7月23〜26日の日記
2006年7月26日コメント (2)詳細は省くが(詳細を書くと私が誰だかバレちゃうので)、この数日間、色々なことが起きた。なにはともあれ、生きててよかった。下手したら死んでいたと思う。いやマジで。とりあえず同期の某氏には失望した。「りんさん怒ってますか?」とか言うから「ううん、ううん、怒ってないよ。アナタのせいじゃないもんね。」と菩薩のような微笑みとともに返してやったが、内心では「てめえみたいな男は馬に蹴られて死ぬべきだ。」と思っていた。失われた信用は回復しない。恐ろしいね。世の男性諸君には女性の上っ面だけ見て「あーよかったー。」と胸を撫で下ろさないことをオススメする。女性の言動と心情は一致していないことがほとんどだ。腹黒ですか?腹黒です。
以下、箇条書きに。
●買ったばかりのベルトが壊れた。ここぞとばかりにクレームをつける。
●時間ができたので、両手で胸を挟んで谷間を作ってみた。
●普段飲まないコカ・コーラを一気飲みしたら死ぬほどゲップが出て死ぬかと思った。取引先を前にゲフゲフ。
●厄介な電話に出たが、厄介だったので忘れることにした。そのまま退社。わっはっは。
●パズー(by天空の城ラピュタ)みたいな男性が理想のタイプです。もしくはFF6のロック。職場にいたらいいなあ。…と、隣のデスクの人を見て思いました。
●クッキー、トンカツ、劇甘アイスココア、ポテトチップス、コーラ、あいがけカレー(@なか卯)などを食す。体に悪いものほど美味しいのはなぜだ。それにしても、OLがなか卯であいがけ大盛りを食べながら週刊誌を読み時間がないからといってその場で堂々と化粧を直し釣りは要らねえぜって勢いで走り去る、って図はなんちゅうか終わってますね。
●体に悪いことばかりしてしまったこの数日間ですが、何より良くないのは「やせ我慢」ですな。皆さまもお体にはお気をつけください。
以下、箇条書きに。
●買ったばかりのベルトが壊れた。ここぞとばかりにクレームをつける。
●時間ができたので、両手で胸を挟んで谷間を作ってみた。
●普段飲まないコカ・コーラを一気飲みしたら死ぬほどゲップが出て死ぬかと思った。取引先を前にゲフゲフ。
●厄介な電話に出たが、厄介だったので忘れることにした。そのまま退社。わっはっは。
●パズー(by天空の城ラピュタ)みたいな男性が理想のタイプです。もしくはFF6のロック。職場にいたらいいなあ。…と、隣のデスクの人を見て思いました。
●クッキー、トンカツ、劇甘アイスココア、ポテトチップス、コーラ、あいがけカレー(@なか卯)などを食す。体に悪いものほど美味しいのはなぜだ。それにしても、OLがなか卯であいがけ大盛りを食べながら週刊誌を読み時間がないからといってその場で堂々と化粧を直し釣りは要らねえぜって勢いで走り去る、って図はなんちゅうか終わってますね。
●体に悪いことばかりしてしまったこの数日間ですが、何より良くないのは「やせ我慢」ですな。皆さまもお体にはお気をつけください。
冷やし中華と君に宣誓
2006年7月21日入社以来もっとも消耗した金曜日。
月末の金曜。都内には車が溢れ、移動中を狙って雨が降る。本日休みのN氏に事前確認すべきだった事項のために、世田谷と港区を何度も行き来。3月に買った靴はすっかり減って見るも無惨だ。ひとりだからゆるして、とタクシーの後部座席で横になる。車で横になるのはいつぶりだろう。いつもは垂直に降る雨粒が水平に流れるのを眺めながら、ウィンドウに幻を浮かべてうつらうつら…するのもままならず、帰社したらアレをしてコレをして、えーとなにか忘れてるな、あっそうだ夕方までにアレをしなくちゃと、ちっともくつろげない。
事前に根回しするのに、ピンポイントで不測の事態。いつだってそう。タクシー内で練った作戦はそのまま遂行されることはなく、帰社した途端に余儀なく変更。たとえていうなら、私は妹。姉から「母がカレーを作るらしい。」と聞かされ、それならば野菜と肉とルーを買って…忘れてると困るからスプーンも買っちゃおうか、と準備万端だったはずなのに、いざ母に会ってみたら「カレーはカレーでもカレーうどんなのよ。」というわけで、スプーンはまったく役に立たず、肝心の麺がないし、箸もない。そんな感じ。
残業後(←麺と箸を買ってたらしい)。
昼ゴハンを抜くとおなかが減るどころか、むしろ夜には何も食べたくない。こういうときは喉ごしのよいものを。そうだ、冷やし中華食べよう!冷やし中華食べて元気出そう! というわけで会社近くの中華料理屋へ飛んだものの、なんと、「閉店しました。」の看板。そういえば「深夜に冷やし中華」という図はあまり見ない。いやだ絶対食べてやる、と意気込んで都内をさまよう。ああ私は何やってんだ。諦めてくぐった暖簾の先でひとりつけ麺をすする。と、目に飛び込んだのは、「冷やし中華始めました。」の文字。ああっ!あああっ!!食べる前に気づけよ自分!!(←ここでも不測の事態。)頭にきたのでビール追加。
珍しく自分から「迎えに来て。」と頼んだのに、駅に着いたら父がいない。メールが届いてなかったらしい(←また不測の事態)。事前連絡が意味を為さない本日、「手帳が欲しいなあ。」と密かに思っていた私に父からシステム手帳のプレゼント。リングがあると書き辛いし嵩張ると持ち歩かないので、私はシステム手帳が嫌だった。なのに、どうして、よりによって?
落ち着いて考えればわかるのに。いくらでも言いようがあったのに。私は(たぶん)父を傷つけた。言った言葉は取り消せない。あとでいくらフォローをしても。ごめん、ごめん、おとうさんごめん、と泣きながら包みを開けた。有名なフランクリンのものだった。高かっただろうに。仕事がうまくいかないと悩む私のために、父なりに考えた贈り物だっただろうに。
システム手帳の何がそんなに嫌だったのか。説明書を見るととても使い勝手が良さそうだ。買い変えるのは中身だけでいいし、カバー部分に物がいっぱい入れられる。計画してたことが崩れたからといってその度に心の中で癇癪を起こす私は、たとえ父以外の人を傷つけてないとしても、自分をどんどんすり減らし、広がる心の隙間を不健康な方法で埋めている(と思う)。冷やし中華じゃなくたっていいじゃない、と。だって、よく考えたら、つけ麺だっておいしい。
何かにつけ敏感だ。些細な刺激に過敏に反応しすぎて、体内の水分が足りない。「君の将来が楽しみなんだ。」という言葉を思い出しながら、今が試練のときだ、と自分に言い聞かす。いつか、イイ女になってみせます。
月末の金曜。都内には車が溢れ、移動中を狙って雨が降る。本日休みのN氏に事前確認すべきだった事項のために、世田谷と港区を何度も行き来。3月に買った靴はすっかり減って見るも無惨だ。ひとりだからゆるして、とタクシーの後部座席で横になる。車で横になるのはいつぶりだろう。いつもは垂直に降る雨粒が水平に流れるのを眺めながら、ウィンドウに幻を浮かべてうつらうつら…するのもままならず、帰社したらアレをしてコレをして、えーとなにか忘れてるな、あっそうだ夕方までにアレをしなくちゃと、ちっともくつろげない。
事前に根回しするのに、ピンポイントで不測の事態。いつだってそう。タクシー内で練った作戦はそのまま遂行されることはなく、帰社した途端に余儀なく変更。たとえていうなら、私は妹。姉から「母がカレーを作るらしい。」と聞かされ、それならば野菜と肉とルーを買って…忘れてると困るからスプーンも買っちゃおうか、と準備万端だったはずなのに、いざ母に会ってみたら「カレーはカレーでもカレーうどんなのよ。」というわけで、スプーンはまったく役に立たず、肝心の麺がないし、箸もない。そんな感じ。
残業後(←麺と箸を買ってたらしい)。
昼ゴハンを抜くとおなかが減るどころか、むしろ夜には何も食べたくない。こういうときは喉ごしのよいものを。そうだ、冷やし中華食べよう!冷やし中華食べて元気出そう! というわけで会社近くの中華料理屋へ飛んだものの、なんと、「閉店しました。」の看板。そういえば「深夜に冷やし中華」という図はあまり見ない。いやだ絶対食べてやる、と意気込んで都内をさまよう。ああ私は何やってんだ。諦めてくぐった暖簾の先でひとりつけ麺をすする。と、目に飛び込んだのは、「冷やし中華始めました。」の文字。ああっ!あああっ!!食べる前に気づけよ自分!!(←ここでも不測の事態。)頭にきたのでビール追加。
珍しく自分から「迎えに来て。」と頼んだのに、駅に着いたら父がいない。メールが届いてなかったらしい(←また不測の事態)。事前連絡が意味を為さない本日、「手帳が欲しいなあ。」と密かに思っていた私に父からシステム手帳のプレゼント。リングがあると書き辛いし嵩張ると持ち歩かないので、私はシステム手帳が嫌だった。なのに、どうして、よりによって?
落ち着いて考えればわかるのに。いくらでも言いようがあったのに。私は(たぶん)父を傷つけた。言った言葉は取り消せない。あとでいくらフォローをしても。ごめん、ごめん、おとうさんごめん、と泣きながら包みを開けた。有名なフランクリンのものだった。高かっただろうに。仕事がうまくいかないと悩む私のために、父なりに考えた贈り物だっただろうに。
システム手帳の何がそんなに嫌だったのか。説明書を見るととても使い勝手が良さそうだ。買い変えるのは中身だけでいいし、カバー部分に物がいっぱい入れられる。計画してたことが崩れたからといってその度に心の中で癇癪を起こす私は、たとえ父以外の人を傷つけてないとしても、自分をどんどんすり減らし、広がる心の隙間を不健康な方法で埋めている(と思う)。冷やし中華じゃなくたっていいじゃない、と。だって、よく考えたら、つけ麺だっておいしい。
何かにつけ敏感だ。些細な刺激に過敏に反応しすぎて、体内の水分が足りない。「君の将来が楽しみなんだ。」という言葉を思い出しながら、今が試練のときだ、と自分に言い聞かす。いつか、イイ女になってみせます。
牛乳を買ってきてと言われたのに間違えて食パンを買ってしまった木曜日。
「落ち度があってはならない!!」と気合いを入れて入社した日から四ヶ月が経とうとしている。どんなことがあっても、笑顔で、前向きに、元気良く。だって、それしかできない。そう思っていたけど、どれだけ気合いを入れてもミスがある。100%全力を注いでも防げない何かを突きつけられ、せめて笑顔の無駄遣いはやめようか、と思う。常に最大出力(しかも笑顔)だった私は、仕事にも、心にも、物腰にも、すべてにメリハリがあれば、と思う。
願い続ければ叶うようで外見にも変化が出たらしい。「りんさん、最近まったりしてますね。」と指摘したのは、外回り中のN氏。「そう見える?」「それくらいで丁度いいですよ。」「そうかもね。」と無駄口を叩いている間にケータイが鳴る。本社で事件勃発。「…どうします?」「んー、まあ、どうにかなるっしょ。」「…りんさんらしくないですね。」「なんで?」「前だったら、ぎゃーとか叫んだり、さあNくん行くよっ、って僕を叱咤したのに。」という指摘には「そうかしら?」と答える以外にない。そうかしら?
同じ路線、同じ光景、同じ車両。パブロフの犬のように反射する私は、毎晩のように同じ場所で同じことを思い出す。毎日考える。そして答えは一緒なの。
つい他人と比較する。新入社員の私が遅刻を恐れてダッシュしたすぐ後に悠々と現れる上司。職場で堂々と私用電話をかけるその人の会話を狭いフロアで強制的に聞かされながら、彼女の幸福値を測定する。同様に自分の幸福値も数値化して、比較し、「for me」としか名付けられない類の歌を心の中で歌うんだ。「自分に同情するのは最低の行為だ」といつか聞いたことがあるけど、なにゆえ最低なのか、私は未だにはっきりした答えを知らない。
そうは思いつつも。
比較するには共通点が必要だ。ボールペンと担々麺のどっちが優れているかを比較するのは不可能だが、ボールペンと鉛筆なら比べることができる。ということは、私と誰かを比べるときも、世界をカテゴリー分けせずにいられない。自分に都合のいいように線引きをして世界を分断する私は、私と上司が共通して持つ要素だけ取り出して、自分を可哀想がってみる。まことに恣意的な行為だろう。
鉛筆よりボールペンの方が優れていると思うとき、それは単に「書いたら消えない」という点にのみ注目しているからだろう。私が他人より不幸だと思い込んでも、それは、「私」の中から自分に都合のいい部分だけを取りだして勝手に比較してるだけ。「私」の中から勝手に取り出した要素をネタに、「あたしの方が不幸だわ!」と叫ぶ人がもし私の目の前に現れたら、言ってやりたいことがある。「私の要素は私だけのもの。誰とも共有していない。」と。そう、比較はナンセンス。
だからこそ私は思う。今夜も同じ場所で思う。
たかがそれぐらい、と自分でも笑い飛ばしたくなるようなことで悶々と悩み続ける私。たかがそれぐらい、と思うのも、他人の抱えるもっと大層な悩みと比較してるから。たしかに人に言ったら笑われる(と思う)。それでも比較しないでほしい。自分も比較しないから。私の悩みは他人以上でも他人以下でもなく、世界にひとつだけ存在するオリジナル。「あなたより辛い人はいるのよ。」と仮に言われても、私はこの世に一本しかない鉛筆だという気がする。鉛筆とよく似たボールペンと比べられることはあれど、「よく似てる」だけで、一緒じゃない。
比較したがる人(自分を含む)、いくらでも共通点を見つけられるこの世のすべての物質、それらが溢れる世界。数値化もカテゴリー分けもできないと理解して目を瞑れば、もう一度目を開いたとき、自分の心の保ちよう次第で幸せにも不幸にもなるアメーバのように流動的な世界が広がる気がする。
「落ち度があってはならない!!」と気合いを入れて入社した日から四ヶ月が経とうとしている。どんなことがあっても、笑顔で、前向きに、元気良く。だって、それしかできない。そう思っていたけど、どれだけ気合いを入れてもミスがある。100%全力を注いでも防げない何かを突きつけられ、せめて笑顔の無駄遣いはやめようか、と思う。常に最大出力(しかも笑顔)だった私は、仕事にも、心にも、物腰にも、すべてにメリハリがあれば、と思う。
願い続ければ叶うようで外見にも変化が出たらしい。「りんさん、最近まったりしてますね。」と指摘したのは、外回り中のN氏。「そう見える?」「それくらいで丁度いいですよ。」「そうかもね。」と無駄口を叩いている間にケータイが鳴る。本社で事件勃発。「…どうします?」「んー、まあ、どうにかなるっしょ。」「…りんさんらしくないですね。」「なんで?」「前だったら、ぎゃーとか叫んだり、さあNくん行くよっ、って僕を叱咤したのに。」という指摘には「そうかしら?」と答える以外にない。そうかしら?
