今見える教室
2005年5月17日分度器の友人(4月11日の日記参照)が遊びに来た。
妙な事になりはしたが、やはり昔からの友人だよなぁと納得。私の精神の揺れ動きをほんのちょっとのメールから察する事ができる友人は、そんなに多くない。
バニラアイスと(なぜか)オレンジキュラソーの土産を頂く。お菓子作りをしたことの無い人は、まずこのオレンジキュラソーの名前からして知らないと思われるが、要は風味付けの料理酒だ。それはかろうじてわかったが、一体この組み合わせは…??
彼女いわく「料理酒(ブランデーでも可)をアイスにかけて食べると美味しい」と。騙されたと思って食え食えとうるさいので、騙されたと思って食った。
…うまーい!!
安いスーパーカップと、芳醇な香り漂う料理酒の絶妙なマッチング。これは知らなかった。感動する私の前で「してやったり」と言いたげに微笑む彼女を見るうちに、「ああ、私はこの子のこういうトコ好きだな」と思った。スタイルも容姿も決して悪くないのに、なぜか高校時代すみっこで生きていた彼女の魅力に気付く男は、そういえばあまりいなかった。
そんな感じで高校の卒業アルバムを二人で鑑賞。そして驚くべきことに、二人して同じ感想を持つこととなった。
同窓会などを開くとおそらくそうなると思うのだが、概してクラスでも目立っていた部類の人たち(男ならちょっと悪ぶってた人とか、運動部に所属してた人とか)の話は必ず出る。というかそうでもなかった人に関しては、名前を聞いても思い出せない事がある。中学や小学校に関してはそうでもないのだが、なぜか高校時代に顕著だ。高校くらいになると、皆自然に「興味ある人/ない人」の分類ができるようになるのだろうな。
しかし今回何年振りかに卒アルを見て気付いたのは、「今もう一度会いたい」と思う人が意外に多いという事。そしてそれはクラスで目立っていた人ではない。むしろアルバムを見るまで忘れていたような人たちだ。
一緒に見ていた彼女いわく(彼女は彼女で当時好きな人はいたのだが)、もう一度会いたいのはI君という男子だと。I君は私も知っているが、本当に普通過ぎる人で、別に嫌われているわけでもなかったしかといって人気があったわけでもなく。っていうか何部に所属していたかも知らない。本当に話題にも上らない、ごく普通の男の子だったのだ。
なんで昔好きだった人じゃなくてI君に会いたいのかと聞いたところ、「今だから良さがわかる」と。はぁ〜、なるほどね〜、と思った。確かに私ももう一度会ってみたいと思うのは、当時目にもとまらなかったような男子だ。
文化祭の打ち上げで行った居酒屋(そう言えば当時はただ居酒屋に行っただけで、大人になったような錯覚をしたものだ)で、ドリンクを注文した時、彼女が頼んだカルピスサワーに間違えてI君が先に口をつけてしまったと。
それに気付いたI君は顔を真っ赤にして謝り、「別にいいよ、それ飲むから」と言う彼女を突っぱね、店員にもう一度同じカルピスサワーを注文したと。しかしなかなかそれは来なくて、その間彼女もI君も何も飲まず何も食べず、ただ待っていたそうだ。はっきり言って間接キスなんか彼女にとってはさしたる問題ではなかったのに、I君は本当に申し訳なさそうにしていたと。
え、だから?って感じではあるが、彼女はもう一度I君とあの時の話をしてみたいという。
「うちの高校全然いい男いないよねー」というのは、当時の私と彼女の共通の見解だったが、本当に何もわかっていなかったのだなぁと、今更ながら思う。そして当時自分がどうして全然モテてなかったのかも、なんとなくだが納得。
大人になるとはどんな事なのか。きっと端的に言い表せるわけないんだろうけど、敢えて一部分を定義するならば、「今までわからなかったものの価値がわかるようになる事」ではないかと。
酒の味然り、人の魅力然り。
妙な事になりはしたが、やはり昔からの友人だよなぁと納得。私の精神の揺れ動きをほんのちょっとのメールから察する事ができる友人は、そんなに多くない。
バニラアイスと(なぜか)オレンジキュラソーの土産を頂く。お菓子作りをしたことの無い人は、まずこのオレンジキュラソーの名前からして知らないと思われるが、要は風味付けの料理酒だ。それはかろうじてわかったが、一体この組み合わせは…??
彼女いわく「料理酒(ブランデーでも可)をアイスにかけて食べると美味しい」と。騙されたと思って食え食えとうるさいので、騙されたと思って食った。
…うまーい!!
安いスーパーカップと、芳醇な香り漂う料理酒の絶妙なマッチング。これは知らなかった。感動する私の前で「してやったり」と言いたげに微笑む彼女を見るうちに、「ああ、私はこの子のこういうトコ好きだな」と思った。スタイルも容姿も決して悪くないのに、なぜか高校時代すみっこで生きていた彼女の魅力に気付く男は、そういえばあまりいなかった。
そんな感じで高校の卒業アルバムを二人で鑑賞。そして驚くべきことに、二人して同じ感想を持つこととなった。
同窓会などを開くとおそらくそうなると思うのだが、概してクラスでも目立っていた部類の人たち(男ならちょっと悪ぶってた人とか、運動部に所属してた人とか)の話は必ず出る。というかそうでもなかった人に関しては、名前を聞いても思い出せない事がある。中学や小学校に関してはそうでもないのだが、なぜか高校時代に顕著だ。高校くらいになると、皆自然に「興味ある人/ない人」の分類ができるようになるのだろうな。
しかし今回何年振りかに卒アルを見て気付いたのは、「今もう一度会いたい」と思う人が意外に多いという事。そしてそれはクラスで目立っていた人ではない。むしろアルバムを見るまで忘れていたような人たちだ。
一緒に見ていた彼女いわく(彼女は彼女で当時好きな人はいたのだが)、もう一度会いたいのはI君という男子だと。I君は私も知っているが、本当に普通過ぎる人で、別に嫌われているわけでもなかったしかといって人気があったわけでもなく。っていうか何部に所属していたかも知らない。本当に話題にも上らない、ごく普通の男の子だったのだ。
なんで昔好きだった人じゃなくてI君に会いたいのかと聞いたところ、「今だから良さがわかる」と。はぁ〜、なるほどね〜、と思った。確かに私ももう一度会ってみたいと思うのは、当時目にもとまらなかったような男子だ。
文化祭の打ち上げで行った居酒屋(そう言えば当時はただ居酒屋に行っただけで、大人になったような錯覚をしたものだ)で、ドリンクを注文した時、彼女が頼んだカルピスサワーに間違えてI君が先に口をつけてしまったと。
それに気付いたI君は顔を真っ赤にして謝り、「別にいいよ、それ飲むから」と言う彼女を突っぱね、店員にもう一度同じカルピスサワーを注文したと。しかしなかなかそれは来なくて、その間彼女もI君も何も飲まず何も食べず、ただ待っていたそうだ。はっきり言って間接キスなんか彼女にとってはさしたる問題ではなかったのに、I君は本当に申し訳なさそうにしていたと。
え、だから?って感じではあるが、彼女はもう一度I君とあの時の話をしてみたいという。
「うちの高校全然いい男いないよねー」というのは、当時の私と彼女の共通の見解だったが、本当に何もわかっていなかったのだなぁと、今更ながら思う。そして当時自分がどうして全然モテてなかったのかも、なんとなくだが納得。
大人になるとはどんな事なのか。きっと端的に言い表せるわけないんだろうけど、敢えて一部分を定義するならば、「今までわからなかったものの価値がわかるようになる事」ではないかと。
酒の味然り、人の魅力然り。
見えないところでお互いに大人になる準備をしよう
2005年5月17日彼氏のことを書こうと思う。
私の彼氏は、外見にそぐわず真面目な方だ。
理想とするのは木村拓也(ムリだから。)、もしくは玉木宏(ムリだから。)だそうで、なんだか色々と頑張っているみたいだけど、どうにも不自然さが取れない。なんちゅうかこう、無理してる感が漂っているのだ。まあ出会った時の私は10代だったし、無理なかっこつけにまんまと騙されたから、今があるわけなんだけど。
