエイエイと歩く様子を見ていて、ああ、危ないな、と思ってたのだと思う。それでも手を貸さず、遠くからただ私を見ていた。ロマンチックな出会い方をしたとは思ってるけど、それはそれとして、傷んだ足も元に戻ったし、これからやらねばいかんことが多分あって。
少し話はズレるが、私は開き直っていたのだと思う。繊細な物腰が身に付いた誰かを見ても、そういう人は努力しなくても素敵なレディになれるからいいわね、と、頑張ることを少しばかり放棄していた。ハンデを背負った(元々の性質が粗野な)自分は人より努力する必要があって、だから可哀相だと。徐々にわかってきたのは、繊細な動きや思考をする誰もが些細な努力を常にしてるってこと。可哀相じゃない人なんて元々いないってこと。
それとこれとがどうして結びつくかは省く。とにもかくにも、私は洗練されたレディになろうと決意したし、そうすることが、いつか過去の私のようにつまずくかもしれない彼を助けることに繋がるのではないか、という気が今はしている。ま、彼がパンプスを履くことはないと思うけど(笑)、あくまで象徴的な意味で。
映画鑑賞後、バイバイと手を振りながら、「あー、次会うときはもう学生じゃないんだなあ。」と気付く。小田急線との連絡口に向かって歩いていく彼を後ろから眺めながら、西と東と別々の方面に向かいつつも、ぐるっと回ってたまにすれ違って「あら、いたの?」「おお、いたよ。」「頑張ってね。」「そっちもね。」と言い合えるような、「恋人同士」であり「社会人同士」でいたいな、と思った。これも象徴的な意味で。
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映画の備忘。
●スティーヴン・スピルバーグ監督の『ミュンヘン』(2006年)
とても丁寧に作られた映画だな、という印象。
世代的に「ミュンヘン事件」を知らないし、史実に関する知識も少ない。色々思ったことはあるのだが、観終わってから口にしようとしてもなかなか出てこなくなる、そんな圧力を秘めた作品。「平和」や「人種」といったキーワードを使うと通り一遍のことしか言えないので、あくまでも私個人の備忘として記す。
テロに関与したパレスチナゲリラたちが次々と殺される(報復、という名目で)シーンにて。
事件後の今日、殺される彼らにも大切な人や家族がいて、そこ(大切な人が死ぬ、という事実)だけ取り出せば悲劇以外の何物でもない、と、私にとって大切な人の隣で観たせいもあるやもしれんが、そんな風に思った。醜い感情(憎い、許せない、ムカつく、殺してやりたい、等の)がまったく無い世界、イコール、愛に満ちた世界じゃない。美しい感情(好き、大切だ、守りたい、等の)と醜い感情は常に同じ量だけ存在するからややこしい、ということを改めて理解。ベッドシーンと惨殺の記憶をかぶせたのも、そういう意味を込めたかったからじゃないかな。
なんしか、スゴイ作品だ。
春陽気、肉日和
2006年3月17日盛り沢山な金曜日の日記・二発目。
Jねーさん(と、マイ・ラヴァー)と焼肉@恵比寿。
約三ヶ月振りにお会いするJねーさん。「生で食べられるほど美味しい!」とおっしゃるお肉を堪能するため、ねーさんお気に入りのお店へ。さすが金曜、予約がいっぱいな上に、ねーさんオススメの「巻ロース」もタンも売り切れ。それでも、臭みのまったく無いレバー刺し(ゴマだれ)や、ほんのり甘いネギ焼きなどをしっかり堪能し、個人的には大満足。
マッコリを初めて飲みつつ。
G.Wに東京に来るらしい共通の友人の噂や、ねーさんを季節に例えるとやっぱり春だという話や、私を季節に例えると夏だという話(少なくとも春秋じゃないらしい。極端ってこと?)や、女は27歳くらいで一度は悩むという話を、ほほう、と聞く。欧米風に愛を語れない照れ屋なカップルの話の最中、「で、お二人はどうなの?」といきなり話を振られ、いやー最近はそうでもないです、と、隣に彼氏がいようがいるまいが、恥ずかしい話ができるようでできなくてやっぱりできる私。
ねーさんを見ていていつも思うこと。
8つ年上のJねーさんは当然私より多くのことを知っているけど、私を諭そうという姿勢が(たぶん)ほとんど無い。私に限らず、自分より未熟な誰かを見るときでさえ、いつでもフラットな姿勢を保とうと努力なさっているように見える。何かを見るときはどうしてもバイアスがかかってしまうけど、20代を経てできてしまったバイアスを、30を過ぎてなんとかリセットできないかと努力なさっているように見える。
私に関して言えば、何も無かった台紙の上に自分なりの地図を描こうとしているのが現段階で、それはバイアスを濃くする作業にも似ている。かといって、初めからねーさんやマイ・ラヴァーの真似をしてフラットに生きようとするのは(今は)適切じゃない。「自分の中にある欲求を一度は満たしてやらないと。」とねーさんがおっしゃったように、私もそう思う。多くのインプットの中から要らないものを選り分ける作業は、ある程度に達してからだろう。私がねーさんのようになる頃、ねーさんはさらに向こうのステージに進んでらっしゃるのかしら、そのときはどんな話ができるのかしら、と思いつつ肉を焼いたりタレをつけたり。
美しいねーさんのお顔の下に「近江牛」と書かれた前掛けがあるのが可笑しいと笑うマイ・ラヴァーに、いや、アナタだって同じもの付けてるから、と突っ込みつつ、帰りは満員電車に揺られ、別離。
その後。
「俺が自分で洗うから大丈夫。」という言葉を信じて放置した台所が一週間前と同じ状態であることにショックを受けたり、auの試供品としてもらった入浴剤から携帯電話会社と宣伝について考えたりしながら、やや早めに就寝。
また飲みましょう、Jねーさん。
Jねーさん(と、マイ・ラヴァー)と焼肉@恵比寿。
約三ヶ月振りにお会いするJねーさん。「生で食べられるほど美味しい!」とおっしゃるお肉を堪能するため、ねーさんお気に入りのお店へ。さすが金曜、予約がいっぱいな上に、ねーさんオススメの「巻ロース」もタンも売り切れ。それでも、臭みのまったく無いレバー刺し(ゴマだれ)や、ほんのり甘いネギ焼きなどをしっかり堪能し、個人的には大満足。
マッコリを初めて飲みつつ。
G.Wに東京に来るらしい共通の友人の噂や、ねーさんを季節に例えるとやっぱり春だという話や、私を季節に例えると夏だという話(少なくとも春秋じゃないらしい。極端ってこと?)や、女は27歳くらいで一度は悩むという話を、ほほう、と聞く。欧米風に愛を語れない照れ屋なカップルの話の最中、「で、お二人はどうなの?」といきなり話を振られ、いやー最近はそうでもないです、と、隣に彼氏がいようがいるまいが、恥ずかしい話ができるようでできなくてやっぱりできる私。
ねーさんを見ていていつも思うこと。
8つ年上のJねーさんは当然私より多くのことを知っているけど、私を諭そうという姿勢が(たぶん)ほとんど無い。私に限らず、自分より未熟な誰かを見るときでさえ、いつでもフラットな姿勢を保とうと努力なさっているように見える。何かを見るときはどうしてもバイアスがかかってしまうけど、20代を経てできてしまったバイアスを、30を過ぎてなんとかリセットできないかと努力なさっているように見える。
私に関して言えば、何も無かった台紙の上に自分なりの地図を描こうとしているのが現段階で、それはバイアスを濃くする作業にも似ている。かといって、初めからねーさんやマイ・ラヴァーの真似をしてフラットに生きようとするのは(今は)適切じゃない。「自分の中にある欲求を一度は満たしてやらないと。」とねーさんがおっしゃったように、私もそう思う。多くのインプットの中から要らないものを選り分ける作業は、ある程度に達してからだろう。私がねーさんのようになる頃、ねーさんはさらに向こうのステージに進んでらっしゃるのかしら、そのときはどんな話ができるのかしら、と思いつつ肉を焼いたりタレをつけたり。
美しいねーさんのお顔の下に「近江牛」と書かれた前掛けがあるのが可笑しいと笑うマイ・ラヴァーに、いや、アナタだって同じもの付けてるから、と突っ込みつつ、帰りは満員電車に揺られ、別離。
その後。
「俺が自分で洗うから大丈夫。」という言葉を信じて放置した台所が一週間前と同じ状態であることにショックを受けたり、auの試供品としてもらった入浴剤から携帯電話会社と宣伝について考えたりしながら、やや早めに就寝。
また飲みましょう、Jねーさん。
春陽気、お茶日和
2006年3月17日盛り沢山な金曜の日記・一発目(日中編)。
大学の友人・TKとお茶を飲む@池袋。
TKは浪人していて、同い年。誕生日も近い。大学に入ったばかりの春、ある6人でチームを結成した。TKはそのうちの一人。歌ったり踊ったりふざけたり怒ったり泣いたりしているうちに時は過ぎ、私たちは来週卒業するが、このチームだけは解散しない。
6人で集うことはよくあったのに、こうしてTKと二人で会うことは何回も無かったな、と、大いなる発見をしたコロンブスのような気分でエンゼル・カプチーノ(マシュマロとキャラメルソースの乗ったカプチーノ)を飲む。
TKは百貨店に就職が決まっている。販売職ではない。低迷している百貨店業界を今後どないすんのん、と頭を悩ませるウン十年(?)がスタートするらしい。TKと二人きりでやや真面目な話をするようになったのは、去年の秋くらいか。本日の議題は来週頭に迫った例のチーム会合で何をするかについてだが、それさえ終わってしまえば、あとはお互いの将来についてなどを聞いたり、話したり。
同じ年に入学して同じように勉強して同じように就職活動をしたのに、男のTKと女の私は将来を見るスパンが違う。宣言したことはいつも叶えるTKだから、私は彼の前途に希望を見出している。それでも彼は「自分の力をつける」ことをきちんと意識している。大企業に就職するのも、自分のやりたいことを世界規模でやるには大企業しかない、と判断してのことらしい。例えるなら、みんながサボっている間にコツコツと宿題の計画表を立てる夏休みの少年だ。休みは始まったばかりだけど、既に8月31日を見ている。一方の私は、休みが始まった事実に浮かれているわけではないが、計画通りいかない方が多いのだから思いついたときにやろう、というスタンスか。
男女雇用機会均等法が施行されて何年経つか知らないが。
