りんの日本脱出記 〜時差ボケボンジョルノ編〜
2006年2月12日コメント (2)
羽田空港・第二ターミナルにて友人たちと合流。
旅行の手配をしてくれたリーダー格のミキティが一番乗り。続いて、私。少々遅れて、のんびり屋さんのまゆげ。最後に、Qooが彼氏を引き連れて登場。そうか、女の子のスーツケースは彼氏に運んでもらうものだったのか…と知る。
今回のフライトは、まず羽田から国内線で関西空港へ。関空からルフトハンザ・ドイツ航空でフランクフルトを経由し、ローマへ。到着予定は現地時刻の深夜。未だに時差と日付変更線の関係がよくわかっていないのだが、要は、本来の一日がものすごく長くなってしまうということらしい。時差ボケすら楽しみだと言ったら不謹慎だろうか。
税が免除されるという素晴らしいお店に、「ゲート一つしか隔ててないのになぜ?」という疑問を吹っ飛ばす勢いで連行される。カピカピになったマスカラにスポイトで水を入れて使っていると言ったら皆に叱られたので、まだ日本だというのにいきなり戦利品をゲット。ヘレナ・ルビンスタインのウォータープルーフマスカラ。初ヘレナ。免税店で化粧品を買ったという「それっぽい」行為が嬉し恥ずかしで、ついオロオロしてしまった。
生まれて初めての国際線にて。
海外慣れしている友人たちの粋な計らいで窓際に座らせてもらう。リアス式海岸が地図で見るみたいにハッキリそれとわかるよ、と感動。雲の間を通り抜けるときに期待していたのは、『風の谷のナウシカ』みたいにぼふっと音がするのかな、ということ。実際は、一瞬煙って終わり、というなんともつまらないもの。そういえば、私が物心ついてから初めて飛行機に乗ったのは、大学二年の夏に沖縄に行ったときだったなあと思い出すも、どうして私が窓際に座れなかったかは、あまり思い出したくないエピソードによる。なんにせよ、飛行機が揺れるのも楽しいし、水滴が窓につくのも楽しいし、スチュワーデスさんが外国人というのも楽しい。機内食が二回も出ると聞き、「こんな乗せていただいて、さらにゴハンまで出していただいて、申し訳ないねえ。」という気持ちを語ったら「りん、田舎者っぽいよ。」というキビシー指摘をQooから受けてしまう。
経由地のフランクフルトにて。
全部が全部ドイツ人じゃないとは思うけど、やたらお腹の出た人が目立つ。まだ若いのに、という人もお腹だけは出ている。いわんや、オジサンをや。その原因についてまゆげと議論。これはもしかして、ってか、もしかしなくてもビールのせいではないか?という結論に。こんなところでいきなり日本を思い出すことになった。
ドイツを発って、いよいよイタリア・ローマへ飛ぶ。窓から見るドイツの街の灯はなんともいえない橙色だ。上空何千メートルか知らないけど、上から見ればどこの国も同じように見えるかと思いきや、日本とはどこか違う。灯の分布具合?いやいや。わからない。わからないけど、綺麗だ。
機内食が出るのはありがたいことだが、食べたいときに食べたい量が出てこないことが辛い。ただでさえ大食漢の私なのに、ゴハンが配られているときに限ってうっかり寝てしまうことが多く、後からスッチャんに「ゴハン、ゴハン、クレ。」と言うハメに。そして、一人分では足らず。ひもじいよう、と騒いでいたら、「おにぎりとか用意してあるはずだから、聞いてみなよ。」という指示を受けたので、挑戦。「コーヒーと紅茶どっちがイイ?」と聞かれたので、「飲み物はいいから飯が食べたい。」と言ってみたものの、私の英語じゃ埒があかない。「そうだ!I want a riceball!」と言ったら、オ〜ウ、というリアクションと共になにやら早口で言われる。「なんて言ったの?」と隣のQooに尋ねたら、「たぶん…、好きにしなよ、っていう意味だと思う…。」と告げられ、撃沈。
その後、トイレに並んでいたら、控え室(?)にブロンドのスチュワーデスさんがいたので、もう一度「Do you have something eat?」と言ってみる。今度は通じたらしい。案の定おにぎりが用意してあったので、昆布味をいただく。そのうちこの昆布味すら懐かしくなるのだろうか。それにしても、今日だけで三回も「ゴハン、クレ。」と言ってしまった。この先が思いやられる。
深夜、ローマに到着。初めて降り立つ外国の地は、わりとフツウ。明日以降どんな感動が待ち受けているのか。ワクワクしながら、ホテルにて就寝。
旅行の手配をしてくれたリーダー格のミキティが一番乗り。続いて、私。少々遅れて、のんびり屋さんのまゆげ。最後に、Qooが彼氏を引き連れて登場。そうか、女の子のスーツケースは彼氏に運んでもらうものだったのか…と知る。
今回のフライトは、まず羽田から国内線で関西空港へ。関空からルフトハンザ・ドイツ航空でフランクフルトを経由し、ローマへ。到着予定は現地時刻の深夜。未だに時差と日付変更線の関係がよくわかっていないのだが、要は、本来の一日がものすごく長くなってしまうということらしい。時差ボケすら楽しみだと言ったら不謹慎だろうか。
税が免除されるという素晴らしいお店に、「ゲート一つしか隔ててないのになぜ?」という疑問を吹っ飛ばす勢いで連行される。カピカピになったマスカラにスポイトで水を入れて使っていると言ったら皆に叱られたので、まだ日本だというのにいきなり戦利品をゲット。ヘレナ・ルビンスタインのウォータープルーフマスカラ。初ヘレナ。免税店で化粧品を買ったという「それっぽい」行為が嬉し恥ずかしで、ついオロオロしてしまった。
生まれて初めての国際線にて。
海外慣れしている友人たちの粋な計らいで窓際に座らせてもらう。リアス式海岸が地図で見るみたいにハッキリそれとわかるよ、と感動。雲の間を通り抜けるときに期待していたのは、『風の谷のナウシカ』みたいにぼふっと音がするのかな、ということ。実際は、一瞬煙って終わり、というなんともつまらないもの。そういえば、私が物心ついてから初めて飛行機に乗ったのは、大学二年の夏に沖縄に行ったときだったなあと思い出すも、どうして私が窓際に座れなかったかは、あまり思い出したくないエピソードによる。なんにせよ、飛行機が揺れるのも楽しいし、水滴が窓につくのも楽しいし、スチュワーデスさんが外国人というのも楽しい。機内食が二回も出ると聞き、「こんな乗せていただいて、さらにゴハンまで出していただいて、申し訳ないねえ。」という気持ちを語ったら「りん、田舎者っぽいよ。」というキビシー指摘をQooから受けてしまう。
経由地のフランクフルトにて。
全部が全部ドイツ人じゃないとは思うけど、やたらお腹の出た人が目立つ。まだ若いのに、という人もお腹だけは出ている。いわんや、オジサンをや。その原因についてまゆげと議論。これはもしかして、ってか、もしかしなくてもビールのせいではないか?という結論に。こんなところでいきなり日本を思い出すことになった。
ドイツを発って、いよいよイタリア・ローマへ飛ぶ。窓から見るドイツの街の灯はなんともいえない橙色だ。上空何千メートルか知らないけど、上から見ればどこの国も同じように見えるかと思いきや、日本とはどこか違う。灯の分布具合?いやいや。わからない。わからないけど、綺麗だ。
機内食が出るのはありがたいことだが、食べたいときに食べたい量が出てこないことが辛い。ただでさえ大食漢の私なのに、ゴハンが配られているときに限ってうっかり寝てしまうことが多く、後からスッチャんに「ゴハン、ゴハン、クレ。」と言うハメに。そして、一人分では足らず。ひもじいよう、と騒いでいたら、「おにぎりとか用意してあるはずだから、聞いてみなよ。」という指示を受けたので、挑戦。「コーヒーと紅茶どっちがイイ?」と聞かれたので、「飲み物はいいから飯が食べたい。」と言ってみたものの、私の英語じゃ埒があかない。「そうだ!I want a riceball!」と言ったら、オ〜ウ、というリアクションと共になにやら早口で言われる。「なんて言ったの?」と隣のQooに尋ねたら、「たぶん…、好きにしなよ、っていう意味だと思う…。」と告げられ、撃沈。
その後、トイレに並んでいたら、控え室(?)にブロンドのスチュワーデスさんがいたので、もう一度「Do you have something eat?」と言ってみる。今度は通じたらしい。案の定おにぎりが用意してあったので、昆布味をいただく。そのうちこの昆布味すら懐かしくなるのだろうか。それにしても、今日だけで三回も「ゴハン、クレ。」と言ってしまった。この先が思いやられる。
深夜、ローマに到着。初めて降り立つ外国の地は、わりとフツウ。明日以降どんな感動が待ち受けているのか。ワクワクしながら、ホテルにて就寝。
りんの日本脱出記 〜序章〜
2006年2月11日学科の友達と卒業旅行@イタリア・フランス。
パスポートを取得するのも初めて、スーツケースに物を詰めるのも初めて、外貨を手にするのも初めて、という、まるで処女が湯浴みするかのごとく神妙な気持ちになりながら出発準備。ドキドキ。
●構成メンバー。
ミキティ … 小顔、ネガティブシンキング
まゆげ … 静岡県出身、色白
Qoo … ナイスバディ、自分大好き
●旅行期間。
11日間(学生向けパックツアー)。
●今回の旅行の(個人的な)目標。
おなかを壊さないこと。ホームシックにならないこと。
何しろ要領を得ないので、出発前日まで荷造りに追われてしまった。腹巻きタイプの貴重品入れを買ったものの、試しに装着してみたらLサイズということが判明し、ガバガバで使えない。「ひー!」と言いながら"上げ"をするハメに。その他、久しぶりに使おうとしたら腕時計の電池が切れていたり、パジャマにしようと思っていたスウェットのお尻部分が伸び伸びだったり、どーしよー!時間無いよー!もういいやっ、という個人的にはかなり不本意な状態で出発。
日本を発つ日の飛行機が早朝の便なので、空港に(我が家よりは)近いマイ・ラヴァー宅に前日の夜から泊めてもらう計画。ガラガラと騒音をまき散らしながら彼のマンションへ。行く先々(駅の階段とか)で通りすがりのおじさんの助けを得ながら、キャスターの調子がおかしいスーツケースと格闘。
帰りを待つ間、近所の蕎麦屋に行って最後の日本食を堪能しようと思ったのに、なぜか休業。中華料理屋にてチャーハンと餃子を食す。最後の晩餐が中華風でいいのだろうか。そして女一人で瓶ビールを頼むのはどうだろうか。と散々迷った挙げ句に、大人しく水を飲む。餃子にビールが不可欠だと思うようになってしまったらなんちゅうかもう…、と思っているけど、まだ大丈夫みたい。たぶん。
一人で晩ゴハンを食べることは滅多に無いけど、こうして座っていると色々なことを考える。そして目の前の料理を冷静に見ることができる。誰に気を遣う必要も無いまま湯気のあがる皿を抱え、恐る恐る口に運ぶと、おっ、と思う。誰も聞いてないのに料理について解説したくなる。誰も気にしてないのに店構えや店員の接客についても点数をつけたくなる。そうか、いわゆるグルメと呼ばれる人の中には、必ずしもウンチクを好むわけではなく、のっぴきならない事情で目の前の皿のみに注目するしかない人たちも含まれるのだな、と気づいた。
その後。ほろ酔いで帰宅したマイ・ラヴァーに、カメラの使い方をレクチャーしてもらう。私はデジカメを持っていないので、彼のEXLIMと、使い勝手の良さそうなコンパクトカメラを貸してもらうことに。空が入るときは一度手前の物にピントを合わせてからの方がイイという話や、手前の手すり等を入れると写真に奥行きが生まれるという話(額縁効果)や、「コレを撮りたい!」と思ったら思い切って対象に近寄って撮ると格好良い構図になる、という話を聞く。こういう時、私は、この人に聞いてわからないことは無いんじゃないかしら、と、私以外の誰にもわからないような(わからなくても別にいいの)安らかな気持ちになる。例えるなら、まるでお釈迦様の手のひらにいるような、それでいて窮屈ではなく、むしろ自分のpossibilityがどんどん解放されていくような。
翌朝はなんと四時半起き。お疲れのマイ・ラヴァーが寝ている隙にそーっと出かけようと思っていたのに、一緒に起きて最寄り駅まで荷物を運んでくれるという。何かあったときに使え、とポチ袋入りの餞別と、旅の記録をしておいで、とお洒落な日記帳までいただく。ありがたいことだ。「気をつけてね!行ってらっしゃい!」と朝から相変わらずさわやか過ぎる人に見送られ、ついに空港へ。
ボン・ボヤージュ、自分。
パスポートを取得するのも初めて、スーツケースに物を詰めるのも初めて、外貨を手にするのも初めて、という、まるで処女が湯浴みするかのごとく神妙な気持ちになりながら出発準備。ドキドキ。
●構成メンバー。
ミキティ … 小顔、ネガティブシンキング
まゆげ … 静岡県出身、色白
Qoo … ナイスバディ、自分大好き
●旅行期間。
11日間(学生向けパックツアー)。
●今回の旅行の(個人的な)目標。
おなかを壊さないこと。ホームシックにならないこと。
何しろ要領を得ないので、出発前日まで荷造りに追われてしまった。腹巻きタイプの貴重品入れを買ったものの、試しに装着してみたらLサイズということが判明し、ガバガバで使えない。「ひー!」と言いながら"上げ"をするハメに。その他、久しぶりに使おうとしたら腕時計の電池が切れていたり、パジャマにしようと思っていたスウェットのお尻部分が伸び伸びだったり、どーしよー!時間無いよー!もういいやっ、という個人的にはかなり不本意な状態で出発。
日本を発つ日の飛行機が早朝の便なので、空港に(我が家よりは)近いマイ・ラヴァー宅に前日の夜から泊めてもらう計画。ガラガラと騒音をまき散らしながら彼のマンションへ。行く先々(駅の階段とか)で通りすがりのおじさんの助けを得ながら、キャスターの調子がおかしいスーツケースと格闘。
帰りを待つ間、近所の蕎麦屋に行って最後の日本食を堪能しようと思ったのに、なぜか休業。中華料理屋にてチャーハンと餃子を食す。最後の晩餐が中華風でいいのだろうか。そして女一人で瓶ビールを頼むのはどうだろうか。と散々迷った挙げ句に、大人しく水を飲む。餃子にビールが不可欠だと思うようになってしまったらなんちゅうかもう…、と思っているけど、まだ大丈夫みたい。たぶん。
一人で晩ゴハンを食べることは滅多に無いけど、こうして座っていると色々なことを考える。そして目の前の料理を冷静に見ることができる。誰に気を遣う必要も無いまま湯気のあがる皿を抱え、恐る恐る口に運ぶと、おっ、と思う。誰も聞いてないのに料理について解説したくなる。誰も気にしてないのに店構えや店員の接客についても点数をつけたくなる。そうか、いわゆるグルメと呼ばれる人の中には、必ずしもウンチクを好むわけではなく、のっぴきならない事情で目の前の皿のみに注目するしかない人たちも含まれるのだな、と気づいた。
その後。ほろ酔いで帰宅したマイ・ラヴァーに、カメラの使い方をレクチャーしてもらう。私はデジカメを持っていないので、彼のEXLIMと、使い勝手の良さそうなコンパクトカメラを貸してもらうことに。空が入るときは一度手前の物にピントを合わせてからの方がイイという話や、手前の手すり等を入れると写真に奥行きが生まれるという話(額縁効果)や、「コレを撮りたい!」と思ったら思い切って対象に近寄って撮ると格好良い構図になる、という話を聞く。こういう時、私は、この人に聞いてわからないことは無いんじゃないかしら、と、私以外の誰にもわからないような(わからなくても別にいいの)安らかな気持ちになる。例えるなら、まるでお釈迦様の手のひらにいるような、それでいて窮屈ではなく、むしろ自分のpossibilityがどんどん解放されていくような。
翌朝はなんと四時半起き。お疲れのマイ・ラヴァーが寝ている隙にそーっと出かけようと思っていたのに、一緒に起きて最寄り駅まで荷物を運んでくれるという。何かあったときに使え、とポチ袋入りの餞別と、旅の記録をしておいで、とお洒落な日記帳までいただく。ありがたいことだ。「気をつけてね!行ってらっしゃい!」と朝から相変わらずさわやか過ぎる人に見送られ、ついに空港へ。
ボン・ボヤージュ、自分。
元気でいてくれ
2006年2月10日少々長めの備忘。
バイト先の後輩・Mくんの話。
Mくんは頑張り屋さんだ。まだ10代なのに、高校を卒業してすぐ上京。将来は自分のお店を持つことが夢だそうで、そのためにバイトで経験を積み、少ない時給の中から貯金をして、さらに英会話も習っている。人当たりが良く、礼儀正しい。私が仕事に関してアドバイスすると、「ハイ、ハイ。」と聞く。「これやってもらえる?」と聞くと、機嫌良く「わかりました。」と言う。ただ、彼には相当のコンプレックスと人に言えない苦労があるのだろうな、ということだけは、Mくんが入店した日に既に見当がついていた。本人がそのようなことを口にしたのではなく、彼の風貌から私たちが判断したことだ。
彼は、おそらくあるに違いないコンプレックスのために、人の見えないところでかなりの努力をしているようだった。私たちから常に何かを吸収しようとしているように見えた。そうでもしないと人並みになれない、と思っていたのかもしれない。努力の源泉が何であれ、私はMくんの姿勢を評価している。が、しかし。
随分前の話だけど、私は気づいてしまった。
うちのお店は食品を扱っているので、守らなければいけないスタンダードがある。作り方を間違えてお出ししたら、お客様を騙したことになる。そのスタンダードは厳密で、入れる液体は何ミリリットル、温度は何度から何度以内、というところまで決まっている。が、そうはいっても一日中見張っているわけではないし、ある程度のラインに到達したら完全に放置されるので、商品の品質に責任を持てるのは自分しかいない。お客様が気づかなかったらそれまでだし、自分が罪悪感を感じなければ何も起こらない。
私は見てしまったのだけど、Mくんは、定められた分量をうっかり(たぶん、うっかり)間違えたまま、お客様に商品を手渡した。お客様に「これは○○ですか?」と聞かれて、「ハイ、○○です。」と自信たっぷりに答えていたけど、私は「え、違う!」とすぐに気づいた。なぜなら、たまたま彼の行動の一部始終を見ていたから。お客様に言われて「あ、間違えた。」とMくんは気づいたはず。気づいた時点で謝罪して作り直せばよかったのに、お店が混んでいたからか、Mくんは嘘をついた。
誰しも嘘をつくときは、その嘘がバレないことを前提に嘘をついている。Mくんに「さっきついた嘘、バレてるよ。」と伝えたら、彼はどれだけ恥ずかしい思いをするだろうか。嘘なんて誰でもつくから、とわかっていても、いざ嘘をついたことが公になったら、責められても仕方ない。なぜなら、「嘘をつかない」ことはマナーだから。
このマナーについて面白い例えをした人がいる。誰でも鼻毛はある。伸びる。だから、切る。切るのは、マナーだ。鼻毛を切る姿を人に見せないのも、マナーだ。でも、この例えをした人は、鼻毛が伸びることそれ自体は悪くない、と言った。だから「私は鼻毛なんて切ったことがない。」とわざわざ言う必要も無い。でも、やっぱ、切る姿を意図せずに見せちゃうのは良くないのだ、と。意図せずに、というところが重要。いいか、今から鼻毛を切るぞ、見てろ、と宣言してから切ればまあ良い、と。でも、バレてないと(本人だけが)思ってて実はバレてる、ってのが一番恥ずかしいし、マナー違反だし、避けるべきことだろう、と。
Mくんが私にはバレてないと思ってても実はバレてるように、私が今バレてないと思いこんでいることが、周りの人にとってはお見通しだったりするのかな、と思ったり。
「元気でいてくれ。」と言われて、ハッとしたことがある。鼻毛を切っているとき、つまり、誰にも見られてないだろうしいっか、と完全に思いこんでいるときの私は、無防備に「醜さ」をさらけ出しているときだ。誰もが「醜さ」を持っているとしても、それを隠そうとしていない瞬間だ。だから、「醜さ」に自覚的になれ、自覚するからこそ隠すことができる、その自覚的になろうとする様が「元気である」という状態で、私が周り(Mくん含め)にそれを望むように、周りも私に望んでいるのだろう。「醜さを見せないでくれ。見てもなんとか消化するけど、なるべくなら見ないに超したことはない。」という切実な思いをダイレクトに私に言えなかったからこそ、「元気でいてくれ。」という一見的はずれな言葉に変換されたのかな、と思った。
沈黙は金なり、という言葉の意味について考えている。
そして、もし私が誰かの鼻毛を切っている姿を発見しても本人に伝えずになんとかする方法はないかと、そのことについても考えている。見せないのもマナーだけど、見なかったフリをするのもマナーだと私は思うから。偽善的だと言われても、ね。
------------------------------------------------------------------
10日間ほど、イタリア・フランスへ行ってまいります(卒業旅行)。
●本日新たにゲットした品々。
腹巻きタイプの貴重品入れ
ドライアイ対策の目薬(大量)
コンタクトレンズ洗浄・保存液
スタンドミラー
海外でも使える変圧式ドライヤー
日記帳
みなさま、ごきげんよう。
バイト先の後輩・Mくんの話。
Mくんは頑張り屋さんだ。まだ10代なのに、高校を卒業してすぐ上京。将来は自分のお店を持つことが夢だそうで、そのためにバイトで経験を積み、少ない時給の中から貯金をして、さらに英会話も習っている。人当たりが良く、礼儀正しい。私が仕事に関してアドバイスすると、「ハイ、ハイ。」と聞く。「これやってもらえる?」と聞くと、機嫌良く「わかりました。」と言う。ただ、彼には相当のコンプレックスと人に言えない苦労があるのだろうな、ということだけは、Mくんが入店した日に既に見当がついていた。本人がそのようなことを口にしたのではなく、彼の風貌から私たちが判断したことだ。
彼は、おそらくあるに違いないコンプレックスのために、人の見えないところでかなりの努力をしているようだった。私たちから常に何かを吸収しようとしているように見えた。そうでもしないと人並みになれない、と思っていたのかもしれない。努力の源泉が何であれ、私はMくんの姿勢を評価している。が、しかし。
随分前の話だけど、私は気づいてしまった。
うちのお店は食品を扱っているので、守らなければいけないスタンダードがある。作り方を間違えてお出ししたら、お客様を騙したことになる。そのスタンダードは厳密で、入れる液体は何ミリリットル、温度は何度から何度以内、というところまで決まっている。が、そうはいっても一日中見張っているわけではないし、ある程度のラインに到達したら完全に放置されるので、商品の品質に責任を持てるのは自分しかいない。お客様が気づかなかったらそれまでだし、自分が罪悪感を感じなければ何も起こらない。
私は見てしまったのだけど、Mくんは、定められた分量をうっかり(たぶん、うっかり)間違えたまま、お客様に商品を手渡した。お客様に「これは○○ですか?」と聞かれて、「ハイ、○○です。」と自信たっぷりに答えていたけど、私は「え、違う!」とすぐに気づいた。なぜなら、たまたま彼の行動の一部始終を見ていたから。お客様に言われて「あ、間違えた。」とMくんは気づいたはず。気づいた時点で謝罪して作り直せばよかったのに、お店が混んでいたからか、Mくんは嘘をついた。
誰しも嘘をつくときは、その嘘がバレないことを前提に嘘をついている。Mくんに「さっきついた嘘、バレてるよ。」と伝えたら、彼はどれだけ恥ずかしい思いをするだろうか。嘘なんて誰でもつくから、とわかっていても、いざ嘘をついたことが公になったら、責められても仕方ない。なぜなら、「嘘をつかない」ことはマナーだから。
このマナーについて面白い例えをした人がいる。誰でも鼻毛はある。伸びる。だから、切る。切るのは、マナーだ。鼻毛を切る姿を人に見せないのも、マナーだ。でも、この例えをした人は、鼻毛が伸びることそれ自体は悪くない、と言った。だから「私は鼻毛なんて切ったことがない。」とわざわざ言う必要も無い。でも、やっぱ、切る姿を意図せずに見せちゃうのは良くないのだ、と。意図せずに、というところが重要。いいか、今から鼻毛を切るぞ、見てろ、と宣言してから切ればまあ良い、と。でも、バレてないと(本人だけが)思ってて実はバレてる、ってのが一番恥ずかしいし、マナー違反だし、避けるべきことだろう、と。
Mくんが私にはバレてないと思ってても実はバレてるように、私が今バレてないと思いこんでいることが、周りの人にとってはお見通しだったりするのかな、と思ったり。
「元気でいてくれ。」と言われて、ハッとしたことがある。鼻毛を切っているとき、つまり、誰にも見られてないだろうしいっか、と完全に思いこんでいるときの私は、無防備に「醜さ」をさらけ出しているときだ。誰もが「醜さ」を持っているとしても、それを隠そうとしていない瞬間だ。だから、「醜さ」に自覚的になれ、自覚するからこそ隠すことができる、その自覚的になろうとする様が「元気である」という状態で、私が周り(Mくん含め)にそれを望むように、周りも私に望んでいるのだろう。「醜さを見せないでくれ。見てもなんとか消化するけど、なるべくなら見ないに超したことはない。」という切実な思いをダイレクトに私に言えなかったからこそ、「元気でいてくれ。」という一見的はずれな言葉に変換されたのかな、と思った。
沈黙は金なり、という言葉の意味について考えている。
そして、もし私が誰かの鼻毛を切っている姿を発見しても本人に伝えずになんとかする方法はないかと、そのことについても考えている。見せないのもマナーだけど、見なかったフリをするのもマナーだと私は思うから。偽善的だと言われても、ね。
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10日間ほど、イタリア・フランスへ行ってまいります(卒業旅行)。
●本日新たにゲットした品々。
腹巻きタイプの貴重品入れ
ドライアイ対策の目薬(大量)
コンタクトレンズ洗浄・保存液
スタンドミラー
海外でも使える変圧式ドライヤー
日記帳
みなさま、ごきげんよう。
Love is "always" OK!