最近は随分落ち着いてきたけれど、全盛期はいわゆるギャル男と呼ばれるに相応しい格好をしていた。まあギャル男といっても色々あるみたいで(詳しくは知らないが)、渋谷にいるようなセンターGUYもしくはそれに準ずる系統ではなく、本人いわくモード系ギャル男(なにそれ)だそうで。つまり渋谷系ではなく、新宿系だと。
まあとにかくそんな人だったんです、彼は。
そんな彼は毎日必ずメールをよこす。「おはよう。今日も一日頑張ろう。」から始まり、「おやすみ。今日も一日おつかれさま。」で終わる。おやすみと打つ前にどちらかが眠ってしまう事もあるが、三年弱もの間毎日欠かさずこれを続けているのだから、あいつは元ギャル男のくせに結構すごい。
そしてもっとすごいのは、お互いに一日のスケジュールを細かく把握し合っているという事。しかも付き合い初めてからほぼずっと。学校は一緒だし、どこでバイトしてるかも知ってるし、どこに住んでるかも知ってるし、お互いの家族の顔も名前も知ってるし、どんな友達がいるかも知っている。だから、奴が正確にどのあたりにいて何をしているかは大体わかっているし、向こうもそうだ。そんな関係は窮屈ではないかと言われるが、幸いにしてお互いに隠し事もあまり無かったし、むしろ世間のカップルはみんなこんな感じかと思っていた。
どうも彼は根が誠実なくせに、"悪い男"に憧れる傾向があるようだ。つまりマメにメールしたり、スケジュールを公開したりする一面を持ちながら、"しょうもない俺"になりたいと思っているらしい。小心者の男子学生が、昔のヤンキーに憧れるようなものだろうか。
だからふらっとキャバクラに行ってみたり、友達の友達の女の子と映画に行ってみたり、何かとしてはみるんだけど、何しろ根が真面目なものだからいつでも中途半端に終わる。どうせ風俗に行くのなら、ピンサロで一発抜いてみたり、ソープで泡々にされて悶える位すればいいのに。しかも大したことしてないのに、いちいち私に報告する。そして「ごめんね。でも途中で帰ってきたの。」とかわけわかんない言い訳付き。キャバクラ行ったとか、別に言わなければばれないのに。
もちろん私は一度たりとも不埒かつ不誠実な事をしなかったから、お互いに本当の浮気なんてあるはず無いと思っていた。私は奴の告白を信じているし、向こうも私の何もかもを信頼している。
だから私たちにとって一番恐いのは、"浮気"ではなく、"本気"である。
とにかく"浮気"に関しては、お互い黙っていられるはずが無いのだから。奴が一時の気の迷いで浮気をしたとしても、私はきっとそれを許すだろう。しかしもしそれが"本気"に発展するようなものだったとしたら。
昔、まだ奴をどうしても信じられなかった頃(ギャル男を信じられるわけないでしょ)、私は常に不安で不安で仕方なかった。だから一日中しつこくメールをしていた。
今日、彼はどこかで飲んでいるようだ。なぜなら「おやすみ」のメールがまだ来ないから。
でもどこで飲んでいるのかわからない。聞けば快く教えてくれると思うけど、私は聞かない。
なぜなら、別に浮気をしていても構わないから。就活中に知り合った他大の女の子と、セックスしていても構わない。それが"本気"に発展しないものだと信じているから。もしかしたらその女の子のセックスは、私とのよりいいモンかもしれない。彼なりにマンネリを感じているかもしれないから、きっと大いに悩むだろう。"本気"に発展しそうな危険を孕んでいるから、きっと私には言ってこない。
大いに悩めばいいと思う。大いに悩んでくれ。一人きりで悩んでくれ。BROGでも何でもいいから文章化し、自己嫌悪と闘って闘って、最終的に君だけの答えを見つけてくれ。
なぜなら人は過ちを犯さないと、過ちを犯す人間の気持ちがわからないから。自分だっていつ過ちを犯すかもしれないのに、それくらい自分と罪人の間を仕切っている壁は脆いものなのに、皆自分だけは特別な人間だと思っている。そして過ちを犯さないのは、ただ単にタイミングその他に恵まれていただけで、その人が優れているわけでは決してない。なのに自分は優れているのだと思い込む事によって、タイミングに恵まれなかった人を簡単に傷つけるのだ。
彼が過ちを犯すことによって、少しでも大人になって素敵な男性になれるのであれば、むしろ別の誰かとセックスしてくれ。だって、その瞬間は確実にその子とセックスしたいと思ったはずなんだから。なすに任せよ。君のやりたいようにすればいい。その後精一杯の後悔と懺悔をして、他人を簡単に蔑まない大人になれるのなら、私は今よりもっとあなたを深く愛する事だろう。
私の彼氏は、外見にそぐわず真面目な方だ。
理想とするのは木村拓也(ムリだから。)、もしくは玉木宏(ムリだから。)だそうで、なんだか色々と頑張っているみたいだけど、どうにも不自然さが取れない。なんちゅうかこう、無理してる感が漂っているのだ。まあ出会った時の私は10代だったし、無理なかっこつけにまんまと騙されたから、今があるわけなんだけど。
最近は随分落ち着いてきたけれど、全盛期はいわゆるギャル男と呼ばれるに相応しい格好をしていた。まあギャル男といっても色々あるみたいで(詳しくは知らないが)、渋谷にいるようなセンターGUYもしくはそれに準ずる系統ではなく、本人いわくモード系ギャル男(なにそれ)だそうで。つまり渋谷系ではなく、新宿系だと。
まあとにかくそんな人だったんです、彼は。
そんな彼は毎日必ずメールをよこす。「おはよう。今日も一日頑張ろう。」から始まり、「おやすみ。今日も一日おつかれさま。」で終わる。おやすみと打つ前にどちらかが眠ってしまう事もあるが、三年弱もの間毎日欠かさずこれを続けているのだから、あいつは元ギャル男のくせに結構すごい。
そしてもっとすごいのは、お互いに一日のスケジュールを細かく把握し合っているという事。しかも付き合い初めてからほぼずっと。学校は一緒だし、どこでバイトしてるかも知ってるし、どこに住んでるかも知ってるし、お互いの家族の顔も名前も知ってるし、どんな友達がいるかも知っている。だから、奴が正確にどのあたりにいて何をしているかは大体わかっているし、向こうもそうだ。そんな関係は窮屈ではないかと言われるが、幸いにしてお互いに隠し事もあまり無かったし、むしろ世間のカップルはみんなこんな感じかと思っていた。
どうも彼は根が誠実なくせに、"悪い男"に憧れる傾向があるようだ。つまりマメにメールしたり、スケジュールを公開したりする一面を持ちながら、"しょうもない俺"になりたいと思っているらしい。小心者の男子学生が、昔のヤンキーに憧れるようなものだろうか。
だからふらっとキャバクラに行ってみたり、友達の友達の女の子と映画に行ってみたり、何かとしてはみるんだけど、何しろ根が真面目なものだからいつでも中途半端に終わる。どうせ風俗に行くのなら、ピンサロで一発抜いてみたり、ソープで泡々にされて悶える位すればいいのに。しかも大したことしてないのに、いちいち私に報告する。そして「ごめんね。でも途中で帰ってきたの。」とかわけわかんない言い訳付き。キャバクラ行ったとか、別に言わなければばれないのに。
もちろん私は一度たりとも不埒かつ不誠実な事をしなかったから、お互いに本当の浮気なんてあるはず無いと思っていた。私は奴の告白を信じているし、向こうも私の何もかもを信頼している。
だから私たちにとって一番恐いのは、"浮気"ではなく、"本気"である。
とにかく"浮気"に関しては、お互い黙っていられるはずが無いのだから。奴が一時の気の迷いで浮気をしたとしても、私はきっとそれを許すだろう。しかしもしそれが"本気"に発展するようなものだったとしたら。
昔、まだ奴をどうしても信じられなかった頃(ギャル男を信じられるわけないでしょ)、私は常に不安で不安で仕方なかった。だから一日中しつこくメールをしていた。
今日、彼はどこかで飲んでいるようだ。なぜなら「おやすみ」のメールがまだ来ないから。
でもどこで飲んでいるのかわからない。聞けば快く教えてくれると思うけど、私は聞かない。