長い時間をかけて日本人の心にこびりついた男女の違いは、なかなか拭えない。結婚しても働くか働かないかで、女は多少悩む。男は(ほぼ確実に)悩まない。それがどうのという問題ではなく、ああ、ちょっと違うんだなあ、という認識。「結婚してもバリバリ働くわよー!」というキャリア志向の女性に私はなれなかったけど、「腰掛けでいいわ、オホホ。」と既に決めているわけでもない。私は夏休みの宿題をやらないわけじゃなく、長いスパンで考えるのに幾分不利な立場にいる、というだけ。その分、TKでさえつまずくかもしれない人生の局面で、常に臨機応変を求められる。それが女の生き方かどうかは知らないが、少なくとも私は、綿密な計画と揺るぎない目標を「邪魔しないで!」と守る人生じゃなく、「この場合はどの道が適切か。」を考えながら誰よりもしなやかな人でいたい、と思う。「女だから」という事実を武器にも防具にもせず。
なんしか。
TKが百貨店業界に行くと聞いて頷けたように、私が春以降行う仕事を聞いて「りんっぽいね。」と言う人がいる。TKと私を含む6人は、それぞれ希望を持ちながら苦しみつつ就職活動をしたけど、もっとも落ち着くべき場所に落ち着いたと信じたい。そして、違う場所で違う仕事をしつつも、いつかまた集まったら、違う材料で同じものを動かしているという意識を共有したいと思うよ、TK。願わくば、誰かの結婚式とかそういう場面ではなく、仕事帰りに居酒屋等で(←若干、私信)。
その後、TKと別れて学校へ。
ガラガラの図書館(春休み中だから?)のカウンターでノートパソコンを借りる。本は読めるし、水も飲めるし、パソコンまで使えるなんて。お金がかかる・かからないの問題ではなく。保障され整えられた環境の中で一丁前に悩んだつもりになっていたけど、とうとうそれも終わるんだなあ、と少々感傷的になりながら夕日の中でキーボードを打ってみた。我ながら青臭い(いつも?)。
大学の友人・TKとお茶を飲む@池袋。
TKは浪人していて、同い年。誕生日も近い。大学に入ったばかりの春、ある6人でチームを結成した。TKはそのうちの一人。歌ったり踊ったりふざけたり怒ったり泣いたりしているうちに時は過ぎ、私たちは来週卒業するが、このチームだけは解散しない。
6人で集うことはよくあったのに、こうしてTKと二人で会うことは何回も無かったな、と、大いなる発見をしたコロンブスのような気分でエンゼル・カプチーノ(マシュマロとキャラメルソースの乗ったカプチーノ)を飲む。
TKは百貨店に就職が決まっている。販売職ではない。低迷している百貨店業界を今後どないすんのん、と頭を悩ませるウン十年(?)がスタートするらしい。TKと二人きりでやや真面目な話をするようになったのは、去年の秋くらいか。本日の議題は来週頭に迫った例のチーム会合で何をするかについてだが、それさえ終わってしまえば、あとはお互いの将来についてなどを聞いたり、話したり。
同じ年に入学して同じように勉強して同じように就職活動をしたのに、男のTKと女の私は将来を見るスパンが違う。宣言したことはいつも叶えるTKだから、私は彼の前途に希望を見出している。それでも彼は「自分の力をつける」ことをきちんと意識している。大企業に就職するのも、自分のやりたいことを世界規模でやるには大企業しかない、と判断してのことらしい。例えるなら、みんながサボっている間にコツコツと宿題の計画表を立てる夏休みの少年だ。休みは始まったばかりだけど、既に8月31日を見ている。一方の私は、休みが始まった事実に浮かれているわけではないが、計画通りいかない方が多いのだから思いついたときにやろう、というスタンスか。
男女雇用機会均等法が施行されて何年経つか知らないが。
長い時間をかけて日本人の心にこびりついた男女の違いは、なかなか拭えない。結婚しても働くか働かないかで、女は多少悩む。男は(ほぼ確実に)悩まない。それがどうのという問題ではなく、ああ、ちょっと違うんだなあ、という認識。「結婚してもバリバリ働くわよー!」というキャリア志向の女性に私はなれなかったけど、「腰掛けでいいわ、オホホ。」と既に決めているわけでもない。私は夏休みの宿題をやらないわけじゃなく、長いスパンで考えるのに幾分不利な立場にいる、というだけ。その分、TKでさえつまずくかもしれない人生の局面で、常に臨機応変を求められる。それが女の生き方かどうかは知らないが、少なくとも私は、綿密な計画と揺るぎない目標を「邪魔しないで!」と守る人生じゃなく、「この場合はどの道が適切か。」を考えながら誰よりもしなやかな人でいたい、と思う。「女だから」という事実を武器にも防具にもせず。
なんしか。
TKが百貨店業界に行くと聞いて頷けたように、私が春以降行う仕事を聞いて「りんっぽいね。」と言う人がいる。TKと私を含む6人は、それぞれ希望を持ちながら苦しみつつ就職活動をしたけど、もっとも落ち着くべき場所に落ち着いたと信じたい。そして、違う場所で違う仕事をしつつも、いつかまた集まったら、違う材料で同じものを動かしているという意識を共有したいと思うよ、TK。願わくば、誰かの結婚式とかそういう場面ではなく、仕事帰りに居酒屋等で(←若干、私信)。
その後、TKと別れて学校へ。
ガラガラの図書館(春休み中だから?)のカウンターでノートパソコンを借りる。本は読めるし、水も飲めるし、パソコンまで使えるなんて。お金がかかる・かからないの問題ではなく。保障され整えられた環境の中で一丁前に悩んだつもりになっていたけど、とうとうそれも終わるんだなあ、と少々感傷的になりながら夕日の中でキーボードを打ってみた。我ながら青臭い(いつも?)。
未知という名の船に乗り
2006年3月16日歯科助手・Nちゃんと、4年振りの再会。
Nちゃんは高校のクラスメイト。卒業後、彼女は短大→歯科助手という道を、私は浪人→四大という道を辿り、なんとなく疎遠になって、ついに4年も過ぎてしまった。高校時代からプリティだったので、さぞや…と思って会ってみると、やっぱりプリティ。歯科助手さんは皆可愛い、という噂は多分まあまあ正しい。
地元のこじんまりしたイタリアンレストランの窓際席で、オードブルを食べ食べ、丸4年分の青春ダイジェスト、スタート。
「高校のとき、どんなんだったっけ?」「りんはねー…なんか、いっつも恋してた!」「う…。あとは?」「キャピキャピしてたよね。」「今と全然変わってない…。」「でもね、そのキャピっぷりがすごく自然でウマイと思ってたよー。」「どんなんや、それ(笑)。」などと話しつつ、かぼちゃのポタージュや、あつあつのタンシチュー・フェットチーネ添えを。料理も美味しい、話も美味しい。
「歯科助手の仕事ってどんな感じ?」「うーん…。」「嫌な患者さんとかいるの?」「いるいる。今日アイツだよー、誰が付くのー?とか裏で言ってたり。」「あははは!」「アイツ絶対カツラだよーとかも話すよ。」「うははは!」「しかもオヤジが多くて。あとは、子どもとお年寄り。若い男の人が全然いないの。」「50人に1人くらい?」「もっといないよ!勤め始めて3年経つけど、この人イイかも、って人は1人だね。」「わははは!」など、自分の知らない世界の話題はなべて楽しい。
Nちゃんと話してわかったこと。
私はある大学に行きたくて、そのために浪人までした。バンカラっぽい雰囲気が自分に合っているように思えた。結局、第一志望は通らず、場違いみたいなオシャレっぽい大学に進学することが決まった(余談だが、今となっては満足している)。さて、入学後。強くなりたかった私は、空手部に入るつもりだった、が、何の運命の悪戯か、絵に描いたように華やかなサークルに入ることに。さてさて。やはり自分がバンカラ系だと疑ってなかった私は、焼肉屋でバイトを始めた。「っらっしゃいませーーぇ!」と大声で叫ぶ日々はそう長く続かず、当時懇意にしていた人のリクエストで某オシャレカフェに履歴書を送ることに。さてさてさて。就職活動の時期になり、私はある業界(あそこがバンカラかどうかは知らんが)を目指して奮闘したが、やはり、決まったのはなんだかオシャレっぽい会社。このへんでようやく気付き始めた。さてさてさてさて。バイトで小金を貯めた私は卒業旅行に行くことになり、インドかモンゴルかウズベキスタンに行きたいなあ、とぼんやり思っていたのに、なぜかイタリア・フランスという「あら素敵」系の国に旅立ってしまったとさ。
「結局そういうのが好きってことよ、ほんとはさ。」とNちゃん。そうかもしれない。
「意図してなかった。」と、ときに人は言う。意図してなかった人生とは、自分でない誰かが動かしたものだろうか。「あの時、歴史が動いた」というほどの決定的瞬間なんて、たぶん、そこまで無い。「今、人生を選択してる。」とわかる瞬間も滅多に無い。あったとしても気づかない。私たちの前には大量の選択肢が地雷のように散りばめられていて、「なんとなく」ひとつを選んで生きてしまう。そして、一見頼りなく思える「なんとなく」こそを唯一確かな羅針盤にして、私は生きてきたのだろう。
何が言いたいのかというと。
たとえ私の人生がすべて意図していたわけではないにしろ、「いつの間にか」という言葉をそう簡単に使ってはいけないはず。すべて、自分で選んだこと。完全な自己責任。そして私の人生を肯定してくれる第三者が仮にいたとしても、すべてを動かしてきた自分がまず肯定してあげないと、たぶん、浮かばれない。
その後。
歯のホワイトニングが上下で10万位かかるという衝撃的な話や、歯の治療にはお金も手間もかかるからぜひ大切にした方がいい、という有難いお話を聞きながら、素敵な木曜の夜は更けゆく。
(これは本当に余談だが、意図しなかった私の人生も、ある大事な部分だけは上記とは逆の道を辿っており、その点に関してだけは神に感謝したい。)
------------------------------------------------------------------
備忘と雑感。
●お赤飯を炊こう!
料理教室にて、赤飯の炊き方を学ぶ。もち米だけだとお腹にもたれたりもするそうなので、うるち米も若干混ぜつつ。短時間で簡単にできることが判明。「出産祝いに包んでいくと、結構喜ばれますよ。」と先生。
友人たちよ。いつでも子を産むが良い。
●小物と年齢。
祖母のバッグを拝借。たしかに上質だが、流行の形じゃないのが嫌だった。たしかに当時(高校〜大学前半)はバッグだけ浮いたものだが、最近、不思議と馴染む。母の金の指輪も拝借。これも馴染む。そういう歳ってこと!?
