1月16日の読書メモ
2006年1月16日年上のリーマン司書から、中島らもの『今夜、すべてのバーで』を拝借。読了。
そんなわけで、今日もブックレビュー(のようなもの)をアップしようと思いPCを起ち上げたのが、正月に書いた『えろきゅん』のレビューに、著者である川上史津子さんご本人からコメントがついていた。あまりに驚いて、思わず自室(二階)の窓から飛び降りたくなった。
というのも、ちょっと批判チックなことを偉そうに書き散らかしていたからだ。今更言うまでもないけど、ブログってホント、誰に読まれるかわからないね。そういえば、以前の私は、本や映画のレビューを公開するのは傲慢だと思いこんでいた。だからこそアップする際は、不快になる人が極力少なくなるように配慮していたつもりだが(批判ゼロのレビューはレビューとしての本質を欠いているにしろ)、やはり念頭に置いておくべきだろう。
前置き、終わり。
今回の本、読後感は悪くない。むしろ、すこぶる良い。コリコリに凝った美文を好まないタチなので(自分で書くのは好きだが)、読んでいる最中、物語の展開に対してではなく文章そのものに嫌気がさすようなことが無くて、良かった。男性の一人称は「俺」より「僕」派の私なので、そこだけは少し辛かったけど。
こういう文学を読む度に、「どうして私は男に生まれなかったのだろう。」と思ってしまう。
女ではなく男としてこの家に生まれていたら、やりたいことがいっぱいあった。たとえば、今日。家事をやりたがらない母親にほとほと腹を立て、「じゃあもう何も食わなければいい!!」と捨て台詞を残して、自分は近所の薄汚いラーメン屋で夕食を済ませて、それでもまだ腹の虫がおさまらなかったら、これまた近所のバーで一人ウィスキーをストレートでやりたい、なんて思ったけど、同じことをやっても弱冠23歳の小娘じゃまったく絵にならない。それを知っているから、結局スーパーで買い物をしておとなしくゴハンを作った。つまらん。
中島らもについての知識が貧弱だが、どうも「あまり結婚したくないタイプ」であったと想像される。そういえば、私の愛すべきおじいちゃんも大酒飲みの女好きでのろくでもない人で、最期は肝臓を悪くしてしまった。父方の親戚はそういう「無頼派」が妙に多く、私にもその血は脈々と受け継がれているようだ。
なぜなら、まだ酒を飲む前から「私は酒好きになるだろうな。」という予感があった。周りの大人が全員、酒をこよなく愛していたので、あの液体には底知れぬ魅力が潜んでいるのだと、小さい頃から知っていた。しつこいように繰り返すが、もし私が男だったら、会社帰りに居酒屋をはしごして酔いつぶれるサラリーマンになっていたに違いない。残念だ。(もしや、今からでもなれるのか?でもそれはみっともない。)
というわけで、私は、酒を飲む男の人がとても好きです。
仮説。私の中に流れる父方の「酒と男のロマン」(←?)の遺伝子が、私をそういう世界へ誘うのだけど、悲しいかな、私は女だし見栄っ張りな性分なので、同じことをしても「絵にならない」のが屈辱なのだ。さらに言うなら、小心者だから決して無頼派にはなれない。それら鬱屈した何かが形を変え、憧れとなり、一人格好良く生きながら酒を飲む男性へと投影されているのだろうな、と。
補足。シビれたのは、以下の台詞↓
「酔うというのは、体が夢を見ることだ。」
さらに補足。男性に言われたいのは、以下の台詞↓
「きみがおれのアルコールだ。」
------------------------------------------------------------------
備忘。
●本日のBGM。
クレイジー・ケン・バンドの『Soul punch』より、「American Dream」。
家族から「もういいよ!」って言われるほどに、繰り返し聴く。混声合唱って素敵だ。どうやら、私は、CKBをとても気に入ってしまったらしい。
そんなわけで、今日もブックレビュー(のようなもの)をアップしようと思いPCを起ち上げたのが、正月に書いた『えろきゅん』のレビューに、著者である川上史津子さんご本人からコメントがついていた。あまりに驚いて、思わず自室(二階)の窓から飛び降りたくなった。
というのも、ちょっと批判チックなことを偉そうに書き散らかしていたからだ。今更言うまでもないけど、ブログってホント、誰に読まれるかわからないね。そういえば、以前の私は、本や映画のレビューを公開するのは傲慢だと思いこんでいた。だからこそアップする際は、不快になる人が極力少なくなるように配慮していたつもりだが(批判ゼロのレビューはレビューとしての本質を欠いているにしろ)、やはり念頭に置いておくべきだろう。
前置き、終わり。
今回の本、読後感は悪くない。むしろ、すこぶる良い。コリコリに凝った美文を好まないタチなので(自分で書くのは好きだが)、読んでいる最中、物語の展開に対してではなく文章そのものに嫌気がさすようなことが無くて、良かった。男性の一人称は「俺」より「僕」派の私なので、そこだけは少し辛かったけど。
こういう文学を読む度に、「どうして私は男に生まれなかったのだろう。」と思ってしまう。
女ではなく男としてこの家に生まれていたら、やりたいことがいっぱいあった。たとえば、今日。家事をやりたがらない母親にほとほと腹を立て、「じゃあもう何も食わなければいい!!」と捨て台詞を残して、自分は近所の薄汚いラーメン屋で夕食を済ませて、それでもまだ腹の虫がおさまらなかったら、これまた近所のバーで一人ウィスキーをストレートでやりたい、なんて思ったけど、同じことをやっても弱冠23歳の小娘じゃまったく絵にならない。それを知っているから、結局スーパーで買い物をしておとなしくゴハンを作った。つまらん。
中島らもについての知識が貧弱だが、どうも「あまり結婚したくないタイプ」であったと想像される。そういえば、私の愛すべきおじいちゃんも大酒飲みの女好きでのろくでもない人で、最期は肝臓を悪くしてしまった。父方の親戚はそういう「無頼派」が妙に多く、私にもその血は脈々と受け継がれているようだ。
なぜなら、まだ酒を飲む前から「私は酒好きになるだろうな。」という予感があった。周りの大人が全員、酒をこよなく愛していたので、あの液体には底知れぬ魅力が潜んでいるのだと、小さい頃から知っていた。しつこいように繰り返すが、もし私が男だったら、会社帰りに居酒屋をはしごして酔いつぶれるサラリーマンになっていたに違いない。残念だ。(もしや、今からでもなれるのか?でもそれはみっともない。)
というわけで、私は、酒を飲む男の人がとても好きです。
仮説。私の中に流れる父方の「酒と男のロマン」(←?)の遺伝子が、私をそういう世界へ誘うのだけど、悲しいかな、私は女だし見栄っ張りな性分なので、同じことをしても「絵にならない」のが屈辱なのだ。さらに言うなら、小心者だから決して無頼派にはなれない。それら鬱屈した何かが形を変え、憧れとなり、一人格好良く生きながら酒を飲む男性へと投影されているのだろうな、と。
補足。シビれたのは、以下の台詞↓
「酔うというのは、体が夢を見ることだ。」
さらに補足。男性に言われたいのは、以下の台詞↓
「きみがおれのアルコールだ。」
------------------------------------------------------------------
備忘。
●本日のBGM。
クレイジー・ケン・バンドの『Soul punch』より、「American Dream」。
家族から「もういいよ!」って言われるほどに、繰り返し聴く。混声合唱って素敵だ。どうやら、私は、CKBをとても気に入ってしまったらしい。
我恋す、故に我有り
2006年1月14日雨の日と土曜日は、
ヘレン・フィッシャーの『人はなぜ恋に落ちるのか? 恋と愛情と性欲の脳科学』(ソニー・マガジンズ)を読了。こんな話題ばかりですみません。
アメリカの著名な人類学者である著者いわく、「恋愛」とは、交配と生殖のために進化した脳の三つの原始的ネットワークにすぎない、と。ネットワークということは、すなわち網の目のようになっているということ。で、その三つとは、「性欲」、「恋愛感情」、「愛着」のことだ。
この基本的な三つの衝動は、脳内の異なる通路をめぐっていて、それぞれが異なる行動の元となり、異なる神経化学物質と関連している。「性欲」は、どんな相手とも性的に結合できるように進化した。「恋愛感情」は、ひとりの相手にのみ求愛することで、貴重な交配可能期間とエネルギーを無駄遣いしないように進化した。「愛着」は、ふたりの間に生まれた子どもをともに育てている間は相手を愛していられるように進化した。
私に言わせれば、著者がこの本を著したのは時期尚早だったと思う。
なぜなら、これら三つの基本的な交配衝動の元が、それぞれテストステロン(性欲と結びつく)、ドーパミンとセロトニン(恋愛感情を結びつく)、オキシトシンとバソプレシン(愛着と結びつく)ということはわかっても、たとえば「性欲」と「恋愛感情」がどう絡み合っているのか、というところまでは解明できていないからだ。それぞれの結びつき方には、個人差と例外があり過ぎる。
さらに、人間がなぜ特定の個人を好む(この人じゃなきゃだめ!)のか、結局は謎らしい。オイオイ、私はそこが知りたかったのだけど(笑)。人類という種が、あくまで一時的に(交配期間中だけ)相手に惹かれる動物から、相手のためなら死んでもかまわないとさえ思える男女にいつ変身したのか、そこらへんはやっぱりわからないままだ。
脳は未だにブラックボックスだそうだ。愛する人の写真を見せると、被験者の脳の一部分が活性化する。「あ、ここが活性化してる!」という部位を、著者は特定できた。そのとき脳内でどのホルモンが分泌されるかも。でも、「だからどーした」と私は思う。
科学者たちが脳内の地図をどれほど正確に描き、恋愛の生物学を解明したとしても、この情熱の神秘と高揚感が損なわれることはありえない。ベートーベンの第九の楽譜をすべて知っていたとしても、それを耳にするごとに覚える興奮が変わらないのと同じだ。これは私ではなく、著者自身が語っていること。
ある現象を目にして、それの解明に乗り出し客観的に語るのか、それともその現象を良しとして主観的に表現するか、人は二つのタイプに分かれるのだろう。私は、間違いなく、後者だ。仮に、私に理系の才能があったとしても、「恋愛」を解明しようとはおそらく思わなかったはず。「我思う、故に我有り」じゃないけど、私は今間違いなく恋をしているし、それだけは確かなこと。その不思議さに心動かされて、「どうして?」と思うものの(だから今回のような本を読むのよ)、「真理を追究したい」という姿勢ではなかったということ。
紀元前から人は恋愛をしていたという確かな証拠があり、動物も何らかの形で特定の相手に求愛する。私は、そういった多くの「例」を本で読み、「まあ、あなたも?あら、あなたも?恋って素敵よね!うっふふふ♪」という「共感」を欲しがっているのだろう。真理を追究できなくとも、この「共感」を護符にして、何かしたいんだろうね。たぶん、それは、表現としてカテゴライズされる何かなんだ。
それにしても、現代の最新テクノロジーを駆使しても未だ解明できない「恋愛」に、私は宇宙の真理に匹敵するほどの神秘をやはり感じてしまう。
追記。本の備忘。
●世界中の様々な社会で、平均して女性は言語学的に男性より優れているそうだ。100万年前から、女性が子育ての道具として言葉を用いてきたためだろう、と。女性の言語能力というのは、女性ホルモンのエストロゲンと繋がっているくらいらしい。
女は言葉で感じるのだそうだ(わはは!)。「男に笑わせてもらった女は、守られているように感じるものだ。」とのこと。男性の皆さん、要チェック!
●男も女も一般的に、異なる話題について語ることで親密度が高まるものらしい。男性の場合、スポーツや政治や世界の出来事やビジネスについての会話を楽しむことが多い。それは、勝つか負けるか、勝者と敗者、地位と階層制の世界であり、交配相手を勝ち取るために常にステイタスを武器としてきた男性にとって、理解できる世界なのだそうで。
一方の女性は、自分の個人的なこと、あるいは人の話題について、もっと感情的であけすけなおしゃべりにより惹きつけられる。太古の世界で進化してきた女性たちにとって、社会的な繋がりが生き残るために決定的な要素だったからだろう、と。
●求愛者がさまざまな才能を披露するとき、そういった求愛行動を披露されている側も、判断力、洞察力、記憶力、認識力など、求愛者を識別する能力を持つ必要があるそうだ。これは、当たり前の話だ。
言語、芸術、歌など、若き求愛者は、自分の得意技で交配相手を関心させようとするのだそうで。そして、たとえば人より抜きんでて言葉巧みな者やカリスマ的演説を行う者は、もちろん自身の言語能力をウリとする。しかし、求愛される側も同じ程度の言語能力が無いと、相手の言っている意味がわからない上に、「この人のこの能力がスゴイ!」と思えないそうで。
●総括。私は自分がやや特殊なのではないかと思いつつあったけど、どうやら、ものすごく「女」らしい女みたい。。。ひょえー!
ヘレン・フィッシャーの『人はなぜ恋に落ちるのか? 恋と愛情と性欲の脳科学』(ソニー・マガジンズ)を読了。こんな話題ばかりですみません。
アメリカの著名な人類学者である著者いわく、「恋愛」とは、交配と生殖のために進化した脳の三つの原始的ネットワークにすぎない、と。ネットワークということは、すなわち網の目のようになっているということ。で、その三つとは、「性欲」、「恋愛感情」、「愛着」のことだ。
この基本的な三つの衝動は、脳内の異なる通路をめぐっていて、それぞれが異なる行動の元となり、異なる神経化学物質と関連している。「性欲」は、どんな相手とも性的に結合できるように進化した。「恋愛感情」は、ひとりの相手にのみ求愛することで、貴重な交配可能期間とエネルギーを無駄遣いしないように進化した。「愛着」は、ふたりの間に生まれた子どもをともに育てている間は相手を愛していられるように進化した。
私に言わせれば、著者がこの本を著したのは時期尚早だったと思う。
なぜなら、これら三つの基本的な交配衝動の元が、それぞれテストステロン(性欲と結びつく)、ドーパミンとセロトニン(恋愛感情を結びつく)、オキシトシンとバソプレシン(愛着と結びつく)ということはわかっても、たとえば「性欲」と「恋愛感情」がどう絡み合っているのか、というところまでは解明できていないからだ。それぞれの結びつき方には、個人差と例外があり過ぎる。
さらに、人間がなぜ特定の個人を好む(この人じゃなきゃだめ!)のか、結局は謎らしい。オイオイ、私はそこが知りたかったのだけど(笑)。人類という種が、あくまで一時的に(交配期間中だけ)相手に惹かれる動物から、相手のためなら死んでもかまわないとさえ思える男女にいつ変身したのか、そこらへんはやっぱりわからないままだ。
脳は未だにブラックボックスだそうだ。愛する人の写真を見せると、被験者の脳の一部分が活性化する。「あ、ここが活性化してる!」という部位を、著者は特定できた。そのとき脳内でどのホルモンが分泌されるかも。でも、「だからどーした」と私は思う。
科学者たちが脳内の地図をどれほど正確に描き、恋愛の生物学を解明したとしても、この情熱の神秘と高揚感が損なわれることはありえない。ベートーベンの第九の楽譜をすべて知っていたとしても、それを耳にするごとに覚える興奮が変わらないのと同じだ。これは私ではなく、著者自身が語っていること。
ある現象を目にして、それの解明に乗り出し客観的に語るのか、それともその現象を良しとして主観的に表現するか、人は二つのタイプに分かれるのだろう。私は、間違いなく、後者だ。仮に、私に理系の才能があったとしても、「恋愛」を解明しようとはおそらく思わなかったはず。「我思う、故に我有り」じゃないけど、私は今間違いなく恋をしているし、それだけは確かなこと。その不思議さに心動かされて、「どうして?」と思うものの(だから今回のような本を読むのよ)、「真理を追究したい」という姿勢ではなかったということ。
紀元前から人は恋愛をしていたという確かな証拠があり、動物も何らかの形で特定の相手に求愛する。私は、そういった多くの「例」を本で読み、「まあ、あなたも?あら、あなたも?恋って素敵よね!うっふふふ♪」という「共感」を欲しがっているのだろう。真理を追究できなくとも、この「共感」を護符にして、何かしたいんだろうね。たぶん、それは、表現としてカテゴライズされる何かなんだ。
それにしても、現代の最新テクノロジーを駆使しても未だ解明できない「恋愛」に、私は宇宙の真理に匹敵するほどの神秘をやはり感じてしまう。
追記。本の備忘。
●世界中の様々な社会で、平均して女性は言語学的に男性より優れているそうだ。100万年前から、女性が子育ての道具として言葉を用いてきたためだろう、と。女性の言語能力というのは、女性ホルモンのエストロゲンと繋がっているくらいらしい。
女は言葉で感じるのだそうだ(わはは!)。「男に笑わせてもらった女は、守られているように感じるものだ。」とのこと。男性の皆さん、要チェック!
●男も女も一般的に、異なる話題について語ることで親密度が高まるものらしい。男性の場合、スポーツや政治や世界の出来事やビジネスについての会話を楽しむことが多い。それは、勝つか負けるか、勝者と敗者、地位と階層制の世界であり、交配相手を勝ち取るために常にステイタスを武器としてきた男性にとって、理解できる世界なのだそうで。
一方の女性は、自分の個人的なこと、あるいは人の話題について、もっと感情的であけすけなおしゃべりにより惹きつけられる。太古の世界で進化してきた女性たちにとって、社会的な繋がりが生き残るために決定的な要素だったからだろう、と。
●求愛者がさまざまな才能を披露するとき、そういった求愛行動を披露されている側も、判断力、洞察力、記憶力、認識力など、求愛者を識別する能力を持つ必要があるそうだ。これは、当たり前の話だ。
言語、芸術、歌など、若き求愛者は、自分の得意技で交配相手を関心させようとするのだそうで。そして、たとえば人より抜きんでて言葉巧みな者やカリスマ的演説を行う者は、もちろん自身の言語能力をウリとする。しかし、求愛される側も同じ程度の言語能力が無いと、相手の言っている意味がわからない上に、「この人のこの能力がスゴイ!」と思えないそうで。
●総括。私は自分がやや特殊なのではないかと思いつつあったけど、どうやら、ものすごく「女」らしい女みたい。。。ひょえー!
I steam a pitcher of milk and my heart.
2006年1月13日早朝からミルクと格闘。
我がバイト先(都会のカフェ)は、朝が勝負。ビジネス街なので、お客の大半はサラリーマンかOLさんだ。
思い出したのだけど、私がこのバイトを始めた頃はハタチかそこらで、スーツを着ている人が全員「オジサン」に見えたものだ。あくまで客は客と割り切り、彼ら(オジサン)を、自分とは別世界の人といっては大袈裟だけど、そんな風に見ていた気がする。接客ロボットのように対処しながらも、スマイルも代金のうち、と割り切っていたような。
もう一つ。相手がスーツを着ていると年齢がわからなくなるので、たとえお客が20代でも、私にとっては「オジサン」だったのね。で、そういうオジサンは、大抵あまり格好良くないのだけど、薬指にリングをはめていたりするの。そして、数百人単位でそういう人たちに向かっていると、「え、この人も?まあ、この人も!?」なんて、失礼ながら思ったりするの。
ま、そんな風にいちいち反応できるのは、レジを叩いてるとき限定だ。ドリンクを作っている場所は戦場なので、いちいちお客の薬指と顔を交互に確かめている暇は無い。が、私はジュクジュクに熟したベテランなので、戦場でミルクを温めながら今日も色々なことを考えてしまった。
本日の「お考えごと」のテーマは、通過儀礼について。
私がこのバイトを始めた頃は、目に見えるものをとても大切にしていた。たとえば、「まあまあ気は合うけど、カッコ良くない人」と、「話はあまりおもしろくないけど、カッコ良い人」だったら、迷わず後者を選んだ。私の精神が三層構造(よそ行きの自分、友達にしか見せない自分、自分でもよくわからない自分)になっているとすれば、「自分でもよくわからない自分」をどうしても理解してほしくて、だからこそじっくり話ができる男性を求めていると自分でも知っていたのに、私は矛盾していた。
少女に一種の通過儀礼があるとするならば。
少女が大人の女になるために、どうしても理解しなければいけないことがあるとするならば、目に見えないものの価値を最大限認めることだ。私の通過儀礼は思わぬ形で実現した。普通の女のコはたぶん、途中で気付くのだと思う。でも、人より頑丈だった私の"殻"をぶち破るには、あのような出会い方をするしかなかったんだな、と、当時(マイ・ラヴァーと出会った頃)を思い出す度に、私は「ふふふ。」と不気味な笑いを漏らしてしまう。
こういう書き方をすると、まるでマイ・ラヴァーが「まあまあ気は合うけど、カッコ良くない人」みたいだけど(笑)、いやいや、彼はカッコ良いッス(たぶん)。本質的にどうかって話じゃなくて、私が男性をまず見るときの順序の問題。目に見えるところより先に、私は彼の目に見えないところに注目した。その経験が貴重だったということだ。
オジサンをオジサンと見ていた私は、異性を見るときに「恋する対象かどうか」をまず判断していた。スーツを着たオジサンは、カッコ良い少年ではないから、その時点で自分とは別世界の人間だったのだ。べつにオジサンに恋する必要は無いのだけど、オジサンを男じゃないと判断していた私は、はたして人を人として見ていたのだろうか。甚だ自信が無い。
目に見えるものとは、容貌、着ているもの、持ち物、などなど。人は見た目が九割というから、目に見えるものはとっても大事だと思うけど、私の思う素敵な女性とは、人を判断する際に見た目が食い込む領域が普通の人よりちょっぴり少ないのではないか、って。
すでに50を過ぎてるであろう正真正銘のオジサンでも、ミスをした私に「気にしないでいいよ。」と笑ってくださるときがある。通過儀礼を終えた(と、勝手に思ってる)私は、「かつてこのオジサンにも若い頃があって、そんな彼に真剣に恋した女性もいただろう。」などと思う。そういう目で世界を見ると、当時より今の方がやや美しく見える気がする。
------------------------------------------------------------------
備忘じゃなく、雑感。
●DiaryNote・トップページについて。
久々にトップページを見たのだが、このDiaryNoteって、「ヒミツの交換日記ではじまる、新しい生活。」というのが謳い文句だったんだね。あんなに大きく書いてあるのに、知らなかったよ!