なぜなら、別に浮気をしていても構わないから。就活中に知り合った他大の女の子と、セックスしていても構わない。それが"本気"に発展しないものだと信じているから。もしかしたらその女の子のセックスは、私とのよりいいモンかもしれない。彼なりにマンネリを感じているかもしれないから、きっと大いに悩むだろう。"本気"に発展しそうな危険を孕んでいるから、きっと私には言ってこない。
大いに悩めばいいと思う。大いに悩んでくれ。一人きりで悩んでくれ。BROGでも何でもいいから文章化し、自己嫌悪と闘って闘って、最終的に君だけの答えを見つけてくれ。
なぜなら人は過ちを犯さないと、過ちを犯す人間の気持ちがわからないから。自分だっていつ過ちを犯すかもしれないのに、それくらい自分と罪人の間を仕切っている壁は脆いものなのに、皆自分だけは特別な人間だと思っている。そして過ちを犯さないのは、ただ単にタイミングその他に恵まれていただけで、その人が優れているわけでは決してない。なのに自分は優れているのだと思い込む事によって、タイミングに恵まれなかった人を簡単に傷つけるのだ。
彼が過ちを犯すことによって、少しでも大人になって素敵な男性になれるのであれば、むしろ別の誰かとセックスしてくれ。だって、その瞬間は確実にその子とセックスしたいと思ったはずなんだから。なすに任せよ。君のやりたいようにすればいい。その後精一杯の後悔と懺悔をして、他人を簡単に蔑まない大人になれるのなら、私は今よりもっとあなたを深く愛する事だろう。
愛でなく
2005年5月16日最近、腑抜けだ。
もう何も手につかない。あんなに真面目に通っていた学校にも全然行ってない。とりあえず今入れてしまったバイトだけは休むわけにいかないから、一応それだけはこなしてるけど、後は本当に何もしていない。内定が出てスケジュールが一気に空いたせいもあるけど、それだけじゃない。
私が今している事と言えば、部屋でぼーっとしてある問題について考えること。そしてその答えをなんとか見つけるために、昔読んだ本やら詩集やらを漁ること。そして自分自身に言い訳をするために、ここに思いを吐き出すこと。悲劇のヒロインぶって本当の自分に全てをなすりつければ、書いている間は自由になれるから。現実逃避だ。日々の反省のために書いていたはずのBROGが、こんな事に利用されるなら本末転倒だ。
でも私って、そもそも大した人間じゃない。それを頑張って立派に見せようとするから、話がややこしくなるのだ。所詮人間なんて元々はいやらしい性欲に浮かされて誕生してるんだから、その存在自体が高尚なもののはずがないのでは?
大体セックスが気持ちよくあるべきだなんて、誰が決めたのだ。セックスには愛が必要だなんて、誰が決めたのだ。愛が無くたってセックスはできるし、気持ちよくなくたって妊娠する。
セックスにそんな高尚な理由は必要ない。理由を探そうとするから、男女の仲はややこしくなるのだろう。セックスに意味を見いだそうとしているのは人間だけだ。セックスはただ単に子孫を残すための活動であって、なぜそれが気持ちいいのかと言えば、そうでなければ誰もやらないからだ。 種の存続のためにそうある必要があったのだ。
本当に「この人とやりたい」と思える瞬間があって、素直にそれに従ったときのセックスこそ、本来の存在意義にかなっている。だって人間としての本能がそうさせているのだから。
それがたとえ不倫だろうが浮気だろうが、とにもかくにも奨励されない間のものであったとしても、それが推奨されない理由は、人間が"本能"でなく"理性"によって作ったものだ。つまり後付けされた理由でしかない。本来の意味と正面から向かい合うとするなら、どんな間柄の二人だったとしても、そのセックスこそもっとも純粋かつ理にかなったものだ。
なぜこんな事を考えたかというと、"本能"ではなく"理性"によって行われるセックスがあると気付いたから。
例えば私たちは、付き合うイコールセックスするべきだと思いこんでいる節がある。自分で考えたわけではなく、慣習的にそうなっているから。「半年付き合ってるのに手を出してこないの」なんて会話がよくなされているあたりからも、この点は明白だ。
初めて男の子と付き合ったときもこの事は考えたのだが、「たとえばドラマや小説などでキスという概念を植え付けられていなくても、この人は私にキスをしたかしら?」と。
それと同じように、「今の私の彼氏はセックスという概念を知らなくても、私を裸にしたいと思ったかしら?」と。つまりDNAに刻み込まれた60億年の記憶に突き動かされて、私を抱きたいと思ったのかしら、と。
だからといって、今の彼氏が私を愛していないと言っているのではない。彼は間違いなく私を愛している。でもセックスの際にそれが関係してるかどうかと言えば、?だ。単純にテクニックとかそういう問題ではなく。
付き合う事とセックスすることは、切り離して考えるべきなのではないか。もちろん同じベクトルに向かってはいる。だってセックスしたい相手と付き合うのが自然だし。でも現代は古代より複雑であるからして、付き合う相手とセックスしたい相手が一致しない事も、ままあることではないか。財産だけを目当てに老人に近づく若い女がいるように。
じゃあ、セックスを理由に異性を捨てるのはアリなのか、ナシなのか。愛とセックスの相関性が見いだせなければ、愛してる相手とは付き合いつつ、セックスしたい相手と浮気していいわけ?切り離して考えるとは、そういう事だ。
一夫一妻制が本来の人間の本能に刃向かっているのではないか。カトリックがなぜそれを奨励したのか。そうでもしないと人間が増えすぎて困るから?よくわからない。もし皆が欲望のままにセックスしまくったとして、本当に人口は爆発的に増えてしまうのか?じゃあ男がしょっちゅう自慰行為をして、精子を外に出さなければいけないのはなぜ?そんだけ精子を使っていいんじゃないの?
生物の時間に、連鎖の仕組みを習った。動物や植物は常に適当な数になるように調節されているのだ。それは偉大なる神様がそうしているのだ。じゃあ私たちが勝手にセックスしまくったところで、別に大したことにはならないのではないか?現に本能を抑制しているにも関わらず、地球の人口は増える一方ではないか。
セックスを開放すべし。いやらしいことでもなんでもない。勝手にいやらしいと判断して抑制するから、わけのわからない問題が生まれているのだ。もっとフランクにセックスをするべきなのだ。そしてたまたま妊娠した相手と結婚すればいい。
でもこんなのがもはや通用するはずもなく。
やはり現代では、"本能"のみに従うセックスこそ悪であって。それを抑制できない人間を淫乱と呼ぶ。ということは、ここにこんなことを書いてる私こそ淫乱の最たる存在で、俗に"売女"と罵られる女なのだろうか。
==================
でもね、愛があるセックスがいいものだって事くらい、なんとなく知ってはいるんですよ。でもそれは自分で知ったことじゃない。本か何かの受け売りだ。自分の頭と体で考えた事じゃないのに、さも正論のように安っぽく語る女が多くて嫌になる。
もう何も手につかない。あんなに真面目に通っていた学校にも全然行ってない。とりあえず今入れてしまったバイトだけは休むわけにいかないから、一応それだけはこなしてるけど、後は本当に何もしていない。内定が出てスケジュールが一気に空いたせいもあるけど、それだけじゃない。
私が今している事と言えば、部屋でぼーっとしてある問題について考えること。そしてその答えをなんとか見つけるために、昔読んだ本やら詩集やらを漁ること。そして自分自身に言い訳をするために、ここに思いを吐き出すこと。悲劇のヒロインぶって本当の自分に全てをなすりつければ、書いている間は自由になれるから。現実逃避だ。日々の反省のために書いていたはずのBROGが、こんな事に利用されるなら本末転倒だ。
でも私って、そもそも大した人間じゃない。それを頑張って立派に見せようとするから、話がややこしくなるのだ。所詮人間なんて元々はいやらしい性欲に浮かされて誕生してるんだから、その存在自体が高尚なもののはずがないのでは?
