イチコロサタデー(どっちが?)
私を祝福するように晴れた土曜日。

朝一で美容院へ。大好きな美容師さん(イケメン)に注文をつける。「りんちゃん、この後どっか行くの?」「久々のデイトなんです。」「どんな感じにしようか?」「テーマは可愛ボーイッシュです。」「了解。イチコロだね。」と、"マイ・ラヴァーイチコロ計画"に向けて始動。ショキショキ。

同時刻、私と同じように床屋に向かったらしき彼とケータイでやり取り。ニューヘアをお楽しみに、という内容を送ったら、「ニューヘア、ってなんか卑猥だね(笑)。」という返事。よくわからん人や、という所感を抱きながら、颯爽と出発。

午後五時、代々木のブックオフにて合流。

就職祝いに時計をプレゼントしてくれるという。盤が傷だらけ且つバンドが緩んだアニエス・べーを葬る日がついに来た。わーいわーいと新宿高島屋へ。一緒に何かを選ぶのは、誕生日のネックレス以来二回目。彼の趣味は付き合う前からなーんとなーく想像がついていたものの、こうして巡るとよくわかる。知的で、上品で、でも地味じゃない。ネックレスも、時計も、そして女も(笑)。

散々迷った末、セイコー・ルキアの定番タイプを。チーン(←レジの音)!「何度見てもイイネ!」「やっぱりそう思う?」と、自分たちのセンスに自分たちで感嘆するおバカップルは、ついでに高島屋近くのウニクロ、じゃなかった、ユニクロへ。「会社に着ていく服が無いんだよー(泣)」(←byマイ・ラヴァー)「ユニクロでいいの?」「ユニクロでいいよ。」シャツコーナーにてお買いあげ。チーン(←再び)!袋が二つになったカップルは最後に新宿タワーレコードへ。新宿は危険だ。ロフトに行けばジュンク堂、映画を観れば紀伊国屋、駅近くにはタワーレコード、と、「ちょっとだけ、ね?ちょっとだけ!」と連行される危険に満ちた街。サンボマスターの新譜(?)とその他何やかやをゲット。チーン(←三たび)!

その後、電車に乗って東京駅へ。…と、中央線車内にて事件発生。

「駆け込み乗車はおやめください。」というアナウンスが流れたそばから、駆け込む女性。挟まる、危ない! ガッと右手を伸ばして車内からドアをこじ開けるマイ・ラヴァー。ビックリして何もできなかった私とビックリしつつも動いた彼の間を、すまなそうな顔ですり抜ける女性×1。

思い出した。まだ付き合う前、「女の子はひとしみなに大切だ。」と語ってくれた彼(なんてことをここに書いたら「人にそんなことを言うんじゃない!」と言われそうだが)は、ただのフェミニストじゃなくて。男女の違いを認めることは差別でもなく、むしろ、本当は対等だからこそ相手の得意・不得意を察して支援することができるのでは? 力だけの戦士が必ず回復呪文を唱える魔導士を連れるようなもので、パーティ内で両者に差があるわけじゃない。かといって声高に男女平等を訴えるわけでもなく、潜在意識に近い部分で自身の(男としての)役割を認知し、自然に、咄嗟に、彼は手が出る。私がいざピンチに陥ったとき、「えーと…、こういうとき、男は女を助けるのかな?」と考えてこれみよがしな支援をするのではなく、彼は、自然に、咄嗟に、ドアをこじ開けるようにまた私を助けてくれるのかな、と。

恥ずかしい話は終わり。今日の夕食は、元バイト先の先輩が就職した丸ノ内の焼肉屋にて。

私がお店を手配するのは初めてのこと。「これ、僕からのサービス。」と、上物の肉を惜しみなく持ってきてくれる先輩に謝謝。ユッケ、青菜の胡麻サラダ、上フィレ肉などを堪能し、マンゴープリンで〆。

帰宅後。

「なんでトイレットペーパーホルダーの上にボールペンがあるの?」「そりゃあ…雑誌の大事な部分にアンダーライン引くためだよ。」「トイレでそこまで熟読しないでよ。」「熟読じゃなくても気軽にアンダーライン引くんだよ。」「トイレで気軽にアンダーライン!?」と、彼の話はツッコミどころが多くて困るが、このツッコミもまたしばらくできないと思えば何もかも貴重に思える。

早めに就寝。

前夜祭

2006年4月21日
前夜祭
朝からルンルンの金曜日(なんて単純な私)。

会社にて文書作成。こんなことを同期に言ったら「嫌な奴」と思われかねないので小声にしようと思うが、文章を書く作業は好きだ。なーんてこっそり思っていたら察されたのか、同期クンから「文章を上手に書くコツを教えて。」と教えを乞われる。「んなもんは私の方がむしろ教えて欲しいわああああああ!!」と叫びそうになりながら、理屈っぽさ全開で言いたい放題言う。

ひとつ言えることがある。

私はほぼ毎日のように日記を書いているが、これは良い。というのも、無意識に起承転結を考える癖が付くから。私は「こういう内容を書こう!」と決めてからPCに向かうことは滅多に無いが、必ず(自分の中で)「オチ」がつく。さらに、これはおそらく親しい人から受けた影響によるが、負のパワーで充ち満ちた内容の場合も、最後は前向きに〆るべく脳が動く。生まれつきポジティブシンキングというわけではなく、どんな事柄にも掬い上げるべき「マシな部分」はあるはずだ、と、そんな風に考える癖が付いた。

もうひとつ。

文章を上達させるコツがもしあるなら、書くことを好きになるのが良い。そのために、どれだけ「あちゃー!」な文章でも、きちんと読み、批評をし、ときには「イイネ!!」と褒めてくれる読み手を持つべきだ。そのような読み手を持たなければ、どんどん自身の内に籠もり「ああ…。私の文章ってなんて駄目なの…。」と落ちていく一方だ。さらに大事なのは、「書く→読んでもらう」という手続きが繰り返されシステム化されることだろう。あとは上達するだけ(たぶん)。

本日のお弁当は卵とハムのサンドイッチ。

出る杭は打たれると言うが、私はどちらかに分ければ「出る」方らしい。そうか、と思う。すっかり恒例になった帰宅ウォーキング中に思ったのは、私はやはりどうしても「静」か「動」かでいえば「動」が好きなんだよなあ、ということ。

今秋24歳になるが、24年間、ギアがニュートラルにシフトしたことがあまり無い。常にドライブ。常に前傾姿勢。努力家と言えば聞こえは良いが、暑苦しいのもまた事実。そんな私が「出る」ために必要なエネルギーは一体どこから来るのだろう、と。

食欲も睡眠欲もその他の欲も、平均値より高い自信がある(←いばるな。)私が「出る」ために必要なエネルギーを蓄えるには、より多くの食べ物、より多くの睡眠、より多くの恋愛とか何やかやが必要なのか。「おいしー!」「ねむーい!」「好きー!」と叫びがちな私はプリミティヴな感情に支配された原始人ではないかと悩んだことがあったけど、そうじゃないな、と。

「静」か「動」かでいえば、やや「静」が珍重される日本という国(に見えるのだが、気のせい?)に生まれ、周りの「静」寄りの人々に憧れ、徐々にそちらにシフトしていくことが目標だった。ような気がする。が、原色が好き、ロックが好き、ダンスミュージックが好き、好きになったら自分からアタック、迷ったらとりあえずつついてみる、というどう考えても「動」を愛す自分が確かにここに存在するなら、それを如何に運用するかを考えても良いような。「動」は「動」として、「動」にできる何かを。

ま、二十歳を過ぎてすこーし諦めの気持ちが出てきたというか。でもそれは、きっと、必ずしも悪いことじゃない。はず。

そんなことよりも、本日特記すべきは「あすが休日」という事実!うっふふふ。



ワンダフルな週末まで〜〜〜…



カーーーーウントダウンッッッ!!!(←はしゃいでます。)

謹啓 兄さま姉さま

2006年4月20日
昨夜の日記の内容が恥ずかしくて業務に支障をきたした木曜日。

「最近の若いモンはそんなことも知らないのか!?」と頭を掻きむしりたくなっているに違いない上司を気の毒に思い、休憩中も健闘。同期クンを捕まえてネクタイの結び方を習う。「まずはだな、こっちを長くして、こっちを短くするわけだ。」「どっちを長く?」「右だね。」「ほうほう。」「巻く回数は人それぞれだけど、ここでぐるぐると巻く。」「ほうほう。で?」「先っちょを下からくぐらせて…」「くぐらせて…?」「さっき巻いたところに差し込む。」「おおっ!(でも一人でできるかわからない!)」

個人情報保護法施行後、ビジネスの現場では何かと面倒が発生しているらしい。上司の説明をフムフムと聞く。

たとえば、顧客の勤務先を聞いたとして。そうか、こんなところにお勤めなのね、と。かつて私は、名のある大学がなんだ、学歴がなんだ、と偏差値に固められた教育に背を向けようとした。そんな私を後押しするように、「人間の価値は学歴なんかじゃ決まらない。」と、体裁だけは素晴らしいことを言う大人がいた。しかし、私たちは思う。ああ、こんなところにお勤めなのね、と。

まだ「働く」ということがリアルじゃなかった頃、友達の彼氏が某大手広告代理店に勤めていると聞き、おおー、と思ったものだ。合コンをやると聞けばすかさず「職種は?」と確認する女の知り合いを「みっともない」と思いつつ、医者のタマゴ、もしくは弁護士のタマゴと聞けば、「行きたい、かも…。」と一瞬でも思ったものだ。