2006年2月7日コメント (2)何かとアクティブな一日。
朝から料理教室へ。本日のレシピは、スパゲッティミートソース。エプロンの紐をきゅっと結んで、臨戦。"アルデンテ"を目指して絶妙なゆで加減を学ぶ。私の切りっぷり、炒めっぷり、etc… はどうにもワイルドだそうで、いつも先生をハラハラさせてしまう。
私の通う時間帯は午前から昼にかけてなので、子どもに手がかからなくなった奥様や、学校を卒業してすぐ結婚という主婦見習いの娘さんが多い。熟練主婦の方々に囲まれて、試食。うーん、アルデンテ。「いくつ?」「23です。」「若いわねー!」「ほんと、若いわねー!」「いえ、そんな。」「すごく大人っぽいわよ。」「恐縮です。(老けてるってことか?)」「若いうちに遊んでおいた方がいいわよー。今だけなんだから。」「だわよね、だわよね。」「そうなんですか?」「そうよー。やってられないわよー。私なんて料理とかホント嫌いだし出来ないし、でも子どもにママの料理は不味いとか言われちゃって、仕方なくこうして頑張ってるのよー。」「それは…大変ですね。」などと言いながら、食べたり、笑ったり。
教室を出て、お次は銀行へ。
来週に迫ったヨーロッパ旅行に備え、外貨とトラベラーズチェックの手配。実は、初・海外旅行。もちろん両替もしたことがない。オラ初めてで何もわかんねえだ、このボタンを押せばいいだか?と、一人(心の中で)大騒ぎした挙げ句に購入。
銀行を出て、お次は旅道具屋へ。
我が家は国外脱出未経験者率100%なので、家に何も無い。チェーン付きパスポートケースや、南京錠や、防水式の軽いウォレットや、ガイドブックや、なんやかやを購入。私の海外旅行に対する心構えを話したら、「なんか心配になってきた…。」と嘆いた人がいたので、せめて出国前にできるセキュリティ対策だけはバッチリしよう、という意気込み。それにしても、調べれば調べるほど、自分(海外初体験、女、国内でも隙がある)は地球上で一番狙われる属性なのでは?という気がしてきた。私なら、私を狙う。
旅道具屋を出て、最後に、食料品を求めてスーパーへ。本日も重いものばかり買ってしまい、よちよちしながら帰途につく。
帰宅後、マイルス・デイビスを流しながら調理。美しく掃除されたダイニングで、髪を丁寧にまとめ、エプロンをつけて(普段はつけない)、ジャズをバックに、まだ昼下がりだというのに包丁を握る、なんて、まるで映画のワンシーンのようだ。
料理をするようになって、気づいたことがある。私は「料理をしている自分」というシチュエーションに対しての憧れが当時強くて、エプロンをつけたり、包丁を握ったり、フライパンを華麗に操ったり、という「表舞台」ばかりに目がいっていた。料理を教えてくれと母に言い出した頃、まず見てなさい、と言われて納得がいかなかった。たまに手伝わせてもらえると皿洗いだったり、調味料を手渡す役だったり、テーブルに箸を並べる係だったり。いつの間にか皿洗いが習慣化して、何も考えなくてもテーブルを整えられるようになって、ようやくわかった。料理の「表舞台」に立たない日はあっても、皿洗いをしなくていい日はない。常に皿洗いが前提という"下地"があるからこそ、毎日ゴハンを作れるようになるのだろう。試合をしない日はあっても、素振りをしない剣道部員はいない。料理上手なのに皿洗いは遅いし下手、という人はいない。「自分の方が雑用をやっている回数は多いのに、普段はそんなことしない先輩がいざそれをやると、自分よりきちんとこなせたりするんだよね。」という話は、よく聞く。概念ではなく確かな身体的記憶として、私は台所で何かを学んだ。
本日も、つつがなく、ラブ・イズ・オーケィ。(←「愛エプ」風に。)
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備忘。
●お手軽親子丼。
平鍋に、水、酒、醤油、ダシ、砂糖を。鶏もも肉の皮を剥いで、皮のダシが出るように鍋の中で操る。その上からぶつ切りにした鶏もも肉本体を。軽く火を通したら、タマネギも投入。味を染みこませるように炒める。タマネギの水分が少ない場合は、汁が蒸発し過ぎないように気を配る。
ときタマゴを用意。刻んだ三つ葉をまんべんなく散らしたら、タマゴをゆっくりと回し入れる。半熟にしない場合は、蓋をする。タマゴが固まったら、円を等分するようにフライ返しで切り分けて、ほかほかゴハンの上に。完成。
これなら複数の丼を同時に用意することができ、便利。
朝から料理教室へ。本日のレシピは、スパゲッティミートソース。エプロンの紐をきゅっと結んで、臨戦。"アルデンテ"を目指して絶妙なゆで加減を学ぶ。私の切りっぷり、炒めっぷり、etc… はどうにもワイルドだそうで、いつも先生をハラハラさせてしまう。
私の通う時間帯は午前から昼にかけてなので、子どもに手がかからなくなった奥様や、学校を卒業してすぐ結婚という主婦見習いの娘さんが多い。熟練主婦の方々に囲まれて、試食。うーん、アルデンテ。「いくつ?」「23です。」「若いわねー!」「ほんと、若いわねー!」「いえ、そんな。」「すごく大人っぽいわよ。」「恐縮です。(老けてるってことか?)」「若いうちに遊んでおいた方がいいわよー。今だけなんだから。」「だわよね、だわよね。」「そうなんですか?」「そうよー。やってられないわよー。私なんて料理とかホント嫌いだし出来ないし、でも子どもにママの料理は不味いとか言われちゃって、仕方なくこうして頑張ってるのよー。」「それは…大変ですね。」などと言いながら、食べたり、笑ったり。
教室を出て、お次は銀行へ。
来週に迫ったヨーロッパ旅行に備え、外貨とトラベラーズチェックの手配。実は、初・海外旅行。もちろん両替もしたことがない。オラ初めてで何もわかんねえだ、このボタンを押せばいいだか?と、一人(心の中で)大騒ぎした挙げ句に購入。
銀行を出て、お次は旅道具屋へ。
我が家は国外脱出未経験者率100%なので、家に何も無い。チェーン付きパスポートケースや、南京錠や、防水式の軽いウォレットや、ガイドブックや、なんやかやを購入。私の海外旅行に対する心構えを話したら、「なんか心配になってきた…。」と嘆いた人がいたので、せめて出国前にできるセキュリティ対策だけはバッチリしよう、という意気込み。それにしても、調べれば調べるほど、自分(海外初体験、女、国内でも隙がある)は地球上で一番狙われる属性なのでは?という気がしてきた。私なら、私を狙う。
旅道具屋を出て、最後に、食料品を求めてスーパーへ。本日も重いものばかり買ってしまい、よちよちしながら帰途につく。
帰宅後、マイルス・デイビスを流しながら調理。美しく掃除されたダイニングで、髪を丁寧にまとめ、エプロンをつけて(普段はつけない)、ジャズをバックに、まだ昼下がりだというのに包丁を握る、なんて、まるで映画のワンシーンのようだ。
料理をするようになって、気づいたことがある。私は「料理をしている自分」というシチュエーションに対しての憧れが当時強くて、エプロンをつけたり、包丁を握ったり、フライパンを華麗に操ったり、という「表舞台」ばかりに目がいっていた。料理を教えてくれと母に言い出した頃、まず見てなさい、と言われて納得がいかなかった。たまに手伝わせてもらえると皿洗いだったり、調味料を手渡す役だったり、テーブルに箸を並べる係だったり。いつの間にか皿洗いが習慣化して、何も考えなくてもテーブルを整えられるようになって、ようやくわかった。料理の「表舞台」に立たない日はあっても、皿洗いをしなくていい日はない。常に皿洗いが前提という"下地"があるからこそ、毎日ゴハンを作れるようになるのだろう。試合をしない日はあっても、素振りをしない剣道部員はいない。料理上手なのに皿洗いは遅いし下手、という人はいない。「自分の方が雑用をやっている回数は多いのに、普段はそんなことしない先輩がいざそれをやると、自分よりきちんとこなせたりするんだよね。」という話は、よく聞く。概念ではなく確かな身体的記憶として、私は台所で何かを学んだ。
本日も、つつがなく、ラブ・イズ・オーケィ。(←「愛エプ」風に。)
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備忘。
●お手軽親子丼。
平鍋に、水、酒、醤油、ダシ、砂糖を。鶏もも肉の皮を剥いで、皮のダシが出るように鍋の中で操る。その上からぶつ切りにした鶏もも肉本体を。軽く火を通したら、タマネギも投入。味を染みこませるように炒める。タマネギの水分が少ない場合は、汁が蒸発し過ぎないように気を配る。
ときタマゴを用意。刻んだ三つ葉をまんべんなく散らしたら、タマゴをゆっくりと回し入れる。半熟にしない場合は、蓋をする。タマゴが固まったら、円を等分するようにフライ返しで切り分けて、ほかほかゴハンの上に。完成。
これなら複数の丼を同時に用意することができ、便利。
TOKYO DUST
2006年2月5日待ちに待った週末。昼頃、マイ・ラヴァー宅を急襲。
「おっはよー!」「この家は味噌と米が無いから持ってきたよー。」「この炊飯器ホコリかぶってるけど、使える?」「トイレットペーパーが無いよー!」「先週の鍋がまだ浸かってる!!」などとまくしたてていたら、「りんは…本当に元気だね。健康そのものって感じ…。」と嘆息されてしまった。その姿たるや、これぞ、純正、"日曜日のニッポンのお父さん"である。いかん傾向だ。
昼食(彼にとっては朝食)を二人でもそもそと食べながら、本日のデイト・プランニング。どこに連れていってくれるのかしらん。おニューだというコートを羽織って満足気な彼だけど、中身のニットはもう二ヶ月以上同じだYO!準備を整えて、出発。
カップルは、晴れた休日、どこに行く?お台場へ?横浜へ?いやいや、私たちは新橋へ(新橋って!)。
東京をぐるりと囲む環状線の中で、地図を広げる。彼ご愛用の地図は何種類かあるが、本日使うのはそのうちの一つ。そこかしこに書き込みが為されている、思いっきりカスタマイズされた地図だ。これだけ駆使してもらえれば、地図の制作者も感無量だろう。「新橋の愛宕(あたご)神社に行ってみたい。」などと言い出す彼のコートの端を掴みながら、「やっぱり、私のカレって、ちょっと変わってるかも。」と今さら気付いたり。
港区・新橋にある愛宕神社は、東京で一番高い丘の上にある(知らなかった)。「防火の神様が祀られてるんだよ。そのわりに、何回も火事になってるらしいけど。」「あっはっは!」と言い交わしながら、頂上へ続く坂を上る。マイ・ラヴァーは決して肉体派じゃないし、むしろ頭脳派だけど、こういうときはワクワクしているようで歩調も早い。鳥居と社がある頂上と、狛犬が対面する石畳を繋ぐのは、40度以上はあるだろう急勾配の石段だ。「出世の石段」と呼ばれるそうで、遙か昔、徳川の時代、曲垣平九郎が馬でこの石段を登り梅を手折った話が言い伝えられているらしい(知らなかった)。そのほか、祀られた「火産霊命(ほむすびのみこと) 」の"むすび"は、息子や娘のあの"むす"と同じ語源だよ、という話や、当時はこの丘から房総半島まで見渡せたらしいよ、という話を聞く。はとバスのガイドさんもびっくりの『マイ・ラヴァーと行く東京散策』は、今日もイイ感じだ。
丘のすぐ裏手には、港区を占拠しつつあるMとかいう総合ディベロッパーの建てたタワーが二つある。「高いところから愛宕神社を見てみたいね。」という話になり、タワーの入り口を探す二人(今思うとこれがマズかった)。居住スペースのみで占められたタワーは、当然ながらセキュリティも万全で、やたら重々しい姿の守衛さんがいる。「この上、上れませんかねぇ?」と駄目もとで尋ねる私たち。「申し訳ありませんが、こちらは住居ですので…。」「あ、さいですか。あっちのタワーもそうですか?」「あちらは42階にレストランがありますので、そちらへは上れますが…」「あっ、そうですか!ありがとうございます!」と、引っ返そうとする私たちに後ろから釘が。
「お待ちください!大層、高級なレストランでございます!!」
…左様ですか(うるせーやい)。
怯まず、たゆまず、42階を目指す我ら。こちらのロビーも綺麗だ。広い。「でもさ、こっちはテナントが入ってるんだから、フロアに降りるくらいはできるよ。」「だよね、きっと360度ガラス張りとかだろうし。」などと井の中の蛙のような発言を繰り出しながら、チーン、と42階に到着。なんと、関所が!!入り鉄砲ならぬ、入り貧乏まかり許さぬぞ立ち去れい!的状況だ。すごすごと退散。悔しいからトイレくらい足跡を付けてやろうと思い、2階(ここは入れる)で用を足してみた。今こそ、ビバ!カッパ!と叫ぶときだ。
Mタワーを脱出し、タモリが認定したという東京の「名坂」を上りながら、橙色に光り始めた東京タワーを仰ぎ見る。綺麗やね、と言うと、うん綺麗だね、と答える人が隣にいる。下から見るタワーは決して悪くない。光り輝く高いところを目指して、上って、上りつめて、いざ高いところに到達したとき、何が見えるのだろう。視界が開けることと視野が広がることは、同義ではない。私たちは、こうして地上から眺めるから、美しい東京タワーそのものを「美しい」と思う。高いところにいる人は、どんなものを見て「美しい」と思うのだろう。もし私が地上42階に上ることになったとして、人がなかなか入れないフロアで毎日のように食事をするのかな、と考えた。私は、42階でも、片手鍋を使って人のためにゴハンを作る気がする。
せっかくだからということで、想定の範囲外だが、東京タワーに上る。
夜の帳がまさに降りんとする時間、カップルがいっぱいいるし、いっか、と少々パーソナルスペースを狭めに設定。東京の夜景を一望。街と街を繋ぐ道路の上を車が走って、まるで、血管を行く血流みたいだ。あっちには、お台場の観覧車。あっちには、六本木ヒルズ。最近読んだばかりの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の一節を思い出す。東京は、地方から集まる若者たちの夢を掃除機のように吸い上げて、ぶんぶんと回転し、翻弄し、やがてはじかれたものが塵のように溜まっていく、とリリー・フランキーは語る。ここはそんなに悪い街だろうか。東京には、坂があるし、海があるし、愛宕神社もある。ゴミできらめく世界が僕たちを拒んでも、とスピッツが歌うように、ゴミの中からいつも綺麗なものを探して見せてくれる隣の人に寄り添いながら、ゴミを見て「汚い」と言うだけなら誰でもできるけど、と思ったりした。
蝋人形を見たり、ホログラムを見たり、ギネス記録の展示を見たりしながら、タワーを降りる。夕飯は、新橋にて、豚肉がこれでもか!と入った味噌ラーメンを。はふはふ、もぐもぐ、テクテク、ブルブル、チュッ。
以上。
「おっはよー!」「この家は味噌と米が無いから持ってきたよー。」「この炊飯器ホコリかぶってるけど、使える?」「トイレットペーパーが無いよー!」「先週の鍋がまだ浸かってる!!」などとまくしたてていたら、「りんは…本当に元気だね。健康そのものって感じ…。」と嘆息されてしまった。その姿たるや、これぞ、純正、"日曜日のニッポンのお父さん"である。いかん傾向だ。
昼食(彼にとっては朝食)を二人でもそもそと食べながら、本日のデイト・プランニング。どこに連れていってくれるのかしらん。おニューだというコートを羽織って満足気な彼だけど、中身のニットはもう二ヶ月以上同じだYO!準備を整えて、出発。
カップルは、晴れた休日、どこに行く?お台場へ?横浜へ?いやいや、私たちは新橋へ(新橋って!)。
東京をぐるりと囲む環状線の中で、地図を広げる。彼ご愛用の地図は何種類かあるが、本日使うのはそのうちの一つ。そこかしこに書き込みが為されている、思いっきりカスタマイズされた地図だ。これだけ駆使してもらえれば、地図の制作者も感無量だろう。「新橋の愛宕(あたご)神社に行ってみたい。」などと言い出す彼のコートの端を掴みながら、「やっぱり、私のカレって、ちょっと変わってるかも。」と今さら気付いたり。
港区・新橋にある愛宕神社は、東京で一番高い丘の上にある(知らなかった)。「防火の神様が祀られてるんだよ。そのわりに、何回も火事になってるらしいけど。」「あっはっは!」と言い交わしながら、頂上へ続く坂を上る。マイ・ラヴァーは決して肉体派じゃないし、むしろ頭脳派だけど、こういうときはワクワクしているようで歩調も早い。鳥居と社がある頂上と、狛犬が対面する石畳を繋ぐのは、40度以上はあるだろう急勾配の石段だ。「出世の石段」と呼ばれるそうで、遙か昔、徳川の時代、曲垣平九郎が馬でこの石段を登り梅を手折った話が言い伝えられているらしい(知らなかった)。そのほか、祀られた「火産霊命(ほむすびのみこと) 」の"むすび"は、息子や娘のあの"むす"と同じ語源だよ、という話や、当時はこの丘から房総半島まで見渡せたらしいよ、という話を聞く。はとバスのガイドさんもびっくりの『マイ・ラヴァーと行く東京散策』は、今日もイイ感じだ。
丘のすぐ裏手には、港区を占拠しつつあるMとかいう総合ディベロッパーの建てたタワーが二つある。「高いところから愛宕神社を見てみたいね。」という話になり、タワーの入り口を探す二人(今思うとこれがマズかった)。居住スペースのみで占められたタワーは、当然ながらセキュリティも万全で、やたら重々しい姿の守衛さんがいる。「この上、上れませんかねぇ?」と駄目もとで尋ねる私たち。「申し訳ありませんが、こちらは住居ですので…。」「あ、さいですか。あっちのタワーもそうですか?」「あちらは42階にレストランがありますので、そちらへは上れますが…」「あっ、そうですか!ありがとうございます!」と、引っ返そうとする私たちに後ろから釘が。
「お待ちください!大層、高級なレストランでございます!!」
…左様ですか(うるせーやい)。
怯まず、たゆまず、42階を目指す我ら。こちらのロビーも綺麗だ。広い。「でもさ、こっちはテナントが入ってるんだから、フロアに降りるくらいはできるよ。」「だよね、きっと360度ガラス張りとかだろうし。」などと井の中の蛙のような発言を繰り出しながら、チーン、と42階に到着。なんと、関所が!!入り鉄砲ならぬ、入り貧乏まかり許さぬぞ立ち去れい!的状況だ。すごすごと退散。悔しいからトイレくらい足跡を付けてやろうと思い、2階(ここは入れる)で用を足してみた。今こそ、ビバ!カッパ!と叫ぶときだ。
Mタワーを脱出し、タモリが認定したという東京の「名坂」を上りながら、橙色に光り始めた東京タワーを仰ぎ見る。綺麗やね、と言うと、うん綺麗だね、と答える人が隣にいる。下から見るタワーは決して悪くない。光り輝く高いところを目指して、上って、上りつめて、いざ高いところに到達したとき、何が見えるのだろう。視界が開けることと視野が広がることは、同義ではない。私たちは、こうして地上から眺めるから、美しい東京タワーそのものを「美しい」と思う。高いところにいる人は、どんなものを見て「美しい」と思うのだろう。もし私が地上42階に上ることになったとして、人がなかなか入れないフロアで毎日のように食事をするのかな、と考えた。私は、42階でも、片手鍋を使って人のためにゴハンを作る気がする。
せっかくだからということで、想定の範囲外だが、東京タワーに上る。
夜の帳がまさに降りんとする時間、カップルがいっぱいいるし、いっか、と少々パーソナルスペースを狭めに設定。東京の夜景を一望。街と街を繋ぐ道路の上を車が走って、まるで、血管を行く血流みたいだ。あっちには、お台場の観覧車。あっちには、六本木ヒルズ。最近読んだばかりの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の一節を思い出す。東京は、地方から集まる若者たちの夢を掃除機のように吸い上げて、ぶんぶんと回転し、翻弄し、やがてはじかれたものが塵のように溜まっていく、とリリー・フランキーは語る。ここはそんなに悪い街だろうか。東京には、坂があるし、海があるし、愛宕神社もある。ゴミできらめく世界が僕たちを拒んでも、とスピッツが歌うように、ゴミの中からいつも綺麗なものを探して見せてくれる隣の人に寄り添いながら、ゴミを見て「汚い」と言うだけなら誰でもできるけど、と思ったりした。
蝋人形を見たり、ホログラムを見たり、ギネス記録の展示を見たりしながら、タワーを降りる。夕飯は、新橋にて、豚肉がこれでもか!と入った味噌ラーメンを。はふはふ、もぐもぐ、テクテク、ブルブル、チュッ。
以上。
立春に思う
2006年2月4日書くことが無いようなあるような、そんな一日。
メイプルジャム・オン・ザ・トーストで、ブランチ。コタツで寝ころぶ母を横目に、夕飯の構想を練る。親が料理嫌いだと、子どもは料理好きになるのだろうか。でも、世間には、料理上手の母に触発されて料理を小さい頃からしていた、という人も多いしな。なんにせよ、ネクラの一人っ子(←私のこと)が家ですることといえば、ゲームをするか(卒業)、絵を描くか(最近ご無沙汰)、本を読むか、料理をするか、だ。
いそいそと料理本を広げる。まさに、至福のひととき。
本を読んで「あ、コレを作ろう!」と思っても、マイナーな調味料を揃えていない我が家なので、わざわざ買い足さなければいけない。そういうわけで、ずっと作りたいと思っていたマリネも、密かに興味があるココナッツカレーも、作れずにいた。ナンプラーを使うアジアンメニューや、甜麺醤を使う中華料理も不可だ。