●鍵の隠し場所まで確認したのに、家の鍵をかけ忘れた。母、激怒。
Nちゃんは高校のクラスメイト。卒業後、彼女は短大→歯科助手という道を、私は浪人→四大という道を辿り、なんとなく疎遠になって、ついに4年も過ぎてしまった。高校時代からプリティだったので、さぞや…と思って会ってみると、やっぱりプリティ。歯科助手さんは皆可愛い、という噂は多分まあまあ正しい。
地元のこじんまりしたイタリアンレストランの窓際席で、オードブルを食べ食べ、丸4年分の青春ダイジェスト、スタート。
「高校のとき、どんなんだったっけ?」「りんはねー…なんか、いっつも恋してた!」「う…。あとは?」「キャピキャピしてたよね。」「今と全然変わってない…。」「でもね、そのキャピっぷりがすごく自然でウマイと思ってたよー。」「どんなんや、それ(笑)。」などと話しつつ、かぼちゃのポタージュや、あつあつのタンシチュー・フェットチーネ添えを。料理も美味しい、話も美味しい。
「歯科助手の仕事ってどんな感じ?」「うーん…。」「嫌な患者さんとかいるの?」「いるいる。今日アイツだよー、誰が付くのー?とか裏で言ってたり。」「あははは!」「アイツ絶対カツラだよーとかも話すよ。」「うははは!」「しかもオヤジが多くて。あとは、子どもとお年寄り。若い男の人が全然いないの。」「50人に1人くらい?」「もっといないよ!勤め始めて3年経つけど、この人イイかも、って人は1人だね。」「わははは!」など、自分の知らない世界の話題はなべて楽しい。
Nちゃんと話してわかったこと。
私はある大学に行きたくて、そのために浪人までした。バンカラっぽい雰囲気が自分に合っているように思えた。結局、第一志望は通らず、場違いみたいなオシャレっぽい大学に進学することが決まった(余談だが、今となっては満足している)。さて、入学後。強くなりたかった私は、空手部に入るつもりだった、が、何の運命の悪戯か、絵に描いたように華やかなサークルに入ることに。さてさて。やはり自分がバンカラ系だと疑ってなかった私は、焼肉屋でバイトを始めた。「っらっしゃいませーーぇ!」と大声で叫ぶ日々はそう長く続かず、当時懇意にしていた人のリクエストで某オシャレカフェに履歴書を送ることに。さてさてさて。就職活動の時期になり、私はある業界(あそこがバンカラかどうかは知らんが)を目指して奮闘したが、やはり、決まったのはなんだかオシャレっぽい会社。このへんでようやく気付き始めた。さてさてさてさて。バイトで小金を貯めた私は卒業旅行に行くことになり、インドかモンゴルかウズベキスタンに行きたいなあ、とぼんやり思っていたのに、なぜかイタリア・フランスという「あら素敵」系の国に旅立ってしまったとさ。
「結局そういうのが好きってことよ、ほんとはさ。」とNちゃん。そうかもしれない。
「意図してなかった。」と、ときに人は言う。意図してなかった人生とは、自分でない誰かが動かしたものだろうか。「あの時、歴史が動いた」というほどの決定的瞬間なんて、たぶん、そこまで無い。「今、人生を選択してる。」とわかる瞬間も滅多に無い。あったとしても気づかない。私たちの前には大量の選択肢が地雷のように散りばめられていて、「なんとなく」ひとつを選んで生きてしまう。そして、一見頼りなく思える「なんとなく」こそを唯一確かな羅針盤にして、私は生きてきたのだろう。
何が言いたいのかというと。
たとえ私の人生がすべて意図していたわけではないにしろ、「いつの間にか」という言葉をそう簡単に使ってはいけないはず。すべて、自分で選んだこと。完全な自己責任。そして私の人生を肯定してくれる第三者が仮にいたとしても、すべてを動かしてきた自分がまず肯定してあげないと、たぶん、浮かばれない。
その後。
歯のホワイトニングが上下で10万位かかるという衝撃的な話や、歯の治療にはお金も手間もかかるからぜひ大切にした方がいい、という有難いお話を聞きながら、素敵な木曜の夜は更けゆく。
(これは本当に余談だが、意図しなかった私の人生も、ある大事な部分だけは上記とは逆の道を辿っており、その点に関してだけは神に感謝したい。)
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備忘と雑感。
●お赤飯を炊こう!
料理教室にて、赤飯の炊き方を学ぶ。もち米だけだとお腹にもたれたりもするそうなので、うるち米も若干混ぜつつ。短時間で簡単にできることが判明。「出産祝いに包んでいくと、結構喜ばれますよ。」と先生。
友人たちよ。いつでも子を産むが良い。
●小物と年齢。
祖母のバッグを拝借。たしかに上質だが、流行の形じゃないのが嫌だった。たしかに当時(高校〜大学前半)はバッグだけ浮いたものだが、最近、不思議と馴染む。母の金の指輪も拝借。これも馴染む。そういう歳ってこと!?
●鍵の隠し場所まで確認したのに、家の鍵をかけ忘れた。母、激怒。
決壊
2006年3月15日高校時代の友人Cと、映画『サイレン』を観る
…はずだったんだけど、直前になって中止。映画館の真下にあったスタバで「本日のコーヒー」と「コーヒー&チョコレートパウンド」を食しながら、久しぶりの真剣talk。
原因は、Cの遅刻。
遅刻の理由を聞いてみると、Cにはどうしようもできなかったことらしい。Cは社会人ではないけど、お金を貰って引き受けている仕事があり。お金を貰うということは当然、「責任」が発生するということで、その責任を果たすためにのっぴきならない事情も増える。その「責任」を知らないままに相手をなじる、私は(Cに対してだけじゃなく)それだけはするまい、と自身を戒めていた。
遅刻は悪い。約束は果たすべきだ。それはたしかに正しいこと。正しいことを指摘するのは私の得意技だ。それでもCは、「りんはいつもものすごく正しいんだけど、たとえば、一緒にいる誰かがミスしたときに、それを指摘して叱責するんじゃなくて、さりげなくフォローするっていうのも考えてみてほしい。」と言った。「私は、どちらかというと、さりげなくフォローしたり、笑って許せたりする方が大人の余裕があって良いと思う。」と言った。数年ぶりに、ガツン、と頭を打たれた。Cに言われるまでもなく、ここ何ヶ月かの間、ずーっと考え続けてたこと。気をつけてたこと。それでもこうして言われて気づいたことがある。
できない我慢なら、最初からしない方がいい。
自分が「誰か」より楽な立場にいても、それは喜ぶべきことじゃない。なぜなら、その分、「誰か」の置かれた大変な状況を想像しなきゃならないから。おヒマな学生は誰よりも自由で、且つ、誰よりも不自由だ。有り余る時間を持つ私は、タイトな時間の中で生きる「誰か」を常に思い遣る必要がある。時間と引き替えに支払っているのは、枯渇しそうな想像力に常に薪をくべるためのパワーでは?
そして、その想像力をギリギリまで働かせていても、結局決壊して相手をなじる羽目になるのなら、最初から優しいフリをすべきじゃない。貫徹できない優しさは「優しさ」じゃない。自己満足(「自分って優しいなあ!」という)の上に見栄えだけ良くしようと優しさ(チックなもの)をコーティングしたニセモノに過ぎない。
以上は、本日、Cとの対話で学んだこと。
以下は、私の意見。
時間に遅れない人は、本当に、何事もなくその場にたどり着いているのかな?そうじゃない。有り余る時間を持てあましている人にも、人に言うほどではない何かがあって、それを本当に秘密裏に処理した上で時間を守る。人に言うほどではない何かとは、家のこと、ものすごく個人的なこと、その他。私はそれに「仕事」も加えられたらいいな、と願う。
そうはいっても、遅刻はする。
のっぴきならない事情で遅れるのを笑って許してもらうために、のっぴきならない事情じゃないときはせめて誠実に、キッチリと、いつでも時間通りに現れる人でいたいなーと私は思うよ、C。そしてもう少し優しくなるよ。今日はごめん。
-----------------------------------------------------------------
備忘と雑感。
●エビのチリソース煮。
えびを下処理して、片栗粉と塩でよく揉む。水を加えてさらに揉む。流水でよくすすぎ、水気を拭いた後、塩少々、白こしょう、老酒で下味をつける。卵白を加えてコシが無くなるまでよく混ぜる。白っぽくなって全体にからんだら、片栗粉→サラダ油の順に入れ均一に。
↓
あらかじめサラダ油(やや多め)をひいて熱したフライパンに、えびを下味ごと入れ、両面に火を通す。八割方火が通ったら、網付きバットの上で油をきる。
↓
そのフライパンの粗熱を取り、サラダ油をひく。調味料(おろしにんにく、おろししょうが、タマネギ、豆板醤、トマトケチャップ)を火にかけ、焦がさないように中火で。さらに調味料(水、鶏ガラスープの素、老酒、砂糖、塩、白こしょう)を加え、一煮立ち。えびとみじんぎりにした白ネギを加え加熱→水溶き片栗粉でとろみをつける。お好みでサラダ油&酢を混ぜ入れ、味を整える。ふう。
●決定事項。
我が家では二度と辛い料理を作るまい。
●ついに。
地元に本屋が一軒も無くなった。誰に怒っていいのかわからん。
●やはり(笑)。
某有名四大を卒業するために必要な学力と、女心を推し量る能力は、必ずしも比例しない。
…はずだったんだけど、直前になって中止。映画館の真下にあったスタバで「本日のコーヒー」と「コーヒー&チョコレートパウンド」を食しながら、久しぶりの真剣talk。
原因は、Cの遅刻。
遅刻の理由を聞いてみると、Cにはどうしようもできなかったことらしい。Cは社会人ではないけど、お金を貰って引き受けている仕事があり。お金を貰うということは当然、「責任」が発生するということで、その責任を果たすためにのっぴきならない事情も増える。その「責任」を知らないままに相手をなじる、私は(Cに対してだけじゃなく)それだけはするまい、と自身を戒めていた。
遅刻は悪い。約束は果たすべきだ。それはたしかに正しいこと。正しいことを指摘するのは私の得意技だ。それでもCは、「りんはいつもものすごく正しいんだけど、たとえば、一緒にいる誰かがミスしたときに、それを指摘して叱責するんじゃなくて、さりげなくフォローするっていうのも考えてみてほしい。」と言った。「私は、どちらかというと、さりげなくフォローしたり、笑って許せたりする方が大人の余裕があって良いと思う。」と言った。数年ぶりに、ガツン、と頭を打たれた。Cに言われるまでもなく、ここ何ヶ月かの間、ずーっと考え続けてたこと。気をつけてたこと。それでもこうして言われて気づいたことがある。
できない我慢なら、最初からしない方がいい。
自分が「誰か」より楽な立場にいても、それは喜ぶべきことじゃない。なぜなら、その分、「誰か」の置かれた大変な状況を想像しなきゃならないから。おヒマな学生は誰よりも自由で、且つ、誰よりも不自由だ。有り余る時間を持つ私は、タイトな時間の中で生きる「誰か」を常に思い遣る必要がある。時間と引き替えに支払っているのは、枯渇しそうな想像力に常に薪をくべるためのパワーでは?