同じ路線、同じ光景、同じ車両。パブロフの犬のように反射する私は、毎晩のように同じ場所で同じことを思い出す。毎日考える。そして答えは一緒なの。
つい他人と比較する。新入社員の私が遅刻を恐れてダッシュしたすぐ後に悠々と現れる上司。職場で堂々と私用電話をかけるその人の会話を狭いフロアで強制的に聞かされながら、彼女の幸福値を測定する。同様に自分の幸福値も数値化して、比較し、「for me」としか名付けられない類の歌を心の中で歌うんだ。「自分に同情するのは最低の行為だ」といつか聞いたことがあるけど、なにゆえ最低なのか、私は未だにはっきりした答えを知らない。
そうは思いつつも。
比較するには共通点が必要だ。ボールペンと担々麺のどっちが優れているかを比較するのは不可能だが、ボールペンと鉛筆なら比べることができる。ということは、私と誰かを比べるときも、世界をカテゴリー分けせずにいられない。自分に都合のいいように線引きをして世界を分断する私は、私と上司が共通して持つ要素だけ取り出して、自分を可哀想がってみる。まことに恣意的な行為だろう。
鉛筆よりボールペンの方が優れていると思うとき、それは単に「書いたら消えない」という点にのみ注目しているからだろう。私が他人より不幸だと思い込んでも、それは、「私」の中から自分に都合のいい部分だけを取りだして勝手に比較してるだけ。「私」の中から勝手に取り出した要素をネタに、「あたしの方が不幸だわ!」と叫ぶ人がもし私の目の前に現れたら、言ってやりたいことがある。「私の要素は私だけのもの。誰とも共有していない。」と。そう、比較はナンセンス。
だからこそ私は思う。今夜も同じ場所で思う。
たかがそれぐらい、と自分でも笑い飛ばしたくなるようなことで悶々と悩み続ける私。たかがそれぐらい、と思うのも、他人の抱えるもっと大層な悩みと比較してるから。たしかに人に言ったら笑われる(と思う)。それでも比較しないでほしい。自分も比較しないから。私の悩みは他人以上でも他人以下でもなく、世界にひとつだけ存在するオリジナル。「あなたより辛い人はいるのよ。」と仮に言われても、私はこの世に一本しかない鉛筆だという気がする。鉛筆とよく似たボールペンと比べられることはあれど、「よく似てる」だけで、一緒じゃない。
比較したがる人(自分を含む)、いくらでも共通点を見つけられるこの世のすべての物質、それらが溢れる世界。数値化もカテゴリー分けもできないと理解して目を瞑れば、もう一度目を開いたとき、自分の心の保ちよう次第で幸せにも不幸にもなるアメーバのように流動的な世界が広がる気がする。
My life will be
2006年7月19日
やや活動的な水曜日。
「梅雨が長引いてるのはアナタのせいよ」などと身に覚えのない罪に問われ、朝から気分サイアク(私が何をした?)。こういう日は美容院に行くべきだ。というわけで原宿へ。いつもの美容師さんの有り難い説法を聞いたり、若いアシスタントさんと等身大で愚痴を言い合ったり、そうこうしているうちに髪型完成。また来ます。
自分へのご褒美にとフットマッサージを受けて帰宅。
久々にTVを観る。TBSの『ドリーム・プレス社』は故・逸見政孝の特集を組んでおり、ローストビーフとマカロニサラダを交互に口に運びながら、見るともなしに見た。TBSを辞めてフリーに転向した逸見さん。一生アナウンサーでいたいという志半ばで癌告知を受けた逸見さん。当時の記録と家族の証言をもとに再現したVTRの最中、ちょくちょく登場したのが逸見さんの手記。
「テレビ界の偉人」と銘打ってるだけあり、再現された逸見さんはまさに"偉人"。「随分美化されてるね。」という私の投げかけと、「死ぬとみんないい人になるのよ。」という母の答え。生前の逸見氏が実際はどのような人だったか、私は知らない。本当に素晴らしい人だったかもしれないし、もっと人間くさい人だったかもしれない。
その後、なぜか、昔録り溜めした月9ドラマ『ラスト・クリスマス』を観る(←実は織田裕二の隠れ大ファン)。
さすがお約束のロマンチック・ラブコメディは、わかりやすい。脚本・演出ともに体に染みこみやすいので、容易に浸ることができる。これは女の子の理想よね、と誰もが納得できる主人公・春木健次(織田裕二)。女の私でも守ってあげたくなっちゃうヒロイン・青井由季(矢田亜希子)。ドラマのような恋がしたい、と本気で思ってた。…と過去形で書いていいものか。
自分をドラマのヒロインのごとく(心の中で)仕立てるのは私の必殺技だけど、現実の私はといえば、さして大した事件もないまま飄々と生きるだけ。ドラマ化できるかといえば、そうでもない。盛り上がりに欠けるだけだろう。そんな私の人生だけど、たとえば私が死んだ後、母の「死ぬとみんないい人になるのよ。」という言葉通り私さえも美化されて、誰かに見せられる再現VTRになるのかな、と。
そうは思えないけど、TVを消してPCを起ち上げ、一年半もダラダラと書き続けた日記と対峙する。どこにでもいる女子大生だった私は、「周りがするから」という理由で就職活動を始め、その記録用にと流行のブログを書くようになり、その後も当たり障りない生活を送り続け、卒業し、就職し、今に至る。抽象化するとたしかに当たり障りない私の一年半だけど、具体的な部分では私にしかわからないドラマティックな展開もあり、これはこれでひとつの「ストーリー」になりつつある。もちろん脚本はないし、あくまで結果としての「ストーリー」。
逸見氏が手記というかたちで自らの人生を記録していた当時、自分の生き様がまさか壮大なドラマになるとは思ってなかっただろう(たぶん)。起承転結やドラマとしての盛り上がりを意図せずに淡々と綴っていた手記は、彼がこの世を去った後も残る。生前の彼が自らの口で語った自生や、実際の彼を知る妻らの証言、それらも故人を再生するには有効な材料になるだろうが、もっと強いのは、やはり「文字」。意図せずに何かを記録し続けるには少々の勇気が要るけれど、振り返れば、勝手にストーリーと化した「文字」がある。意図しなかったからこそ取捨選択されないままだった生々しい記録は、本人の知らぬところで運命という幻想の力で推敲され、後に美しいドラマになる。
作家や脚本家になりたいという大それた欲求も今はないけど、ドラマのような生涯にしたいと願っていた私は、"意図しないまま"いつしかストーリーを書いている。だから、今後も、録画して何度も観たくなる月9のように、死ぬ間際にひとりで感動できさえすればいい程度のささやかなドラマを紡ぎ続けよう、かなあ(上目遣い)。
「梅雨が長引いてるのはアナタのせいよ」などと身に覚えのない罪に問われ、朝から気分サイアク(私が何をした?)。こういう日は美容院に行くべきだ。というわけで原宿へ。いつもの美容師さんの有り難い説法を聞いたり、若いアシスタントさんと等身大で愚痴を言い合ったり、そうこうしているうちに髪型完成。また来ます。
自分へのご褒美にとフットマッサージを受けて帰宅。
久々にTVを観る。TBSの『ドリーム・プレス社』は故・逸見政孝の特集を組んでおり、ローストビーフとマカロニサラダを交互に口に運びながら、見るともなしに見た。TBSを辞めてフリーに転向した逸見さん。一生アナウンサーでいたいという志半ばで癌告知を受けた逸見さん。当時の記録と家族の証言をもとに再現したVTRの最中、ちょくちょく登場したのが逸見さんの手記。
「テレビ界の偉人」と銘打ってるだけあり、再現された逸見さんはまさに"偉人"。「随分美化されてるね。」という私の投げかけと、「死ぬとみんないい人になるのよ。」という母の答え。生前の逸見氏が実際はどのような人だったか、私は知らない。本当に素晴らしい人だったかもしれないし、もっと人間くさい人だったかもしれない。
その後、なぜか、昔録り溜めした月9ドラマ『ラスト・クリスマス』を観る(←実は織田裕二の隠れ大ファン)。
さすがお約束のロマンチック・ラブコメディは、わかりやすい。脚本・演出ともに体に染みこみやすいので、容易に浸ることができる。これは女の子の理想よね、と誰もが納得できる主人公・春木健次(織田裕二)。女の私でも守ってあげたくなっちゃうヒロイン・青井由季(矢田亜希子)。ドラマのような恋がしたい、と本気で思ってた。…と過去形で書いていいものか。
自分をドラマのヒロインのごとく(心の中で)仕立てるのは私の必殺技だけど、現実の私はといえば、さして大した事件もないまま飄々と生きるだけ。ドラマ化できるかといえば、そうでもない。盛り上がりに欠けるだけだろう。そんな私の人生だけど、たとえば私が死んだ後、母の「死ぬとみんないい人になるのよ。」という言葉通り私さえも美化されて、誰かに見せられる再現VTRになるのかな、と。
そうは思えないけど、TVを消してPCを起ち上げ、一年半もダラダラと書き続けた日記と対峙する。どこにでもいる女子大生だった私は、「周りがするから」という理由で就職活動を始め、その記録用にと流行のブログを書くようになり、その後も当たり障りない生活を送り続け、卒業し、就職し、今に至る。抽象化するとたしかに当たり障りない私の一年半だけど、具体的な部分では私にしかわからないドラマティックな展開もあり、これはこれでひとつの「ストーリー」になりつつある。もちろん脚本はないし、あくまで結果としての「ストーリー」。
逸見氏が手記というかたちで自らの人生を記録していた当時、自分の生き様がまさか壮大なドラマになるとは思ってなかっただろう(たぶん)。起承転結やドラマとしての盛り上がりを意図せずに淡々と綴っていた手記は、彼がこの世を去った後も残る。生前の彼が自らの口で語った自生や、実際の彼を知る妻らの証言、それらも故人を再生するには有効な材料になるだろうが、もっと強いのは、やはり「文字」。意図せずに何かを記録し続けるには少々の勇気が要るけれど、振り返れば、勝手にストーリーと化した「文字」がある。意図しなかったからこそ取捨選択されないままだった生々しい記録は、本人の知らぬところで運命という幻想の力で推敲され、後に美しいドラマになる。
作家や脚本家になりたいという大それた欲求も今はないけど、ドラマのような生涯にしたいと願っていた私は、"意図しないまま"いつしかストーリーを書いている。だから、今後も、録画して何度も観たくなる月9のように、死ぬ間際にひとりで感動できさえすればいい程度のささやかなドラマを紡ぎ続けよう、かなあ(上目遣い)。
あたしをあいしてる
2006年7月18日空模様と瞼がリンクした火曜日。
長期休養から復活した同期N氏を連れ、久々にドライブデート搬入へ。重苦しい雰囲気の車内。理由もないのに会話がない。しょっちゅう一緒にいるから、何も言わなくても伝わっちゃう。「りんさんの気持ちはわかります。」と彼は言う。その言葉にほっとした私は何を期待したのだろう?
「あなたにわかるはずがない。」という禁句を飲み込んだ。システマティックになりつつある世界を抜けて本質を見極めたいと思うようになった私は、所詮は多勢に受け入れてもらえない信念を吹聴するのではなく、小箱にしまうようにそっと胸に秘めよう、と。たとえここには書いたとしても。
竹内まりやを口ずさみながらタイムカードを切る。
一日に何度も振動しない携帯でメールをチェック。受信履歴ではなく送信履歴を。仕事絡みの野暮用に紛れて、感情に任せてつい送った何件かのメール。自己犠牲の精神を重んじる傾向がある私は、本当は押し殺し難い思いがあっても露骨に文章にするのを(なるべく)控えるようになったけど、それはいつからだったろう?
自己犠牲の精神が間違っているということじゃなくて、「自己犠牲=慈愛」と短絡的に考えていた私は、自分が我慢しさえすれば相手を愛することに繋がると信じ込み、いつからか、「ホラ、私、こんなに我慢してるのよ、ねえ、みて、みて?」と、むしろ逆手にとって愛を押しつけていたのではないか。ここ数ヶ月のメールから読み取れたこと。
約一年前、(今考えると)自分を大切にしていなかった私に、年上のある人がメールをくれた。「こっちが"大切に"思っている女の子が、自分自身のことを大切にしていないっていうことがすごく悲しい」と、当時の彼はそう言った。いまいちピンと来なかった私。そんな私は自分を大切に扱うべき存在と思えないままだったのに、二本の腕と十本の指でまるで壊れもののように扱われる経験を得た。そんな風に扱われるうちに、私は、当時より深いところで「自身を大切にすべき」という彼の台詞を理解できるようになったかも。
イイ女になりきれない今の自分をあまり好きになれないとしても、その度に自己を否定してどんどんと落ちていく私は、たとえ「貴方のためです。」と理由を愛になすりつけてもね。たしかにあまりイイ女じゃない私でも、自分を許容することで心が安らかになるのなら、それで健やかでいられるのなら、その時点ではじめて人を愛すことができるのかも。自分より相手の人間性を素晴らしいと思った私は、彼をリスペクトし、さらにさらに上へと飛翔させた。自分はどうしてたかというと、地上で扇を仰ぐがごとく。本当に彼をリスペクトしたいなら、自分も地を蹴って舞い上がり、高いところで直に彼の人間性に触れ、むしろ自分が彼より高い位置から天へ導くくらいでいいのかも。
つまり。
人を心から愛するために私がしなくてはいけないことは、まず、自分を愛すること。私が自分を心から愛して今日も明日も元気でいられたら、健やかな私を見てきっと安心する人がいる。人を心から愛するとは、一見、相手をじっと見つめる行為のよう。でも、本当はそうじゃなくて、自分をより深く掘り下げる訓練の末に奇蹟のように得られる「結果」の正体がすなわち愛ではないか、と思う。
こうして色々なことを覚えてゆきます。
長期休養から復活した同期N氏を連れ、久々に
「あなたにわかるはずがない。」という禁句を飲み込んだ。システマティックになりつつある世界を抜けて本質を見極めたいと思うようになった私は、所詮は多勢に受け入れてもらえない信念を吹聴するのではなく、小箱にしまうようにそっと胸に秘めよう、と。たとえここには書いたとしても。
竹内まりやを口ずさみながらタイムカードを切る。
一日に何度も振動しない携帯でメールをチェック。受信履歴ではなく送信履歴を。仕事絡みの野暮用に紛れて、感情に任せてつい送った何件かのメール。自己犠牲の精神を重んじる傾向がある私は、本当は押し殺し難い思いがあっても露骨に文章にするのを(なるべく)控えるようになったけど、それはいつからだったろう?
自己犠牲の精神が間違っているということじゃなくて、「自己犠牲=慈愛」と短絡的に考えていた私は、自分が我慢しさえすれば相手を愛することに繋がると信じ込み、いつからか、「ホラ、私、こんなに我慢してるのよ、ねえ、みて、みて?」と、むしろ逆手にとって愛を押しつけていたのではないか。ここ数ヶ月のメールから読み取れたこと。
約一年前、(今考えると)自分を大切にしていなかった私に、年上のある人がメールをくれた。「こっちが"大切に"思っている女の子が、自分自身のことを大切にしていないっていうことがすごく悲しい」と、当時の彼はそう言った。いまいちピンと来なかった私。そんな私は自分を大切に扱うべき存在と思えないままだったのに、二本の腕と十本の指でまるで壊れもののように扱われる経験を得た。そんな風に扱われるうちに、私は、当時より深いところで「自身を大切にすべき」という彼の台詞を理解できるようになったかも。
イイ女になりきれない今の自分をあまり好きになれないとしても、その度に自己を否定してどんどんと落ちていく私は、たとえ「貴方のためです。」と理由を愛になすりつけてもね。たしかにあまりイイ女じゃない私でも、自分を許容することで心が安らかになるのなら、それで健やかでいられるのなら、その時点ではじめて人を愛すことができるのかも。自分より相手の人間性を素晴らしいと思った私は、彼をリスペクトし、さらにさらに上へと飛翔させた。自分はどうしてたかというと、地上で扇を仰ぐがごとく。本当に彼をリスペクトしたいなら、自分も地を蹴って舞い上がり、高いところで直に彼の人間性に触れ、むしろ自分が彼より高い位置から天へ導くくらいでいいのかも。
つまり。
人を心から愛するために私がしなくてはいけないことは、まず、自分を愛すること。私が自分を心から愛して今日も明日も元気でいられたら、健やかな私を見てきっと安心する人がいる。人を心から愛するとは、一見、相手をじっと見つめる行為のよう。でも、本当はそうじゃなくて、自分をより深く掘り下げる訓練の末に奇蹟のように得られる「結果」の正体がすなわち愛ではないか、と思う。
こうして色々なことを覚えてゆきます。
惑星、伊豆へゆく
2006年7月16日
8年振りに家族で旅行。
行き先は伊豆・熱川。五日前に決まったばかり。出不精の両親がどういう風の吹き回しかと思いきや、働く私に気を遣ってのことらしい(周辺各所にはご心配とご迷惑をおかけしております)。久しく県境を越えていないファミリーカーに荷物を詰め込んで、さあ出発よ。とはいっても運転手はマイ・ファザー。ああ楽チン。
木更津から東京湾アクアラインを経て神奈川へ。
「これが海ほたる?」「そうだよ。」「あれぃ、ずうぶん、びーたびーただね。」と文句を言いながら、海ほたるで下車→エスカレーターで展望台へ。「あーんちことねぇな。」「予想よりはいい風(ふう)だけんが。」と最上階でも文句ばかり。「千葉のおみやげはろくなもんがねぇけんが。」「そこが千葉らしさだっちよ。」とおみやげ屋でも文句ばかり。
その後、横浜町田ICから東名高速へ。
昔も今もナビのない車。運転席には父。後部座席には母。助手席で地図を見る私は、不思議な気持ちになった。かつてこの場所(助手席)には母が座り、父と難しい話をしていたような。私が口を挟むと「子どもは黙ってなさい。」とでも言いたげだったのに。父が疲れれば私が運転し、母が疲れれば後部に寝てもらう。庇護が当たり前のように存在していた頃から8年過ぎた。
これが最後になるかもね。