皆がどういうキッカケでDiaryNoteを始めたのかは、気になるところだ。その際、やはりヒミツの交換日記で新しい生活を始めようとしたのかなと思うと、なんだかとてもウケる(ウケちゃ失礼だとは知りつつも)。
●コメント機能について。
私がDiaryNoteを始めた頃は、「ヒミツ日記」でやりとりというのが王道だったので、保守派な私は、未だに新機能である「コメント機能」に馴染めずにいる。
ほかのブログサイトを利用したことが無いのでよくわからないけど、DiaryNote特有の「ヒミツ日記システム」は秀逸だったと思う。リンクし合うことで徐々に広がるコミュニティ、でも全員の文章は読むことができないという。相互していれば片一方のコメントは読むことができるけど、その相手がリンクしている人のものは読めない。あの隠微さが私は好きだった。
で、なんちゅうか、今も「ヒミツ日記」は使えるのだけど、当時よりも隠微さが減った気がして、私は、まるで母校が改築されたような一抹の寂しさを覚えたりするのだ。
●あしあと機能について。
この機能が追加されて以来、ほかの人の日記に飛ぶ際、若干(ほんと若干)躊躇するようになった。
相互している人に関してはともかく、今までこっそり見ていた人の日記の場合、「まっ、りんさんって人、見てるんだ!」ってばれてしまうから。いやいや、別にばれて困ることはこれっぽっちも無いのだけど、「名乗るほどの者ではございません。」ってときがあるじゃないですか(笑)。
でも自分のところに来る人のお名前を見ると、「まあ、名乗ってくださればよろしいのに…。」なんて、勝手なことを思う私。これはイイ機能だと思います。
我がバイト先(都会のカフェ)は、朝が勝負。ビジネス街なので、お客の大半はサラリーマンかOLさんだ。
思い出したのだけど、私がこのバイトを始めた頃はハタチかそこらで、スーツを着ている人が全員「オジサン」に見えたものだ。あくまで客は客と割り切り、彼ら(オジサン)を、自分とは別世界の人といっては大袈裟だけど、そんな風に見ていた気がする。接客ロボットのように対処しながらも、スマイルも代金のうち、と割り切っていたような。
もう一つ。相手がスーツを着ていると年齢がわからなくなるので、たとえお客が20代でも、私にとっては「オジサン」だったのね。で、そういうオジサンは、大抵あまり格好良くないのだけど、薬指にリングをはめていたりするの。そして、数百人単位でそういう人たちに向かっていると、「え、この人も?まあ、この人も!?」なんて、失礼ながら思ったりするの。
ま、そんな風にいちいち反応できるのは、レジを叩いてるとき限定だ。ドリンクを作っている場所は戦場なので、いちいちお客の薬指と顔を交互に確かめている暇は無い。が、私はジュクジュクに熟したベテランなので、戦場でミルクを温めながら今日も色々なことを考えてしまった。
本日の「お考えごと」のテーマは、通過儀礼について。
私がこのバイトを始めた頃は、目に見えるものをとても大切にしていた。たとえば、「まあまあ気は合うけど、カッコ良くない人」と、「話はあまりおもしろくないけど、カッコ良い人」だったら、迷わず後者を選んだ。私の精神が三層構造(よそ行きの自分、友達にしか見せない自分、自分でもよくわからない自分)になっているとすれば、「自分でもよくわからない自分」をどうしても理解してほしくて、だからこそじっくり話ができる男性を求めていると自分でも知っていたのに、私は矛盾していた。
少女に一種の通過儀礼があるとするならば。
少女が大人の女になるために、どうしても理解しなければいけないことがあるとするならば、目に見えないものの価値を最大限認めることだ。私の通過儀礼は思わぬ形で実現した。普通の女のコはたぶん、途中で気付くのだと思う。でも、人より頑丈だった私の"殻"をぶち破るには、あのような出会い方をするしかなかったんだな、と、当時(マイ・ラヴァーと出会った頃)を思い出す度に、私は「ふふふ。」と不気味な笑いを漏らしてしまう。
こういう書き方をすると、まるでマイ・ラヴァーが「まあまあ気は合うけど、カッコ良くない人」みたいだけど(笑)、いやいや、彼はカッコ良いッス(たぶん)。本質的にどうかって話じゃなくて、私が男性をまず見るときの順序の問題。目に見えるところより先に、私は彼の目に見えないところに注目した。その経験が貴重だったということだ。
オジサンをオジサンと見ていた私は、異性を見るときに「恋する対象かどうか」をまず判断していた。スーツを着たオジサンは、カッコ良い少年ではないから、その時点で自分とは別世界の人間だったのだ。べつにオジサンに恋する必要は無いのだけど、オジサンを男じゃないと判断していた私は、はたして人を人として見ていたのだろうか。甚だ自信が無い。
目に見えるものとは、容貌、着ているもの、持ち物、などなど。人は見た目が九割というから、目に見えるものはとっても大事だと思うけど、私の思う素敵な女性とは、人を判断する際に見た目が食い込む領域が普通の人よりちょっぴり少ないのではないか、って。
すでに50を過ぎてるであろう正真正銘のオジサンでも、ミスをした私に「気にしないでいいよ。」と笑ってくださるときがある。通過儀礼を終えた(と、勝手に思ってる)私は、「かつてこのオジサンにも若い頃があって、そんな彼に真剣に恋した女性もいただろう。」などと思う。そういう目で世界を見ると、当時より今の方がやや美しく見える気がする。
------------------------------------------------------------------
備忘じゃなく、雑感。
●DiaryNote・トップページについて。
久々にトップページを見たのだが、このDiaryNoteって、「ヒミツの交換日記ではじまる、新しい生活。」というのが謳い文句だったんだね。あんなに大きく書いてあるのに、知らなかったよ!
皆がどういうキッカケでDiaryNoteを始めたのかは、気になるところだ。その際、やはりヒミツの交換日記で新しい生活を始めようとしたのかなと思うと、なんだかとてもウケる(ウケちゃ失礼だとは知りつつも)。
●コメント機能について。
私がDiaryNoteを始めた頃は、「ヒミツ日記」でやりとりというのが王道だったので、保守派な私は、未だに新機能である「コメント機能」に馴染めずにいる。
ほかのブログサイトを利用したことが無いのでよくわからないけど、DiaryNote特有の「ヒミツ日記システム」は秀逸だったと思う。リンクし合うことで徐々に広がるコミュニティ、でも全員の文章は読むことができないという。相互していれば片一方のコメントは読むことができるけど、その相手がリンクしている人のものは読めない。あの隠微さが私は好きだった。
で、なんちゅうか、今も「ヒミツ日記」は使えるのだけど、当時よりも隠微さが減った気がして、私は、まるで母校が改築されたような一抹の寂しさを覚えたりするのだ。
●あしあと機能について。
この機能が追加されて以来、ほかの人の日記に飛ぶ際、若干(ほんと若干)躊躇するようになった。
相互している人に関してはともかく、今までこっそり見ていた人の日記の場合、「まっ、りんさんって人、見てるんだ!」ってばれてしまうから。いやいや、別にばれて困ることはこれっぽっちも無いのだけど、「名乗るほどの者ではございません。」ってときがあるじゃないですか(笑)。
でも自分のところに来る人のお名前を見ると、「まあ、名乗ってくださればよろしいのに…。」なんて、勝手なことを思う私。これはイイ機能だと思います。
黄金律でシアワセになる!
2006年1月12日10日付の朝日新聞夕刊より。
「新・欲望論」の第三回。中村うさぎが持論を展開している。ブランド物やホストや美容整形にうつつを抜かした彼女が、最終的に得た教訓は、「金で満たせる欲望には、必ず限界が来る」というものだったそうで。
消費の快感とはすなわち「欲望を満たす快感」であるから、欲望の対象を獲得した途端にそれは欲望の対象ではなくなる。その虚しさから逃れるために、次から次へと新しい欲望の対象を追い求めても、最果てには「ついに欲しい物がなくなってしまう」という欲望の砂漠化しか存在しない、と。彼女自身、「金なんて無価値だ」というつもりはまったくないそうで(金で買える幸せはある、と語っている。)、ただ、その幸せには限りがある、と。
彼女の下した結論は、現代人の究極の欲望、つまり私たちの欲望の最終的な対象は、「自分という幻想」だと。株を買い占めるIT社長も、己の領地を広げることで自己の存在意義を拡張したような幻想に浸っている、と、うさちゃんは語る。うさちゃんが根源的に欲しがっていたのは、「価値ある私」だったのだと。(結論に至ったプロセスはとりあえず省略する。)
ちょっと話は変わって、今度は、本日(12日)の朝刊・文化欄より。
見出しは「ああ、セレブ…」。年収一千万円以上、有名大卒、医師などの職業に就いている、などの制限をくぐり抜けた男性と出会える「お見合いパーティ」に関する記事。噂には聞いていたけど、「上流」を目指す女性たちは本当に多くいるのだなあ、と再確認した。
よくわからん(いや、まあ、ちょびっとはわかるけど)のは、「上流」を目指す彼女らの最終目標は一体何だろう、ということ。えーと、そういうハイソサエティな男性と結婚すると、綺麗な洋服が買えて、おいしい物が食べられて、旅行にも行けて…ってことになるのだと思うけど(ここまで列挙して、おお、いいなあ!と思ってしまったぞ笑)、そういう生活をゲットしてもなお消えない欲望の終着点は何だろう。それとも、ハイソな男性と結婚することそれ自体が終着点なのだろうか。
またまた話は変わる。昨日(水曜日)の「トリビアの泉」より。
どら猫にお魚をくわえさせる実験をしていた。空き地に放置された魚(野良猫にとっては高級魚!)は、まさに「まな板の上のマグロ」だ。軽量の鰺などはいとも簡単に持ち去られるも、キロ単位のカツオやマグロは猫にとって強敵だ。が、貪欲などら猫は、自分の体よりも大きいそれの尻尾をくわえ込み、巨体を振り回すかのごとく体勢を変え、悠然と去っていった。
私が朝日新聞の二つの記事を読んで覚えた「違和感」の出所がわかった。
猫ちゃんたちは、目の前の魚(欲望の対象)に夢中で、その欲望の終着点がどんなものかなんて、おそらく知ったこっちゃない。そして魚を獲た後も、かなり長い間幸福感に浸り続けるだろう。猫ちゃんの人生(猫生)において、高級魚をゲットできる回数なんてたかが知れているからだ。そう、問題は、「頻度」なんだ。
中村うさぎのように、欲望の終着点を考えてしまうほどの生活(つまり、消費の多い生活)を送っていると、欲望自体を考察することになってしまう。物欲というものは、大晦日に除夜の鐘を叩いてぶっ飛ばさなきゃいけない煩悩だから、できるだけ目を背けていた方が幸福なのだろう。ガチンコで戦っちゃいけない。
どうしてかはわからないけど、私は、たとえ下品と揶揄されても、生きていくために貪欲であり続けるどら猫が滅多に手に入らない魚にかぶりつく様は、なんだか美しいと思ってしまうんだ。
上品であることを追求すること、つまり上流であろうとすること、それらを包括したものが「セレブになりたい」という要求だと思うけど(余談だが、私の定義する「上流」は金を持っているとはまた違う意味合いだ。ま、その話はまた今度。)、私はたまーにしか得られない幸福に「ひゃっほう!」と喜んでいる瞬間が好き。
「ひゃっほう!」と喜べるということは、表裏一体で、ときに不幸な状態を持つということ。セレブを横目に指をくわえながら、なぜ自分はそれらが手に入らないのだろうと悲しむ瞬間があるということ。そうした不幸な状態をどうにか乗り越えられるだけの体力は必要だ。
ただ、神様が設定した「幸不幸のバランス」の黄金律があるなら、私は不幸(とは思ってないんだけどね、実際)を味わう代わりに、この世にはとても大きな幸せがあることを、かなり幼い頃に知ったような。そして、その黄金律を保っていくことがこれからもできるなら、私は現時点で味わっているとんでもない幸福が一生続いていくような気さえするし、それなら生きていくのも悪くないと思う。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●魚の三枚おろし。
初めて魚(鰺)をおろしてしまった。
立て塩にくぐらせ、包丁も濡らす。まずゼイゴ(尻尾に近いギザギザしたやつ)を取り除く。胸ビレを立てて頭をやや斜めに落とし、腹を裂いて内臓を取り出す。このときに血合いをこそぎ落としておかないと、臭みが残る。もう一度立て塩の中で洗い、水気をしっかりと拭く。三枚にするのは、それから。塩を振っておくのを忘れずに。
本日は、皮からはがした身を包丁で粘りが出るまで叩き、つみれを作ってみた。だしとごぼうと赤みその「つみれ汁」。
ただ、疲れていかんな、これは。(疲れないってのは、定番メニューになる上での重要なポイントだ。)
●おかあさんの肉じゃが。
定期的に通っている料理教室では、以前に「豚のショウガ焼き」も教わった。本日、肉じゃがを作ることにより判明したが、レシピが薄味傾向だ。
思うに、薄味でお上品な料理というのは、(好みもあるけど)あまり労働者向きではないな。私の場合、「ゴハンがすすむー!おかわりー!」というタイプの味付けが好きとわかったので、自宅で料理をするときはその方向でいこうと思う。
もしや、私が大食いになったのは、濃い味付けを好む母のせい?
「新・欲望論」の第三回。中村うさぎが持論を展開している。ブランド物やホストや美容整形にうつつを抜かした彼女が、最終的に得た教訓は、「金で満たせる欲望には、必ず限界が来る」というものだったそうで。
消費の快感とはすなわち「欲望を満たす快感」であるから、欲望の対象を獲得した途端にそれは欲望の対象ではなくなる。その虚しさから逃れるために、次から次へと新しい欲望の対象を追い求めても、最果てには「ついに欲しい物がなくなってしまう」という欲望の砂漠化しか存在しない、と。彼女自身、「金なんて無価値だ」というつもりはまったくないそうで(金で買える幸せはある、と語っている。)、ただ、その幸せには限りがある、と。
彼女の下した結論は、現代人の究極の欲望、つまり私たちの欲望の最終的な対象は、「自分という幻想」だと。株を買い占めるIT社長も、己の領地を広げることで自己の存在意義を拡張したような幻想に浸っている、と、うさちゃんは語る。うさちゃんが根源的に欲しがっていたのは、「価値ある私」だったのだと。(結論に至ったプロセスはとりあえず省略する。)
ちょっと話は変わって、今度は、本日(12日)の朝刊・文化欄より。
見出しは「ああ、セレブ…」。年収一千万円以上、有名大卒、医師などの職業に就いている、などの制限をくぐり抜けた男性と出会える「お見合いパーティ」に関する記事。噂には聞いていたけど、「上流」を目指す女性たちは本当に多くいるのだなあ、と再確認した。
よくわからん(いや、まあ、ちょびっとはわかるけど)のは、「上流」を目指す彼女らの最終目標は一体何だろう、ということ。えーと、そういうハイソサエティな男性と結婚すると、綺麗な洋服が買えて、おいしい物が食べられて、旅行にも行けて…ってことになるのだと思うけど(ここまで列挙して、おお、いいなあ!と思ってしまったぞ笑)、そういう生活をゲットしてもなお消えない欲望の終着点は何だろう。それとも、ハイソな男性と結婚することそれ自体が終着点なのだろうか。
またまた話は変わる。昨日(水曜日)の「トリビアの泉」より。
どら猫にお魚をくわえさせる実験をしていた。空き地に放置された魚(野良猫にとっては高級魚!)は、まさに「まな板の上のマグロ」だ。軽量の鰺などはいとも簡単に持ち去られるも、キロ単位のカツオやマグロは猫にとって強敵だ。が、貪欲などら猫は、自分の体よりも大きいそれの尻尾をくわえ込み、巨体を振り回すかのごとく体勢を変え、悠然と去っていった。
私が朝日新聞の二つの記事を読んで覚えた「違和感」の出所がわかった。
猫ちゃんたちは、目の前の魚(欲望の対象)に夢中で、その欲望の終着点がどんなものかなんて、おそらく知ったこっちゃない。そして魚を獲た後も、かなり長い間幸福感に浸り続けるだろう。猫ちゃんの人生(猫生)において、高級魚をゲットできる回数なんてたかが知れているからだ。そう、問題は、「頻度」なんだ。
中村うさぎのように、欲望の終着点を考えてしまうほどの生活(つまり、消費の多い生活)を送っていると、欲望自体を考察することになってしまう。物欲というものは、大晦日に除夜の鐘を叩いてぶっ飛ばさなきゃいけない煩悩だから、できるだけ目を背けていた方が幸福なのだろう。ガチンコで戦っちゃいけない。
どうしてかはわからないけど、私は、たとえ下品と揶揄されても、生きていくために貪欲であり続けるどら猫が滅多に手に入らない魚にかぶりつく様は、なんだか美しいと思ってしまうんだ。
上品であることを追求すること、つまり上流であろうとすること、それらを包括したものが「セレブになりたい」という要求だと思うけど(余談だが、私の定義する「上流」は金を持っているとはまた違う意味合いだ。ま、その話はまた今度。)、私はたまーにしか得られない幸福に「ひゃっほう!」と喜んでいる瞬間が好き。
「ひゃっほう!」と喜べるということは、表裏一体で、ときに不幸な状態を持つということ。セレブを横目に指をくわえながら、なぜ自分はそれらが手に入らないのだろうと悲しむ瞬間があるということ。そうした不幸な状態をどうにか乗り越えられるだけの体力は必要だ。
ただ、神様が設定した「幸不幸のバランス」の黄金律があるなら、私は不幸(とは思ってないんだけどね、実際)を味わう代わりに、この世にはとても大きな幸せがあることを、かなり幼い頃に知ったような。そして、その黄金律を保っていくことがこれからもできるなら、私は現時点で味わっているとんでもない幸福が一生続いていくような気さえするし、それなら生きていくのも悪くないと思う。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●魚の三枚おろし。
初めて魚(鰺)をおろしてしまった。
立て塩にくぐらせ、包丁も濡らす。まずゼイゴ(尻尾に近いギザギザしたやつ)を取り除く。胸ビレを立てて頭をやや斜めに落とし、腹を裂いて内臓を取り出す。このときに血合いをこそぎ落としておかないと、臭みが残る。もう一度立て塩の中で洗い、水気をしっかりと拭く。三枚にするのは、それから。塩を振っておくのを忘れずに。
本日は、皮からはがした身を包丁で粘りが出るまで叩き、つみれを作ってみた。だしとごぼうと赤みその「つみれ汁」。
ただ、疲れていかんな、これは。(疲れないってのは、定番メニューになる上での重要なポイントだ。)
●おかあさんの肉じゃが。
定期的に通っている料理教室では、以前に「豚のショウガ焼き」も教わった。本日、肉じゃがを作ることにより判明したが、レシピが薄味傾向だ。
思うに、薄味でお上品な料理というのは、(好みもあるけど)あまり労働者向きではないな。私の場合、「ゴハンがすすむー!おかわりー!」というタイプの味付けが好きとわかったので、自宅で料理をするときはその方向でいこうと思う。
もしや、私が大食いになったのは、濃い味付けを好む母のせい?