そして、その想像力をギリギリまで働かせていても、結局決壊して相手をなじる羽目になるのなら、最初から優しいフリをすべきじゃない。貫徹できない優しさは「優しさ」じゃない。自己満足(「自分って優しいなあ!」という)の上に見栄えだけ良くしようと優しさ(チックなもの)をコーティングしたニセモノに過ぎない。
以上は、本日、Cとの対話で学んだこと。
以下は、私の意見。
時間に遅れない人は、本当に、何事もなくその場にたどり着いているのかな?そうじゃない。有り余る時間を持てあましている人にも、人に言うほどではない何かがあって、それを本当に秘密裏に処理した上で時間を守る。人に言うほどではない何かとは、家のこと、ものすごく個人的なこと、その他。私はそれに「仕事」も加えられたらいいな、と願う。
そうはいっても、遅刻はする。
のっぴきならない事情で遅れるのを笑って許してもらうために、のっぴきならない事情じゃないときはせめて誠実に、キッチリと、いつでも時間通りに現れる人でいたいなーと私は思うよ、C。そしてもう少し優しくなるよ。今日はごめん。
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備忘と雑感。
●エビのチリソース煮。
えびを下処理して、片栗粉と塩でよく揉む。水を加えてさらに揉む。流水でよくすすぎ、水気を拭いた後、塩少々、白こしょう、老酒で下味をつける。卵白を加えてコシが無くなるまでよく混ぜる。白っぽくなって全体にからんだら、片栗粉→サラダ油の順に入れ均一に。
↓
あらかじめサラダ油(やや多め)をひいて熱したフライパンに、えびを下味ごと入れ、両面に火を通す。八割方火が通ったら、網付きバットの上で油をきる。
↓
そのフライパンの粗熱を取り、サラダ油をひく。調味料(おろしにんにく、おろししょうが、タマネギ、豆板醤、トマトケチャップ)を火にかけ、焦がさないように中火で。さらに調味料(水、鶏ガラスープの素、老酒、砂糖、塩、白こしょう)を加え、一煮立ち。えびとみじんぎりにした白ネギを加え加熱→水溶き片栗粉でとろみをつける。お好みでサラダ油&酢を混ぜ入れ、味を整える。ふう。
●決定事項。
我が家では二度と辛い料理を作るまい。
●ついに。
地元に本屋が一軒も無くなった。誰に怒っていいのかわからん。
●やはり(笑)。
某有名四大を卒業するために必要な学力と、女心を推し量る能力は、必ずしも比例しない。
3月14日の読書メモ
2006年3月14日村上春樹の『風の歌を聴け』(講談社文庫)読了。
大学三年の頃、諸事情により小説を書いていたことがある。自我が芽生えたばかりだったので(遅い?)、「小説=私小説」とはなっから決めつけていた節がある。つまり、「主人公の思ったこと=自分が考えたこと」だった。生々しい恋愛に関するすべてのこと(当時は恋愛にしか興味が無かった…。)から感じた自分なりの主張、それをほんっとにストレートに主人公に投影したものだ。
小説を書く私には先輩がいて、彼女がそのコミュニティでは一番「デキる人」だった。彼女はなぜか私の書くものに興味を持ってくれて、個人的にメールをくれたことがある。
(以下、抜粋。↓)
「自分の経験したことを文章にしたいという気持ちは良く分かります。
私も自分の経験をもとにしか小説を書く事ができません。
ただ、本当にそのまま書いてしまうと、「自分」というフィルターしか
通していないわけですから、他者の存在しない、ただの日記になってしまいます。
先生も仰っていましたが、やはり第三者の目というのが大切であるという事と、
地の文、つまり一人称の主人公の頭の中ではなく、リアルタイムで
起きていることの描写に重きをおくべきです。そのためには
説明しなくてはいけない箇所、登場人物の心情もなるべく会話など利用して
地の文として表現するのが良いと思います。
そして一部は読者の想像に任せる隙間を作ることも重要です。」
無断で引用してしまったので、彼女がここを見ていないことを祈るのみである。何はともあれ、そういうことだ。小説とは、たぶん、そういうものだ。自分で体験したことしか書けない。
村上春樹が感じたこと・言いたいことは本人のものだ。それでもこの本が日記でなく小説というスタイルである以上、表現されているすべての思想は、村上が考えたことじゃなくて、「僕」の考えになっている。淡々と描写された本文は「僕」が当時を思い出しながら綴っている、という形式だけど、たまに村上自身の譲れない何かがものすごくストレートに出ている本文があって、私は胸が震えた。
一つだけ、引用しよう。
「かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。
高校の終り頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。
理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。
そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることの
できない人間になっていることを発見した。」
これを書いた村上氏は29歳ということなので、今どう思っているかは知らない。ただ、作中では21歳の「僕」が"かつて"と語る中で、現在の私はもがいているんだなあ、ということだけははっきりした。
私と私の周りの大人が特別なんじゃなくて、誰でも通る道なのだろうか。そして、「僕」が思っていることの半分しか語ることができなくなったように、30歳になる頃には私も半分しか語れない大人になるのかな。
「理想の大人像」は、いつまでも遠くに厳然と立つものではなく、近付くにつれて刷新してさらに遠くに追いやらなければならないものなのかな。だとするなら、私もいつまでも大人になれそうな気がしない。
感想、以上。
大学三年の頃、諸事情により小説を書いていたことがある。自我が芽生えたばかりだったので(遅い?)、「小説=私小説」とはなっから決めつけていた節がある。つまり、「主人公の思ったこと=自分が考えたこと」だった。生々しい恋愛に関するすべてのこと(当時は恋愛にしか興味が無かった…。)から感じた自分なりの主張、それをほんっとにストレートに主人公に投影したものだ。
小説を書く私には先輩がいて、彼女がそのコミュニティでは一番「デキる人」だった。彼女はなぜか私の書くものに興味を持ってくれて、個人的にメールをくれたことがある。
(以下、抜粋。↓)
「自分の経験したことを文章にしたいという気持ちは良く分かります。
私も自分の経験をもとにしか小説を書く事ができません。
ただ、本当にそのまま書いてしまうと、「自分」というフィルターしか
通していないわけですから、他者の存在しない、ただの日記になってしまいます。
先生も仰っていましたが、やはり第三者の目というのが大切であるという事と、
地の文、つまり一人称の主人公の頭の中ではなく、リアルタイムで
起きていることの描写に重きをおくべきです。そのためには
説明しなくてはいけない箇所、登場人物の心情もなるべく会話など利用して
地の文として表現するのが良いと思います。
そして一部は読者の想像に任せる隙間を作ることも重要です。」
無断で引用してしまったので、彼女がここを見ていないことを祈るのみである。何はともあれ、そういうことだ。小説とは、たぶん、そういうものだ。自分で体験したことしか書けない。
村上春樹が感じたこと・言いたいことは本人のものだ。それでもこの本が日記でなく小説というスタイルである以上、表現されているすべての思想は、村上が考えたことじゃなくて、「僕」の考えになっている。淡々と描写された本文は「僕」が当時を思い出しながら綴っている、という形式だけど、たまに村上自身の譲れない何かがものすごくストレートに出ている本文があって、私は胸が震えた。
一つだけ、引用しよう。
「かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。
高校の終り頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。
理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。
そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることの
できない人間になっていることを発見した。」
これを書いた村上氏は29歳ということなので、今どう思っているかは知らない。ただ、作中では21歳の「僕」が"かつて"と語る中で、現在の私はもがいているんだなあ、ということだけははっきりした。
私と私の周りの大人が特別なんじゃなくて、誰でも通る道なのだろうか。そして、「僕」が思っていることの半分しか語ることができなくなったように、30歳になる頃には私も半分しか語れない大人になるのかな。
「理想の大人像」は、いつまでも遠くに厳然と立つものではなく、近付くにつれて刷新してさらに遠くに追いやらなければならないものなのかな。だとするなら、私もいつまでも大人になれそうな気がしない。
感想、以上。
29−23
2006年3月13日Sねーさんとゴハン@六本木。
Sねーさんは6歳年上で、婚約中。歳は離れているけど、定期的に食事をする仲だ。ねーさんのお友達がシェフを務める創作イタリアンレストランで、赤ワイン(軽めをオーダー)を飲む。「これくらいの予算で。」「野菜を多めに食べたい。」など、好みを伝えてお任せコース。
ねーさんと出会ってから丸二年、私は二回進級し、就職先を決め、恋人が変わり、そろそろ卒業する。ねーさんは時給が上がり、恋人だった人が婚約者になり、住むところが変わり、そろそろ結婚する。当時も今も話題といえば、アルバイト先の愚痴、心配をかける(共通の)友人の話、ねーさん’sレシピの話、などで変化が無い。二人で会うと食べ過ぎちゃうのも一緒。自由奔放なねーさんは気取ったお店だからといって自分は気取らず、いつも通りだ。どうしたらそうなれるんだろう、と悩んだ時期もあったけど。
菜の花とブロッコリーのガーリックソテー、ズッキーニとトマトを添えた大根ステーキ、筍と豆ときのこが入ったオレガノ風味のパスタなど、とても美味しく、ボリューム満点。
「今だから話せることだけど。」とSねーさん。
私たちとかつて一緒に働いたTは、アルバイト先を辞め、一人で暮らしている。高校のときから付き合っている彼氏に好きな人ができてフラれた。数ヶ月で彼は戻ってきて、Tは受け入れた。最初のそれはもう随分昔の話で、くっついたり、別れたり、そんなことを繰り返している。Tは「彼とは結婚しない。」と言うし「好きかどうかわからない。」とも言う。「なんで別れないの?」と聞くと、「今は理由が無いっていうか…。」と言うし「放っておいても毎週来るから会わない理由も無い。」とも言う。私よりTと親しいねーさんは、私が知ってる以上の情報を持つ。
「だから受け入れちゃダメなの。これは、絶対。」とSねーさん。
戻ってきた場合。「ああ、やっぱりその女より私の方が良いって気付いたんだ!」という思考パターンになるのは想像がつく。それが本当かどうかは彼と神のみぞ知る。本当じゃない場合というのは、単に、隣の芝生から元いた芝生を眺めたら青かった、という場合。どちらも青さは変わらないのに、という場合。芝生の本当の青さを見極められない男が戻ってきても、幸せにはなれない(と、Sねーさん)。なぜなら、またいつか捨てられるかも、という恐怖は女側にいつまでも残るから。そんな恐怖を持ってる時点で、既に「対等」じゃない。言いたいことも言えない。したいこともできない。また捨てられるのが怖いから。そして「別れ」は深刻さを失う。一度経験したことだから。
イエス・ノーをきっぱりと言うねーさんは、ときに非情に思えた。捨てられた私の気持ちを推し量ることもせず、「そんな男は帰ってきても切り捨てなさい。」と夏に言い切った。待ちたかった私は待つための理由を探して、待つと決めた自分を「慈愛に満ちた女」だと解釈し、待たないねーさんを「非情な人」だと決めつけた。あれから半年とちょっと。一見ものすごく自己中心的に思える「自分を大切にする」という行為の本当の意味が、少しだけわかった気がした。