多分誰もが思っていた。口に出すと寂しいから言わない。出不精の父と体の弱い母の間に、運悪く「女」として生まれた私。このままここにとどまっても、ここではないどこかへ去ったとしても、どちらにしても親不孝。生まれたときにはこの輪があった。その事実は、生まれたときには太陽があったのと同じくらい当たり前だった。この輪を疎んじて海に山にと飛び出した私は、輪がいつまでもあると思ってた。太陽がいつまでも光ると信じるみたいに。
新婚旅行のメッカ・熱海を越えてさらに思う。
両親は、最初から親だったわけじゃない。二人とも、既存の輪を抜け出して結婚し、ないところに新たな輪を創造した。その創造物が私にとっての太陽で、今となっては当たり前。すっかり風化して原型を失いつつある彼らの古き輪はどこにいったのだろう? 太陽のように光っている私の輪が、やがては「かつての輪」になって、深い宇宙の底に収縮して暗く沈み込む古星になるのかな。
「おかあさん、コアラのマーチとってぇー。」「はいはい。」「お父さん、合流恐いから運転してぇー。」「へいへい。」と、太陽のあたたかい光の中で甘え続ける私は幸福だ。彼らにとっての「かつての輪」が深い宇宙の底に沈んで見えなくなったとしても、とって代わるように輝き出した新しい輪が私を包み込む。私が勇気を出してこの輪の軌道を外れ、孤独な宇宙を漂い、孤独を塗りつぶすほどに輝ける何かを見出し、そして新たな輪を創造する日。別の軌道に乗る日。その日を彼らは待っていて、その日が来るまで彼らの子育ては終わらないし、それまではここで甘えていたい。
宿に到着→温泉&部屋食を堪能。
親子三人、もう忘れてほしい私の子ども時代の失態や、映画化したいほどにロマンチックな両親のなれそめ、そんな話を肴に、女二名に対していつもタジタジの父をからかったり、からかわれたり、都会を離れて水入らずの一夜は更けゆく。
行き先は伊豆・熱川。五日前に決まったばかり。出不精の両親がどういう風の吹き回しかと思いきや、働く私に気を遣ってのことらしい(周辺各所にはご心配とご迷惑をおかけしております)。久しく県境を越えていないファミリーカーに荷物を詰め込んで、さあ出発よ。とはいっても運転手はマイ・ファザー。ああ楽チン。
木更津から東京湾アクアラインを経て神奈川へ。
「これが海ほたる?」「そうだよ。」「あれぃ、ずうぶん、びーたびーただね。」と文句を言いながら、海ほたるで下車→エスカレーターで展望台へ。「あーんちことねぇな。」「予想よりはいい風(ふう)だけんが。」と最上階でも文句ばかり。「千葉のおみやげはろくなもんがねぇけんが。」「そこが千葉らしさだっちよ。」とおみやげ屋でも文句ばかり。
その後、横浜町田ICから東名高速へ。
昔も今もナビのない車。運転席には父。後部座席には母。助手席で地図を見る私は、不思議な気持ちになった。かつてこの場所(助手席)には母が座り、父と難しい話をしていたような。私が口を挟むと「子どもは黙ってなさい。」とでも言いたげだったのに。父が疲れれば私が運転し、母が疲れれば後部に寝てもらう。庇護が当たり前のように存在していた頃から8年過ぎた。
これが最後になるかもね。
多分誰もが思っていた。口に出すと寂しいから言わない。出不精の父と体の弱い母の間に、運悪く「女」として生まれた私。このままここにとどまっても、ここではないどこかへ去ったとしても、どちらにしても親不孝。生まれたときにはこの輪があった。その事実は、生まれたときには太陽があったのと同じくらい当たり前だった。この輪を疎んじて海に山にと飛び出した私は、輪がいつまでもあると思ってた。太陽がいつまでも光ると信じるみたいに。
新婚旅行のメッカ・熱海を越えてさらに思う。
両親は、最初から親だったわけじゃない。二人とも、既存の輪を抜け出して結婚し、ないところに新たな輪を創造した。その創造物が私にとっての太陽で、今となっては当たり前。すっかり風化して原型を失いつつある彼らの古き輪はどこにいったのだろう? 太陽のように光っている私の輪が、やがては「かつての輪」になって、深い宇宙の底に収縮して暗く沈み込む古星になるのかな。
「おかあさん、コアラのマーチとってぇー。」「はいはい。」「お父さん、合流恐いから運転してぇー。」「へいへい。」と、太陽のあたたかい光の中で甘え続ける私は幸福だ。彼らにとっての「かつての輪」が深い宇宙の底に沈んで見えなくなったとしても、とって代わるように輝き出した新しい輪が私を包み込む。私が勇気を出してこの輪の軌道を外れ、孤独な宇宙を漂い、孤独を塗りつぶすほどに輝ける何かを見出し、そして新たな輪を創造する日。別の軌道に乗る日。その日を彼らは待っていて、その日が来るまで彼らの子育ては終わらないし、それまではここで甘えていたい。
宿に到着→温泉&部屋食を堪能。
親子三人、もう忘れてほしい私の子ども時代の失態や、映画化したいほどにロマンチックな両親のなれそめ、そんな話を肴に、女二名に対していつもタジタジの父をからかったり、からかわれたり、都会を離れて水入らずの一夜は更けゆく。
メイク・ア・ナイスセルフポートレイト
2006年7月15日外苑前の交差点で「わああああああ!!!」と叫びたくなった土曜日。
毎週末は緊急事態の日。運転免許を持たないオナゴらがひしめく我が社では、私が(ほぼ)唯一の足なので、今日も朝から西へ東へ。意地悪なタクシーの前後にオラオラと横入りしたり、信号の30メートル手前でニ車線越えしたり、目的地を通り過ぎそうになってキキーッと幅寄せしたり。狭すぎる駐車場にピタッと車を収めた私は、「りんさん、男前!」「キャー!」「惚れちゃいそう!」という同期ちゃん×3の喝采を浴びる。どうだ俺の嫁にならないか。
そうはいってもなかなかうまくいかない。
トイレに籠もって鼻をかむ。大股開きで深呼吸。こういうときはどうしよう。下着とパンストを下ろしたまま、ふうむ、と考えてみるが、考えれば考えるほど落ちるばかり。「なにはなくともパンツを穿くのが先決だ。」という結論を出し、トイレ入室以前とまったく変わっていない状況に天を仰ぐ。ああ一生トイレにいたい。
「これで完璧、という考え方は捨てなさい!」
そう叫んだのはフロアで一番偉い人。
社会人経験の浅い私が「これで完璧!」と思い込むのはおこがましい、と。完璧だと思っていた事態にはまったく予想してない漏れがあるもので、完璧と思い込むゆえに私はいつもショックを受ける。漏れが無いように調べるべきことをすべて調べても、それで完璧になるわけじゃない。それらは単なる「確認済み」の事項。この小さい頭で確認できることのみを確認し、「これで完璧!」と信じ込む。私は完璧主義者らしい。
小さいミスすら許せずにリセットしてやり直していたゲームっ子の当時を思う。ゲームよりスケールが大きくなったからこそ発生する負荷は双肩にのしかかり、それでも私は努力をやめられない。こんな私が気合いを入れないはずがないだろう未来の様々なことを想像すると、私は今からぐったりだ。大切なことだからこそ肩の力を抜いて、不測の事態が起こっても、あくまで水のごとく清らかにしなやかに。「完璧」から引き算をするのではなく、「確認済み」を足すがごとく。小さい頭で確認できることが今よりもっと増える日を夢見て、それまでは焦らず騒がず一歩一歩。
もう一度トイレに行く(トイレばっか)。
「せめて写メールをください。」とお願いして送ってもらった最新写真を眺めて元気を出そう、と思ったものの、以前より落ちくぼんだ眼孔と、無精ひげと、寝ぼけ眼の某氏の画像。ダイジョウブデスカ、と声をかけたくなる画像。今の私を写真に収めたらどんな画像になるのかな、と。約二ヶ月振りに会うかもしれない日のために、社会人らしくなったね、と言われるような顔になるように、汗を拭いて、眉毛を描いて、口角を上げて。こうしてゆっくり降り積もる一日一日が、少しずつ私を変え、ベクトルが「イイ女」に向かうように、と願う。願ってもう一度作り笑い。
いけいけ、ゴーゴージャーーーンプ!!(←気合い。)
毎週末は緊急事態の日。運転免許を持たないオナゴらがひしめく我が社では、私が(ほぼ)唯一の足なので、今日も朝から西へ東へ。意地悪なタクシーの前後にオラオラと横入りしたり、信号の30メートル手前でニ車線越えしたり、目的地を通り過ぎそうになってキキーッと幅寄せしたり。狭すぎる駐車場にピタッと車を収めた私は、「りんさん、男前!」「キャー!」「惚れちゃいそう!」という同期ちゃん×3の喝采を浴びる。どうだ俺の嫁にならないか。
そうはいってもなかなかうまくいかない。
トイレに籠もって鼻をかむ。大股開きで深呼吸。こういうときはどうしよう。下着とパンストを下ろしたまま、ふうむ、と考えてみるが、考えれば考えるほど落ちるばかり。「なにはなくともパンツを穿くのが先決だ。」という結論を出し、トイレ入室以前とまったく変わっていない状況に天を仰ぐ。ああ一生トイレにいたい。
「これで完璧、という考え方は捨てなさい!」
そう叫んだのはフロアで一番偉い人。
社会人経験の浅い私が「これで完璧!」と思い込むのはおこがましい、と。完璧だと思っていた事態にはまったく予想してない漏れがあるもので、完璧と思い込むゆえに私はいつもショックを受ける。漏れが無いように調べるべきことをすべて調べても、それで完璧になるわけじゃない。それらは単なる「確認済み」の事項。この小さい頭で確認できることのみを確認し、「これで完璧!」と信じ込む。私は完璧主義者らしい。
小さいミスすら許せずにリセットしてやり直していたゲームっ子の当時を思う。ゲームよりスケールが大きくなったからこそ発生する負荷は双肩にのしかかり、それでも私は努力をやめられない。こんな私が気合いを入れないはずがないだろう未来の様々なことを想像すると、私は今からぐったりだ。大切なことだからこそ肩の力を抜いて、不測の事態が起こっても、あくまで水のごとく清らかにしなやかに。「完璧」から引き算をするのではなく、「確認済み」を足すがごとく。小さい頭で確認できることが今よりもっと増える日を夢見て、それまでは焦らず騒がず一歩一歩。
もう一度トイレに行く(トイレばっか)。
「せめて写メールをください。」とお願いして送ってもらった最新写真を眺めて元気を出そう、と思ったものの、以前より落ちくぼんだ眼孔と、無精ひげと、寝ぼけ眼の某氏の画像。ダイジョウブデスカ、と声をかけたくなる画像。今の私を写真に収めたらどんな画像になるのかな、と。約二ヶ月振りに会うかもしれない日のために、社会人らしくなったね、と言われるような顔になるように、汗を拭いて、眉毛を描いて、口角を上げて。こうしてゆっくり降り積もる一日一日が、少しずつ私を変え、ベクトルが「イイ女」に向かうように、と願う。願ってもう一度作り笑い。
いけいけ、ゴーゴージャーーーンプ!!(←気合い。)
恋と愛という名のもとに
2006年7月12日
額に「肉」ではなく「悶」と書いてやろうか、と揶揄される水曜日。
ついに倒れた同期・N氏。うーむと考える。考える暇もなく、ひとりきりで搬入へ。「あら、今日はお一人ですか!?」「ええ。そうなんです。」「まあ、どうしましょう…。」と、取引先が指さした先には巨大な段ボール。ふっ、上等だ。エントランスの男性陣が「ぎょぎょっ!!」と後ずさるのも道理。ああ、火事場の馬鹿力。可愛くない。
その後遅れて到着(ほんとに遅いよ)したY先輩と仕事トーク。
初めて知った取引先へのキックバック率。前年度売上とシェア率を鑑みる。このままでは割に合わない、と首をひねるY先輩。真似して首を捻ってみるが、どうにも資本主義社会に適合できそうにない自分に気付く。優れた営業マンは、自社の利益を常に意識し、それに応じて態度を変えるべきで。たとえば、顧客に商品を勧める際。Aは利益率が高く、Bは利益率が低い。頭でパパッと計算して、戦略的にAを打ち出すことこそ、Y先輩をはじめ社長が望むかもしれない私の使命。
たくさんのお客さん。お客さんの気持ちに100%共感しちゃって入社した私は、消費者ではなく、生産者。未だに100%お客さん目線の私が営業を行うと、利益率が吹っ飛んじゃう。利益率の高いAより、「これがいいですよねえ!!」と思えばBを売る。取引先を回って設備をチェックする。仕入れ値の低いだろう材質は素人目にもわかり、価値に応じた値段など考えなくていい蚊帳の外の私は、あーあ、と思う。私はいつだって消費者目線。
帰宅後、さてさてとブログを書く。
色々なことが起こる毎日。色々なことの中から、私が選りすぐる印象的な事実。その事実の記録がこのブログ。恋愛のシェア率85%(概算)。あーあ、と思う。あーあ、と思いながら書き続けた。色恋に溺れて我を見失う自分。書きながらも調整し、人の前では「恋愛以外にも素晴らしいことはあるよね。」と言ってみたり。
ただの恋愛大好き少女だった私が、どうせなら、と選んだ今の会社。集うお客さん、取引先、自社商品。「すべて、大好きッ!」という気持ちはまさしく純度100%。ただの色ボケに終わらないために、私は(社長ではなく)神から与えられた使命を思う。「○○さんが好きですか?」「ええ、好きすぎて困ります…。」「いやーん、素敵!!」と客と戯れる私は、自分に宿る幾多の能力の中からあるものをチョイスして、それを還元する方法を考える。もしかしたら資本主義というシステムを抜けるべきかもしれないが、そんなことを考えるには早すぎる。
というわけで私はY先輩の真似をして首を捻り、取引先をぶった斬り、今日もただただ利益を追求する。とりあえず、ね。「とりあえず」が効力を発揮しなくなる頃、その頃には見出してるかもしれない私なりの社会への還元方法は、会社という枠組み、売り買いという手続き、そういったところを離れてどこかへ羽ばたくだろうか、と。好きな人の行動に一喜一憂し、「一喜」を膨らませてこうしてブログを書き続ける行為は、その日のための練習ではないかと。
私は、神から授かった使命を認識し、そのための手段を探し、今日も好きな人のことで騒ぎ、喜んだり落ち込んだり、書いたり書かれたり、働いたりサボったり、泣いたり笑ったり、嗚呼、人に迷惑をかけまくる(苦笑)。
ついに倒れた同期・N氏。うーむと考える。考える暇もなく、ひとりきりで搬入へ。「あら、今日はお一人ですか!?」「ええ。そうなんです。」「まあ、どうしましょう…。」と、取引先が指さした先には巨大な段ボール。ふっ、上等だ。エントランスの男性陣が「ぎょぎょっ!!」と後ずさるのも道理。ああ、火事場の馬鹿力。可愛くない。
その後遅れて到着(ほんとに遅いよ)したY先輩と仕事トーク。
初めて知った取引先へのキックバック率。前年度売上とシェア率を鑑みる。このままでは割に合わない、と首をひねるY先輩。真似して首を捻ってみるが、どうにも資本主義社会に適合できそうにない自分に気付く。優れた営業マンは、自社の利益を常に意識し、それに応じて態度を変えるべきで。たとえば、顧客に商品を勧める際。Aは利益率が高く、Bは利益率が低い。頭でパパッと計算して、戦略的にAを打ち出すことこそ、Y先輩をはじめ社長が望むかもしれない私の使命。
たくさんのお客さん。お客さんの気持ちに100%共感しちゃって入社した私は、消費者ではなく、生産者。未だに100%お客さん目線の私が営業を行うと、利益率が吹っ飛んじゃう。利益率の高いAより、「これがいいですよねえ!!」と思えばBを売る。取引先を回って設備をチェックする。仕入れ値の低いだろう材質は素人目にもわかり、価値に応じた値段など考えなくていい蚊帳の外の私は、あーあ、と思う。私はいつだって消費者目線。
帰宅後、さてさてとブログを書く。
色々なことが起こる毎日。色々なことの中から、私が選りすぐる印象的な事実。その事実の記録がこのブログ。恋愛のシェア率85%(概算)。あーあ、と思う。あーあ、と思いながら書き続けた。色恋に溺れて我を見失う自分。書きながらも調整し、人の前では「恋愛以外にも素晴らしいことはあるよね。」と言ってみたり。
ただの恋愛大好き少女だった私が、どうせなら、と選んだ今の会社。集うお客さん、取引先、自社商品。「すべて、大好きッ!」という気持ちはまさしく純度100%。ただの色ボケに終わらないために、私は(社長ではなく)神から与えられた使命を思う。「○○さんが好きですか?」「ええ、好きすぎて困ります…。」「いやーん、素敵!!」と客と戯れる私は、自分に宿る幾多の能力の中からあるものをチョイスして、それを還元する方法を考える。もしかしたら資本主義というシステムを抜けるべきかもしれないが、そんなことを考えるには早すぎる。
というわけで私はY先輩の真似をして首を捻り、取引先をぶった斬り、今日もただただ利益を追求する。とりあえず、ね。「とりあえず」が効力を発揮しなくなる頃、その頃には見出してるかもしれない私なりの社会への還元方法は、会社という枠組み、売り買いという手続き、そういったところを離れてどこかへ羽ばたくだろうか、と。好きな人の行動に一喜一憂し、「一喜」を膨らませてこうしてブログを書き続ける行為は、その日のための練習ではないかと。
私は、神から授かった使命を認識し、そのための手段を探し、今日も好きな人のことで騒ぎ、喜んだり落ち込んだり、書いたり書かれたり、働いたりサボったり、泣いたり笑ったり、嗚呼、人に迷惑をかけまくる(苦笑)。
光線の上の未来と過去
2006年7月11日とても大切なことを思い出した火曜日。
やや意外な方から一通のメール。飲みかけた酒の蓋を閉め直し、今日は素面で考えよう、とメールを読む。悶々と考え続ける日々を一筋の光が貫き、光の先には未来が見えた。未来を照らしてくれたそのメールは、同時に、過去をも照らした。今よりさらに深い闇の底にいたかつての私を、この光は一度照らしたことがある。人は忘れる。すぐに忘れる。
2005年・8月26日の日記を読み返す。