(みっともないのは女だけじゃない。たとえばキャビンアテンダントとの合コンだったらどうか。たとえば看護師との合コンだったらどうか。花形的肩書きを持っていた大学時代、私の所属を言うだけで「会いたい。」と言い出す見知らぬ男性はよくいたものだ。)

いわゆる三高と呼ばれる男性獲得を目指して躍起になる女性を、私は「みっともない」と思う。今でも思う。ただ、「みっともない」と思うべく仕込まれた私は、結果的に自身の望む方向に(今のところ)落ち着いたものの、それはやはり結果論でしかなく。どういうことかというと、「人間の価値は学歴や収入じゃ決まらない。」と語る大人たちの教育は結果的に私にこういう結果をもたらしたものの、それは世を生き抜くために必要な知恵を生むに必要十分じゃなかった、ということ。

大人たちが、やれゆとり教育だ、やれ個性だ、と、何も知らない私たちの周りで声高に叫びつつ何かを必死に隠していたことを、今頃知る。彼らは、あくまで理想論にとどまる「机上の空論」を未来に仕込みながら、何を思っていただろう。

これこそ理想論と言われても構わないが、世を生き抜くに本当に必要な力を育むために、"何も足さない、何も引かない"ニュートラルな「事実」のみを教えてはいけないの? 「事実」を知らせた上で(プラスアルファとして)理想を語ることは否定しない。臭い物に蓋をし続けた世界で育ち、いざ臭い物を「さあ、見ろ!受け入れろ!」と顕わにされた私たち新卒は、今日も戸惑う。

素敵なステータスをお持ちの方々が鼻にかけるのは結構なこと。「みっともない」と否定するだけの学生が夢の世界で生きる甘ったれだとするなら、本当はみっともないと思っていることを内に秘め、むしろそれを逆手にとって結果的に出し抜くくらいの覚悟を得ていくのが勤め人? その過程は、きっと私たち(新卒)を蝕む。が、30歳を過ぎて、世間の荒波に揉まれ、それでも小娘の私にほんの少しの理想を分けてくれる年上の友人たちに私は何かを習おう。

敬白

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雑感等。

●体重増加。
なんと半月で3?も。可及的速やかに対策を練るべし→試行、じゃなくて、施行。わああああああああああああ!!!!!

(仕事と思えば美容関連にも力が入るらしい。)

●「あしあと機能」の便利さに今さら気付く。

●どんな職場にも尊敬できる人はいるものだ。

飽和

2006年4月19日
昨日の日記の「危ない人っぷり」に驚いた水曜日。

「自分、ガンバレー」「エイエイオー」という一人芝居を、まさかの同期に発見される→赤面。休憩中のお供は携帯電話と文庫本(読んでないけど)。それにしても、「あっ、メール来てる♪」と、ウキウキしながら開いた瞬間の迷惑メールほど迷惑なものはない。まさに迷惑メール。死刑を求刑する。

就業後、電車で本を読む余裕さえ無いまま帰宅。

本が読めない。私より確実に忙しい人たちが一体どうやって読書の時間を作っているのか、本当に不思議だ。そもそも、「読む」より「書く」方が好き、というあたりに問題があるような。そう、私は読むより書きたい。

私がなぜ日記を書くかといえば、書いてみるまで自分が何を思っているのかわからないから。書いてみて、初めてわかる。「ああ、自分はこんなことを考えてたのか。」と思う。何にせよ、そういった"気付き"のみが目的なら、日記は日記のままでいいはず。というのも、私は、最近、この「日記」という形式にどうしようもない限界を感じるのだ。

りんという匿名の人物が綴るこの内容は、まさに、りんの身に実際に起こった日々の記録(この場合、「日記には事実のみを書く」という前提が必要だが)。当たり前だが、楽しいことばかり起こるわけじゃない。そして、あまり人に話すべきではない(と思われる)負の内容でさえ、「日記」の中では、いつだってりんのものになってしまう。さらに、胸が震えてどうしようもなくなる瞬間の記録は、意図せずとも官能的表現にならざるを得ない。それは恥ずかしいこと? たぶん、恥ずかしいこと。

これは持論だが。

私たちが詩をこっぱかずかしいと思う由縁は、そのスタイルが「詩」であり「日記」じゃないから。詩人は、詩にしたくなるような熱い想いの中から熱さだけを抽出して、具体性を省く。具体性を省かれた想いはますます解放されて、たぶん、爆発する(こっぱずかしくなる)。具体性を省くとは、誰の感情かわからなくすること。その詩人が書いた詩なんだからその詩人のものだろう、という明らかに黒に近い真偽のほども、「詩」というスタイルなら決して黒にならない。グレーのまま。事件は起こった。犯人はいない。

これも持論だが。

なぜ「愛の詩(あいのうた)」が生まれたのか。愛する人に伝えることが目的なら、直接、手紙を書けばいい。自分の気持ちを整理することが目的なら、ただ日記を書けばいい。世界で最初に愛を唄った詩人は、そのどちらもしたかった。ただ、きっと、その想いが熱すぎて、ダイレクトに本人に伝えるにはさすがに恥ずかしくためらわれ、かといって「日記」には収まらない。伝えたい。伝えたくない。だから、具体性を省き、熱い部分のみを言の葉にする。その想いは匿名だ。が、本人には伝わる。

というわけで、マイ持論において、「愛の詩」に贈り手がいないことは原則的にありえない。「愛の詩」は唄い手のものであり、唄い手が愛する人のもの。かつて私は、恥ずかしい愛の言葉を口にしてくれる(可能なら詩にしてくれる)言語野が発達したキザな男性が現れないものかと切に願った。自分がしたいことを相手に求めてただけだな、とようやく気付いた。恋に恋する少女は「してほしい」しか言えない時期を終え、自分から動くことを覚え、そろそろ(既に?)少女じゃなくなるような。

ここで最初の話に戻るが、私は、最近、「日記」という形式にどうしようもない限界を感じる。



やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君(与謝野晶子)

やすやすと 制度に従ふししむらをしぐれに打たせ 他人のごとし(島田修二)
自分に自分で渇を入れまくる火曜日。

帰宅途中、我が町の夜景がとても美しかったので、ケータイで撮影。ベストのアングルを探そうと、膝をついてみたり歩道橋から身を乗り出してみたり、すっかり自分の世界へ入り込んでいたら、「ちょっと、ちょっと!何してるんですか!?」とお巡りさんから職務質問を受けそうになった。怪しい者ではございません。

今朝方、夢を見た。

私は夢を見やすい体質だ(起きてるときも夢見がちだという説があるが、それはまた別の話)。ほぼ毎晩、夢を見る。設定がおかしいときもあれば、真実味があったりもする。なんにせよ、私は、夢の中では「これは夢だ。」と気付かない。そして、架空の人物が登場することは滅多に無い。どれだけ幸せな夢でも、どれだけ悲しい夢でも、起きてしばらくすると忘れてしまう。

私は考えた。

私が「これは現実だ。」と思いこんでいるこの世界でさえ、現実だと証明する術が無い。夢を見ているときに「これは夢だ。」と気付かないように、現実を生きながら「夢じゃない。」と証明できない。そう考えると、夢の世界も、この世界も、本質的には何も変わらないような。

価値観を確かめ合ううちに「この人は他人と思えない。」と思う瞬間がある。そういう人とは、きっと、この世に生まれる以前に、一度(もしくは数回)出会ったことがあるのだろうと、そんな風に考えたことがある。最近になって思う。私とそういう人は同一人物じゃないか、と。生まれる前の自分の姿を、私は現世で見ている。同じように私を愛しいと思う人は、自分の来世の姿を私に見ている。どちらが現世でどちらが過去世か、それは大した問題じゃない。要は、自分がハッキリと線を引いている「前世/現世/来世」と「夢/現実」の境界は仮定でしかなく、実際は、もっと複雑に入り組んでるのではないか、と。

今朝方、幸せな夢を見た。

好きな人の写真を枕の下に入れるとその人が夢に出てくるというが、もっと21世紀らしいやり方はないか。そんなものはない。だから、私は、自分が「現実」と思いこんでいるこの世界と、愛しい人といつでも会える「夢」の境界を、なんとか意識的に無くそうと、目を瞑る。日常の雑多なすべては現実色を失い、夢にありがちな都合の良さは色を増す。そして、「過去」と「未来」の境界さえ無くなればいいのに、と。私が理解できる範囲よりさらに大きな宇宙の枠組みが、自分の計り知れないところで今日も世界を動かす。その動きを人間が感知できないとは言え、「愛しい」と思う瞬間、私は、境界に囚われない。愛しい気持ちはセンサーだ。

「現実」の出来事(主に嫌な事件)に注目しそうになると、私はハッとする。私が「現実」だと思いこんで(だからこそ、なんとかしなきゃと思う。現実はひとつしかないから)、あたふたと対処するそのひとつひとつが、本当は「夢」かもしれない。そして、私が幸せを感じられる「夢」でさえ、本当は「現実」かもしれない。そう信じることはとても楽しく、救われる気持ちがする。


思ひつつ 寝ればや人の みえつらん 夢と知りせば 覚めざらましを
エンジン全開の月曜日(でもすぐにガス欠)。

学生気分はもはや完全に消え去ったが、社会人という気もしない。私は何? それでも上司の厳しい指導のおかげか、たとえば、バスが普通に到着しても「あら、バスがいらっしゃったわ。」と言っちゃったり、母に電話しても「ご機嫌いかが?」と言っちゃったり、これが職業病になったら嫌だなあ…という予感を抱きつつ、本日もゴリゴリと働く。

休憩中。

「りんちゃんの彼氏、どんな人?」「えっ!?」「教えてよ。何してる人?」「うーん…働く人…かな。」「当たり前じゃん!」「あと、カレーを食べる人。」「全然わからん。」「じゃあ、○○ちゃんの彼氏はどんな人?」「うーん…走る人。」「そっちの方がわからんわ!!」と、同期との会話はとても楽しい。

就業後、帰宅ルートを変更し、最寄り以外の駅で下車。

なぜか歩いてみたくなった。春と言えど、夜は冷える。が、起きて会社に行って帰宅して就寝、という味気ない繰り返しの隙間に、何かひとつ、こういう時間を挟まないと健やかでいられない気がして。人がほとんど通らない我が町の一角で、バッグを提げたまま、くるくると回りたくなった。くるくるくるくるくるくるる。

途中、「親父、酒。」と渋〜い声で注文したくなりそうな居酒屋を発見!