こんなことではいかん!と決意し、レパートリー拡大のために、買い出しへ。節分寒波の中を、震えながら行く。我が町には、最寄り駅に密接した食品街と、誰でも知ってる大手スーパーがある。両方を交互に物色して、一円でも安く購入したいところ。「ついでに、卵と、牛乳と、ワインと、発泡酒を買ってきて。」と出がけに母に言われたが、重い物ばかりじゃないか。まったく。
エキストラバージンのオリーブ油と、ワインビネガーと、クミンパウダーと、カイエンヌペッパーと、オレガノと、料理用の白ワインをゲット。冷凍食品4割引をやっており、目の色を変えて購入してしまったけど、母に頼まれた食材プラス野菜を足したら、両手に余るほどの荷物になってしまった。ヨタヨタしながら階段を上る。漫画のように転ぶ。観衆、大注目。卵が入ってたことをハッと思い出し、転んだまま急いで確認するも、何個かお亡くなりになっていた。あ゛ーーーーーーーーーーーー!!!と叫びたいところを、ぐっと堪える。M玉一パックが189円だから、卵一個につき18.9円の損失ナリ。涙が出ちゃう。
タマゴ事件はとりあえず忘れ、さっそく調理。
珍しいスパイスの蓋を開くと、我が家ではかつて嗅いだことのない香りがした。しばらくすると、スパイスと家の生活臭が混じってさらに独特な香りになる。でも、私、この香り、よく知ってる、と気づく。そうだ、我が恋人の部屋の匂いだ!と判明した瞬間、台所で爆笑。カレーばかり食べている彼の身体から発される匂いなのか、カレー用のスパイスが置いてあるキッチンの匂いなのか、そこらへんは謎だが。(キッチンの匂いだといいのだけど…。)
●シーフードのマリネ。
トマトを湯むきして、スプーンの柄で種を取り除き、1?角に。紫タマネギをみじん切りに。するめいかをまるまる処理して、食べられる部分を1?幅に。茹でだこをすりこぎで叩いて、ぶつ切りに。輪切りにしたレモンはイチョウ切りに。
いかは、塩、こしょう、白ワインでつけておく。マリネ液は、塩、クミン、カイエンヌ、オレガノをお好みで振った後(私はややクミンを多めに)、ワインビネガー少々、混ぜながら少しずつエキストラバージンオリーブ油を加えていく。出来上がったマリネ液の中にトマトとタマネギを入れて、よーく混ぜる。
フライパンにオリーブ油をたらし、みじん切りにしたニンニクを弱火で炒め、香りを出す。つけておいたいかを中火で炒め、色が変わったらたこを加えて、さっと炒める。そのままマリネ液に加え、もう一度よーく混ぜる。平らなバットに流し、密着ラップをして、味を染みこませる。しばらくしたらいかをひっくり返し、さらに寝かせる。数十分寝かせたら、冷蔵庫で冷やす。
食べる前に、薄切りレモンをON。
初めて作ったマリネは評判も上々。ワインに合うそうだ。食べてくれる人(今日は母)がいるからこそ、私は料理をしたいと思う。誰かと一緒に料理をする楽しさもさることながら、私の料理を待つ人が向こうにいる、という心境の中で行う、何かを混ぜたり、炒めたり、茹でたり、という作業は、人を優しい気持ちにする。女性が優しいと言われるのは、その優しさの性質が女という性に元々備わっているからではなく、こうした作業(女性がしがちな)を積み重ねるからじゃないかな、と思ったり。
夜は、配達。
父がいない日は、私が家業を手伝わざるを得ない。それでも、我が家の家業が配達を主にするものでよかったな、と思う。運転は嫌いじゃない。締め切った車内の空気と、道路上の規則的な光群は、私を軽い瞑想状態に導く。バイト先で先輩に言われた言葉を思い出す。「あなたは抽象世界を好むから。」とのこと。人に何かを説明するとき、私は、事象から抽出した普遍的で抽象的な何かを語って聞かせる。でも、それは私にはわかりやすくても、誰にとってもそうとは限らない。事象のひとつひとつを大事にして、いつでも具体的な世界に生きる人もいるんだ。でも、少なくとも私は、23年かけて培った私の抽象世界を大事にしたいし、それをわかってくれる人がいたらいいな、と思う。
それにつけても、寒い。はーるよ、来い。はーやく、来い。来い、こい、恋。そうだ、恋は来てました、と思って携帯を見たら、愛も来てたとさ。
------------------------------------------------------------------
その他雑感。
●ソフトコンタクト→ハードコンタクト。
ドライアイ&目にアレルギーがあるため、医師の薦めによりハードレンズに鞍替え。未だに慣れず、視界が海のようにぼやけるし、瞬きのたびにゴロゴロする。
いつまでこうなのだろう。
メイプルジャム・オン・ザ・トーストで、ブランチ。コタツで寝ころぶ母を横目に、夕飯の構想を練る。親が料理嫌いだと、子どもは料理好きになるのだろうか。でも、世間には、料理上手の母に触発されて料理を小さい頃からしていた、という人も多いしな。なんにせよ、ネクラの一人っ子(←私のこと)が家ですることといえば、ゲームをするか(卒業)、絵を描くか(最近ご無沙汰)、本を読むか、料理をするか、だ。
いそいそと料理本を広げる。まさに、至福のひととき。
本を読んで「あ、コレを作ろう!」と思っても、マイナーな調味料を揃えていない我が家なので、わざわざ買い足さなければいけない。そういうわけで、ずっと作りたいと思っていたマリネも、密かに興味があるココナッツカレーも、作れずにいた。ナンプラーを使うアジアンメニューや、甜麺醤を使う中華料理も不可だ。
こんなことではいかん!と決意し、レパートリー拡大のために、買い出しへ。節分寒波の中を、震えながら行く。我が町には、最寄り駅に密接した食品街と、誰でも知ってる大手スーパーがある。両方を交互に物色して、一円でも安く購入したいところ。「ついでに、卵と、牛乳と、ワインと、発泡酒を買ってきて。」と出がけに母に言われたが、重い物ばかりじゃないか。まったく。
エキストラバージンのオリーブ油と、ワインビネガーと、クミンパウダーと、カイエンヌペッパーと、オレガノと、料理用の白ワインをゲット。冷凍食品4割引をやっており、目の色を変えて購入してしまったけど、母に頼まれた食材プラス野菜を足したら、両手に余るほどの荷物になってしまった。ヨタヨタしながら階段を上る。漫画のように転ぶ。観衆、大注目。卵が入ってたことをハッと思い出し、転んだまま急いで確認するも、何個かお亡くなりになっていた。あ゛ーーーーーーーーーーーー!!!と叫びたいところを、ぐっと堪える。M玉一パックが189円だから、卵一個につき18.9円の損失ナリ。涙が出ちゃう。
タマゴ事件はとりあえず忘れ、さっそく調理。
珍しいスパイスの蓋を開くと、我が家ではかつて嗅いだことのない香りがした。しばらくすると、スパイスと家の生活臭が混じってさらに独特な香りになる。でも、私、この香り、よく知ってる、と気づく。そうだ、我が恋人の部屋の匂いだ!と判明した瞬間、台所で爆笑。カレーばかり食べている彼の身体から発される匂いなのか、カレー用のスパイスが置いてあるキッチンの匂いなのか、そこらへんは謎だが。(キッチンの匂いだといいのだけど…。)
●シーフードのマリネ。
トマトを湯むきして、スプーンの柄で種を取り除き、1?角に。紫タマネギをみじん切りに。するめいかをまるまる処理して、食べられる部分を1?幅に。茹でだこをすりこぎで叩いて、ぶつ切りに。輪切りにしたレモンはイチョウ切りに。
いかは、塩、こしょう、白ワインでつけておく。マリネ液は、塩、クミン、カイエンヌ、オレガノをお好みで振った後(私はややクミンを多めに)、ワインビネガー少々、混ぜながら少しずつエキストラバージンオリーブ油を加えていく。出来上がったマリネ液の中にトマトとタマネギを入れて、よーく混ぜる。
フライパンにオリーブ油をたらし、みじん切りにしたニンニクを弱火で炒め、香りを出す。つけておいたいかを中火で炒め、色が変わったらたこを加えて、さっと炒める。そのままマリネ液に加え、もう一度よーく混ぜる。平らなバットに流し、密着ラップをして、味を染みこませる。しばらくしたらいかをひっくり返し、さらに寝かせる。数十分寝かせたら、冷蔵庫で冷やす。
食べる前に、薄切りレモンをON。
初めて作ったマリネは評判も上々。ワインに合うそうだ。食べてくれる人(今日は母)がいるからこそ、私は料理をしたいと思う。誰かと一緒に料理をする楽しさもさることながら、私の料理を待つ人が向こうにいる、という心境の中で行う、何かを混ぜたり、炒めたり、茹でたり、という作業は、人を優しい気持ちにする。女性が優しいと言われるのは、その優しさの性質が女という性に元々備わっているからではなく、こうした作業(女性がしがちな)を積み重ねるからじゃないかな、と思ったり。
夜は、配達。
父がいない日は、私が家業を手伝わざるを得ない。それでも、我が家の家業が配達を主にするものでよかったな、と思う。運転は嫌いじゃない。締め切った車内の空気と、道路上の規則的な光群は、私を軽い瞑想状態に導く。バイト先で先輩に言われた言葉を思い出す。「あなたは抽象世界を好むから。」とのこと。人に何かを説明するとき、私は、事象から抽出した普遍的で抽象的な何かを語って聞かせる。でも、それは私にはわかりやすくても、誰にとってもそうとは限らない。事象のひとつひとつを大事にして、いつでも具体的な世界に生きる人もいるんだ。でも、少なくとも私は、23年かけて培った私の抽象世界を大事にしたいし、それをわかってくれる人がいたらいいな、と思う。
それにつけても、寒い。はーるよ、来い。はーやく、来い。来い、こい、恋。そうだ、恋は来てました、と思って携帯を見たら、愛も来てたとさ。
------------------------------------------------------------------
その他雑感。
●ソフトコンタクト→ハードコンタクト。
ドライアイ&目にアレルギーがあるため、医師の薦めによりハードレンズに鞍替え。未だに慣れず、視界が海のようにぼやけるし、瞬きのたびにゴロゴロする。
いつまでこうなのだろう。
the thoughts of the day
2006年2月3日平凡な一日。
朝からバイト。よって、暗いうちに起床。窓の外を見ても、寝る前と景色がまったく変わっていないので、あまり寝た気がしない。恋人より愛しいハロゲンヒーターのスイッチを早速ON。PCの電源もON。温水で髪を濡らしてブロー。念入りに洗顔。愛用の化粧水でパッティング。そうこうするうちに起ち上がったPCのモニターを眺めながら、コーヒー牛乳を飲む。
ペアで揃えたばかりのマグカップは、眠い朝の味方。取っ手の部分がハート型で、色は赤と白。表面に愛のメッセージ(イタリア語)入り。かわゆいなあ。これにドリンクを注いで、うぐうぐと飲むと、朝からちょっとだけやる気が出る。化粧水が浸透したら、これまた愛用の化粧下地を塗って、その上からコントロールカラー(ピンク)を塗って、ファンデーションを塗って、パウダーをぽんぽんとはたく。自分でも思うが、女というものは、顔に色々と塗りすぎだ。
作り過ぎた夕飯の残りをお弁当箱に詰めて、出発。こういう日はイイ。朝ゴハンを買わずに済むからだ。誰が何と言おうと、朝は「ラヴ・パレード」(byORANGE RANGE )を聴く。もう四ヶ月くらい、聞き続けている。私は、一度気に入ると、三年は飽きずに聞き続ける。人っ子ひとり歩いていない郊外の道を、Oh、ベイベー!とハミングしながら軽快に行く。誰もいない電車の中で朝ゴハンを食べる。
バイト先にて。退職が近いゆえ、引き継ぎに追われる昨今。辞める前に新人を朝のエースに、と思って色々と教えるものの、木を見て森を想像させた方がいいのか、森を教えてから木を見せた方がいいのかで、休憩時間中も悶々と悩む。飲み込みの早いコはいるものの、そういうコにしか教えられないようでは、この先(社会人になってから)、やってられないはず。真に頭の良い人とは、頭の良い人と話ができる人じゃなくて、頭の悪い人もわかるように話ができる人のことかしら、と思ったり。
コンビニで買ったオムライス(デミグラスソース添え)を持ち込んで、後輩と仕事トーク。彼女は5つ年下で、18歳だ。私が何かを話すと「そういうもんですか。りんさんは大人ですね。」などと、のたまう。色々な話を聞きたがって、私にせがむ。5つも6つも年上の人を見る視線は、かくも眩しい光に満ちているのか。それを鑑みると、彼女よりほんの少し大人かもしれない私は、普段、どのような光をたたえて6つ上の恋人を見ているのだろう。自分がいくつになってもまだまだだと思う感覚は、私も彼も同じなのだろうか。
勤務後、野暮用を済ませて帰宅。玄関を開けると、イイ匂い。母が一人で夕飯を作ってくれることは、珍しい。帰って来たら当たり前のように部屋が湯気で満ちてて、食卓には好物が並べてあって…という生活が、ものすごく尊く懐かしいものだったんだな、と気付く。魚に添えられた大根おろしひとつとっても、重い大根を買ってきて、皮を剥いて、摺りおろして、という作業があることを実感できなかった当時、学校で起こった嫌なことや先生の悪口を食卓でぶちまけていた。今はそんな気になれない。
食器を洗いながら、母の話を聞く。うんうん、そうね、そうね、わかるわ、と頷きながら聞く。男女雇用機会均等法が施行されても、女から男へプロポーズできる時代になっても、嫁姑問題だけは無くならない。「銀婚式が近いのにお父さんと会えない。」とぐずる母に、そっか、お母さんはお父さんをとっても愛してるのね、と言い添えた後、ふと思う。彼女は、20代当時、限られた薪をどんどん燃やすように父を愛してしまって、残った愛は炭化して、ここにある。くすぶった愛を処理するのは、父の役目だ。私はなんでここにいるのだろう。
ようやく一人の時間が持てると、私は携帯を見る。「今晩は飲んできます!」という内容の留守電が一件。内容としてはそれだけなのだが、「えー、…というご連絡です。えー、また、のちほど連絡いたします。失礼します。」と、彼女へのメッセージなのに、まるで取引先の相手に残すような律儀な留守電だったので、笑う。笑ったところで、そうか、金曜か、と気付く。
愛用のマグに熱々のコーヒーを淹れて〆られれば最高だけど、明日の朝まで待とう。
朝からバイト。よって、暗いうちに起床。窓の外を見ても、寝る前と景色がまったく変わっていないので、あまり寝た気がしない。恋人より愛しいハロゲンヒーターのスイッチを早速ON。PCの電源もON。温水で髪を濡らしてブロー。念入りに洗顔。愛用の化粧水でパッティング。そうこうするうちに起ち上がったPCのモニターを眺めながら、コーヒー牛乳を飲む。
ペアで揃えたばかりのマグカップは、眠い朝の味方。取っ手の部分がハート型で、色は赤と白。表面に愛のメッセージ(イタリア語)入り。かわゆいなあ。これにドリンクを注いで、うぐうぐと飲むと、朝からちょっとだけやる気が出る。化粧水が浸透したら、これまた愛用の化粧下地を塗って、その上からコントロールカラー(ピンク)を塗って、ファンデーションを塗って、パウダーをぽんぽんとはたく。自分でも思うが、女というものは、顔に色々と塗りすぎだ。
作り過ぎた夕飯の残りをお弁当箱に詰めて、出発。こういう日はイイ。朝ゴハンを買わずに済むからだ。誰が何と言おうと、朝は「ラヴ・パレード」(byORANGE RANGE )を聴く。もう四ヶ月くらい、聞き続けている。私は、一度気に入ると、三年は飽きずに聞き続ける。人っ子ひとり歩いていない郊外の道を、Oh、ベイベー!とハミングしながら軽快に行く。誰もいない電車の中で朝ゴハンを食べる。
バイト先にて。退職が近いゆえ、引き継ぎに追われる昨今。辞める前に新人を朝のエースに、と思って色々と教えるものの、木を見て森を想像させた方がいいのか、森を教えてから木を見せた方がいいのかで、休憩時間中も悶々と悩む。飲み込みの早いコはいるものの、そういうコにしか教えられないようでは、この先(社会人になってから)、やってられないはず。真に頭の良い人とは、頭の良い人と話ができる人じゃなくて、頭の悪い人もわかるように話ができる人のことかしら、と思ったり。
コンビニで買ったオムライス(デミグラスソース添え)を持ち込んで、後輩と仕事トーク。彼女は5つ年下で、18歳だ。私が何かを話すと「そういうもんですか。りんさんは大人ですね。」などと、のたまう。色々な話を聞きたがって、私にせがむ。5つも6つも年上の人を見る視線は、かくも眩しい光に満ちているのか。それを鑑みると、彼女よりほんの少し大人かもしれない私は、普段、どのような光をたたえて6つ上の恋人を見ているのだろう。自分がいくつになってもまだまだだと思う感覚は、私も彼も同じなのだろうか。
勤務後、野暮用を済ませて帰宅。玄関を開けると、イイ匂い。母が一人で夕飯を作ってくれることは、珍しい。帰って来たら当たり前のように部屋が湯気で満ちてて、食卓には好物が並べてあって…という生活が、ものすごく尊く懐かしいものだったんだな、と気付く。魚に添えられた大根おろしひとつとっても、重い大根を買ってきて、皮を剥いて、摺りおろして、という作業があることを実感できなかった当時、学校で起こった嫌なことや先生の悪口を食卓でぶちまけていた。今はそんな気になれない。
食器を洗いながら、母の話を聞く。うんうん、そうね、そうね、わかるわ、と頷きながら聞く。男女雇用機会均等法が施行されても、女から男へプロポーズできる時代になっても、嫁姑問題だけは無くならない。「銀婚式が近いのにお父さんと会えない。」とぐずる母に、そっか、お母さんはお父さんをとっても愛してるのね、と言い添えた後、ふと思う。彼女は、20代当時、限られた薪をどんどん燃やすように父を愛してしまって、残った愛は炭化して、ここにある。くすぶった愛を処理するのは、父の役目だ。私はなんでここにいるのだろう。
ようやく一人の時間が持てると、私は携帯を見る。「今晩は飲んできます!」という内容の留守電が一件。内容としてはそれだけなのだが、「えー、…というご連絡です。えー、また、のちほど連絡いたします。失礼します。」と、彼女へのメッセージなのに、まるで取引先の相手に残すような律儀な留守電だったので、笑う。笑ったところで、そうか、金曜か、と気付く。
愛用のマグに熱々のコーヒーを淹れて〆られれば最高だけど、明日の朝まで待とう。
2月2日の雑感
2006年2月2日久々の一日オフ。
職業欄に記入する機会があったら、「学生」と書くより、絶滅職種の「家事手伝い」と書いた方が正しいような気がする昨今。社会人なら「月〜金:仕事、土日:オフ」という区切りがしっかりなされるところだが、私のような身分だと、バイトやら、料理教室やら、なんやかや、と毎日のようにちょこちょこと出かけるので、「丸々オフ!」という日が実は少ない。
今日は、ひねもす、お家でまったり。
●掃除と運勢。
こんな日じゃない限りあまりできない場所を綺麗に。洗面所や、トイレ、玄関の三和土など。
私は、星占いと細木数子はあまり信じないけど、おばあちゃんの知恵袋的な風水に関しては、それなりに意識している。たとえば、トイレを綺麗にしていればお金が貯まる、とか、清潔な水回りには神が宿る、など。「やった!昨日トイレ掃除したから、臨時収入!」などという体験は残念ながら一度も無いけど、汚いよりは綺麗にしておいた方がいいことありそうな気がする。
美輪明宏も「美しい部屋から美が生まれるのです。」と言っているらしい。これは気のせいではなく、本当の話だと思う。美、というとあまりに抽象的だけど、落ち込んでるときに部屋が散らかってたらますます凹むし、要は、ちょっとした気の持ちように住環境は多大な影響を及ぼしているはずだ、ということ。最近仕事がイマイチだなと思う人は、気休め程度ではあるが、部屋を掃除すると良いだろう(←母の受け売り)。
とはいっても、水アカを取り除く作業はイマイチ好きになれない。
●不言実行のピンポイント。
「私、こんなことをわざわざやってるのよ!」と言いながら女っぷりを上げている人は、正直、あまり魅力的じゃない(気がする)。
たとえば、アイシャドウのチップやファンデーションのパフなどは、こまめに洗う人とそうでない人が別れるところだろう。それを頻繁に清潔にしているからといって、「私、ちゃんとこういうの綺麗にして、大切に使ってるんだー。」と人に言うのもね。何も言わず、何も語らず、こういう生活の枝葉の部分まで意識を行き届かせ、きちっとこなし続ける女性に憧れる。
でも、たまには、褒めてほしい。(←駄目じゃん。)
●りん流ピラフ。
ニンジン、ピーマン、タマネギ、(マッシュルーム)、(ツナ)
ビーフコンソメ、白米、バター
米は最初にといでおく。ニンジンはサイコロ状に、ピーマンは色紙切り、タマネギはみじん切り。炊飯釜にお湯(米と同程度)を入れ、コンソメを溶かす。その上から粗塩少々。切った野菜をバターで炒めて軽く塩・こしょう→コンソメ味の湯の中に。野菜を炒めたフライパンに再びバターを落として、バターライスを作ったら、同じように釜に入れて、炊飯。
当たり前だが、炊飯の時間を考慮するので、普段より早めに作り始める必要がある。
悲しいのは、それなりに手間がかかる割に、献立の上ではただの「飯」に過ぎない、ということ。ステーキ(ただ焼くだけ!)などと組み合わせれば大したことはないが、メインが手の込んだものの日は、「飯」にまで時間をかけると、疲れていけない。ぐったり。
●ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』(NHK出版)を読む。
こんな重い本(700ページ近くある)を、先日の浅草デート中に買ってしまった。本体価格¥2500が、なんと¥750! ビバ、古本屋!