モア・ザン・アイラブユー
2006年1月11日敬愛するおねえさんのブログより。
「ものすごい考えて考えて、なんでだろーとかって不思議で不思議で仕方なくて考えたおしたあげくに、あっそうか!って腑に落ちることがあって、でもそれって、本にさらりと書いてあったり、ほかの人がだいぶ前に言っていたことだったりする。(…)
でも、本で読んでわかったこととか人から聞いてわかったことより、その「腑に落ちてつかんだもの」が、だんぜん強いんだよな。同じ言葉でも言う言葉が強いっつーか。」
なるほどなあ、と思う。
私が思うのは、「腑に落ちてつかんだもの」というのは、言葉にすればするほど、本当にありふれた陳腐なものになりがちだ、ということ。自分の中ではものすごく強いにも関わらず、だ。
本人にとっては苦労してようやくつかんだものでも、言葉にした途端、「どこかで聞いたこと」のような印象しか他人には持ってもらえない気がする。
たとえば、"愛は永遠ではないから、この一瞬を大切にしたい。そして、この一瞬がずっと連なって、やがては永遠になっていけばいいのに。"なんて文句はよくある。現に、このテーマを扱った歌は多い。古くは万葉の時代からあるし。
しかし、人が胸を苦しくする原因というものは、そこまで種類豊富ではないのだろう。喜・怒・哀・楽のたった四つで人間の感情を表すに(大まかには)事足りるように、歌にしたくなるような自分にとって「なんともいえない気持ち」も、決して特別な感情ではない。それは先人たちのなぞらえで、過去に限らず今を生きる多くの人が共有している。むしろある個人にONLYの感情だったら誰の共感も得られないから、そんな歌はヒットしないのだろう。
だからね。
「どこかで聞いたこと」であればあるほど、それは、自分以外の多くの人が何千年も持ち続けてきた感情なのかもしれない。私は上記の歌の文句を聞いても、かつてそれほどの感慨を抱かなかった。本当に「どこかで聞いたこと」でしかなかったから。
そして、仮に一度も上記の歌の文句を聞いたことがなかったとして、私は同じように歌を作りたいような気持ちになるだろうか。なる気がする。そのときに発生する何かは、決して他人の受け売りではない。「腑に落ちてようやくつかんだもの」だ。
人にわざわざ説明する必要も無いから、言葉にして陳腐になることを恐れる必要は無いはず。ただ、愛のことばというものが本来、赤の他人に聞かせて感動させるためではなく、ただ愛する本人にどうしても伝えたいがためにあるのだとすれば、私は自分の中の「なんともいえない気持ち」をそこらへんにある安っぽい愛のことばで表したくなくて、でもそうならざるを得なくて、自分の言語野にはもはや限界があると気付くのよね。
「あいしてる」という言葉を日本で初めて作った人も、まさかここまで擦り切れるほどに使い古されるとは思っていなかっただろう。私は、今、その人に生き返っていただいて、「あいしてる」という言葉以上にこの気持ちを表現できる愛のことばを、もう一度作ってほしいと思う。そして、その愛のことばを誰にも教えずに、私専用にして、私の好きな人だけにこっそり言いたいと思う。
Jねーさんへ。
勝手に引用してしまいました。しかもマーケとはまったく関係ない話でごめんなさい。最近うーんうーんと考えている内容とリンクしていたもので。。。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●後期試験、終了。
6歳で小学校に入学して以来、17年間も長きにわたって「試験」を受け続けてきたが、本日、人生最後(になるといいけど)の試験。
あとは卒業を待つばかり。
●本日の肉体美化メニュー。
朝:黒ゴマパンのサンドイッチ、アロエヨーグルト、コーヒー牛乳
昼:なすとミートのキッシュ、小松菜のおひたし、アイス豆乳バニララテ
夜:いなり寿司、豚肉のおろし大根和え、ネギとワカメの味噌汁、
ポテトサラダ、緑茶
今晩は久しぶりにオイルマッサージでもするか。
「ものすごい考えて考えて、なんでだろーとかって不思議で不思議で仕方なくて考えたおしたあげくに、あっそうか!って腑に落ちることがあって、でもそれって、本にさらりと書いてあったり、ほかの人がだいぶ前に言っていたことだったりする。(…)
でも、本で読んでわかったこととか人から聞いてわかったことより、その「腑に落ちてつかんだもの」が、だんぜん強いんだよな。同じ言葉でも言う言葉が強いっつーか。」
なるほどなあ、と思う。
私が思うのは、「腑に落ちてつかんだもの」というのは、言葉にすればするほど、本当にありふれた陳腐なものになりがちだ、ということ。自分の中ではものすごく強いにも関わらず、だ。
本人にとっては苦労してようやくつかんだものでも、言葉にした途端、「どこかで聞いたこと」のような印象しか他人には持ってもらえない気がする。
たとえば、"愛は永遠ではないから、この一瞬を大切にしたい。そして、この一瞬がずっと連なって、やがては永遠になっていけばいいのに。"なんて文句はよくある。現に、このテーマを扱った歌は多い。古くは万葉の時代からあるし。
しかし、人が胸を苦しくする原因というものは、そこまで種類豊富ではないのだろう。喜・怒・哀・楽のたった四つで人間の感情を表すに(大まかには)事足りるように、歌にしたくなるような自分にとって「なんともいえない気持ち」も、決して特別な感情ではない。それは先人たちのなぞらえで、過去に限らず今を生きる多くの人が共有している。むしろある個人にONLYの感情だったら誰の共感も得られないから、そんな歌はヒットしないのだろう。
だからね。
「どこかで聞いたこと」であればあるほど、それは、自分以外の多くの人が何千年も持ち続けてきた感情なのかもしれない。私は上記の歌の文句を聞いても、かつてそれほどの感慨を抱かなかった。本当に「どこかで聞いたこと」でしかなかったから。
そして、仮に一度も上記の歌の文句を聞いたことがなかったとして、私は同じように歌を作りたいような気持ちになるだろうか。なる気がする。そのときに発生する何かは、決して他人の受け売りではない。「腑に落ちてようやくつかんだもの」だ。
人にわざわざ説明する必要も無いから、言葉にして陳腐になることを恐れる必要は無いはず。ただ、愛のことばというものが本来、赤の他人に聞かせて感動させるためではなく、ただ愛する本人にどうしても伝えたいがためにあるのだとすれば、私は自分の中の「なんともいえない気持ち」をそこらへんにある安っぽい愛のことばで表したくなくて、でもそうならざるを得なくて、自分の言語野にはもはや限界があると気付くのよね。
「あいしてる」という言葉を日本で初めて作った人も、まさかここまで擦り切れるほどに使い古されるとは思っていなかっただろう。私は、今、その人に生き返っていただいて、「あいしてる」という言葉以上にこの気持ちを表現できる愛のことばを、もう一度作ってほしいと思う。そして、その愛のことばを誰にも教えずに、私専用にして、私の好きな人だけにこっそり言いたいと思う。
Jねーさんへ。
勝手に引用してしまいました。しかもマーケとはまったく関係ない話でごめんなさい。最近うーんうーんと考えている内容とリンクしていたもので。。。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●後期試験、終了。
6歳で小学校に入学して以来、17年間も長きにわたって「試験」を受け続けてきたが、本日、人生最後(になるといいけど)の試験。
あとは卒業を待つばかり。
●本日の肉体美化メニュー。
朝:黒ゴマパンのサンドイッチ、アロエヨーグルト、コーヒー牛乳
昼:なすとミートのキッシュ、小松菜のおひたし、アイス豆乳バニララテ
夜:いなり寿司、豚肉のおろし大根和え、ネギとワカメの味噌汁、
ポテトサラダ、緑茶
今晩は久しぶりにオイルマッサージでもするか。
マイ・インデペンデンス・デイ
2006年1月10日「独立」というものの意味について考えている。
私は原田宗典がとても好きで、中学・高校時代はアホみたいに読み漁った。彼の作品で、『黄色いドゥカと彼女の手』(角川書店)というものがある。冒頭に、主人公が「今思えば、ぼくはあの瞬間に大人になった気がする。」と語るシーンがあり、幼かった私は「ほほう。」と思ったのだ。
同じく彼のエッセイにて。著作が多いのでタイトルは忘れてしまったが、著者の父親が賭博で借金を抱え込み生活が苦しくなった頃、東京の大学に通う原田さんの元に、母親から「これからは満足に仕送りできないから、なんとか頑張ってください。」という旨の手紙が届いたという。それを見た瞬間、唐突に大人になる覚悟ができたというのだ。
原田さんの場合、東京で一人暮らしをしながら、学費も生活費もすべて自分で稼いでいたというのだからスゴイ。たしかにこれは「独立」以外の何物でもない。
親元を物理的に離れることが「独立」の定義の一つなら、私は実家で暮らしているので独立したとは言い難い。春までは学費を出してもらっている身分だし、食費も母の財布の中だ。独立していない。
では、一人暮らしをしている人(私の周りにもいる)は独立しているのだろうか。そうともいえない。
何が言いたいかというと、私は、のっぴきならない事情により、早急に「独立」を迫られているということ。そして、この場合の「独立」は、一人暮らしを始めることでも、食費のすべてを自分で賄うことでもない。むしろ逆で、今まで以上に家庭というコミュニティに対し、果たさなくてはいけない事柄が増えるのだ。大学を卒業する年とたまたまリンクしているけど、いずれはこういう日が来るだろうと私は常々考えながら育ったから、実はそこまで驚いていない。
両親の老いた様子を受け入れること。それが独立するということだ。
たとえば、私は三人家族なので、生まれたときは「一番:父、二番:母(仕事を持っていないので)、三番:私」という序列があり、大きくなって私が色々とできるようになっても、基本的なこの序列は変化することがなかったんだ。両親の老いた様を受け入れるということは、この序列をぶち壊して、「一番:父、母、私」という新しいものにするということ。家庭に起こる様々な問題を、手伝うのではなく、同じフィールドで一緒に考えていかねばならないということ。
弱い姿を見せる父と母に対して、最近までは「どうしちゃったのよ、しっかりしてよ。」と思っていたけど、それというのも彼らに頼りたい自分がいたからだ。本音を言えばもう少し頼っていたかった。が、とにもかくにも、それはできなくなっちゃったのだよ。
ときに「浮世離れしている」と言われるほどに社会のことを知らない私だけど、なんだかんだで人並みに勉強はしたし、今は体も丈夫だし、少々のことがあっても「なにくそ」と思える根性はあるし。両親に感謝すべきことがあるなら、どこでも眠れる図太さと、何でも食べられる許容性と、些細なことにワクワクできる感受性を持てるようになったので、そのような教育を施してくれてありがとう、と。もう役目は終わった(教育期間は終わった)から、あとは自分たちが少しでも快適に生きていく方法を二人で探してほしいと思う。
ま、今日を機に独立したからといって、何が変わるというわけでもないのだが。
そして、「こんな私が独立?」という気もやはりしなくはないけど、準備を万全に整えてから受験日を迎える受験生がいないように、どこかでラインを引かないとね。
-----------------------------------------------------------------
備忘。
●大学生活の締め括り。
最後の授業らしい授業は、教授の気まぐれにより休講。
●ヘレン・フィッシャーの『人はなぜ恋に落ちるのか 恋と愛情と性欲の脳科学』(ソニー・マガジンズ)
タイトルを見た瞬間に購入した本。ようやく半分まで読んだところ。
んもう、目次からして興味深い。「性欲と恋愛感情はべつのもの」「人はいつから恋の詩をつくるようになったのか」「人間は恋をするために進化した動物である」「そして、恋を語り合う言葉が生まれた」「それでも人は恋に落ちる」…などなど。キャーキャー言いながら読んでいる(心の中で)。
なんでも、人に「愛している」と言わせるものは、相思相愛になりたいという強烈な「衝動」であると。つまり、これは事実を宣言しているのではなく、確認を求めているのだと。恋する人間は、「ぼくも(わたしも)愛している」という相手の返事を期待しているのだと。(by哲学者ロバート・ソロモン)
わー、面白いぞー!早く読み終えよう。
私は原田宗典がとても好きで、中学・高校時代はアホみたいに読み漁った。彼の作品で、『黄色いドゥカと彼女の手』(角川書店)というものがある。冒頭に、主人公が「今思えば、ぼくはあの瞬間に大人になった気がする。」と語るシーンがあり、幼かった私は「ほほう。」と思ったのだ。
同じく彼のエッセイにて。著作が多いのでタイトルは忘れてしまったが、著者の父親が賭博で借金を抱え込み生活が苦しくなった頃、東京の大学に通う原田さんの元に、母親から「これからは満足に仕送りできないから、なんとか頑張ってください。」という旨の手紙が届いたという。それを見た瞬間、唐突に大人になる覚悟ができたというのだ。
原田さんの場合、東京で一人暮らしをしながら、学費も生活費もすべて自分で稼いでいたというのだからスゴイ。たしかにこれは「独立」以外の何物でもない。
親元を物理的に離れることが「独立」の定義の一つなら、私は実家で暮らしているので独立したとは言い難い。春までは学費を出してもらっている身分だし、食費も母の財布の中だ。独立していない。
では、一人暮らしをしている人(私の周りにもいる)は独立しているのだろうか。そうともいえない。
何が言いたいかというと、私は、のっぴきならない事情により、早急に「独立」を迫られているということ。そして、この場合の「独立」は、一人暮らしを始めることでも、食費のすべてを自分で賄うことでもない。むしろ逆で、今まで以上に家庭というコミュニティに対し、果たさなくてはいけない事柄が増えるのだ。大学を卒業する年とたまたまリンクしているけど、いずれはこういう日が来るだろうと私は常々考えながら育ったから、実はそこまで驚いていない。
両親の老いた様子を受け入れること。それが独立するということだ。
たとえば、私は三人家族なので、生まれたときは「一番:父、二番:母(仕事を持っていないので)、三番:私」という序列があり、大きくなって私が色々とできるようになっても、基本的なこの序列は変化することがなかったんだ。両親の老いた様を受け入れるということは、この序列をぶち壊して、「一番:父、母、私」という新しいものにするということ。家庭に起こる様々な問題を、手伝うのではなく、同じフィールドで一緒に考えていかねばならないということ。
弱い姿を見せる父と母に対して、最近までは「どうしちゃったのよ、しっかりしてよ。」と思っていたけど、それというのも彼らに頼りたい自分がいたからだ。本音を言えばもう少し頼っていたかった。が、とにもかくにも、それはできなくなっちゃったのだよ。
ときに「浮世離れしている」と言われるほどに社会のことを知らない私だけど、なんだかんだで人並みに勉強はしたし、今は体も丈夫だし、少々のことがあっても「なにくそ」と思える根性はあるし。両親に感謝すべきことがあるなら、どこでも眠れる図太さと、何でも食べられる許容性と、些細なことにワクワクできる感受性を持てるようになったので、そのような教育を施してくれてありがとう、と。もう役目は終わった(教育期間は終わった)から、あとは自分たちが少しでも快適に生きていく方法を二人で探してほしいと思う。
ま、今日を機に独立したからといって、何が変わるというわけでもないのだが。
そして、「こんな私が独立?」という気もやはりしなくはないけど、準備を万全に整えてから受験日を迎える受験生がいないように、どこかでラインを引かないとね。
-----------------------------------------------------------------
備忘。
●大学生活の締め括り。
最後の授業らしい授業は、教授の気まぐれにより休講。
●ヘレン・フィッシャーの『人はなぜ恋に落ちるのか 恋と愛情と性欲の脳科学』(ソニー・マガジンズ)
タイトルを見た瞬間に購入した本。ようやく半分まで読んだところ。
んもう、目次からして興味深い。「性欲と恋愛感情はべつのもの」「人はいつから恋の詩をつくるようになったのか」「人間は恋をするために進化した動物である」「そして、恋を語り合う言葉が生まれた」「それでも人は恋に落ちる」…などなど。キャーキャー言いながら読んでいる(心の中で)。
なんでも、人に「愛している」と言わせるものは、相思相愛になりたいという強烈な「衝動」であると。つまり、これは事実を宣言しているのではなく、確認を求めているのだと。恋する人間は、「ぼくも(わたしも)愛している」という相手の返事を期待しているのだと。(by哲学者ロバート・ソロモン)
わー、面白いぞー!早く読み終えよう。
湾岸ドライバー
2006年1月8日マイ・ラヴァーの運転で初詣に行くことに。
いそいそとおめかしをしながら自宅にて彼を待つ。「6歳も年上のカレシが車でお迎えに来る」っていうと、私の中では、セルシオやセンチュリーに乗っててガムとか噛んでてパンツにチェーン付いてる人が、「よぉ。乗れよ。」って現れるイメージだ。私って不良!すっかり浮かれながら、いつもより多めにグロスを塗る。
でも実際は、日産サニーに乗った人の良さそうなお兄さんが「やあ。おはよう!」とさわやかに現れたので、私は不良じゃないみたい。
私の地元にほど近い有名なお寺で参拝、というのが本日のメインイベント。オプションとして、以前から行こうと言っていた、これも私の地元に近いカレー屋でランチ。さらに美術館に寄ってドイツの現代アートを見ちゃおう、という盛りだくさんなプラン。オプションの方が豪華な気がするのも、普段の彼がカレーにこだわるが故だ。助手席に滑り込んで、ゴーゴーと出発。
到着したカレー屋は、私の通っていた高校のすぐ近く。三年間、店の看板を見続けていたのに、なぜか訪れなかった店。マイ・ラヴァーいわく「かなりハイ・レベルな味。その道(なんの道や)では伝説になっている。」とのこと。まったく知らなかった。自分が入店する日がまさか来ようとは。しかもこの人と訪れることになろうとは。店のウリらしいチキン・カレーを食す。
ヒマラヤ山脈原産の紫岩塩ベイチが入った黄色い水、という怪しげなものが50円で売られていたので、好奇心旺盛なマイ・ラヴァーが注文。ほんのり硫黄の匂いがする。食べ物をこよなく愛す彼が、思わず眉間に皺を寄せるような味。放っておくと残すと思われたので、私が三分の二以上を(無言で)飲み干す。これを世間では愛と呼ぶ。
カレーを堪能後、美術館へ。彼と絵を見るのは二回目。メイン(ドイツ現代画家の個展)以外に常設されている作品は、ルノワールやシャガールなど、有名なものが目立つ。女性を描いた作品の前にて。「人を描いているのに崩れている(デフォルメされている)でしょ?こういう”崩し”は、印象派以前では絶対無いから、タッチで大体の時期がわかるよ。」とのこと。
西欧の作品を見た後に日本画のコーナーへ。400年も昔の屏風絵と、戦後の新しい屏風絵が並べてあり、同じく鳥を描いているのに何かが違う。なぜだろう。またまたマイ・ラヴァーいわく、「日本画というものは、白を描くとき、白を塗るのではなく地の白を残すんだ。白を塗るという発想は西洋から入ってきたから、こっちの現代版ではその手法が取られているんだろう。」とのこと。なるほど、こういう解説をしてくれる人となら、難しい芸術鑑賞も悪くない。
車に乗り込み、いよいよお参りへ。
10円を放り込んで、祈願。「何、お願いしたの?」「内緒!」などと、ベタなバカップルトークを繰り広げたのちに、おみくじを引く。今年は絶対に良い年になる確信があるので、良い結果が出るに違いないと思ったら、案の定、「吉」。草木が春を迎えたように前途有望とのこと。恋愛はこれから上々になるとのことではしゃぎながらマイ・ラヴァーの方を確かめると、「焦ると良くない」と書いてあった。どうか焦らないでいただきたいものだ。
さてさて、これから彼の住む町に戻るわけだが(つまり都心を経由)、ただ戻るだけではつまらないよねということで、東京の夜景を満喫プラン決行。しかもせっかく車があるのだから、夜のレインボーブリッジを走っちゃおうという。
人が大人になったなあと思う瞬間はそれぞれあるだろうが、精神面以外でなら、私は「男性(父親以外)の運転する車に乗る」というのがある種の通過儀礼で、初めてその瞬間に立ち会ったときは、さりげなく興奮したものだ。助手席に乗ることをただ喜んでいたのが当時の私なら、ブレーキランプが照らす男性の横顔を見ながら思いを馳せるだけの余裕があるのが今の私。運転に人柄が表れるとはいうけれど、どれだけ隠そうとしても隠せないものが、ハンドルを握るその人の横顔にも表れる。そして、横顔が格好良い人の横顔は本人のものではなく、助手席に乗ることを許された彼女のものだ。
夜のハイウェイのお供は、クレイジー・ケン・バンド。ムーディなシチュエーションなのに「機内食は〜肉か魚か〜迷う事なく肉を選んだ〜♪」という歌詞のsongを流しちゃう(しかもそれに合わせて歌っちゃう)という、彼の「キザなのにモテ男になりきれない部分」を私は愛しいと思う。さらにレインボーブリッジを目指していたのに、複雑な首都高に翻弄され、いつのまにか大井インターへ。
「レインボーブリッジ、乗れません!」(織田裕二風に。)
ここで諦めないのが、粘着質な私たちである。意地でも乗ってやる!と道路地図を駆使する二人組を乗せて湾岸を彷徨う一台。その時点で優雅なドライブではなくなっているので、もはや何が目的なのかわからないが、どうにかこうにか努力が実り、虹色の橋からお台場の夜景を堪能。レインボーブリッジに乗るのがメインだったので、台場到着後、Uターンで島を後にする。彼がモテない理由が少しわかった。
帰宅後、本日走ったルートを検証。東京の地理にやたら詳しい彼の家で、地図(一人暮らしの家なのに、めちゃめちゃある)を広げて社会科のお勉強。お台場に関して。黒船を撃つために砲台が設置された台場が、六つもあったとは知らなかった。現在は二つ(第六と第三)しか残っていないらしい。池袋が苦手だと私が話したことを彼は覚えていて、その理由(と思われるもの)を教わる。池袋の東口は、戦犯が絞首刑に処せられた巣鴨プリズンや、伝染病患者を収容する被病院や、墓場など、負のイメージを持つ施設がうじゃうじゃあったそうだ。証拠たる文献もあったので読ませてもらう。彼がモテない理由が大分わかった(笑)。
そんなこんなで夜は更けて、二人して大寝坊したという。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●最近笑った台詞シリーズvol.3
「江戸時代の地図、あったかなあ?」
普通は無い。
●本日のBGM。
クレイジー・ケン・バンドの『Soul Punch』。
CKBをしっかり聴くのは、初めて。テイストは大分違うが、氣志團やサンボマスターなどに通じる何かがある。核に、「男の美学」をテーマとした流れがあるからか。個人的に、その流れは嫌いじゃない。
「魂拳」がお気に入り。祭り囃子にも似たリズムと、男を惑わせる女を歌った歌詞(Funkyなお尻をプリプリさせて♪)が心地よい。
オレンジレンジの「ZUNG ZUNG FUNKY MUSIC」も好きな私は、あることに気付いた。私は、男と女がつかず離れずのアバンチュールをテーマにしたような、セクシーで規則的なノリが好きだ。ズン、ズン、ズン、ちょっとお待ちよ、お嬢さん、みたいな。この手の歌は意外と多い。
いそいそとおめかしをしながら自宅にて彼を待つ。「6歳も年上のカレシが車でお迎えに来る」っていうと、私の中では、セルシオやセンチュリーに乗っててガムとか噛んでてパンツにチェーン付いてる人が、「よぉ。乗れよ。」って現れるイメージだ。私って不良!すっかり浮かれながら、いつもより多めにグロスを塗る。
でも実際は、日産サニーに乗った人の良さそうなお兄さんが「やあ。おはよう!」とさわやかに現れたので、私は不良じゃないみたい。
私の地元にほど近い有名なお寺で参拝、というのが本日のメインイベント。オプションとして、以前から行こうと言っていた、これも私の地元に近いカレー屋でランチ。さらに美術館に寄ってドイツの現代アートを見ちゃおう、という盛りだくさんなプラン。オプションの方が豪華な気がするのも、普段の彼がカレーにこだわるが故だ。助手席に滑り込んで、ゴーゴーと出発。
到着したカレー屋は、私の通っていた高校のすぐ近く。三年間、店の看板を見続けていたのに、なぜか訪れなかった店。マイ・ラヴァーいわく「かなりハイ・レベルな味。その道(なんの道や)では伝説になっている。」とのこと。まったく知らなかった。自分が入店する日がまさか来ようとは。しかもこの人と訪れることになろうとは。店のウリらしいチキン・カレーを食す。
ヒマラヤ山脈原産の紫岩塩ベイチが入った黄色い水、という怪しげなものが50円で売られていたので、好奇心旺盛なマイ・ラヴァーが注文。ほんのり硫黄の匂いがする。食べ物をこよなく愛す彼が、思わず眉間に皺を寄せるような味。放っておくと残すと思われたので、私が三分の二以上を(無言で)飲み干す。これを世間では愛と呼ぶ。
カレーを堪能後、美術館へ。彼と絵を見るのは二回目。メイン(ドイツ現代画家の個展)以外に常設されている作品は、ルノワールやシャガールなど、有名なものが目立つ。女性を描いた作品の前にて。「人を描いているのに崩れている(デフォルメされている)でしょ?こういう”崩し”は、印象派以前では絶対無いから、タッチで大体の時期がわかるよ。」とのこと。
西欧の作品を見た後に日本画のコーナーへ。400年も昔の屏風絵と、戦後の新しい屏風絵が並べてあり、同じく鳥を描いているのに何かが違う。なぜだろう。またまたマイ・ラヴァーいわく、「日本画というものは、白を描くとき、白を塗るのではなく地の白を残すんだ。白を塗るという発想は西洋から入ってきたから、こっちの現代版ではその手法が取られているんだろう。」とのこと。なるほど、こういう解説をしてくれる人となら、難しい芸術鑑賞も悪くない。
車に乗り込み、いよいよお参りへ。
10円を放り込んで、祈願。「何、お願いしたの?」「内緒!」などと、ベタなバカップルトークを繰り広げたのちに、おみくじを引く。今年は絶対に良い年になる確信があるので、良い結果が出るに違いないと思ったら、案の定、「吉」。草木が春を迎えたように前途有望とのこと。恋愛はこれから上々になるとのことではしゃぎながらマイ・ラヴァーの方を確かめると、「焦ると良くない」と書いてあった。どうか焦らないでいただきたいものだ。
さてさて、これから彼の住む町に戻るわけだが(つまり都心を経由)、ただ戻るだけではつまらないよねということで、東京の夜景を満喫プラン決行。しかもせっかく車があるのだから、夜のレインボーブリッジを走っちゃおうという。