こっそり中を盗み見たところ(←大分怪しかったかと)、カウンター席ざっと8。4人用のお座敷×2。奥は見えないけど、やや広めの宴会スペース×1か。広すぎず狭すぎず、丁度良い。客層チェック。女が一人でも十分イケる。メイクはバッチリ、スーツは皺無し、そんな姿を男に見せつけるわけでもなく、ただ背筋を伸ばして冷や(「冷やを一杯頂戴します。」とか言ってみたい。)をやる…カコイイ!! 起きて会社に行って帰宅して就寝、という味気ない繰り返しの隙間に差し挟むべきは、こういう店での晩酌じゃないか?

というのも、最近、お弁当と家での夕食が美味しくてたまらないから。

食以外に楽しみが無いから? それだけじゃない。一日中働いて、それが週に5日間、年間で365ー108日間続く。ゲッソリ。が、この感覚を私は知ってる。学校に行く以外に選択肢が無かった小学生時代、闇雲に遊んでちょこっと勉強して、おうちに帰ると温かいゴハンがあった。給食が嬉しかった(給食を食べに行っていた、といっても過言じゃない)。あの頃、私は健やかだった。

一日中働いて家族の待つ家に帰る。美味しいゴハンと、ぽかぽかお風呂(←「まんが日本昔話」のED調で)。作業中はちょっぴり辛いけど、一所懸命に何かをするから、その後の楽しみも倍になる。ダラダラと無駄に(していたのは私だけど)与えられた時間を過ごすより、ほんのちょびっと、たった数時間の自由時間に何かできることが嬉しくて、充実してて、たまに少し切なくて、でもその切なさこそがスパイスのような。

実は、昔、牛乳が得意じゃなかった。が、中学生になって顔色ひとつ変えず飲めるようになった。同じように、友達や彼氏と一緒じゃないと行けなかった居酒屋で、牛乳じゃない液体を、ひとり、じっくり味わいながら飲むようになる日が来るのかなあ。

心地よい疲労とともに帰宅。

りん流フリーダム

2006年4月16日
雨が降ったらどんよりday。

研修疲れが出たのか、起きたら正午。ワンちゃん柄のパジャマ(←誰にも見せられない)、林家ぺー状態の頭、寝相が悪いらしく半分落ちた掛け布団。23歳・OLの裏の姿は所詮こんなもの。

帰省中の父と、母と、三人で食卓を囲む。

チョコチップの入ったドーナツと、コーヒーと、(なぜか)マクドのポテト。素晴らしい取り合わせだね、マイ・マザー。親子三人、NHK喉自慢を聞くともなしに聞きながら、一週間のトピックを。「仕事は辛い?」「まだ研修中だからね。」「そうか。がんばれ。」「うん。ところで、健康保険の扶養を外してね。」「なんで?」「なんでじゃないよ、扶養家族じゃなくなるんでしょ?」「だって、今日とか、まだ扶養してるよ。」と、いちいち人の揚げ足ばかり取る我が両親。

ゴハンの後は、一週間分の洗濯物にアイロンをかけたり、メールチェックをしたり。気のせいかもしれないが、学生の頃(ほぼずっと家にいた頃)よりすべての作業がはかどるような。

綺麗になった部屋で足を伸ばして、ちょっぴりお仕事も。

電話帳ほどの厚さがある情報誌をくまなくチェック。ほうほう、最近のトレンドはそうなのね、と、ニ週間分の研修ノートと照らし合わせつつ。少子化・高齢化と叫ばれてはいるが、こんなに需要があるのかこの業界は。近々行う(らしい)「偵察」に向けて、下準備。

お仕事(?)しながら考えたこと。

「自分らしさ」という言葉がキーワードらしい。かつてパックだったプランはどんどん簡略化し、基本はそのままに、自分なりのカスタマイズが為される。それは、きっと、私の所属する業界に限ったことじゃない。

6歳年上のSねーさんは、かつて、言った。

あたしは不自由への決心がつかない、と。恋や愛もまた、いくつかの選択肢の一つ。彼女は恋だけに生きてない。恋愛以外に楽しみや幸せがたくさんあって精神的に安定している人。既成や常識に囚われない自由な人。そして、色々なことに欲張りな人。 自分のペースで生きたい人。その時やりたいことをやりたい人。Sねーさんを筆頭に、日本は、今、そのような方々で溢れている。少子化、晩婚化の原因はまさにここにある。

結局は自分の価値観でどうするか。他人が介入できることではないと思うから好きにすればいい、とねーさんは言う(こんなことを言ったら私に怒られそうだと補足しながら)。無責任なようだけど、皆があまりにも規範や常識に囚われて自分の想いを大切にしないから、日本は変になるのだと。全部、自分で決めていい。でも、他人に迷惑はかけない。これがすべての基本だと、制服の無い学校で育ったねーさんは言う。

制服のある学校で育った私はこう思う。

自分らしくなくていい。そして、限定された自由が愛しい。「これを着なさい。」と決められた制服(たしかにあまり可愛くなかったが)を嫌と思ったことはなく、むしろ、本当にfreeな状態が怖い。不自由な人こそ自由への欲求は高まると語るねーさんは、私を、「あなたはきっと不自由じゃないのね。」と分析する。

限定された自由を愛する私は、何も、すべてを誰かに委ねるわけじゃない。「自分らしくあれ!」と思って育ったわけじゃない。それでも、私がこうして書く文章も、日々の想いも、愛しい気持ちも、すべて、どうひっくり返っても私の「オリジナル」だ。流されながら生きたつもりが、我思う、故に我有り。思い続ける限り、私はここにいる。私は他人じゃない。それがわかれば十分だ。私の前にはねーさんほどの無数の選択肢が無いとしても、たとえば二つしか選べないなら、どちらを選んでも選んだなりの「何か」があるはずで、その中で楽しいこと、嬉しいこと、面白いことを探せばいい。

夜は、中学〜高校時代の友人宅へ。

卒業旅行のおみやげを(今さら)渡しながら、近況報告を。腹がよじれるほど笑ったり、笑われたり、そんなことをしているうちに一週間分の毒素がすっかり抜けたような清々しい気分になり、明日は、また月曜。
貴女は春風とともに
大阪からSさん来訪。

12月に知り合ったばかりのSさん。奇縁とはまさにこのことだ。春になってますます人が増えた新宿駅南口改札で、「まあ!」「ああ!」「お久しぶり!」「いやぁ!」と再会を喜び合う合間にも、話したいことがどんどん溢れ出す。ようこそ、東京へ。

早速お気に入りのカフェにご案内。天井が高く、ケーキが美味しいお店。まさかとも思っていなかったおみやげ(オリジンズのマッサージジェル。仕事で疲れたときにどうぞ、とのこと。)をいただき、感激。

その後、徹夜明けのマイ・ラヴァーが会社を一瞬抜け出し、合流。私、マイ・ラヴァー、Sさん、Oさん(本日欠席)で遊んだのはもう四ヶ月も前のこと。私とマイ・ラヴァーの心の友(と勝手に思わせていただいている)Oさんのよもやま話を、Sさんから詳細に聞く。「俺たち、直接会ってないのに、お互いの彼女からお互いの話をいつも聞いている…。」と語るマイ・ラヴァー。ああ、まさに21世紀。

あまりゆっくりできないらしいSさんを連れ、少しでも東京案内を。新宿→代々木方面に抜け、原宿の真横に広がる明治神宮へ。

神宮外苑、新宿御苑、明治神宮が二等辺三角形を形作るこのあたりは、都内でも有数の商業地区のはず。喧噪で溢れる若者の街と閑静かつ神聖な空間のコントラストが不思議。「マイナスイオンやわぁ!」と楽しそうに歩くSさんを、年下の私が「可愛い」と思うのはナマイキか。せっかくだし、と、神楽殿でお参りを。二礼、二拍手、一拝。「いつも曖昧なお願いごとをしてしまうんです…。」「曖昧じゃ駄目なんですか?」「曖昧だと後回しにされます!」「な、なるほど…。」と、ただのお参りさえ楽しい。

明治神宮→代々木公園を通り過ぎ、代々木体育館方面へ。

浮き足だったような街の空気と四月の日差しの中、露天でたこ焼きを買う。あーん、パクッ。はにかみながら笑うSさん。スーツ姿のマイ・ラヴァー。緑の匂い。楽しそうに行き交う人々。そして、たこ焼き。