大体セックスが気持ちよくあるべきだなんて、誰が決めたのだ。セックスには愛が必要だなんて、誰が決めたのだ。愛が無くたってセックスはできるし、気持ちよくなくたって妊娠する。
セックスにそんな高尚な理由は必要ない。理由を探そうとするから、男女の仲はややこしくなるのだろう。セックスに意味を見いだそうとしているのは人間だけだ。セックスはただ単に子孫を残すための活動であって、なぜそれが気持ちいいのかと言えば、そうでなければ誰もやらないからだ。 種の存続のためにそうある必要があったのだ。
本当に「この人とやりたい」と思える瞬間があって、素直にそれに従ったときのセックスこそ、本来の存在意義にかなっている。だって人間としての本能がそうさせているのだから。
それがたとえ不倫だろうが浮気だろうが、とにもかくにも奨励されない間のものであったとしても、それが推奨されない理由は、人間が"本能"でなく"理性"によって作ったものだ。つまり後付けされた理由でしかない。本来の意味と正面から向かい合うとするなら、どんな間柄の二人だったとしても、そのセックスこそもっとも純粋かつ理にかなったものだ。
なぜこんな事を考えたかというと、"本能"ではなく"理性"によって行われるセックスがあると気付いたから。
例えば私たちは、付き合うイコールセックスするべきだと思いこんでいる節がある。自分で考えたわけではなく、慣習的にそうなっているから。「半年付き合ってるのに手を出してこないの」なんて会話がよくなされているあたりからも、この点は明白だ。
初めて男の子と付き合ったときもこの事は考えたのだが、「たとえばドラマや小説などでキスという概念を植え付けられていなくても、この人は私にキスをしたかしら?」と。
それと同じように、「今の私の彼氏はセックスという概念を知らなくても、私を裸にしたいと思ったかしら?」と。つまりDNAに刻み込まれた60億年の記憶に突き動かされて、私を抱きたいと思ったのかしら、と。
だからといって、今の彼氏が私を愛していないと言っているのではない。彼は間違いなく私を愛している。でもセックスの際にそれが関係してるかどうかと言えば、?だ。単純にテクニックとかそういう問題ではなく。
付き合う事とセックスすることは、切り離して考えるべきなのではないか。もちろん同じベクトルに向かってはいる。だってセックスしたい相手と付き合うのが自然だし。でも現代は古代より複雑であるからして、付き合う相手とセックスしたい相手が一致しない事も、ままあることではないか。財産だけを目当てに老人に近づく若い女がいるように。
じゃあ、セックスを理由に異性を捨てるのはアリなのか、ナシなのか。愛とセックスの相関性が見いだせなければ、愛してる相手とは付き合いつつ、セックスしたい相手と浮気していいわけ?切り離して考えるとは、そういう事だ。
一夫一妻制が本来の人間の本能に刃向かっているのではないか。カトリックがなぜそれを奨励したのか。そうでもしないと人間が増えすぎて困るから?よくわからない。もし皆が欲望のままにセックスしまくったとして、本当に人口は爆発的に増えてしまうのか?じゃあ男がしょっちゅう自慰行為をして、精子を外に出さなければいけないのはなぜ?そんだけ精子を使っていいんじゃないの?
生物の時間に、連鎖の仕組みを習った。動物や植物は常に適当な数になるように調節されているのだ。それは偉大なる神様がそうしているのだ。じゃあ私たちが勝手にセックスしまくったところで、別に大したことにはならないのではないか?現に本能を抑制しているにも関わらず、地球の人口は増える一方ではないか。
セックスを開放すべし。いやらしいことでもなんでもない。勝手にいやらしいと判断して抑制するから、わけのわからない問題が生まれているのだ。もっとフランクにセックスをするべきなのだ。そしてたまたま妊娠した相手と結婚すればいい。
でもこんなのがもはや通用するはずもなく。
やはり現代では、"本能"のみに従うセックスこそ悪であって。それを抑制できない人間を淫乱と呼ぶ。ということは、ここにこんなことを書いてる私こそ淫乱の最たる存在で、俗に"売女"と罵られる女なのだろうか。
==================
でもね、愛があるセックスがいいものだって事くらい、なんとなく知ってはいるんですよ。でもそれは自分で知ったことじゃない。本か何かの受け売りだ。自分の頭と体で考えた事じゃないのに、さも正論のように安っぽく語る女が多くて嫌になる。
醜い幸福を貪る大人
2005年5月15日子どもは、大人より頻繁に「もう一つくれ。」という言葉を口にするという。やはり父と母と両方を見て育つからなのだろうか。(原田宗典談)
確かに、幸福というのは複数あると嬉しい。週休二日休みがあっても、日曜日より土曜日の方が嬉しい。今日も休みだけど、明日も休みという"もう一つある幸福"のせいだそうだ。
最近色々あって詩集を開く回数が多いのだが、ある友達から借りた銀色夏生(今更ですね)の『恋が彼等を連れ去った』の中に、こんな詩がある。
僕たちの望みは叶ったんだ
でも叶った時に
次の望みが生まれていたから
まるで叶わなかったように感じているけど
最初のあの僕たちの望みは叶ってはいたんだ
静かに考えてみると文句は言えない(銀色夏生)
そう。人間はどんどんいいものを求めてしまう贅沢な存在なんだと思う。世の中をそっくりシンプルにしてしまったら、きっと大半はいらない物ばかりだ。人間がもっといいものを求める精神を失ってしまったら、進歩も無く文化は枯渇する。
かと言って、その精神自体は推奨されるべきものなのだろうか。問題はそこである。
人生の中で出会う異性の数は限られている。一生で500人の異性に出会うとして、その中で実際に付き合う異性の数はそれより遙かに少なくなる。仮に80年生きる中で500人に出会ったとして、その中の3人と関係を持ったとする。しかしそれは80年生きた後に振り返ってみて、500の中から3を選んだといえるだけで、実際に選んだ時には500もの選択肢があったわけではない。
つまり実際に誰かと付き合おうかどうしようか悩む時に、莫大な選択肢の中から"選んで"いるわけでは決して無い。単純にその人が自分にとってアリかナシか、ただ二つの選択肢があるだけだ。
就職活動が大変なのは、おそらく生まれて初めて莫大な数の中から一社を選ぶ体験をするからだ。それくらい私たちは"選ぶ"という体験をしていない。大学受験の苦悩なんて屁より下らない。就職か、結婚か、進学か、フリーターか、何もしないか。たかだか18かそこらの若者には、せいぜい掻き集めてもこれくらいしか選択肢が無かったからだ。本当に生きるということは、莫大な数の中から何かを選び、同時に多くの別の可能性を捨てる覚悟をする事だ。
そう。"選ぶ"とは、"捨てる"事だ。
そして、選ぶ時にネックとなるのは、前述の「もっといいものを求める精神」だ。Aを選ぶと決めたいけど、Bの方がもっといいものかもしれない。そう考えると決心がつかないのだ。魅力的なBの可能性を捨てる事ができなければ、決してAを選ぶ事ができない。
これは、多くの選択肢が同時に訪れたときの話であるが。つまりこと異性関係に関しては、たくさんの異性を比較検討した上で"選ぶ"事ができない。つまり問題はもっと複雑で、一生のうちに3人と付き合う事が初めからわかっていれば、AかBかCかを頭こねくり回しながら考えることもできるだろうが、そうではないのである。常に選択肢は一つずつやってきて、一度選択を終えてしまえば、その後選択し直す事はできない(できる時もあるが、かなり難しい)。
だから浮気はやはり×なのかもしれない。
AかBかを選ぶ事ができずに(つまりどちらかを捨てる覚悟ができずに)、選択保留のまま放置しておくからだ。とても卑怯だし、ずるい事だと思う。覚悟のできない意気地なしのする事なのだと思う。
でも人にとって、人生はその人だけのもので、たとえ狡猾と言われても本人が何も罪悪感を感じずに幸せでいられるのならば、その人にとってその人生はアリなのではないか。
もちろん浮気をする事によって、他人を傷つけるのであればそれははた迷惑な事だから、きっと駄目だ。じゃあ自分にも恋人がいて、相手にも恋人がいて、お互いに割り切って第二の交際を進めていく浮気だったら?そしてお互いにそれをお互いの恋人に知られないように(傷つけないように)やっていくのであれば、誰も傷付かない。じゃあこれってアリなの?