人が大人になったなあと思う瞬間はそれぞれあるだろうが、精神面以外でなら、私は「男性(父親以外)の運転する車に乗る」というのがある種の通過儀礼で、初めてその瞬間に立ち会ったときは、さりげなく興奮したものだ。助手席に乗ることをただ喜んでいたのが当時の私なら、ブレーキランプが照らす男性の横顔を見ながら思いを馳せるだけの余裕があるのが今の私。運転に人柄が表れるとはいうけれど、どれだけ隠そうとしても隠せないものが、ハンドルを握るその人の横顔にも表れる。そして、横顔が格好良い人の横顔は本人のものではなく、助手席に乗ることを許された彼女のものだ。
夜のハイウェイのお供は、クレイジー・ケン・バンド。ムーディなシチュエーションなのに「機内食は〜肉か魚か〜迷う事なく肉を選んだ〜♪」という歌詞のsongを流しちゃう(しかもそれに合わせて歌っちゃう)という、彼の「キザなのにモテ男になりきれない部分」を私は愛しいと思う。さらにレインボーブリッジを目指していたのに、複雑な首都高に翻弄され、いつのまにか大井インターへ。
「レインボーブリッジ、乗れません!」(織田裕二風に。)
ここで諦めないのが、粘着質な私たちである。意地でも乗ってやる!と道路地図を駆使する二人組を乗せて湾岸を彷徨う一台。その時点で優雅なドライブではなくなっているので、もはや何が目的なのかわからないが、どうにかこうにか努力が実り、虹色の橋からお台場の夜景を堪能。レインボーブリッジに乗るのがメインだったので、台場到着後、Uターンで島を後にする。彼がモテない理由が少しわかった。
帰宅後、本日走ったルートを検証。東京の地理にやたら詳しい彼の家で、地図(一人暮らしの家なのに、めちゃめちゃある)を広げて社会科のお勉強。お台場に関して。黒船を撃つために砲台が設置された台場が、六つもあったとは知らなかった。現在は二つ(第六と第三)しか残っていないらしい。池袋が苦手だと私が話したことを彼は覚えていて、その理由(と思われるもの)を教わる。池袋の東口は、戦犯が絞首刑に処せられた巣鴨プリズンや、伝染病患者を収容する被病院や、墓場など、負のイメージを持つ施設がうじゃうじゃあったそうだ。証拠たる文献もあったので読ませてもらう。彼がモテない理由が大分わかった(笑)。
そんなこんなで夜は更けて、二人して大寝坊したという。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●最近笑った台詞シリーズvol.3
「江戸時代の地図、あったかなあ?」
普通は無い。
●本日のBGM。
クレイジー・ケン・バンドの『Soul Punch』。
CKBをしっかり聴くのは、初めて。テイストは大分違うが、氣志團やサンボマスターなどに通じる何かがある。核に、「男の美学」をテーマとした流れがあるからか。個人的に、その流れは嫌いじゃない。
「魂拳」がお気に入り。祭り囃子にも似たリズムと、男を惑わせる女を歌った歌詞(Funkyなお尻をプリプリさせて♪)が心地よい。
オレンジレンジの「ZUNG ZUNG FUNKY MUSIC」も好きな私は、あることに気付いた。私は、男と女がつかず離れずのアバンチュールをテーマにしたような、セクシーで規則的なノリが好きだ。ズン、ズン、ズン、ちょっとお待ちよ、お嬢さん、みたいな。この手の歌は意外と多い。
絶対のキミ
2006年1月6日先日の旅行(1月4日・5日)中、一緒だった友人とちょっとディープな話をした。
彼女は約一年ほど付き合っている彼がいるのだが、きちんと付き合うのはその人が初めてだという。たとえ男性経験の有無を問題としなくても、彼女はとても純粋で、その心があまりに綺麗で、私には眩し過ぎるのだ。
自分が経験豊富だというつもりは毛頭無いし、私が彼女より先輩だという意識も無いのだけど、なんだかんだで一個年上という感覚が私を「聞いてあげたい。」という気持ちにさせるのだろうか。私は、真摯な姿勢で悩み続ける彼女に対しては、いい加減な答えをしたくない。
話の内容が自分にとっても思い当たる場合、どうしても当時の自分を思い出しながら語ることになる。ただ、当時の自分をどれだけリアルに再現しようとしても、「当時を思い出している自分」はすでに当時と違う(価値観も、知識も、変化している。)のだから、やはり限界があるのだろう。そして、こういうとき、うっかりすると私は「上から見てる自分」になってしまうので、ものすごい集中力を要される。
閑話休題。
彼女の悩んでいることというのは、敢えて口にするとわりと一般的な話。今の彼のことが好きで、彼も彼女のことが好きで、それなりにうまくやっているからこそ一年も続いているのだけど、彼女はふと「この人しか知らなくていいのかな?」という気持ちになるという。
もし私が彼女に回答するなら、「その人しか知らないのは、たしかにあまり良くない。」と言うしかない。それが私の本心だ。もし、彼女が今の彼氏といつの日か別れても(そのとき、彼女が悲しみのどん底に突き落とされても)、彼以上にイイ男は必ずいるし、よくない男も必ずいる。
ひとつだけ言えるのは、「この人しか知らなくていいのかな?」と悩んでから選択し直した場合、どちらを選んでも後悔するであろうということ。
人生の中で出会う異性の数は限られている。一生で500人の異性に出会うとして、その中で実際に付き合う異性の数はそれより遙かに少なくなる。仮に80年生きる中で500人に出会ったとして、その中の3人と関係を持ったとする。しかしそれは80年生きた後に振り返ってみて、500の中から3を選んだといえるだけで、実際に選んだ時には500もの選択肢があったわけではない。
つまり実際に誰かと付き合おうかどうしようか悩む時に、莫大な選択肢の中から"選んで"いるわけでは決して無い。単純にその人が自分にとってアリかナシか、ただ二つの選択肢があるだけだ。つまり、こと異性関係に関しては、たくさんの異性を比較検討した上で"選ぶ"事ができないということ。一生のうちに3人と付き合う事が初めからわかっていれば、AかBかCかを頭こねくり回しながら考えることもできるだろうが、そうではないの。常に選択肢は一つずつやってきて、一度選択を終えてしまえば、その後選択し直す事はできない(できる時もあるが、かなり難しい)。
…というようなことを、私は随分昔に書いた。
自分のところにやってくる異性がたとえ何人いたとしても、その中に「もはやこの人しかいない!!」と誰もが認めるような世にもすんばらしい人は決していない。だから、「この人しか知らなくていいのかな?」という問いは、やはり愚問なのだろう。
相手の価値を最大限に認めて賞賛できるのは、恋する自分しかいない。「この人しか知らなくていいのかな?」と思うということは、"この人"の価値をほかの異性と比較している証拠で、つまり相対的に見ているということ。
相対的に見たら答えは出てしまう(たしかに、ほかにイイ男はいる)ので、いつまでも絶対的に彼を見続ける努力をすべきだろうと、23歳(つまり現時点)の私は思う。という話をうねうねと彼女にしようと思ったのだけど、この話はどれだけ切り口を変えても「上から見てる自分」になっちゃうと思われたので、黙っておいた。
どうしても別れざるをえないような状況にならない限り、悩まずに彼を愛し続けてほしい、と私は思う。なぜなら、「人を愛する才能」がもしあるとすれば、綺麗な心を持つ彼女にこそふさわしいような気がするからだ。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●本日の肉体美化メニュー。
朝:たまご蒸しパン、ブラックコーヒー(コロンビア)
昼:シーフードとほうれん草のキッシュ、アイス豆乳ラテ
夜:野菜たっぷりクリームシチュー、納豆ゴハン、自家製キムチ、麦茶
栄養価は低くないが、組み合わせの相性がイマイチだな。
●最近笑った台詞シリーズvol.2
これは結構前のものだが、思い出し笑いを記念して↓
「俺は、マッチョじゃないから。」
彼女は約一年ほど付き合っている彼がいるのだが、きちんと付き合うのはその人が初めてだという。たとえ男性経験の有無を問題としなくても、彼女はとても純粋で、その心があまりに綺麗で、私には眩し過ぎるのだ。
自分が経験豊富だというつもりは毛頭無いし、私が彼女より先輩だという意識も無いのだけど、なんだかんだで一個年上という感覚が私を「聞いてあげたい。」という気持ちにさせるのだろうか。私は、真摯な姿勢で悩み続ける彼女に対しては、いい加減な答えをしたくない。
話の内容が自分にとっても思い当たる場合、どうしても当時の自分を思い出しながら語ることになる。ただ、当時の自分をどれだけリアルに再現しようとしても、「当時を思い出している自分」はすでに当時と違う(価値観も、知識も、変化している。)のだから、やはり限界があるのだろう。そして、こういうとき、うっかりすると私は「上から見てる自分」になってしまうので、ものすごい集中力を要される。
閑話休題。
彼女の悩んでいることというのは、敢えて口にするとわりと一般的な話。今の彼のことが好きで、彼も彼女のことが好きで、それなりにうまくやっているからこそ一年も続いているのだけど、彼女はふと「この人しか知らなくていいのかな?」という気持ちになるという。
もし私が彼女に回答するなら、「その人しか知らないのは、たしかにあまり良くない。」と言うしかない。それが私の本心だ。もし、彼女が今の彼氏といつの日か別れても(そのとき、彼女が悲しみのどん底に突き落とされても)、彼以上にイイ男は必ずいるし、よくない男も必ずいる。
ひとつだけ言えるのは、「この人しか知らなくていいのかな?」と悩んでから選択し直した場合、どちらを選んでも後悔するであろうということ。
人生の中で出会う異性の数は限られている。一生で500人の異性に出会うとして、その中で実際に付き合う異性の数はそれより遙かに少なくなる。仮に80年生きる中で500人に出会ったとして、その中の3人と関係を持ったとする。しかしそれは80年生きた後に振り返ってみて、500の中から3を選んだといえるだけで、実際に選んだ時には500もの選択肢があったわけではない。
つまり実際に誰かと付き合おうかどうしようか悩む時に、莫大な選択肢の中から"選んで"いるわけでは決して無い。単純にその人が自分にとってアリかナシか、ただ二つの選択肢があるだけだ。つまり、こと異性関係に関しては、たくさんの異性を比較検討した上で"選ぶ"事ができないということ。一生のうちに3人と付き合う事が初めからわかっていれば、AかBかCかを頭こねくり回しながら考えることもできるだろうが、そうではないの。常に選択肢は一つずつやってきて、一度選択を終えてしまえば、その後選択し直す事はできない(できる時もあるが、かなり難しい)。
…というようなことを、私は随分昔に書いた。
自分のところにやってくる異性がたとえ何人いたとしても、その中に「もはやこの人しかいない!!」と誰もが認めるような世にもすんばらしい人は決していない。だから、「この人しか知らなくていいのかな?」という問いは、やはり愚問なのだろう。
相手の価値を最大限に認めて賞賛できるのは、恋する自分しかいない。「この人しか知らなくていいのかな?」と思うということは、"この人"の価値をほかの異性と比較している証拠で、つまり相対的に見ているということ。
相対的に見たら答えは出てしまう(たしかに、ほかにイイ男はいる)ので、いつまでも絶対的に彼を見続ける努力をすべきだろうと、23歳(つまり現時点)の私は思う。という話をうねうねと彼女にしようと思ったのだけど、この話はどれだけ切り口を変えても「上から見てる自分」になっちゃうと思われたので、黙っておいた。
どうしても別れざるをえないような状況にならない限り、悩まずに彼を愛し続けてほしい、と私は思う。なぜなら、「人を愛する才能」がもしあるとすれば、綺麗な心を持つ彼女にこそふさわしいような気がするからだ。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●本日の肉体美化メニュー。
朝:たまご蒸しパン、ブラックコーヒー(コロンビア)
昼:シーフードとほうれん草のキッシュ、アイス豆乳ラテ
夜:野菜たっぷりクリームシチュー、納豆ゴハン、自家製キムチ、麦茶
栄養価は低くないが、組み合わせの相性がイマイチだな。
●最近笑った台詞シリーズvol.2
これは結構前のものだが、思い出し笑いを記念して↓
「俺は、マッチョじゃないから。」
秩父の六人
2006年1月4日一泊二日の温泉(あれはたぶん水道水)旅行。
大学一年の春、数奇な運命に導かれるがごとく集った(って書くとあまりに大袈裟すぎる。。)六人がいて、「あすなろ会」よろしくしょっちゅう顔を合わせていたのに、遠出をしたのは今回が初めて。なぜなら、全員がグダグダ過ぎて、いつも計画が一向に進まないから。まさに記念すべき、プチ卒業旅行。
●構成メンバー。
TK … 男、王子系、特技はクロちゃん(by安田大サーカス)のモノマネ。
A香 … 女、新しいモノ好き、恵比寿に住むことが目標。
H之 … 男、水戸出身、美脚。
Aっぺ… 女、小振り、プロテイン愛飲。
K子 … 女、少年の心を持つ、滑舌が良くない。
りん … 女、才色兼備。
●電車でGo!
池袋から西武池袋線で飯能へ。その後、ローカル線に乗り換え、埼玉は秩父へ直行。真冬になぜわざわざ寒いところへ向かうのか、本人たちもよくわからないまま出発。
車内は退屈なので、「学園ドラマごっこ(詳細設定を決めて、すべてアドリブで)」をしたり、いきなり20枚近く写真を撮ったりと、ほかの乗客に迷惑なことばかりしてしまう。ローカル線はさらに乗客が少なかったので、各自の「異性に求めるもの」を挙げまくり、おまえら何様だ的トークで盛り上がる。ちなみに、この「異性に求めるもの」は、それぞれのカラーが色濃く出ていてわりと面白い。
女1いわく 「おもしろい、明るい、背が高い」
女2いわく 「生命力、教養(含雑学)、エロさ」
女3いわく 「ゴツさ、よく喋る、よく食べる」
紙に書き出したら、もっと面白かったかも。
ローカル線の終点で降りて、地域密着型の定食屋で昼食をとる。店のおばちゃんがナイスキャラ。デジカメを渡したら「おばちゃん、機械は苦手だよ。」と言うので、散々時間をかけたにもかかわらず、ピースをする私たちより上部の空間が大きい、という素敵な写真が完成した。
●チェックイン→体育の授業。
寒さに凍える。民宿に到着後、運動着に着替え、併設された体育館(半日で三千円)へ。今回の旅行の目標は、"みんなでスポーツを楽しむこと"。
体育館に近づくほどになぜか異臭が漂い始め、「まさかこの体育館から!?」と訝り、扉を開けてみたらモワ〜ン…と。全員がドン引き。が、入ってみたら、異臭の正体は近所の家畜小屋と判明したので、ホッ。が、凍結中のトイレ(使用不可)の周辺は要注意ゾーン。
体育の時間という"設定"なので、お互いを名字で呼ぶことに決定。TK先生の号令で、準備運動。バドミントン部出身のH之指導のもと、持参したラケットを用いてダブルス。運動部を先月引退したばかりの二名(Aっぺ、K子)の活躍は無し。かなりレベルの低いゲームを15点先取制で延々繰り広げ、ほぼ全員が右手を痛める。
バドミントンに飽きた後、何をするかでミーティング。「ハンカチ落とし」は人数が少なすぎるという理由で却下。「だるまさんが転んだ」も却下。「色鬼」が脚光を浴びたものの、体育館に色が少な過ぎるという理由につき却下。結局、「氷鬼」を採用。
ン年振りに全力疾走。いい汗をかくと同時に動悸息切れを起こす、平均年齢22.5歳の面々。大人になってからやる鬼ごっこは、当時以上に頭脳戦だと思われる。鬼が一人の場合は闇雲に逃げ回っても十分通用するが、鬼が二人の場合、逃げる側は誰か一人をおとりにして残りの三名が散り、おとりを仕留められた後に分散する鬼二人を二名がマークし、固められたおとりをもう一名が救出するという手はずにしないと、とてもじゃないが回らない。
暗くなるまで遊ぶ。
●旅行の醍醐味。
夕飯はイノシシ鍋。初めて食す野生のイノシシはプリプリしていて、不思議な噛み応え。茶飯と白米を、おひつがからっぽになるまで食べる。酢の物の黄身酢添えや、数の子や、茶碗蒸しなどとても美味しく、値段のわりに味もボリュームも大満足。
夕食後、このまま寝てしまうのではないかというグダグダさを振り払いながら、入浴準備。お風呂に向かう番になって、性別が違うことを驚きながら再認識。
女だらけのメイク落としタイムは、やや楽し。どんどん顔が「ツルン」になっていくにも関わらず、むしろ得意げなK子。バルタン星人並の腹筋を持つAっぺは、鏡の前でボディビルダー・ポーズ。その美しい肉体に驚嘆するA香が、一番女らしい反応(すっぴんを恥ずかしがる)をしていた。が、本日のMVPは、民宿のおばちゃん。一般客(といっても、私たちだけ)の脱衣所に颯爽と現れたのだが、ムッチムチのボインボインだったの!!おばちゃん、少しは隠して!
●節操の無い宴(歳のため、オールできず)。
入浴後は、ビールと酎ハイで乾杯。お菓子をハイ・ペースで完食。ディープな話になるようなならないような、そのわりにお互いがお互いの話をあまり真剣に聞いていないという、好き放題さがウリの私たち。
一生分やったのではないかと思われるほどクロちゃんの真似をしたり、タケノコニョッキゲームをしたり、思い出したように写真を撮ったり、「ベスト・オブ・ヒップ」を決めたり、22歳にして初めて彼氏ができたK子をエロ班二名でからかいつつ過ごす。このK子は、以前、TKを「○○ちゃん(彼氏の名前)」と呼んでしまうという、小学生が先生を「おかあさん」と呼んじゃう系の恥ずかしいミスをしたのだが、本日、この私がH之に対して同じミスを犯してしまう。
寝る間際までクロちゃんになりながら、ぽつぽつと落ち始める。早朝四時、最後の一名(Aっぺ)が陥落。
750万円で秩父に家を買えるという情報を聞き、沸き立つ一同。口座を開いて毎月少しずつ積み立てて、六人専用の別荘を買おうかという話に。数年後(みんなに子どもが生まれる頃)に実現できたら本当に楽しいよね、と。
最近、こうして大切な人々と大切な時間を過ごせることが尊く感じられて、たまらない気持ちになる。卒業が近いせいで、ノスタルジックになっているのだろうか。秩父の寒さは身に染みたけど、私は、寒さとは違う何かが芯まで染みるような気がして、大学に入って良かったなあ、と思ったよ。
来春以降別々の道を歩み始めるみんなに、幸あれ。
大学一年の春、数奇な運命に導かれるがごとく集った(って書くとあまりに大袈裟すぎる。。)六人がいて、「あすなろ会」よろしくしょっちゅう顔を合わせていたのに、遠出をしたのは今回が初めて。なぜなら、全員がグダグダ過ぎて、いつも計画が一向に進まないから。まさに記念すべき、プチ卒業旅行。
●構成メンバー。
TK … 男、王子系、特技はクロちゃん(by安田大サーカス)のモノマネ。
A香 … 女、新しいモノ好き、恵比寿に住むことが目標。
H之 … 男、水戸出身、美脚。
Aっぺ… 女、小振り、プロテイン愛飲。
K子 … 女、少年の心を持つ、滑舌が良くない。
りん … 女、才色兼備。
●電車でGo!
池袋から西武池袋線で飯能へ。その後、ローカル線に乗り換え、埼玉は秩父へ直行。真冬になぜわざわざ寒いところへ向かうのか、本人たちもよくわからないまま出発。
車内は退屈なので、「学園ドラマごっこ(詳細設定を決めて、すべてアドリブで)」をしたり、いきなり20枚近く写真を撮ったりと、ほかの乗客に迷惑なことばかりしてしまう。ローカル線はさらに乗客が少なかったので、各自の「異性に求めるもの」を挙げまくり、おまえら何様だ的トークで盛り上がる。ちなみに、この「異性に求めるもの」は、それぞれのカラーが色濃く出ていてわりと面白い。
女1いわく 「おもしろい、明るい、背が高い」
女2いわく 「生命力、教養(含雑学)、エロさ」
女3いわく 「ゴツさ、よく喋る、よく食べる」
紙に書き出したら、もっと面白かったかも。
ローカル線の終点で降りて、地域密着型の定食屋で昼食をとる。店のおばちゃんがナイスキャラ。デジカメを渡したら「おばちゃん、機械は苦手だよ。」と言うので、散々時間をかけたにもかかわらず、ピースをする私たちより上部の空間が大きい、という素敵な写真が完成した。
●チェックイン→体育の授業。
寒さに凍える。民宿に到着後、運動着に着替え、併設された体育館(半日で三千円)へ。今回の旅行の目標は、"みんなでスポーツを楽しむこと"。
体育館に近づくほどになぜか異臭が漂い始め、「まさかこの体育館から!?」と訝り、扉を開けてみたらモワ〜ン…と。全員がドン引き。が、入ってみたら、異臭の正体は近所の家畜小屋と判明したので、ホッ。が、凍結中のトイレ(使用不可)の周辺は要注意ゾーン。
体育の時間という"設定"なので、お互いを名字で呼ぶことに決定。TK先生の号令で、準備運動。バドミントン部出身のH之指導のもと、持参したラケットを用いてダブルス。運動部を先月引退したばかりの二名(Aっぺ、K子)の活躍は無し。かなりレベルの低いゲームを15点先取制で延々繰り広げ、ほぼ全員が右手を痛める。
バドミントンに飽きた後、何をするかでミーティング。「ハンカチ落とし」は人数が少なすぎるという理由で却下。「だるまさんが転んだ」も却下。「色鬼」が脚光を浴びたものの、体育館に色が少な過ぎるという理由につき却下。結局、「氷鬼」を採用。
ン年振りに全力疾走。いい汗をかくと同時に動悸息切れを起こす、平均年齢22.5歳の面々。大人になってからやる鬼ごっこは、当時以上に頭脳戦だと思われる。鬼が一人の場合は闇雲に逃げ回っても十分通用するが、鬼が二人の場合、逃げる側は誰か一人をおとりにして残りの三名が散り、おとりを仕留められた後に分散する鬼二人を二名がマークし、固められたおとりをもう一名が救出するという手はずにしないと、とてもじゃないが回らない。
暗くなるまで遊ぶ。
●旅行の醍醐味。
夕飯はイノシシ鍋。初めて食す野生のイノシシはプリプリしていて、不思議な噛み応え。茶飯と白米を、おひつがからっぽになるまで食べる。酢の物の黄身酢添えや、数の子や、茶碗蒸しなどとても美味しく、値段のわりに味もボリュームも大満足。
夕食後、このまま寝てしまうのではないかというグダグダさを振り払いながら、入浴準備。お風呂に向かう番になって、性別が違うことを驚きながら再認識。
女だらけのメイク落としタイムは、やや楽し。どんどん顔が「ツルン」になっていくにも関わらず、むしろ得意げなK子。バルタン星人並の腹筋を持つAっぺは、鏡の前でボディビルダー・ポーズ。その美しい肉体に驚嘆するA香が、一番女らしい反応(すっぴんを恥ずかしがる)をしていた。が、本日のMVPは、民宿のおばちゃん。一般客(といっても、私たちだけ)の脱衣所に颯爽と現れたのだが、ムッチムチのボインボインだったの!!おばちゃん、少しは隠して!
●節操の無い宴(歳のため、オールできず)。
入浴後は、ビールと酎ハイで乾杯。お菓子をハイ・ペースで完食。ディープな話になるようなならないような、そのわりにお互いがお互いの話をあまり真剣に聞いていないという、好き放題さがウリの私たち。
一生分やったのではないかと思われるほどクロちゃんの真似をしたり、タケノコニョッキゲームをしたり、思い出したように写真を撮ったり、「ベスト・オブ・ヒップ」を決めたり、22歳にして初めて彼氏ができたK子をエロ班二名でからかいつつ過ごす。このK子は、以前、TKを「○○ちゃん(彼氏の名前)」と呼んでしまうという、小学生が先生を「おかあさん」と呼んじゃう系の恥ずかしいミスをしたのだが、本日、この私がH之に対して同じミスを犯してしまう。
寝る間際までクロちゃんになりながら、ぽつぽつと落ち始める。早朝四時、最後の一名(Aっぺ)が陥落。
750万円で秩父に家を買えるという情報を聞き、沸き立つ一同。口座を開いて毎月少しずつ積み立てて、六人専用の別荘を買おうかという話に。数年後(みんなに子どもが生まれる頃)に実現できたら本当に楽しいよね、と。
最近、こうして大切な人々と大切な時間を過ごせることが尊く感じられて、たまらない気持ちになる。卒業が近いせいで、ノスタルジックになっているのだろうか。秩父の寒さは身に染みたけど、私は、寒さとは違う何かが芯まで染みるような気がして、大学に入って良かったなあ、と思ったよ。
来春以降別々の道を歩み始めるみんなに、幸あれ。
東京の中心で、控えめに愛をさけぶ
2006年1月3日年明け初外出。東北出身の友人とランチ@飯田橋。
私が"廃人"と化していた頃(失恋した頃)、彼女には本当にお世話になった。あの後どうなったのか報告していなかったので、年明けの挨拶を兼ねて邂逅。しばらく会っていなかった人にすべてを事細かに説明するのは、結構骨が折れる。「こういう反応をするだろうなー。」と予想した通りの反応をしてくれたので、予想した通りに対応。
「老けた!」と言われたのは、正直ビックリ。自分ではもう少し落ち着きたいくらいなので、ってことは今までどれだけ落ち着いてなかったんや、と、軽くブルーになったけど、落ち着いてなくても怒られるし(彼女にはよく「激しい」と罵られたものだ。)、落ち着いても怒られるし、私はどんな状態でも怒られるのだろうか。
なんにせよ、彼女はこんな私のことを心配してくれていたらしい。ありがたいことだ。
今日話してて思ったのは、彼女は随分と「攻め」の姿勢で生きているなあ、ということ。もともと、高校卒業後たった一人で東京に出てきてがんばっているくらいだから当然なのだけど、「私はこれが好き!」「私はこうしたい!」という部分がハッキリしていて、断定表現をよく使うな、と。潔く、小気味よい。
彼女に対して抱いた感情は、自分でも驚くべきことに、「若いな。」というものだった。(ちなみに彼女は同い年だ。)そんなことを思う自分がナマイキだということもよくわかっている。そして、彼女を「若いな。」と思っている自分も同じように若いので、何か言われる度に「嬢ちゃん、待ちねえ。」と江戸っ子調で否定したくなるのだ。
私が若い証拠というのは、たぶん、こういうところだと思う。「私だって結構わかってきてるんだけど。」という内なるモヤモヤが確立され始めているので、そんなこともわかっていない子どもだとは思われたくないわけ。だから、その「ちょっとわかってきてる自分」を証明したくて、反論してしまう。本当の大人なら、そっかそっか、と、どんなことも笑顔で受け流せるのだろうか。だって相手が気持ちよく話しているのだから、こちらも気持ちよく聞いてあげたいではないか。
虚飾性、というのかな。私は、まだ、自分をよく見せたい。(やれやれ。)
それでも、本日、良かったこともありまして。
「今度の彼氏はどんな人?」と問われて、「とってもいい人だよ。」というたったそれだけの言葉で、彼女に安心してもらえたことだ。そういえば、夏に、私は今の光景(気の置けない友達とお茶を飲みながら、「素敵な人よ。」という短い言葉で恋人を語る)を夢で見たなあと、稲妻に打たれたように思い出した。ピシャーン!