唐突だが、私は、とても幸福だ。字画を考慮して付けられたらしいSさんの名前の話を聞いて思ったのは、同じように名付けられた私が幸せなのも、自分の努力のおかげじゃないような。神聖な土地に神聖な(目に見えない)理由があるように、感知できない何かがあちこちを流れているこの世界で、そういった(目に見えない)何かに形式上でも「お伺い」を立てること、それはとても大事なことかもしれない。たとえば私という人間が23年前に生まれて(目に見える)世界に僅かでも波紋を広げるなら、生誕後、死ぬまで音波として世界に発される私の名前が及ぼす影響もきっとある。少しでも良い結果をもたらすようにとの願いが込められた私の名前が、今の私のこの幸せに結びついているのかも、と考えるのは大袈裟か? 思わず大袈裟になるほどに、昨日も、今日も、たぶん明日も私は幸福だ。

渋谷まで歩いて山手線に乗り、再び新宿に向かうSさんと別れを惜しみながら別離。

これからもう一度会社に向かうマイ・ラヴァーとバイバイかと思いきや、予想外の夕飯をご一緒に(「別れるの、嫌!」と顔に書いてあったのか…?)。信濃町のカレー屋にて、タイ風ココナッツカレー(大根入り)を初めて食す。

辛いもの(主にカレー)を食べる度に顔から滝のように汗を流すマイ・ラヴァーを見ていると、「食べるって、シ・ア・ワ・セ♪」と私は思う。辛くてもパッと見は平静を保つ私を前に彼が同じように思っているかどうか不安だが、汗の代わりに別の何かが顔に出ているはずの私のことは私だけ(?)が知っている。



Sさん、また遊びましょう。

終業パレード

2006年4月14日
空の歯磨き粉を、くぬっ、くぬっ、と絞り出すように働く金曜日。

朝から晩まで顔を突き合わせている同期は、もはや、家族よりも恋人よりも友達よりも近しい。もはよう、おまいら。就業中にプシュ〜〜〜とガス欠を起こした私を「りん、がんばって!今日は金曜だからね!」と励ましたり、「お弁当、足りた?私のあげようか?」と気遣ったり、皆(同期)大変そうだ。誠に有り難い。

研修資料を眺めながら、一瞬、アッチの世界へ飛ぶ。

接客業に携わる誰もが一度は思う。どうしたら"感じの良い人"になれるだろう、と。同時に、"感じの悪い人"にも敏感になる。無論、私もだ。"感じの悪い人"を見るにつけ、自分はそうなるまいと気を付けるし、自分が"感じ悪い人"だとはこれっぽっちも思っていなかった。

たとえば、私がどこかのお店に行ったとして。店員さんが妙に不機嫌そうだったら、「まあ、感じの悪い人。」と思うだろう。その人には(大抵の場合)二度と会うことはないし、一生、"感じの悪い人"とインプットされたままだ。が、その人は、たまたまその日に限り面白くないことがあっただけかもしれない。「通常モード」は人当たりの良い朗らかな人で、その日はたまたまそうなれなかった。

この定義を私は自分に適用していた。つまり、自分は、基本、"感じの良い人"で、そうじゃない日もたまにはあるよ。でも、大まかに言えば感じが良いよ、と。そして、私の周りの人もそれはわかっているに違いない、と。前回書いた「学生は甘い」をもう一度使うなら、私は甘かった。

頭でわかっていても感情が追いつかない。

と、人はときに言う。私もよく聞く。聞く度に、「あーわかるー。」と思うし、言う。二週間前に入社して色々と考えた私は、今日、こう思い直した。頭でわかっていても感情が追いつかないなら、「頭でわかっていても」を枕詞のようにつけるべきじゃない。単に、「感情が追いつかない」。度量の狭い自分を擁護すべきじゃない。

そして、「今日はイレギュラーなの、普段は感じが良いの!」と主張したところで何になろう。「通常モード」がそもそも感じ悪い人なんて、そうそういないのでは? 私が判断できるレベルの"感じの悪さ"とは、「通常モード」がどうのではなく、(誰もが目を瞑って欲しいと願う)一瞬のエントロピーを放出している状態ではないか。

そして、もし、どうしても感じを良くしておきたい人が私にも貴方にもいるのなら、(誰もが目を瞑って欲しいと願う)一瞬にさえ、むしろその一瞬にこそ、魂を込めるべきだろう。大袈裟な書き方をしたが、魂を持ち出すほどの覚悟が要るからこそ、人は人を愛すことができるし、"本質を欠いた愛"が流布して「愛」という言葉だけが一人歩きしているのも、多くの人にこの覚悟が足りないせいではないか。

と、業務に全然関係ない方面にひとしきり飛んだところで、終業。

私は自分に厳しくありたい。「むむむ…。」と思うことがあっても、相手に100%非があるのか、と立ち止まる(つもり)。そして自分にも多少責任があるなら、と考えているうちに世の中に何も言えなくなり、ストレスが蓄積されていく。たとえば誰かを責めたいとき、無心で「あんたはさあ…!」と罵ることができたらどんなに楽だろう、と。自分に厳しくあれと育てられたし、そうありたい。そんな私の考え方を好きだと言ってくれた人がいて大分救われたが、常に世の事象とガチンコでぶつかる羽目になり疲弊する。嫌ではない。自分が望んで選んだ道だ。

今後、社会人として、そんなとき(疲弊したとき)どうすればよいかを考えた。そして、良い方法が見つかった。

エントロピーを排出したら人に見つかる。だから、何も無いかのごとく、水面上は優雅な白鳥のごとく日中は過ごそう。そして、誰に忠義立てする必要も無い場所で、ひとり、「よしよし、そうだよね、辛かったね、悲しかったね、えらかったね。」と、自分を自分でイイコイイコして、エントロピーを思う存分放出しよう。

海の見える駅のホームで、ひとり、イイコイイコしながら「今日は金曜(明日は休日)じゃん!」と、目に見えないグラスで乾杯&行進を。金曜日はパレードだ。
本日もお勤めday(←当たり前だが)。

研修も中盤。そろそろ実技が増えてきた。「こ、これを私たち(素人)がやるのか!?」と叫びたくなる作業内容に泡を吹きそうになる。家庭科は苦手じゃないけど、得意じゃない。それにしても、「女としてできた方が良いこと」を習得する機会が妙に多い。こうして働くうちに素敵なレディになれるかしら、ふっふっふ。…と同期に話したら、「肝っ玉母さんになるだけじゃない?」と言われ、衝撃。

帰宅後、非常に不愉快な「議論」をオン・ラインで展開。

「アルバイト」と「社員」の違いについて考えている。私が親しくしているおねえさんは、アルバイトも社員も変わらないと言う。やっていることは同じだから。そして、「社員だから頑張る、というのはナンセンスだ。」と彼女は言う。その逆も然り、と。

私は言った。

アルバイトと社員はやはり違うと思う。業務(やってること)は、ねーさんの言う通りあまり変わらない気がするけど、「働いたら働いた分だけくれる時給」ではなく、「賃金と労働が(事実上)釣り合ってない月給」を貰う社員では、何かが違うと私は思う。会社がアルバイトに求めるのは「等価交換」で表される何かだが、社員はある種の損をしてでも(下手したら一生)身を預けることにより、会社から実は莫大な投資をされている。「社員」は会社の資産になる。「アルバイト」は一時的な契約だ。

ねーさんは言った。

実は会社はアルバイトにも同じことを求めていた、と。そう感じられないのが学生の甘えだと。接客業に社員とアルバイトの区別をするなら、全員社員にするだろう、と。そうじゃなきゃリスクが大きすぎる、と。アルバイト時代にそれに気付いていなかったアナタ(私のこと)は「甘すぎる学生」で、学校に通わなくなってこれからわかることがあるだろう、と。

私は思う(言ってはいない)。

もし、会社がアルバイトと社員に同じものを求めているなら、待遇の違いを認めるはずがない。アルバイトに求めるものが社員以下だから、アルバイトへの待遇も社員以下だ。ボーナス(おつかれさま、という思い)は無い。年金も払わない。そして、一時的にいてもらえればそれで良いと思っているからこそ、辞めた後の面倒は見ない(退職金は無い)。待遇の違いを認めつつ貢献だけは社員並に? それこそナンセンスだと私は思う。

ひとつ補足がある。バイトで雇われている側が社員と同じ「意識」を持つこと、これは認められてしかるべき。そうあるべきだろう。実際、そう思わないと業務が回らない。「バイトに最大限求めること」を、社員とはまた違った形で精一杯果たしていた自負がある。同時に、アルバイトには「どうせバイトだもん。」というぬぐい去れない気持ちもあった。ねーさんはそれを良しとしないが、私が雇う側なら「それで良い」と思うだろう。それを覚悟で雇うだろう。

もうひとつ。

「だから学生は甘い。」と言われても、返す言葉が無い。学生は甘い。甘いのだ。甘いお菓子を食べて「これは甘いですね。」と言うことにどんな意味があるだろう。たとえば、既に学生じゃない私が学生のような真似をしたら、「甘い。」と罵られて当然だ。それは、求められる水準より下回っているということ。本質的に甘い学生に対して「だから学生は…」と思うとき、水準以上の何かを求めていることはないか。学生は学生として最高水準を維持すべく努力すべきで、そうでない学生(最大限の努力をしてない学生)があまりにも多いことがそもそもの問題とはいえ、過剰な期待をしてその通りのことが返ってくることなど滅多に無いような。