アリのわけねーだろ!!
"もう一つある幸福"は、理性の伴っていない子どもにこそ許され、容認されるべきものだ。子どもにしか許されないものを楽しんでいる大人のかっこ悪さは、皆知っている。
家族に一つずつ配られたハンバーグなのに、「もう一個食べたい」と言って、半分母親の分を分けてもらう我が儘が醜いように。本当はおなかが減っている母親の気持ちを、子どもは知らない。でも大人は知っているではないか。
確かに、幸福というのは複数あると嬉しい。週休二日休みがあっても、日曜日より土曜日の方が嬉しい。今日も休みだけど、明日も休みという"もう一つある幸福"のせいだそうだ。
最近色々あって詩集を開く回数が多いのだが、ある友達から借りた銀色夏生(今更ですね)の『恋が彼等を連れ去った』の中に、こんな詩がある。
僕たちの望みは叶ったんだ
でも叶った時に
次の望みが生まれていたから
まるで叶わなかったように感じているけど
最初のあの僕たちの望みは叶ってはいたんだ
静かに考えてみると文句は言えない(銀色夏生)
そう。人間はどんどんいいものを求めてしまう贅沢な存在なんだと思う。世の中をそっくりシンプルにしてしまったら、きっと大半はいらない物ばかりだ。人間がもっといいものを求める精神を失ってしまったら、進歩も無く文化は枯渇する。
かと言って、その精神自体は推奨されるべきものなのだろうか。問題はそこである。
人生の中で出会う異性の数は限られている。一生で500人の異性に出会うとして、その中で実際に付き合う異性の数はそれより遙かに少なくなる。仮に80年生きる中で500人に出会ったとして、その中の3人と関係を持ったとする。しかしそれは80年生きた後に振り返ってみて、500の中から3を選んだといえるだけで、実際に選んだ時には500もの選択肢があったわけではない。
つまり実際に誰かと付き合おうかどうしようか悩む時に、莫大な選択肢の中から"選んで"いるわけでは決して無い。単純にその人が自分にとってアリかナシか、ただ二つの選択肢があるだけだ。
就職活動が大変なのは、おそらく生まれて初めて莫大な数の中から一社を選ぶ体験をするからだ。それくらい私たちは"選ぶ"という体験をしていない。大学受験の苦悩なんて屁より下らない。就職か、結婚か、進学か、フリーターか、何もしないか。たかだか18かそこらの若者には、せいぜい掻き集めてもこれくらいしか選択肢が無かったからだ。本当に生きるということは、莫大な数の中から何かを選び、同時に多くの別の可能性を捨てる覚悟をする事だ。
そう。"選ぶ"とは、"捨てる"事だ。
そして、選ぶ時にネックとなるのは、前述の「もっといいものを求める精神」だ。Aを選ぶと決めたいけど、Bの方がもっといいものかもしれない。そう考えると決心がつかないのだ。魅力的なBの可能性を捨てる事ができなければ、決してAを選ぶ事ができない。
これは、多くの選択肢が同時に訪れたときの話であるが。つまりこと異性関係に関しては、たくさんの異性を比較検討した上で"選ぶ"事ができない。つまり問題はもっと複雑で、一生のうちに3人と付き合う事が初めからわかっていれば、AかBかCかを頭こねくり回しながら考えることもできるだろうが、そうではないのである。常に選択肢は一つずつやってきて、一度選択を終えてしまえば、その後選択し直す事はできない(できる時もあるが、かなり難しい)。
だから浮気はやはり×なのかもしれない。
AかBかを選ぶ事ができずに(つまりどちらかを捨てる覚悟ができずに)、選択保留のまま放置しておくからだ。とても卑怯だし、ずるい事だと思う。覚悟のできない意気地なしのする事なのだと思う。
でも人にとって、人生はその人だけのもので、たとえ狡猾と言われても本人が何も罪悪感を感じずに幸せでいられるのならば、その人にとってその人生はアリなのではないか。
もちろん浮気をする事によって、他人を傷つけるのであればそれははた迷惑な事だから、きっと駄目だ。じゃあ自分にも恋人がいて、相手にも恋人がいて、お互いに割り切って第二の交際を進めていく浮気だったら?そしてお互いにそれをお互いの恋人に知られないように(傷つけないように)やっていくのであれば、誰も傷付かない。じゃあこれってアリなの?
アリのわけねーだろ!!
"もう一つある幸福"は、理性の伴っていない子どもにこそ許され、容認されるべきものだ。子どもにしか許されないものを楽しんでいる大人のかっこ悪さは、皆知っている。
家族に一つずつ配られたハンバーグなのに、「もう一個食べたい」と言って、半分母親の分を分けてもらう我が儘が醜いように。本当はおなかが減っている母親の気持ちを、子どもは知らない。でも大人は知っているではないか。
×の強度
2005年5月15日メジャー過ぎると言われても構わないが、私は山田詠美が好きである。SJ(処女と読んでください。)時代は、色々とイマジネーションを刺激されたものだ。
ドラマ化された彼女の作品『ぼくは勉強ができない』は、未だに私の好きな本ベスト5に食い込む。詠美ファンの方から怒られるかもしれないけど、非常に考えてること似てるんですよね、詠美さんと。すっごい仲良しになれる気がする。
上記作品は短編集だが、その中に「○をつけよ」という作品がある。今手元に本が無い(貸し出し中)ので、正確に引用できないのがイタイが、つまり不倫や殺人が悪いことだというのは、周りが勝手に×をつけてるだけじゃないかと。実際の当事者にしてみれば、色々事情なり考えがあるだろうと。それをちゃんと知るためにも、まず最初は○をつけてみよと。まず○をつけた後で考えてみると、多分色々わかる事がある。
特に浮気や不倫。これは100人に聞いたら90人以上が×をつけると思う。実際に現在進行形で浮気中の人でも、諸手を上げてこれらに賛成するとは思えない。基本的にこれはいけない事でしょ、みたいな風潮は確実にある。
でもどうして×なのだろう。
これについて、かつて自分の頭で考えたことがあっただろうか。世の中の大半の人が×をつけているから、安易に自分もそうしていたに過ぎない。こういうことはよくある。『なぜ人を殺してはいけないのか』という新書がベストセラーになった理由も、世の中の大半がよく考えずに×をつけている真理が、なにゆえ真理なのかについて正面からぶつかったからであろう。そう、皆自分の頭で考えて×をつけたことなんて、数える程しかないのである。
基本的に私は22年間真面目に生きてきたから、いわゆる浮気が当たり前になってるような人たちとは、あまり関わらずに生きてきた。何しろ中学高校時代は非常に純粋で、初めて付き合う人と結婚するべきだと本気で思っていたし、逆に一途に恋愛できない人を心の底から軽蔑していた。
誰とでもセックスできちゃう人は最低だと思っていたし、今もよくわからないけど、×をつけている。でも自分がそうならない自信は昔ほど無い。だってそういう世界があまりにも遠いところにあると思っていたのに、そんなことはないという事に気付いてしまったから。いつでもすぐ横にはそういう世界があって、それらと自分のいる世界を仕切っている壁を構成しているのは、よく考えずにつけていた×のパワーだ。そんな脆い×の上にできている壁なんて。
一般に浮気がいけないという理由の中に、「いいとこ取り」は良くないという要素があると思う。長年付き合っている恋人と別れるのは嫌だけど、トキメキが欲しいから浮気をする。本当にトキメキを求めるのであれば、今の恋人とすっぱり別れるべきなのである。多分長年うまくいっていた恋人を捨てられないのは、浮気相手とそれ以上にうまくいくかどうか不安だからではないかと。でもリスクを負わずにいいものを得たいというのは、傲慢だ。
だが、一度も浮気を経験した事が無い人が、本当の意味で×を付けられるのだろうか。なぜなら浮気も殺人も、当事者の置かれている状況はそれこそ人間の存在する数以上に多い。Aさんの浮気とBさんの浮気では、全く性質は違うのである。とかくAさんがどうして浮気をしようと思ったかについて議論されがちだが、多分いつのまにかしてたといった場合がほとんどで、誰もが×だと知った上で犯行に及んでいるのだと思う。じゃあ×と知っていてなおかつそれを遂行させ得た要因とは?