膨れあがった「好き」を伝える人がいなくなり、行き場を失った私の想い。頑張ればすべてが叶うと信じていた私。自分の努力ではどうにもできないことがあると知った夏。どうにも服従させることができない「他者」の存在を理解した私は、ある方法を思いついた。ただ祈るしかない、と。「好き」という気持ちは、私が発して誰かが受けとめて、その移動がお互いを幸せにするのだと、そう頑なに信じてた。そうじゃない。「好き」という気持ちはただそこにあるだけで、仮に受けとめる人がいなくても、発する者自身を幸せにできる力を既に秘めている。その思いつきは、どん底にいた私を照らし出す唯一の光だった。
どん底にいた私は、別の女の元へ走ったかつての彼氏に「祈り」を捧げるがごとく、見返りも求めず、まったくの丸腰で、何も得るところはないと思われた場所で「好き」を発した。それが、"ここ"。この場所を、こう表現した人がいる。「肩書きや、社会的地位や、金銭をまったく失った状態です。なんの後ろ盾もなく、一人荒野に放り出されているような状況です。」と。それが、"ここ"。元カレに泣きつくこともせず、ただただ溢れる涙とともに彼への愛を"ここ"に綴っていた私は、あのとき、たしかに祈っていたと思う。
思想家・レヴィナスによると、「他者」から奪いとることができないならば、自分のものを相手に捧げるしかない、と。それが唯一の「他者」との関わり方である、と。そして、その善意を捧げるときには、決してお返しを要求してはいけないという。なぜなら、お返しを要求することは、「他者」を自分の中に取り込もうという態度を意味するから。定義上、未来永劫取り込めない存在が、すなわち、「他者」。どうしても支配できないはずの「他者」が、向こうから手を差しのべ、好意を向けてくれる。これはほとんど奇蹟である、と。奇蹟のためにただ祈りなさい、と。
何の見返りも求めずに"ここ"で祈り続けた私に応答してくれた人がいた。そして、それは、あの夏の奇蹟だった。
剥いて剥いて剥いた中に大切な雌しべを隠す大輪の華のように、肩書き・身分・容姿・すべてを剥いて剥いて剥いた中に存在した私の一番核の部分。核を露わにして、ただ祈ってた。同じように、剥いて剥いて剥いた中に隠されていたある「他者」の核を発見し、私は惹かれた。ともに裸だった。流星雨が100年やまないかのような奇蹟。見返りばかり求めて男と付き合っていた私が、痛い目に遭って「祈り」を学び、意外なかたちで叶えられた奇蹟。私はすぐに忘れてしまった。
2005年・9月9日の日記を読む。
スーパーマン。ピンチのときに飛んでくる。民間人にとっては、彼の存在こそ奇蹟。何の見返りも求めずに祈りを捧げた私に応答した「他者」は、スーパーマン。時空を超えてやってきた。シュワッチと飛び去らなかったスーパーマンはただの「マン」になったけど、喉もとを過ぎて忘れる熱物のように奇蹟を扱うべきじゃない。…と、一通のメールが教えてくれた。メールの主こそ、時空を超えてやってきたもうひとりのスーパーマン。そう、奇蹟は繰り返す。
さあ前を見ようよ、と未来を照らした光は、振り返ればすでに過去から発されている。だから、ただ、もう一度、当時のように光を辿って、もっと、もっと、前へ。一度はできたことだから。そして、もっかい、祈ろう。祈ったところで寝るとしよう。
やや意外な方から一通のメール。飲みかけた酒の蓋を閉め直し、今日は素面で考えよう、とメールを読む。悶々と考え続ける日々を一筋の光が貫き、光の先には未来が見えた。未来を照らしてくれたそのメールは、同時に、過去をも照らした。今よりさらに深い闇の底にいたかつての私を、この光は一度照らしたことがある。人は忘れる。すぐに忘れる。
2005年・8月26日の日記を読み返す。
膨れあがった「好き」を伝える人がいなくなり、行き場を失った私の想い。頑張ればすべてが叶うと信じていた私。自分の努力ではどうにもできないことがあると知った夏。どうにも服従させることができない「他者」の存在を理解した私は、ある方法を思いついた。ただ祈るしかない、と。「好き」という気持ちは、私が発して誰かが受けとめて、その移動がお互いを幸せにするのだと、そう頑なに信じてた。そうじゃない。「好き」という気持ちはただそこにあるだけで、仮に受けとめる人がいなくても、発する者自身を幸せにできる力を既に秘めている。その思いつきは、どん底にいた私を照らし出す唯一の光だった。
どん底にいた私は、別の女の元へ走ったかつての彼氏に「祈り」を捧げるがごとく、見返りも求めず、まったくの丸腰で、何も得るところはないと思われた場所で「好き」を発した。それが、"ここ"。この場所を、こう表現した人がいる。「肩書きや、社会的地位や、金銭をまったく失った状態です。なんの後ろ盾もなく、一人荒野に放り出されているような状況です。」と。それが、"ここ"。元カレに泣きつくこともせず、ただただ溢れる涙とともに彼への愛を"ここ"に綴っていた私は、あのとき、たしかに祈っていたと思う。
思想家・レヴィナスによると、「他者」から奪いとることができないならば、自分のものを相手に捧げるしかない、と。それが唯一の「他者」との関わり方である、と。そして、その善意を捧げるときには、決してお返しを要求してはいけないという。なぜなら、お返しを要求することは、「他者」を自分の中に取り込もうという態度を意味するから。定義上、未来永劫取り込めない存在が、すなわち、「他者」。どうしても支配できないはずの「他者」が、向こうから手を差しのべ、好意を向けてくれる。これはほとんど奇蹟である、と。奇蹟のためにただ祈りなさい、と。
何の見返りも求めずに"ここ"で祈り続けた私に応答してくれた人がいた。そして、それは、あの夏の奇蹟だった。
剥いて剥いて剥いた中に大切な雌しべを隠す大輪の華のように、肩書き・身分・容姿・すべてを剥いて剥いて剥いた中に存在した私の一番核の部分。核を露わにして、ただ祈ってた。同じように、剥いて剥いて剥いた中に隠されていたある「他者」の核を発見し、私は惹かれた。ともに裸だった。流星雨が100年やまないかのような奇蹟。見返りばかり求めて男と付き合っていた私が、痛い目に遭って「祈り」を学び、意外なかたちで叶えられた奇蹟。私はすぐに忘れてしまった。
2005年・9月9日の日記を読む。
スーパーマン。ピンチのときに飛んでくる。民間人にとっては、彼の存在こそ奇蹟。何の見返りも求めずに祈りを捧げた私に応答した「他者」は、スーパーマン。時空を超えてやってきた。シュワッチと飛び去らなかったスーパーマンはただの「マン」になったけど、喉もとを過ぎて忘れる熱物のように奇蹟を扱うべきじゃない。…と、一通のメールが教えてくれた。メールの主こそ、時空を超えてやってきたもうひとりのスーパーマン。そう、奇蹟は繰り返す。
さあ前を見ようよ、と未来を照らした光は、振り返ればすでに過去から発されている。だから、ただ、もう一度、当時のように光を辿って、もっと、もっと、前へ。一度はできたことだから。そして、もっかい、祈ろう。祈ったところで寝るとしよう。
瞬間、心、正確に
2006年7月8日高校時代の友人C嬢と会う@赤坂見附。
Cは音大の修士二年。酒もクラシック音楽も必需品じゃない私だが、彼女は私を飲みに誘うし、ときにコンサートにも誘う。生演奏を聴きながらお酒が飲める店で友達が演奏するから、という誘いは今の私にありがたい。仕事を終え、銀座線で赤坂へ。
演奏は二部制で、私がようやく到着した頃、二部が始まったところだった。臨場感溢れる生演奏は仕事で疲れた体を揺さぶった。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノの四重奏は、狭い店内のさらに最前列の私の目の前で苦しく切ない音を高く響かせ、店外の遙か遠くまで届きそうだった。コロコロとピアノを弾く彼女と知り合いだというCの横で、誰の知り合いでもない私はポテトをつまむのも憚られるほど興奮した。
演奏は(本当に)あっという間に終わり、三週間振りに会うC嬢と控えめに語り合う。もっといっぱい食べたいね、と意気投合した我らは挨拶の後に店を出て、すぐ隣で飲み直す。並ぶ紅白のグラスワイン。鶏レバーのペースト、海老とアボガドのディップ、ミートボール入りトマトソーススパゲッティ。夏の夜のテラス席は暑くも寒くもない。
生演奏中に考えたこと。
なんとなく見てしまったサッカーの試合@ドイツ。気まぐれでつけた中継はヨーロッパ同士の試合だった。世界の上位チームの試合はすごかった。ひょいひょいと相手国のディフェンスを抜いていくフランスの某選手の足取りは軽やかで、ド素人の私には魔法のようだった。どうしてそんなことができるの、と。軽やかな音色の四重奏も、私にとってはまるで魔法。どうしてあんなことができるの、と。
切ないのか、苦しいのか、それとも真剣なだけか、目を潤ませながらヴィオラを弾き続ける女性。音をひとつひとつ分解して、単音の精度をつぶさに確認し妥協を許さない姿勢。その姿は誰かとかぶる。生まれてから23年、なんとなく模索してなんとなく見つけて、今はたしかにコレだと認識できる私の「表現」の手段。サッカーでも、器楽でもない。なぜか表現したくて仕方ない私の衝動は、たまたま文章というかたちをとって世に流される。ジダンがボールを蹴るように。彼女がヴィオラを弾くように。
「表現」には才能が必要かな、と私はときどき思うけど、才能が与えられない人にも衝動は(きっと)あるはずで、要は発露の手段の問題で。プロサッカー選手じゃない上川主審が彼なりの「表現」として笛を鳴らすように、どんなことも手段たり得る。と、私は思う。我が両親は、習字、ピアノ、ブラスバンド、などなど、私に色々とさせてくれたけど、事前策が必ずしも功を奏しないのは世の常で、その人に合った「表現」の手段は本人でさえときに予想できない場所に、きっと、密やかに存在する。
ヴィオラの彼女が瞳を潤ませながら弦を弾くように、私はここにこうして書くことで、何かを見る。音をひとつひとつ分解するように、己が心を分解して精度を確認しつつ言葉を選ぶ。目的があって始めた「表現」は、いつしかそれ自体目的となり、真の音楽家が無心で音の精度を高めるがごとく、私はときに無心で手段を施行したいと願ったり。あくまでニュートラルに。自分の心をただ正確に。何も足さずに。何も引かずに。果ては、悲しみも怒りもない世界に似ている。
その後、我が地元より終電が早い地域に住むC嬢を伴い、帰宅。
「泊まっていけよ。」と誘った私と、「りんが男だったらよかったのに。」と呟くC。今夜は寝かせないぜ、と二人きりの熱い夜に必要なもの(お菓子)を買ったのに、わりと早めに寝ちゃった。
Cは音大の修士二年。酒もクラシック音楽も必需品じゃない私だが、彼女は私を飲みに誘うし、ときにコンサートにも誘う。生演奏を聴きながらお酒が飲める店で友達が演奏するから、という誘いは今の私にありがたい。仕事を終え、銀座線で赤坂へ。
演奏は二部制で、私がようやく到着した頃、二部が始まったところだった。臨場感溢れる生演奏は仕事で疲れた体を揺さぶった。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノの四重奏は、狭い店内のさらに最前列の私の目の前で苦しく切ない音を高く響かせ、店外の遙か遠くまで届きそうだった。コロコロとピアノを弾く彼女と知り合いだというCの横で、誰の知り合いでもない私はポテトをつまむのも憚られるほど興奮した。
演奏は(本当に)あっという間に終わり、三週間振りに会うC嬢と控えめに語り合う。もっといっぱい食べたいね、と意気投合した我らは挨拶の後に店を出て、すぐ隣で飲み直す。並ぶ紅白のグラスワイン。鶏レバーのペースト、海老とアボガドのディップ、ミートボール入りトマトソーススパゲッティ。夏の夜のテラス席は暑くも寒くもない。
生演奏中に考えたこと。
なんとなく見てしまったサッカーの試合@ドイツ。気まぐれでつけた中継はヨーロッパ同士の試合だった。世界の上位チームの試合はすごかった。ひょいひょいと相手国のディフェンスを抜いていくフランスの某選手の足取りは軽やかで、ド素人の私には魔法のようだった。どうしてそんなことができるの、と。軽やかな音色の四重奏も、私にとってはまるで魔法。どうしてあんなことができるの、と。
切ないのか、苦しいのか、それとも真剣なだけか、目を潤ませながらヴィオラを弾き続ける女性。音をひとつひとつ分解して、単音の精度をつぶさに確認し妥協を許さない姿勢。その姿は誰かとかぶる。生まれてから23年、なんとなく模索してなんとなく見つけて、今はたしかにコレだと認識できる私の「表現」の手段。サッカーでも、器楽でもない。なぜか表現したくて仕方ない私の衝動は、たまたま文章というかたちをとって世に流される。ジダンがボールを蹴るように。彼女がヴィオラを弾くように。
「表現」には才能が必要かな、と私はときどき思うけど、才能が与えられない人にも衝動は(きっと)あるはずで、要は発露の手段の問題で。プロサッカー選手じゃない上川主審が彼なりの「表現」として笛を鳴らすように、どんなことも手段たり得る。と、私は思う。我が両親は、習字、ピアノ、ブラスバンド、などなど、私に色々とさせてくれたけど、事前策が必ずしも功を奏しないのは世の常で、その人に合った「表現」の手段は本人でさえときに予想できない場所に、きっと、密やかに存在する。
ヴィオラの彼女が瞳を潤ませながら弦を弾くように、私はここにこうして書くことで、何かを見る。音をひとつひとつ分解するように、己が心を分解して精度を確認しつつ言葉を選ぶ。目的があって始めた「表現」は、いつしかそれ自体目的となり、真の音楽家が無心で音の精度を高めるがごとく、私はときに無心で手段を施行したいと願ったり。あくまでニュートラルに。自分の心をただ正確に。何も足さずに。何も引かずに。果ては、悲しみも怒りもない世界に似ている。
その後、我が地元より終電が早い地域に住むC嬢を伴い、帰宅。
「泊まっていけよ。」と誘った私と、「りんが男だったらよかったのに。」と呟くC。今夜は寝かせないぜ、と二人きりの熱い夜に必要なもの(お菓子)を買ったのに、わりと早めに寝ちゃった。
見えないアルタイル
2006年7月7日生まれて初めてひとりで飲む@地元のバー。
駅前にチェーン系居酒屋が何軒かあるだけの我が地元。一ヶ月ほど前にできたばかりのこのバーは入りやすそうな雰囲気で、私は入り口のガラスから中を覗いた。マスターらしき男性が手招きした。会社帰りの格好のまま、私は扉を開けた。扉は重くなかった。
店内は広くも狭くもなく、カウンター席がL字型に約10席。入り口近くに丸テーブル×3。促されるまま、私はL字の直角部分に腰を下ろし、差し出されたおしぼりで手を拭いた。アマレットが飲みたかったので、アマレットで何か適当に作ってください、と言った。ウィスキーは平気ですか、と聞かれたので、たぶん、と答えた。少し強めの酒が出た。名前は忘れてしまった。
マスターは33歳で陽気な人だった。名前を聞かれたので、名字を告げた。下の名前も聞かれたので、下の名前も教えた。「○○ちゃんか!」と、彼は出会って五分で私をちゃん付けした。カウンター席はほぼ満席で、半分以上はペアだった。私の隣にいた男性は私より10歳以上年上の風貌で、何の仕事をしているのかわからない出で立ちだった。彼はマスターに「モルトを。」と注文し、ラフロイグを飲んだ。ひとりになりたくて家に帰らなかった私は、陽気すぎるマスターとラフすぎる店内の空気にやや圧倒されていた。
「いつもひとりで飲むのー?」とマスターが問うた。私は、初めてです、と答えた。「デビュー戦か!」とマスターは大きな声を出した。じっくり味わうというよりジュースでも飲むみたいに酒を体に入れる私の横で、モルトの男は煙草を吸った。ごく自然な素振りで、彼は私に話しかけてきた。タイミング、口調、台詞。電車が定刻に発車するかのごとく自然で違和感がなかった。
「家で飲むと、とめてくれる人がいないから。」とその人は言った。そうですね、と私は言ったけど、よくわからなかった。私にとって酒は必需品じゃない。人がとめなくても、自分がとめる。酒が必需品じゃないはずの私は家で得られない何かを求めてここに来て、それだけはその人と共通していた。「家では何を飲むの?」と問われたので、日によります、と答えたら、「今は何を?」と問われた。今はサントリーの角しかないので、正直に答えた。「角かい!?」と彼はのけぞった。安いしどこにでも売ってるから、というのが私の返しだけど、彼は、角かよー、すげえなあー、としきりに笑った。何がおかしいのかわからなかった。
彼の飲むモルトを私は眺めた。あなたはどうしてモルトなの、と聞こうとしてやめた。「モルトは好き?」と問われた。どちらでもありません、と答えた。「飲むことはある?」と問われたので、私は少し考えてから、たまに、と言った。人のを舐めるくらいなら、と。その人とマスターは「女のモルト飲みは厄介だなー。」と言った。「モルト好きの男には気をつけろ。」というのがその人とマスターの意見で、男に促されるままモルトを飲むようになる女が後を絶たないらしい。そういう女の末路について彼らは多くを語らなかったけど、私はあまり聞きたくない気がした。何かを求めてバーに来た私は、求めると同時に何かを忘れたくてここに来た。忘れたいのに忘れさせてくれない男たちを呪う気にもなれず、どうしたって私を捕らえて離さないものがラフロイグに重なった。
一杯だけ飲もう、という思いつき通り、一杯だけ飲んで出た。
酒とはなんだろう。家族と食卓を囲むときに酒は(不思議と)必要なくて、仲の良い友達と飲むときも二・三杯で十分だ。素面の方が楽しいときさえある。疲れていると妙に苦い麦酒より、ごはんとおかずの方が好き。だからこそ、私が飲みたくなるには「理由」があって、そこまで必要に迫られたこともかつて無く。私は意味もなく酒を飲む機会が多く、「理由」については深く考えもしなかった。お酒は二十歳になってから、というのは単に体に悪いとかそういうことより、飲む必要がないからか。
今日は七夕。自室の窓からは星も見えない。
駅前にチェーン系居酒屋が何軒かあるだけの我が地元。一ヶ月ほど前にできたばかりのこのバーは入りやすそうな雰囲気で、私は入り口のガラスから中を覗いた。マスターらしき男性が手招きした。会社帰りの格好のまま、私は扉を開けた。扉は重くなかった。