最後に。

自分が経験を積んで「何かを学んだ」と思うこと。それはかまわない。しかし「学んだこと」を人に(上からの目線で)語るとき、その人は「もう学びきった」とでも思っているのか。そう切り返したら、「そんなはずはない。」と言うだろう。そんなはずがないなら、さも正しいことのように語るべきじゃない。どこかに隙を作るべき。「たぶん、これが正しいと思うんだけどね…。」という謙虚な姿勢こそ、「学び続ける人」の持ち得るべきものじゃないかな。と、私は思うんだけどね…。

入社して早10日。

取るに足らないことがどうしようもなく気になる。それなりにストレスが溜まっているということか。

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その他雑感。

●満員電車の向き・不向き。
「日本の悪伝統」とも言われる満員電車だが、私はそれほど苦痛じゃない。挟まれているとむしろ安定する気がするのは、気のせいだろうか。

●思い出し○○。
「思い出し笑い」はともかく、「思い出し怒り」と「思い出し恥ずかし」だけはどうにかしてほしい、自分。

(↑前にも書いたっけ?)。

●ライスと餃子(のみ)を胃からはみ出るほど食べたい。

琴線クエイク

2006年4月11日
週末に蓄えたパワーを早くも使い切った火曜日。

これは毎朝のことだが、目覚めた瞬間、自分が会社に行くべきことを思い出すまでに少々時間がかかる。仕事をしていることが異常事態で、また来月からあの生活(学生時代)に戻るんじゃないか、と夢の中(潜在意識)で考えているような。

さてさて、本日も、お弁当を持って出発。お弁当くらいしか楽しみが無い。

先週は「社会人として知っておくべきこと」が中心だったけど、今週からはいよいよ専門的な領域に突入する。午前中から夜まで「あれも、これも」と知識を詰め込まれ、飽和状態に達す。もう食べられません。幸いなのは、扱う専門用語がほぼ100%自分の好きなもので占められているということか。それを差し引いても、自分の実現可能なことじゃないのにやたら知識ばかり増えていって、初彼氏とあんなことやこんなことをする以前の"耳年増"な自分を思い出すような気分で、なんとも居心地が悪い。

さてさて、本日のトピック。

昔、『のび太の結婚前夜』というドラえもんの映画を見た事があるが、のび太とドラえもんが結婚式前日のしずかちゃんの家を訪ねたシーンがあり、今でも覚えている。しずかちゃんのパパはとても人間のできた人で、マリッジブルーに悩むしずかちゃんにこう言う。「のび太君を選んだ、君の選択は正しかったと思うよ。あの青年は人の不幸を悲しみ、人の幸せを願える人だ。それが人間にとって一番大切なことなんだからね。」と。

自分のことを無感動な人間とはこれっぽっちも思っていない。が、大勢が一斉に感動している場面でひとり冷静だったり、というタイミングが、23年間しばしばあった。部活の皆が一斉に泣き出すシーンで、ひとり、泣けない自分を持て余していたような。誰でも多かれ少なかれそうだということは大きくなってから知ったが、私の胸の琴線が震えてどうしようもなくなるようなことは何だろう、そしてそれはあるのかな、と。人の幸せを素直に喜ぶことができるのび太のような人は漫画の中の聖人で、そのように純粋無垢にあるべきことは不可能じゃないかと悩んだりした。

ところで、私は嬉しいメールを受信すると、たとえ電車の中だろうが、歩いているときだろうが、PCの前だろうが(まったく無意識に)顔がニヤけてしまう。病気だと思っていた。が、それこそが私の「琴線ポイント」なのかな、と。

今日、知った。たまにひどく冷静で無感動な私が思わず(本当に思わず)微笑んでしまうシーンは、ここにある。100%自分には関係ない人の喜び事を前に、私は、自分に送られたメールを読むときのように口角が上がり、目が綻ぶ。

私がどうして恋をするかといえば、両親の作ったこの家が好きだったから。とても幸せで、満ち足りていて、人生において何が一番大切かを教わり過ぎてしまったかもしれない。情熱的で活発な(ように見えるらしい)私の中には、たまに人に「エッ!?」と驚かれるほどに温度の低い部分が存在し、「生きる上で必要なこと」と「そうでないこと」の間にはマリアナ海溝くらい深い溝があったような。「これが人生に必要なことよ。」と母も父も言ったことは無いが、50になるというのに父にキスしようとする母や、イイ歳して「○○ちゃん♪」と母を呼ぶ父は、ふたつの背中であまりに多くのことを私に教えた。目を瞑ると、物欲は消え去る。目を瞑っても聞こえたのは、父と母のお互いを愛情たっぷりに呼び合う声と、愛情が派生して生まれた私を慈しむ声だった。

私は、世間と自分の価値観を摺り合わせるようになり、自分にとって「必要でないこと」だからといって無下に非難しなくなった。私が「これこそが必要なことだ」と信じるあることさえ、瞬間的にMAXに達していつかは下降しかねないものということも、そろそろわかってきた。

が、私は、やはり、瞬間的にMAXに達して「人生に必要なこと」を貪欲に味わおうとする人を見るにつけ、心の琴線がプルプルプルと震えてたまらない気持ちになる。それが自分とは縁もゆかりも無い人であれ、だ。

嗚呼、ライフ・イズ・ビューティフル。

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その他雑感。

●自由時間があまりに少ない。その分、すべての作業(お風呂に入ったりetc…)が早くなった。

●今後、体型維持とお肌の手入れ等は「仕事」のひとつらしい。マジすか。

●如何に本を読む時間を作るかが当面の課題だ。あと、お弁当のバリエーション。

切り替えMONDAY

2006年4月10日
合同研修合宿を終え、自宅から初・出勤。

始業が遅いので、余裕しゃくしゃくで起床。…のはずが、うっかり二度寝。そうよ、今日は会社なのよ。残り物の白飯にしそひじきを混ぜて、卵焼きを焼いて、冷凍の唐揚げをチンしたものの、お弁当箱に詰める時間が無い!母さん、頼む!半生のトーストにハムを乗せてうぐうぐと飲み込みながら、着替えて、メイクして(念入りにしないといかんのだこれが)、印鑑やら年金手帳やらをバッグに詰めて、あわわわわと出勤。そういえば、入社式の日も走ったな。

研修は、本日も滞り無く。

最初は(おそらく)末端に配属される私たち新卒だが、末端の業務を教わる合間に聞く話も興味深い。

アルバイトをしていた私は「会社の利益からお給料を貰っている」と聞かされても、いまいちピンとこなかった。会社の財布はすなわち自分の財布、という意識を、今後、骨の髄まで浸透させないと、常に費用対効果を考え続けることは不可能だ。そして、私は営業職ではないしPR部門でもない(た、たぶんな)。それにしても押さえておかなきゃいけないことはたくさんあって、たとえば、純粋広告を見開き2ページで雑誌に載せるといくらになる? 何百万だ。だからどーしたと言われるとそれまでだけど、もし費用対効果を常に考えようとすれば経済に精通している必要があるし、末端だからといって自社がどんな広告をどこに打っているのか知らないとは言えない。

私が就職活動をしていた頃、「どの業界の、どの職種か」ということは、最重要項目だった。自分がどこに向いてるのかさっぱりわからなかったし、それを見極めなければ、と思っていた。

んが。

今日、幹部の話を聞いているうちに思ったのは、それは大して重要でもなかったな、ということか。

私がどんな職種に就こうが(極端に特殊なものは除く)、求められる能力はほとんど同じ。たとえば、私は、男女問わずお店を出るときに一言「どうも。」と言える人が好きだが、様々なケースを聞くと「そんな感じの悪い人がいるっぺか!?」とひっくり返りそうになる取引先やお客がいる。"感じの悪い人にはなるな"と直接教わった記憶は失われているが、たぶん、両親のどちらか(もしくは両方)が教えてくれたからできることがある。そして、両親を中心に周りの大人が20ウン年かけて教えてくれた基礎的なコミュニケーション能力(という言葉はあまり好きじゃないけど)がもっとも必要らしい。耳にタコができるほど聞かされていたことだが、ひしひしと感じる。

さらに。

少々話はズレるが、最近の私は都内の地図を買って暇があれば眺めたり、また、実際に歩いたりしている。都内には、靖国通り、明治通り、山手通り、外苑東通りなど、たくさんの通りがあるが、私がそれらの通りの名を意識するのは、同じエリア内(たとえば新宿)で建物を探すときのみだった。池袋近辺(豊島区)でタクシーを拾い、山手通りに沿って走っているうちに、いつの間にか渋谷区に突入する。当たり前のことだが、街は点在しておらず、必ずどこかで繋がっている。私にとって池袋と渋谷は完全に分断された空間で、それらが点在している認識だった。

同じように、世の中には、営業職、事務職、販売職、などたくさんの専門職があるが、それら垣根を越えて社会で何かを果たしたいと思えば、学ぶべきことの大元はきっと変わらない。アナタとはやってることが違うから、と線を引くのもいいが、これからは、自分と違う職種の誰かともっとたくさんの話をしたい。そして、その人たちと自分の間に、太い公道ができればいいと思う。その通りに沿って色々なものが行き交えばいいと思う。

と、まあ、色々書いたけど。

本日最大のトピックは、BOSCHの美脚パンツ(New)が座ると股に食い込んで辛かった、ということか。

(あら、ちょっとはしたない。)

Tomorrow will know

2006年4月9日
10時半に目覚めたのに、13時15分起床。(なぜだ?)