ああこういうことだったのか、と、なんだか泣きそうな気持ちになった。
多くを語らなくても伝わることがあって、そういう瞬間がもっともっと増えることを、私は、当時も今も夢に見るほどに望んでいるのだと思う。
-----------------------------------------------------------------
備忘。
●一泊研修withあすなろ会員。
「あすなろ会」のような仲間が大学にいる。明日、彼・彼女らとともに、北関東に旅立ちます。民宿の体育館でバドミントン(こんな真冬に笑)をやって、イノシシ鍋を食べて、酒を飲んで、歌ったり踊ったりしよう。
雪が積もっていないことを祈る。。。
●『きみに読む物語』(監督:ニック・カサヴェテス 2005年)
DVDを借りておうちで。一人、すすり泣く。
脚本がどうのとか、カメラワークがどうのとか、俳優がどうのとか、いわゆる「完成度」に関しては、あたしゃ長屋の熊さん八っつぁん並の知識しか持ち合わせてないけど、こういうベタベタな映画が好きだ。やっぱね、永遠の愛ですよ。最後に愛は勝つんです。ビバ、エターナル・ラーーーーヴ!!(←テレビの前で大騒ぎ。)
ヒロイン・アリーが母親に諭されるシーンが印象的。「人生の先輩として言ってるの。」と、母親は自分が正しいと信じて進んだ道を、娘にも歩ませようとする。私が思ったのは、たとえその道が後から見て正しかったのだとしても、娘が自分で気づかない限り、正しさには何の価値も無いのだということ。
つまり、人生の先輩として後輩に何かできることがあるとすれば、(自分の思う)正しい道と正しくない道の両方を提示してあげることだけではないか。それもせつないな、とは思う。あきらかに失敗するとわかっている場合、止めたくなるのが人情だ。今後、自分より若輩にどのような態度をとればいいのだろうか、と私は悩む。
もうひとつ。
今回の映画はまさに「おとぎ話」と呼ぶのがふさわしいけど、私はお約束通りの演出に反発を覚えるタイプだ。クリスマスを題材にした映画など特に、「ここで雪が降ったらロマンティックだよなあ。」というシーンで図ったように雪が降ると、わりと興ざめだ。
もし私が映画を作るなら、セックスシーンでカメラを徐々に引いていくのではなく、コンドームを丸めるのに手こずる男と「あー!トイレ行きたかったんだよー!」と裸のまま走り出す女を、最後まで映したい。(私はリアリストなのだろうか?)
そんな下世話な話はともかく、面白い映画でした。365通も毎日したためた愛の手紙をもっとイイ感じに生かせなかったのか、という気はしたが。
それにしても、主人公・ノアも、まさか自分の残した「愛の証拠」が後々利用できるなどとは予想していなかっただろう。私もあまり証拠を残さないようにしよう…恥ずかし過ぎる…と、真剣に考えたりしたが、この日記って、結構「愛の証拠」チックだよな。
私が"廃人"と化していた頃(失恋した頃)、彼女には本当にお世話になった。あの後どうなったのか報告していなかったので、年明けの挨拶を兼ねて邂逅。しばらく会っていなかった人にすべてを事細かに説明するのは、結構骨が折れる。「こういう反応をするだろうなー。」と予想した通りの反応をしてくれたので、予想した通りに対応。
「老けた!」と言われたのは、正直ビックリ。自分ではもう少し落ち着きたいくらいなので、ってことは今までどれだけ落ち着いてなかったんや、と、軽くブルーになったけど、落ち着いてなくても怒られるし(彼女にはよく「激しい」と罵られたものだ。)、落ち着いても怒られるし、私はどんな状態でも怒られるのだろうか。
なんにせよ、彼女はこんな私のことを心配してくれていたらしい。ありがたいことだ。
今日話してて思ったのは、彼女は随分と「攻め」の姿勢で生きているなあ、ということ。もともと、高校卒業後たった一人で東京に出てきてがんばっているくらいだから当然なのだけど、「私はこれが好き!」「私はこうしたい!」という部分がハッキリしていて、断定表現をよく使うな、と。潔く、小気味よい。
彼女に対して抱いた感情は、自分でも驚くべきことに、「若いな。」というものだった。(ちなみに彼女は同い年だ。)そんなことを思う自分がナマイキだということもよくわかっている。そして、彼女を「若いな。」と思っている自分も同じように若いので、何か言われる度に「嬢ちゃん、待ちねえ。」と江戸っ子調で否定したくなるのだ。
私が若い証拠というのは、たぶん、こういうところだと思う。「私だって結構わかってきてるんだけど。」という内なるモヤモヤが確立され始めているので、そんなこともわかっていない子どもだとは思われたくないわけ。だから、その「ちょっとわかってきてる自分」を証明したくて、反論してしまう。本当の大人なら、そっかそっか、と、どんなことも笑顔で受け流せるのだろうか。だって相手が気持ちよく話しているのだから、こちらも気持ちよく聞いてあげたいではないか。
虚飾性、というのかな。私は、まだ、自分をよく見せたい。(やれやれ。)
それでも、本日、良かったこともありまして。
「今度の彼氏はどんな人?」と問われて、「とってもいい人だよ。」というたったそれだけの言葉で、彼女に安心してもらえたことだ。そういえば、夏に、私は今の光景(気の置けない友達とお茶を飲みながら、「素敵な人よ。」という短い言葉で恋人を語る)を夢で見たなあと、稲妻に打たれたように思い出した。ピシャーン!
ああこういうことだったのか、と、なんだか泣きそうな気持ちになった。
多くを語らなくても伝わることがあって、そういう瞬間がもっともっと増えることを、私は、当時も今も夢に見るほどに望んでいるのだと思う。
-----------------------------------------------------------------
備忘。
●一泊研修withあすなろ会員。
「あすなろ会」のような仲間が大学にいる。明日、彼・彼女らとともに、北関東に旅立ちます。民宿の体育館でバドミントン(こんな真冬に笑)をやって、イノシシ鍋を食べて、酒を飲んで、歌ったり踊ったりしよう。
雪が積もっていないことを祈る。。。
●『きみに読む物語』(監督:ニック・カサヴェテス 2005年)
DVDを借りておうちで。一人、すすり泣く。
脚本がどうのとか、カメラワークがどうのとか、俳優がどうのとか、いわゆる「完成度」に関しては、あたしゃ長屋の熊さん八っつぁん並の知識しか持ち合わせてないけど、こういうベタベタな映画が好きだ。やっぱね、永遠の愛ですよ。最後に愛は勝つんです。ビバ、エターナル・ラーーーーヴ!!(←テレビの前で大騒ぎ。)
ヒロイン・アリーが母親に諭されるシーンが印象的。「人生の先輩として言ってるの。」と、母親は自分が正しいと信じて進んだ道を、娘にも歩ませようとする。私が思ったのは、たとえその道が後から見て正しかったのだとしても、娘が自分で気づかない限り、正しさには何の価値も無いのだということ。
つまり、人生の先輩として後輩に何かできることがあるとすれば、(自分の思う)正しい道と正しくない道の両方を提示してあげることだけではないか。それもせつないな、とは思う。あきらかに失敗するとわかっている場合、止めたくなるのが人情だ。今後、自分より若輩にどのような態度をとればいいのだろうか、と私は悩む。
もうひとつ。
今回の映画はまさに「おとぎ話」と呼ぶのがふさわしいけど、私はお約束通りの演出に反発を覚えるタイプだ。クリスマスを題材にした映画など特に、「ここで雪が降ったらロマンティックだよなあ。」というシーンで図ったように雪が降ると、わりと興ざめだ。
もし私が映画を作るなら、セックスシーンでカメラを徐々に引いていくのではなく、コンドームを丸めるのに手こずる男と「あー!トイレ行きたかったんだよー!」と裸のまま走り出す女を、最後まで映したい。(私はリアリストなのだろうか?)
そんな下世話な話はともかく、面白い映画でした。365通も毎日したためた愛の手紙をもっとイイ感じに生かせなかったのか、という気はしたが。
それにしても、主人公・ノアも、まさか自分の残した「愛の証拠」が後々利用できるなどとは予想していなかっただろう。私もあまり証拠を残さないようにしよう…恥ずかし過ぎる…と、真剣に考えたりしたが、この日記って、結構「愛の証拠」チックだよな。
新春ブックフェア開催中
2006年1月2日コメント (2)本ばかり読んでいる。
川上史津子の『えろきゅん』(講談社)読了。
「エロティックで甘くて苦い三十一文字と恋物語!」と帯には書いてあるが。構成としては、官能小説そこのけのショートストーリー(恥ずかしい!)の最後に歌がくっついている、というもの。この川上史津子という歌人は、処女歌集『恋する肉体』が、Amazon.co.jpの歌集部門で一位を記録し、自称「日本一のエロ短歌女優」とのこと。直球勝負で性を詠い、支持を得ているそうな。
ほぉん。こんな人をチェックしていなかったとは、抜かったな。
私が好きそうだという理由でマイ・ラヴァーが貸してくれたのだが、いやはや。たしかに、私は「そういう人」だし(彼氏にそう思われているというのも、なんちゅうか、かんちゅうか。)、短歌を愛してもいるが、彼の予想は残念ながら外れてしまった。自分でも驚いている。
というのも、私は、「エロ」に対して同世代女子の日本平均より柔軟な態度をとっているつもりだが、決してラディカルではない。と、いうことが今回わかった。わかりやすく言うと、エッチな話はできるし好きだけど、「あ、あ、だめ、それは言わないで!」というラインもあるということだ。
「男子たるもの、エロであれ!」なんて一見ラディカルなことを書いている(2005年10月4日)のだが、私はたぶん、「エロ」に対しては保守的だ。(柔軟性を持っていることと保守的だということは、相反しない。)「嘘つけ!」と言われるかもしれないし、だからこそマイ・ラヴァーが薦めてくれたのだろうけど、とにもかくにも、そうなのだ。
正月早々、難しいハナシになっちゃうけど、なるべく簡単に書こう。
「二元論」とは、世界を「心」と「もの」の二つの要素でできていると考えることだ。私たちは、自分たちのことを分析するときに「心」と「身体」に分けることで、より理解が深まったり、「心」が「身体」に追従していると実感したりする。
この考え方をあえて用いてみよう。私は、自分の恋のハナシをするとき、図らずもエロティックになってしまうことがある。しかし、それは、いつも"図らずも"なんだ。私は、自分の恋愛にまつわる事件を、「エロい部分」と「ピュアな部分」に分けていない。二元論を用いていない、ということだ。
「心」と「身体」の境界線をどこに引くかなんて、一生わかるわけがない。両者を切り離すことは理解のとっかかりを掴むときに有効だけど、絶対、分けきることなどできない。同じように、真剣に恋をする私は、"図らずも"エロいことをしなきゃいけないし(わー!)、考えなくてはいけない。「エロい部分」と「ピュアな部分」を分けるなんて、そもそもナンセンスだ。
やれやれ、つまり何が言いたかったかというと、この川上史津子という人への私の印象は、「エロとピュアを切り離して考えているのでは?」というものだ。抑圧されがちなエロを解放することは、建前ばかり言う人が本音を明かしてくれたような気がして、感動をもたらす。でも、それは、恋と真剣に向き合う人が、"図らずも"エロティックになってしまったときに限る、と私は思っている。
相手を好きだ、手に入れたい、だから抱きたい、抱いてほしい、と思う瞬間があることを、私は知っている。そういう感情を、世間ではもしかして「エロ」と呼ぶのかもしれないけど、それ自体とがめられることではないと思っている。が、「エロ」とはこういうことかな、と逆から考えて向かう姿勢には「うーん…。」と思う。
セックスには人生の真理チックなことが潜んでいるような気がたしかに致しますので(なぜか敬語)、セックスを扱ったものが芸術になりやすいのもわかる。でも「セックスを芸術にしてやろう。」というのは、なーんか違うし、順序が逆よ、と思ってしまうな。
要は、恥ずかしかったってことだ。(←私って、意外に可愛くない?)
------------------------------------------------------------------
正月はずっとコタツムリ。ぬくぬく。
今晩は、一年に一回こっきりのすき焼きだ。祖父母を交えて賑やかにやろう。
川上史津子の『えろきゅん』(講談社)読了。
「エロティックで甘くて苦い三十一文字と恋物語!」と帯には書いてあるが。構成としては、官能小説そこのけのショートストーリー(恥ずかしい!)の最後に歌がくっついている、というもの。この川上史津子という歌人は、処女歌集『恋する肉体』が、Amazon.co.jpの歌集部門で一位を記録し、自称「日本一のエロ短歌女優」とのこと。直球勝負で性を詠い、支持を得ているそうな。
ほぉん。こんな人をチェックしていなかったとは、抜かったな。
私が好きそうだという理由でマイ・ラヴァーが貸してくれたのだが、いやはや。たしかに、私は「そういう人」だし(彼氏にそう思われているというのも、なんちゅうか、かんちゅうか。)、短歌を愛してもいるが、彼の予想は残念ながら外れてしまった。自分でも驚いている。
というのも、私は、「エロ」に対して同世代女子の日本平均より柔軟な態度をとっているつもりだが、決してラディカルではない。と、いうことが今回わかった。わかりやすく言うと、エッチな話はできるし好きだけど、「あ、あ、だめ、それは言わないで!」というラインもあるということだ。
「男子たるもの、エロであれ!」なんて一見ラディカルなことを書いている(2005年10月4日)のだが、私はたぶん、「エロ」に対しては保守的だ。(柔軟性を持っていることと保守的だということは、相反しない。)「嘘つけ!」と言われるかもしれないし、だからこそマイ・ラヴァーが薦めてくれたのだろうけど、とにもかくにも、そうなのだ。
正月早々、難しいハナシになっちゃうけど、なるべく簡単に書こう。
「二元論」とは、世界を「心」と「もの」の二つの要素でできていると考えることだ。私たちは、自分たちのことを分析するときに「心」と「身体」に分けることで、より理解が深まったり、「心」が「身体」に追従していると実感したりする。
この考え方をあえて用いてみよう。私は、自分の恋のハナシをするとき、図らずもエロティックになってしまうことがある。しかし、それは、いつも"図らずも"なんだ。私は、自分の恋愛にまつわる事件を、「エロい部分」と「ピュアな部分」に分けていない。二元論を用いていない、ということだ。
「心」と「身体」の境界線をどこに引くかなんて、一生わかるわけがない。両者を切り離すことは理解のとっかかりを掴むときに有効だけど、絶対、分けきることなどできない。同じように、真剣に恋をする私は、"図らずも"エロいことをしなきゃいけないし(わー!)、考えなくてはいけない。「エロい部分」と「ピュアな部分」を分けるなんて、そもそもナンセンスだ。
やれやれ、つまり何が言いたかったかというと、この川上史津子という人への私の印象は、「エロとピュアを切り離して考えているのでは?」というものだ。抑圧されがちなエロを解放することは、建前ばかり言う人が本音を明かしてくれたような気がして、感動をもたらす。でも、それは、恋と真剣に向き合う人が、"図らずも"エロティックになってしまったときに限る、と私は思っている。
相手を好きだ、手に入れたい、だから抱きたい、抱いてほしい、と思う瞬間があることを、私は知っている。そういう感情を、世間ではもしかして「エロ」と呼ぶのかもしれないけど、それ自体とがめられることではないと思っている。が、「エロ」とはこういうことかな、と逆から考えて向かう姿勢には「うーん…。」と思う。
セックスには人生の真理チックなことが潜んでいるような気がたしかに致しますので(なぜか敬語)、セックスを扱ったものが芸術になりやすいのもわかる。でも「セックスを芸術にしてやろう。」というのは、なーんか違うし、順序が逆よ、と思ってしまうな。
要は、恥ずかしかったってことだ。(←私って、意外に可愛くない?)
------------------------------------------------------------------
正月はずっとコタツムリ。ぬくぬく。
今晩は、一年に一回こっきりのすき焼きだ。祖父母を交えて賑やかにやろう。
A peaceful new year!