高校時代、リーディングの授業中にテキストで扱って以来、ずっと読んでみたかった本。というのも、私は倫理が大好きで、高校に入って初めて倫理の授業を受けたとき、「私が学校で教えて欲しかったのは、こういうことだよ!」と、いたく感動したからだ。比較的すぐに役立つ勉強(算数とか英語とか)はまったく不得手で早々と諦めた私だが、倫理だけはテスト勉強も苦じゃなかった。
14歳のソフィーの元に、ある日、「あなたは誰?」と書かれた不思議な手紙が届くところから、物語は始まる。
翻訳本なので若干の違和感はあるが、ただでさえ理解しにくい「哲学」を扱っているのに、原本を読んだらますますわけがわからないだろう。ま、「哲学」関係に限らず、外国語文献は読まないけど。(読めない、ともいう)。
私はソフィーだ。
職業欄に記入する機会があったら、「学生」と書くより、絶滅職種の「家事手伝い」と書いた方が正しいような気がする昨今。社会人なら「月〜金:仕事、土日:オフ」という区切りがしっかりなされるところだが、私のような身分だと、バイトやら、料理教室やら、なんやかや、と毎日のようにちょこちょこと出かけるので、「丸々オフ!」という日が実は少ない。
今日は、ひねもす、お家でまったり。
●掃除と運勢。
こんな日じゃない限りあまりできない場所を綺麗に。洗面所や、トイレ、玄関の三和土など。
私は、星占いと細木数子はあまり信じないけど、おばあちゃんの知恵袋的な風水に関しては、それなりに意識している。たとえば、トイレを綺麗にしていればお金が貯まる、とか、清潔な水回りには神が宿る、など。「やった!昨日トイレ掃除したから、臨時収入!」などという体験は残念ながら一度も無いけど、汚いよりは綺麗にしておいた方がいいことありそうな気がする。
美輪明宏も「美しい部屋から美が生まれるのです。」と言っているらしい。これは気のせいではなく、本当の話だと思う。美、というとあまりに抽象的だけど、落ち込んでるときに部屋が散らかってたらますます凹むし、要は、ちょっとした気の持ちように住環境は多大な影響を及ぼしているはずだ、ということ。最近仕事がイマイチだなと思う人は、気休め程度ではあるが、部屋を掃除すると良いだろう(←母の受け売り)。
とはいっても、水アカを取り除く作業はイマイチ好きになれない。
●不言実行のピンポイント。
「私、こんなことをわざわざやってるのよ!」と言いながら女っぷりを上げている人は、正直、あまり魅力的じゃない(気がする)。
たとえば、アイシャドウのチップやファンデーションのパフなどは、こまめに洗う人とそうでない人が別れるところだろう。それを頻繁に清潔にしているからといって、「私、ちゃんとこういうの綺麗にして、大切に使ってるんだー。」と人に言うのもね。何も言わず、何も語らず、こういう生活の枝葉の部分まで意識を行き届かせ、きちっとこなし続ける女性に憧れる。
でも、たまには、褒めてほしい。(←駄目じゃん。)
●りん流ピラフ。
ニンジン、ピーマン、タマネギ、(マッシュルーム)、(ツナ)
ビーフコンソメ、白米、バター
米は最初にといでおく。ニンジンはサイコロ状に、ピーマンは色紙切り、タマネギはみじん切り。炊飯釜にお湯(米と同程度)を入れ、コンソメを溶かす。その上から粗塩少々。切った野菜をバターで炒めて軽く塩・こしょう→コンソメ味の湯の中に。野菜を炒めたフライパンに再びバターを落として、バターライスを作ったら、同じように釜に入れて、炊飯。
当たり前だが、炊飯の時間を考慮するので、普段より早めに作り始める必要がある。
悲しいのは、それなりに手間がかかる割に、献立の上ではただの「飯」に過ぎない、ということ。ステーキ(ただ焼くだけ!)などと組み合わせれば大したことはないが、メインが手の込んだものの日は、「飯」にまで時間をかけると、疲れていけない。ぐったり。
●ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』(NHK出版)を読む。
こんな重い本(700ページ近くある)を、先日の浅草デート中に買ってしまった。本体価格¥2500が、なんと¥750! ビバ、古本屋!
高校時代、リーディングの授業中にテキストで扱って以来、ずっと読んでみたかった本。というのも、私は倫理が大好きで、高校に入って初めて倫理の授業を受けたとき、「私が学校で教えて欲しかったのは、こういうことだよ!」と、いたく感動したからだ。比較的すぐに役立つ勉強(算数とか英語とか)はまったく不得手で早々と諦めた私だが、倫理だけはテスト勉強も苦じゃなかった。
14歳のソフィーの元に、ある日、「あなたは誰?」と書かれた不思議な手紙が届くところから、物語は始まる。
翻訳本なので若干の違和感はあるが、ただでさえ理解しにくい「哲学」を扱っているのに、原本を読んだらますますわけがわからないだろう。ま、「哲学」関係に限らず、外国語文献は読まないけど。(読めない、ともいう)。
私はソフィーだ。
アイ・アム・ラーメニング
2006年2月1日そぼ降る雨に濡れながら。
数ヶ月ぶりにスーツを着て外出。
正装とはいえ、疲れる。これは推測だが、男性のそれよりも、女性の方がスカートがタイトな分、辛いはずだ。しかも、ストッキングを穿いているとはいえ、脚がずる出しなので寒い。傘の先端から水が滴って脚にかかる。寒い。
と、ぶちぶち文句を(心の中で)垂れながら移動していると、私はどうしても当時(就職活動中)を思い出してしまう。エントリーシートと面接が何よりの心配事だったあの頃を思い返すと、やはり、どう考えてもまともな精神状況だったとはいえない。スーツが窮屈なことなど、さして気にならなかった。ほかに考えなきゃいけないことがいっぱいあったからだ。
フォーマルな野暮用を済ませたのち、一人飯。
スーツを着ると一人でゴハンを食べたくなるのは、当時の名残かもしれない。一人のときはラーメンがイイ。誰に何と言われても自分がオイシイと思う味の店へ行く。替え玉を頼んでも誰にも咎められない。にんにく臭くなっても誰にも咎められない。私は自由だ。
チャーシューを咀嚼しながら、就職活動について思いを巡らせた。
就職活動は辛い。「自分が拒否される」という痛みを知るからだ。就職活動と大失恋を経験する前の私は、この世の多くのことは、ある程度の努力さえすれば達成できるような気が、ぼんやりとだが、していた。達成できないのは、努力が不足しているせいだと。そのわりに、「これ以上ムリ!」と言える程の努力をしたことはないのだが。でも、だからこそかもしれない。「これ以上ムリ!」と言える程の努力の果てには、必ず栄光があると思っていた。そして、その栄光の可能性はきっと万人に共通に与えられているはずだ、と。
努力しても手に出来ないものがあると知った、と書くと、まるですべてを悟ったいけすかない女みたいだけど、むしろ、私は少し優しくなった(と思う)。ほんの、少しね。努力→栄光、というあまりにも短絡なベクトルにも、ケース・バイ・ケースがあると知った。そして、不幸にもケースからはみ出てしまったとき、「努力が足りなかった!」と他人を非難できる気がしない。短絡だったベクトルは、昔の私が予想もしなかった方角へ向けて、放射状に伸びようとしている。
さらに。
痛みへの耐性ができた。「自分が拒否される」という痛みへの耐性だ。今でも拒否されたらそりゃ辛いけど、当時のように、自分のすべてが否定されたような気がしてどん底に落ちることはないだろう。というのも、自分のアピールできる部分(ときに、才能とも言われる。)を「どうでしょ?」と差し出していた当時、私は、火が無いのに煙を探すような不毛なことをしていた気がしてならない。実は、これは就職活動とはまったく関係ないのだが、自分でも気づいていなかった「火」が私の中にはあって、そこからのぼる煙を見つけてくれた人がいて、たとえそれが民間企業の求めるものではないとしても、私はその「火」が見つかったことがとても嬉しい。
当時も恋をしていたし、今も恋をしているけど、ひとつだけ腑に落ちないことがある。恋に落ちるのは交通事故のようなものだからともかく、いざ「付き合う」となったとき、相手の「火」が見つからないのに付き合っていいものだろうか。大層な火じゃなくていい。たとえ消えそうな火だとしても。「可愛いね。」と言われるより、「キミの、作った、書いた、言った、これらはスゴイね!」と、何かしらのささやかな才能を認めてもらえたときの方が嬉しいし、私は、そういうとき、天にも昇るような気持ちになる。
就職活動はときに恋にも例えられるけど、どちらにも言えることは、万人に受け入れられることは決してない、ということか。ただ、自分の「火」が見つからないまま企業を探すのはなかなか大変なことだし、同じように、自分の「火」を認めてくれない人と一緒にいるのも辛いことだ。
「火」の所在が自分でもわからなかったからこそ、私は色々な男の人と付き合うことができたけど、一度でもそれっぽいものを見つけて賛美してもらう体験をした以上、もう、これからは、そう簡単に人を好きにならないような気がする。そして、願わくば、もう新たに始めることにならなければいいのに、とも思う。
本日、豚骨ラーメンを食べながらやたら難しい顔をしていた女子大生(正装)がいたら、その人は、たぶん、私だ。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●りんの素敵な料理人への道。
味噌汁ひとつ作るにしても。
豆腐を入れるときは嵩が増すので、最初に入れる水の量を少なめにしなければいけない。それとは逆に、じゃがいもなどそれなりに時間をかけて柔らかくしたい具のときは、煮込んでいる間に水が減るのでやや多めにしておくべし。
料理の本を読んで「これは小さじ4杯、これは大さじ2杯…」とやっていても、家のコンロの火力や、その日の具材の調子が違うので、自分なりに目と舌を使って微調整しなければ。それら微調整が完璧に(しかも毎日)できる人こそ、「料理上手」と言えるのだろう。
日々是精進。。。
●本日のBGM。
『Dance mania』シリーズ、『Dance mania DIAMOND』(二枚組)。
高校一年の頃、体育の時間の創作ダンス用にレンタルしたもの。当時はなんとも思わなかったけど、この年になって、「ああ、私はこういうの好きだなあ。」としみじみ思う。これがあれば、朝も、夜も、ノリノリ!
Smile,DKの「Butterfly」、Aquaの「Barbie Girl」、Eiffel65の「blue(Da Ba Dee)」が好き。
数ヶ月ぶりにスーツを着て外出。
正装とはいえ、疲れる。これは推測だが、男性のそれよりも、女性の方がスカートがタイトな分、辛いはずだ。しかも、ストッキングを穿いているとはいえ、脚がずる出しなので寒い。傘の先端から水が滴って脚にかかる。寒い。
と、ぶちぶち文句を(心の中で)垂れながら移動していると、私はどうしても当時(就職活動中)を思い出してしまう。エントリーシートと面接が何よりの心配事だったあの頃を思い返すと、やはり、どう考えてもまともな精神状況だったとはいえない。スーツが窮屈なことなど、さして気にならなかった。ほかに考えなきゃいけないことがいっぱいあったからだ。
フォーマルな野暮用を済ませたのち、一人飯。
スーツを着ると一人でゴハンを食べたくなるのは、当時の名残かもしれない。一人のときはラーメンがイイ。誰に何と言われても自分がオイシイと思う味の店へ行く。替え玉を頼んでも誰にも咎められない。にんにく臭くなっても誰にも咎められない。私は自由だ。
チャーシューを咀嚼しながら、就職活動について思いを巡らせた。
就職活動は辛い。「自分が拒否される」という痛みを知るからだ。就職活動と大失恋を経験する前の私は、この世の多くのことは、ある程度の努力さえすれば達成できるような気が、ぼんやりとだが、していた。達成できないのは、努力が不足しているせいだと。そのわりに、「これ以上ムリ!」と言える程の努力をしたことはないのだが。でも、だからこそかもしれない。「これ以上ムリ!」と言える程の努力の果てには、必ず栄光があると思っていた。そして、その栄光の可能性はきっと万人に共通に与えられているはずだ、と。
努力しても手に出来ないものがあると知った、と書くと、まるですべてを悟ったいけすかない女みたいだけど、むしろ、私は少し優しくなった(と思う)。ほんの、少しね。努力→栄光、というあまりにも短絡なベクトルにも、ケース・バイ・ケースがあると知った。そして、不幸にもケースからはみ出てしまったとき、「努力が足りなかった!」と他人を非難できる気がしない。短絡だったベクトルは、昔の私が予想もしなかった方角へ向けて、放射状に伸びようとしている。
さらに。
痛みへの耐性ができた。「自分が拒否される」という痛みへの耐性だ。今でも拒否されたらそりゃ辛いけど、当時のように、自分のすべてが否定されたような気がしてどん底に落ちることはないだろう。というのも、自分のアピールできる部分(ときに、才能とも言われる。)を「どうでしょ?」と差し出していた当時、私は、火が無いのに煙を探すような不毛なことをしていた気がしてならない。実は、これは就職活動とはまったく関係ないのだが、自分でも気づいていなかった「火」が私の中にはあって、そこからのぼる煙を見つけてくれた人がいて、たとえそれが民間企業の求めるものではないとしても、私はその「火」が見つかったことがとても嬉しい。
当時も恋をしていたし、今も恋をしているけど、ひとつだけ腑に落ちないことがある。恋に落ちるのは交通事故のようなものだからともかく、いざ「付き合う」となったとき、相手の「火」が見つからないのに付き合っていいものだろうか。大層な火じゃなくていい。たとえ消えそうな火だとしても。「可愛いね。」と言われるより、「キミの、作った、書いた、言った、これらはスゴイね!」と、何かしらのささやかな才能を認めてもらえたときの方が嬉しいし、私は、そういうとき、天にも昇るような気持ちになる。
就職活動はときに恋にも例えられるけど、どちらにも言えることは、万人に受け入れられることは決してない、ということか。ただ、自分の「火」が見つからないまま企業を探すのはなかなか大変なことだし、同じように、自分の「火」を認めてくれない人と一緒にいるのも辛いことだ。
「火」の所在が自分でもわからなかったからこそ、私は色々な男の人と付き合うことができたけど、一度でもそれっぽいものを見つけて賛美してもらう体験をした以上、もう、これからは、そう簡単に人を好きにならないような気がする。そして、願わくば、もう新たに始めることにならなければいいのに、とも思う。
本日、豚骨ラーメンを食べながらやたら難しい顔をしていた女子大生(正装)がいたら、その人は、たぶん、私だ。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●りんの素敵な料理人への道。
味噌汁ひとつ作るにしても。
豆腐を入れるときは嵩が増すので、最初に入れる水の量を少なめにしなければいけない。それとは逆に、じゃがいもなどそれなりに時間をかけて柔らかくしたい具のときは、煮込んでいる間に水が減るのでやや多めにしておくべし。
料理の本を読んで「これは小さじ4杯、これは大さじ2杯…」とやっていても、家のコンロの火力や、その日の具材の調子が違うので、自分なりに目と舌を使って微調整しなければ。それら微調整が完璧に(しかも毎日)できる人こそ、「料理上手」と言えるのだろう。
日々是精進。。。
●本日のBGM。
『Dance mania』シリーズ、『Dance mania DIAMOND』(二枚組)。
高校一年の頃、体育の時間の創作ダンス用にレンタルしたもの。当時はなんとも思わなかったけど、この年になって、「ああ、私はこういうの好きだなあ。」としみじみ思う。これがあれば、朝も、夜も、ノリノリ!
Smile,DKの「Butterfly」、Aquaの「Barbie Girl」、Eiffel65の「blue(Da Ba Dee)」が好き。
simple , me
2006年1月31日コメント (6)誰も気付いてないとは思うけど、意識してることがある。
日記を始めてもうすぐ一年経つ。私の文章は、「実際にあったこと」より「自分が思ったこと」の占める割合の方が高い。それを、最近は、敢えて意識的に「実際にあったこと」を多めに書くようにしている。
自分の正しさを100%信じ込まないようにしよう、と、そうは思っていても、口に出す(文章にする)ということは、それが正しいと思っているからこそ口に出すわけで。「自分が思ったこと」を書くことで、自分の"正しさ"を模索している。「真に正しいことなど存在しない。」と書きながら、「正しいことは無い」という仮定の正しさを証明しようとしている。
「今日はこんなことがあった。」という事実だけを述べた文章は、とてもニュートラルだ。自分の正しさを信じ込まない姿勢は、何も足さず、何も引かず、という極地に達するために必要なことだろう。一切を取り除いて最後に残った「今日はこんなことがあった。」という文章は、プロセスにおいては「そのとき、こんな風に思っていたのよ。」という"主観"があったとしても、それを感じさせない。主観を省いた文章は面白みに欠けるけど、主観は主観に過ぎないから、きっと、自分だけが知っていればいい。(もちろん、これは、究極的なハナシね。)
私は「自分が思ったこと」に自信を持っているのだろうか。もちろん、「これは正しい」と思っても、文章にする前に、正しくないかもしれない可能性を考慮して隙を作らないようにしている。隙を作らないように配慮することで、より一層、説の正しさが(自分の中で)強固な印象になってしまう。「リトマス紙につけたから、絶対に、絶対に、これは酸性です!」と言いたいのと同じ。
ま、自分では正しいと思えるんだからそれでいいじゃん、とも思う。一体、誰に忠義立てしてるのよ、と。
これは理想だけど、「今日一日どうだった?」と問われて、「こんなことがあって、私はこう思って、こう考えて、コレコレはこういうものだと思いました!」と胸を張って言うよりも、「今日はね、コレコレをしたの。」とだけ言ってみたい。そんなのつまらない。と、今は思う。本当は色々考えているのに。けど、本当は色々と考えている自分を表に出さない勇気(それはたぶん勇気なんだ。馬鹿と思われる可能性があるから。)がもう少し身に付いたらいいのにな、と思います。
さらに。
世間に言い訳をせずに(つまり、日記にも書かずに)、「今晩は何を作ろうかな?」と、人に話すほどでもないことばかりを考えながら日々を過ごせればいいなあ、と思います。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●韓国風サラダ。
ごま油と結婚したいくらい、ごま油を愛している。
サンチュ(サラダ菜、サニーレタス)、茹でだこ、きゅうり、白ネギ、
白すりごま、しょうゆ、砂糖、白胡椒、ごま油、塩、酢、オイスターソース、
たこは軽く湯通し。白ネギは細く切って白髪ネギに。切った野菜とたこを、調味料で和えるだけ。お手軽。松の実をお好みで。ああ、ごま油、ラブ。。。
●豆乳ワンタンスープ。
ワンタンの具は、えび。背ワタを除いたえびを、水気を拭き取ってから粗みじん切りに。紹興酒、しょうがの絞り汁、片栗粉、ごま油、ラー油、塩、白胡椒と一緒によく混ぜてから、ワンタンで包む。ワンタンはごま油とともに一分茹でて、あげておく。
スープは、簡単。刻んだしょうがをごま油で炒めて、香りが出たら上から水菜を。水菜がしんなりしたら、調整豆乳、水、鶏ガラスープの素、紹興酒を加える。一煮立ち。塩、白胡椒で味を調える。あげておいたワンタンと一緒に盛り付け。
スープは好きだけど、それだけではおかずにならないから困る。メインディッシュに時間をかける日は、菜物と汁物を簡単に済ませたいし。むう。
日記を始めてもうすぐ一年経つ。私の文章は、「実際にあったこと」より「自分が思ったこと」の占める割合の方が高い。それを、最近は、敢えて意識的に「実際にあったこと」を多めに書くようにしている。
自分の正しさを100%信じ込まないようにしよう、と、そうは思っていても、口に出す(文章にする)ということは、それが正しいと思っているからこそ口に出すわけで。「自分が思ったこと」を書くことで、自分の"正しさ"を模索している。「真に正しいことなど存在しない。」と書きながら、「正しいことは無い」という仮定の正しさを証明しようとしている。
「今日はこんなことがあった。」という事実だけを述べた文章は、とてもニュートラルだ。自分の正しさを信じ込まない姿勢は、何も足さず、何も引かず、という極地に達するために必要なことだろう。一切を取り除いて最後に残った「今日はこんなことがあった。」という文章は、プロセスにおいては「そのとき、こんな風に思っていたのよ。」という"主観"があったとしても、それを感じさせない。主観を省いた文章は面白みに欠けるけど、主観は主観に過ぎないから、きっと、自分だけが知っていればいい。(もちろん、これは、究極的なハナシね。)