私は浮気に×をつけられない。でも○もつけたくない。
でもそれは、○をつける自分が他人にどう思われるかといった恐怖が先行しているだけなのではないだろうか。
初めて知った。机上の○×問題なんて、所詮幻想に過ぎない。実際に○か×かを執行しなければいけない時に、初めてその強度が試されるのだ。
ドラマ化された彼女の作品『ぼくは勉強ができない』は、未だに私の好きな本ベスト5に食い込む。詠美ファンの方から怒られるかもしれないけど、非常に考えてること似てるんですよね、詠美さんと。すっごい仲良しになれる気がする。
上記作品は短編集だが、その中に「○をつけよ」という作品がある。今手元に本が無い(貸し出し中)ので、正確に引用できないのがイタイが、つまり不倫や殺人が悪いことだというのは、周りが勝手に×をつけてるだけじゃないかと。実際の当事者にしてみれば、色々事情なり考えがあるだろうと。それをちゃんと知るためにも、まず最初は○をつけてみよと。まず○をつけた後で考えてみると、多分色々わかる事がある。
特に浮気や不倫。これは100人に聞いたら90人以上が×をつけると思う。実際に現在進行形で浮気中の人でも、諸手を上げてこれらに賛成するとは思えない。基本的にこれはいけない事でしょ、みたいな風潮は確実にある。
でもどうして×なのだろう。
これについて、かつて自分の頭で考えたことがあっただろうか。世の中の大半の人が×をつけているから、安易に自分もそうしていたに過ぎない。こういうことはよくある。『なぜ人を殺してはいけないのか』という新書がベストセラーになった理由も、世の中の大半がよく考えずに×をつけている真理が、なにゆえ真理なのかについて正面からぶつかったからであろう。そう、皆自分の頭で考えて×をつけたことなんて、数える程しかないのである。
基本的に私は22年間真面目に生きてきたから、いわゆる浮気が当たり前になってるような人たちとは、あまり関わらずに生きてきた。何しろ中学高校時代は非常に純粋で、初めて付き合う人と結婚するべきだと本気で思っていたし、逆に一途に恋愛できない人を心の底から軽蔑していた。
誰とでもセックスできちゃう人は最低だと思っていたし、今もよくわからないけど、×をつけている。でも自分がそうならない自信は昔ほど無い。だってそういう世界があまりにも遠いところにあると思っていたのに、そんなことはないという事に気付いてしまったから。いつでもすぐ横にはそういう世界があって、それらと自分のいる世界を仕切っている壁を構成しているのは、よく考えずにつけていた×のパワーだ。そんな脆い×の上にできている壁なんて。
一般に浮気がいけないという理由の中に、「いいとこ取り」は良くないという要素があると思う。長年付き合っている恋人と別れるのは嫌だけど、トキメキが欲しいから浮気をする。本当にトキメキを求めるのであれば、今の恋人とすっぱり別れるべきなのである。多分長年うまくいっていた恋人を捨てられないのは、浮気相手とそれ以上にうまくいくかどうか不安だからではないかと。でもリスクを負わずにいいものを得たいというのは、傲慢だ。
だが、一度も浮気を経験した事が無い人が、本当の意味で×を付けられるのだろうか。なぜなら浮気も殺人も、当事者の置かれている状況はそれこそ人間の存在する数以上に多い。Aさんの浮気とBさんの浮気では、全く性質は違うのである。とかくAさんがどうして浮気をしようと思ったかについて議論されがちだが、多分いつのまにかしてたといった場合がほとんどで、誰もが×だと知った上で犯行に及んでいるのだと思う。じゃあ×と知っていてなおかつそれを遂行させ得た要因とは?
私は浮気に×をつけられない。でも○もつけたくない。
でもそれは、○をつける自分が他人にどう思われるかといった恐怖が先行しているだけなのではないだろうか。
初めて知った。机上の○×問題なんて、所詮幻想に過ぎない。実際に○か×かを執行しなければいけない時に、初めてその強度が試されるのだ。
実際にあったこと
2005年5月14日昔読んだ『はっぱ64』というエロ漫画の中で、ヒロインの女の子が書く日記が"叙情文"の多い日記だね〜と、馬鹿にされるシーンがあった。つまり思ったことも大事だけど、実際にあったことも大事だと。
なぜそんな事を思い出したかというと、私の日記も思ったことがかなり多いと気付いたからだ。まあ、だからなんだと言われたらそれまでなんですが。
私は物事が「主観的か客観的か」といった事をかなり考えるタイプで、やはり実際にあったことは客観的だけど、思ったことは主観的だと思っている。当たり前ですが。
私は毎日生きていく中で色々な事を体験(実際にあったこと)しているけど、その全てをここに書くわけではないから、その取捨選択の時点で完全なる客観性を失っている。つまり日記なんて所詮主観性の固まりではないかと。淘汰されがちな主観性が一番輝くのが、日記の中においてではないかなと。なんとなくだが、そう思う。
まあ立派なことを書いてしまったわけだけど、つまりね、実際にあったことをここに書くとかなりまずい、というのが最近の私のライフなんですよ。ぶっちゃけ。
なぜそんな事を思い出したかというと、私の日記も思ったことがかなり多いと気付いたからだ。まあ、だからなんだと言われたらそれまでなんですが。
私は物事が「主観的か客観的か」といった事をかなり考えるタイプで、やはり実際にあったことは客観的だけど、思ったことは主観的だと思っている。当たり前ですが。
私は毎日生きていく中で色々な事を体験(実際にあったこと)しているけど、その全てをここに書くわけではないから、その取捨選択の時点で完全なる客観性を失っている。つまり日記なんて所詮主観性の固まりではないかと。淘汰されがちな主観性が一番輝くのが、日記の中においてではないかなと。なんとなくだが、そう思う。
まあ立派なことを書いてしまったわけだけど、つまりね、実際にあったことをここに書くとかなりまずい、というのが最近の私のライフなんですよ。ぶっちゃけ。
世界で一番パパが好き!