外はピーカン。「今日も会社に行かなきゃ…。」と語るマイ・ラヴァーと、新聞&雑誌&洗濯物の山の狭間で化粧をする私。「我ながら、この部屋の状態はかなりMAXだな…。」「たしかに。自分でも嫌なんだ?」「そりゃ、嫌だよ。」「でも片づける時間が無いでしょ?」「そうなんだよ。」「家政婦さんが必要ね。」「あー…。」「一ヶ月につき二万円だったら雇う?」「高いな。」「そう?」「そんなに出すならもっと広い部屋に住む!」という会話の合間にも彼はすぐ寝るので、注意が必要。

目覚まし代わりにミスチル(ベスト盤)をかけながら。

「やっぱり…ミスチルだよね。」と意味不明の感想を言ったり、曲に合わせて(寝癖を揺らしながら)ハミングしたり、「りんはどの曲が好き?」と言われたり。迷った挙げ句、「シーソーゲーム〜勇敢な恋の歌〜」&「口笛」をリクエスト。彼が好きだという「つよがり」「名もなき詩」などを、一人では絶対にできない体勢で聴く。

永遠の名曲「Tomorrow never knows」を聴きながら。

彼が最近読んだ本によると、「妄想と想像は異なる」そうで。妄想とは、記号的なもの。想像とは、具体的なもの。そして、強い想像力だけが現実を変成する力を持っている。強い想像力を持っていれば、100%想像した通りの未来が訪れる、ということじゃない。そうじゃなくて、強い想像力を持った人はあまりに多くのディテールを深く具体的に想像する習慣があるせいで、訪れるどんな未来のうちにも必ず「想像した通り」の断片を発見してしまう、ということだ。「私の理想はトイレの『置き本』に永井荷風の『断腸亭日乗』とオルコットの『若草物語』を並べて置いてある人」という想像を(うっかり)してしまった人は、たまたま訪れた男性の家のトイレに入ったとき、「もはや逃れることのできぬ宿命の手につかまれた」ような気分になる、と。

今日、思い出した。

後付けではなく、私は、部屋が本で埋め尽くされていて、ミスチルとスピッツが好きで、お酒が好きで、ちょっと年上で、美味しいお店にやたら詳しくて、○○業界の人で、○○大学を出ていて、文系で、オシャレには無頓着で、雑学豊富で、ギターが弾けて、私の小難しい話にも付き合ってくれて、黒髪で、グラビアアイドルが好きで、という人を、たしかに一度はリアルに想像していた。「強い想像力を備えた人は構造的に幸福な人だ。」と、本にある。私は幸福か? 幸福だ。明日(未来)は決して覗けないけど、明日(未来)を想像することはできる。Tomorrow never knows.

スプリングコートさえ脱ぎたくなる気候の中、マンションを出て、坂道をゆく。

途中で蒸したてのお饅頭を買う。半分こしてハフハフ食べながら、日曜日の幸福な空気を貪欲に味わおうと、深呼吸。「りんは強い想像力の持ち主だ。」という彼の言葉がとても嬉しい。ちょっぴりせつない歌詞が含まれる「つよがり」と「名もなき詩」に対し、幸福感と幸せな未来への希望に満ちる歌詞ばかりでできた「シーソーゲーム〜勇敢な恋の歌〜」と「口笛」を私がリクエストしたのも、ずっと今のままでいたいなあ、という想像力によるものでは、ということに彼が気付いたかどうかは謎。


さあ 手を繋いで 僕らの現在が途切れない様に
その香り その身体 その全てで僕は生き返る
夢を摘むんで帰る畦道 立ち止まったまま
そしてどんな場面も二人なら笑えますように

(Mr.Children・『口笛』より。)

2006年4月8日
麗
マイ・ラヴァーとディナー@銀座。

今週も休日出勤の彼と、夕刻、銀座四丁目交差点・和光前で待ち合わせ。銀座は好きだ。空気の抜けが良いとでも言えばいいのか、ごちゃごちゃしているにも関わらず、池袋や新宿のような「淀み」が無い。「お、なんだかOLっぽいね。」というお言葉を貰った服と読みかけの小説(江國香織)を小道具にして、和光のウィンドウの前にすっくと立つ私は、一枚の絵になりそうだ(←自分で言っちゃった)。

リザーブしてもらったのは、備長炭を用いた欧州風炭火焼きとワインのお店。

コの字カウンター席の一番奥に座って、ビール → 私は白ワイン/彼は赤ワイン → 二人で赤ワイン。契約農園直送の有機無農薬野菜を使ったテリーヌ・トマトのコンポート添えや、徹底飼育管理されたらしい鴨肉の炭火焼き、お皿が大きい割に「これだけ!?」と叫びたくなるような生ハム入りミネストローネをいただく。ストライプのシャツを着てワイングラス片手に「こういう食事もいいよね。」なんて言っちゃう彼に、ほんのりロハスの匂いを感じた。と言ったらきっと怒るだろう。

樽の匂いが感じられるスパイシーな赤ワイン(2001年物)をちびちびやりつつ、「理論的とはなんぞや?」という話を。

「ロマンチックなことを言うようだけど…」という前置きの後、彼はかく語りき。月にアポロ13号が打ち上げられた頃、多くの人はテレビの前でそれを見守った。が、本当の科学者とは、テレビを離れて家を出て自分の目で月を見る人だ、と。さらにもうひとつ。彼の思う「ただ理屈っぽい人」は、天体図を見てばかりで(配置や星の名前は完璧に頭に入っていても)実際に夜空を見ようとしていない、と。ロマンチック過ぎるだろうか? 私はそうは思わない。

私が社会人になるに伴い、「いいですか、社会人はこうですから…」と語り出す人がいたが、「困ったことがあったら言いな。」とのみ言ったある人は、実際に夜空を見て「あれは何座だろう…。わからん。」と悩みながら、理論的に「A=B」と語ってそれで終わらせることを拒んでいるような。天体図に書かれた理論は正しくても、夜空は毎日変わる。状況は常に変わる。私たちは、正しい(と思える)理論を意識しつつも、常にその場の状況で理論を割ってしかるべき。私が個人的に細木数子に違和感を覚えるのは、彼女は1の事象を、自らの信じる1でしか割ってないから。答えは1。当たり前のこと。私の隣でワインを飲む人は、くるくると猫の目のように変わる事象(ときに1以下)を、仕方なく自分の信じる1で割るしかなくて、割り切れない余りの数の前でいつも立ち止まるのかな。

食後、「まだ咲いているかな。」という期待とともに市ヶ谷下車 → 外堀通りを夜桜散歩。

ぽつぽつ葉が混じるけど、まだ綺麗だ。「この前ね、ウマイこと言うなあ、と思った広告があったの。」「どんな広告?」「日本人はお正月より桜の咲く頃に一年を感じる、って。」「あ、それ、俺も見た!なるほど、って思った。」「一年経ったんだねえ。」「なあ。」「去年、桜を見てたときは就職活動中だったよ。」「そうだよね。」「すっごく昔に思えるよ。」と話しつつ、外堀通りに架かる橋を渡る。このあたりは一口坂と言うそうな。

帰宅後。

異動に伴い取引先から花を貰ったらしいマイ・ラヴァー。(私の見る限り)過去最高レベルの散らかりに達した部屋の中に、貰ったままの状態で置かれたブーケ。「花瓶にはまだ生けてないけど、毎日ちゃんと水をかけてるよ。」「コイツが来てから、この部屋に生き物が自分とコイツで、ああ、二人なんだ、って思えるよ。」「なっ、花子。」と花に話しかける彼と協力して、"花子"のための花瓶(爽健美茶のペットボトル使用)を作成。

A flower is beautiful.

A man who talks with flowers is beautiful.

あすは休日

2006年4月7日
合同研修合宿、最終日。

人数が少ないためか、すっかり意気投合した同期チーム。驚いたのは、顔の造型に何らかの支障をきたした方が一人もいらっしゃらないことか。半端無いプレッシャーを感じつつも、化粧品の借りっこをしたり、「そうなのよね、男って…」というアナタ何様的トークを繰り広げたり、「仕事、もう嫌。結婚しちゃいたい。」と早速(ほんと早速だな)半べそをかき合ったり。

それでも、「あ、この会社を選んだのは間違いじゃなかったな。」と(今はだけど)思えたことは大きな収穫か。

研修はこれからも続くし、配属先も未定だ。それはそれとして。たとえば「お給料が高い、家から近い、残業が無い」などの判断基準をほとんど用いずに就職活動をしちゃった私だけど、一番大切な(と自分では思っている)部分だけは妥協しなかった。毎日扱うソフト(商品、サービスなど)を、まず自分が好き・売りたい・広めたいと思えなければ辛すぎる。たとえ底辺で「好き」と思えても、仕事は仕事、きっと辛いことはある。でも、今後、どれだけ辛いことがあっても、今日「この仕事を選んで良かった」と思ったことだけは忘れずにいたい。

さらに。

私は自分のことだけを考えて緊張して就職活動をしたけど、会社側も同じように緊張していたようだ。人事担当には責任がある。こっちが真剣なように、向こうも真剣だった。会社の利益になる人物育成を、という"社会人"としての損得勘定を飛び越えて、ただ私たちを「可愛い。育ててあげたい。」と思った"人間"としての感情、それらを感じられたことが嬉しい。そして、自分のことだけを考えて就職活動をした私を少し忘れて、会社のためとは言わずとも、もう少し「他者」を視野に入れて働きたい。と思った。

全国に散る仲間と、最後の晩餐会。「プシッ」と栓を開けてビールを飲む。


ぷはあーーーっ!!!