私は「自分が思ったこと」に自信を持っているのだろうか。もちろん、「これは正しい」と思っても、文章にする前に、正しくないかもしれない可能性を考慮して隙を作らないようにしている。隙を作らないように配慮することで、より一層、説の正しさが(自分の中で)強固な印象になってしまう。「リトマス紙につけたから、絶対に、絶対に、これは酸性です!」と言いたいのと同じ。
ま、自分では正しいと思えるんだからそれでいいじゃん、とも思う。一体、誰に忠義立てしてるのよ、と。
これは理想だけど、「今日一日どうだった?」と問われて、「こんなことがあって、私はこう思って、こう考えて、コレコレはこういうものだと思いました!」と胸を張って言うよりも、「今日はね、コレコレをしたの。」とだけ言ってみたい。そんなのつまらない。と、今は思う。本当は色々考えているのに。けど、本当は色々と考えている自分を表に出さない勇気(それはたぶん勇気なんだ。馬鹿と思われる可能性があるから。)がもう少し身に付いたらいいのにな、と思います。
さらに。
世間に言い訳をせずに(つまり、日記にも書かずに)、「今晩は何を作ろうかな?」と、人に話すほどでもないことばかりを考えながら日々を過ごせればいいなあ、と思います。
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備忘。
●韓国風サラダ。
ごま油と結婚したいくらい、ごま油を愛している。
サンチュ(サラダ菜、サニーレタス)、茹でだこ、きゅうり、白ネギ、
白すりごま、しょうゆ、砂糖、白胡椒、ごま油、塩、酢、オイスターソース、
たこは軽く湯通し。白ネギは細く切って白髪ネギに。切った野菜とたこを、調味料で和えるだけ。お手軽。松の実をお好みで。ああ、ごま油、ラブ。。。
●豆乳ワンタンスープ。
ワンタンの具は、えび。背ワタを除いたえびを、水気を拭き取ってから粗みじん切りに。紹興酒、しょうがの絞り汁、片栗粉、ごま油、ラー油、塩、白胡椒と一緒によく混ぜてから、ワンタンで包む。ワンタンはごま油とともに一分茹でて、あげておく。
スープは、簡単。刻んだしょうがをごま油で炒めて、香りが出たら上から水菜を。水菜がしんなりしたら、調整豆乳、水、鶏ガラスープの素、紹興酒を加える。一煮立ち。塩、白胡椒で味を調える。あげておいたワンタンと一緒に盛り付け。
スープは好きだけど、それだけではおかずにならないから困る。メインディッシュに時間をかける日は、菜物と汁物を簡単に済ませたいし。むう。
寒くて目覚める午前九時。
ただでさえ寒いのに、横で眠る人に布団を独占されていた。朝から身震い。一人そそくさと脱出→朝ゴハンの買い出しへ。
日曜日、彼の家の周りは賑やかになる。久しぶりに気持ちよい陽気の朝だ。お財布だけを持って出てきた老夫婦や、赤ちゃんを前後に抱えてさらに両手に袋を持つ奥さんなどの間を通り抜け、私も入れて入れて、と、スーパーで食材を物色。
近所にはスーパーが二軒あって、おそらく値段が違う。近々、調査すべしだ。とにかく、何が重要かって、彼の部屋で作れること(場所をとる料理は不可)、白米を必要としないこと(米のストックが無い)、解凍を必要としないこと(電子レンジが無い)、調味料を買わずに済むこと(塩くらいしか無いが、しょうゆは補填完了。)、そして1000円札一枚に収まることだ。会員様価格、という表示に指をくわえる私。会員になりたい。
彼の部屋の鍋底がヒドイことになっていたので、100円ショップで鍋も買う。いかにも100円な、アルミの片手鍋。初めてホイッパー(泡立て器)を買ったときや、初めてゴムべらを買ったときのことを思い出した。お菓子作り用ではなく、料理のための台所用品を買うという行為は、なんとなく自立の匂いがする。
買い物袋をふたつ提げて、帰宅。
野菜を刻んでいたら、「あ、すんません…むにゃむにゃ…」とつぶやく布団の中の家主。何に対して謝っているのかわからない。夢の中で取引先と交渉中なのか。ゴハンの支度をしている私に対して「寝ててスミマセン。」と言いたいのか。とりあえず放置して切った野菜を炒めていたら、「あ…おかえりぃ…。」と言い出した。とっくの昔に帰って来てるぞ。
フライパンで炒めた野菜を鍋に移して、グツグツと煮込む。キッチンといっても、振り向けば奴(大量の本)がいる。楳図かずおの『漂流教室』を引き抜いて、煮えるまで読書。が、料理をしながら読むものではないようだ。
恋をすると煮込み料理を作りたくなる、というのはわりと人口に膾炙した現象らしい。その理由はさっぱりわからないが、気持ちはわかる。こういう時間は悪くないし、野菜と肉がおいしく混ざる匂いと、布団の中のぬくい湿気と、三十路前の男の寝顔を独占できる私は、幸せの象徴の渦の中にいる、と思う。具材に煮汁が染みこむように、幸せに満ちた部屋の空気が私の体にも染みこめばいいのに、なーんて少女マンガのヒロインっぽいことを考えてみたり。
ようやく目覚めた人が「わー。スゴイねー。イイ匂いだねー。」と現れた頃には、料理もほぼ完成。パソコン周りを片付けて(というか、単に物を横に寄せただけ)スペースを作り、あつあつのまま食してもらう。
人のために何かを作ってあげる度に思うのだが、一緒に食べていても、自分の食べている物の味がよくわからない。美味しければオイシイと思うし、不味ければマズイと思うのだけど。意識が常に自分じゃない人の皿にあるせいか。熱過ぎやしないか、ぬる過ぎやしないか。そして、減り具合が気になるし、もっと汁を足そうか、と声をかけたくもなる。何より、美味しそうにしているか、満足そうにしているか、そこが一番気になるので、自分の方は食べた気がしない。昔から、母親が「アナタがこれを食べなさい。」と、料理の一番イイところをよこしてくれると、「おかあさんは食べたくないのかな。」と不思議だったけど、そのメカニズムが少しわかった。気が気じゃない、とまではいかなくても、母は常に私の皿を気にしていたのだろう。
最近、思う。昔、「大きくなったら何になりたい?」と言われたときに思い描いていたのは、今の自分だ。方向性は大きくずれてないんじゃないかな、と思う。あとは、限りなく精密な機械を扱うときにするような、繊細な微調整だ。
------------------------------------------------------------------
備忘と雑感。
●とうもろこしとたまごのスープ。(1月30日・月曜日の夕食。)
母が作ってくれる中では、三本の指に入る好物。
鶏ガラスープの素、長ネギ、ショウガ、
鶏もも挽肉、たまご、片栗粉、スイートコーン(クリームタイプ)
長ネギとショウガでダシをとる。沸騰したら湯の中で挽肉をポロポロと崩し、ガラスープの素を入れる。スイートコーンを丸々空けて、塩で味を整える。たまごを糸状になるようにゆっくりとき入れ、水溶き片栗粉を50?ほど。
味付けが命のスープは、鍋が変わると普段の目分量が使えないので困る。
●有限実行について。
長い間、「有限実行」とは、大口を叩いておいてそれを見事達成するような、ある種のファインプレーだと思っていた。んが。
言った通りにしなくてもさしたる影響は無いようなこと、そういった小さい宣言。破られても周りはあまり気にしないようなことだけど、それを、きちっ、きちっ、と言った通りにこなし続けることが、何より一番難しく、確固たる信頼を獲得するための近道であり長い道なんだと思う。
ただでさえ寒いのに、横で眠る人に布団を独占されていた。朝から身震い。一人そそくさと脱出→朝ゴハンの買い出しへ。
日曜日、彼の家の周りは賑やかになる。久しぶりに気持ちよい陽気の朝だ。お財布だけを持って出てきた老夫婦や、赤ちゃんを前後に抱えてさらに両手に袋を持つ奥さんなどの間を通り抜け、私も入れて入れて、と、スーパーで食材を物色。
近所にはスーパーが二軒あって、おそらく値段が違う。近々、調査すべしだ。とにかく、何が重要かって、彼の部屋で作れること(場所をとる料理は不可)、白米を必要としないこと(米のストックが無い)、解凍を必要としないこと(電子レンジが無い)、調味料を買わずに済むこと(塩くらいしか無いが、しょうゆは補填完了。)、そして1000円札一枚に収まることだ。会員様価格、という表示に指をくわえる私。会員になりたい。
彼の部屋の鍋底がヒドイことになっていたので、100円ショップで鍋も買う。いかにも100円な、アルミの片手鍋。初めてホイッパー(泡立て器)を買ったときや、初めてゴムべらを買ったときのことを思い出した。お菓子作り用ではなく、料理のための台所用品を買うという行為は、なんとなく自立の匂いがする。
買い物袋をふたつ提げて、帰宅。
野菜を刻んでいたら、「あ、すんません…むにゃむにゃ…」とつぶやく布団の中の家主。何に対して謝っているのかわからない。夢の中で取引先と交渉中なのか。ゴハンの支度をしている私に対して「寝ててスミマセン。」と言いたいのか。とりあえず放置して切った野菜を炒めていたら、「あ…おかえりぃ…。」と言い出した。とっくの昔に帰って来てるぞ。
フライパンで炒めた野菜を鍋に移して、グツグツと煮込む。キッチンといっても、振り向けば奴(大量の本)がいる。楳図かずおの『漂流教室』を引き抜いて、煮えるまで読書。が、料理をしながら読むものではないようだ。
恋をすると煮込み料理を作りたくなる、というのはわりと人口に膾炙した現象らしい。その理由はさっぱりわからないが、気持ちはわかる。こういう時間は悪くないし、野菜と肉がおいしく混ざる匂いと、布団の中のぬくい湿気と、三十路前の男の寝顔を独占できる私は、幸せの象徴の渦の中にいる、と思う。具材に煮汁が染みこむように、幸せに満ちた部屋の空気が私の体にも染みこめばいいのに、なーんて少女マンガのヒロインっぽいことを考えてみたり。
ようやく目覚めた人が「わー。スゴイねー。イイ匂いだねー。」と現れた頃には、料理もほぼ完成。パソコン周りを片付けて(というか、単に物を横に寄せただけ)スペースを作り、あつあつのまま食してもらう。
人のために何かを作ってあげる度に思うのだが、一緒に食べていても、自分の食べている物の味がよくわからない。美味しければオイシイと思うし、不味ければマズイと思うのだけど。意識が常に自分じゃない人の皿にあるせいか。熱過ぎやしないか、ぬる過ぎやしないか。そして、減り具合が気になるし、もっと汁を足そうか、と声をかけたくもなる。何より、美味しそうにしているか、満足そうにしているか、そこが一番気になるので、自分の方は食べた気がしない。昔から、母親が「アナタがこれを食べなさい。」と、料理の一番イイところをよこしてくれると、「おかあさんは食べたくないのかな。」と不思議だったけど、そのメカニズムが少しわかった。気が気じゃない、とまではいかなくても、母は常に私の皿を気にしていたのだろう。
最近、思う。昔、「大きくなったら何になりたい?」と言われたときに思い描いていたのは、今の自分だ。方向性は大きくずれてないんじゃないかな、と思う。あとは、限りなく精密な機械を扱うときにするような、繊細な微調整だ。
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備忘と雑感。
●とうもろこしとたまごのスープ。(1月30日・月曜日の夕食。)
母が作ってくれる中では、三本の指に入る好物。
鶏ガラスープの素、長ネギ、ショウガ、
鶏もも挽肉、たまご、片栗粉、スイートコーン(クリームタイプ)
長ネギとショウガでダシをとる。沸騰したら湯の中で挽肉をポロポロと崩し、ガラスープの素を入れる。スイートコーンを丸々空けて、塩で味を整える。たまごを糸状になるようにゆっくりとき入れ、水溶き片栗粉を50?ほど。
味付けが命のスープは、鍋が変わると普段の目分量が使えないので困る。
●有限実行について。
長い間、「有限実行」とは、大口を叩いておいてそれを見事達成するような、ある種のファインプレーだと思っていた。んが。
言った通りにしなくてもさしたる影響は無いようなこと、そういった小さい宣言。破られても周りはあまり気にしないようなことだけど、それを、きちっ、きちっ、と言った通りにこなし続けることが、何より一番難しく、確固たる信頼を獲得するための近道であり長い道なんだと思う。
今夜、いつものバーで
2006年1月28日映画の美味しい季節につき、今週も(飽きずに)映画デイト。
定刻に起床。ねぼすけマイ・ラヴァーよりモーニングコールの依頼があったことを思い出し、モーニングにコールする。ただ鳴らせばいいのかと思いきや、「あのね、モーニングコールしてね。でね、思わず起きたくなっちゃうような甘い感じでお願い。早く起きて!とかだと、起きたくなくなっちゃうから。」という厄介なオーダーなので、「おはよぉ♪起きたぁ?」と、声優そこのけのスウィートヴォイスを絞り出してみた。朝から疲労。
お目当ては、本日公開の『オリバー・ツイスト』。モーニングコールしたにもかかわらず、マイ・ラヴァー遅刻。なんでも、「これは本当の話なのですが、部屋の時計が20分遅れてまして…。」とのこと。本当かよ、と思わず疑ったが、後で確かめてみたら本当だったので、まあ仕方ない。
本日のデイトコースは、日比谷で映画鑑賞→浅草散歩。なぜ浅草になったかといえば、「ねえ、笑わないでね。実は…浅草に行きたいんですが。あ、あ、コラ、笑い過ぎ!!」と言った人がいたからだ。私が笑ったのは、浅草がデートスポットしてどうかという問題ではなく、彼と浅草の組み合わせがあまりにも絶妙だった故だ。まだ若いのに、シブ過ぎやしないか。
シブイ人は嫌いじゃないので、浅草に向けてゴーゴー!…と思ったのに、事件発生。
マイ・ラヴァー:「携帯が無い!」
顔色を変えて、元来た道を引き返す二人組。最後に触ったのはいつなの、映画観た後にトイレに行ってそのときにポケットから出したぞ、(なんでわざわざポケットから出すのだろう…)、電車に駆け込んだときに落としたのではないか、いやそれなら落ちるときに音がするだろう、じゃあ絶対トイレだよ、と騒ぎながら、日比谷にゴー・バック。
怪しいと思われる男子トイレに到着。私は入れないので待機。結果は×。「さっき入った所に人が入っててね、そこに携帯ありますかッ!?って聞いたら、無いって(泣)。」とのこと。真剣な用足し中に話しかけられた人は気の毒だな、と思う。仕方ないので、施設のインフォメーションに届け出る。
すると、あった!
綺麗なおねえさんの案内で遺失物センターへ。良かったねえ、良かったなあ、と15回くらい連呼(思わずハイ・タッチ)。まるで栄光を手にしたかのような表情で遺失物窓口から戻ってきた彼だけど、実は、彼の携帯には旅行先で購入したらしい"族"っぽいシールが貼ってあり、私なら受け取るの恥ずかしいな、と思う。さらに、インフォメーションの(綺麗な)おねえさんに「携帯があったことを知らせたいなあ!」などと言いやがり、せっかく見つかったのに、やや不機嫌になってしまった。
夕食は、浅草の老舗洋食屋にて。昔ながらのタンシチュー(数量限定)を、あつあつの状態でいただく。へぇボタンを連打したくなるくらい、「へぇー!!」な味。要は、美味しかったということだ。本当に狭い店内は、実家の居間を連想させるような風味と色合いで、まるでおかあさんのゴハンを食べているような気持ちになる。
食事後、散歩。ここも老舗だろうなーと思われる古本屋を発見し、案の定入っていくマイ・ラヴァー。『東京の歴史名所を訪ね歩く』、『食うことが好き!』という本を発見し、彼にピッタリだと思い、こっそり笑う私。それにしても、一緒に出かけるたびに本を買っている某氏。今日も色々買っていた。これ以上あの部屋に本を増やすのか。散らかるからどうのという心配は既に終わった気がする。次は、床が抜けて下の人に迷惑をかけないだろうかという問題だ。
今日はこれで終わりかと思いきや、私のリクエストでバーに連れていってもらう。実は、初めて口説かれた日に訪れた店。「こんなところに連れて来られたら思わず惚れるわあああ!!」と頭を掻きむしりたくなるような場所にある。彼に「俺はそんなにモテないよ。」と言われてもイマイチ信用できないのは、こういう店を知っているからだ。四ヶ月前に思いを馳せながら、シャンディーガフを辛口で。イタリアンマティーニ(ジンとアマレット?)を初めて飲む。
バーに行くことイコール大人になること、という発想自体が既に子どもじみていることは知っているけど、もし、「大人になるにはこれをしよう!」という項目をリストにしたら。私は、今の恋人に出会って初めてクリアする項目が多すぎる。じゃあ、クリアした分だけ大人になったのだろうか。たぶん、そんな単純な話じゃない。しかし、もし大人たる基準があくまでも観念的なものに過ぎないのなら、その観念(目に見えない)を補強する底の部分は、こういう子どもじみた項目の積み重ねなんじゃないかしら、と私は思う。踊っても踊っても上手くなった気がしなかった時代(クラブに所属していた頃)を思い出した。ある日突然「成長したな。」と思える瞬間が来るように、私はこの人の横でこうしてひとつずつ何かをクリアしていくうちに、彼が驚くような大人の女性にいつの間にかなるのだろうか。シングルモルトウィスキーのチェーサーを水ではなくシェリーにする彼が既に大人だとするなら、成熟した私は何を飲むようになるのじゃろうか、と、想像してもわかるわけはないし、酒の種類で大人かどうかは計れないけど。
ただ、「いつか大人になる」の"いつか"は、もう少し先のようで。風呂場で歯を磨く人の真似をしたものの、水のみコップを洗面器と間違えて湯船に入れたり、次は逆で、水のみコップと間違えて洗面器にカランから水を注いでしまった。そんな呆れた顔をしないで、ダーリン、とモチ肌に抱きつきたくなったところで本日は終了。就寝。
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映画の備忘。
●『オリバー・ツイスト』(ロマン・ポランスキー監督 2006年)
本年度アカデミー賞最有力、ということだが。よくわからなかった、というのが正直な感想。
いかにも冒険、と言いたげなオープニングテーマの割りに、最後までいまいち能動的になりきれない主人公。それを私は「起伏に乏しい」と判断したが、連れいわく「10歳の男の子があんな状況でも気丈にしているのだから、それだけでスゴイ。」とのこと。なるほど、言われてみればその通りだ。
リアリズムについて考えさせられた。私は、いかにもな「出会い〜恋愛の成就」をテーマにしたラブストーリーが好きだけど、それと同じくらい、「結局、現実はそううまくいかないよね。」と主人公が悟るような作品も好き。そして、ベタベタな展開が嵐のように起こるより、何も起きなくても主人公の心情を推し量れるようなシーンを丁寧に描いた作品が好き。リアリズムを追求しまくったとして、はたしてそれは真のエンターテインメントたりえるのだろうか。そこらへんの匙加減は監督に委ねるべきだし、だからこそ、映画は観る人を選ぶのだと思う。
監督がこの作品を通して何が一番言いたかったのか、そこは考えないとわからなそうだ。ただ、何も考えずに楽しめるお手軽なエンターテインメントが氾濫していることを嘆く人がいるわけだし、このような、こちらから積極的に意味を見出さなくてはいけない作品も必要だろうな、と思う。
定刻に起床。ねぼすけマイ・ラヴァーよりモーニングコールの依頼があったことを思い出し、モーニングにコールする。ただ鳴らせばいいのかと思いきや、「あのね、モーニングコールしてね。でね、思わず起きたくなっちゃうような甘い感じでお願い。早く起きて!とかだと、起きたくなくなっちゃうから。」という厄介なオーダーなので、「おはよぉ♪起きたぁ?」と、声優そこのけのスウィートヴォイスを絞り出してみた。朝から疲労。
お目当ては、本日公開の『オリバー・ツイスト』。モーニングコールしたにもかかわらず、マイ・ラヴァー遅刻。なんでも、「これは本当の話なのですが、部屋の時計が20分遅れてまして…。」とのこと。本当かよ、と思わず疑ったが、後で確かめてみたら本当だったので、まあ仕方ない。
本日のデイトコースは、日比谷で映画鑑賞→浅草散歩。なぜ浅草になったかといえば、「ねえ、笑わないでね。実は…浅草に行きたいんですが。あ、あ、コラ、笑い過ぎ!!」と言った人がいたからだ。私が笑ったのは、浅草がデートスポットしてどうかという問題ではなく、彼と浅草の組み合わせがあまりにも絶妙だった故だ。まだ若いのに、シブ過ぎやしないか。
シブイ人は嫌いじゃないので、浅草に向けてゴーゴー!…と思ったのに、事件発生。
マイ・ラヴァー:「携帯が無い!」
顔色を変えて、元来た道を引き返す二人組。最後に触ったのはいつなの、映画観た後にトイレに行ってそのときにポケットから出したぞ、(なんでわざわざポケットから出すのだろう…)、電車に駆け込んだときに落としたのではないか、いやそれなら落ちるときに音がするだろう、じゃあ絶対トイレだよ、と騒ぎながら、日比谷にゴー・バック。
怪しいと思われる男子トイレに到着。私は入れないので待機。結果は×。「さっき入った所に人が入っててね、そこに携帯ありますかッ!?って聞いたら、無いって(泣)。」とのこと。真剣な用足し中に話しかけられた人は気の毒だな、と思う。仕方ないので、施設のインフォメーションに届け出る。
すると、あった!