店内は広くも狭くもなく、カウンター席がL字型に約10席。入り口近くに丸テーブル×3。促されるまま、私はL字の直角部分に腰を下ろし、差し出されたおしぼりで手を拭いた。アマレットが飲みたかったので、アマレットで何か適当に作ってください、と言った。ウィスキーは平気ですか、と聞かれたので、たぶん、と答えた。少し強めの酒が出た。名前は忘れてしまった。
マスターは33歳で陽気な人だった。名前を聞かれたので、名字を告げた。下の名前も聞かれたので、下の名前も教えた。「○○ちゃんか!」と、彼は出会って五分で私をちゃん付けした。カウンター席はほぼ満席で、半分以上はペアだった。私の隣にいた男性は私より10歳以上年上の風貌で、何の仕事をしているのかわからない出で立ちだった。彼はマスターに「モルトを。」と注文し、ラフロイグを飲んだ。ひとりになりたくて家に帰らなかった私は、陽気すぎるマスターとラフすぎる店内の空気にやや圧倒されていた。
「いつもひとりで飲むのー?」とマスターが問うた。私は、初めてです、と答えた。「デビュー戦か!」とマスターは大きな声を出した。じっくり味わうというよりジュースでも飲むみたいに酒を体に入れる私の横で、モルトの男は煙草を吸った。ごく自然な素振りで、彼は私に話しかけてきた。タイミング、口調、台詞。電車が定刻に発車するかのごとく自然で違和感がなかった。
「家で飲むと、とめてくれる人がいないから。」とその人は言った。そうですね、と私は言ったけど、よくわからなかった。私にとって酒は必需品じゃない。人がとめなくても、自分がとめる。酒が必需品じゃないはずの私は家で得られない何かを求めてここに来て、それだけはその人と共通していた。「家では何を飲むの?」と問われたので、日によります、と答えたら、「今は何を?」と問われた。今はサントリーの角しかないので、正直に答えた。「角かい!?」と彼はのけぞった。安いしどこにでも売ってるから、というのが私の返しだけど、彼は、角かよー、すげえなあー、としきりに笑った。何がおかしいのかわからなかった。
彼の飲むモルトを私は眺めた。あなたはどうしてモルトなの、と聞こうとしてやめた。「モルトは好き?」と問われた。どちらでもありません、と答えた。「飲むことはある?」と問われたので、私は少し考えてから、たまに、と言った。人のを舐めるくらいなら、と。その人とマスターは「女のモルト飲みは厄介だなー。」と言った。「モルト好きの男には気をつけろ。」というのがその人とマスターの意見で、男に促されるままモルトを飲むようになる女が後を絶たないらしい。そういう女の末路について彼らは多くを語らなかったけど、私はあまり聞きたくない気がした。何かを求めてバーに来た私は、求めると同時に何かを忘れたくてここに来た。忘れたいのに忘れさせてくれない男たちを呪う気にもなれず、どうしたって私を捕らえて離さないものがラフロイグに重なった。
一杯だけ飲もう、という思いつき通り、一杯だけ飲んで出た。
酒とはなんだろう。家族と食卓を囲むときに酒は(不思議と)必要なくて、仲の良い友達と飲むときも二・三杯で十分だ。素面の方が楽しいときさえある。疲れていると妙に苦い麦酒より、ごはんとおかずの方が好き。だからこそ、私が飲みたくなるには「理由」があって、そこまで必要に迫られたこともかつて無く。私は意味もなく酒を飲む機会が多く、「理由」については深く考えもしなかった。お酒は二十歳になってから、というのは単に体に悪いとかそういうことより、飲む必要がないからか。
今日は七夕。自室の窓からは星も見えない。
忍ぶりん
2006年7月5日三浦哲郎の『忍ぶ川』(新潮文庫)を読む水曜日。
昭和35年下期に発表された私小説『忍ぶ川』は、その期の芥川賞を受賞した。昭和の名作のひとつとして、人々に長く愛され、いつまでも繰り返し読み継がれてゆく作品だろう。どんな時代にもこういう作品はあっていいはずで、むしろこういう作品がなくてはならない。
が、こういう作品は滅多に生まれるものじゃない。真似して書けば、鼻持ちならないセンチメンタルな通俗作品になってしまうだけ。こういう作品を書けそうに思えたとき、作者は躊躇せずに己の魂の流露に素直に身を任せるべきで、作者三浦哲郎は、その生涯における一度か二度しかない稀な機会を見事にとらえ、そこにすべてをかけたのだ。…と、文芸評論家・奥野健夫は語る。
大まかなあらすじを少々。
ことごとく自殺・失踪した兄姉と自分との間に流れる暗い血と闘いながら、強いてたくましく生き抜こうとする大学生の青年(おそらく三浦自身)と、州崎の色街出身で小料理屋につとめる娘・志乃の物語。病身の父と弟妹たちを支える志乃と、やはり老いた両親と姉を持つ青年が出会ったのは、「忍ぶ川」という名の小料理屋。家族のために腕利きのセールスマンとの結婚を決めた志乃は言う。「父は、そんな条件づきの結婚なんかやめちまえ、目先の条件なんかにつられて一生棒にふることはない、結婚なんて、死ぬほど惚れた相手ができたら、さっさとするのがいちばんだっていうんです。」青年は言う。「その人のこと、破談にしてくれ。」「はい。」「もう、なかったことにして忘れてくれ。」「はい。」「そして、お父さんに、あんたの好みに合いそうな結婚の相手ができたと、いってやってくれ。」と。そして二人は雪深い東北の村でたった五人の結婚式を挙げる。
読み返すのは三回目。
読んだ後に本を置き、私はニュースを見る。アナウンサーと専門家が難しい話をしていた。北朝鮮が7発のミサイルを発射、いずれも日本の国土から500〜700キロ離れた日本海に落下したという。そうか、と思う。そうか、と思いながら皿を洗う。母は「あんた、少しはニュースとか見なさいよ。」と言う。「お母さんが思う以上には見てます。」「関心がなさすぎよ。」「そうかな?そうでもないつもり。」と私は言う。そうかな? そうでもないつもり。
自分の結婚を素直に書いて受賞を得た三浦哲郎だが、書かれた事実、ディテールは、そのまま体験したことじゃない。『忍ぶ川』から受ける雰囲気は、リアリズムというよりフィクションで、作者の美意識によって作られた架空の作品という気さえする。生きていくために必ず付随してくる現実の汚れが、底知れぬ懐疑や、嫉妬や、苦しさが、あったに違いない。それらを丹念に削り落とし、意識的に捨象し、美しさと素朴さだけの物語の世界を築いたのが三浦だろう。…と、奥野健夫は語る。
仕事柄、毎日のように専門雑誌を読み、その雑誌が狙うターゲットたちの心境になる。「彼ママに嫌われない嫁になる!」「夢みる乙女のドラマティックドレス!」「人とは違うこれが21世紀流スーパー披露宴!」と、うわっははははは!! と笑いとばしたくなるほどに具体的な各特集は、色恋沙汰好きの私をちっともときめかせない(意外かい?)。これまた具体的で生臭い社会の話が私の胸に空しい風をひゅーひゅー吹かせるように。
私をときめかせるのは、たとえばこんな風景だ。
その夜、私と志乃は二階の部屋に寝るのであった。
私は、二つならべて敷いた蒲団の一方を、枕だけのこして手早くたたんで、
「雪国ではね、寝るとき、なんにも着ないんだよ。生まれたときのまんまで寝るんだ。その方が、寝巻なんか着るよりずっとあたたかいんだよ。」
さっさと着物と下着をぬぎすて、素裸になって蒲団へもぐった。
志乃は、ながいことかかって、着物をたたんだ。それから、電燈をぱちんと消し、私の枕もとにしゃがんでおずおずといった。
「あたしも、寝巻を着ちゃ、いけませんの?」
「ああ、いけないさ。あんたも、もう雪国の人なんだから。」
言葉がとぎれた雪国の夜は地の底のような静けさで。時代がすすみ、この国は豊かになって、21世紀は人々の両手からこぼれおちるほどにすべてが具体的になって、たかが「結婚」ひとつとっても、挙式会場、披露宴会場、衣装、装花、余興、引き出物など、すべてが揃い、私たちはこだわれる。職業が多彩になり、娯楽が溢れ、教養の類も増え、私たちは豊かな具体性の中で喜んだり怒ったり。それが社会。
そうとはバレないように私は社会に紛れ、新聞を読み、本を買い、会社に勤め、皆と語り合う。そうとはバレないように。幾重にも及ぶ寝巻のようなおくるみを纏い、それでも心は欲してる。静かで具体性を欠いた初夜を迎えた夫婦が見出したかもしれない何かを、内ではひとり裸の状態で欲してる。
そして私は現実を削ぎ落とした小説を書く。天に向かって唾を吐くように、社会を眺めつつ小説を書く。三浦哲郎のように。
昭和35年下期に発表された私小説『忍ぶ川』は、その期の芥川賞を受賞した。昭和の名作のひとつとして、人々に長く愛され、いつまでも繰り返し読み継がれてゆく作品だろう。どんな時代にもこういう作品はあっていいはずで、むしろこういう作品がなくてはならない。
が、こういう作品は滅多に生まれるものじゃない。真似して書けば、鼻持ちならないセンチメンタルな通俗作品になってしまうだけ。こういう作品を書けそうに思えたとき、作者は躊躇せずに己の魂の流露に素直に身を任せるべきで、作者三浦哲郎は、その生涯における一度か二度しかない稀な機会を見事にとらえ、そこにすべてをかけたのだ。…と、文芸評論家・奥野健夫は語る。
大まかなあらすじを少々。
ことごとく自殺・失踪した兄姉と自分との間に流れる暗い血と闘いながら、強いてたくましく生き抜こうとする大学生の青年(おそらく三浦自身)と、州崎の色街出身で小料理屋につとめる娘・志乃の物語。病身の父と弟妹たちを支える志乃と、やはり老いた両親と姉を持つ青年が出会ったのは、「忍ぶ川」という名の小料理屋。家族のために腕利きのセールスマンとの結婚を決めた志乃は言う。「父は、そんな条件づきの結婚なんかやめちまえ、目先の条件なんかにつられて一生棒にふることはない、結婚なんて、死ぬほど惚れた相手ができたら、さっさとするのがいちばんだっていうんです。」青年は言う。「その人のこと、破談にしてくれ。」「はい。」「もう、なかったことにして忘れてくれ。」「はい。」「そして、お父さんに、あんたの好みに合いそうな結婚の相手ができたと、いってやってくれ。」と。そして二人は雪深い東北の村でたった五人の結婚式を挙げる。
読み返すのは三回目。
読んだ後に本を置き、私はニュースを見る。アナウンサーと専門家が難しい話をしていた。北朝鮮が7発のミサイルを発射、いずれも日本の国土から500〜700キロ離れた日本海に落下したという。そうか、と思う。そうか、と思いながら皿を洗う。母は「あんた、少しはニュースとか見なさいよ。」と言う。「お母さんが思う以上には見てます。」「関心がなさすぎよ。」「そうかな?そうでもないつもり。」と私は言う。そうかな? そうでもないつもり。
自分の結婚を素直に書いて受賞を得た三浦哲郎だが、書かれた事実、ディテールは、そのまま体験したことじゃない。『忍ぶ川』から受ける雰囲気は、リアリズムというよりフィクションで、作者の美意識によって作られた架空の作品という気さえする。生きていくために必ず付随してくる現実の汚れが、底知れぬ懐疑や、嫉妬や、苦しさが、あったに違いない。それらを丹念に削り落とし、意識的に捨象し、美しさと素朴さだけの物語の世界を築いたのが三浦だろう。…と、奥野健夫は語る。
仕事柄、毎日のように専門雑誌を読み、その雑誌が狙うターゲットたちの心境になる。「彼ママに嫌われない嫁になる!」「夢みる乙女のドラマティックドレス!」「人とは違うこれが21世紀流スーパー披露宴!」と、うわっははははは!! と笑いとばしたくなるほどに具体的な各特集は、色恋沙汰好きの私をちっともときめかせない(意外かい?)。これまた具体的で生臭い社会の話が私の胸に空しい風をひゅーひゅー吹かせるように。
私をときめかせるのは、たとえばこんな風景だ。
その夜、私と志乃は二階の部屋に寝るのであった。
私は、二つならべて敷いた蒲団の一方を、枕だけのこして手早くたたんで、
「雪国ではね、寝るとき、なんにも着ないんだよ。生まれたときのまんまで寝るんだ。その方が、寝巻なんか着るよりずっとあたたかいんだよ。」
さっさと着物と下着をぬぎすて、素裸になって蒲団へもぐった。
志乃は、ながいことかかって、着物をたたんだ。それから、電燈をぱちんと消し、私の枕もとにしゃがんでおずおずといった。
「あたしも、寝巻を着ちゃ、いけませんの?」
「ああ、いけないさ。あんたも、もう雪国の人なんだから。」
言葉がとぎれた雪国の夜は地の底のような静けさで。時代がすすみ、この国は豊かになって、21世紀は人々の両手からこぼれおちるほどにすべてが具体的になって、たかが「結婚」ひとつとっても、挙式会場、披露宴会場、衣装、装花、余興、引き出物など、すべてが揃い、私たちはこだわれる。職業が多彩になり、娯楽が溢れ、教養の類も増え、私たちは豊かな具体性の中で喜んだり怒ったり。それが社会。
そうとはバレないように私は社会に紛れ、新聞を読み、本を買い、会社に勤め、皆と語り合う。そうとはバレないように。幾重にも及ぶ寝巻のようなおくるみを纏い、それでも心は欲してる。静かで具体性を欠いた初夜を迎えた夫婦が見出したかもしれない何かを、内ではひとり裸の状態で欲してる。
そして私は現実を削ぎ落とした小説を書く。天に向かって唾を吐くように、社会を眺めつつ小説を書く。三浦哲郎のように。
Tears You cried and I cried
2006年7月4日友人の前で「もうアップアップです!」とふざけていたものの、報道によるとどうも水嵩が増したらしい。あ、あ、溺れちゃう!
本日はデスクワーク。Nくん(同期)と肩を並べて黙々仕事…というわけにもいかず、3分に一回は繰り出される珍問に翻弄される。「アポが取れないんですよ。」「そうかもね。」「やっぱ大手は無理ですかね?」「無理でもやらなきゃね。」「でも大手は厳しいんですよ。」「それは最初から予想できたことだよ。」「でもやっぱ大手だから…。」「付け入る隙はあるよ。向こうとしてはどれも一緒。今使ってる物も、うちの物も。つまり差し替え可能。」「でも大手はさぁ…。」と、ちっとも要領を得ないNにシャラップ!
就業後、同期Kちゃんとサシ飲み@外苑前。
半分仕事で訪れた某店は久々のイタリアン。テラス席でシャルドネ×2(グラス)、ロメインレタスと蒸し鶏のヨーグルトソース和え、生ウニのトマトクリームスパゲッティなど、そこそこのお値段とそこそこの雰囲気。にもかかわらず鼻息荒くてワインをこぼしそうな私と、何を言っても受けとめるKちゃん。スイッチが入った私を何が止められよう。甘いデザート? それとも酒? 否、酒は加速させるのみ。
酔った私は定期券と乗り換え賃の差額が納得できず、メトロ駅員に悪態をついた。
JRに乗り換えても怒りは収まらず、満員の車内にはこんな私のための席もない。座る人、立つ人、眠る人、皆いつも通り。仮にいつも通りじゃない誰かがいても気付かないように、いつも通りじゃない私にも誰も気付かない。だから、世界は、いつだっていつも通り。いつも通りじゃないから、人は泣く。泣きながら考える。泣いて何になる、と。理性を得た大人は泣かずにいられる理由を練る。泣けない。泣かない。「大人」と「子ども」が内で争う。葛藤はあれど、涙はある。崇高な存在感とともに、涙はある。
私より辛い人はいる。その事実は泣かない理由になるのか、と。生まれたばかりの私がママのおっぱいを欲しがって泣いたように、23歳の私が何かを欲しがって泣くのはみっともない。が、ただただ泰然と存在する涙線は「泣かない理由」じゃない理由を欲して、私を揺らす。それが涙の存在理由だと主張するように。そして私は絶縁された幼なじみAを思い出す。Aが苦しくて泣いたとき、「アナタより辛い人はいる。」としか言えなかった私。私の服はますます濡れる。数年遅れて理解した。
同期Kちゃんより新着メール一件受信。
週末のデートが中止になったKちゃんは、私との食事中に瞳を濡らした。たかがそれぐらい、と笑い飛ばすこともできるし、もっと辛い人はいる。もっともっと辛い人もいる。もっともっともっと辛い人もいる。もしかしてKちゃんより辛いかもしれない誰かは、Kちゃんの涙を拭う。涙は拭うためにある。私の思う涙の存在理由。
帰宅後、大好きな一冊を本棚から引っ張り出し、氷室冴子の解説を読む。
"わたし"にならなければ、恋はできない
友達を愛することもできない
好きな男や、友達のために涙を流すこともできない
"わたし"になるためにはたくさんの時間、群れから離れた時間が必要です
女友達が幸福な恋の思い出のためにぴかぴかの顔をした、
すぐそのあとで涙ぐむ不思議さを知っているか、
どーしちゃったのよと呆れて笑いとばすかの違いは、
女王さまと侍女くらいの違いがあります
恋をするには、恋している、いい女友達をいっぱい見つけることです
そして彼女たちを見つめることです
そうやって立ちどまって凝視することのできる子だけが、
いつか好きな男の人をじいっと見つめることができます
じいっと見つめるから、好きな男をとりまく風景、彼のしぐさや体臭や、
彼自身も気づかない彼のすべてを味わい、愛することができるのです
別れたあとの男のしまつは、ちゃんと違う女がしてくれるものです
違う女がちゃんと、彼から、彼女だけの感動をひきだします
好きな男から、自分だけの感動をひきだせる女の子が、すこしずつ、
ちゃんとした大人の女になってゆきます
(山田詠美『放課後の音譜』・解説より引用。)
初めて読んだ日から7年経つ。
本日はデスクワーク。Nくん(同期)と肩を並べて黙々仕事…というわけにもいかず、3分に一回は繰り出される珍問に翻弄される。「アポが取れないんですよ。」「そうかもね。」「やっぱ大手は無理ですかね?」「無理でもやらなきゃね。」「でも大手は厳しいんですよ。」「それは最初から予想できたことだよ。」「でもやっぱ大手だから…。」「付け入る隙はあるよ。向こうとしてはどれも一緒。今使ってる物も、うちの物も。つまり差し替え可能。」「でも大手はさぁ…。」と、ちっとも要領を得ないNにシャラップ!