2006年1月1日謹賀新年。
新春ということで、今年、何度も見返すべき内容の日記を書こう。2006年最初の読書メモを兼ねつつ、さあ今年どうすべきかいな、と。それにしても、正月は、読書がはかどる。
コタツでうだうだしながら、内田樹&春日武彦の『健全な肉体に狂気は宿る-生きづらさの正体』(角川書店)読了。
ウチダセンセに関しては、著作を一冊読んだだけ(今回は共著だが、なんにしても二冊目だ。)ではあるが、んもう、本当に背筋がゾクゾクするようなことばかりおっしゃって、素直でない私は「あ、あ、あ、それ、私が先に言おうと思ってたのに!!」と、むしろ悔しくなることの方が多い。という位に、私が日々煮詰めていること(私の心の中が見えてるの?ってほどに)を、スーッと言葉にしてくださる。
●取り越し苦労はもうやめよう。
「最悪のことを考えて、あらかじめいろいろな策をきちんと講じておくと、そういうふうに最悪の場面に備えて対策を講じていた自分の努力に「報いてあげたい」と思うようになるんです。せっかく最悪の事態に備えたのに、最悪の事態が到来しないんじゃ、取り越し苦労した甲斐がない。だから、取り越し苦労する人は、その最悪の事態の到来を願うようになるんです。」
なるほど、と思う。ウチダセンセは、「宿命」についても、著書『知に働けば蔵が建つ』やご自身の12月のブログで面白いことをお書きになっており、「宿命」を感じることのできる人間というのは、事前に詳細な想像力を働かせている、と。
つまり、「こんな人と付き合いたいなあ。」という願望を、細部まで詳細に想像している人は、それこそ「自宅のトイレに『若草物語』を置いているような人と付き合いたい。」というところまで考えており、そういう人は、ある日たまたま訪れた男性(ちょっといいなと思ってた)の家で本当に『若草物語』を発見し、「宿命」を感じることができる、と。彼の家に『若草物語』があること自体は、まったくの偶然だ。そう、私たちの人生の出来事は偶然に過ぎないのだが、100通りの想像をめぐらせている人は、たまたま起こった出来事でも1/100として事前に一度考えているので、「宿命」と思えるのだと。
この「宿命論」と、「取り越し苦労をするな。」という論を両方とも論じるウチダセンセは、一見矛盾している。
「一寸先は闇」ということに関して、私も先日(12月17日)書いた。つまり、取り越し苦労とは、一寸先は闇という事実に対し、もしかしたら一寸先はバラ色という可能性を一切無視することだ。そうではなく、未来の不確定性に対しネガティブでもポジティブでもないスタンスを保ちつつ、それでも想像だけはしておけ、と。そうすれば、いざ良いことが起こったときに「生きてて良かった。」と思えるのだろう。
●ことばの力。
「うっかり「愛してる」と言ってしまった人は「あ、『愛してる』って言っちゃった…困ったなあ。言った以上は愛してるふりでもしないとまずいよなあ」というふうに考える。なんとか言ったことばと行動のつじつまを合わせようとする。(…)「愛してる」とはどういうことかなんて、誰にもわかりっこない。わからないからこそ、「愛してる」とまず言ってみて、それから「愛している」っていうのは、こういうことかな、ああいうことかなといろいろ考えながら「後づけ」してゆくものでしょう。」
10月19日の日記で書いた通り、私も「あいしてる」と言うべきだと思う。(なんてことをここに書くと、まるで自分の性癖を晒しているようで居心地が悪いな…。)そして、「あいしてる」と言ってくれる人が好きだ。(ということをここに書くのも…以下略。)
えーと、つまり、私も「ことばの呪力」というものについてウンウン考えているときがあり、それをウチダセンセ&春日センセがスッキリ言語化してくれたおかげで、なんちゅうか、とっても腑に落ちる気がしたわけで。「言霊」などと言うとオカルトめいているけど、人は発言したことに関しては責任をとろうとする傾向があるので、現実はことばに追従しがちなのだ。
「良くない」とわかっているのに口に出してはいけない、ということだね。
●端っこにいれば、いつでも逃げ出せる。
「マジョリティに対する自分の立ち位置がどこか、という問題ですよね。ほとんど人は生存戦略上「マジョリティと行動をともにする」という選択をするわけですね。その方が生き延びる確率が高いから。(…)ただね、群れが遭遇するリスクは「一頭のライオンに襲われる」という場合だけじゃないでしょ。群れ全体が、ライオンに追われながら崖っぷちに向かって走っているとか、ハイエナの大群めざしているということもあるわけで。そういうときは群れから外れて逃げる方がむしろ生き延びる確率が高いということだってある。この見きわめが難しい。」
そうなのだ。マジョリティの中にいれば絶対に安心だと思っている人は、どのへんに立ち位置をとるかなんてことは、そもそも考えていない。私の人生は、今まで、とりあえずマジョリティの中にいれば(むしろどっぷり浸かっていたような)大きな失敗をせずに済んだ。
しかし、これからもそううまくいくとは限らないだろう。「マジョリティの端っこに立つ」ということが具体的にはどのようなことなのか、そこらへんが私にはまだわからないけど、念頭に置いておかなければなあ、と思う。
●その他。
一年の計は元旦にあり。本からではなく、自分で考えたことをいくつか。
・「リスペクト」について。
私は、ウチダセンセのような知識人を尊敬しているけど、彼の著書を盲信すること自体どうなんだろう。そして、同じように、マイ・ラヴァーや年上の友人たちの言うことにただ従うのではだめだな、きっと。今年はそこらへんを考えていきたい。
・社会人として一人前になる。
さて、どうなることやら。とりあえず、上司や同僚のQuestionに対し、ちゃんとAnswerできるようにしたい。年末、諸々の幹事を務めるうちに私は気づいた。「○月○日までにこれこれについて教えてください。」と言っているにもかかわらず、期限を守らないのは論外だ。そして、「○○について」と言っているにもかかわらず、ちっとも具体的じゃない返答(今、色々と進めてます〜、とかな。)をするのもアカン。
こんなもんか。
皆様、今年もよろしくお願いいたします。
今晩は大阪から届いたてっぽうで、てっちり。顔がフグのようになるまで食べて食べて食べまくろう。
新春ということで、今年、何度も見返すべき内容の日記を書こう。2006年最初の読書メモを兼ねつつ、さあ今年どうすべきかいな、と。それにしても、正月は、読書がはかどる。
コタツでうだうだしながら、内田樹&春日武彦の『健全な肉体に狂気は宿る-生きづらさの正体』(角川書店)読了。
ウチダセンセに関しては、著作を一冊読んだだけ(今回は共著だが、なんにしても二冊目だ。)ではあるが、んもう、本当に背筋がゾクゾクするようなことばかりおっしゃって、素直でない私は「あ、あ、あ、それ、私が先に言おうと思ってたのに!!」と、むしろ悔しくなることの方が多い。という位に、私が日々煮詰めていること(私の心の中が見えてるの?ってほどに)を、スーッと言葉にしてくださる。
●取り越し苦労はもうやめよう。
「最悪のことを考えて、あらかじめいろいろな策をきちんと講じておくと、そういうふうに最悪の場面に備えて対策を講じていた自分の努力に「報いてあげたい」と思うようになるんです。せっかく最悪の事態に備えたのに、最悪の事態が到来しないんじゃ、取り越し苦労した甲斐がない。だから、取り越し苦労する人は、その最悪の事態の到来を願うようになるんです。」
なるほど、と思う。ウチダセンセは、「宿命」についても、著書『知に働けば蔵が建つ』やご自身の12月のブログで面白いことをお書きになっており、「宿命」を感じることのできる人間というのは、事前に詳細な想像力を働かせている、と。
つまり、「こんな人と付き合いたいなあ。」という願望を、細部まで詳細に想像している人は、それこそ「自宅のトイレに『若草物語』を置いているような人と付き合いたい。」というところまで考えており、そういう人は、ある日たまたま訪れた男性(ちょっといいなと思ってた)の家で本当に『若草物語』を発見し、「宿命」を感じることができる、と。彼の家に『若草物語』があること自体は、まったくの偶然だ。そう、私たちの人生の出来事は偶然に過ぎないのだが、100通りの想像をめぐらせている人は、たまたま起こった出来事でも1/100として事前に一度考えているので、「宿命」と思えるのだと。
この「宿命論」と、「取り越し苦労をするな。」という論を両方とも論じるウチダセンセは、一見矛盾している。
「一寸先は闇」ということに関して、私も先日(12月17日)書いた。つまり、取り越し苦労とは、一寸先は闇という事実に対し、もしかしたら一寸先はバラ色という可能性を一切無視することだ。そうではなく、未来の不確定性に対しネガティブでもポジティブでもないスタンスを保ちつつ、それでも想像だけはしておけ、と。そうすれば、いざ良いことが起こったときに「生きてて良かった。」と思えるのだろう。
●ことばの力。
「うっかり「愛してる」と言ってしまった人は「あ、『愛してる』って言っちゃった…困ったなあ。言った以上は愛してるふりでもしないとまずいよなあ」というふうに考える。なんとか言ったことばと行動のつじつまを合わせようとする。(…)「愛してる」とはどういうことかなんて、誰にもわかりっこない。わからないからこそ、「愛してる」とまず言ってみて、それから「愛している」っていうのは、こういうことかな、ああいうことかなといろいろ考えながら「後づけ」してゆくものでしょう。」
10月19日の日記で書いた通り、私も「あいしてる」と言うべきだと思う。(なんてことをここに書くと、まるで自分の性癖を晒しているようで居心地が悪いな…。)そして、「あいしてる」と言ってくれる人が好きだ。(ということをここに書くのも…以下略。)
えーと、つまり、私も「ことばの呪力」というものについてウンウン考えているときがあり、それをウチダセンセ&春日センセがスッキリ言語化してくれたおかげで、なんちゅうか、とっても腑に落ちる気がしたわけで。「言霊」などと言うとオカルトめいているけど、人は発言したことに関しては責任をとろうとする傾向があるので、現実はことばに追従しがちなのだ。
「良くない」とわかっているのに口に出してはいけない、ということだね。
●端っこにいれば、いつでも逃げ出せる。
「マジョリティに対する自分の立ち位置がどこか、という問題ですよね。ほとんど人は生存戦略上「マジョリティと行動をともにする」という選択をするわけですね。その方が生き延びる確率が高いから。(…)ただね、群れが遭遇するリスクは「一頭のライオンに襲われる」という場合だけじゃないでしょ。群れ全体が、ライオンに追われながら崖っぷちに向かって走っているとか、ハイエナの大群めざしているということもあるわけで。そういうときは群れから外れて逃げる方がむしろ生き延びる確率が高いということだってある。この見きわめが難しい。」
そうなのだ。マジョリティの中にいれば絶対に安心だと思っている人は、どのへんに立ち位置をとるかなんてことは、そもそも考えていない。私の人生は、今まで、とりあえずマジョリティの中にいれば(むしろどっぷり浸かっていたような)大きな失敗をせずに済んだ。
しかし、これからもそううまくいくとは限らないだろう。「マジョリティの端っこに立つ」ということが具体的にはどのようなことなのか、そこらへんが私にはまだわからないけど、念頭に置いておかなければなあ、と思う。
●その他。
一年の計は元旦にあり。本からではなく、自分で考えたことをいくつか。
・「リスペクト」について。
私は、ウチダセンセのような知識人を尊敬しているけど、彼の著書を盲信すること自体どうなんだろう。そして、同じように、マイ・ラヴァーや年上の友人たちの言うことにただ従うのではだめだな、きっと。今年はそこらへんを考えていきたい。
・社会人として一人前になる。
さて、どうなることやら。とりあえず、上司や同僚のQuestionに対し、ちゃんとAnswerできるようにしたい。年末、諸々の幹事を務めるうちに私は気づいた。「○月○日までにこれこれについて教えてください。」と言っているにもかかわらず、期限を守らないのは論外だ。そして、「○○について」と言っているにもかかわらず、ちっとも具体的じゃない返答(今、色々と進めてます〜、とかな。)をするのもアカン。
こんなもんか。
皆様、今年もよろしくお願いいたします。
今晩は大阪から届いたてっぽうで、てっちり。顔がフグのようになるまで食べて食べて食べまくろう。
〆
2005年12月31日レコード大賞を見ながら、年越しそばをいただく。
我が家の年越しそばは、いたってシンプル。かつお節でダシをとって、鳥肉を入れて、長ネギを入れて、醤油で味付けたそばつゆ。天ぷら(エビ、イカ、掻き揚げ、インゲン豆、ニンジン、イモ、三つ葉)を「もういいよ、そんなに揚げなくていいよ、食べきれないよ!!」ってほど大量に揚げて、一気に食べる。紅白が始まる頃には食べ終わっているのが、理想。今年もイイ感じだ。
私はデスクトップ派だが、最近、裏ルートを使って手に入れたノートPCを駆使し、コタツでこの日記を書いている。我が家は三人家族なので、対面では母が寝転び、側面では父がみかんを食べ、電熱器の下では猫が丸くなっている。ちょうど、今、紅白が始まったところだ。なぜ橋幸夫が出ないのだろう。ソレはソレとして、なんて平和な、これぞ日本の大晦日である。
我が家は、年末年始に旅行をしたり、いそいそと初詣に参ったり、テレビの収録現場に出かけたり、初日の出を見に行ったりなど、アクティブな一切とはまったく無縁な人たちなので、私の記憶する限りではもう24年間、こんな感じで新年を迎え続けている。私だけが高校に入る頃から勝手な行動をしており、特にここ数年は、そばを食べた瞬間から出かけていた。そして、カウントダウンの瞬間は寒空の下にいた。
思えば、あと何回、このような「なんでもない年末年始」を迎えられるのかわからない。小学生の頃はまるで永遠にこんな日々が続いていくような気がしていたけど、父は白髪のほうが多くなり、母は更年期を迎え、猫はそろそろ寿命だ。来年、誰か一人が欠けない保証は無いし、たとえ欠けなくても私が家を一度でも出た後は、もう同じような空気は無いだろう。この家に一番美味しかった時期があるとすれば、もう賞味期限は切れようとしている。
ただ、発酵したものが酒になったりチーズになったりするように、我が家の賞味期限が切れたとしても、それが新たな味を生む可能性だってまだあるはずだ。10年後、私(明らかにキーパーソンは私だろう。)がはたしてどこにいるのか、何をしているのか、両親が生きているのか、すべては予測不能だけど、今より熟成したシアワセを感じながら、相変わらずNHK紅白を見ていられればいいなあ、とは思う。
私の知る限りの人たちは、どうやら穏やかな年末年始を迎える様子なので、喜ばしいことだ。たとえば、今この瞬間に働いている人たちもいるだろうし、必ずしも家でゆっくりするのが正しい大晦日とは思わない。問題は、一年を振り返る瞬間が少しでもあり、敬虔な気持ちになれる余裕があるかどうかだ。そして、家族とそれに準じる人々に感謝をできる状況にあるかないか。
そういう意味では、恵まれた大晦日である。
皆様、良いお年を。
我が家の年越しそばは、いたってシンプル。かつお節でダシをとって、鳥肉を入れて、長ネギを入れて、醤油で味付けたそばつゆ。天ぷら(エビ、イカ、掻き揚げ、インゲン豆、ニンジン、イモ、三つ葉)を「もういいよ、そんなに揚げなくていいよ、食べきれないよ!!」ってほど大量に揚げて、一気に食べる。紅白が始まる頃には食べ終わっているのが、理想。今年もイイ感じだ。
私はデスクトップ派だが、最近、裏ルートを使って手に入れたノートPCを駆使し、コタツでこの日記を書いている。我が家は三人家族なので、対面では母が寝転び、側面では父がみかんを食べ、電熱器の下では猫が丸くなっている。ちょうど、今、紅白が始まったところだ。なぜ橋幸夫が出ないのだろう。ソレはソレとして、なんて平和な、これぞ日本の大晦日である。
我が家は、年末年始に旅行をしたり、いそいそと初詣に参ったり、テレビの収録現場に出かけたり、初日の出を見に行ったりなど、アクティブな一切とはまったく無縁な人たちなので、私の記憶する限りではもう24年間、こんな感じで新年を迎え続けている。私だけが高校に入る頃から勝手な行動をしており、特にここ数年は、そばを食べた瞬間から出かけていた。そして、カウントダウンの瞬間は寒空の下にいた。
思えば、あと何回、このような「なんでもない年末年始」を迎えられるのかわからない。小学生の頃はまるで永遠にこんな日々が続いていくような気がしていたけど、父は白髪のほうが多くなり、母は更年期を迎え、猫はそろそろ寿命だ。来年、誰か一人が欠けない保証は無いし、たとえ欠けなくても私が家を一度でも出た後は、もう同じような空気は無いだろう。この家に一番美味しかった時期があるとすれば、もう賞味期限は切れようとしている。
ただ、発酵したものが酒になったりチーズになったりするように、我が家の賞味期限が切れたとしても、それが新たな味を生む可能性だってまだあるはずだ。10年後、私(明らかにキーパーソンは私だろう。)がはたしてどこにいるのか、何をしているのか、両親が生きているのか、すべては予測不能だけど、今より熟成したシアワセを感じながら、相変わらずNHK紅白を見ていられればいいなあ、とは思う。
私の知る限りの人たちは、どうやら穏やかな年末年始を迎える様子なので、喜ばしいことだ。たとえば、今この瞬間に働いている人たちもいるだろうし、必ずしも家でゆっくりするのが正しい大晦日とは思わない。問題は、一年を振り返る瞬間が少しでもあり、敬虔な気持ちになれる余裕があるかどうかだ。そして、家族とそれに準じる人々に感謝をできる状況にあるかないか。
そういう意味では、恵まれた大晦日である。
皆様、良いお年を。
師走の備忘
2005年12月30日仕事納め(アルバイトだけんど)。そして、今年最後の忘年会@秋葉原。
●本日のお食事。
「火鍋」と呼ばれるもの。八角の風味が効いていて、まろやかなのにパンチがある味。美味。ペーパーチキンを初めて食す。瓶ビールで乾杯→さくらんぼのお酒をロックで。女飲みは良いのう。
●電気街にてカルチャーショック。
今年何かと話題になる前から、秋葉原についての予備知識はあったし、訪れるのが初めてというわけでもないのに。いやいやいやいや、スゴイ街だ。むしろ、ここ数年で、「そういう人たち」の密集度は格段にアップしたはずだ。スゴイなー。おねえさん、困っちゃう。
笑ったこと。友人たちとの待ち合わせ中。ちょうど「電気街口」で、背格好もそっくりでなんと8人全員メガネをかけている集団がいて、「うわー、よくまあこんなに似た人を集めたものだなー。」と思って横に立っていたら、彼らは互いをハンドルネーム(たぶん)で呼び合っており、「おお、オフ会か。」と私はふむふむと聞いていたんだね。
それに対する友人Cのコメント。
「ブログの人たちだ!」
いや、ブログは会うのが目的じゃないから(笑)。ってか、なぜ私を見る。
●ハンドルネームとセンス。
例の8人のうちの1人は、お菓子の名前で呼ばれていた。自分が大したHNを持っているとも思えないが、それにしても、男なのにちと可愛すぎやしないか?
と、これに端を発して、ハンドルネームというものについて思いを巡らす。便宜上、ネットで何かを始める際はHNが必要だ(まあ本名でもいい人はいいのだろうが)。良いハンドルネームとは、インパクトがあるものに限る。検索にかけたらそれ以外に引っかからないものだ(これを逆手にとる場合もある)。そして、なるべくなら、男か女かの見分けがつきやすいものがよかろう。
ただ、やはり、万が一にも、リアルで呼ばれる可能性を意識してつけた方がいいとは思う。なぜなら、呼ばれる本人が良くても、呼ぶ側の問題がある。
●最近笑った台詞シリーズvol.1
「俺、「食べない」って、あんま得意じゃないんだよね。」
●洗顔料購入。
イプサにて、「クレンジングクリアフォームEX」を。
正直、洗顔料に¥2,625もかけるなんて、私の人生始まって以来である。併用しているメタボライザー(化粧水)とセットで使うことにより、洗顔後の吸い込みが何倍も良くなるそうだ。騙されている気がしなくもないが、大人しく騙されてみるつもり。
●本日のお食事。
「火鍋」と呼ばれるもの。八角の風味が効いていて、まろやかなのにパンチがある味。美味。ペーパーチキンを初めて食す。瓶ビールで乾杯→さくらんぼのお酒をロックで。女飲みは良いのう。
●電気街にてカルチャーショック。
今年何かと話題になる前から、秋葉原についての予備知識はあったし、訪れるのが初めてというわけでもないのに。いやいやいやいや、スゴイ街だ。むしろ、ここ数年で、「そういう人たち」の密集度は格段にアップしたはずだ。スゴイなー。おねえさん、困っちゃう。
笑ったこと。友人たちとの待ち合わせ中。ちょうど「電気街口」で、背格好もそっくりでなんと8人全員メガネをかけている集団がいて、「うわー、よくまあこんなに似た人を集めたものだなー。」と思って横に立っていたら、彼らは互いをハンドルネーム(たぶん)で呼び合っており、「おお、オフ会か。」と私はふむふむと聞いていたんだね。
それに対する友人Cのコメント。
「ブログの人たちだ!」
いや、ブログは会うのが目的じゃないから(笑)。ってか、なぜ私を見る。
●ハンドルネームとセンス。
例の8人のうちの1人は、お菓子の名前で呼ばれていた。自分が大したHNを持っているとも思えないが、それにしても、男なのにちと可愛すぎやしないか?
と、これに端を発して、ハンドルネームというものについて思いを巡らす。便宜上、ネットで何かを始める際はHNが必要だ(まあ本名でもいい人はいいのだろうが)。良いハンドルネームとは、インパクトがあるものに限る。検索にかけたらそれ以外に引っかからないものだ(これを逆手にとる場合もある)。そして、なるべくなら、男か女かの見分けがつきやすいものがよかろう。
ただ、やはり、万が一にも、リアルで呼ばれる可能性を意識してつけた方がいいとは思う。なぜなら、呼ばれる本人が良くても、呼ぶ側の問題がある。
●最近笑った台詞シリーズvol.1
「俺、「食べない」って、あんま得意じゃないんだよね。」
●洗顔料購入。
イプサにて、「クレンジングクリアフォームEX」を。
正直、洗顔料に¥2,625もかけるなんて、私の人生始まって以来である。併用しているメタボライザー(化粧水)とセットで使うことにより、洗顔後の吸い込みが何倍も良くなるそうだ。騙されている気がしなくもないが、大人しく騙されてみるつもり。
文系女のロマンチシズム
2005年12月29日今年最後のノロケ、じゃなくて、今年最後の読書メモ。
小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮社)読了。年末用にと、私専用の図書館で借りてきた本のうちの一冊。
断言してもいいが、私は、今コレを読んでいるアナタより数学(含算数)ができない自信がある。
そうはいってもおまえは大学生じゃないか、という意見が出るだろう。そう、私は大学生だ。自慢じゃないが、私は、自分の数学の出来なさを数値化して、それがあっても入学できる限界値ギリギリを探して滑り込んだつもりだ。高校時代、学年でただ一人、数学Aの単位を落とした。こうなってくると、最早、自慢だ。
最近わかってきたのだが、数学のできる人(いわゆる理系)と、私(いわゆるまごうかたなき文系)の脳構造は、どこか違うのではないだろうか。単純な計算をするときほど、私はそう思う。昔、両親に、「ゼロの手前はアルファベットなの?」と聞いたことがある。当時(4歳位かな?)不思議に思った感覚を、あれから20年経っても、私は鮮やかに覚えている。
数字を、言語(文字)と同じ領域で認識していたのだ。数字とは、平仮名のように、無秩序に見える記号の羅列だと。あいうえお、かきくけこ…と連なる平仮名を、私はビジュアルで捉えていて("あ君"の次に"い君"がいる。って感じで。)、その隊列の後ろと前には何があるのだろう、と。幼い私は、平仮名の最後尾である"ん君"の後ろには、漢字君たちが並んでいると考えたんだ。そして、最前の"あ君"の前には数字君たちがいて、その数字君たちの最前(ゼロ)の更に前には、アルファベット君の隊列があるのだと。
私の頭の中には数直線(隊列の名残だね。)があって、たとえば「26+17」の計算をする際は、数直線の一点である26を起点とし、17右に移動する。イメージとしては、こんな感じ。でも、多分だけど、数学が得意な人はこのようなイメージで計算してないはずなんだ。あまり分類するのは好きじゃないけど、文系の私は、世界を切り取るときにいつも「文字」を用いており、そのシステムが確立されてしまった今、理系の人とは違う世界を目に映している気さえする。
そんな私がこの本を読んで思ったこと、「数学のロマンチックさ」について。
法則はあっても、その法則は気まぐれで、たとえば素数(1と自分自身でしか割れない数)は、1、2、3、5、7…と数字が小さいうちは簡単に見つかるけど、100を越えると途端に発見し辛くなる。どういう順序で、どういうタイミングで出てくるのか、その気まぐれさを、主人公の家政婦や息子や博士は、「神様の手帳に書かれたこと」と表現した。その「神様の手帳」を解読する作業が、数学者の仕事なのだ、と。
もちろん、素数に限らず、数字にはすべてに真実(神様の意図)があるのだけど、途方も無いほど深淵なものがほとんどで、それに法則を見いだせれば「公式」となる。そして、真実が見つかった瞬間を、家政婦さんは「無惨に踏み荒らされた砂漠に、一陣の風が吹き抜け、目の前に一本の真っさらな道が現れた。」と表した。そう、「神様の手帳」は難解ではあるけど、答えが見つかるようにはなっているのだろう。
気付いたのだが、私の求める究極のロマンチシズムは、数学がロマンチックだといわれる所以とは、まったく逆の方向にある気がしてならない。完全な真実が崇高なものとして存在する数学は、たしかにロマンチックではあるけど、私は、究極的には、真実のように見えるものが本当は真実ではないことを発見する方向に向かっている気がするから。
私が、「これは絶対だ!」とか、「これが真実だ!」という言い方をすると、マイ・ラヴァーはたしなめる。私がAという真実を打ち出すと、彼はシーソーのように、Aを端とした支点を測ってもう一つの端であるBを明らかにし、その中間点(AでもBでもないもの)が好きだ、と言う。私は「ずるいよ、そんなの。」といつも思う。そして、私の愛する人は、「中間点である支点など、実は存在しない。」と言った(焼肉を食べながら笑)。なぜなら、「点」とはどこまでいっても概念でしかないからだ。
中間点を愛す彼は、極端なA派でもないしB派でもない。真実のように見える何かにぶち当たっても、いつでも概念たる中間点を模索しているように見える。概念でしかないのだから、どれだけ中間点に近づいたように見えても、彼と点が完全に一致することはないのだ。
数学でいえば、難解な問題に取り組みつつもその努力を継続できるのは、必ず真実が出るはずだという前提があるからだ。「答えがありませんよ。」と言われているにも関わらず、彼は黙々と(たぶん、一生をかけて)問題に取り組み続ける。その姿は、数学者が正解を求めて奮闘するのと同じか、私の中ではそれ以上に、美しく、色っぽく見えるのだ。
読書メモなのに、いつもノロケになってしまう(←悩み)。
-----------------------------------------------------------------
備忘。
●本日の肉体美化メニュー。
ブランチ:ハムトースト、無農薬みかん、コーヒー牛乳
夜 :「点天」の餃子、肉じゃが、ネギとワカメの味噌汁、
ごはん、 卵かまぼこ、キムチ、麦茶
全然、普通じゃん。いやいや、記録するのが大事なんだ。
小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮社)読了。年末用にと、私専用の図書館で借りてきた本のうちの一冊。
断言してもいいが、私は、今コレを読んでいるアナタより数学(含算数)ができない自信がある。
そうはいってもおまえは大学生じゃないか、という意見が出るだろう。そう、私は大学生だ。自慢じゃないが、私は、自分の数学の出来なさを数値化して、それがあっても入学できる限界値ギリギリを探して滑り込んだつもりだ。高校時代、学年でただ一人、数学Aの単位を落とした。こうなってくると、最早、自慢だ。
最近わかってきたのだが、数学のできる人(いわゆる理系)と、私(いわゆるまごうかたなき文系)の脳構造は、どこか違うのではないだろうか。単純な計算をするときほど、私はそう思う。昔、両親に、「ゼロの手前はアルファベットなの?」と聞いたことがある。当時(4歳位かな?)不思議に思った感覚を、あれから20年経っても、私は鮮やかに覚えている。
数字を、言語(文字)と同じ領域で認識していたのだ。数字とは、平仮名のように、無秩序に見える記号の羅列だと。あいうえお、かきくけこ…と連なる平仮名を、私はビジュアルで捉えていて("あ君"の次に"い君"がいる。って感じで。)、その隊列の後ろと前には何があるのだろう、と。幼い私は、平仮名の最後尾である"ん君"の後ろには、漢字君たちが並んでいると考えたんだ。そして、最前の"あ君"の前には数字君たちがいて、その数字君たちの最前(ゼロ)の更に前には、アルファベット君の隊列があるのだと。
私の頭の中には数直線(隊列の名残だね。)があって、たとえば「26+17」の計算をする際は、数直線の一点である26を起点とし、17右に移動する。イメージとしては、こんな感じ。でも、多分だけど、数学が得意な人はこのようなイメージで計算してないはずなんだ。あまり分類するのは好きじゃないけど、文系の私は、世界を切り取るときにいつも「文字」を用いており、そのシステムが確立されてしまった今、理系の人とは違う世界を目に映している気さえする。
そんな私がこの本を読んで思ったこと、「数学のロマンチックさ」について。
法則はあっても、その法則は気まぐれで、たとえば素数(1と自分自身でしか割れない数)は、1、2、3、5、7…と数字が小さいうちは簡単に見つかるけど、100を越えると途端に発見し辛くなる。どういう順序で、どういうタイミングで出てくるのか、その気まぐれさを、主人公の家政婦や息子や博士は、「神様の手帳に書かれたこと」と表現した。その「神様の手帳」を解読する作業が、数学者の仕事なのだ、と。
もちろん、素数に限らず、数字にはすべてに真実(神様の意図)があるのだけど、途方も無いほど深淵なものがほとんどで、それに法則を見いだせれば「公式」となる。そして、真実が見つかった瞬間を、家政婦さんは「無惨に踏み荒らされた砂漠に、一陣の風が吹き抜け、目の前に一本の真っさらな道が現れた。」と表した。そう、「神様の手帳」は難解ではあるけど、答えが見つかるようにはなっているのだろう。
気付いたのだが、私の求める究極のロマンチシズムは、数学がロマンチックだといわれる所以とは、まったく逆の方向にある気がしてならない。完全な真実が崇高なものとして存在する数学は、たしかにロマンチックではあるけど、私は、究極的には、真実のように見えるものが本当は真実ではないことを発見する方向に向かっている気がするから。
私が、「これは絶対だ!」とか、「これが真実だ!」という言い方をすると、マイ・ラヴァーはたしなめる。私がAという真実を打ち出すと、彼はシーソーのように、Aを端とした支点を測ってもう一つの端であるBを明らかにし、その中間点(AでもBでもないもの)が好きだ、と言う。私は「ずるいよ、そんなの。」といつも思う。そして、私の愛する人は、「中間点である支点など、実は存在しない。」と言った(焼肉を食べながら笑)。なぜなら、「点」とはどこまでいっても概念でしかないからだ。
中間点を愛す彼は、極端なA派でもないしB派でもない。真実のように見える何かにぶち当たっても、いつでも概念たる中間点を模索しているように見える。概念でしかないのだから、どれだけ中間点に近づいたように見えても、彼と点が完全に一致することはないのだ。
数学でいえば、難解な問題に取り組みつつもその努力を継続できるのは、必ず真実が出るはずだという前提があるからだ。「答えがありませんよ。」と言われているにも関わらず、彼は黙々と(たぶん、一生をかけて)問題に取り組み続ける。その姿は、数学者が正解を求めて奮闘するのと同じか、私の中ではそれ以上に、美しく、色っぽく見えるのだ。
読書メモなのに、いつもノロケになってしまう(←悩み)。
-----------------------------------------------------------------
備忘。
●本日の肉体美化メニュー。
ブランチ:ハムトースト、無農薬みかん、コーヒー牛乳
夜 :「点天」の餃子、肉じゃが、ネギとワカメの味噌汁、
ごはん、 卵かまぼこ、キムチ、麦茶
全然、普通じゃん。いやいや、記録するのが大事なんだ。
ラブレター from りん
2005年12月28日最近できたお友達(大阪在住。)にメールを打つため、PCのメールソフトを起ち上げる。
一年の締めくくりということで、考えなくてもいいことを考えたり、意味も無く過去を振り返ったりすることになる。私は送受信したメールをすべて保存しているので、大学に入ったばかりの頃(専用のPCを手に入れた頃)の履歴を見ることができる。今日も、意味無く、見てしまった。
2005年が終わるということは、すなわち私の大学生活が終わるということで、それはやはり、暗に何かが終わることを意味している。「終わる」という言葉を使ったが、何も否定的なニュアンスが含まれているわけではない。とにもかくにも、私は「終わる」のだ。終わって何が変わるのか、そこんところは、いざ終わってから俯瞰してみないことにはわからないのだけど。
先日、私と友人主催のクリスマスパーティで、夏以来に再会した友人に言われた。
「アンタは変わった。」と。
具体的にどんなところが変わったのか、問いつめてみた。私は、たしかに、自分でも何かが変わったような気がしているけど、それは自分から得意げに話すことじゃないし、そもそも良く変わったかどうかすら、実際のところは謎である。それでも、人から「変わったよ。」と言われれば、なんとなく悪い気はしない。というのも、そのコの表情には「変わりゆく私」に対する肯定的な感情が見え隠れしていたから。
ここで先述のメールの話に繋がるのだけど、私は当時、携帯代を節約するために、友達の携帯にPCから短文メールを送ることがしばしばあった。「じゃあ、おやすみ。」とか、たった一言だけのメールまで、すべてがきちんと時系列で残されている。
彼女(私のこと)は、当時の彼氏との諸々の事件を、とにかく「事件」として扱っていて、いつでも全力疾走していて、友達と深夜に延々と不毛なやりとりをしており、なんというか「一所懸命」ではある。その一所懸命さはずいぶんと微笑ましいものではあるが、やはり暑苦しく、少し静かにしておくれよ、と言いたくなる。
(ここだけの話、まず口調が馬鹿っぽい。ハタチ過ぎた男を「○○たん」と呼ぶなよ、アホか、と。)
まず、一日中携帯を握りしめて離さず、彼氏からのメールを待っていた。再会した友人いわく、「いつも彼氏とメールしてる人」という印象があったそうだ(ショック)。彼氏のことで一喜一憂し、泣き、わめき、暴れ、友人に電話をかけ、メールをして、とても静かとはいえなかったのだろう。それは、私のPCの何百通ものメールが証明している。
私が変わったということは、静かになったということだ。情熱的な部分は今もまったく変わっていないけど(私が男だったら、さぞキザでいけすかない奴だったろうな。)、たとえば、同じ「好き」という気持ちでも、アホみたいに「好きだーーーーー!!!」と叫ぶことしかできなかった私は、目を潤ませて相手を見つめることを覚えた。例えるなら、そんな感じ?