綺麗なおねえさんの案内で遺失物センターへ。良かったねえ、良かったなあ、と15回くらい連呼(思わずハイ・タッチ)。まるで栄光を手にしたかのような表情で遺失物窓口から戻ってきた彼だけど、実は、彼の携帯には旅行先で購入したらしい"族"っぽいシールが貼ってあり、私なら受け取るの恥ずかしいな、と思う。さらに、インフォメーションの(綺麗な)おねえさんに「携帯があったことを知らせたいなあ!」などと言いやがり、せっかく見つかったのに、やや不機嫌になってしまった。
夕食は、浅草の老舗洋食屋にて。昔ながらのタンシチュー(数量限定)を、あつあつの状態でいただく。へぇボタンを連打したくなるくらい、「へぇー!!」な味。要は、美味しかったということだ。本当に狭い店内は、実家の居間を連想させるような風味と色合いで、まるでおかあさんのゴハンを食べているような気持ちになる。
食事後、散歩。ここも老舗だろうなーと思われる古本屋を発見し、案の定入っていくマイ・ラヴァー。『東京の歴史名所を訪ね歩く』、『食うことが好き!』という本を発見し、彼にピッタリだと思い、こっそり笑う私。それにしても、一緒に出かけるたびに本を買っている某氏。今日も色々買っていた。これ以上あの部屋に本を増やすのか。散らかるからどうのという心配は既に終わった気がする。次は、床が抜けて下の人に迷惑をかけないだろうかという問題だ。
今日はこれで終わりかと思いきや、私のリクエストでバーに連れていってもらう。実は、初めて口説かれた日に訪れた店。「こんなところに連れて来られたら思わず惚れるわあああ!!」と頭を掻きむしりたくなるような場所にある。彼に「俺はそんなにモテないよ。」と言われてもイマイチ信用できないのは、こういう店を知っているからだ。四ヶ月前に思いを馳せながら、シャンディーガフを辛口で。イタリアンマティーニ(ジンとアマレット?)を初めて飲む。
バーに行くことイコール大人になること、という発想自体が既に子どもじみていることは知っているけど、もし、「大人になるにはこれをしよう!」という項目をリストにしたら。私は、今の恋人に出会って初めてクリアする項目が多すぎる。じゃあ、クリアした分だけ大人になったのだろうか。たぶん、そんな単純な話じゃない。しかし、もし大人たる基準があくまでも観念的なものに過ぎないのなら、その観念(目に見えない)を補強する底の部分は、こういう子どもじみた項目の積み重ねなんじゃないかしら、と私は思う。踊っても踊っても上手くなった気がしなかった時代(クラブに所属していた頃)を思い出した。ある日突然「成長したな。」と思える瞬間が来るように、私はこの人の横でこうしてひとつずつ何かをクリアしていくうちに、彼が驚くような大人の女性にいつの間にかなるのだろうか。シングルモルトウィスキーのチェーサーを水ではなくシェリーにする彼が既に大人だとするなら、成熟した私は何を飲むようになるのじゃろうか、と、想像してもわかるわけはないし、酒の種類で大人かどうかは計れないけど。
ただ、「いつか大人になる」の"いつか"は、もう少し先のようで。風呂場で歯を磨く人の真似をしたものの、水のみコップを洗面器と間違えて湯船に入れたり、次は逆で、水のみコップと間違えて洗面器にカランから水を注いでしまった。そんな呆れた顔をしないで、ダーリン、とモチ肌に抱きつきたくなったところで本日は終了。就寝。
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映画の備忘。
●『オリバー・ツイスト』(ロマン・ポランスキー監督 2006年)
本年度アカデミー賞最有力、ということだが。よくわからなかった、というのが正直な感想。
いかにも冒険、と言いたげなオープニングテーマの割りに、最後までいまいち能動的になりきれない主人公。それを私は「起伏に乏しい」と判断したが、連れいわく「10歳の男の子があんな状況でも気丈にしているのだから、それだけでスゴイ。」とのこと。なるほど、言われてみればその通りだ。
リアリズムについて考えさせられた。私は、いかにもな「出会い〜恋愛の成就」をテーマにしたラブストーリーが好きだけど、それと同じくらい、「結局、現実はそううまくいかないよね。」と主人公が悟るような作品も好き。そして、ベタベタな展開が嵐のように起こるより、何も起きなくても主人公の心情を推し量れるようなシーンを丁寧に描いた作品が好き。リアリズムを追求しまくったとして、はたしてそれは真のエンターテインメントたりえるのだろうか。そこらへんの匙加減は監督に委ねるべきだし、だからこそ、映画は観る人を選ぶのだと思う。
監督がこの作品を通して何が一番言いたかったのか、そこは考えないとわからなそうだ。ただ、何も考えずに楽しめるお手軽なエンターテインメントが氾濫していることを嘆く人がいるわけだし、このような、こちらから積極的に意味を見出さなくてはいけない作品も必要だろうな、と思う。
1月27日の読書メモ
2006年1月27日コメント (2)リリー・フランキーの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社)、読了。
この本を読んで胸を打たれなかったと書いたら、非国民のような扱いを受けそうだ。というくらいに、たぶん、とてもイイ本。事実、胸を打たれた。何度も涙腺が緩みかけた。イイとか悪いとかを考える前に、著者を好きになってしまったし、著者のオカンを好きになった。
が、読後にリリーさんご本人のサイトを閲覧して腑に落ちたことがある。
敬愛するお兄さんが以前おっしゃっていたけど、読者に対する愛が無い文章は、どれだけまっとうなことを言っていても、読んでいて気持ちよくない。リリーさんは「こんなもの読んで誰が面白いんだろうな。」と思いながら、オカンの供養のような気持ちで、これを書いたそうだ。リリーさん自身は、人を愛せない人間ではないと思われるし、たぶん、とても温かい人だ。が、この本があくまでもオカンに捧げられているという前提が、なんとなく読者を突き放しているような、ある種の「独りよがりさ」をこちらに抱かせるのだ。
それでもこの本が受け入れられている理由として、すべての人に母親がいる、という事実がある。(存命かどうかは問題としない。)つまり、この本を手にとるすべての人が、もう最初から共感できる要素を確実に持っているということ。たとえば、この本がもし、死んだ恋人へ捧げたものだったとしたら、少し話は違うと思う。母を持たない人はいないが、恋人を持たない人はいる。
そして、この作品が「文学」として成立しているのか、という疑問点も残る。自分で書いているからわかるのだが、ブログを書いているときに近いような、些細な出来事の狭間に埋もれそうな感情を、その場その場に立ち返ってすくい上げたような、そういう印象がある。つまり、ただ「起こったこと」を時系列で再生しただけ、のような。
私が独りよがりな恋バナを炸裂したところで、同じように共感してくれる人はいないと思っている。たとえ、同じように恋人を持つ人でも、「100人いれば100通りの愛のかたちがある」ように、「ああ、私もこう思うことあるなー。」と、あくまで部分部分にしか共感できないだろう。私の思う「文学」とは、人が他人と同じ経験を決してできないにもかかわらず、誰もが「ああ、私もこう思うことあるなー。」と思えるような記述を、あくまでも「虚構」として第三者(主人公)に投影させたもの、その頻度が素人の書くそれとは比べものにならないもの。私はそういうものだと思っている。
たとえすべての人が母を持っているとしても。逆をいえば、誰でもリリーさんに匹敵するような物語を持っているということだ。母に対する思いの深さも、数値化して人と比べるものではない。恋をして独りよがりになった人に「私の恋愛ってすばらしいでしょ?」と言われたら、あまり良い気はしない。それと同じように、母を思う人に「私の母親ってすばらしいでしょ?」と言われても、そうね、としか言えない。
かといって、この本を批判したいわけでは決してない。
この本が「独りよがりさ」に満ちていても、読む人の心に必ず訴えかけてくる理由がある。リリーさんの「俺の母親ってすばらしいでしょ?」という思い以上に、ほかの誰でもないオカンへの「ありがとう」という気持ちに溢れているからだ。感謝の念は、ただそこにあるだけで、人を幸せにする波動を放つ。オカンへの溢れんばかりの愛情にどっぷり浸かることを潔しとし、あら探しをすることを忘れ、ときに自分の親と重ねたりして、いわゆる「バカ」になって読んで初めて、この本は良い本になる。
そういう意味では、この前観た映画、『ALWAYS三丁目の夕日』にも似ている。普遍的な感動要素をこれでもか!と散りばめた作品は、"そういう見方"をしてしまったら、その時点でオシマイだ。
そんな私は、ご多分に漏れず、「私ってば、なんて親不孝者…」という思いにかられ、急に親を大切にしたくなってしまったとさ。
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備忘。
●かぼちゃのそぼろあんかけ。
かぼちゃにはビタミンEが豊富らしい。そして、胃腸にとてもイイらしく、毎日でも食べた方がいいらしい(便秘・下痢問わず、予防できるそうだ。)。ほほう、と思う。
鶏挽肉、かぼちゃ、だし汁、
砂糖、酒、みりん、しょうゆ、片栗粉、しょうがの絞り汁
鍋に鶏挽肉を入れ加熱し、かぼちゃを入れ、だし汁&砂糖を投入。沸騰したら弱火にして、しばらく煮る。その後、みりんとしょうゆを加え、柔らかくなるまでまた煮る。かぼちゃになるべくかからないように水溶き片栗粉を加え、しょうが汁を加える。その後、鍋止め。
本日、みりんと間違えて酢を入れたのは私です。
この本を読んで胸を打たれなかったと書いたら、非国民のような扱いを受けそうだ。というくらいに、たぶん、とてもイイ本。事実、胸を打たれた。何度も涙腺が緩みかけた。イイとか悪いとかを考える前に、著者を好きになってしまったし、著者のオカンを好きになった。
が、読後にリリーさんご本人のサイトを閲覧して腑に落ちたことがある。
敬愛するお兄さんが以前おっしゃっていたけど、読者に対する愛が無い文章は、どれだけまっとうなことを言っていても、読んでいて気持ちよくない。リリーさんは「こんなもの読んで誰が面白いんだろうな。」と思いながら、オカンの供養のような気持ちで、これを書いたそうだ。リリーさん自身は、人を愛せない人間ではないと思われるし、たぶん、とても温かい人だ。が、この本があくまでもオカンに捧げられているという前提が、なんとなく読者を突き放しているような、ある種の「独りよがりさ」をこちらに抱かせるのだ。
それでもこの本が受け入れられている理由として、すべての人に母親がいる、という事実がある。(存命かどうかは問題としない。)つまり、この本を手にとるすべての人が、もう最初から共感できる要素を確実に持っているということ。たとえば、この本がもし、死んだ恋人へ捧げたものだったとしたら、少し話は違うと思う。母を持たない人はいないが、恋人を持たない人はいる。
そして、この作品が「文学」として成立しているのか、という疑問点も残る。自分で書いているからわかるのだが、ブログを書いているときに近いような、些細な出来事の狭間に埋もれそうな感情を、その場その場に立ち返ってすくい上げたような、そういう印象がある。つまり、ただ「起こったこと」を時系列で再生しただけ、のような。
私が独りよがりな恋バナを炸裂したところで、同じように共感してくれる人はいないと思っている。たとえ、同じように恋人を持つ人でも、「100人いれば100通りの愛のかたちがある」ように、「ああ、私もこう思うことあるなー。」と、あくまで部分部分にしか共感できないだろう。私の思う「文学」とは、人が他人と同じ経験を決してできないにもかかわらず、誰もが「ああ、私もこう思うことあるなー。」と思えるような記述を、あくまでも「虚構」として第三者(主人公)に投影させたもの、その頻度が素人の書くそれとは比べものにならないもの。私はそういうものだと思っている。
たとえすべての人が母を持っているとしても。逆をいえば、誰でもリリーさんに匹敵するような物語を持っているということだ。母に対する思いの深さも、数値化して人と比べるものではない。恋をして独りよがりになった人に「私の恋愛ってすばらしいでしょ?」と言われたら、あまり良い気はしない。それと同じように、母を思う人に「私の母親ってすばらしいでしょ?」と言われても、そうね、としか言えない。
かといって、この本を批判したいわけでは決してない。
この本が「独りよがりさ」に満ちていても、読む人の心に必ず訴えかけてくる理由がある。リリーさんの「俺の母親ってすばらしいでしょ?」という思い以上に、ほかの誰でもないオカンへの「ありがとう」という気持ちに溢れているからだ。感謝の念は、ただそこにあるだけで、人を幸せにする波動を放つ。オカンへの溢れんばかりの愛情にどっぷり浸かることを潔しとし、あら探しをすることを忘れ、ときに自分の親と重ねたりして、いわゆる「バカ」になって読んで初めて、この本は良い本になる。
そういう意味では、この前観た映画、『ALWAYS三丁目の夕日』にも似ている。普遍的な感動要素をこれでもか!と散りばめた作品は、"そういう見方"をしてしまったら、その時点でオシマイだ。
そんな私は、ご多分に漏れず、「私ってば、なんて親不孝者…」という思いにかられ、急に親を大切にしたくなってしまったとさ。
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備忘。
●かぼちゃのそぼろあんかけ。
かぼちゃにはビタミンEが豊富らしい。そして、胃腸にとてもイイらしく、毎日でも食べた方がいいらしい(便秘・下痢問わず、予防できるそうだ。)。ほほう、と思う。
鶏挽肉、かぼちゃ、だし汁、
砂糖、酒、みりん、しょうゆ、片栗粉、しょうがの絞り汁
鍋に鶏挽肉を入れ加熱し、かぼちゃを入れ、だし汁&砂糖を投入。沸騰したら弱火にして、しばらく煮る。その後、みりんとしょうゆを加え、柔らかくなるまでまた煮る。かぼちゃになるべくかからないように水溶き片栗粉を加え、しょうが汁を加える。その後、鍋止め。
本日、みりんと間違えて酢を入れたのは私です。
キッチンでする社会の勉強
2006年1月25日高校時代の友達4人でランチ@銀座。
OL2人の休みがウマイ具合に重なったので、平日にもかかわらず、まずまずの集合率。広過ぎる銀座駅構内で右往左往したものの、時間通りに到着(私はね)。
みんなを待っている間、5年以上前に思いを馳せる。あの頃は、通学路にあったミスタードーナツで、それこそ何時間もねばったものだ。500円玉が一枚あれば十分だったし、特に約束をしなくても毎日会えたのに。こうして都心にわざわざ集まること、1000円以上するランチを食べること、出発前に洋服を選ぶこと、すべてが不思議で仕方ない。
ややムーディな店内でアジアン・バイキング。私がグリーンカレーばかり抱えて食べていたら、「りんはひとつの物を飽きもせず食べ続けるよね。」と指摘され、そこから私が"一途"という話になる。いいことじゃないか。化粧品会社に勤める某嬢の化粧が濃いと笑ったり、私が"場末系"だというネタで盛り上がったり、週末にデートする相手が70年代風で嫌だから(←笑)誰か一緒に来てくれと言われたり、娘が4人も集まるとかしましくて仕方ない。
銀ブラ組と帰宅組に別れ、解散。
冬はストーブを使うので、埃が舞っていけない。私は、主婦の三大義務【掃除、洗濯、炊事】の中では、掃除が一番気乗りしない。が、そうも言っていられないので、得意の妄想をしながら掃除機(東芝製)とステップ・バイ・ステップ。
昼間に散々カレーを食べたのに、家にニンジンとタマネギが余っていることを思い出した母から、「今夜はカレーにして。」とのリクエスト。最近、公私ともども、カレーに縁があるのはなぜだろう。
豚の肩ロースブロックをぶつ切りにしながら、夕方のNHKニュースを聞く。堀江容疑者(容疑者、ってスゴイよね。何度聞いてもそう思う。)は容疑を否認し続けているとのこと。それに関して思うところがあるのか無いのかと問われれば、無くもない、というあたりが一番的を射ている。そう、無くもない。ただ、こうして夕飯の支度をしていると、世俗のすべてが遙か異国の出来事のように、自分にはまるで関係ないことのように感じられるのだよ。
西で働く父の元から我が家に舞い込むのは、めっきり暗いニュースばかり。すっかり弱く小さくなった母と、年老いた猫と、卒業を間近に控えた私が考えなければいけないことは、ホリエモンとその側近が考えなければいけない内容に比べたら、本当に小さく、ささやかで、取るに足らないような「内輪ネタ」だけど。人が、ある水準以上の幸せを個人単位でなく家族単位で維持していくことは、会社経営と同じくらい大変なことだろう。自分では選べないまま集った「第一の家族」(結婚相手を選んで築きあげていく家庭が第二だとするなら)の幸せは、まるで最初からピタリと合わないように設定されたジグソーパズルと格闘するような、不毛と思われる努力の果てにあるものだ。金で買えないものはないと言い切ったホリエモンの家庭は、幸せだったのだろうか。
そして、彼や、彼の周りに集まる人々に、献立を考えた後にすべての料理を同時に温かい状態に導くのがどれだけ大変かをご存知か、と問いたい。楽しいことがあっても、悲しいことがあっても、人はおなかが減るし、部屋は散らかるし、衣服は傷んでいく。家庭を営むとは、いくらやっても「やって当然」で決して褒められることのない仕事を黙々とこなしながら、一緒に暮らす人々の不和をファインプレーのように解消しつつ、外ではなく内の方へと価値を見出していくことだ。一介の会社社長である私の父は、誰もが大変だと認める会社経営に四苦八苦しながら、取るに足らないと思われる家庭の幸せを築こうと必死になっている。そして、どちらも成果としては芳しくない。ホリエモンが逮捕されてもされなくても、私が興味あることはといえば、ライブドア社に勤める社員の妻や娘が息子が、今、どのように生きているかということだ。
こんな「雪かき仕事」をもう25年もやってきたのだな、と思うと、母がニュースを見るときにやや遠い目になってしまう気持ちも、なんとなくだがわかる気がする。
OL2人の休みがウマイ具合に重なったので、平日にもかかわらず、まずまずの集合率。広過ぎる銀座駅構内で右往左往したものの、時間通りに到着(私はね)。
みんなを待っている間、5年以上前に思いを馳せる。あの頃は、通学路にあったミスタードーナツで、それこそ何時間もねばったものだ。500円玉が一枚あれば十分だったし、特に約束をしなくても毎日会えたのに。こうして都心にわざわざ集まること、1000円以上するランチを食べること、出発前に洋服を選ぶこと、すべてが不思議で仕方ない。
ややムーディな店内でアジアン・バイキング。私がグリーンカレーばかり抱えて食べていたら、「りんはひとつの物を飽きもせず食べ続けるよね。」と指摘され、そこから私が"一途"という話になる。いいことじゃないか。化粧品会社に勤める某嬢の化粧が濃いと笑ったり、私が"場末系"だというネタで盛り上がったり、週末にデートする相手が70年代風で嫌だから(←笑)誰か一緒に来てくれと言われたり、娘が4人も集まるとかしましくて仕方ない。
銀ブラ組と帰宅組に別れ、解散。
冬はストーブを使うので、埃が舞っていけない。私は、主婦の三大義務【掃除、洗濯、炊事】の中では、掃除が一番気乗りしない。が、そうも言っていられないので、得意の妄想をしながら掃除機(東芝製)とステップ・バイ・ステップ。
昼間に散々カレーを食べたのに、家にニンジンとタマネギが余っていることを思い出した母から、「今夜はカレーにして。」とのリクエスト。最近、公私ともども、カレーに縁があるのはなぜだろう。
豚の肩ロースブロックをぶつ切りにしながら、夕方のNHKニュースを聞く。堀江容疑者(容疑者、ってスゴイよね。何度聞いてもそう思う。)は容疑を否認し続けているとのこと。それに関して思うところがあるのか無いのかと問われれば、無くもない、というあたりが一番的を射ている。そう、無くもない。ただ、こうして夕飯の支度をしていると、世俗のすべてが遙か異国の出来事のように、自分にはまるで関係ないことのように感じられるのだよ。
西で働く父の元から我が家に舞い込むのは、めっきり暗いニュースばかり。すっかり弱く小さくなった母と、年老いた猫と、卒業を間近に控えた私が考えなければいけないことは、ホリエモンとその側近が考えなければいけない内容に比べたら、本当に小さく、ささやかで、取るに足らないような「内輪ネタ」だけど。人が、ある水準以上の幸せを個人単位でなく家族単位で維持していくことは、会社経営と同じくらい大変なことだろう。自分では選べないまま集った「第一の家族」(結婚相手を選んで築きあげていく家庭が第二だとするなら)の幸せは、まるで最初からピタリと合わないように設定されたジグソーパズルと格闘するような、不毛と思われる努力の果てにあるものだ。金で買えないものはないと言い切ったホリエモンの家庭は、幸せだったのだろうか。
そして、彼や、彼の周りに集まる人々に、献立を考えた後にすべての料理を同時に温かい状態に導くのがどれだけ大変かをご存知か、と問いたい。楽しいことがあっても、悲しいことがあっても、人はおなかが減るし、部屋は散らかるし、衣服は傷んでいく。家庭を営むとは、いくらやっても「やって当然」で決して褒められることのない仕事を黙々とこなしながら、一緒に暮らす人々の不和をファインプレーのように解消しつつ、外ではなく内の方へと価値を見出していくことだ。一介の会社社長である私の父は、誰もが大変だと認める会社経営に四苦八苦しながら、取るに足らないと思われる家庭の幸せを築こうと必死になっている。そして、どちらも成果としては芳しくない。ホリエモンが逮捕されてもされなくても、私が興味あることはといえば、ライブドア社に勤める社員の妻や娘が息子が、今、どのように生きているかということだ。
こんな「雪かき仕事」をもう25年もやってきたのだな、と思うと、母がニュースを見るときにやや遠い目になってしまう気持ちも、なんとなくだがわかる気がする。
1月24日の雑感
2006年1月24日徒然なるままに。
●退職、近付く。
二年続けたアルバイトもあと一ヶ月ちょっと。随分長い間、早朝四時半に起きてよくがんばったものだ。自分で自分を褒めてあげたい!(←有森選手風に、顔をしかめつつ。)
二年間、色々なことがあった。印象深いのは、やはり、始発間もない電車。女子にとって深夜が危ないことは周知の事実だが、早朝も結構危ない。怪しい外国人に待ち伏せされたり、ある時など、椅子に座っていたらおじさんが目の前に立って、一生にそう何人分も見たくないものをどアップで見せつけられたりなど。
そんな生活も終わるのかと思えば、すべてが愛しい思い出のように感じられるから不思議だ。
●口腔、負傷。
口の中の調子が、すこぶる悪い。先日、あまりの美味しさにアホみたいに食べ物を貪っていたら、歯で噛んでしまった。当然、その部位は腫れ、腫れてるもんだからさらに噛みやすく、悪循環・スパイラルだ。ううう…オラが何したっていうだ。。。
ただ、口を痛めてわかったことがある。
私はどちらかに分けると(分けなくても)おしゃべりなタイプ。口から出る情報量が多い。何かが増えれば品質も低下しがちだ。つまり、私の口から出る情報の場合、あえて口に出すほどでもないんじゃないかというレベルが占める割合が、人より高い気がする。
さらに。私はこうして「口が痛いんだよー。」と人に言いたくなるけど、有益なレスポンスを求めているわけではない。私という人間は、自分でない誰かが「口が痛いんだよー。」と言ったら、何か言わなくちゃという使命感にかられ、上記のような無駄なおしゃべりを繰り出しがちだ。そうではなく、「口が痛いんだよー。」と言われたら、「口が痛いの?」とただ受けとめられるようになれればいいな、と思う。キャッチボールに例えれば、キャッチした瞬間にうわーと投げ返すのではなく、まず確実に受けとめて、その衝撃をたしかに自分の手の中に感じられるようにしたいな、と。
●優しさの質量保存の法則。
理科の時間に「質量保存の法則」を習ったことを、この年になって思い出す。
私は思い遣りのある優しい人が好きだけど、思い遣りの元となるエネルギーは、かの人の体内にいつでも備蓄されているはず。そのエネルギーはどう加工しても消えるわけではない。
優しい人は、人より多くのエネルギー(何にでも変換可能)を持っているのではないか。だが、そのエネルギーはときに残酷なものにも姿を変え、そうなってしまったときは優しさが発揮されたときと同じくらいの破壊力を持つ気がする。
●ゴハン熱。
これは悪影響なのか良い影響なのか不明だけど、最近、食べ物のことを考える時間が増えた気がする。
早朝バイトの際、コンビニや駅のキオスクで朝食を買って行く。前までは「食えりゃなんだっていい。」と思っていたが、そんなことではゴハンの神様に申し訳が立たない気がしてきて、妙に"レベル"を意識するようになった。500円玉でお釣りが来るのはもちろん、栄養価(朝は糖質が欲しい)、カロリー、食べ応えなどなど、「うん、今日は我ながらハイレベル!」と思えると、朝から非常に満足だ。
●我が家の状況。
門前の雪が溶けず。滑る。毎朝、死にそうになる。
●退職、近付く。
二年続けたアルバイトもあと一ヶ月ちょっと。随分長い間、早朝四時半に起きてよくがんばったものだ。自分で自分を褒めてあげたい!(←有森選手風に、顔をしかめつつ。)
二年間、色々なことがあった。印象深いのは、やはり、始発間もない電車。女子にとって深夜が危ないことは周知の事実だが、早朝も結構危ない。怪しい外国人に待ち伏せされたり、ある時など、椅子に座っていたらおじさんが目の前に立って、一生にそう何人分も見たくないものをどアップで見せつけられたりなど。
そんな生活も終わるのかと思えば、すべてが愛しい思い出のように感じられるから不思議だ。