不思議なことに。
ねーさんを非情だと決めつけた当時の論理は、今見返してもなかなか筋が通っているように思える。私が正しいと思いこんでいる2006年3月13日現在の論理でさえ、もう少ししたら信じられなくなるのかな。29歳のねーさんは今も私を諭すけど、同じように私を諭そうとする人に反発したい気持ちが少ーしだけ溶解したようなそーんな気分で、食後のコーヒーを飲んでみた。
-----------------------------------------------------------------
その他備忘と雑感。
●美容院にて。
ひっさしぶりにカラーリング。そして襟足バッサリ。テーマは「フレッシュ」。ここまで短くしたのは小学生以来だ。
●そんなに飲んじゃいけない日はフルボディのワインにすべし。軽いとぐいぐいいってしまう。
●近年稀に見る大恐慌到来中。
●食べられない野菜が無くなった。
Sねーさんは6歳年上で、婚約中。歳は離れているけど、定期的に食事をする仲だ。ねーさんのお友達がシェフを務める創作イタリアンレストランで、赤ワイン(軽めをオーダー)を飲む。「これくらいの予算で。」「野菜を多めに食べたい。」など、好みを伝えてお任せコース。
ねーさんと出会ってから丸二年、私は二回進級し、就職先を決め、恋人が変わり、そろそろ卒業する。ねーさんは時給が上がり、恋人だった人が婚約者になり、住むところが変わり、そろそろ結婚する。当時も今も話題といえば、アルバイト先の愚痴、心配をかける(共通の)友人の話、ねーさん’sレシピの話、などで変化が無い。二人で会うと食べ過ぎちゃうのも一緒。自由奔放なねーさんは気取ったお店だからといって自分は気取らず、いつも通りだ。どうしたらそうなれるんだろう、と悩んだ時期もあったけど。
菜の花とブロッコリーのガーリックソテー、ズッキーニとトマトを添えた大根ステーキ、筍と豆ときのこが入ったオレガノ風味のパスタなど、とても美味しく、ボリューム満点。
「今だから話せることだけど。」とSねーさん。
私たちとかつて一緒に働いたTは、アルバイト先を辞め、一人で暮らしている。高校のときから付き合っている彼氏に好きな人ができてフラれた。数ヶ月で彼は戻ってきて、Tは受け入れた。最初のそれはもう随分昔の話で、くっついたり、別れたり、そんなことを繰り返している。Tは「彼とは結婚しない。」と言うし「好きかどうかわからない。」とも言う。「なんで別れないの?」と聞くと、「今は理由が無いっていうか…。」と言うし「放っておいても毎週来るから会わない理由も無い。」とも言う。私よりTと親しいねーさんは、私が知ってる以上の情報を持つ。
「だから受け入れちゃダメなの。これは、絶対。」とSねーさん。
戻ってきた場合。「ああ、やっぱりその女より私の方が良いって気付いたんだ!」という思考パターンになるのは想像がつく。それが本当かどうかは彼と神のみぞ知る。本当じゃない場合というのは、単に、隣の芝生から元いた芝生を眺めたら青かった、という場合。どちらも青さは変わらないのに、という場合。芝生の本当の青さを見極められない男が戻ってきても、幸せにはなれない(と、Sねーさん)。なぜなら、またいつか捨てられるかも、という恐怖は女側にいつまでも残るから。そんな恐怖を持ってる時点で、既に「対等」じゃない。言いたいことも言えない。したいこともできない。また捨てられるのが怖いから。そして「別れ」は深刻さを失う。一度経験したことだから。
イエス・ノーをきっぱりと言うねーさんは、ときに非情に思えた。捨てられた私の気持ちを推し量ることもせず、「そんな男は帰ってきても切り捨てなさい。」と夏に言い切った。待ちたかった私は待つための理由を探して、待つと決めた自分を「慈愛に満ちた女」だと解釈し、待たないねーさんを「非情な人」だと決めつけた。あれから半年とちょっと。一見ものすごく自己中心的に思える「自分を大切にする」という行為の本当の意味が、少しだけわかった気がした。
不思議なことに。
ねーさんを非情だと決めつけた当時の論理は、今見返してもなかなか筋が通っているように思える。私が正しいと思いこんでいる2006年3月13日現在の論理でさえ、もう少ししたら信じられなくなるのかな。29歳のねーさんは今も私を諭すけど、同じように私を諭そうとする人に反発したい気持ちが少ーしだけ溶解したようなそーんな気分で、食後のコーヒーを飲んでみた。
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その他備忘と雑感。
●美容院にて。
ひっさしぶりにカラーリング。そして襟足バッサリ。テーマは「フレッシュ」。ここまで短くしたのは小学生以来だ。
●そんなに飲んじゃいけない日はフルボディのワインにすべし。軽いとぐいぐいいってしまう。
●近年稀に見る大恐慌到来中。
●食べられない野菜が無くなった。
3月12日の物思い
2006年3月12日やや寝坊の日曜日。
携帯のアラームをやり過ごしたり目覚まし時計を何度も止めたり、無駄な抵抗を重ねながら、半覚醒状態を維持。寝間着をトレーナーからTシャツにする季節がまた来るなあ、とぼんやり眼で考えていたけど、そうだ、私が「Tシャツで寝て。」と言ったんだった、と思い出しながら起床→身支度→ひとり出発。
「朝ゴハン何が食べたい?」「任せた。」という展開なので、近所のパン屋(←美味しい)と迷った挙げ句、いつものスーパーへ。慣れない土地のスーパーは使いにくいものだが、そろそろ配置がわかってきた。野菜売り場→肉売り場→乳製品売り場と、売り場から売り場へ一筆書きのように(一度も戻ったりせずに)移動できるのが理想。
じゃがいもを物色しながら料理研究家・ケンタロウ氏の言葉を思い出す。
野菜選びには基準がある。レタスなら重みのあるもの、トマトなら色が均一なもの、ニンジンなら茎の切り口部分の直径が小さいもの。鮮度の点では正しい見極め方だが、ケンタロウ氏は言う。とりあえず両手にふたつ持ってみろ、と。ふたつ持ってみて、なんとなくこっちかな、と思う方がある。そう、なんとなく。それでいいのだと。バラ売りのじゃがいもを両手で持って、なんとなくこっちかな、と思い、カゴに入れる。
あるところに一組の男女がいて、彼らは新鮮な材料を探してましたとさ。新鮮な方が良いとされているからだ。多少新鮮でなくとも食べられるけど、そんなことはともかく。「材料は新鮮な方がいい」なんて、最大公約数で表されるような汎用性のある真理だ。誰もがいつの間にか信じている「こっちの方がいいよね的真理」は、最大公約数となり得るだけのそれを信じる人間がいるから成り立つ。そんな真理はどこかに置いて。ただなんとなく材料を持ってみて、女は「ああ、こっちだ。」と思いたい。男も同じように持ってみて、なんとなくこっちだと思う。「あ、一緒だね。」と思いたい女は、汎用性のある真理に従って「こっちの方が新鮮よ。」と言えば解決できる何かがあっても、それを言うことで壊れてしまう空気を惜しいと思う。大勢に振る舞うときならともかく、たったふたり分の世界に必要な材料ならそれでいいじゃない。
朝(昼?)ゴハン後、帰りの電車内で村上春樹(『風の歌を聴け』)を読む。
主人公の友達・鼠は小説を書く。鼠の小説には優れた点が二つあって、セックス・シーンの無いことと、人が一人も死なないことだそうだ。放っておいても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ、と主人公は言う。
人がいなくなったと聞いては騒ぎ、セックス(もしくはそれに準じる行為)にまつわる何かがあっては騒ぎ。若者はたしかにみっともない。人との別れとセックスさえ話題性を欠くようになるのが主人公と同じ20代前半なのかな。だとするなら、主人公(21)より二年ほど多く生きる私は今後何を文章にしたいと思うのだろう。
なんてことを考えつつ、帰宅。
携帯のアラームをやり過ごしたり目覚まし時計を何度も止めたり、無駄な抵抗を重ねながら、半覚醒状態を維持。寝間着をトレーナーからTシャツにする季節がまた来るなあ、とぼんやり眼で考えていたけど、そうだ、私が「Tシャツで寝て。」と言ったんだった、と思い出しながら起床→身支度→ひとり出発。
「朝ゴハン何が食べたい?」「任せた。」という展開なので、近所のパン屋(←美味しい)と迷った挙げ句、いつものスーパーへ。慣れない土地のスーパーは使いにくいものだが、そろそろ配置がわかってきた。野菜売り場→肉売り場→乳製品売り場と、売り場から売り場へ一筆書きのように(一度も戻ったりせずに)移動できるのが理想。
じゃがいもを物色しながら料理研究家・ケンタロウ氏の言葉を思い出す。
野菜選びには基準がある。レタスなら重みのあるもの、トマトなら色が均一なもの、ニンジンなら茎の切り口部分の直径が小さいもの。鮮度の点では正しい見極め方だが、ケンタロウ氏は言う。とりあえず両手にふたつ持ってみろ、と。ふたつ持ってみて、なんとなくこっちかな、と思う方がある。そう、なんとなく。それでいいのだと。バラ売りのじゃがいもを両手で持って、なんとなくこっちかな、と思い、カゴに入れる。
あるところに一組の男女がいて、彼らは新鮮な材料を探してましたとさ。新鮮な方が良いとされているからだ。多少新鮮でなくとも食べられるけど、そんなことはともかく。「材料は新鮮な方がいい」なんて、最大公約数で表されるような汎用性のある真理だ。誰もがいつの間にか信じている「こっちの方がいいよね的真理」は、最大公約数となり得るだけのそれを信じる人間がいるから成り立つ。そんな真理はどこかに置いて。ただなんとなく材料を持ってみて、女は「ああ、こっちだ。」と思いたい。男も同じように持ってみて、なんとなくこっちだと思う。「あ、一緒だね。」と思いたい女は、汎用性のある真理に従って「こっちの方が新鮮よ。」と言えば解決できる何かがあっても、それを言うことで壊れてしまう空気を惜しいと思う。大勢に振る舞うときならともかく、たったふたり分の世界に必要な材料ならそれでいいじゃない。
朝(昼?)ゴハン後、帰りの電車内で村上春樹(『風の歌を聴け』)を読む。
主人公の友達・鼠は小説を書く。鼠の小説には優れた点が二つあって、セックス・シーンの無いことと、人が一人も死なないことだそうだ。放っておいても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ、と主人公は言う。
人がいなくなったと聞いては騒ぎ、セックス(もしくはそれに準じる行為)にまつわる何かがあっては騒ぎ。若者はたしかにみっともない。人との別れとセックスさえ話題性を欠くようになるのが主人公と同じ20代前半なのかな。だとするなら、主人公(21)より二年ほど多く生きる私は今後何を文章にしたいと思うのだろう。
なんてことを考えつつ、帰宅。
like the blue sky
2006年3月11日コメント (2)六本木のヴァージンTOHOシネマズにて映画鑑賞 with マイ・ラヴァー。
待ちに待った週末なので飛び起きる。「今日はデイトなの♪」と母に告げたら、「お母さんもデイトなの♪」と言い返される。たかがデートでこの浮かれよう。間違いなく親子だと確信。前日までハードワークをこなしていたマイ・ラヴァーから「待ち合わせ場所と時間は起きてから連絡します!」と言われたきり、連絡来ず。マイ・マザー’sダーリンは姿が見えない。お互い大変ね、と慰め合う母子。
待ち合わせは六本木駅。映画観る前に麻布〜六本木近辺を散歩しようね、と言っていたのに、マイ・ラヴァー寝坊のため、キャンセル。プンプン!(←さとう珠緒風に。) たまには強く言ってやるっぺ、はぁ、おりゃ黙ってられねえだけんが! と思わず方言まで(心の中で)飛び出しつつ待ちかまえていたのに、「スマン、スマン!」と走ってきたマイ・ラヴァーのさわやかスマイル(春の青空のようだ。)に誤魔化され、うやむやに!