人の「成熟度」を、折れ線グラフ(X軸を時間と置く)で表すなら。それは比例定数を持つような右上がりの直線ではなく、明らかな定数を持たないまま、ある日突然ガクンと変化する予測不能のものだ。そして、その予測不能の変化を引き起こすのは、先天的にプログラムされた自身の資質ではなく、かなり後天的な外部の何かなんだ。
だから、2005年の私が大きく変わったのなら、「ありがとう。」と言わなきゃいけない多くの人がいて、願わくば、2006年もそういう人と一緒にいたい、一緒に変化していきたい、と強く思う。
今年お世話になったすべての人へ。あい・らぶ・ゆー☆(「ゆー」は複数形。)
------------------------------------------------------------------
備忘。
●本日の肉体美化メニュー。(←復活したらしい。)
朝:シーフードとほうれん草のキッシュ、カモミールティー
昼:スモークサーモンとサラダのサンドイッチ、アイスコーヒー(ブラック)
夜:トマトとピーマンのパスタ、白菜ともやしのミルク煮、大学芋、麦茶
エスカレーターは使わず、階段を疾走!(こ、これだけ…)
●季節とオトコっぷり。
顔つきの問題か、キャラクターの問題か、「その人に似合う季節」というものがあるなと気づいたので、備忘。
冬服(長袖、ゆったり)が似合うか、夏服(半袖、軽快)が似合うかの違いではないかとも思っているが、冬になった途端にちょっと格好良く見えたりする男がいて、夏オトコにドキドキしがちだった私には新鮮な現象だ。
自分に似合う季節を知っておくと、何かと便利かも。
一年の締めくくりということで、考えなくてもいいことを考えたり、意味も無く過去を振り返ったりすることになる。私は送受信したメールをすべて保存しているので、大学に入ったばかりの頃(専用のPCを手に入れた頃)の履歴を見ることができる。今日も、意味無く、見てしまった。
2005年が終わるということは、すなわち私の大学生活が終わるということで、それはやはり、暗に何かが終わることを意味している。「終わる」という言葉を使ったが、何も否定的なニュアンスが含まれているわけではない。とにもかくにも、私は「終わる」のだ。終わって何が変わるのか、そこんところは、いざ終わってから俯瞰してみないことにはわからないのだけど。
先日、私と友人主催のクリスマスパーティで、夏以来に再会した友人に言われた。
「アンタは変わった。」と。
具体的にどんなところが変わったのか、問いつめてみた。私は、たしかに、自分でも何かが変わったような気がしているけど、それは自分から得意げに話すことじゃないし、そもそも良く変わったかどうかすら、実際のところは謎である。それでも、人から「変わったよ。」と言われれば、なんとなく悪い気はしない。というのも、そのコの表情には「変わりゆく私」に対する肯定的な感情が見え隠れしていたから。
ここで先述のメールの話に繋がるのだけど、私は当時、携帯代を節約するために、友達の携帯にPCから短文メールを送ることがしばしばあった。「じゃあ、おやすみ。」とか、たった一言だけのメールまで、すべてがきちんと時系列で残されている。
彼女(私のこと)は、当時の彼氏との諸々の事件を、とにかく「事件」として扱っていて、いつでも全力疾走していて、友達と深夜に延々と不毛なやりとりをしており、なんというか「一所懸命」ではある。その一所懸命さはずいぶんと微笑ましいものではあるが、やはり暑苦しく、少し静かにしておくれよ、と言いたくなる。
(ここだけの話、まず口調が馬鹿っぽい。ハタチ過ぎた男を「○○たん」と呼ぶなよ、アホか、と。)
まず、一日中携帯を握りしめて離さず、彼氏からのメールを待っていた。再会した友人いわく、「いつも彼氏とメールしてる人」という印象があったそうだ(ショック)。彼氏のことで一喜一憂し、泣き、わめき、暴れ、友人に電話をかけ、メールをして、とても静かとはいえなかったのだろう。それは、私のPCの何百通ものメールが証明している。
私が変わったということは、静かになったということだ。情熱的な部分は今もまったく変わっていないけど(私が男だったら、さぞキザでいけすかない奴だったろうな。)、たとえば、同じ「好き」という気持ちでも、アホみたいに「好きだーーーーー!!!」と叫ぶことしかできなかった私は、目を潤ませて相手を見つめることを覚えた。例えるなら、そんな感じ?
人の「成熟度」を、折れ線グラフ(X軸を時間と置く)で表すなら。それは比例定数を持つような右上がりの直線ではなく、明らかな定数を持たないまま、ある日突然ガクンと変化する予測不能のものだ。そして、その予測不能の変化を引き起こすのは、先天的にプログラムされた自身の資質ではなく、かなり後天的な外部の何かなんだ。
だから、2005年の私が大きく変わったのなら、「ありがとう。」と言わなきゃいけない多くの人がいて、願わくば、2006年もそういう人と一緒にいたい、一緒に変化していきたい、と強く思う。
今年お世話になったすべての人へ。あい・らぶ・ゆー☆(「ゆー」は複数形。)
------------------------------------------------------------------
備忘。
●本日の肉体美化メニュー。(←復活したらしい。)
朝:シーフードとほうれん草のキッシュ、カモミールティー
昼:スモークサーモンとサラダのサンドイッチ、アイスコーヒー(ブラック)
夜:トマトとピーマンのパスタ、白菜ともやしのミルク煮、大学芋、麦茶
エスカレーターは使わず、階段を疾走!(こ、これだけ…)
●季節とオトコっぷり。
顔つきの問題か、キャラクターの問題か、「その人に似合う季節」というものがあるなと気づいたので、備忘。
冬服(長袖、ゆったり)が似合うか、夏服(半袖、軽快)が似合うかの違いではないかとも思っているが、冬になった途端にちょっと格好良く見えたりする男がいて、夏オトコにドキドキしがちだった私には新鮮な現象だ。
自分に似合う季節を知っておくと、何かと便利かも。
冬の備忘
2005年12月27日12月27日の読書メモ。
内田樹の『知に働けば蔵が建つ』をようやく読了。
ウチダ先生を薦めてくれたのは他ならぬマイ・ラヴァーだが、別に彼に忠義立てするわけじゃなく、「この人の言うことには納得できるなあ。」と、読み進めている段階でも思ったし、読んだ後も思っている。最近にしては珍しく、言説に信頼感を置ける大人だと思う(小娘が何を言うかって感じ?)。
つまり、図で示すと、「私→マイ・ラヴァー→ウチダ先生」ってな具合だ。この場合の矢印はリスペクト&共感のベクトルだが、便宜上、一方通行にせざるを得ない(なぜなら、ウチダ先生は、私のこともマイ・ラヴァーのこともおそらくってか絶対知らないので、逆向きはあり得ないのだ)。が、私は、このベクトルがたぶん相互通行の可能性を秘めたものに違いない、と勝手かつ図々しくも思っている。
かねがね不思議に思っていたのだが。
たとえば、サッカーの試合中に雷撃を受けた生徒と親が教師(監督)に責任を追及したり、または階段で滑った児童の親が滑るような階段を放置しておいた学校側に文句をつけたり、という一連の「責任追及」の姿勢にウチダセンセが「?」と思ったように、私も「?」と思うし、おそらくマイ・ラヴァーも「?」と思うんじゃないかな。
そういう多くの「?」を抱えたまま私は生きているのだけど、不思議なことに、当の「?」的行動をしている人にはあまり会ったことが無い。小泉首相がメディアでは散々叩かれているのに、いざ支持率を出せば「支持層」を発見できるのと似ている。「俺は小泉を断固支持するー!」という人が周りにはほとんどいないのに、選挙の結果、彼は確固たる地位を築けているのよね。不思議。
「価値観が似ている」って簡単に皆言っちゃうけど、私が気づいたのは、「私はスパゲッティが好き!」と言えば、多くのスパゲッティ好きが集まるから、たぶんそういうプラス姿勢の意見だけでは、本当のところの価値観を計測できない。そうじゃなくて、当然のようにフォークでスパゲッティを食べているときに、隣で箸を使いながらそばのようにスパゲッティを食べ始めた人が現れたとき、「?」と思うのだろう。つまり、自分の中ではすっかり当たり前になっている部分が根本的に違う人への「?」。それはしばしばマイナス要素を孕む。
「これがイイ!」じゃなくて、「これはナシだろう…。」という部分が一致している人を、話し相手として選ぶ傾向が、私にはある。厄介なのは、私とマイ・ラヴァーの「これはナシだろう…。」という部分はまあまあ一致している(た、たぶんな。)のに、すっかりそれに慣れてしまうと、それこそスパゲッティを食べるときのフォークの角度、とかで言い争いを始めてしまうのだろうな、と。そんな、そもそも、箸で食べてないだけマシじゃないの、ってことに気づかなくてはいかん。
つまり、人と人が惹かれ合うときは、「おっ、キミもスパゲッティはフォークかい?」「やん、アナタもそうなんですかっ?」って感覚がたぶん大事だけど、それ以降も、そもそも箸じゃないフォーク感覚を共有してることを尊いと思う気持ちを、忘れてはいけないのだろう。(さっきからスパゲッティを例としてるけど、ほんとあくまで例だよ?)
「でもさー、なんだかんだでみんなスパゲッティはフォークだよ?」という意見があるのもごもっともだが、実は、私はスパゲッティを箸で食べるような人とかなり長い時間一緒にいたことがあり、試しに私も箸を使ってみるなど、努力っぽいことをしたこともあるのだ。が、たしかに人と人は異なる部分を摺り合わせて生きていけるけれど、それによって生じるストレスがあり、いざというとき、リスキーな埋められない溝として存在感を増す。と、思う。
ウチダセンセを「イイなあ。」と思っているはずのマイ・ラヴァーに薦められ、同著を手に取り、私も「イイなあ。」と思ったことは、箸はナシよね、っていう部分を改めて認識し合った(し合ったっていうか、私が一方的に笑)という点で、大きい。というわけで、別にフォークの角度にケチをつけなくてもいっか、という、なんだか優しい気持ちになったわけだ。
ただ、「現代においては「内輪」における親密感、一体感が過剰になると同時に「外側」に対する排他性・暴力性も過剰になっている。」とウチダセンセが指摘する通り、こういったフォーク感を共有できることをただ喜んでいるだけでは「他者」への想像力が枯渇する一方なので、気をつけなきゃいけないのだろう。
ノロケっぽくなりつつも(読書メモじゃなかったのか)、最後はイイ感じで終わらせてみた。
内田樹の『知に働けば蔵が建つ』をようやく読了。
ウチダ先生を薦めてくれたのは他ならぬマイ・ラヴァーだが、別に彼に忠義立てするわけじゃなく、「この人の言うことには納得できるなあ。」と、読み進めている段階でも思ったし、読んだ後も思っている。最近にしては珍しく、言説に信頼感を置ける大人だと思う(小娘が何を言うかって感じ?)。
つまり、図で示すと、「私→マイ・ラヴァー→ウチダ先生」ってな具合だ。この場合の矢印はリスペクト&共感のベクトルだが、便宜上、一方通行にせざるを得ない(なぜなら、ウチダ先生は、私のこともマイ・ラヴァーのこともおそらくってか絶対知らないので、逆向きはあり得ないのだ)。が、私は、このベクトルがたぶん相互通行の可能性を秘めたものに違いない、と勝手かつ図々しくも思っている。
かねがね不思議に思っていたのだが。
たとえば、サッカーの試合中に雷撃を受けた生徒と親が教師(監督)に責任を追及したり、または階段で滑った児童の親が滑るような階段を放置しておいた学校側に文句をつけたり、という一連の「責任追及」の姿勢にウチダセンセが「?」と思ったように、私も「?」と思うし、おそらくマイ・ラヴァーも「?」と思うんじゃないかな。
そういう多くの「?」を抱えたまま私は生きているのだけど、不思議なことに、当の「?」的行動をしている人にはあまり会ったことが無い。小泉首相がメディアでは散々叩かれているのに、いざ支持率を出せば「支持層」を発見できるのと似ている。「俺は小泉を断固支持するー!」という人が周りにはほとんどいないのに、選挙の結果、彼は確固たる地位を築けているのよね。不思議。
「価値観が似ている」って簡単に皆言っちゃうけど、私が気づいたのは、「私はスパゲッティが好き!」と言えば、多くのスパゲッティ好きが集まるから、たぶんそういうプラス姿勢の意見だけでは、本当のところの価値観を計測できない。そうじゃなくて、当然のようにフォークでスパゲッティを食べているときに、隣で箸を使いながらそばのようにスパゲッティを食べ始めた人が現れたとき、「?」と思うのだろう。つまり、自分の中ではすっかり当たり前になっている部分が根本的に違う人への「?」。それはしばしばマイナス要素を孕む。
「これがイイ!」じゃなくて、「これはナシだろう…。」という部分が一致している人を、話し相手として選ぶ傾向が、私にはある。厄介なのは、私とマイ・ラヴァーの「これはナシだろう…。」という部分はまあまあ一致している(た、たぶんな。)のに、すっかりそれに慣れてしまうと、それこそスパゲッティを食べるときのフォークの角度、とかで言い争いを始めてしまうのだろうな、と。そんな、そもそも、箸で食べてないだけマシじゃないの、ってことに気づかなくてはいかん。
つまり、人と人が惹かれ合うときは、「おっ、キミもスパゲッティはフォークかい?」「やん、アナタもそうなんですかっ?」って感覚がたぶん大事だけど、それ以降も、そもそも箸じゃないフォーク感覚を共有してることを尊いと思う気持ちを、忘れてはいけないのだろう。(さっきからスパゲッティを例としてるけど、ほんとあくまで例だよ?)
「でもさー、なんだかんだでみんなスパゲッティはフォークだよ?」という意見があるのもごもっともだが、実は、私はスパゲッティを箸で食べるような人とかなり長い時間一緒にいたことがあり、試しに私も箸を使ってみるなど、努力っぽいことをしたこともあるのだ。が、たしかに人と人は異なる部分を摺り合わせて生きていけるけれど、それによって生じるストレスがあり、いざというとき、リスキーな埋められない溝として存在感を増す。と、思う。
ウチダセンセを「イイなあ。」と思っているはずのマイ・ラヴァーに薦められ、同著を手に取り、私も「イイなあ。」と思ったことは、箸はナシよね、っていう部分を改めて認識し合った(し合ったっていうか、私が一方的に笑)という点で、大きい。というわけで、別にフォークの角度にケチをつけなくてもいっか、という、なんだか優しい気持ちになったわけだ。
ただ、「現代においては「内輪」における親密感、一体感が過剰になると同時に「外側」に対する排他性・暴力性も過剰になっている。」とウチダセンセが指摘する通り、こういったフォーク感を共有できることをただ喜んでいるだけでは「他者」への想像力が枯渇する一方なので、気をつけなきゃいけないのだろう。
ノロケっぽくなりつつも(読書メモじゃなかったのか)、最後はイイ感じで終わらせてみた。
賽が投げられた夜
2005年12月26日近年稀に見る、怒濤の年末進行。肝臓、暇無し。
本日はJねーさんと飲み@溜池山王。シャンパン(ヴーヴ・クリコ。好き。)で乾杯→白ワイン&軍鶏焼きを堪能。
Jねーさんは、今年知り合ったばかりの8歳年上の女性。この日記にはしつこい位書いているけど、私は学校以外のコミュニティに積極的に参加するタイプではなかったので(バイトはしているけど、プライベートで会う人はかなり限られている。)、自然、同年代の友達が大多数を占めるようになっていた。
2005年の特徴として、そんな私の狭いコミュニティの壁(と言うより、同年代としか話ができないと思いこんでいた"かたくなな部分"かな。)がちょこっと壊されて、当たり前なんだけど、「友人関係って、たとえ所属が違っても、たとえ年齢が一致していなくても、成り立つものなんだな。」ということが、聞きかじった知識でなく経験から来る実感として、浸透したように思う。
Jねーさんと出会ったのも、まったく事情を知らない人に説明するとやや時間を要するような不思議な縁なのだが、三時間ほど費やして当時(ねーさんと出会った頃。その頃は私の身辺が騒がしかった。)を思い出す作業をしていくうちに、この類の"交際"は時代の先駆けなのかもしれぬ…などと、大袈裟なことを思ったり。
なんにせよ、"かたくな"だったはずの私が、本当に偶然とはいえ、知り合うはずがなかった所属の人とこうして親交を深めていけるのは、まこと、神のお導きである。こういう出会いがあるからこそ、人生が、私たち人間のちっぽけなジタバタ(積極的に広がりを作ろうとする行為)ではどうにもならない宿命によって動かされている気がしてしまう。
もう一つ、備忘しなければいけないこと。
私から見るJねーさん(ねーさんのお友達も含む)というのは、「昔は色々ありましたが、今はこうして頑張ってますよ。」という"無理してない健やかさ"があるように思えて、こと恋愛に関しては、私のような「いっぱいいっぱいさ」が微塵も感じられない。で、それは年齢のせいというより、ねーさんが生まれつきそういう体質なのではないかと思いつつあったのだ。私はそうなれないのかな、と。しかし、ねーさんいわく「あたしは恋愛至上主義だったんですよ。」と。こ、これはビックリ!