酒をマズイと思わなくなって久しいけど、スーツを脱いで、パンプスを脱いで、さらに緊張すら脱いで飲むビールがこれほど美味しいとは、先月までの私にわかるだろうか。大人が週末にはしゃぐのも、毎日のように酒を飲むのも、インド人がカレーを好むのと同じ位に自然なことだ。お酒は二十歳になってから。お酒は仕事を終えてから。

そして、何より、あすは休日。

休日という響きがこれほど甘美に響くなんて、数年来無かった。休日とは、キュウジツで、ホリデーで、休めるということで、幸せなことで、毎年少ししか収穫できない貴重な農産物のさらに一番上等な部分のように、「勿体ない、勿体ない。」と味わうべきものでは? 矢井田瞳に変身して「Darlin’, Darlin’〜♪」と歌い出したい気分だ(実際、歌った)。



素敵な言葉だ。

「あすは休日」。

4月5日の研修雑感

2006年4月5日
研修雑感、諸々。

●心と体。
どうにも頭でっかちな私は、勉強(学校の勉強を除く笑)がそれほど嫌いじゃない。また、道具から入る傾向があるので、何かを始める前に念入りに準備するタイプ。

知識として「社会人たるもの、挨拶はきちんと。」とわかっていても、実際にできるかといえばそうでもない。団体で行動する際は周りを窺っているうちに挨拶の機会を失い、あとで後悔&反省。「知っている」と「できる」は違う。そして、体を使って(ときに)痛みを覚えなければ、知識は血肉にならない。らしい。


●優等生になるべし。
先生の言うことをよく聞く子は「ゴマスリ」と罵られたものだが、当時、大袈裟と思われた「ハイッ!」という返事や、「聞いています。」という笑顔の相づちが、実は大袈裟でもなんでもないことが判明。今ならわかるのに。いざ私が子ども(学生含む)を育てたら、「返事はきちんとしなさいね。」と言うだろうが、たぶん、子どもはわからない。きっと、こうして世代は交替していく。


●深夜のバカトーク(ハートマーク付)。
私が恋バナをこよなく愛することは皆様よーくご存知かと思うが、さすが、○○業界、所属する女のコは、まるでRPGの初期装備のごとく「恋バナ好き」という性質を備えている。

ゆえに、連日、恋のから騒ぎ(さんま欠席)。


●こんな職場じゃ夢を見ない方が不自然だ。


●「研修」が「下見」になっている新卒生大量発生。


●投資とバック。
マナー研修を経て、自分が、「社会人」というよりむしろ「レディ」になっていくのを感じる。ビジネスの現場で求められる姿が「あるべき社会人」だとするなら、そうなることを望む会社側が私たちに与えてくれるものは、たぶん、それだけじゃない。「あるべき社会人」になるに伴いオマケのようについてくるのは、「あるべきレディ」の姿。

だからこそ、「会社に所属する(お給料を頂く)」とは、本当に大変なことだ。なぜなら、会社はリスク(私たちがいつ辞めるかもしれない、という)を背負いながら、うまく育つかどうかまったく未定の私たちに莫大な投資をしている。


●第一印象エトセトラ。
「お兄さんか弟がいそう。」「絶対、O型!」「年上の彼氏がいそう。」「土台がしっかりしてそう。」「仕草が不思議。」「大胆。」


●どうやらホームシックに陥りやすい体質らしい。
Wake Me Up Before You Go-Go!
入社式。

余裕を持って起床。おろしたてのスーツ(春色)に袖を通して、ストッキングを履いて、お化粧も念入りに。胸元にはネックレス。すぐに錆び付くシルバーではなく、上質なゴールドやプラチナをさらりと身につけられるようになるのはいつだろう、と思っていたけど、「私には早いよ。」と思われたダイヤが、今日の私を祝福するかのごとく、スーツに馴染んだ(←気のせい?)。

母に「がんばるのよ〜!」と見送られながら、OL・りん、出陣!

ゲキドーの就職活動を経て今日を迎えたので、どうにも感慨深い。この私がOLに? 信じられない。信じても信じなくても電車は進む。昨夜、ある人に「間違えて俺の住む駅で降りちゃ駄目だよ。」と言われて「そんなことあるわけないでしょ。」と答えていたのに、いったい何を考えていたのか、先月まで通っていた大学方面の電車に乗ってしまう。ひょえーこっちじゃないよーと気付いて引き返すも、さらに強風で電車が止まり、しょっぱなから遅刻、というサイアクな状況を、まさにギリギリのラインでかわす。スーツのねーさん、猛ダッシュ。どうにも暗澹たる気配漂う初日である。

滞りなく式は終了し、研修合宿一日目スタート。上司の案内で会社関連の施設見学へ。

建築は奥が深い。たとえば、フランス人が京都の街並みに感銘を受けて、日本風の寺院を本国に造ったとして、1200年の歴史を持つ京都の「趣」まで表現できるだろうか。それと同じで、私たちが欧風の「なんだかわからんけどハイカラ!」という雰囲気に感動して材質やら様式やらを輸入しても、「趣」まではくっついてこないのでは? 「瓦屋根は和風だ。」とか「畳があれば和風だ。」という発想をひとつの点とするなら、点と点を最短で結んだところに「趣」は無いような。ひとつひとつの点は結ばれていなくても、離れて見ればなんとなく秩序が見いだせる、たとえるなら土星の輪のような、そういう「厳密な計算に基づくようで実は偶然の産物」が「趣」の正体ではないかな、などと考えながらメモをとる。

さらに。

自分がどのような業界に向いているのか、今より真剣に(ときに深刻に)考えていた当時はわからなかったことが、今日、改めてスッと納得できた。研修そのものはそこそこ過酷だが、仮に研修自体をハードとするなら、この業界のソフト(内容)が、私は、無条件に好きだ。嬉しい、楽しい、大好き! と、自分の中の血が騒ぐ。言語化できない(血で考えた)思いが脳で言葉に変換されて、私をこの業界に導いたのかな。そして、その言語化できない思いは、こうしてリアルに対象(ソフト)に触れてみるまでわからないものかもしれない。

それはそれとして。

「返事はどうしたの!?」「ちゃんと挨拶しなさい!」などと新卒一同お尻を叩かれながら、ひょえー、アタイ学生に戻りたい、涙が出ちゃう、だって女の子だもん、と考える暇もあまり与えられないうちに、一日目終了 → カンヅメされるホテルへ。これからやっていけるのかしらん、という不安に震える胸の音を聞きながら就寝。

がんばれ、自分。

四月の化学式

2006年4月1日
10時に目覚ましをセットしたものの、13時半起床。(なぜだ?)

最近の懸案事項として「眠がる人を如何に起床させるか」というものがある。一度覚醒したからといって油断は禁物だ。何しろ、敵は二度寝(三度寝でも可)のプロ。まさかこんな体勢で寝るはずがない、と思っていると、スー、スー、と寝息を立て始めて、「ええぇっ!?」と驚く羽目になる。お疲れなのね、と思い、「寝ていいよ。」と言おうものなら、「あのとき寝ていいって言われたから寝ちゃった。」と言われる始末。敵は手強い。

小洒落た店でランチコースでも食べようと思っていたものの、かなり苦しい状況。ランチは二時までという店がほとんどで、このままだとカレーになるな、と予想しつつ、とりあえず歩いてみて決めよう、という作戦。

結局、近所の洋食屋にて、ビーフシチュー、グリーンサラダ、アイス・カフェオレを堪能。delicious。

ふと、付き合う前のことを思い出す。

本当は小洒落たことが好きにも関わらずそれらに反発心を抱いてた私は、自分のキャラクターを勝手に方向付けていたような。彼にも同じような匂いを感じ、それがきっかけで惹かれたような。秋の始まりは冬の終わりに似ている。冬の完全な終わりを感じさせる今日の陽気は、私に、あの秋の日を思い出させる。まったく可笑しい話だが、日比谷公園で茶ぁしながら「世の中には見えないラインがあるよね。」「わかります。"あっち側"の人とは友達になれませんよね。」「失礼ながら、りんさんは"こっち側"だよね。」「○○さんも"こっち側"だと思います。」「ただ、"こっち側"はモテないんだよなあ。」「そうですね。失礼ですが、さぞモテなかったろうな、と想像されます。」「そう、だから、見た瞬間にコイツは"こっち側"だ、と思われるのもマズイんだ。」「ああ、それもわかります!」「で、"あっち側"はイタ飯とか食べてるんだよね。」「あははは!"こっち側"は、居酒屋でいいよ、ってノリですもんね!」と意気投合した記憶がある。

小洒落ただけの店より本当に美味しい肴を出す汚い店の方が好き、その点はお互いに今も変わらないけど、"こっち側"同士が付き合い始めて以来、「イタ飯もいいよね。」などと言い出す彼は、少し、変わった気がする。「変わったね。」と伝えたら、「そんなことないよ…。」と答えながら顔を曇らせるかもしれないけど、私は気付いた。彼より未熟な私は、彼と出会って変わっていく自分のことで精一杯だった。穏やかながらどこかに尖った部分を秘めていた彼のことは付き合う前からよく知っていたけど、その尖った部分に共感した私が変わっていくように、彼ももしかしたら変わっていくのかな、と。ただの水素原子同士が、ひとつのOを共有して、「水」という物質になるように。

こんなことを思っても本人に面と向かって言えない私は、うっかり口を滑らせることがある。「言葉」に人並みならぬ価値を見出していた私だけど、最近、「言葉」の無い世界へ行きたい、と思うことがある。水素が結合するときに「言葉」は要らない。「言葉」があるからこその幸せも多く貰った気がするけど、最近は、「言葉」の無い世界がふと見えるときの私の中をもっと見て欲しい、同じようにその世界を漂いたい、と思ったりする。

(にも関わらず、結局、今日もこうして「言葉」を使う。)

桜が満開の本日。

おなかの具合が芳しくない人に「桜を見に行こう!」と誘うのはさすがに憚られ、休日なのに会社に向かう彼と握手してバイバイ。せめて桜の写メールでも送ってあげようと思い、外堀通りの桜を撮影 → あゆを聴きながら帰宅。

ひらひらひらひら 花びら散るように
ゆらゆら揺れる心誇り高くあれと

(浜崎あゆみ・「Will」より。)

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備忘と雑感。

●ノートを購入。
入社したら、毎日、電車の中で反省を書こう。

●アロマキャンドル×1を購入。
"オレンジソーダ"と書いてあったからワクワクしながら点火したのに、さっぱり匂わない。責任者は誰ですか?