2005年5月11日今朝、うちの父(49歳。大阪に単身赴任中。)から電話があった。
オデキができたから皮膚科に行ったところ、尿検査をされて、少し蛋白が出てる事が判明したらしい。だから今日は内科で再検査するとの事。
四月の健康診断で、全く同じ尿検査を受けた時には異常が無かったそうなので、多分ちょっと疲れてるのだろうと思う。最近はあまり一緒に過ごしていないのでよくわからないが、なんにせよ心配である。
大きな事故や事件があっても、なんとなく自分とは関係の無い世界の出来事のような気がして、何が起こっても最終的に自分は助かるんじゃないかみたいに思ってしまうのは、多分私だけじゃないと思う。だから父が病気になるなんて、よく考えたらずっと健康な方が珍しいはずなのに、なんか現実的じゃないのだ。
でもきっと、いつかは死んじゃうんだなぁ。
なんて、ちょっと思った。
うちの父は、ちょっとおばかさんである。彼のおばかさを立証するエピソードはたくさんあるが、ここでは敢えて「タマゴ事件」と「キュウリ事件」を紹介しようと思う。
まだうちの父が大阪に行く前の話である。母はよく父におつかいを頼んでいた。父は配達の仕事をしているので、そのついでに頼まれていた。その日は「タマゴ」を一パックというオーダーだった。一つなので、敢えてメモなどはしなかったそうだ。
そして
父は買い物袋を提げて、帰って来た。
タマネギと共に。
いくら"タマ"が一緒だからって。
元々父は頭のネジが一本足らない人なので、母はそれ以降、どんなに品数が少なくても必ずメモを渡す事にしたそうだ。そして数日後、今度はサラダのための買い物を頼み、メモの縦左半分に野菜六種類を書き留め、一列に書ききれなかったので、今度は右半分にキュウリと書いたらしい。
しかし
父はキュウリを買って来なかった。
「どうしてッ!?」と問いつめてみたところ、彼は逆ギレしながらこう言ったらしい。
「右に書くなよ!!左しか見なかったよ!!」
といっても、手のひらに収まるくらいのメモ用紙なわけで。普通目に飛び込んでくるのでは…
しかし彼には通用しない。つい先週帰省した際も、「トイレマジックリン」を頼んだのに「バスマジックリン」を買ってきたし。しかも二つも。気を利かせたつもりらしいが、まったく嬉しくない。
こんな父ですが、いくら失敗しても全然めげない。母にいくら怒られても、次の瞬間には引越しのサカイの歌を口ずさんでたりする。いくつになっても子どもみたいなのである。
50になろうとしてるのに、携帯に関しては私より情報通で、新しい機種やプランに関して聞いてもいないのに教えてくれる。あとコーヒー屋なのになぜかパソコン検定1級(?)みたいな資格を持ってて、意味不明。若い頃シンガーソングライターになりたかったそうで、父の部屋にはキーボードやギター(アコースティックもエレキもある)があり、暇なときは一人でシャウトしている。誠にうるさい。
映画が大好きで、特に最新のCGを駆使してる作品に目がない。しかも鑑賞する時は絶対にポップコーンを食べる。映画館じゃないのに食べる。
でも小さい頃は毎日よく遊んでくれた。雨の日は家で卓球をしたし、晴れの日はしょっちゅう広い公園に連れていってくれた。一緒にゲームもしてくれたし、私のためにアニメを録画してくれたりした。あれほど子どもと遊んでくれる父親もあまりいないと思う。
子どもの頃、お父さんは何でもできると思っていた。スキーに行けば上手だし、プールに行けば何メートルでも泳げたし、ボートに乗れば漕いでくれたし、ギターも弾けるし、歌が上手いし、機械の故障も直してくれるし、私が「これはどうして?」と聞いてわからない事が無かったから。
私は母が羨ましい。父みたいな人と結婚できたら楽しいだろうなと、本気で思うからだ。うちはある事件以来急に貧乏になっちゃったけど、私はこの家にいてとても幸せだ。貧乏でも父みたいな人と一緒に暮らしたい。
理不尽な事で怒られると、本気で「死ね!!」と思ったりもするけど。
でもきっと、父のような人を結婚相手として選んでしまうんだろうなと思う。その証拠に、今の彼氏は父によく似ている。
「世界で一番パパが好き!」とまでは言えないけど(本当は言えるくらい好きだけど、調子に乗りそうなので言わない。)、結婚式の時には告げてあげてもいいかなーと思っている。
…ファザコン、ですかねぇ。やっぱ。
オデキができたから皮膚科に行ったところ、尿検査をされて、少し蛋白が出てる事が判明したらしい。だから今日は内科で再検査するとの事。
四月の健康診断で、全く同じ尿検査を受けた時には異常が無かったそうなので、多分ちょっと疲れてるのだろうと思う。最近はあまり一緒に過ごしていないのでよくわからないが、なんにせよ心配である。
大きな事故や事件があっても、なんとなく自分とは関係の無い世界の出来事のような気がして、何が起こっても最終的に自分は助かるんじゃないかみたいに思ってしまうのは、多分私だけじゃないと思う。だから父が病気になるなんて、よく考えたらずっと健康な方が珍しいはずなのに、なんか現実的じゃないのだ。
でもきっと、いつかは死んじゃうんだなぁ。
なんて、ちょっと思った。
うちの父は、ちょっとおばかさんである。彼のおばかさを立証するエピソードはたくさんあるが、ここでは敢えて「タマゴ事件」と「キュウリ事件」を紹介しようと思う。
まだうちの父が大阪に行く前の話である。母はよく父におつかいを頼んでいた。父は配達の仕事をしているので、そのついでに頼まれていた。その日は「タマゴ」を一パックというオーダーだった。一つなので、敢えてメモなどはしなかったそうだ。
そして
父は買い物袋を提げて、帰って来た。
タマネギと共に。
いくら"タマ"が一緒だからって。
元々父は頭のネジが一本足らない人なので、母はそれ以降、どんなに品数が少なくても必ずメモを渡す事にしたそうだ。そして数日後、今度はサラダのための買い物を頼み、メモの縦左半分に野菜六種類を書き留め、一列に書ききれなかったので、今度は右半分にキュウリと書いたらしい。
しかし
父はキュウリを買って来なかった。
「どうしてッ!?」と問いつめてみたところ、彼は逆ギレしながらこう言ったらしい。
「右に書くなよ!!左しか見なかったよ!!」
といっても、手のひらに収まるくらいのメモ用紙なわけで。普通目に飛び込んでくるのでは…
しかし彼には通用しない。つい先週帰省した際も、「トイレマジックリン」を頼んだのに「バスマジックリン」を買ってきたし。しかも二つも。気を利かせたつもりらしいが、まったく嬉しくない。
こんな父ですが、いくら失敗しても全然めげない。母にいくら怒られても、次の瞬間には引越しのサカイの歌を口ずさんでたりする。いくつになっても子どもみたいなのである。
50になろうとしてるのに、携帯に関しては私より情報通で、新しい機種やプランに関して聞いてもいないのに教えてくれる。あとコーヒー屋なのになぜかパソコン検定1級(?)みたいな資格を持ってて、意味不明。若い頃シンガーソングライターになりたかったそうで、父の部屋にはキーボードやギター(アコースティックもエレキもある)があり、暇なときは一人でシャウトしている。誠にうるさい。
映画が大好きで、特に最新のCGを駆使してる作品に目がない。しかも鑑賞する時は絶対にポップコーンを食べる。映画館じゃないのに食べる。
でも小さい頃は毎日よく遊んでくれた。雨の日は家で卓球をしたし、晴れの日はしょっちゅう広い公園に連れていってくれた。一緒にゲームもしてくれたし、私のためにアニメを録画してくれたりした。あれほど子どもと遊んでくれる父親もあまりいないと思う。
子どもの頃、お父さんは何でもできると思っていた。スキーに行けば上手だし、プールに行けば何メートルでも泳げたし、ボートに乗れば漕いでくれたし、ギターも弾けるし、歌が上手いし、機械の故障も直してくれるし、私が「これはどうして?」と聞いてわからない事が無かったから。
私は母が羨ましい。父みたいな人と結婚できたら楽しいだろうなと、本気で思うからだ。うちはある事件以来急に貧乏になっちゃったけど、私はこの家にいてとても幸せだ。貧乏でも父みたいな人と一緒に暮らしたい。