というのも、ねーさんがしばしばおっしゃるところの「無意識の選択」を済ませた方というのは、現在の私にとっては未知の世界に生きる女性でありまして。ただ、不思議なことに、私は随分昔から、そういう未知の世界に生きる自分が決して想像できないわけではなく。むしろそっち側に行くのではないか、自分、みたいな漠然とした予感があって。(というのも、私は、ゴハンが喉を通らなくなっちゃうような大失恋を自分が経験しないはずがないと思っていて、現にした。「ああ、やっぱり…」と思ったな、あのときは。いつかは経験するだろう的予感は割と当たるタイプなの。)
ただ、そっち側に行かなそうな自分というのもリアルに想像できて、どっちの予感が当たりそうなのと問われれば、まさに五分五分だろう…というのが現在の素直な見。
仮にねーさんが「無意識の選択」のあらかたを済ませているとしよう。ねーさんは生まれつき未知の世界側の人だったわけではなく、選択前の私のような時期があったと知ったんだ。私は、正直、未知の世界に恐怖を感じていた時期が少なからずあって、なんとかそれを回避せねば!と決意したことがあって。今思うとなんじゃそりゃ、って感じだけど、それが私を恋愛体質に導いた最大かつ唯一の要因だ。
でも、最近(原因はわからん)、未知領域に対する恐怖が薄れてきた感が大分あって。大人になるって悪くないなと思うことが、かなり頻繁に起こるからかもしれない。今まで「こわいなー。」と思っていたことが案外怖くないってわかってきたんだ。これは恋愛にとどまらず。だから「無意識の選択」をするにしろ、しないにしろ、(余談だが、ねーさんが既に選択を済ませたかどうか、実際のところはわからないんだ。)私はそろそろそういう歳なんだなー、と、卒業を目前にして思う。
なんしか、賽は投げられた。
あまりに抽象的ではあるが、一年前の自分なら怖くて目を瞑って投げてたところを(賽が「半」と出たらどうしよ、みたいな。)、今の状態なら、どんな結果になっても(「丁」だろうが「半」だろうが)、"無理してない健やかさ"に包まれた未来の自分を信じられる気がする。それが大人の女になるってことだ。
難しいハナシはいいや。要は、眼下に美しい東京の夜景を眺めながら、やや辛口なトークを繰り広げたわけで。お料理も(ホカホカの釜飯が、特に。)、お酒も、お話も、大満足な夜でした。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●ここ数日のBGM。
スキマスイッチの『空創クリップ』。
「果実きわだつチューハイ」のCMを見てどうしても聴きたくなった「飲みに来ないか」を、もうええっちゅうねん!と突っ込まれそうなほどに、繰り返し聴く。
ちなみに「飲みに来ないか?」という台詞は、私に関してなら口説き文句として抜群に高評価であります。相手が酒飲みなら、さらに高評価であります。いやん、飲みに行っちゃう。(残念ながら、まだ言われたことは無い。)
本日はJねーさんと飲み@溜池山王。シャンパン(ヴーヴ・クリコ。好き。)で乾杯→白ワイン&軍鶏焼きを堪能。
Jねーさんは、今年知り合ったばかりの8歳年上の女性。この日記にはしつこい位書いているけど、私は学校以外のコミュニティに積極的に参加するタイプではなかったので(バイトはしているけど、プライベートで会う人はかなり限られている。)、自然、同年代の友達が大多数を占めるようになっていた。
2005年の特徴として、そんな私の狭いコミュニティの壁(と言うより、同年代としか話ができないと思いこんでいた"かたくなな部分"かな。)がちょこっと壊されて、当たり前なんだけど、「友人関係って、たとえ所属が違っても、たとえ年齢が一致していなくても、成り立つものなんだな。」ということが、聞きかじった知識でなく経験から来る実感として、浸透したように思う。
Jねーさんと出会ったのも、まったく事情を知らない人に説明するとやや時間を要するような不思議な縁なのだが、三時間ほど費やして当時(ねーさんと出会った頃。その頃は私の身辺が騒がしかった。)を思い出す作業をしていくうちに、この類の"交際"は時代の先駆けなのかもしれぬ…などと、大袈裟なことを思ったり。
なんにせよ、"かたくな"だったはずの私が、本当に偶然とはいえ、知り合うはずがなかった所属の人とこうして親交を深めていけるのは、まこと、神のお導きである。こういう出会いがあるからこそ、人生が、私たち人間のちっぽけなジタバタ(積極的に広がりを作ろうとする行為)ではどうにもならない宿命によって動かされている気がしてしまう。
もう一つ、備忘しなければいけないこと。
私から見るJねーさん(ねーさんのお友達も含む)というのは、「昔は色々ありましたが、今はこうして頑張ってますよ。」という"無理してない健やかさ"があるように思えて、こと恋愛に関しては、私のような「いっぱいいっぱいさ」が微塵も感じられない。で、それは年齢のせいというより、ねーさんが生まれつきそういう体質なのではないかと思いつつあったのだ。私はそうなれないのかな、と。しかし、ねーさんいわく「あたしは恋愛至上主義だったんですよ。」と。こ、これはビックリ!
というのも、ねーさんがしばしばおっしゃるところの「無意識の選択」を済ませた方というのは、現在の私にとっては未知の世界に生きる女性でありまして。ただ、不思議なことに、私は随分昔から、そういう未知の世界に生きる自分が決して想像できないわけではなく。むしろそっち側に行くのではないか、自分、みたいな漠然とした予感があって。(というのも、私は、ゴハンが喉を通らなくなっちゃうような大失恋を自分が経験しないはずがないと思っていて、現にした。「ああ、やっぱり…」と思ったな、あのときは。いつかは経験するだろう的予感は割と当たるタイプなの。)
ただ、そっち側に行かなそうな自分というのもリアルに想像できて、どっちの予感が当たりそうなのと問われれば、まさに五分五分だろう…というのが現在の素直な見。
仮にねーさんが「無意識の選択」のあらかたを済ませているとしよう。ねーさんは生まれつき未知の世界側の人だったわけではなく、選択前の私のような時期があったと知ったんだ。私は、正直、未知の世界に恐怖を感じていた時期が少なからずあって、なんとかそれを回避せねば!と決意したことがあって。今思うとなんじゃそりゃ、って感じだけど、それが私を恋愛体質に導いた最大かつ唯一の要因だ。
でも、最近(原因はわからん)、未知領域に対する恐怖が薄れてきた感が大分あって。大人になるって悪くないなと思うことが、かなり頻繁に起こるからかもしれない。今まで「こわいなー。」と思っていたことが案外怖くないってわかってきたんだ。これは恋愛にとどまらず。だから「無意識の選択」をするにしろ、しないにしろ、(余談だが、ねーさんが既に選択を済ませたかどうか、実際のところはわからないんだ。)私はそろそろそういう歳なんだなー、と、卒業を目前にして思う。
なんしか、賽は投げられた。
あまりに抽象的ではあるが、一年前の自分なら怖くて目を瞑って投げてたところを(賽が「半」と出たらどうしよ、みたいな。)、今の状態なら、どんな結果になっても(「丁」だろうが「半」だろうが)、"無理してない健やかさ"に包まれた未来の自分を信じられる気がする。それが大人の女になるってことだ。
難しいハナシはいいや。要は、眼下に美しい東京の夜景を眺めながら、やや辛口なトークを繰り広げたわけで。お料理も(ホカホカの釜飯が、特に。)、お酒も、お話も、大満足な夜でした。
------------------------------------------------------------------
備忘。
●ここ数日のBGM。
スキマスイッチの『空創クリップ』。
「果実きわだつチューハイ」のCMを見てどうしても聴きたくなった「飲みに来ないか」を、もうええっちゅうねん!と突っ込まれそうなほどに、繰り返し聴く。
ちなみに「飲みに来ないか?」という台詞は、私に関してなら口説き文句として抜群に高評価であります。相手が酒飲みなら、さらに高評価であります。いやん、飲みに行っちゃう。(残念ながら、まだ言われたことは無い。)
24回目のクリスマス
2005年12月24日クリスマス雑感、諸々。
何日か前の話だが、「マイ・ラヴァーさま。クリスマスに関するご提案です。」という趣旨のメールを彼の会社のアドレスに送りつけたところ、「そのプラン、すごくイイね!」とあっさり賛成されてしまった。何かしら考えているのではと思っていた私は「オイッ!!」と思っていたのだが(最近、彼の株は暴落気味だった)、まあ終わり良ければすべて良し、というか、むしろ終わりが良すぎてすべてめっちゃ良し、ってな具合だ。株価、ややアップ。
結論。女性はなんだかんだで、サプライズに弱い。
●フランス料理の正しいマナー(成美堂出版『女性の美しいマナー』より。)
<ナプキンの使い方>
・ナプキンを取り上げるタイミングは、最初の飲み物や料理が来たとき。
・二つ折りにしてから、輪の方を手前にしてひざの上に広げる。首にかけてはいけない。
・ハンカチで口を拭くのは「ナプキンが汚くて使えない」というメッセージなので、失礼にあたる。
・食事が終わったらテーブルの上に。綺麗にたたむのはNG。「ナプキンをたたむのを忘れるほどにおいしかった」という意味を込めるために軽くたたむ。
<細かいルール>
・フルコースの場合、パンを食べていいのはスープが終わってから。
・バターはスプレッダーから直接塗ってはいけない。自分の使う分を一度取り皿に取ってから、食べるだけパンをちぎってその都度塗る。
・メインが済んだら中座して良し。ダスト・パンでパン屑を掃除されたら、メイン終了の合図。
・男性がいる場合、ワインのテイスティングは任せる。
●初めて食べたもの。
フォアグラ、ブルーチーズ、紫ウニ、後味がかなりしっかりしたシャンパン。
●笑った話。
年末にまつわる思い出話にて。「年越しそば」というのは、本当に年を越す瞬間に食べなければいけないと思いこんでいたという、若き日のマイ・ラヴァー。
実際にそばをすするのは、「ズズズーッ!」というわずか数秒の出来事なので、年明けのカウントダウンの段階からじわじわと箸を持ち上げ、「今!」という瞬間にそばを食べていたらしい。さらに、カウントダウンに間に合わないと大変なので、「早くしないと12時になっちゃうよ!」と、そばを茹でる母親をせっついて、もう生のままでもいい、という位の勢いだったらしい。ことごとく、食にこだわり過ぎだ。
●「衝動>許容量」の法則。
「こうしたい。」という衝動が生まれるから、人は行動に移す。それは「こうしたい。」という衝動が、認識可能範囲に収まっている場合に限る。認識を超えた衝動は、たとえ飽和量を超えても、爆発するわけではない(なにしろ認識できないから行動に移せない)。
ただ、認識不可能であっても飽和してはいるので、本人は苦しい。体の中で化学反応を起こし爆発しまくった衝動は、あくまでも体内で秘密裏に処理される。対外に現れる反応といえば、"行動に移したい対象"をじっと見つめるくらいだ。
●キスの起源。
赤ちゃんが手にするものを何でも口に入れたがるように、私たちは好きなものを口に入れたい。本能的に。というわけで、好きな人を口に入れたいと思う。だったらその人の唇に限らずどこでもいいんじゃないのという感じだが、たまたま相手も同じように口に入れたいと思うから、「唇to唇」という構図が生まれるのではないか?
●趣旨から外れたクリスマス。
ブッシュ大統領が記者会見を「Happy holidays」で締め括ったニュースを受けて。アメリカでは、「Merry Christmas」が特定の宗教の挨拶ということで、宗教を限定しない「Happy holidays」がやや主流になりつつあるそうだ。
まあ、つまり、クリスマスにまつわるすべてのことは、敬虔なクリスチャンにとっては(それこそアメリカでは)何かと大事らしい。商業主義のクリスマスは批判されているそうだし。
平和というか、脳天気というか、とにかく、真っ先に批判を浴びそうな「THE・日本のバカップルのクリスマス」を過ごしてしまったが、お約束のクリスマスソングを流しながら、キャンドルを灯して、プレゼントを用意して…という、イイ大人が思わず笑っちゃうほどに幸せな行為が、まさか神に責められるものとは到底思えないのだが、どうだろうか。
何日か前の話だが、「マイ・ラヴァーさま。クリスマスに関するご提案です。」という趣旨のメールを彼の会社のアドレスに送りつけたところ、「そのプラン、すごくイイね!」とあっさり賛成されてしまった。何かしら考えているのではと思っていた私は「オイッ!!」と思っていたのだが(最近、彼の株は暴落気味だった)、まあ終わり良ければすべて良し、というか、むしろ終わりが良すぎてすべてめっちゃ良し、ってな具合だ。株価、ややアップ。
結論。女性はなんだかんだで、サプライズに弱い。
●フランス料理の正しいマナー(成美堂出版『女性の美しいマナー』より。)
<ナプキンの使い方>
・ナプキンを取り上げるタイミングは、最初の飲み物や料理が来たとき。
・二つ折りにしてから、輪の方を手前にしてひざの上に広げる。首にかけてはいけない。
・ハンカチで口を拭くのは「ナプキンが汚くて使えない」というメッセージなので、失礼にあたる。
・食事が終わったらテーブルの上に。綺麗にたたむのはNG。「ナプキンをたたむのを忘れるほどにおいしかった」という意味を込めるために軽くたたむ。
<細かいルール>
・フルコースの場合、パンを食べていいのはスープが終わってから。
・バターはスプレッダーから直接塗ってはいけない。自分の使う分を一度取り皿に取ってから、食べるだけパンをちぎってその都度塗る。
・メインが済んだら中座して良し。ダスト・パンでパン屑を掃除されたら、メイン終了の合図。
・男性がいる場合、ワインのテイスティングは任せる。
●初めて食べたもの。
フォアグラ、ブルーチーズ、紫ウニ、後味がかなりしっかりしたシャンパン。
●笑った話。
年末にまつわる思い出話にて。「年越しそば」というのは、本当に年を越す瞬間に食べなければいけないと思いこんでいたという、若き日のマイ・ラヴァー。
実際にそばをすするのは、「ズズズーッ!」というわずか数秒の出来事なので、年明けのカウントダウンの段階からじわじわと箸を持ち上げ、「今!」という瞬間にそばを食べていたらしい。さらに、カウントダウンに間に合わないと大変なので、「早くしないと12時になっちゃうよ!」と、そばを茹でる母親をせっついて、もう生のままでもいい、という位の勢いだったらしい。ことごとく、食にこだわり過ぎだ。
●「衝動>許容量」の法則。
「こうしたい。」という衝動が生まれるから、人は行動に移す。それは「こうしたい。」という衝動が、認識可能範囲に収まっている場合に限る。認識を超えた衝動は、たとえ飽和量を超えても、爆発するわけではない(なにしろ認識できないから行動に移せない)。
ただ、認識不可能であっても飽和してはいるので、本人は苦しい。体の中で化学反応を起こし爆発しまくった衝動は、あくまでも体内で秘密裏に処理される。対外に現れる反応といえば、"行動に移したい対象"をじっと見つめるくらいだ。
●キスの起源。
赤ちゃんが手にするものを何でも口に入れたがるように、私たちは好きなものを口に入れたい。本能的に。というわけで、好きな人を口に入れたいと思う。だったらその人の唇に限らずどこでもいいんじゃないのという感じだが、たまたま相手も同じように口に入れたいと思うから、「唇to唇」という構図が生まれるのではないか?
●趣旨から外れたクリスマス。
ブッシュ大統領が記者会見を「Happy holidays」で締め括ったニュースを受けて。アメリカでは、「Merry Christmas」が特定の宗教の挨拶ということで、宗教を限定しない「Happy holidays」がやや主流になりつつあるそうだ。
まあ、つまり、クリスマスにまつわるすべてのことは、敬虔なクリスチャンにとっては(それこそアメリカでは)何かと大事らしい。商業主義のクリスマスは批判されているそうだし。
平和というか、脳天気というか、とにかく、真っ先に批判を浴びそうな「THE・日本のバカップルのクリスマス」を過ごしてしまったが、お約束のクリスマスソングを流しながら、キャンドルを灯して、プレゼントを用意して…という、イイ大人が思わず笑っちゃうほどに幸せな行為が、まさか神に責められるものとは到底思えないのだが、どうだろうか。
揺れ動くその姿が
2005年12月23日かなりショックな事件が。
厳密な意味でオトナを尊敬するようになったのは、二十歳を過ぎてからだ。なぜ「尊敬」という感情を知るようになったか、そのきっかけのようなものはハッキリわかっていて、あるお姉さんと出会ったからだ。6歳年上の女性である。
周りにろくな大人がいなかったというわけではないのに、私の中で、彼女(Sさん)は誰よりも抜きんでた存在だった。美しく、聡明で、アクティブで、仕事ができて、イエス・ノーをきっぱりと言い、人に媚びない。私がどうしても飛び越えられないハードルを彼女はいつも易々と飛び越えていて、まさに"凛"という言葉が似合う、得難い女性だ。
ただ。
彼女にとっては楽に飛び越えられるハードルでも、どうして私が同じものを飛び越えなきゃいけないと思っていたのだろう。
ノーと言えない日本人代表のような私が、アメリカナイズされたSさんの精神に嘆息して「真似っこしよう!」と思い込む図式は、果たして正しいのだろうか、と。ノーと言わない私は確かに悪い。でも私が簡単にノーと言わないのは、「ノー」という言葉を受けて嫌な気持ちになる人に配慮してのことだ。「今は自分の意見を言わなきゃいけないよなぁ。」というシーンに際してはなるべく言おう、と思って生きているけど、それでも、そういう私(イエス・ノーを言えない私)だってこの世に必要なのではなかろうか。
私はブログを書いているし、ネットが趣味と言えば趣味である。そんな私にも理解できない「趣味」の持ち主は多々いて、たとえば、格闘技観戦なんかが趣味の人の気持ちはさっぱり理解できない。でも「ほう、この人は格闘技を観ることが好きなんだな。」と思うことはできる。それと同じように、「ほう、りんはネット上で日記を書くことが好きなんだな。」と"認識"してもらうことはできるはずだ。たとえ"理解"が及ばなくても。
"認識"は"理解"とは違う。私はカレー屋巡りが趣味(?)の人と付き合っているけど、正直、「そこまでカレーを?」と思う部分はある。でも「ほう、この人はカレーが好きなんだな。」と思うだけで、私も同じようにカレーの奥深さを"理解"しようとはしていない。向こうも"認識"してもらえればそれでよろしいと思っている(ように見える)。どちらにしても、私は「カレーが好きなんておかしい。」とは決して言わない。
世の中には市民権を得にくい領域がたしかに存在していて、たまたまカレーは許容しやすいジャンルだけど、ロリコンを趣味と認識しろ、と言われたらかなり苦しい。うっかり「ノー」と言いそうになる。Sさんにとって、ネットはそういう領域(私にとってのロリコン領域)に近いのだろう。だから"理解"してもらえなくてもいいんだ。ただ、"認識"はしてもらえるに違いないと、私はSさんのパーソナリティに信頼を置いていた。(そもそも人に何かを期待することがおかしいと言われたとしても。)
Sさんは、"理解"はおろか"認識"すらも拒む、といったスタンスで「ノー」と言った。本当は「キモイ」と思っているのに表面上だけで「いいねー。」と言われることを想像すると腹が立つけど、なんでもかんでもイエス・ノーがはっきりしていることが、本当にカッコイイことなの?
どれだけ自分にとって受け入れがたいことでも、まずフラットな視点で考えたい、考えよう、たとえその後に「イエス・ノー」が発生したとしても。という思考は、私の「生き方」
を決定づける芯の部分なんだ。イエスとノーの間で揺れ動く人が苦しんでいることを想像すらせず、「イエス」もしくは「ノー」という言葉で一刀両断する姿こそあるべき姿だとはなっから信じられる人がいるなら、「とてもおめでたい人ね。」と私は言いたい。
Sさんに失望(たとえ一瞬でも)したと同時に、幼かった私が元カレでなく今の恋人を選んだ理由を、今日になって思い出した。
「好きなタイプは?」と今後問われたら、「イエス・ノーの間で揺れ動き、苦しんでいる人です。」と答えようと思う。この世にはたくさんの人がいるなあ、と思うけど、私は、うっかりイエス寄りになったりノー寄りになったりしつつも、いやいや何事も極端はいかんよとたしなめつつ、あー私たちってどっちにもいい顔したがりの八方美人なのかしらと時には悩みつつ、あーでもないこーでもないと言い合いながらイエスとノーの間の抜け道(そんなものは存在しないと言われても)を共に探していけるような人と一緒にいたい。
------------------------------------------------------------------
備忘。
「肉体美化キャンペーン」は、主催者側の諸事情(時期が時期ということもあり、美味しいものを山ほど食べる機会が、ここ一週間目白押しのため)により、お休みすることが決定しました。
厳密な意味でオトナを尊敬するようになったのは、二十歳を過ぎてからだ。なぜ「尊敬」という感情を知るようになったか、そのきっかけのようなものはハッキリわかっていて、あるお姉さんと出会ったからだ。6歳年上の女性である。
周りにろくな大人がいなかったというわけではないのに、私の中で、彼女(Sさん)は誰よりも抜きんでた存在だった。美しく、聡明で、アクティブで、仕事ができて、イエス・ノーをきっぱりと言い、人に媚びない。私がどうしても飛び越えられないハードルを彼女はいつも易々と飛び越えていて、まさに"凛"という言葉が似合う、得難い女性だ。
ただ。
彼女にとっては楽に飛び越えられるハードルでも、どうして私が同じものを飛び越えなきゃいけないと思っていたのだろう。
ノーと言えない日本人代表のような私が、アメリカナイズされたSさんの精神に嘆息して「真似っこしよう!」と思い込む図式は、果たして正しいのだろうか、と。ノーと言わない私は確かに悪い。でも私が簡単にノーと言わないのは、「ノー」という言葉を受けて嫌な気持ちになる人に配慮してのことだ。「今は自分の意見を言わなきゃいけないよなぁ。」というシーンに際してはなるべく言おう、と思って生きているけど、それでも、そういう私(イエス・ノーを言えない私)だってこの世に必要なのではなかろうか。
私はブログを書いているし、ネットが趣味と言えば趣味である。そんな私にも理解できない「趣味」の持ち主は多々いて、たとえば、格闘技観戦なんかが趣味の人の気持ちはさっぱり理解できない。でも「ほう、この人は格闘技を観ることが好きなんだな。」と思うことはできる。それと同じように、「ほう、りんはネット上で日記を書くことが好きなんだな。」と"認識"してもらうことはできるはずだ。たとえ"理解"が及ばなくても。
"認識"は"理解"とは違う。私はカレー屋巡りが趣味(?)の人と付き合っているけど、正直、「そこまでカレーを?」と思う部分はある。でも「ほう、この人はカレーが好きなんだな。」と思うだけで、私も同じようにカレーの奥深さを"理解"しようとはしていない。向こうも"認識"してもらえればそれでよろしいと思っている(ように見える)。どちらにしても、私は「カレーが好きなんておかしい。」とは決して言わない。
世の中には市民権を得にくい領域がたしかに存在していて、たまたまカレーは許容しやすいジャンルだけど、ロリコンを趣味と認識しろ、と言われたらかなり苦しい。うっかり「ノー」と言いそうになる。Sさんにとって、ネットはそういう領域(私にとってのロリコン領域)に近いのだろう。だから"理解"してもらえなくてもいいんだ。ただ、"認識"はしてもらえるに違いないと、私はSさんのパーソナリティに信頼を置いていた。(そもそも人に何かを期待することがおかしいと言われたとしても。)
Sさんは、"理解"はおろか"認識"すらも拒む、といったスタンスで「ノー」と言った。本当は「キモイ」と思っているのに表面上だけで「いいねー。」と言われることを想像すると腹が立つけど、なんでもかんでもイエス・ノーがはっきりしていることが、本当にカッコイイことなの?
どれだけ自分にとって受け入れがたいことでも、まずフラットな視点で考えたい、考えよう、たとえその後に「イエス・ノー」が発生したとしても。という思考は、私の「生き方」
を決定づける芯の部分なんだ。イエスとノーの間で揺れ動く人が苦しんでいることを想像すらせず、「イエス」もしくは「ノー」という言葉で一刀両断する姿こそあるべき姿だとはなっから信じられる人がいるなら、「とてもおめでたい人ね。」と私は言いたい。
Sさんに失望(たとえ一瞬でも)したと同時に、幼かった私が元カレでなく今の恋人を選んだ理由を、今日になって思い出した。
「好きなタイプは?」と今後問われたら、「イエス・ノーの間で揺れ動き、苦しんでいる人です。」と答えようと思う。この世にはたくさんの人がいるなあ、と思うけど、私は、うっかりイエス寄りになったりノー寄りになったりしつつも、いやいや何事も極端はいかんよとたしなめつつ、あー私たちってどっちにもいい顔したがりの八方美人なのかしらと時には悩みつつ、あーでもないこーでもないと言い合いながらイエスとノーの間の抜け道(そんなものは存在しないと言われても)を共に探していけるような人と一緒にいたい。
------------------------------------------------------------------
備忘。
「肉体美化キャンペーン」は、主催者側の諸事情(時期が時期ということもあり、美味しいものを山ほど食べる機会が、ここ一週間目白押しのため)により、お休みすることが決定しました。