●綺麗にしてください、という会社からのプレッシャーがのしかかる。。。

●エテュセのコンシーラー(ライトベージュ、¥2,000)を初購入。良い。

●今年最後の鍋(たぶん)を食べる。

●ついに。
研修合宿に入るので、更新、滞ります。
そこそこ有意義な週末。

先週買ってもらったばかりの粉ふるい器を使い、朝からケーキなぞ焼く。

バターと砂糖をハンドミキサーですり混ぜて(ここで空気をたっぷり含ませるのが、ふんわり焼きあげるコツ)、卵を少しずつ加えて、ココナッツパウダー、ベーキングパウダー、薄力粉、牛乳、刻んだパイナップルをadd。ウィスキーを少々加えてアダルティなお味に。生地を型に流し込んだら、缶詰のパイナップルをon。上下火で50分。焼き上がったら、熱したアプリコットジャムを上面に塗ってツヤを出す。「パイナップルケーキ」完成!

カットしたケーキと愛を鞄に詰めて、夕刻、出発。

元バイト先のコらが集まる送別会へ、一瞬、顔を出す。まさか来るはずないと思われていた人(私のこと)が現れたせいか、一同ざわめく。「さよなら」くらいはきちんとね。せっかくだから一曲だけ、と、数年ぶりにマイクを持ち、覚えたばかりの今時ソングを披露。本当の十八番は大黒摩季と相川七瀬だけど、いかんせん、どちらも古すぎる。

その後、新宿西口に溜まる酔っぱらいの絡みをかわしながら、仕事飲みを済ませたマイ・ラヴァーと合流。人でごった返す新宿駅はいつものことだけど、送別会シーズンと桜の影響でいつにもまして混むようだ。

春なのに冷えるねえ、と話しながら、夜桜を見る暇も無く帰宅。

玄関にて。メイン傘以外に置かれた女物チックの傘について、弁明が。「前にも一本女物っぽいのがあったでしょ?あれはもらい物で、今度のこれが加わって二本になっちゃったけど、別にそういうんじゃないからね。」「そうか、私は三人目か。」と、まったく気にしてないのにいちいち説明する人が可笑しい。

コーヒーをすすりながらスポーツニュースを見る。「ウッチー辞めちゃうんだね。」「みたいだね。」「ウッチーの服不思議だね。」「ほんと不思議だね。」「ねえ、"宇宙間"って何?」「ライトとセンターの間ってことだよ。」「そうなんだ。」「"宇宙"じゃなくて"右中"だからね。」「あ、そっか。」「ところで、この前、私服着てたら、浪人生かと思った、って言われたよ。」「あはははは!わかる!!」「俺は現役で大学入ってるんだけどなあ。」「でも浪人生顔だよね。」「あと、白衣着てたら、助手っぽい、って言われた。」「あはははは!助手なんだ、博士じゃないんだ!?」「この髪型のせいかな?」「そうかもね。なんしか、わかる!!」と、話題は尽きない。

お風呂にお湯を溜めながら、持参したケーキをパクッ。

「白衣姿、見たかった。」「そう!?」「いいなぁ、見た人たち。」「いいじゃん、白衣は見れんけど、こういう姿が見られるんだから。」「そっか。」「でもあの人たちはこんな姿見たくないか。」「たしかに。」と、お一人様限定(たぶん)の光景を堪能した後、明日の昼をどこで食べようかと思案。何がスゴイって、『東京のオイシイ店100選!』(←タイトルうろ覚え)みたいな本が、山ほど常備してあることだ。「俺、やっぱ、イタ飯とか好きかも…。」「そうなの!?キャラが違うよ!」「うーむ。とりあえず、今は腹がいっぱいだから、写真を見てもそそられないな。決められん。」「そ、そういうもんなんですか…。」と話しながら、就寝準備。

ぽんぽんとビールっ腹を叩く彼と「おめでたですか?」「ええ。あ、今、蹴った!」「元気ですねえ。」とふざけ合った後に思ったのは、エイプリルフールの本日、「これは嘘じゃないよね?」と問いたくなるような瞬間が多すぎて目を回している私こそ、本当の四月バカだということ。
新生活に向けて、PCも大掃除。

学生時代に撮りまくったデジカメ画像(ほとんどもらい物)や、ごちゃごちゃになったドキュメント類、音楽ファイルなどをフォルダに分別。たった四年間でこうも溜まるものだ、と関心。

キレイになったPCで色々と情報収集。

…と、親しくしてるSねーさんの日記に興味深い記事が。思わず、「livedoorニュース」へジャンプ。


(↓以下、転載。)

[新入社員]06年度は「ブログ型」と命名

社会経済生産性本部は06年度の新入社員のタイプを「ブログ型」と命名したと発表した。ブログとはインターネット上の日記で、誰でも気軽に自己表現し、読んだ人と交流できることから利用者が増えている。生産性本部は新入社員の「表面は従順だが、さまざまな思いを内に秘め、時にネット上で大胆に自己主張する」という特徴がブログに通じるとしている。

企業や大学の採用、就職担当者ら約40人から新入社員の特徴を聞いたところ、「厳しい就職戦線に勝ち抜いてきただけに、上司や先輩のあしらい方にたけているが、目立たず無関心に見える」「さびしがり屋で、自分を認めてもらいたい強い欲求を持つ」「認められると思いがけない力を発揮する一方、本人の気分や他人の評価ひとつですぐなえてしまう」などの意見が出た。

「温かいまなざしと共感が、育成のカギ」とする声もあった。【須佐美玲子】



…ごくっ。

と、思わず息を飲んだのは、2006年度新入社員のこの私。

「表面は従順だが、さまざまな思いを内に秘め、時にネット上で大胆に自己主張する」というのが特徴というが、良識ある社会人なら表面だけでも従順にしておくべきだろう…と思うのは私だけか?

インターネット(ブログを含む)という単語を初めて聞いたのは、中学生のときだったと思うけど。Sねーさんが青春を送った頃はまさに"過渡期"だったというのに対し、私の周り(特に大学)の90%以上は何らかの形でブログを書いているし、言われてみれば上記の項目も当てはまるような。たしかに「ブログ型」だろう。ってか、まずこの私がブログ型の代表選手じゃないか。まさに、時代の申し子(←?)。

私たち新入社員に対する大掴みな捉え方が、「表面は従順だが、さまざまな思いを内に秘め、時にネット上で大胆に自己主張する」というものなら、私はそれを善しとしたい。ネット上で主張するかどうかはともかく、大胆に振る舞うことが必ずしも良いこととは思えないし、本当は様々な思いを秘めていても、出す場所は選ぶべきだ。21世紀になって、たまたまブログという「簡単に自己主張できる場」が普及したからこうなっているけど、そうじゃなくても2006年度新卒の特徴はこうなっていたのかいな? 今となってはわからない。

私的な意見だが、ネット(ブログ含む)がメディアで取り上げられる度に、就職担当者が新卒に対して「なんだか不気味…。」と(おそらく)感じたのと同じニュアンスを、私は感じてしまう。そう、ネット過渡期以前に生きた人たちが、気づいたらネットが身近なものとして普及していた世代の私たちに対して持つ、ある種の「不気味さ」を。

敬愛するJねーさんが以前おっしゃっていた(↓以下、引用)。

「ネットの初期の頃って、『匿名でなにかをしてやろう』という混沌状況ではなく、『時間も空間も超えてつながっている人と何かを交換しよう』というワクワクにウエイトがおかれていて、そこには必ず、”ラインの先にいる「人」への想い”があったのではないでしょうか。(…)損得とか関係なく、たまたま通じ合った”ラインの先にいる「人」への想い”つうのは、けっこう顔とかその人にくっついているいろいろな何か(肩書きとか年齢とか)、がわからないだけに、ピュアなもんがあって…」(引用終了。)

私は上記の意見にいたく共感したのだけど、この「ワクワク」こそが、まさに、不気味さと隣り合わせに存在しているのだと思う。PCの画面を向いてワクワクしているその姿が、私の両親から見れば、「親に内緒のおもちゃで遊ぶ小学生」と同じように映るのだと思う。不気味さを覚えられることにすっかり慣れきっている私は、親の知らないところで(別に隠しているわけではないけど…)コミュニティを持ち、親の知らない人と意見を交換している。

その行為自体が咎められるはずはないし、今回のニュースが2006年度新卒を批判しているわけではないが、私の中に(見る人から見れば)「不気味さ」が存在する、ということは、たぶん、間違いない。

最後に、選手宣誓を。

宣誓! 

私たち(僕たち)は、ブロガーシップ(←?)に則り、社会に出て、正々堂々、真面目に働くことを誓います!

2006年度新卒代表 りん(23) DiaryNote所属

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