就業後、同期Kちゃんとサシ飲み@外苑前。
半分仕事で訪れた某店は久々のイタリアン。テラス席でシャルドネ×2(グラス)、ロメインレタスと蒸し鶏のヨーグルトソース和え、生ウニのトマトクリームスパゲッティなど、そこそこのお値段とそこそこの雰囲気。にもかかわらず鼻息荒くてワインをこぼしそうな私と、何を言っても受けとめるKちゃん。スイッチが入った私を何が止められよう。甘いデザート? それとも酒? 否、酒は加速させるのみ。
酔った私は定期券と乗り換え賃の差額が納得できず、メトロ駅員に悪態をついた。
JRに乗り換えても怒りは収まらず、満員の車内にはこんな私のための席もない。座る人、立つ人、眠る人、皆いつも通り。仮にいつも通りじゃない誰かがいても気付かないように、いつも通りじゃない私にも誰も気付かない。だから、世界は、いつだっていつも通り。いつも通りじゃないから、人は泣く。泣きながら考える。泣いて何になる、と。理性を得た大人は泣かずにいられる理由を練る。泣けない。泣かない。「大人」と「子ども」が内で争う。葛藤はあれど、涙はある。崇高な存在感とともに、涙はある。
私より辛い人はいる。その事実は泣かない理由になるのか、と。生まれたばかりの私がママのおっぱいを欲しがって泣いたように、23歳の私が何かを欲しがって泣くのはみっともない。が、ただただ泰然と存在する涙線は「泣かない理由」じゃない理由を欲して、私を揺らす。それが涙の存在理由だと主張するように。そして私は絶縁された幼なじみAを思い出す。Aが苦しくて泣いたとき、「アナタより辛い人はいる。」としか言えなかった私。私の服はますます濡れる。数年遅れて理解した。
同期Kちゃんより新着メール一件受信。
週末のデートが中止になったKちゃんは、私との食事中に瞳を濡らした。たかがそれぐらい、と笑い飛ばすこともできるし、もっと辛い人はいる。もっともっと辛い人もいる。もっともっともっと辛い人もいる。もしかしてKちゃんより辛いかもしれない誰かは、Kちゃんの涙を拭う。涙は拭うためにある。私の思う涙の存在理由。
帰宅後、大好きな一冊を本棚から引っ張り出し、氷室冴子の解説を読む。
"わたし"にならなければ、恋はできない
友達を愛することもできない
好きな男や、友達のために涙を流すこともできない
"わたし"になるためにはたくさんの時間、群れから離れた時間が必要です
女友達が幸福な恋の思い出のためにぴかぴかの顔をした、
すぐそのあとで涙ぐむ不思議さを知っているか、
どーしちゃったのよと呆れて笑いとばすかの違いは、
女王さまと侍女くらいの違いがあります
恋をするには、恋している、いい女友達をいっぱい見つけることです
そして彼女たちを見つめることです
そうやって立ちどまって凝視することのできる子だけが、
いつか好きな男の人をじいっと見つめることができます
じいっと見つめるから、好きな男をとりまく風景、彼のしぐさや体臭や、
彼自身も気づかない彼のすべてを味わい、愛することができるのです
別れたあとの男のしまつは、ちゃんと違う女がしてくれるものです
違う女がちゃんと、彼から、彼女だけの感動をひきだします
好きな男から、自分だけの感動をひきだせる女の子が、すこしずつ、
ちゃんとした大人の女になってゆきます
(山田詠美『放課後の音譜』・解説より引用。)
初めて読んだ日から7年経つ。
どうしようもない私に天使が降りてきた
2006年7月2日13時間も眠ってしまった日曜日(我ながらヒドイ)。
休日は料理の日。冷製料理が美味しいこの時期、新鮮なエビをボイルして冷やし、熟れたアボガド、絞りたてのレモン、マヨネーズで和えた後に、クレイジーソルトで味付けを。メインはゴーヤー・チャンプルー。料理には季節感が必要だ。手間暇かけて作った料理を前に、缶ビールを開け、「料理には季節感が必要だ。」などとひとり呟く私は村上春樹みたい。
午後九時、親愛なるSさんから着信アリ。
電話の趣旨は、先月末に誕生日を迎えたSさんに贈ったプレゼントのお礼。メールや電話という手段を用いずにもっともっと近いところで話をしたい、と願う私たちには距離がある。500キロもの距離がある。プレゼントのお礼にとどまらないところで、Sさんは私と(漠然と)話がしたかったのではないかと推測する。なぜなら私はそうだから。
多岐に及ぶ話の中、印象的な話をひとつ。
「それは考えすぎですよ!」と突っ込みたくなる内容についてぐるぐる考え続けるSさんは、(おそらく)私とは違う。私もかなり考え込むタイプだが、いざ愛情表現をすると、両者(私とSさん)は本当に違う。「いつでも立ちどまりながらすすんでいきたいんです。」と柔らかい関西弁で語るSさんは、かたちのないものに言葉をあてがうことを恐れるのだろう。かたちのないものにとりあえず言葉を与える私に「りんさんは乙女ですね。」とSさんは言う。私は乙女? わからない。
好きな人に「すき」と告げること。私の中では、至極、当たり前。恋人がいて、自分がいて、一緒にいるといつの間にか発生する気持ちに「すき」という言葉をあてがう。膨大な感情を「すき」という僅か二文字で表現するなんて不正確。たしかに。でも、とりあえず言ってみて。たしかに不正確なその言葉にはパワーがあって、告げた相手が(もしかして)喜ぶと同時に、自分も嬉しくなる。そういう信念で生きてきた。そうできない人を蹴散らしながら。言ってくれない男、言おうとしない女友達、すべての人を諭してきた。
Sさんはある文章に共感したそうな。
「すき」に限らず、本当は単純化できる物事を単純に表すことを良しとせず、人にはあまり理解されないと知りつつもぐるぐると悩み続ける。Sさんはそういう人だ。Sさんが共感を覚えた人もそういう人。そういう人じゃない自分を私はよくわかってて、それが寂しかった時期(って書くと随分昔みたいだけど、結構最近だな笑)もある。Sさんのような人たちに私がいつも言ってた台詞はこう。「大層な何かを大層だと判断してるのは自分。言葉にした瞬間に、実はいたく単純だと気付くのさ。」
最近はこう思う。
すべての人が自分の基準を持っていて、それで世界を測っている。私が把握していた「世界」はたったひとつで、その中のある地点に自分が立っており、Sさんを含む私と異なる人たちは、別のある地点に立っている。近づきたくて、近づいてほしくて、私は、諭したり、譲歩したり。私が導き出したのは、「世界」はひとつじゃないのかも、という仮定。人の数だけ「世界」があって、私が自分の基準でしか生きられないように、彼・彼女らもまた自らの基準でしか生きられない。介入する権利がない。介入する義務もない。
ともすれば落ち込みかねない最近の私を救うように、Sさんはこんな話をした。「それでも、人と人って、うまーくできているんですね。」と。
Sさんが乙女と認定する私がある人の彼女になったように、ちょっと考えすぎのSさんにも彼氏ができた。凸は凹を見て「自分と違う」と判断するけど、遠目に見る人からは凹に凸がピタリとはまっているだけ。人と人の関係性を判断するに何よりも必要なのは、「客観性」だろう。いつでも立ち止まりながら進みたいと語るSさんは、きっと、ここらへんを既に理解済みで、なるべく客観的になりたいがために、「世界」に誠実であるために、今日も明日も悩み続ける。この事実は寂しくない。
電話は約一時間に及ぶ。
天使のような人、という比喩も誠に不正確だ。天使が実在するなら、神と同じように、絵にも言葉にもできないかもしれない。すぐに言葉を用いる私がなぜ比喩を多用するか、その理由を少しわかってほしくて、私は今日も言葉をあてがう。そしてタイトルをつけた。
休日は料理の日。冷製料理が美味しいこの時期、新鮮なエビをボイルして冷やし、熟れたアボガド、絞りたてのレモン、マヨネーズで和えた後に、クレイジーソルトで味付けを。メインはゴーヤー・チャンプルー。料理には季節感が必要だ。手間暇かけて作った料理を前に、缶ビールを開け、「料理には季節感が必要だ。」などとひとり呟く私は村上春樹みたい。
午後九時、親愛なるSさんから着信アリ。
電話の趣旨は、先月末に誕生日を迎えたSさんに贈ったプレゼントのお礼。メールや電話という手段を用いずにもっともっと近いところで話をしたい、と願う私たちには距離がある。500キロもの距離がある。プレゼントのお礼にとどまらないところで、Sさんは私と(漠然と)話がしたかったのではないかと推測する。なぜなら私はそうだから。
多岐に及ぶ話の中、印象的な話をひとつ。
「それは考えすぎですよ!」と突っ込みたくなる内容についてぐるぐる考え続けるSさんは、(おそらく)私とは違う。私もかなり考え込むタイプだが、いざ愛情表現をすると、両者(私とSさん)は本当に違う。「いつでも立ちどまりながらすすんでいきたいんです。」と柔らかい関西弁で語るSさんは、かたちのないものに言葉をあてがうことを恐れるのだろう。かたちのないものにとりあえず言葉を与える私に「りんさんは乙女ですね。」とSさんは言う。私は乙女? わからない。
好きな人に「すき」と告げること。私の中では、至極、当たり前。恋人がいて、自分がいて、一緒にいるといつの間にか発生する気持ちに「すき」という言葉をあてがう。膨大な感情を「すき」という僅か二文字で表現するなんて不正確。たしかに。でも、とりあえず言ってみて。たしかに不正確なその言葉にはパワーがあって、告げた相手が(もしかして)喜ぶと同時に、自分も嬉しくなる。そういう信念で生きてきた。そうできない人を蹴散らしながら。言ってくれない男、言おうとしない女友達、すべての人を諭してきた。
Sさんはある文章に共感したそうな。
「すき」に限らず、本当は単純化できる物事を単純に表すことを良しとせず、人にはあまり理解されないと知りつつもぐるぐると悩み続ける。Sさんはそういう人だ。Sさんが共感を覚えた人もそういう人。そういう人じゃない自分を私はよくわかってて、それが寂しかった時期(って書くと随分昔みたいだけど、結構最近だな笑)もある。Sさんのような人たちに私がいつも言ってた台詞はこう。「大層な何かを大層だと判断してるのは自分。言葉にした瞬間に、実はいたく単純だと気付くのさ。」
最近はこう思う。
すべての人が自分の基準を持っていて、それで世界を測っている。私が把握していた「世界」はたったひとつで、その中のある地点に自分が立っており、Sさんを含む私と異なる人たちは、別のある地点に立っている。近づきたくて、近づいてほしくて、私は、諭したり、譲歩したり。私が導き出したのは、「世界」はひとつじゃないのかも、という仮定。人の数だけ「世界」があって、私が自分の基準でしか生きられないように、彼・彼女らもまた自らの基準でしか生きられない。介入する権利がない。介入する義務もない。
ともすれば落ち込みかねない最近の私を救うように、Sさんはこんな話をした。「それでも、人と人って、うまーくできているんですね。」と。
Sさんが乙女と認定する私がある人の彼女になったように、ちょっと考えすぎのSさんにも彼氏ができた。凸は凹を見て「自分と違う」と判断するけど、遠目に見る人からは凹に凸がピタリとはまっているだけ。人と人の関係性を判断するに何よりも必要なのは、「客観性」だろう。いつでも立ち止まりながら進みたいと語るSさんは、きっと、ここらへんを既に理解済みで、なるべく客観的になりたいがために、「世界」に誠実であるために、今日も明日も悩み続ける。この事実は寂しくない。
電話は約一時間に及ぶ。
天使のような人、という比喩も誠に不正確だ。天使が実在するなら、神と同じように、絵にも言葉にもできないかもしれない。すぐに言葉を用いる私がなぜ比喩を多用するか、その理由を少しわかってほしくて、私は今日も言葉をあてがう。そしてタイトルをつけた。
メイビー・シー・ミスィズ
2006年7月1日大学時代の友人Mと飲む@渋谷。
本日はほぼ定時上がり。すれ違う誰もが振り返るほどに美しいM嬢を連れ、渋谷の外れのワインバーへ。虎の威をかる狐ではないが、年上の恋人や友人に連れられて行ったお店へさも詳しいかのごとく友人を案内するのがマイ・ブーム。厳選されたシャンパンで乾杯→私は南仏の赤(スパイシー)を。
会うのは半年振りのM嬢。何から話していいのかわからない。
出会ったのは四年前。大学の体育館。サークル内でも1・2を争う"だめんずうぉ〜か〜"だったMは、7年越しの想いをついに断ち切り「ザ・キング・オブ・ダメ男」と(私が勝手に)称す男と絶縁した。Mと頂点を争っていた"だめんずうぉ〜か〜"の私は彼女を戦友と仰ぎ、「いったいどこが好きなのさ!?」「アンタこそどこが好きなのさ!?」「顔か!?」「顔だ!」「はっはっは!」「はっはっは(泣)!」と励まし合う日々を送った。もう同じユニフォームを着ることもない。
「で、Mの今度のお相手は?」「今度は飲み会じゃないよ。会社の同期。」「おお、今回はまともそうな気配がするぞ!」「それがそうでもなくて…。」「と、いうと?」「メールの送受信履歴がいつ見ても空なの。」「うーん、香ばしい匂いがしますねー。」と、不健康な近況報告を受けた後も会話は続き、舌平目のサラダ仕立て、濃厚な仏産チーズで焼いたパングラタンなど、上品で芳しい料理と相性がすこぶる悪い生臭い話を。
終電で帰途につく。
やや酔っぱらった私は某駅で考える。今この電車を降りたら、と。某氏が帰るはずのマンションのエントランスにぺたんと座り込み、朝まで待っていられたら。どんどん遠ざかる某駅の流線型ホームを見送った私は、大学当時(Mともっとも盛り上がってた頃)の私と、一瞬、重なった。どちらが本当の私だろう。
無性にメールしたい。ひねり出した美辞麗句にあるだけの「すき」を詰め込んで。とはいえ、(今の)私は考える。「すき」を覚えたものの、ひとつしか表現方法を知らなかったからこそ私は叫ぶしかなくて。それゆえに周りを騒がせて。「りんの彼氏は超イイ男!」とさえ言われるようになった"元・だめんずうぉ〜か〜"の私は、彼のためか、周りのためか、果たすべき義務がある気がしてて。それは電車を降りることでもないし、メールを打つことでもない。
「私は貴方がすきです。」と言いたいところを、一歩、立ち止まって。「彼女は彼が好きらしい。」と、自分のことでも客観的に表現できる能力を。その余裕があれば、大学時代とは違う表現ができるだろう。作者自身の思いなのにまるで他人の話のごとく聞こえる小説・歌・詩が今日も私を感動させるように、私に余裕が生まれたら、きっと今まで以上に誰かを幸せにできる。その「誰か」にMは含まれる。Mよ、今夜をありがとぅー。
無事に地元に降り立った私は、唐突に久保田利伸など聴く。
I LOVE YOU 僕だけの君ならば
この道をかけだして 逢いに行きたい 今すぐに
I MISS YOU 許されることならば
抱きしめていたいのさ 光の午後も星の夜もBaby
(久保田利伸・「Missing」より。)
…なーんて、客観的にしてみたり。
本日はほぼ定時上がり。すれ違う誰もが振り返るほどに美しいM嬢を連れ、渋谷の外れのワインバーへ。虎の威をかる狐ではないが、年上の恋人や友人に連れられて行ったお店へさも詳しいかのごとく友人を案内するのがマイ・ブーム。厳選されたシャンパンで乾杯→私は南仏の赤(スパイシー)を。
会うのは半年振りのM嬢。何から話していいのかわからない。
出会ったのは四年前。大学の体育館。サークル内でも1・2を争う"だめんずうぉ〜か〜"だったMは、7年越しの想いをついに断ち切り「ザ・キング・オブ・ダメ男」と(私が勝手に)称す男と絶縁した。Mと頂点を争っていた"だめんずうぉ〜か〜"の私は彼女を戦友と仰ぎ、「いったいどこが好きなのさ!?」「アンタこそどこが好きなのさ!?」「顔か!?」「顔だ!」「はっはっは!」「はっはっは(泣)!」と励まし合う日々を送った。もう同じユニフォームを着ることもない。
「で、Mの今度のお相手は?」「今度は飲み会じゃないよ。会社の同期。」「おお、今回はまともそうな気配がするぞ!」「それがそうでもなくて…。」「と、いうと?」「メールの送受信履歴がいつ見ても空なの。」「うーん、香ばしい匂いがしますねー。」と、不健康な近況報告を受けた後も会話は続き、舌平目のサラダ仕立て、濃厚な仏産チーズで焼いたパングラタンなど、上品で芳しい料理と相性がすこぶる悪い生臭い話を。
終電で帰途につく。
やや酔っぱらった私は某駅で考える。今この電車を降りたら、と。某氏が帰るはずのマンションのエントランスにぺたんと座り込み、朝まで待っていられたら。どんどん遠ざかる某駅の流線型ホームを見送った私は、大学当時(Mともっとも盛り上がってた頃)の私と、一瞬、重なった。どちらが本当の私だろう。
無性にメールしたい。ひねり出した美辞麗句にあるだけの「すき」を詰め込んで。とはいえ、(今の)私は考える。「すき」を覚えたものの、ひとつしか表現方法を知らなかったからこそ私は叫ぶしかなくて。それゆえに周りを騒がせて。「りんの彼氏は超イイ男!」とさえ言われるようになった"元・だめんずうぉ〜か〜"の私は、彼のためか、周りのためか、果たすべき義務がある気がしてて。それは電車を降りることでもないし、メールを打つことでもない。