さらに。
楽しみにしていた『ミュンヘン』は、なんと、前日で打ち切られており、急遽作戦変更。『THE有頂天ホテル』を観ることに。
次の回まで時間があるので、キャンセルになったはずの散歩が決行できることとなった(←怪我の功名?)。春陽気。青空。六本木ヒルズ。毛利庭園。ハチミツ入りのアイススターバックスラテ。こうしてるとフツウのカップルみたいだね、と、当たり前のことが妙にくすぐったい。「仕事以外で六ヒルに来たの初めてかも…。」と語る彼の"初めて"に同席できたこともくすぐったい。
テレビ朝日を迂回して、レジデンス×4を右手に、麻布十番方面へ。
港区は面白い。阿川佐●子が住んでいるという高級マンションの敷地では外国人の子どもが走り回っている(まるでマンションCMのような光景!)のに、そのすぐ裏手に戦前の木造家屋がぽつんと建ってたり。高級マンション、木造家屋、森タワー、灯籠、外国人大使館、寺。神にまつわる重要な施設は高台の岬に作られるらしい(byマイ・ラヴァー)。その隙間を縫うようにエイエイと開発されたこのエリアは、東京という街が意図せずに「東京」になった背景をそのままに残している、と思った。
その後、つつがなく映画鑑賞。
せっかくだから夕飯は麻布or六本木で、とプランニング。「このあたり(オサレなエリア)は詳しいの?」「そんなはずないだろ。」という話に心から納得し、じゃあどうしようかいな、と。六本木通りを延々歩いて、「このあたりなんだけどなー…たしか…」というカレー屋(またカレーかい!笑)を探しながら、「ねえ、六本木はどうして六本木って名前なの?」「えっ!?」「知ってそうじゃん。」「たしかに知ってそうだが…それは知らん。」「じゃあ秋葉原は?」「おお、あそこは昔、秋葉神社という神社があってだな、そこから秋葉原になったんだよ。」「ほら、知ってるじゃん!」などと話しつつ、結局タクシーで表参道方面へ。
表参道から少し外れた通りにあるうどん・そば屋にて。ネギぬた、胡麻ダレ豆腐、蟹餃子などをツマミにビールをぐいぐい→〆にうどん・そば、というスタイル。
私は気付いたことがある。蕎麦屋が好きだ。蕎麦も好きだが、蕎麦屋に共通する雰囲気が好きだと。居酒屋と違い、蕎麦屋は奥行きもあり空間を十分に使っている。が、一般的な洋風レストランとも違い、無駄に広い、という例が少ない。狭過ぎず、広過ぎず。そのバランスが絶妙なんだ。正方形(これは不思議と落ち着く)に近い店内で、「日本人で良かったねい!」と叫びたくなるような食べ物に囲まれて、私はとってもシアワセ。
帰宅後、F1・バーレーンGP観戦。
初めて観るF1。"ウィング"の角度で直線が得意かカーブが得意かが決まる、という話や、新チーム、スーパーアグリ・ホンダが参戦できたのは奇跡だ、という話を、ほほーん、と聞く。観戦後は、六本木ヒルズを題材にした写真集を眺めながらごろん。「写真って面白いよな。色々な情報が本当にたくさん詰まってる。」「たとえば?」「これは影が長いから夕方だ、とかね。」「こっちは?」「冬じゃないな。緑が多いから。」「これはどこかな?」「青山墓地が写ってる。これが246で、この灯りが渋谷だ。西方面だよ。」と話しつつ、スゴイなあ、色々知ってるなあ… うー… ウトウト…
パタッと就寝。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●三谷幸喜監督の『THE有頂天ホテル』(2006年)
(好きな映画のジャンルは、コメディとラブロマンスで御座います。)
今回のコメディ、若干の詰め込み感があった。というのも、各キャラが立っているのはいいのだが、最初のキャスト紹介の時点で「うーむ…豪華すぎる…。」と感じてしまうくらいの粒ぞろいなので、あっちにもこっちにも注目してしまう。ごった煮感をウリにしているはずなので、そこにケチをつけるな、と言われればそれまでだが。
実は笑いに厳しい私(←出身地のせい?)。観客が笑うと条件反射のようにつられてしまうので、自分の本当のツボをハッキリと見定めるためにも、静かな場所で一人観た方がいいのかな、と思ったり。それでも、いやー、笑った笑った。
コメディは、もう難しいことを考えずに隣の人と一緒に腹を抱えて笑って、「お決まりの展開」にドキドキしたりホッとしたりしながら、ジャーン!とわかりやすい結末の後に「面白かったねー!」と言えればそれで良いと思う。
●2006年F1世界選手権第1戦バーレーンGP・決勝。
新予選システムというのがあって、予選の結果でスタート位置が決まるらしい。最前列に陣取るのは、王座復権を懸けて今シーズンに挑むフェラーリ勢だそうで、ミハエル・シューマッハ(←なんだかスゴイ人らしい!)の走りが見物らしい。
今季から新規参戦したというスーパーアグリ・ホンダ勢の鈴木亜久里代表の顔を覚えてみる。
●本日のコーディネート。
清純派を意識してプリーツスカートをチョイス。それだけだと子どもっぽいので、母のパール・ネックレスを合わせて脱・コンサバ。春らしさも忘れずに。真っ赤なバッグ(これも母の)を差し色に。
待ちに待った週末なので飛び起きる。「今日はデイトなの♪」と母に告げたら、「お母さんもデイトなの♪」と言い返される。たかがデートでこの浮かれよう。間違いなく親子だと確信。前日までハードワークをこなしていたマイ・ラヴァーから「待ち合わせ場所と時間は起きてから連絡します!」と言われたきり、連絡来ず。マイ・マザー’sダーリンは姿が見えない。お互い大変ね、と慰め合う母子。
待ち合わせは六本木駅。映画観る前に麻布〜六本木近辺を散歩しようね、と言っていたのに、マイ・ラヴァー寝坊のため、キャンセル。プンプン!(←さとう珠緒風に。) たまには強く言ってやるっぺ、はぁ、おりゃ黙ってられねえだけんが! と思わず方言まで(心の中で)飛び出しつつ待ちかまえていたのに、「スマン、スマン!」と走ってきたマイ・ラヴァーのさわやかスマイル(春の青空のようだ。)に誤魔化され、うやむやに!
さらに。
楽しみにしていた『ミュンヘン』は、なんと、前日で打ち切られており、急遽作戦変更。『THE有頂天ホテル』を観ることに。
次の回まで時間があるので、キャンセルになったはずの散歩が決行できることとなった(←怪我の功名?)。春陽気。青空。六本木ヒルズ。毛利庭園。ハチミツ入りのアイススターバックスラテ。こうしてるとフツウのカップルみたいだね、と、当たり前のことが妙にくすぐったい。「仕事以外で六ヒルに来たの初めてかも…。」と語る彼の"初めて"に同席できたこともくすぐったい。
テレビ朝日を迂回して、レジデンス×4を右手に、麻布十番方面へ。
港区は面白い。阿川佐●子が住んでいるという高級マンションの敷地では外国人の子どもが走り回っている(まるでマンションCMのような光景!)のに、そのすぐ裏手に戦前の木造家屋がぽつんと建ってたり。高級マンション、木造家屋、森タワー、灯籠、外国人大使館、寺。神にまつわる重要な施設は高台の岬に作られるらしい(byマイ・ラヴァー)。その隙間を縫うようにエイエイと開発されたこのエリアは、東京という街が意図せずに「東京」になった背景をそのままに残している、と思った。
その後、つつがなく映画鑑賞。
せっかくだから夕飯は麻布or六本木で、とプランニング。「このあたり(オサレなエリア)は詳しいの?」「そんなはずないだろ。」という話に心から納得し、じゃあどうしようかいな、と。六本木通りを延々歩いて、「このあたりなんだけどなー…たしか…」というカレー屋(またカレーかい!笑)を探しながら、「ねえ、六本木はどうして六本木って名前なの?」「えっ!?」「知ってそうじゃん。」「たしかに知ってそうだが…それは知らん。」「じゃあ秋葉原は?」「おお、あそこは昔、秋葉神社という神社があってだな、そこから秋葉原になったんだよ。」「ほら、知ってるじゃん!」などと話しつつ、結局タクシーで表参道方面へ。
表参道から少し外れた通りにあるうどん・そば屋にて。ネギぬた、胡麻ダレ豆腐、蟹餃子などをツマミにビールをぐいぐい→〆にうどん・そば、というスタイル。
私は気付いたことがある。蕎麦屋が好きだ。蕎麦も好きだが、蕎麦屋に共通する雰囲気が好きだと。居酒屋と違い、蕎麦屋は奥行きもあり空間を十分に使っている。が、一般的な洋風レストランとも違い、無駄に広い、という例が少ない。狭過ぎず、広過ぎず。そのバランスが絶妙なんだ。正方形(これは不思議と落ち着く)に近い店内で、「日本人で良かったねい!」と叫びたくなるような食べ物に囲まれて、私はとってもシアワセ。
帰宅後、F1・バーレーンGP観戦。
初めて観るF1。"ウィング"の角度で直線が得意かカーブが得意かが決まる、という話や、新チーム、スーパーアグリ・ホンダが参戦できたのは奇跡だ、という話を、ほほーん、と聞く。観戦後は、六本木ヒルズを題材にした写真集を眺めながらごろん。「写真って面白いよな。色々な情報が本当にたくさん詰まってる。」「たとえば?」「これは影が長いから夕方だ、とかね。」「こっちは?」「冬じゃないな。緑が多いから。」「これはどこかな?」「青山墓地が写ってる。これが246で、この灯りが渋谷だ。西方面だよ。」と話しつつ、スゴイなあ、色々知ってるなあ… うー… ウトウト…
パタッと就寝。
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備忘。
●三谷幸喜監督の『THE有頂天ホテル』(2006年)
(好きな映画のジャンルは、コメディとラブロマンスで御座います。)
今回のコメディ、若干の詰め込み感があった。というのも、各キャラが立っているのはいいのだが、最初のキャスト紹介の時点で「うーむ…豪華すぎる…。」と感じてしまうくらいの粒ぞろいなので、あっちにもこっちにも注目してしまう。ごった煮感をウリにしているはずなので、そこにケチをつけるな、と言われればそれまでだが。
実は笑いに厳しい私(←出身地のせい?)。観客が笑うと条件反射のようにつられてしまうので、自分の本当のツボをハッキリと見定めるためにも、静かな場所で一人観た方がいいのかな、と思ったり。それでも、いやー、笑った笑った。
コメディは、もう難しいことを考えずに隣の人と一緒に腹を抱えて笑って、「お決まりの展開」にドキドキしたりホッとしたりしながら、ジャーン!とわかりやすい結末の後に「面白かったねー!」と言えればそれで良いと思う。
●2006年F1世界選手権第1戦バーレーンGP・決勝。
新予選システムというのがあって、予選の結果でスタート位置が決まるらしい。最前列に陣取るのは、王座復権を懸けて今シーズンに挑むフェラーリ勢だそうで、ミハエル・シューマッハ(←なんだかスゴイ人らしい!)の走りが見物らしい。
今季から新規参戦したというスーパーアグリ・ホンダ勢の鈴木亜久里代表の顔を覚えてみる。
●本日のコーディネート。
清純派を意識してプリーツスカートをチョイス。それだけだと子どもっぽいので、母のパール・ネックレスを合わせて脱・コンサバ。春らしさも忘れずに。真っ赤なバッグ(これも母の)を差し色に。
バイト先に退職届を提出。
最終日の今日も相変わらず。「注文が違う!」とキレるOLに「申し訳ございません!」と平謝りしたり、ネチネチ嫌味を言うOLに「申し訳ございません!」と平謝りしたり、ムスッとした顔で「お手拭き。」とつぶやくOLに「申し訳ございません!」と平謝りしたり。ああはなりたくないわよね、と(心の中で)舌打ちしながら、とびきりのスマイルで「ありがとうございまぁす!」を連発。そんな日々も今日限り!