●口腔、負傷。
口の中の調子が、すこぶる悪い。先日、あまりの美味しさにアホみたいに食べ物を貪っていたら、歯で噛んでしまった。当然、その部位は腫れ、腫れてるもんだからさらに噛みやすく、悪循環・スパイラルだ。ううう…オラが何したっていうだ。。。
ただ、口を痛めてわかったことがある。
私はどちらかに分けると(分けなくても)おしゃべりなタイプ。口から出る情報量が多い。何かが増えれば品質も低下しがちだ。つまり、私の口から出る情報の場合、あえて口に出すほどでもないんじゃないかというレベルが占める割合が、人より高い気がする。
さらに。私はこうして「口が痛いんだよー。」と人に言いたくなるけど、有益なレスポンスを求めているわけではない。私という人間は、自分でない誰かが「口が痛いんだよー。」と言ったら、何か言わなくちゃという使命感にかられ、上記のような無駄なおしゃべりを繰り出しがちだ。そうではなく、「口が痛いんだよー。」と言われたら、「口が痛いの?」とただ受けとめられるようになれればいいな、と思う。キャッチボールに例えれば、キャッチした瞬間にうわーと投げ返すのではなく、まず確実に受けとめて、その衝撃をたしかに自分の手の中に感じられるようにしたいな、と。
●優しさの質量保存の法則。
理科の時間に「質量保存の法則」を習ったことを、この年になって思い出す。
私は思い遣りのある優しい人が好きだけど、思い遣りの元となるエネルギーは、かの人の体内にいつでも備蓄されているはず。そのエネルギーはどう加工しても消えるわけではない。
優しい人は、人より多くのエネルギー(何にでも変換可能)を持っているのではないか。だが、そのエネルギーはときに残酷なものにも姿を変え、そうなってしまったときは優しさが発揮されたときと同じくらいの破壊力を持つ気がする。
●ゴハン熱。
これは悪影響なのか良い影響なのか不明だけど、最近、食べ物のことを考える時間が増えた気がする。
早朝バイトの際、コンビニや駅のキオスクで朝食を買って行く。前までは「食えりゃなんだっていい。」と思っていたが、そんなことではゴハンの神様に申し訳が立たない気がしてきて、妙に"レベル"を意識するようになった。500円玉でお釣りが来るのはもちろん、栄養価(朝は糖質が欲しい)、カロリー、食べ応えなどなど、「うん、今日は我ながらハイレベル!」と思えると、朝から非常に満足だ。
●我が家の状況。
門前の雪が溶けず。滑る。毎朝、死にそうになる。
栄光ドロップス
2006年1月22日一泊二日の映画研修、二日目。
宵っ張り二人組にしては珍しく、午前中に起床。いつかあたたかい朝ゴハンを作ってあげなくちゃなあと思ってはいたが、マイ・ラヴァーの部屋に基本的な調味料が無いことと、部屋が散らかっていること(作っても食べるスペースが無い)を理由に、避けていた。が、環境のせいにしていては真の料理人と呼べない。
というわけで、少ない調味料と鍋ひとつで出来るメニューをチョイスして、こしらえる。あたたかさだけは申し分ない。二人分を作るにしても、なるべく材料を残さないようにすることが今後の課題だ。なぜなら、せっかくの長ネギをストックしておいても、家主の彼がそれを刻む可能性は、キング・コングが実在する可能性より遙かに低いからだ。
ゴハンの後は、洗濯。
二週間分の洗濯物と格闘するマイ・ラヴァーを、後ろからケータイで撮影(←手伝え)。何がウケるって、何しろ二週間分なので靴下の量が半端ない。しかもその靴下の98%が黒なので、どれとどれがペアなのかさっぱりわからない。「洗濯物を干すことは神経衰弱に似ているよね。とりあえずめくってみて、あれ、これは前にもめくったな。あれー、さっきのはどれだっけ、って感じで地道にやっていくうちに…お、だんだん減ってきたぞ、ってなってきて、終盤になるとペアが簡単に見つかるようになるんだ!」と、たかが洗濯なのにいちいち理屈をこねる彼。
本日も映画を観るために、着替えていざ出陣。
昨日の反省を生かして早めに到着したにもかかわらず、『ALWAYS三丁目の夕日』は、なんと、本日も立ち見。さくらももこの漫画ばりに顔にタテ線が入る私たち。普通ならここで諦めるところなのだが、私の彼氏はこういうときに意外と意地になるタイプ。以前も「今日はリーズナブルでいいから焼き肉をがっつり食べたい!」と言うので牛角へタクシーを飛ばしたのに満席で、それなら諦めればいいところを、「いや、今日はどうしても牛角なんだ。こうなったら意地だ。」とさっき降りたのにまたタクシーを捕まえて隣駅の牛角へ向かったことがある。短時間であんなにタクシーに乗ったのは、あのときが初めてだ。
本日はタクシーに乗らなかったので、ホッ。別の映画館で無事に席をゲット。
肝心の内容である。7、8回ほどつい泣いてしまいそうになるも、隣の彼が微動だにしないので、我慢する。が、後半はさすがに我慢できず、バッグからティッシュを探してしまう。しかし、後から聞いたところによると、連れも7、8回ほど「うっ、やばい!」と思っていたらしく、私がティッシュを取り出したシーンでは同じように相当やばくなっていたそうな。笑われなくてよかった。
観たらすぐに帰ろうと思っていたのに、二人してまんまとノスタルジックになってしまい、「飲みたい気分ですよね。」と意気投合。ここでまんまと新宿・思い出横町(旧・ション●ン横町?)に向かうところが、なんちゅうかかんちゅうか、ベタな私たち。
扉が無いので吹きっさらしの店内だが、マイ・ラヴァーが風よけとして出口寄りに座ってくれたので、快適に過ごす。3K【キツイ(狭くて)、汚い、危険(階段が)】のカウンター席で、串焼きetcをいただく。寒いところで飲むHOTウーロンハイって、なんてシアワセな飲み物なんだろう。寒いところで食べる煮込みも、なんてシアワセな食べ物なんだろう。彼が冬を好む理由が少しわかった。
かの映画を観て、思ったこと。昭和30年代のあの古き良き時代が、既に過去のものだとして。「時代性」を共有したいと思う人々は、何も昭和に限らずいるのではないか、と私は思う。たとえば私の青春と呼ばれる時代は90年代後半から2000年前半にかけてだが、あと30年経ってから「あの頃はよかったなあ…」と、「今」を思い出すことは無いのだろうか、という話。たぶん、あると思う。
ただ、その感覚はやはり父世代(昭和30年頃に誕生)と違うのだろう、とマイ・ラヴァー。なぜなら、あの時代は、戦争というヒドイ「過去」を持つから、高度経済成長期に向けてどんどんと世の中が良くなる可能性と期待に満ちていたのだと。そう考えると、昭和の古き良き時代を「過去」として持つ私たちは、今より昔がイイという栄光にすがりつくような現代を生きるのみだ。
でも私は思う。仮に「時代」をひとつの生命体と認識するなら、それは常に変化を伴う。そして、たまたま今が良くない時代なのだとすれば、単にそういう時期なのだ、と。美しい桜が、散って丸裸になるように。だからといって満開だった当時を思い出すだけでは、前に進めない。諦念度が高く、未来に希望を持てないといった発言を、たまにではあるがする私。そんな私をたしなめる人にかつて教わったことは、どんな時代であれ、イイことも悪いことも柔軟に受け止めて養分にしていくしかない、ということ。だって、どうしたって、私たちは「今」を生きるしかないから。そして、そう思って生きる人を眺めながら、自分で考えたことがある。この世のすべては、60億年以上もの歴史を持つ生命体だ。恋愛だって生命体だ。だから、変化を恐れてはいけない。今より素敵な関係性があると信じることは難しいけど、過去の栄光にすがりつくだけではなしえない何かがあって、さらに言うなら度が過ぎる取り越し苦労をする必要も無くて、重要なのは、「今」を過去や未来と比べて一人で(←ここポイント)悲観してはいけないということ。そう、変化を恐れてはいけない。時代を生きる人は、変化を恐れずに力強く前進するのみ。恋をする私もだ。
そうはいっても早く大人になりたいと願う強い理由もなくはなくて、「今」を脱出したいと思っているのはほかの誰でもなくこの私なのだろう、という気はする。
宵っ張り二人組にしては珍しく、午前中に起床。いつかあたたかい朝ゴハンを作ってあげなくちゃなあと思ってはいたが、マイ・ラヴァーの部屋に基本的な調味料が無いことと、部屋が散らかっていること(作っても食べるスペースが無い)を理由に、避けていた。が、環境のせいにしていては真の料理人と呼べない。
というわけで、少ない調味料と鍋ひとつで出来るメニューをチョイスして、こしらえる。あたたかさだけは申し分ない。二人分を作るにしても、なるべく材料を残さないようにすることが今後の課題だ。なぜなら、せっかくの長ネギをストックしておいても、家主の彼がそれを刻む可能性は、キング・コングが実在する可能性より遙かに低いからだ。
ゴハンの後は、洗濯。
二週間分の洗濯物と格闘するマイ・ラヴァーを、後ろからケータイで撮影(←手伝え)。何がウケるって、何しろ二週間分なので靴下の量が半端ない。しかもその靴下の98%が黒なので、どれとどれがペアなのかさっぱりわからない。「洗濯物を干すことは神経衰弱に似ているよね。とりあえずめくってみて、あれ、これは前にもめくったな。あれー、さっきのはどれだっけ、って感じで地道にやっていくうちに…お、だんだん減ってきたぞ、ってなってきて、終盤になるとペアが簡単に見つかるようになるんだ!」と、たかが洗濯なのにいちいち理屈をこねる彼。
本日も映画を観るために、着替えていざ出陣。
昨日の反省を生かして早めに到着したにもかかわらず、『ALWAYS三丁目の夕日』は、なんと、本日も立ち見。さくらももこの漫画ばりに顔にタテ線が入る私たち。普通ならここで諦めるところなのだが、私の彼氏はこういうときに意外と意地になるタイプ。以前も「今日はリーズナブルでいいから焼き肉をがっつり食べたい!」と言うので牛角へタクシーを飛ばしたのに満席で、それなら諦めればいいところを、「いや、今日はどうしても牛角なんだ。こうなったら意地だ。」とさっき降りたのにまたタクシーを捕まえて隣駅の牛角へ向かったことがある。短時間であんなにタクシーに乗ったのは、あのときが初めてだ。
本日はタクシーに乗らなかったので、ホッ。別の映画館で無事に席をゲット。
肝心の内容である。7、8回ほどつい泣いてしまいそうになるも、隣の彼が微動だにしないので、我慢する。が、後半はさすがに我慢できず、バッグからティッシュを探してしまう。しかし、後から聞いたところによると、連れも7、8回ほど「うっ、やばい!」と思っていたらしく、私がティッシュを取り出したシーンでは同じように相当やばくなっていたそうな。笑われなくてよかった。
観たらすぐに帰ろうと思っていたのに、二人してまんまとノスタルジックになってしまい、「飲みたい気分ですよね。」と意気投合。ここでまんまと新宿・思い出横町(旧・ション●ン横町?)に向かうところが、なんちゅうかかんちゅうか、ベタな私たち。
扉が無いので吹きっさらしの店内だが、マイ・ラヴァーが風よけとして出口寄りに座ってくれたので、快適に過ごす。3K【キツイ(狭くて)、汚い、危険(階段が)】のカウンター席で、串焼きetcをいただく。寒いところで飲むHOTウーロンハイって、なんてシアワセな飲み物なんだろう。寒いところで食べる煮込みも、なんてシアワセな食べ物なんだろう。彼が冬を好む理由が少しわかった。
かの映画を観て、思ったこと。昭和30年代のあの古き良き時代が、既に過去のものだとして。「時代性」を共有したいと思う人々は、何も昭和に限らずいるのではないか、と私は思う。たとえば私の青春と呼ばれる時代は90年代後半から2000年前半にかけてだが、あと30年経ってから「あの頃はよかったなあ…」と、「今」を思い出すことは無いのだろうか、という話。たぶん、あると思う。
ただ、その感覚はやはり父世代(昭和30年頃に誕生)と違うのだろう、とマイ・ラヴァー。なぜなら、あの時代は、戦争というヒドイ「過去」を持つから、高度経済成長期に向けてどんどんと世の中が良くなる可能性と期待に満ちていたのだと。そう考えると、昭和の古き良き時代を「過去」として持つ私たちは、今より昔がイイという栄光にすがりつくような現代を生きるのみだ。
でも私は思う。仮に「時代」をひとつの生命体と認識するなら、それは常に変化を伴う。そして、たまたま今が良くない時代なのだとすれば、単にそういう時期なのだ、と。美しい桜が、散って丸裸になるように。だからといって満開だった当時を思い出すだけでは、前に進めない。諦念度が高く、未来に希望を持てないといった発言を、たまにではあるがする私。そんな私をたしなめる人にかつて教わったことは、どんな時代であれ、イイことも悪いことも柔軟に受け止めて養分にしていくしかない、ということ。だって、どうしたって、私たちは「今」を生きるしかないから。そして、そう思って生きる人を眺めながら、自分で考えたことがある。この世のすべては、60億年以上もの歴史を持つ生命体だ。恋愛だって生命体だ。だから、変化を恐れてはいけない。今より素敵な関係性があると信じることは難しいけど、過去の栄光にすがりつくだけではなしえない何かがあって、さらに言うなら度が過ぎる取り越し苦労をする必要も無くて、重要なのは、「今」を過去や未来と比べて一人で(←ここポイント)悲観してはいけないということ。そう、変化を恐れてはいけない。時代を生きる人は、変化を恐れずに力強く前進するのみ。恋をする私もだ。
そうはいっても早く大人になりたいと願う強い理由もなくはなくて、「今」を脱出したいと思っているのはほかの誰でもなくこの私なのだろう、という気はする。
雪が降ったらムービー・デイ
2006年1月21日コメント (5)「映画を切らしているんだ…。」と嘆くマイラヴァーと、映画デイト(雪天決行)。
私の「映画好き度」を数値化すると、日本平均を大きく下回る。…のは、去年までのハナシ。今年の私は違う。今週末は、合計三本も見てしまった。しかもすべて映画館で、だ。まさに未曾有の出来事。雪が降ったのは私のせいかもしれない。恋は、映画嫌いの女さえ変えるのだ。ラヴ・イズ・ミラクル。
一本目。『キング・コング』を観賞。
とにかく大興奮!!お化け屋敷に入ったときに感じるような、純度の高い恐怖を味わう。雷鳴に驚いて「キャー!」と男にしがみつく女子が今時いるのか知らんが、それに近いことを本気で(かなり本気で)したくなるほど戦慄した。
観賞後、新宿でランチ。カレーの王子様は本日もカレーを召しあがる。
二本目。『プライドと偏見』を観賞。
本当は『ALWAYS三丁目の夕日』を観るつもりだったのだが、大入り満員につきはじき出される。私とマイ・ラヴァーの共通の友人が薦めていたということもあり、こっちにしようか、とチケット購入。入館。「いやー、代わりに観たいものがあってよかったなあ。しかも丁度イイ時間に。」「ほんとだねー。良さそうだよねー。事前予習まったくしてないけど。」などと語りつつ、ワクワクしながら予告編をやり過ごす。
さっきまでワクワクしていたのに、開始五分でいきなり寝るマイ・ラヴァー。彼のことは無視しようと決める。観賞後。映画を観るたびに何かしら買う彼も、さすがに今回のパンフレットは買っていなかった。あの部屋にあれ以上本が増えたら文字通り「足の踏み場も無い」状況になるので、「ああ、よかった。」と私が一人ホッとしていたことも、彼はおそらく知らない。
夕食は、パリのビストロ風レストランにて。
連れてけ連れてけと騒いだ中華のお店は、絶賛好評中につき予約できなかったそうな。が、ここも雑誌で取りあげられるほどの人気店らしく。雪にもかかわらず、商売繁盛のご様子だ。気取りすぎない内装は好印象。食前酒(リレ&シェリー)で乾杯→軽いボディの赤ワインをいただく。牛のイチボ(モモ肉の中でも柔らかい部分)を包丁で叩いてタマネギやピクルスを混ぜ込んだタルタルステーキ(売り切れご免らしい)を、予約の段階で押さえておいたマイ・ラヴァー。彼の食べ物に関しての抜かりの無さは、パリジェンヌもビックリだ。
どうしても断れないまま授業関係の飲み会に参加したのが、つい先日のことだ。場所は某ターミナル駅のチェーン居酒屋。金曜日で大人数なのに、予約もしないで殴り込みだ。幹事の手際の悪さとジェントルマンシップの少なさに興ざめしたのだが、よく考えると、私の基準の方がかなりおかしいのかもしれない。彼(幹事)にはすまないことをしたと思う。それにしても「大学生らしい飲み」に行かなくなって久しい。学生と社会人を比べちゃういけすかない女になることを、何より恐れてはいる。が、私は、「人とお酒を飲むこと」は大好きだけど、「ただの飲み会」は好きじゃないんだ。酒を味わうのではなく、酒を飲んでいる事実に既に酔っているような人と飲むのも好きじゃない。…などと考えながら、慣れた手つきでワインのテイスティングをする彼をうっとりと眺める私は、やはり身も心もいけすかない女になりつつあるのだろうか。
ほろ酔いのうっふん状態で店を後にする。私はうっふん気分なのに、学生時代の友達と久々の飲みがあるから一瞬顔を出してくるとおっしゃるマイ・ラヴァーが、一時離脱。鍵を渡され、一足先に彼の居住地へ。
「散らかってますけど。」と言われなかったことが無いワンルームで待機。「今日は床が見えるので大分マシだな。」と思う私の感覚は、最近やや麻痺気味だ。
12時。まだ来ない。1時。まだ来ない。2時。まだ来ない。3時。まだ来ない。雪は降っているのだろうか。とにかく部屋が猛烈に寒いと気付き、対策が必要になる。ニットの上に彼のフリースを着、さらに彼のコートを羽織り、布団を座敷童のようにかぶって読書。そのうち怒りがこみ上げてきたので、トイレ掃除なぞする。トイレの汚れを恥ずかしがるに違いない彼に対しての、ささやかな嫌がらせだ。さらなる嫌がらせとして見られちゃいけない物でも探してやろうかと思ったけど、それはさすがに気の毒なので控えた(私も見たくないし)。
玄関で土下座することになった彼が帰宅したのは、早朝4時前のことである。
------------------------------------------------------------------
映画の備忘。
●『キング・コング』(監督:ピーター・ジャクソン 2005年)
いやはや、素晴らしい。
気鋭の脚本家を演じたエイドリアン・ブロディに惚れた。この人、未チェックだった(私の場合、全俳優の95%は未チェックなのだが)。滅茶滅茶、タイプ。冒険活劇では当たり前のことになっているけど、実際、私たちのような民間人がいざジャングルに突入できるかといえば、かなり怪しい。今回も、ヒロインを救いに向かったのがエイドリアン・ブロディではなくハリソン・フォードとかだったら、あまりにもフツウ過ぎる。そんなフツウな彼(というか、むしろ不健康そうだ…)や、コミカルなジャック・ブラックという、いわゆる一般人が危ない目に遭うからこそ、「えー!!どうなっちゃうのー!?」という意味で恐怖が増した。見所がありまくりだが、とにもかくにも、エイドリアンだ。素敵。目がハート。チェケだな。
(解説:諸事情につき、2006年のりんは、一見不健康そうな文化系で憂いを帯びたタイプの男に興味の対象が移っている模様です。)
誰に対しても薦められる、大人から子どもまでワクワクできる、映画らしい映画、でした。
●『プライドと偏見』(監督:ジョー・ライト 2005年)
「イイ映画だな。」とは思ったけど、大好きなタイプの作品ではない。
牧歌的なのにどこか薄暗い雰囲気を常に纏った本編だが、随所にクスッと笑えるシーンがあり、シニカルを愛する大人に受けが良いと思われる。タイトルが押しつけがましくなく、最後に「なるほど」と納得できる位に静かに主張している。AとB、というタイトルのこのさじ加減が絶妙だ。プライド、という作品だったらもっとヒロインが高慢ちきに見えたかもしれない。偏見だけだと、教育的な意味を含んでしまうような。
年末の『SAYURI』に引き続き、女の生き方とはなんぞや、を考えさせられる作品。
上流階級の男性と結婚すること、それを盲目的に目指す女性が"フツウ"だった時代。さぞ息苦しいことだったろうと想像されるけど、私はむしろ、二者択一の自由が与えられている現代日本に生きる女性は、逆の意味で息苦しいのかもしれない、などと思った。揺るぎない(周りの誰もが認める)価値観が絶対性を持っていた時代を後から振り返るから息苦しく見えるだけで、当時はそれが当たり前だったからこそ、伸び伸びとしていた人もいるんじゃないかな、と。それこそ、ヒロインの妹のように。
ダーシー氏の求愛方法は無骨でよか。ただ、ろくに二人きりで時間を過ごしたことがないのに簡単に「愛してる」と言えちゃうのね、というあたりは、時代性とお国柄の問題もあるだろうけど、ちとマイナス。
私の「映画好き度」を数値化すると、日本平均を大きく下回る。…のは、去年までのハナシ。今年の私は違う。今週末は、合計三本も見てしまった。しかもすべて映画館で、だ。まさに未曾有の出来事。雪が降ったのは私のせいかもしれない。恋は、映画嫌いの女さえ変えるのだ。ラヴ・イズ・ミラクル。
一本目。『キング・コング』を観賞。
とにかく大興奮!!お化け屋敷に入ったときに感じるような、純度の高い恐怖を味わう。雷鳴に驚いて「キャー!」と男にしがみつく女子が今時いるのか知らんが、それに近いことを本気で(かなり本気で)したくなるほど戦慄した。
観賞後、新宿でランチ。カレーの王子様は本日もカレーを召しあがる。
二本目。『プライドと偏見』を観賞。
本当は『ALWAYS三丁目の夕日』を観るつもりだったのだが、大入り満員につきはじき出される。私とマイ・ラヴァーの共通の友人が薦めていたということもあり、こっちにしようか、とチケット購入。入館。「いやー、代わりに観たいものがあってよかったなあ。しかも丁度イイ時間に。」「ほんとだねー。良さそうだよねー。事前予習まったくしてないけど。」などと語りつつ、ワクワクしながら予告編をやり過ごす。
さっきまでワクワクしていたのに、開始五分でいきなり寝るマイ・ラヴァー。彼のことは無視しようと決める。観賞後。映画を観るたびに何かしら買う彼も、さすがに今回のパンフレットは買っていなかった。あの部屋にあれ以上本が増えたら文字通り「足の踏み場も無い」状況になるので、「ああ、よかった。」と私が一人ホッとしていたことも、彼はおそらく知らない。
夕食は、パリのビストロ風レストランにて。
連れてけ連れてけと騒いだ中華のお店は、絶賛好評中につき予約できなかったそうな。が、ここも雑誌で取りあげられるほどの人気店らしく。雪にもかかわらず、商売繁盛のご様子だ。気取りすぎない内装は好印象。食前酒(リレ&シェリー)で乾杯→軽いボディの赤ワインをいただく。牛のイチボ(モモ肉の中でも柔らかい部分)を包丁で叩いてタマネギやピクルスを混ぜ込んだタルタルステーキ(売り切れご免らしい)を、予約の段階で押さえておいたマイ・ラヴァー。彼の食べ物に関しての抜かりの無さは、パリジェンヌもビックリだ。
どうしても断れないまま授業関係の飲み会に参加したのが、つい先日のことだ。場所は某ターミナル駅のチェーン居酒屋。金曜日で大人数なのに、予約もしないで殴り込みだ。幹事の手際の悪さとジェントルマンシップの少なさに興ざめしたのだが、よく考えると、私の基準の方がかなりおかしいのかもしれない。彼(幹事)にはすまないことをしたと思う。それにしても「大学生らしい飲み」に行かなくなって久しい。学生と社会人を比べちゃういけすかない女になることを、何より恐れてはいる。が、私は、「人とお酒を飲むこと」は大好きだけど、「ただの飲み会」は好きじゃないんだ。酒を味わうのではなく、酒を飲んでいる事実に既に酔っているような人と飲むのも好きじゃない。…などと考えながら、慣れた手つきでワインのテイスティングをする彼をうっとりと眺める私は、やはり身も心もいけすかない女になりつつあるのだろうか。
ほろ酔いのうっふん状態で店を後にする。私はうっふん気分なのに、学生時代の友達と久々の飲みがあるから一瞬顔を出してくるとおっしゃるマイ・ラヴァーが、一時離脱。鍵を渡され、一足先に彼の居住地へ。
「散らかってますけど。」と言われなかったことが無いワンルームで待機。「今日は床が見えるので大分マシだな。」と思う私の感覚は、最近やや麻痺気味だ。
12時。まだ来ない。1時。まだ来ない。2時。まだ来ない。3時。まだ来ない。雪は降っているのだろうか。とにかく部屋が猛烈に寒いと気付き、対策が必要になる。ニットの上に彼のフリースを着、さらに彼のコートを羽織り、布団を座敷童のようにかぶって読書。そのうち怒りがこみ上げてきたので、トイレ掃除なぞする。トイレの汚れを恥ずかしがるに違いない彼に対しての、ささやかな嫌がらせだ。さらなる嫌がらせとして見られちゃいけない物でも探してやろうかと思ったけど、それはさすがに気の毒なので控えた(私も見たくないし)。
玄関で土下座することになった彼が帰宅したのは、早朝4時前のことである。
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映画の備忘。
●『キング・コング』(監督:ピーター・ジャクソン 2005年)
いやはや、素晴らしい。
気鋭の脚本家を演じたエイドリアン・ブロディに惚れた。この人、未チェックだった(私の場合、全俳優の95%は未チェックなのだが)。滅茶滅茶、タイプ。冒険活劇では当たり前のことになっているけど、実際、私たちのような民間人がいざジャングルに突入できるかといえば、かなり怪しい。今回も、ヒロインを救いに向かったのがエイドリアン・ブロディではなくハリソン・フォードとかだったら、あまりにもフツウ過ぎる。そんなフツウな彼(というか、むしろ不健康そうだ…)や、コミカルなジャック・ブラックという、いわゆる一般人が危ない目に遭うからこそ、「えー!!どうなっちゃうのー!?」という意味で恐怖が増した。見所がありまくりだが、とにもかくにも、エイドリアンだ。素敵。目がハート。チェケだな。