「私は貴方がすきです。」と言いたいところを、一歩、立ち止まって。「彼女は彼が好きらしい。」と、自分のことでも客観的に表現できる能力を。その余裕があれば、大学時代とは違う表現ができるだろう。作者自身の思いなのにまるで他人の話のごとく聞こえる小説・歌・詩が今日も私を感動させるように、私に余裕が生まれたら、きっと今まで以上に誰かを幸せにできる。その「誰か」にMは含まれる。Mよ、今夜をありがとぅー。
無事に地元に降り立った私は、唐突に久保田利伸など聴く。
I LOVE YOU 僕だけの君ならば
この道をかけだして 逢いに行きたい 今すぐに
I MISS YOU 許されることならば
抱きしめていたいのさ 光の午後も星の夜もBaby
(久保田利伸・「Missing」より。)
…なーんて、客観的にしてみたり。
「仮想世界の男しか好きになれなかった」と過去形で書いたら(6月26日の日記参照)、アナタは今もあまり変わってないのでは、という指摘を受けた木曜日。
今は我が社の繁忙期。飛び回る私&Nくん(同期)は二手に分かれて外回りへ。さてさて…と地図を広げると、場所はお台場。お台場!? 区画整理が続く湾岸はわかり辛い。ナビを見逃すと車線変更できないし、コインパーキングに入れば小銭が見つからない。
サザンをかけながら湾岸をぶっ飛ばした後、N氏合流 → 二人で搬入へ。
一人は決して悪くない。とはいえ、隣にNがいると楽。二回も繰り返し注意したことを忘れるし、車を横付けすればいつも曲がってるし、おなかは出てるし、汗くさい。「あー!!」と叫びたくなるほど腹立たしいが、いないと困る。いるとそれはそれで困る。が、いないとやっぱり困る。そんな自分がNよりも腹立たしい。
信号で停車するたびに考える。
新しく創刊された専門雑誌『BRIDES』は、恋も仕事も成功させたい花嫁のためのもの。ついに出た。こういう雑誌がついに出た。「充実した仕事も、素敵な結婚も、彼と一緒のハッピーライフも、妥協することなく手に入れる。今、叶えるべきは"ワンダフル婚"!」がコンセプト。
1980年、マイ・マザーが寿退社を決めた頃、「結婚≠仕事」がまかり通っていたという。あれから25年と少し。ついにこういう雑誌が出るに至った背景を鑑みるに、私は不気味な何かに背中を舐められる気さえする。欲張りな時代。時代をさらにさらに未来へと突き動かす何かを具体例にすると、そこに見えるのは「ワタシの理想の男性はー、お金持ちでー、格好良くってー、背が高くってー、優しくってー、一流企業に勤めててー、頭が良くってー、センスがよくってー…」と羅列することを厭わない女性。引き算ができない女性。
足すことしかできない私は、オンでもオフでも何もかも手に入れようとしてがむしゃらになり、空回り、疲れ果て、ときに凛とした潔さを失う。足すことしかできない私は引き算を覚えたい。「りんさんの理想の男性はどんな人ですか?」「またその話…?」「そろそろちゃんと答えてくださいよ。」「答えられないの。」「なんでですか?」「私の理想は、そのとき好きな人だから。」と答えた私は、今日、引き算ができてただろうか、と。相対化して他への執着を捨てられなかった私は、恋の分野に限っては、そろそろ「絶対」の中に生きる。それしか存在しない世界。ほかは要らない。好きにならない。
寿退社を推奨するわけでもないし、ディンクスを否定するわけでもない。すべてを成功に導く、と鼻息の荒いかの雑誌が出るに至ったこの社会に悲しい何かを見出しただけ。捨てる覚悟を得ることは、決して悲しいことじゃない(と、私は思う)。むしろほかの可能性を排除するからこそ一際輝く「絶対」を、より深く、より濃密に、誰よりも貪欲に、そして全力で。すべてを全うするより実は難しい。難しいけど、幸福だ(と、私は思う)。
さらに。
人の心は複雑だ。いやだいやだと思い続けたNがいないと寂しくて不安になる私は、ちっとも自分が掴めない。同僚にさえこの調子。恋心はもっと複雑だ。そんな恋心を極限まで高めてする結婚を、「成功」へ導く鍵なんてきっとない。これが、私の、かの雑誌へのささやかなアンチテーゼ。大きなお世話? そうかもね。
帰社後。
「今日はよくやった!」と上司が認める仕事をやり遂げた私は飛び上がる。徐々に面白くなりつつある仕事。人を好きになって徐々に成熟する「女」としての私。どちらも今は好き。そんな私はまだ何も決めていないけど、いつでも、どんなときでも、しなやかに、凛とした姿勢を保って、みっともなくない方法で生きようと、それだけは既に決めている。
今は我が社の繁忙期。飛び回る私&Nくん(同期)は二手に分かれて外回りへ。さてさて…と地図を広げると、場所はお台場。お台場!? 区画整理が続く湾岸はわかり辛い。ナビを見逃すと車線変更できないし、コインパーキングに入れば小銭が見つからない。
サザンをかけながら湾岸をぶっ飛ばした後、N氏合流 → 二人で搬入へ。
一人は決して悪くない。とはいえ、隣にNがいると楽。二回も繰り返し注意したことを忘れるし、車を横付けすればいつも曲がってるし、おなかは出てるし、汗くさい。「あー!!」と叫びたくなるほど腹立たしいが、いないと困る。いるとそれはそれで困る。が、いないとやっぱり困る。そんな自分がNよりも腹立たしい。
信号で停車するたびに考える。
新しく創刊された専門雑誌『BRIDES』は、恋も仕事も成功させたい花嫁のためのもの。ついに出た。こういう雑誌がついに出た。「充実した仕事も、素敵な結婚も、彼と一緒のハッピーライフも、妥協することなく手に入れる。今、叶えるべきは"ワンダフル婚"!」がコンセプト。
1980年、マイ・マザーが寿退社を決めた頃、「結婚≠仕事」がまかり通っていたという。あれから25年と少し。ついにこういう雑誌が出るに至った背景を鑑みるに、私は不気味な何かに背中を舐められる気さえする。欲張りな時代。時代をさらにさらに未来へと突き動かす何かを具体例にすると、そこに見えるのは「ワタシの理想の男性はー、お金持ちでー、格好良くってー、背が高くってー、優しくってー、一流企業に勤めててー、頭が良くってー、センスがよくってー…」と羅列することを厭わない女性。引き算ができない女性。
足すことしかできない私は、オンでもオフでも何もかも手に入れようとしてがむしゃらになり、空回り、疲れ果て、ときに凛とした潔さを失う。足すことしかできない私は引き算を覚えたい。「りんさんの理想の男性はどんな人ですか?」「またその話…?」「そろそろちゃんと答えてくださいよ。」「答えられないの。」「なんでですか?」「私の理想は、そのとき好きな人だから。」と答えた私は、今日、引き算ができてただろうか、と。相対化して他への執着を捨てられなかった私は、恋の分野に限っては、そろそろ「絶対」の中に生きる。それしか存在しない世界。ほかは要らない。好きにならない。
寿退社を推奨するわけでもないし、ディンクスを否定するわけでもない。すべてを成功に導く、と鼻息の荒いかの雑誌が出るに至ったこの社会に悲しい何かを見出しただけ。捨てる覚悟を得ることは、決して悲しいことじゃない(と、私は思う)。むしろほかの可能性を排除するからこそ一際輝く「絶対」を、より深く、より濃密に、誰よりも貪欲に、そして全力で。すべてを全うするより実は難しい。難しいけど、幸福だ(と、私は思う)。
さらに。
人の心は複雑だ。いやだいやだと思い続けたNがいないと寂しくて不安になる私は、ちっとも自分が掴めない。同僚にさえこの調子。恋心はもっと複雑だ。そんな恋心を極限まで高めてする結婚を、「成功」へ導く鍵なんてきっとない。これが、私の、かの雑誌へのささやかなアンチテーゼ。大きなお世話? そうかもね。
帰社後。
「今日はよくやった!」と上司が認める仕事をやり遂げた私は飛び上がる。徐々に面白くなりつつある仕事。人を好きになって徐々に成熟する「女」としての私。どちらも今は好き。そんな私はまだ何も決めていないけど、いつでも、どんなときでも、しなやかに、凛とした姿勢を保って、みっともなくない方法で生きようと、それだけは既に決めている。
ジュリエット、今日も飲む
2006年6月27日ロミオとジュリエット効果について考えてみる火曜日。
夕刻、取引先のレセプションに招かれる。シャンパン飲んでポワポワしたり、エラそうな人とどーもどーもと名刺交換したり、ケータリングの少なさに(心の中で)文句を垂れたり、すみっこでこっそり名刺のストックを数えたり(足りないよー)。
Nくんは本日も絶好調。
外国人だらけの会場。英語で話しかけられてもキョトンとするしかない私の代わりに矢面に立つN。流暢に喋り続ける外国人紳士と、負けじと流暢に喋り続ける帰国子女・N。「今、何て言ってたの?」「現在はうちと取引がないけどいずれは、って。」「外国版社交辞令やね。」「そうかな。あと、ビューティフル、って言ってましたよ。」「私のこと?」「僕も聞き間違いかと思ったんですけどね。」「わーいわーい!」「でも、ワイフだと思われてましたよ。」「否定しろよ!!」「すみません。」という遅すぎる会話の後に、ノーノーアイアムシングール!!と追いかけて叫びたくなった。
その後、先輩・Yさんとサシ飲み。
サッパリ姉さんキャラのYさん。人に媚びず、いつもまともなことを言う。グラスワインが高すぎる、と笑いながら、ビールでいいよ、とビールを飲む。ナイフとフォークが面倒くさいと語るYさんは、別にいいじゃん、と手づかみで揚げ物を食べる。ああこの適当さ、潔さ。
30になるのが恐かった。…のは、小さい頃の話。男も女も30を過ぎたら中年だと。そろそろ20代中旬に差し掛かる私の感覚は、小学生当時と違う。限定された世界が心地よかった私は積み上がる年齢を恐れていたはずなのに、気付けば彼氏は今年30だし、尊敬できる友人も30を迎えた人ばかり。そして、社会に出た。自分より年下がいない社会に。
「奔放だね。」と揶揄される私はたしかに行儀が悪いけど、演技じゃない。社会的に問題アリなマナーさえ直せば私はこれでもいいのでは。「元気がいいね。」で済ませられる諸性質も、若さゆえ。が、そろそろ若くない。私が若さを失って社会に適合し30を迎える頃、「元気がいいね。」で通用しなくなった諸性質が別の意味を持つのでは、と。別の意味。別の魅力。それは今得ようとしても得られない。
私が好きなYさんはたしかに奔放だけど、同じことをすればみっともないと思われる私と違い、Yさんは積み上げた何かゆえにいつでも格好良い。凛とした気品を失わない貴婦人が胸を張って下界に出るようで。思想も、仕草も、何もかも、お上品を目指してそれ以外を排除するところに「気品」は生まれない気がしてて、かといって究極の理想を求めた私は少しやり方を間違えてて。私が望む「気品」とは、思想も、仕草も、何もかも、あらゆる可能性を一度は受け入れた上で最善と思われる選択をすること。上品さにまみれた前提を外して。
とはいえ。
「Nくんとりんちゃんがデキたら面白いのに。」「よしてください。」「わざと二人きりにしちゃおうかな。」「よしてください!」「りんちゃん、すごーーーく年上の彼氏がいるんだっけ?」「なぜかそんな話になってますよね。」「しかも人に言えない出会い方したんだって?」「ええっ!?誰がそんなこと言ったんですか!?」「誰も言ってない。カマかけただけ。」「なんだ…(よかった)。」「でも、今のでわかった。君は年上の人と人に言えない出会い方したんだな!?」「そんな、先輩、ヒドイです!」「出会い系か?ナンパか?さあ、吐け!」「そんな、先輩、ヒドイです!!」と、Yさん、奔放すぎ。
楽しく飲んだ後、七夕が近いな、と思う。そうか、私はジュリエットではなく織り姫になるべきだ、と(わけのわからない)決意をして帰宅。
夕刻、取引先のレセプションに招かれる。シャンパン飲んでポワポワしたり、エラそうな人とどーもどーもと名刺交換したり、ケータリングの少なさに(心の中で)文句を垂れたり、すみっこでこっそり名刺のストックを数えたり(足りないよー)。
Nくんは本日も絶好調。
外国人だらけの会場。英語で話しかけられてもキョトンとするしかない私の代わりに矢面に立つN。流暢に喋り続ける外国人紳士と、負けじと流暢に喋り続ける帰国子女・N。「今、何て言ってたの?」「現在はうちと取引がないけどいずれは、って。」「外国版社交辞令やね。」「そうかな。あと、ビューティフル、って言ってましたよ。」「私のこと?」「僕も聞き間違いかと思ったんですけどね。」「わーいわーい!」「でも、ワイフだと思われてましたよ。」「否定しろよ!!」「すみません。」という遅すぎる会話の後に、ノーノーアイアムシングール!!と追いかけて叫びたくなった。
その後、先輩・Yさんとサシ飲み。
サッパリ姉さんキャラのYさん。人に媚びず、いつもまともなことを言う。グラスワインが高すぎる、と笑いながら、ビールでいいよ、とビールを飲む。ナイフとフォークが面倒くさいと語るYさんは、別にいいじゃん、と手づかみで揚げ物を食べる。ああこの適当さ、潔さ。
30になるのが恐かった。…のは、小さい頃の話。男も女も30を過ぎたら中年だと。そろそろ20代中旬に差し掛かる私の感覚は、小学生当時と違う。限定された世界が心地よかった私は積み上がる年齢を恐れていたはずなのに、気付けば彼氏は今年30だし、尊敬できる友人も30を迎えた人ばかり。そして、社会に出た。自分より年下がいない社会に。
「奔放だね。」と揶揄される私はたしかに行儀が悪いけど、演技じゃない。社会的に問題アリなマナーさえ直せば私はこれでもいいのでは。「元気がいいね。」で済ませられる諸性質も、若さゆえ。が、そろそろ若くない。私が若さを失って社会に適合し30を迎える頃、「元気がいいね。」で通用しなくなった諸性質が別の意味を持つのでは、と。別の意味。別の魅力。それは今得ようとしても得られない。
私が好きなYさんはたしかに奔放だけど、同じことをすればみっともないと思われる私と違い、Yさんは積み上げた何かゆえにいつでも格好良い。凛とした気品を失わない貴婦人が胸を張って下界に出るようで。思想も、仕草も、何もかも、お上品を目指してそれ以外を排除するところに「気品」は生まれない気がしてて、かといって究極の理想を求めた私は少しやり方を間違えてて。私が望む「気品」とは、思想も、仕草も、何もかも、あらゆる可能性を一度は受け入れた上で最善と思われる選択をすること。上品さにまみれた前提を外して。
とはいえ。
「Nくんとりんちゃんがデキたら面白いのに。」「よしてください。」「わざと二人きりにしちゃおうかな。」「よしてください!」「りんちゃん、すごーーーく年上の彼氏がいるんだっけ?」「なぜかそんな話になってますよね。」「しかも人に言えない出会い方したんだって?」「ええっ!?誰がそんなこと言ったんですか!?」「誰も言ってない。カマかけただけ。」「なんだ…(よかった)。」「でも、今のでわかった。君は年上の人と人に言えない出会い方したんだな!?」「そんな、先輩、ヒドイです!」「出会い系か?ナンパか?さあ、吐け!」「そんな、先輩、ヒドイです!!」と、Yさん、奔放すぎ。
楽しく飲んだ後、七夕が近いな、と思う。そうか、私はジュリエットではなく織り姫になるべきだ、と(わけのわからない)決意をして帰宅。
避けたいサドンデス
2006年6月26日フラストレーションを不健康な方法(酒とか)で処理する月曜日。
月曜日は外回り&同期・N氏のお守りの日。「りんさん、僕に対してキツイっすよ。」「アナタといるとSにならざるを得ないのよ。」「りんさん、家では土足ですか?それとも靴脱ぎますか?」「…は?」「僕は土足派なんです。」「普通は脱ぐだろ!」「日本の女の子は難しいですね。」「いや、普通だから。家を土足で踏み荒らすような奴とは一緒に住めん。」「りんさんの彼氏は靴脱ぎますか?」「脱ぐよ!」「彼が土足がいいって言ったらどうしますか?」「うちの彼がそう言ったら…まあ、どうにか対応するけど…。」「えー!ずるいですよ、そんなの!」と、もはや突っ込む場所が多すぎて会話にならない。
昼食後もお守りは続く。
「りんさんの好みのタイプを教えてくださいよ。」「またその話?」「何度でも聞きたいです。」「家の中では靴を脱ぐ人かな。」「…範囲広いですねえ。」「まあね。つまり君ではない。」「関西のMくん、結婚するらしいですよ。」「そうなんだ!」「りんさんは結婚願望ありますか?」「アナタはあるの?」「…ありません。」「へえ、まあ、君はそうかもね。」という会話をしたことすら忘れた頃、唐突に大声を出すN。「すみません!さっき嘘つきました!」「えっ、何?」「最近、結婚したくなったんです。」「へえ…。」「僕、結婚したくなったんです!」「へえ…。とりあえず車内は静かにね。」と身の危険を感じてみたり。
帰宅後、絶交した(否、された)友人Aにtel。やっぱり出ない。
喪失感。彼女が心を開くことはもうないのか、と私は絶望的な気分になる。遅すぎる自我が芽生えた私の最大の犠牲者はAだった。本や大人から聞きかじった知識を振りかざし、「真実」を喋っている自分に満足してた。周りが「真実」(に見える一般論)を欲しがってたわけじゃないことに気付かずに。すべては過ぎた事実。動かせない事実。