まさか、と思っていたが、たくさんの餞別を賜る。ブーケに、高級チョコレートに、アクセサリーに、ハンカチに、キャンディに、巾着に、ブランド物のミラーに、携帯ケース。たくさんの手紙。すべての贈りものにピンク色(しかも派手ピンク)が含まれていて、「なぜ?」と問うたら、私っぽい色ということで、全員が独自にイメージしていたそうだ。人に対する漠然としたイメージは案外かぶるものらしい。
緩む涙腺を酷使しながら、手紙を開く。
(以下、私を表現する言葉群↓)
思想的文学少女、いつも恋をしている、声が大きい、動作も大きい、激しい、実際の年齢と精神年齢の間に誤差がある、台風みたい、慌て者、向上心の塊、元気、etc…
なんだか仕事に関係無いことばかりだけど(笑)、わざわざ私のために時間を割いてくれたのかと思うと、後輩のすべてが愛おしくなる。嗚呼、叱りとばしてばかりでごめんよ、と、ぎゅっとしたくなる。一人一人ぎゅっとする代わりにメッセージを残して、靴を片付けて、名前の貼られた下駄箱を空にして、テプラーを剥がした。
店長から素敵なお言葉を。
「スタートダッシュが大事だよ。一番最初の頑張りが、その人の社会人としてのスタンダードになるんだ。最初に頑張れなかった人は、頑張った人より基準値がそもそも低く設定されるから、それ以降も挽回できない。そういうものなんだ。だから、人より良いスタートダッシュを切りなさい。」
了解、という旨を表情にも言葉にも表して、退勤。
私がこのバイトを通じて学んだこと。
コツコツやればどこかで必ず成果が出る。見ててくれる人もいる。
この世を動かすすべては自分と同じ人間だ。店員だってそうなんだ。
すべての作業には効率の良い方法がある。
最後が駄目なら全部駄目。
10思いついても10教えてはいけない。
先輩がわざわざ私にやらせるとき、そこには必ず意味がある。
できるようになればなるほど疲れも増す(楽になる日は来ない)。
大抵のミスは落ち着いていれば防げる。
すぐできることはすぐやるべし。
教えただけで満足するな。一人でできるようにするまでが「教える」だ。
言葉にすべてが集約されていると信じるな。言葉の裏の思いを探れ。
尊敬できる先輩を持つべし。
自分が安心するために喋ってはいけない。
足し算仕事は誰でもできる。引き算できなきゃプロじゃない。
I am ready now.
------------------------------------------------------------------
テレビに纏わるエトセトラ。
●ものすごく久々に『Mステ』を観る。KAT−TUNて、なんですか、アレ。眩しい!!若いオノコは最高だね。彼氏にはバック転とかしてほしいです。
●倖田來未が好きだ。あのアバズレ感!
●湘南乃風をもう少し気にしてみようと思う。
●それにしてもヒットチャートがわからない。
最終日の今日も相変わらず。「注文が違う!」とキレるOLに「申し訳ございません!」と平謝りしたり、ネチネチ嫌味を言うOLに「申し訳ございません!」と平謝りしたり、ムスッとした顔で「お手拭き。」とつぶやくOLに「申し訳ございません!」と平謝りしたり。ああはなりたくないわよね、と(心の中で)舌打ちしながら、とびきりのスマイルで「ありがとうございまぁす!」を連発。そんな日々も今日限り!
まさか、と思っていたが、たくさんの餞別を賜る。ブーケに、高級チョコレートに、アクセサリーに、ハンカチに、キャンディに、巾着に、ブランド物のミラーに、携帯ケース。たくさんの手紙。すべての贈りものにピンク色(しかも派手ピンク)が含まれていて、「なぜ?」と問うたら、私っぽい色ということで、全員が独自にイメージしていたそうだ。人に対する漠然としたイメージは案外かぶるものらしい。
緩む涙腺を酷使しながら、手紙を開く。
(以下、私を表現する言葉群↓)
思想的文学少女、いつも恋をしている、声が大きい、動作も大きい、激しい、実際の年齢と精神年齢の間に誤差がある、台風みたい、慌て者、向上心の塊、元気、etc…
なんだか仕事に関係無いことばかりだけど(笑)、わざわざ私のために時間を割いてくれたのかと思うと、後輩のすべてが愛おしくなる。嗚呼、叱りとばしてばかりでごめんよ、と、ぎゅっとしたくなる。一人一人ぎゅっとする代わりにメッセージを残して、靴を片付けて、名前の貼られた下駄箱を空にして、テプラーを剥がした。
店長から素敵なお言葉を。
「スタートダッシュが大事だよ。一番最初の頑張りが、その人の社会人としてのスタンダードになるんだ。最初に頑張れなかった人は、頑張った人より基準値がそもそも低く設定されるから、それ以降も挽回できない。そういうものなんだ。だから、人より良いスタートダッシュを切りなさい。」
了解、という旨を表情にも言葉にも表して、退勤。
私がこのバイトを通じて学んだこと。
コツコツやればどこかで必ず成果が出る。見ててくれる人もいる。
この世を動かすすべては自分と同じ人間だ。店員だってそうなんだ。
すべての作業には効率の良い方法がある。
最後が駄目なら全部駄目。
10思いついても10教えてはいけない。
先輩がわざわざ私にやらせるとき、そこには必ず意味がある。
できるようになればなるほど疲れも増す(楽になる日は来ない)。
大抵のミスは落ち着いていれば防げる。
すぐできることはすぐやるべし。
教えただけで満足するな。一人でできるようにするまでが「教える」だ。
言葉にすべてが集約されていると信じるな。言葉の裏の思いを探れ。
尊敬できる先輩を持つべし。
自分が安心するために喋ってはいけない。
足し算仕事は誰でもできる。引き算できなきゃプロじゃない。
I am ready now.
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テレビに纏わるエトセトラ。
●ものすごく久々に『Mステ』を観る。KAT−TUNて、なんですか、アレ。眩しい!!若いオノコは最高だね。彼氏にはバック転とかしてほしいです。
●倖田來未が好きだ。あのアバズレ感!