(解説:諸事情につき、2006年のりんは、一見不健康そうな文化系で憂いを帯びたタイプの男に興味の対象が移っている模様です。)
誰に対しても薦められる、大人から子どもまでワクワクできる、映画らしい映画、でした。
●『プライドと偏見』(監督:ジョー・ライト 2005年)
「イイ映画だな。」とは思ったけど、大好きなタイプの作品ではない。
牧歌的なのにどこか薄暗い雰囲気を常に纏った本編だが、随所にクスッと笑えるシーンがあり、シニカルを愛する大人に受けが良いと思われる。タイトルが押しつけがましくなく、最後に「なるほど」と納得できる位に静かに主張している。AとB、というタイトルのこのさじ加減が絶妙だ。プライド、という作品だったらもっとヒロインが高慢ちきに見えたかもしれない。偏見だけだと、教育的な意味を含んでしまうような。
年末の『SAYURI』に引き続き、女の生き方とはなんぞや、を考えさせられる作品。
上流階級の男性と結婚すること、それを盲目的に目指す女性が"フツウ"だった時代。さぞ息苦しいことだったろうと想像されるけど、私はむしろ、二者択一の自由が与えられている現代日本に生きる女性は、逆の意味で息苦しいのかもしれない、などと思った。揺るぎない(周りの誰もが認める)価値観が絶対性を持っていた時代を後から振り返るから息苦しく見えるだけで、当時はそれが当たり前だったからこそ、伸び伸びとしていた人もいるんじゃないかな、と。それこそ、ヒロインの妹のように。
ダーシー氏の求愛方法は無骨でよか。ただ、ろくに二人きりで時間を過ごしたことがないのに簡単に「愛してる」と言えちゃうのね、というあたりは、時代性とお国柄の問題もあるだろうけど、ちとマイナス。
滋養
2006年1月19日立ち位置について考える。
私の周りの大人は色々なことを考えているようだ。センセーショナルな事件が起こるたびに、彼らは自らの立ち位置を明らかにする。声量に違いはあれど、とにもかくにも「自分はここだ」とポジショニングする彼らの背中に、私は羨望の視線を送るのみだ。彼らが立ち位置を決めたのはいつなのだろう。
昔、ホリエモンをリスペクトする人とよくお酒を飲んでいた。酔うと饒舌になる人だった。普段は口数が少ない人だったから、自分から色々話してくれると嬉しかった。その人は、ホリエモンを「現代の織田信長だ!」と語り、とても評価していた。今よりさらに無知だった私は、「そうか、堀江さんは現代の織田信長なのか。」と素直に納得した。
個人的には。
堀江貴文という人を、ブラウン管を通して初めて見たとき、イイとも悪いとも思わなかった。イイのか悪いのかを判断するために必要な根拠となる知識、その絶対量が不足していた。それでも周りに彼をイイという人がいたから、ヒナ鳥が刷り込まれるように、私は"そちら側"に立つことになった。
もうひとつ。私は、当時、そのある人の影響である雑誌を買っていた。「かしこいOLの財テク紹介!」だかなんだか忘れたが、株を買って"かしこく"生きるOLたちのハウツーをまとめた特集が定期的に組まれていた。さすがに実践することはなかったし、いざOLになったとして自分が株を買う姿が想像できなかった。でもその雑誌に載るようなOLさんになりたいと(結構、本気で)思っていた私なので、あのまま生きていたら刷り込まれていたのかもしれない。
ホリエモンがイイのか悪いのか、株を買うことがイイのか悪いのか。私はそれら行為の客観的な是非を問いたいわけじゃない。なぜなら、その是非は個人が決めることだから。「株を買うヤツの気が知れない」と語る大人が私の周りには多いけど、そう思わない人がいることを経験として知っているし、説得しようとしてもなかなか難しそうだ。神様が下す審判のような揺るぎない是非にしがみつきたいと思うけど、それは不可能なわけで。
うさんくさいものをピピピと関知するセンサーのようなもの、それは私にもある。ただ、私は、やはりどう思い返しても「自ら考えること」を放棄していたようで。必要十分な知識があって初めて立ち位置を決めるのではない。たとえ脆弱な知識に基づくとしても、対象をまず見ること、よーく見ること、その姿勢の上に知識は積み重なっていくのだろう。
そして、イイか悪いのか判断をつけにくい対象を与えられたとき、考えるより先に「自分の好きな人たち」の意見を聞いてしまうと、私は確実にそれに影響されてしまう。なぜなら、好きだから。これはもはや「性質」なので直らない(←諦めた)。でも、たとえ後から如実に影響を受けるとしても、話を聞く前に自分でも考えようと思う。考えることさえせずにいつでもフラットに生きていた私を思い出すと、なんだか素直で無邪気で可愛らしい気もするけど、「無垢」と「馬鹿」を混同してはいけない。
とか言いつつ、今の私は、白布がいつでも準備OKとばかりに染まる体勢だ。
ただね。どれだけ自分で考えようとしても他者(近くにいる人、好きな人、諸々。)の影響を受けてしまうのなら、普段からたくさんのインプットをしている人のそばにいたいとは思う。多くのインプットをしていないのに妙に声の大きい人は、なぜか説得力のあることを言ったりもするから困る。そういう人に惑わされないように。人より高い場所にアンテナを張り、人より多くの本を読もうとして、「よく生きる」ことを目標としている人、そういう素敵なインプットをする人を探してそばにいることが、客観的な是非を問うよりも、今の私にはよっぽど必要なことなのだと思う。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●断髪@美容院。
金穴につき、髪染めは遠慮する。「あどけない感じで!」とオーダーしたら、見事にあどけない感じになった。満足。
私の周りの大人は色々なことを考えているようだ。センセーショナルな事件が起こるたびに、彼らは自らの立ち位置を明らかにする。声量に違いはあれど、とにもかくにも「自分はここだ」とポジショニングする彼らの背中に、私は羨望の視線を送るのみだ。彼らが立ち位置を決めたのはいつなのだろう。
昔、ホリエモンをリスペクトする人とよくお酒を飲んでいた。酔うと饒舌になる人だった。普段は口数が少ない人だったから、自分から色々話してくれると嬉しかった。その人は、ホリエモンを「現代の織田信長だ!」と語り、とても評価していた。今よりさらに無知だった私は、「そうか、堀江さんは現代の織田信長なのか。」と素直に納得した。
個人的には。
堀江貴文という人を、ブラウン管を通して初めて見たとき、イイとも悪いとも思わなかった。イイのか悪いのかを判断するために必要な根拠となる知識、その絶対量が不足していた。それでも周りに彼をイイという人がいたから、ヒナ鳥が刷り込まれるように、私は"そちら側"に立つことになった。
もうひとつ。私は、当時、そのある人の影響である雑誌を買っていた。「かしこいOLの財テク紹介!」だかなんだか忘れたが、株を買って"かしこく"生きるOLたちのハウツーをまとめた特集が定期的に組まれていた。さすがに実践することはなかったし、いざOLになったとして自分が株を買う姿が想像できなかった。でもその雑誌に載るようなOLさんになりたいと(結構、本気で)思っていた私なので、あのまま生きていたら刷り込まれていたのかもしれない。
ホリエモンがイイのか悪いのか、株を買うことがイイのか悪いのか。私はそれら行為の客観的な是非を問いたいわけじゃない。なぜなら、その是非は個人が決めることだから。「株を買うヤツの気が知れない」と語る大人が私の周りには多いけど、そう思わない人がいることを経験として知っているし、説得しようとしてもなかなか難しそうだ。神様が下す審判のような揺るぎない是非にしがみつきたいと思うけど、それは不可能なわけで。
うさんくさいものをピピピと関知するセンサーのようなもの、それは私にもある。ただ、私は、やはりどう思い返しても「自ら考えること」を放棄していたようで。必要十分な知識があって初めて立ち位置を決めるのではない。たとえ脆弱な知識に基づくとしても、対象をまず見ること、よーく見ること、その姿勢の上に知識は積み重なっていくのだろう。
そして、イイか悪いのか判断をつけにくい対象を与えられたとき、考えるより先に「自分の好きな人たち」の意見を聞いてしまうと、私は確実にそれに影響されてしまう。なぜなら、好きだから。これはもはや「性質」なので直らない(←諦めた)。でも、たとえ後から如実に影響を受けるとしても、話を聞く前に自分でも考えようと思う。考えることさえせずにいつでもフラットに生きていた私を思い出すと、なんだか素直で無邪気で可愛らしい気もするけど、「無垢」と「馬鹿」を混同してはいけない。
とか言いつつ、今の私は、白布がいつでも準備OKとばかりに染まる体勢だ。
ただね。どれだけ自分で考えようとしても他者(近くにいる人、好きな人、諸々。)の影響を受けてしまうのなら、普段からたくさんのインプットをしている人のそばにいたいとは思う。多くのインプットをしていないのに妙に声の大きい人は、なぜか説得力のあることを言ったりもするから困る。そういう人に惑わされないように。人より高い場所にアンテナを張り、人より多くの本を読もうとして、「よく生きる」ことを目標としている人、そういう素敵なインプットをする人を探してそばにいることが、客観的な是非を問うよりも、今の私にはよっぽど必要なことなのだと思う。
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備忘。
●断髪@美容院。
金穴につき、髪染めは遠慮する。「あどけない感じで!」とオーダーしたら、見事にあどけない感じになった。満足。
普通の日記。
まだ陽が昇らないうちに起床。以前、寝る前に電話でカレーの話をされて眠れなくなったと書いたことがあるが、昨夜は、週末に行く予定のレストランのマイルドな辛さについて語られた。以下、抜粋↓
「いやー、とにかく旨い店なんだよ。感動するはず。前も言ったと思うけど、辛い、と思わせておいて、あれ、そんなに辛くない、ん、ん、いや、あとからじわじわキター!みたいな複雑さ。かといって食べた途端に、この料理は複雑な辛さですねーって言いたくなるような難しい味じゃないんだ。ごめんね、そろそろこの話題やめるから。でも待って。もっとイイ表現があるはずなんだ。待って…。…。あ、あ、そうだ、たぶんアレだ。あの料理を敢えて表現するなら、アレだ!焦らしプレイ的辛さ!!」
というわけでやっぱり眠れるはずもなく、早朝から唐辛子の幻を見る。
バイト先のカフェにて。正午を回り、ミスをする店員続出。あーーーれーーーーと着物の帯をくるくる解かれるかのごとく、回転しながら仕事をこなす。"わくわく動物ランド"と化した店舗(つまり、まともに稼働していないということ!)をきっかり定時に脱出し、野暮用を済ませるために学校へ。
掲示板をチェックしていたら、奇襲に遭う。
スーツを着た、ではなく、スーツに着られたようなお兄さんに学食の場所を聞かれたので教えてあげたのだが、どうも話し相手が欲しかったようで、その場から立ち去らない。社会人一年目で、外回り中とのこと。そんな人がどうして母校でもない大学に忍び込んでいるのか理解に苦しむが、とにかく、一刻も早く仕事に戻った方がいいと思われたので、こちらから退散して差し上げた。
それにしても、人はいつから「社会人らしく」なるのだろう、と思う。不思議なもので、中学の頃から知っている友人は社会人三年目だが、会ってもいまだに社会人と話している気がしない。が、知り合ったのが既に社会人になってからの人だと、その人が学生だった頃があるなんて話の方がむしろ、まゆつばっぽい。学食に向かった(と予想される)彼に、「早く社会人らしくなってね☆」と心の中でエールを送る(←偉そう)。
ハミングしながら下校。ふと愛用のデニムのみすぼらしさに気付き、途端に不機嫌になる。「何はなくとも、デニムは必要だよな…。」と考え、カードが使える某百貨店へ。今履いているのはストレートタイプでウォッシュ加減がお気に入りだったけど、太もも部分に指が突き刺さって穴が開き、ムリヤリ「なんか、ヴィンテージっぽくなくもないかも。」とごまかし続けていたのだが、ごまかしがきかなくなった。
ブランド名も読めない店に適当に入り、適当に試着。「ケツデカ」と罵られLサイズを穿いている時期があったのに、採寸したらSサイズということが判明し、ああそうですかとSサイズを買う。あれから体重は変化していない。お尻が小さくなるような行為もしていない。最近、自分が太っているのか痩せているのかわからなくなった。華奢なのかガタイがいいのかもわからなくなった。
帰りの電車にて、リリー・フランキー著『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』を読む。それとはまったく関係無いが、本を膝に置いたまま目を瞑って、本日も愛について思いを巡らす。思えば、私は愛に対して常に一途な姿勢を貫いてきたけど、私の愛を受け取る側の人には、どうしてあんなに違いがあったのだろう、と思う。
同時に、昨夜(マイルドな辛さトークの合間に)聞いた「イイ話」を思い出す。私の体内には「製造工場」があって、そこで生産される製品は何年も昔から変化していないのだ。ただ、その製品を受け取る側の需要に合わせて、私は工場の生産ラインを変化させ、仕入れる材料も変えてきたのだと思う。プレゼントをあげるとすごく喜ぶ人がいるように、私の一所懸命作った製品を受け取って、とても喜んでくれる人がいる。確実に言えることは、その製品の良し悪しがどうであれ、要らないと思う人もいれば、欲しいと思う人もいるということ。すごく当たり前のこと。なぜこの話が「イイ話」なのかといえば、私は自分の製品を売りたいという気持ちがかつてとても強かったけど、とても良い消費者が私の青臭い話をウンウンと聞いてくれるなら、これからはもっと質の良い材料を仕入れていきたいと思ったから。
夕飯は、納豆ゴハンと、鰤の煮付けと、豚汁。こういうゴハンが大好き。シ・ア・ワ・セ☆
まだ陽が昇らないうちに起床。以前、寝る前に電話でカレーの話をされて眠れなくなったと書いたことがあるが、昨夜は、週末に行く予定のレストランのマイルドな辛さについて語られた。以下、抜粋↓
「いやー、とにかく旨い店なんだよ。感動するはず。前も言ったと思うけど、辛い、と思わせておいて、あれ、そんなに辛くない、ん、ん、いや、あとからじわじわキター!みたいな複雑さ。かといって食べた途端に、この料理は複雑な辛さですねーって言いたくなるような難しい味じゃないんだ。ごめんね、そろそろこの話題やめるから。でも待って。もっとイイ表現があるはずなんだ。待って…。…。あ、あ、そうだ、たぶんアレだ。あの料理を敢えて表現するなら、アレだ!焦らしプレイ的辛さ!!」
というわけでやっぱり眠れるはずもなく、早朝から唐辛子の幻を見る。
バイト先のカフェにて。正午を回り、ミスをする店員続出。あーーーれーーーーと着物の帯をくるくる解かれるかのごとく、回転しながら仕事をこなす。"わくわく動物ランド"と化した店舗(つまり、まともに稼働していないということ!)をきっかり定時に脱出し、野暮用を済ませるために学校へ。
掲示板をチェックしていたら、奇襲に遭う。
スーツを着た、ではなく、スーツに着られたようなお兄さんに学食の場所を聞かれたので教えてあげたのだが、どうも話し相手が欲しかったようで、その場から立ち去らない。社会人一年目で、外回り中とのこと。そんな人がどうして母校でもない大学に忍び込んでいるのか理解に苦しむが、とにかく、一刻も早く仕事に戻った方がいいと思われたので、こちらから退散して差し上げた。
それにしても、人はいつから「社会人らしく」なるのだろう、と思う。不思議なもので、中学の頃から知っている友人は社会人三年目だが、会ってもいまだに社会人と話している気がしない。が、知り合ったのが既に社会人になってからの人だと、その人が学生だった頃があるなんて話の方がむしろ、まゆつばっぽい。学食に向かった(と予想される)彼に、「早く社会人らしくなってね☆」と心の中でエールを送る(←偉そう)。
ハミングしながら下校。ふと愛用のデニムのみすぼらしさに気付き、途端に不機嫌になる。「何はなくとも、デニムは必要だよな…。」と考え、カードが使える某百貨店へ。今履いているのはストレートタイプでウォッシュ加減がお気に入りだったけど、太もも部分に指が突き刺さって穴が開き、ムリヤリ「なんか、ヴィンテージっぽくなくもないかも。」とごまかし続けていたのだが、ごまかしがきかなくなった。
ブランド名も読めない店に適当に入り、適当に試着。「ケツデカ」と罵られLサイズを穿いている時期があったのに、採寸したらSサイズということが判明し、ああそうですかとSサイズを買う。あれから体重は変化していない。お尻が小さくなるような行為もしていない。最近、自分が太っているのか痩せているのかわからなくなった。華奢なのかガタイがいいのかもわからなくなった。
帰りの電車にて、リリー・フランキー著『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』を読む。それとはまったく関係無いが、本を膝に置いたまま目を瞑って、本日も愛について思いを巡らす。思えば、私は愛に対して常に一途な姿勢を貫いてきたけど、私の愛を受け取る側の人には、どうしてあんなに違いがあったのだろう、と思う。
同時に、昨夜(マイルドな辛さトークの合間に)聞いた「イイ話」を思い出す。私の体内には「製造工場」があって、そこで生産される製品は何年も昔から変化していないのだ。ただ、その製品を受け取る側の需要に合わせて、私は工場の生産ラインを変化させ、仕入れる材料も変えてきたのだと思う。プレゼントをあげるとすごく喜ぶ人がいるように、私の一所懸命作った製品を受け取って、とても喜んでくれる人がいる。確実に言えることは、その製品の良し悪しがどうであれ、要らないと思う人もいれば、欲しいと思う人もいるということ。すごく当たり前のこと。なぜこの話が「イイ話」なのかといえば、私は自分の製品を売りたいという気持ちがかつてとても強かったけど、とても良い消費者が私の青臭い話をウンウンと聞いてくれるなら、これからはもっと質の良い材料を仕入れていきたいと思ったから。
夕飯は、納豆ゴハンと、鰤の煮付けと、豚汁。こういうゴハンが大好き。シ・ア・ワ・セ☆
for the goal
2006年1月17日コメント (4)暇だ。(←春休みに突入したので。)
ライブドアグループの証券取引法違反事件について考える。
株に関しては、小学生の頃にやった人生ゲーム(スーパーファミコン版)内でさえも手を出さなかったほどに、興味関心が薄い私。そんな私が考えていいのだろうかとも思うが、そんなことを言っていたら世の中のことを何ひとつ語れない上に、思うところがなくもないので書いてみようか。
人生ゲームの例を挙げたけど、私たちの一生は人生ゲームのようなものだよなと、最近思うときがある。相違点として。あれはプレイ人数に制限があったけど、実際は無い。あとは(言われがちだけど)リセットできない。ただ、共通点も多くあって。そのうちの一つは、結局一人だけゴールにたどり着こうとしていること。
私は信心深い祖母の影響もあって、「人の役に立つ仕事がしたい!」と思っていた(本気で公務員になろうとしていた時期もある)。でも、私はある日、ふと自分の乗っている「車」と「ルーレット」の存在に気づいたんだ。
というのも、私はたしかに皆がシアワセになれればいいと思っていたけど、自分の「車」に乗せる家族をゲットしたいと思っていたし、あわよくばゴールに到着したいとも思っていたからだ。ルーレットで6が出れば喜んでいたけど、それはほかの人を出し抜くということ。全員同じ瞬間にゴールに到着できればいいよね、と、そのような綺麗事を言えるほどの覚悟も無かったはず。
堀江さんが企業買収をまるでゲームのように楽しんでいると批判されるのを眺めながら、彼は現代に現れた誰の目にもわかりやすい「人生ゲームプレイヤー」だなと思っていた。
この世に出回っているお金の量が一定である以上、誰か一人が巨額の富を手にしたら、ほかの人の取り分が減るということだ。どれだけ均衡が一定に見えても、お金を稼ごうとしている限り、そこは押さえておこうと思う。あらかじめ仕切られた領地内で、こっちが少し大きくなった、今度はこっちだ、と、あちらこちらで陣取りをしているようなものなのでは、と。そして、自分だけは人生ゲームのゴールを目指していないともいえない。程度の差があるだけで。
ただ、私がどうしても株売買に興味を持てないのは(就職して、何かものすごい意識改革がなされない限り続きそう。)、ゲームでもリアルでも正攻法を好むからだろうと思う。受験も、就職も、正攻法でやってきた。そして、これから「車」に乗せる家族を探すときも、家を建てるときも、一番地味にコツコツとゴールを目指すのだろうと思う。
それが素晴らしい生き方だと言うつもりは毛頭無いが、誰もがどうしてもゴールを目指すという前提なら、せめて(他人様に対してというより、自分に対して)「みっともないやり方」じゃない方法でやっていきたいと思う。
問題は、金儲けに興じる人にもみっともない人はいるし、そうでない人の中にもみっともない人はいる、ということだ。
------------------------------------------------------------------
雑感と備忘。
●ファッション誌を、かれこれ10ヶ月以上買っていない(異例の事態)。一時期のCanCam熱が収まったので、雑誌難民と化しているようだ。MOREってどうなんでしょう。
●TSUTAYAカードを更新しなければ(←超・個人的な備忘)。
●シーフードのマリネ。
実は、無類のマリネ好き。この前行ったイタメシ屋さんのマリネがあまりに美味しかったので、なんとか家で作れはしないかと、試行錯誤&検索中。
いか、たこ、トマト、紫たまねぎ、(←ここまでは、まだいい。)
クミンパウダー、カイエンヌペッパー、オレガノ、赤ワインビネガー、
オリーブ油(エキストラバージン)、白ワイン
などなど、結構色々なものが必要らしい。少量なのに、買うのもなあ。でも、一度買っておけば、また使えるし。料理ってお金のかかる趣味だと思う昨今。
ライブドアグループの証券取引法違反事件について考える。
株に関しては、小学生の頃にやった人生ゲーム(スーパーファミコン版)内でさえも手を出さなかったほどに、興味関心が薄い私。そんな私が考えていいのだろうかとも思うが、そんなことを言っていたら世の中のことを何ひとつ語れない上に、思うところがなくもないので書いてみようか。
人生ゲームの例を挙げたけど、私たちの一生は人生ゲームのようなものだよなと、最近思うときがある。相違点として。あれはプレイ人数に制限があったけど、実際は無い。あとは(言われがちだけど)リセットできない。ただ、共通点も多くあって。そのうちの一つは、結局一人だけゴールにたどり着こうとしていること。
私は信心深い祖母の影響もあって、「人の役に立つ仕事がしたい!」と思っていた(本気で公務員になろうとしていた時期もある)。でも、私はある日、ふと自分の乗っている「車」と「ルーレット」の存在に気づいたんだ。
というのも、私はたしかに皆がシアワセになれればいいと思っていたけど、自分の「車」に乗せる家族をゲットしたいと思っていたし、あわよくばゴールに到着したいとも思っていたからだ。ルーレットで6が出れば喜んでいたけど、それはほかの人を出し抜くということ。全員同じ瞬間にゴールに到着できればいいよね、と、そのような綺麗事を言えるほどの覚悟も無かったはず。
堀江さんが企業買収をまるでゲームのように楽しんでいると批判されるのを眺めながら、彼は現代に現れた誰の目にもわかりやすい「人生ゲームプレイヤー」だなと思っていた。
この世に出回っているお金の量が一定である以上、誰か一人が巨額の富を手にしたら、ほかの人の取り分が減るということだ。どれだけ均衡が一定に見えても、お金を稼ごうとしている限り、そこは押さえておこうと思う。あらかじめ仕切られた領地内で、こっちが少し大きくなった、今度はこっちだ、と、あちらこちらで陣取りをしているようなものなのでは、と。そして、自分だけは人生ゲームのゴールを目指していないともいえない。程度の差があるだけで。
ただ、私がどうしても株売買に興味を持てないのは(就職して、何かものすごい意識改革がなされない限り続きそう。)、ゲームでもリアルでも正攻法を好むからだろうと思う。受験も、就職も、正攻法でやってきた。そして、これから「車」に乗せる家族を探すときも、家を建てるときも、一番地味にコツコツとゴールを目指すのだろうと思う。
それが素晴らしい生き方だと言うつもりは毛頭無いが、誰もがどうしてもゴールを目指すという前提なら、せめて(他人様に対してというより、自分に対して)「みっともないやり方」じゃない方法でやっていきたいと思う。
問題は、金儲けに興じる人にもみっともない人はいるし、そうでない人の中にもみっともない人はいる、ということだ。
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雑感と備忘。
●ファッション誌を、かれこれ10ヶ月以上買っていない(異例の事態)。一時期のCanCam熱が収まったので、雑誌難民と化しているようだ。MOREってどうなんでしょう。
●TSUTAYAカードを更新しなければ(←超・個人的な備忘)。
●シーフードのマリネ。
実は、無類のマリネ好き。この前行ったイタメシ屋さんのマリネがあまりに美味しかったので、なんとか家で作れはしないかと、試行錯誤&検索中。
いか、たこ、トマト、紫たまねぎ、(←ここまでは、まだいい。)
クミンパウダー、カイエンヌペッパー、オレガノ、赤ワインビネガー、
オリーブ油(エキストラバージン)、白ワイン
などなど、結構色々なものが必要らしい。少量なのに、買うのもなあ。でも、一度買っておけば、また使えるし。料理ってお金のかかる趣味だと思う昨今。