その後、中学〜高校時代の友人S木とtel。
知り合ってもう10年。10年か。同じゲームのキャラクターが好きという(すげー)理由でお互いに興味を持ち、ともに絵を描き、ともに漫画を読み、ともに部活に勤しんだ。仮想世界の男しか好きになれなかった私たちは、このまま永遠にオタクなのだろうかと思いきや、いやいや、やっと現実に帰ってきた。よかったね。本当によかったよ。
S木もAも当時の友人。Aに(おそらく)愛想をつかされた私は帰る場所を失ったような気持ちだが、S木は今も当時と変わらない。「アンタだけは全然変わらないねえ。」「そうなんだよ。見た目もあまり変わってないしさあ。」と笑うS木は、いつだって、マシンガンのように話す私を受け入れる。マニアなネタも、下ネタも、仕事の愚痴も、S木の前では等号だ。こんな私でいいらしい。こんな私がいいらしい。
ただ、ひとつだけ。
Aを失って煩った"心の癌"を忘れずに。Aとの一件があったとはいえ、私の本質は変わらない。好き放題生きている。自分勝手に電話をかける。ただひとつだけ違うのは、S木が私の話を楽しそうに聞いてくれるこの現状は決して当然ではないということを、今の私は知っている。プレミアがつくほどに貴重なこの関係に慣れてはいけない。だから私はここに書く。感謝してます、S木さん。いつもありがとう。
オーストラリアVSイタリアのキックオフと同時に喋り始め、後半44分、未だ同点。一試合分丸々喋っても話すことが次々と溢れてとまらない私は、延長してこれからも一緒にいたいと思うよ。
月曜日は外回り&同期・N氏のお守りの日。「りんさん、僕に対してキツイっすよ。」「アナタといるとSにならざるを得ないのよ。」「りんさん、家では土足ですか?それとも靴脱ぎますか?」「…は?」「僕は土足派なんです。」「普通は脱ぐだろ!」「日本の女の子は難しいですね。」「いや、普通だから。家を土足で踏み荒らすような奴とは一緒に住めん。」「りんさんの彼氏は靴脱ぎますか?」「脱ぐよ!」「彼が土足がいいって言ったらどうしますか?」「うちの彼がそう言ったら…まあ、どうにか対応するけど…。」「えー!ずるいですよ、そんなの!」と、もはや突っ込む場所が多すぎて会話にならない。
昼食後もお守りは続く。
「りんさんの好みのタイプを教えてくださいよ。」「またその話?」「何度でも聞きたいです。」「家の中では靴を脱ぐ人かな。」「…範囲広いですねえ。」「まあね。つまり君ではない。」「関西のMくん、結婚するらしいですよ。」「そうなんだ!」「りんさんは結婚願望ありますか?」「アナタはあるの?」「…ありません。」「へえ、まあ、君はそうかもね。」という会話をしたことすら忘れた頃、唐突に大声を出すN。「すみません!さっき嘘つきました!」「えっ、何?」「最近、結婚したくなったんです。」「へえ…。」「僕、結婚したくなったんです!」「へえ…。とりあえず車内は静かにね。」と身の危険を感じてみたり。
帰宅後、絶交した(否、された)友人Aにtel。やっぱり出ない。
喪失感。彼女が心を開くことはもうないのか、と私は絶望的な気分になる。遅すぎる自我が芽生えた私の最大の犠牲者はAだった。本や大人から聞きかじった知識を振りかざし、「真実」を喋っている自分に満足してた。周りが「真実」(に見える一般論)を欲しがってたわけじゃないことに気付かずに。すべては過ぎた事実。動かせない事実。
その後、中学〜高校時代の友人S木とtel。
知り合ってもう10年。10年か。同じゲームのキャラクターが好きという(すげー)理由でお互いに興味を持ち、ともに絵を描き、ともに漫画を読み、ともに部活に勤しんだ。仮想世界の男しか好きになれなかった私たちは、このまま永遠にオタクなのだろうかと思いきや、いやいや、やっと現実に帰ってきた。よかったね。本当によかったよ。
S木もAも当時の友人。Aに(おそらく)愛想をつかされた私は帰る場所を失ったような気持ちだが、S木は今も当時と変わらない。「アンタだけは全然変わらないねえ。」「そうなんだよ。見た目もあまり変わってないしさあ。」と笑うS木は、いつだって、マシンガンのように話す私を受け入れる。マニアなネタも、下ネタも、仕事の愚痴も、S木の前では等号だ。こんな私でいいらしい。こんな私がいいらしい。
ただ、ひとつだけ。
Aを失って煩った"心の癌"を忘れずに。Aとの一件があったとはいえ、私の本質は変わらない。好き放題生きている。自分勝手に電話をかける。ただひとつだけ違うのは、S木が私の話を楽しそうに聞いてくれるこの現状は決して当然ではないということを、今の私は知っている。プレミアがつくほどに貴重なこの関係に慣れてはいけない。だから私はここに書く。感謝してます、S木さん。いつもありがとう。
オーストラリアVSイタリアのキックオフと同時に喋り始め、後半44分、未だ同点。一試合分丸々喋っても話すことが次々と溢れてとまらない私は、延長してこれからも一緒にいたいと思うよ。
給料を引き出して帰宅する金曜日。
初任給のほとんどは各方面への返済で消えたので、実質、初の給料日。ATMの前でパアァッ…と幸福に酔いしれる。とはいえ、大事に使わねば。色々考えたが、封筒(←会社から失敬したもの)に数枚を差し込んでみる。これは母上に。ついに母上に。
半蔵門線車内にて。
某駅で乗り込んできたカップルに心奪われる。どうやら難しい話をしてるらしい。言葉を探して眉間に皺を寄せる彼。彼の話を真剣に聞く彼女。思いを正確に言語化しようと奮闘する彼を見つめる彼女の気持ちになる。ああこのコ聞いてないな、と私は気付く。恋心を無防備に晒した彼女は、穴が開くほど彼を見つめてた。
そんなステキップルを見送った後、JRで乗り合わせたバカップル(電車内でチュー)に「わああああああああ!!!!!」と石を投げたくなる。
(※最近のりんは取り扱い注意。)
石は投げなかったけど、初任給で酒(サントリーの角瓶)を買う。
母に「どうだあッ!!」と給料を叩きつけ(てはいません。そっと渡したけど)、親子で晩酌を。「最近どうね?」「ぼちぼちだっぺよ。」「はぁ、いい風(ふう)かね?」「はぁ、いい風だ。」と詮無き喋りの中、角瓶をロックにて。「お父さんね、今晩大阪から帰ってくるって。」「こんな遅くに?」「今日中に帰ってきてって言ったの。」「なんで?」「早く会いたいから!」と語るマイ・マザー。少女みたい。
給料、酒、etc…。大人を示すアイテムが増えてきた。変わらないのはこの家と母。美人と言えなくもない我が母と、なぜかさえないマイ・ファザー。お父さんのどこが好きなのさ、と問えばためらいなく「全部!」と答える母は、今年、50になる。我が家の隆盛期、出勤前の父にいってらっしゃいのチューをする母の隣で、おとうさんわたしもわたしも、とせがんで親子揃って(ほっぺに)キスをした。
気付けばあれから20年。
物知りの父に教わった多くの知識を武器に、私は働く。彼の教育は、今、生かされる。経過はそこそこ順調だ。今はあまり会えない父に「ありがとう」と言うのは簡単だけど、毎日のように顔を合わせる母に言うのは照れくさい。それでも言いたいことがある。出会った頃の父の写真を居間に飾っちゃう母、今日はお父さんが帰ってくるとはしゃぐ母、当時は恋心を詩に綴ってた母(←血は争えんな…)。情熱的な母に教わった「人を愛する心」を武器に、私は恋をする。彼女の教育は、今後、生かされる。
「お父さんの部屋のシーツ替えなくちゃ。」「また別々に寝るの?」「そうよ。」「ラブラブなんだから一緒に寝なよ。」「あんなイビキ男と一緒じゃ寝られやしない。」「結婚する前は狭い布団で一緒に寝てたんでしょ?」「寝てたね。」「楽しかった?」「楽しかった。」「それがこんなことになるんだね…。」「ひひひ。アンタも最初だけよ。」と恐ろしいことを言う母とともに父を出迎える。
父がくれたもの 知識、歌、理論
母がくれたもの 愛、詩、感情
初任給のほとんどは各方面への返済で消えたので、実質、初の給料日。ATMの前でパアァッ…と幸福に酔いしれる。とはいえ、大事に使わねば。色々考えたが、封筒(←会社から失敬したもの)に数枚を差し込んでみる。これは母上に。ついに母上に。
半蔵門線車内にて。
某駅で乗り込んできたカップルに心奪われる。どうやら難しい話をしてるらしい。言葉を探して眉間に皺を寄せる彼。彼の話を真剣に聞く彼女。思いを正確に言語化しようと奮闘する彼を見つめる彼女の気持ちになる。ああこのコ聞いてないな、と私は気付く。恋心を無防備に晒した彼女は、穴が開くほど彼を見つめてた。
そんなステキップルを見送った後、JRで乗り合わせたバカップル(電車内でチュー)に「わああああああああ!!!!!」と石を投げたくなる。
(※最近のりんは取り扱い注意。)
石は投げなかったけど、初任給で酒(サントリーの角瓶)を買う。
母に「どうだあッ!!」と給料を叩きつけ(てはいません。そっと渡したけど)、親子で晩酌を。「最近どうね?」「ぼちぼちだっぺよ。」「はぁ、いい風(ふう)かね?」「はぁ、いい風だ。」と詮無き喋りの中、角瓶をロックにて。「お父さんね、今晩大阪から帰ってくるって。」「こんな遅くに?」「今日中に帰ってきてって言ったの。」「なんで?」「早く会いたいから!」と語るマイ・マザー。少女みたい。
給料、酒、etc…。大人を示すアイテムが増えてきた。変わらないのはこの家と母。美人と言えなくもない我が母と、なぜかさえないマイ・ファザー。お父さんのどこが好きなのさ、と問えばためらいなく「全部!」と答える母は、今年、50になる。我が家の隆盛期、出勤前の父にいってらっしゃいのチューをする母の隣で、おとうさんわたしもわたしも、とせがんで親子揃って(ほっぺに)キスをした。
気付けばあれから20年。
物知りの父に教わった多くの知識を武器に、私は働く。彼の教育は、今、生かされる。経過はそこそこ順調だ。今はあまり会えない父に「ありがとう」と言うのは簡単だけど、毎日のように顔を合わせる母に言うのは照れくさい。それでも言いたいことがある。出会った頃の父の写真を居間に飾っちゃう母、今日はお父さんが帰ってくるとはしゃぐ母、当時は恋心を詩に綴ってた母(←血は争えんな…)。情熱的な母に教わった「人を愛する心」を武器に、私は恋をする。彼女の教育は、今後、生かされる。
「お父さんの部屋のシーツ替えなくちゃ。」「また別々に寝るの?」「そうよ。」「ラブラブなんだから一緒に寝なよ。」「あんなイビキ男と一緒じゃ寝られやしない。」「結婚する前は狭い布団で一緒に寝てたんでしょ?」「寝てたね。」「楽しかった?」「楽しかった。」「それがこんなことになるんだね…。」「ひひひ。アンタも最初だけよ。」と恐ろしいことを言う母とともに父を出迎える。
父がくれたもの 知識、歌、理論
母がくれたもの 愛、詩、感情
すきらいすき
2006年6月22日
(注:画像はイメージです。)
ベアトップがずり落ちてブラジャーを晒した木曜日。
採用活動中につき、学生と電話でやり取りを。この時期まで粘ってるせいか、皆、妙に暗い。「もしもし。ワタクシ、○○社のりんと申します。こんにちは。」「あっ…ハア…。」という返答に、挨拶くらいしようよ、と思うもすぐに気を取り直し、にこやかに対応。「○○様の所属をお聞かせ願えますか?」「…。」「もしもし?」「…あっ、所属って…?」「学校名でございます。」「…なんだ。○○大学です。」というなっとらん対応に青筋が立つ(←嫌な大人になってきたな、私も)。
残業後、事務所のツートップと飲みに行く。
憧れの部長と(先日私を泣かせた)課長。ああ私は囚われの宇宙人。「ビールでいいよね?」「いいです。」「りんさん、飲めるんだもんね。」「飲めます。」「ゴハン、嫌いなものとかある?」「ないです。」「いっぱい食べな。」「食べます。」と水飲みラッキーバード(←古い?)の如く頷くばかり。肝臓、謝々。胃袋、謝々。
どうして彼女らは私を誘ったのだろう、と考える。
ON/OFFはすっかり渾然一体となり、何が辛いのかわからない。それでも私は鞭打つように自分を奮い立たせ、どうしようもない事態にも自分なりの打開策を見つけてた、つもりだったのに。ああ、ここ(会社)でも言われるか。あなたの肩には力が入ってる、と。ああ、ここでも言われるか。肩の力さえ抜ければあなたはもっと素敵になるのに、と。
いつものように叱られていつものように帰った日、私は泣いた。こっそり泣いた。それでも彼女(課長)はわかってた。肩に力が入った私、妙な責任感ばかり先立つ私、自分の信じる理論にしがみつく私、それにそぐわないものを嫌う私、すべて彼女はわかってた。部長は言う。「あなたは強いけど、強さの中の優しさは塗りつぶされちゃうから。だから優しくなりなさい。優しさの中に強さを持たなくちゃ。今のあなたは順序が逆。」と。
正しい理論(たしかにまあまあ正しいらしい)を振りかざし、それでも自分ではバランスを取ろうと、「正しい理論を正しいと叫ぶのはあまり良くない。」と理解したつもり。が、そう理解した私は「正しい理論を正しいと叫ぶ人」を逆に許容できなくなった。傲慢になってはいけないという正しい理論を信奉するがゆえに、傲慢な人を許すことができず、そんな自分が実は傲慢だった。
煙草をくゆらせる課長を見る。
本物を見たことない人が本物を鑑定できないように、今はまだ素敵じゃない私が素敵な人を見つけられるの? 私が素敵じゃないと(勝手に)判断した上司が、私の知らない何かを見ているのなら、視野が狭い私は安易に人を判断するべきじゃない。彼女は素敵? 素敵じゃない? わからない。わからないままでいい。断定は「強さ」で、保留は「弱さ」。そうじゃない。保留は「優しさ」。少しは保留を覚えよう。
私を諭す二名を見る。
彼女らが私を諭すのは、単に"使える部下"になってほしいというより、間違いなく一度走ってきたはずの道があるからか。就職活動を終えた私が理由もなく学生を応援したくなるように。私は思った。きっとこの会社に入ってよかった、と。
すき、きらい、すき、きらい、すき
恋でも、仕事でも。
ベアトップがずり落ちてブラジャーを晒した木曜日。
採用活動中につき、学生と電話でやり取りを。この時期まで粘ってるせいか、皆、妙に暗い。「もしもし。ワタクシ、○○社のりんと申します。こんにちは。」「あっ…ハア…。」という返答に、挨拶くらいしようよ、と思うもすぐに気を取り直し、にこやかに対応。「○○様の所属をお聞かせ願えますか?」「…。」「もしもし?」「…あっ、所属って…?」「学校名でございます。」「…なんだ。○○大学です。」というなっとらん対応に青筋が立つ(←嫌な大人になってきたな、私も)。
残業後、事務所のツートップと飲みに行く。
憧れの部長と(先日私を泣かせた)課長。ああ私は囚われの宇宙人。「ビールでいいよね?」「いいです。」「りんさん、飲めるんだもんね。」「飲めます。」「ゴハン、嫌いなものとかある?」「ないです。」「いっぱい食べな。」「食べます。」と水飲みラッキーバード(←古い?)の如く頷くばかり。肝臓、謝々。胃袋、謝々。
どうして彼女らは私を誘ったのだろう、と考える。
ON/OFFはすっかり渾然一体となり、何が辛いのかわからない。それでも私は鞭打つように自分を奮い立たせ、どうしようもない事態にも自分なりの打開策を見つけてた、つもりだったのに。ああ、ここ(会社)でも言われるか。あなたの肩には力が入ってる、と。ああ、ここでも言われるか。肩の力さえ抜ければあなたはもっと素敵になるのに、と。
いつものように叱られていつものように帰った日、私は泣いた。こっそり泣いた。それでも彼女(課長)はわかってた。肩に力が入った私、妙な責任感ばかり先立つ私、自分の信じる理論にしがみつく私、それにそぐわないものを嫌う私、すべて彼女はわかってた。部長は言う。「あなたは強いけど、強さの中の優しさは塗りつぶされちゃうから。だから優しくなりなさい。優しさの中に強さを持たなくちゃ。今のあなたは順序が逆。」と。
正しい理論(たしかにまあまあ正しいらしい)を振りかざし、それでも自分ではバランスを取ろうと、「正しい理論を正しいと叫ぶのはあまり良くない。」と理解したつもり。が、そう理解した私は「正しい理論を正しいと叫ぶ人」を逆に許容できなくなった。傲慢になってはいけないという正しい理論を信奉するがゆえに、傲慢な人を許すことができず、そんな自分が実は傲慢だった。
煙草をくゆらせる課長を見る。
本物を見たことない人が本物を鑑定できないように、今はまだ素敵じゃない私が素敵な人を見つけられるの? 私が素敵じゃないと(勝手に)判断した上司が、私の知らない何かを見ているのなら、視野が狭い私は安易に人を判断するべきじゃない。彼女は素敵? 素敵じゃない? わからない。わからないままでいい。断定は「強さ」で、保留は「弱さ」。そうじゃない。保留は「優しさ」。少しは保留を覚えよう。
私を諭す二名を見る。
彼女らが私を諭すのは、単に"使える部下"になってほしいというより、間違いなく一度走ってきたはずの道があるからか。就職活動を終えた私が理由もなく学生を応援したくなるように。私は思った。きっとこの会社に入ってよかった、と。
すき、きらい、すき、きらい、すき
恋でも、仕事でも。