●湘南乃風をもう少し気にしてみようと思う。
●それにしてもヒットチャートがわからない。
ラストバイト二連勤・一日目。ふう。
明日も入っているとはいえ、今日を限りに会わなくなる人もチラホラ。「またお店に来てね。」と言われると、「うん、また来るよ。」と言ってしまう。もちろんいつでも立ち寄るつもりだが。二年間、「うん、また来るよ。」と言われたきり二度と会えなかった先輩や同期や後輩が何人いただろうか、とカウントしながらアイスコーヒーを飲む。
お店にいる間は何杯かドリンクを飲む。何を飲んでも構わない。働いてカラカラになった喉を潤したいから、私は、大抵、アイスコーヒーやアイスティーを飲む。砂糖もミルクも入れずに一気に飲む。働いた後は一日の反省をノートに記入する。朝一で働いているので、勤務が終わるととっとと帰る(眠いの)。一度も「飲み会」に参加しなかった。飲み会は(当たり前だが)夜に開催されるので、次の日の早朝シフトインを考えると気乗りしなかった私。後輩たちの目には「クールな人」と映っていたらしい。人には各コミュニティ用の顔があるものだ。
怒ったり、怒られたり、陰口を叩いたり(たまには、ね。たまには。)、叩かれたり(?)、必ずしもイイ人たちばかりだとは言えなかったけど、「今こそ別れ目」と思うと、全員イイ人たちだったような気がするから不思議だ。いつもと同じようにミルクをスチームして、いつもと同じようにコーヒーを注いで、すべてがいつもと同じなのに何かが違ってて、退勤間際になってようやく、このモヤモヤした感情が「寂しい」を表すものだとわかった。
四苦八苦のひとつに、『愛別離苦』(家族や愛する人と別れる苦しみ)というものがあるそうで。
そこまで親しくなかった人でも、二度と会えなくなる(たぶん。世の中、そういうものらしい。)と思うと寂しい、苦しい、せつない。私が心の底から辛い『愛別離苦』を知ったのは二十歳を過ぎてからだけど、本当に親しい人と別れるときの辛さはこんなもんじゃないんだよな、ということに半年ぶりに気付いてみた。死にたくなるほど別れが辛いということは、逆に、死にたくなるほど楽しくて幸せで忘れられない時間があった証拠で。
「今、幸せですか?」と問われたら迷うことなく「幸せです!」と答えられるような人生にしたい。そう思いながら常に努力しているが。念願叶って得た幸せな人生の末路にあるのは、幸せな時間を共に過ごした人たちとのどうしようもなく辛い別れなんだよなあ、と。ネガティブな意味でもポジティブな意味でもなく、ただ静かで動かし難いニュートラルな事実として。
出会うはずのなかった人と出会って幸せだと思っていたけど、その幸せがこれ以上膨らめば膨らむほど、どんな形で訪れるかわからない(本当にわからない。生き別れになるのか、死別するのか、すべての人たちとの関係が未知だ。)愛別離苦も大きくなるはずの私の人生だ。恐ろしいことに、どんな形であれ、確実にあと数百回の別れが未来にある。
そこんところをちゃんとわかった上で。
別れが辛いからといって、幸せを貪欲に味わうのを拒否するつもりはない。むしろ誰よりも辛い別れ、歓迎(っていう言い方も変だけど笑)。笑いながらそう言い切れるほどの覚悟が無いと幸せになる資格も得られないと思うし、生まれて初めての愛別離苦に教わったことでもある。
さぁて、明日もちょこまかと働こう。
------------------------------------------------------------------
その他、徒然なるままに。
●車庫入れの達人への道。
母と車で外出。レストランの駐車場、左右に車があっても無くても、なるべく一発を狙う。二発になると悔しい。もっと頻繁に駐車しないと駄目だ。というわけで、無駄にコンビニ等に駐まってみたり。誰かコツを教えて。
●プチ不満。
母(運転免許なし)とゴハンを食べに行くと、必ず私が運転しなきゃならないので困る。酒が飲めないじゃないか。(←父の苦労を垣間見た。)
●ニキビは気合いで治ることが判明。
●「バス・ピロー」(ホワイト、ハート型、プリティ。)なるものをゲット。早速使う。いいんだか悪いんだかよくわからないけど、楽と言われれば楽な気もする。
明日も入っているとはいえ、今日を限りに会わなくなる人もチラホラ。「またお店に来てね。」と言われると、「うん、また来るよ。」と言ってしまう。もちろんいつでも立ち寄るつもりだが。二年間、「うん、また来るよ。」と言われたきり二度と会えなかった先輩や同期や後輩が何人いただろうか、とカウントしながらアイスコーヒーを飲む。
お店にいる間は何杯かドリンクを飲む。何を飲んでも構わない。働いてカラカラになった喉を潤したいから、私は、大抵、アイスコーヒーやアイスティーを飲む。砂糖もミルクも入れずに一気に飲む。働いた後は一日の反省をノートに記入する。朝一で働いているので、勤務が終わるととっとと帰る(眠いの)。一度も「飲み会」に参加しなかった。飲み会は(当たり前だが)夜に開催されるので、次の日の早朝シフトインを考えると気乗りしなかった私。後輩たちの目には「クールな人」と映っていたらしい。人には各コミュニティ用の顔があるものだ。
怒ったり、怒られたり、陰口を叩いたり(たまには、ね。たまには。)、叩かれたり(?)、必ずしもイイ人たちばかりだとは言えなかったけど、「今こそ別れ目」と思うと、全員イイ人たちだったような気がするから不思議だ。いつもと同じようにミルクをスチームして、いつもと同じようにコーヒーを注いで、すべてがいつもと同じなのに何かが違ってて、退勤間際になってようやく、このモヤモヤした感情が「寂しい」を表すものだとわかった。
四苦八苦のひとつに、『愛別離苦』(家族や愛する人と別れる苦しみ)というものがあるそうで。
そこまで親しくなかった人でも、二度と会えなくなる(たぶん。世の中、そういうものらしい。)と思うと寂しい、苦しい、せつない。私が心の底から辛い『愛別離苦』を知ったのは二十歳を過ぎてからだけど、本当に親しい人と別れるときの辛さはこんなもんじゃないんだよな、ということに半年ぶりに気付いてみた。死にたくなるほど別れが辛いということは、逆に、死にたくなるほど楽しくて幸せで忘れられない時間があった証拠で。
「今、幸せですか?」と問われたら迷うことなく「幸せです!」と答えられるような人生にしたい。そう思いながら常に努力しているが。念願叶って得た幸せな人生の末路にあるのは、幸せな時間を共に過ごした人たちとのどうしようもなく辛い別れなんだよなあ、と。ネガティブな意味でもポジティブな意味でもなく、ただ静かで動かし難いニュートラルな事実として。
出会うはずのなかった人と出会って幸せだと思っていたけど、その幸せがこれ以上膨らめば膨らむほど、どんな形で訪れるかわからない(本当にわからない。生き別れになるのか、死別するのか、すべての人たちとの関係が未知だ。)愛別離苦も大きくなるはずの私の人生だ。恐ろしいことに、どんな形であれ、確実にあと数百回の別れが未来にある。
そこんところをちゃんとわかった上で。
別れが辛いからといって、幸せを貪欲に味わうのを拒否するつもりはない。むしろ誰よりも辛い別れ、歓迎(っていう言い方も変だけど笑)。笑いながらそう言い切れるほどの覚悟が無いと幸せになる資格も得られないと思うし、生まれて初めての愛別離苦に教わったことでもある。
さぁて、明日もちょこまかと働こう。
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その他、徒然なるままに。
●車庫入れの達人への道。
母と車で外出。レストランの駐車場、左右に車があっても無くても、なるべく一発を狙う。二発になると悔しい。もっと頻繁に駐車しないと駄目だ。というわけで、無駄にコンビニ等に駐まってみたり。誰かコツを教えて。
●プチ不満。
母(運転免許なし)とゴハンを食べに行くと、必ず私が運転しなきゃならないので困る。酒が飲めないじゃないか。(←父の苦労を垣間見た。)
●ニキビは気合いで治ることが判明。
●「バス・ピロー」(ホワイト、ハート型、プリティ。)なるものをゲット。早速使う。いいんだか悪いんだかよくわからないけど、楽と言われれば楽な気もする。
3月8日の結果と雑感
2006年3月8日会社主催の健康診断結果を受領。
こんなに詳細に結果が出る検査は初めてなので、不謹慎にも(?)ワクワク。結果は、問題無し。総合判定がA〜Fまであるようだけど、E(要・二次検査)とF(治療中)はともかく、B(軽度異常/日常生活に差し支え無し)やC(注意が必要)の割合はどんな感じなんだろう?それはそれとして、近所に張り出したいくらいの「健康優良児」っぷりに、自分でもビックリ(異常があると思っていたわけではないが)。
●身長・体重の正確な値を知る。
体重はともかく、身長はそう滅多に計れないので。大学に入学しても背が伸び続けていた私だけど、さすがに止まったようだ。太ってもいないし痩せてもいない、と思っていたけど、BMI(肥満度指数)が基準の下限ギリギリだ。私でこうなんだから、スーパーモデルというのはさぞ不健康なんだろう。
●初めての…
23年生きてきて初めて計ったけど、中性脂肪値とコレステロール値が妙に低い。晩酌癖があるわりに、肝機能も「優の中の優」という感じだし。そうか、これからも食べるし飲むゼ!ヨロシク!
●初めての…パート2。
血の気が多いとは思っていたけど、実際、そうみたいだ。
「わーい!」と喜んでいる場合ではないな。みんな社会に出てから具合が悪くなるんだろうし。
健康な現状を維持すべく、本日も自炊。料理教室で作ったっきりの「豆乳ワンタンスープ」を、家で初・披露。辛いものがNGの母にはラー油と胡椒が効きすぎていたようで、不評。記文の「調整豆乳」のせいかどうかはわからないけど、香料が強く感じられるのでイマイチ、とのこと。ガツンと言ってくれるのはいいが、「嗜好が合う」というのは一緒に暮らす上での重要なポイントだな、と心の中で文句を垂れながら片付け→入浴。
その他雑感。
●バイトも今週いっぱいだと思ったら、途端に気が楽になった。好きで続けていたつもりだったけど、目に見えないストレスは蓄積されていたようで。
●今春流行中のマリンテイストは、私的に「アリ」だ。
●来週以降、友達との約束が目白押し。
●どこが好きなんだろう?(←完全な独り言。)
●イタリアから出したはずの絵葉書が誰にも届いていないらしい。なんつー国だ。
こんなに詳細に結果が出る検査は初めてなので、不謹慎にも(?)ワクワク。結果は、問題無し。総合判定がA〜Fまであるようだけど、E(要・二次検査)とF(治療中)はともかく、B(軽度異常/日常生活に差し支え無し)やC(注意が必要)の割合はどんな感じなんだろう?それはそれとして、近所に張り出したいくらいの「健康優良児」っぷりに、自分でもビックリ(異常があると思っていたわけではないが)。
●身長・体重の正確な値を知る。
体重はともかく、身長はそう滅多に計れないので。大学に入学しても背が伸び続けていた私だけど、さすがに止まったようだ。太ってもいないし痩せてもいない、と思っていたけど、BMI(肥満度指数)が基準の下限ギリギリだ。私でこうなんだから、スーパーモデルというのはさぞ不健康なんだろう。
●初めての…
23年生きてきて初めて計ったけど、中性脂肪値とコレステロール値が妙に低い。晩酌癖があるわりに、肝機能も「優の中の優」という感じだし。そうか、これからも食べるし飲むゼ!ヨロシク!
●初めての…パート2。
血の気が多いとは思っていたけど、実際、そうみたいだ。
「わーい!」と喜んでいる場合ではないな。みんな社会に出てから具合が悪くなるんだろうし。
健康な現状を維持すべく、本日も自炊。料理教室で作ったっきりの「豆乳ワンタンスープ」を、家で初・披露。辛いものがNGの母にはラー油と胡椒が効きすぎていたようで、不評。記文の「調整豆乳」のせいかどうかはわからないけど、香料が強く感じられるのでイマイチ、とのこと。ガツンと言ってくれるのはいいが、「嗜好が合う」というのは一緒に暮らす上での重要なポイントだな、と心の中で文句を垂れながら片付け→入浴。
その他雑感。
●バイトも今週いっぱいだと思ったら、途端に気が楽になった。好きで続けていたつもりだったけど、目に見えないストレスは蓄積されていたようで。
●今春流行中のマリンテイストは、私的に「アリ」だ。
●来週以降、友達との約束が目白押し。
●どこが好きなんだろう?(←完全な独り言。)
●イタリアから出したはずの絵葉書が誰にも届いていないらしい。なんつー国だ。