理不尽な事で怒られると、本気で「死ね!!」と思ったりもするけど。
でもきっと、父のような人を結婚相手として選んでしまうんだろうなと思う。その証拠に、今の彼氏は父によく似ている。
「世界で一番パパが好き!」とまでは言えないけど(本当は言えるくらい好きだけど、調子に乗りそうなので言わない。)、結婚式の時には告げてあげてもいいかなーと思っている。
…ファザコン、ですかねぇ。やっぱ。
猫の瞳に映らない宇宙
2005年5月8日ウチは猫(メス。14歳位。)を飼っている。
最近家にいる時間が長いので、奴といる時間が長いのだが、奴は私に様々な示唆を与えてくれる。まあ犬猫の年齢は人間のそれの4〜5倍というから、奴の方が成熟してるわけだし。
奴は家猫なので、家から一歩も出ない。別に閉じこめてるわけではないのだが、奴自身が怖がって外に出ないのである。というわけで、奴のテリトリーは主に一階のリビング。特にコタツに関しては、完璧に自分の物だと思っているようだ。多分マーキングという行為だと思うが、犬と違って猫はお小水を引っかけたりはせず、首っつらの横あたり(?)をこすりつけたりする。匂いをつけて、「ここはアタシんだからねッ!」とアピールしてるわけだ。
しかし我が家も一年中コタツを出してるわけではないので、当然春になるとしまう日がやってくる。
昨日まであったはずのコタツが、今日は無い。
奴にとってはさっぱりわからないだろう。「なんで、なんで、なんで!?アタシの大事な彼はどこに行ったのヨ!?」という具合だろう。奴は猫ながら表情を持っているのだが(長年猫と暮らしてると、段々表情が読めるようになってくる。)、今日は明らかに呆然としていた。まあ毎年の事なのだが。
私たち人間からすれば、春になってコタツを片付けるのは誠に理にかなった行為である。暖かい季節に暖房器具は必要無い。
しかし、奴にとってはおそらく意味不明なのである。どうしてコタツが急に無くなるのか。多分奴の小さい頭では一生考えてもわからない。この単純過ぎる理屈は、明らかに奴の概念を超越しているから。
そう考えると、私たちがいくら考えてもわからないような事(例えば死んだらどうなるのかとか。あと宇宙の果てはどうなっているのかとか。)のほとんどは、もしかしたら馬鹿らしい程単純な真理に基づいているのかもしれないと思ったりするのである。奴にとっての宇宙とは我が家のリビングで、きっと奴はこのリビングが全てだと思っている。でも本当は、家の外にも広い世界があって、奴とよく似た猫たちがたくさんいるのだ。
偉大な哲学者たちがどんなに頭をひねって考えても、所詮与えられただけの小さな脳味噌で考えた理論なのだ。真理はきっと私たちの概念を、遙かに遙かに超越したところにあるのだと思う。
奴は馬鹿だから、きっとこのリビングがこの世の全てだと思っていると思うけど、それは別に悪いことではない。だって奴にとってはこのリビングしか無いから。
私たちにとっても、きっと丁度良い大きさの箱があって、それが大きいからといって幸せだとは限らない。大切な家族と住めるだけの家が一軒あって、自分たちが食べるものを作れるだけの畑があって、ちょっとだけ散歩に出かけられる庭があれば十分なのではないだろうか。「宇宙」は伸縮するからこそ魅力的で、だからこそ厄介なのだろう。
最近家にいる時間が長いので、奴といる時間が長いのだが、奴は私に様々な示唆を与えてくれる。まあ犬猫の年齢は人間のそれの4〜5倍というから、奴の方が成熟してるわけだし。
奴は家猫なので、家から一歩も出ない。別に閉じこめてるわけではないのだが、奴自身が怖がって外に出ないのである。というわけで、奴のテリトリーは主に一階のリビング。特にコタツに関しては、完璧に自分の物だと思っているようだ。多分マーキングという行為だと思うが、犬と違って猫はお小水を引っかけたりはせず、首っつらの横あたり(?)をこすりつけたりする。匂いをつけて、「ここはアタシんだからねッ!」とアピールしてるわけだ。
しかし我が家も一年中コタツを出してるわけではないので、当然春になるとしまう日がやってくる。
昨日まであったはずのコタツが、今日は無い。
奴にとってはさっぱりわからないだろう。「なんで、なんで、なんで!?アタシの大事な彼はどこに行ったのヨ!?」という具合だろう。奴は猫ながら表情を持っているのだが(長年猫と暮らしてると、段々表情が読めるようになってくる。)、今日は明らかに呆然としていた。まあ毎年の事なのだが。
私たち人間からすれば、春になってコタツを片付けるのは誠に理にかなった行為である。暖かい季節に暖房器具は必要無い。
しかし、奴にとってはおそらく意味不明なのである。どうしてコタツが急に無くなるのか。多分奴の小さい頭では一生考えてもわからない。この単純過ぎる理屈は、明らかに奴の概念を超越しているから。
そう考えると、私たちがいくら考えてもわからないような事(例えば死んだらどうなるのかとか。あと宇宙の果てはどうなっているのかとか。)のほとんどは、もしかしたら馬鹿らしい程単純な真理に基づいているのかもしれないと思ったりするのである。奴にとっての宇宙とは我が家のリビングで、きっと奴はこのリビングが全てだと思っている。でも本当は、家の外にも広い世界があって、奴とよく似た猫たちがたくさんいるのだ。
偉大な哲学者たちがどんなに頭をひねって考えても、所詮与えられただけの小さな脳味噌で考えた理論なのだ。真理はきっと私たちの概念を、遙かに遙かに超越したところにあるのだと思う。
奴は馬鹿だから、きっとこのリビングがこの世の全てだと思っていると思うけど、それは別に悪いことではない。だって奴にとってはこのリビングしか無いから。
私たちにとっても、きっと丁度良い大きさの箱があって、それが大きいからといって幸せだとは限らない。大切な家族と住めるだけの家が一軒あって、自分たちが食べるものを作れるだけの畑があって、ちょっとだけ散歩に出かけられる庭があれば十分なのではないだろうか。「宇宙」は伸縮するからこそ魅力的で、だからこそ厄介なのだろう。
映画の見れない女
2005年5月7日とは、私の事である。
就活中は、一度も映画館に行かなかった。もちろんDVDを借りる事も無く。でもそれが苦痛というわけでもなく。多分、あまり映画が好きな人間ではないのだなと思われる。
実際に見始めると結構楽しいのだが、見始めるまでがめんどくさい。映画館に行く時は時間を調べなくてはいけないし、最寄り駅にレンタル屋が無いので、何か借りる時は車を出さなくてはいけない。めんどくさいのである。
かと言って人が貸してくれる場合、これはこれでまためんどくさい。いざ借りると、返す時には感想を言わなくては失礼だろうから、見る事がなんとなく義務になってしまう。気がむいた時にふらっと見たいのだ。でもなるべく早く返した方がいいし、そうなるとわざわざ時間を作って急いで見る事になる。これも私にはイマイチ合わない。
じゃあテレビでやってるのを見れば、って感じなのだが。これもなんとなく…なのである。他に見たい番組があればそっちを優先してしまう。録画すると結局見ない。
一体なぜなんだろう。
私はそもそも理解力と洞察力に欠けているところがあるので、映画を理解する事が難しいのだ。特にスパイ物とかポリスアクションとかは最もやばい。ミッション実行中も、一体なぜそのミッションを実行しなきゃいけないのかすらよくわかってない時がほとんど。
あとアジア系。これもやばい。高校時代に名作(と思われる。私にはわからない。)の『シュリ』を鑑賞したが、まず登場人物の顔の区別がつかなかった。なんであちらの人はあんなに同じ顔に見えるのだろうか。
そんなわけで、超話題になった『インファナル・アフェア』も私にとってはやばい作品なのである。苦手なポリスアクションとアジアが融合してしまっては、私には手も足も出ない。いえ、一応見た上で言ってるんですよ。でもあれは多分いい作品なんだと思う。私にわからない作品とは、つまり、伏線が絶妙な作品だとも言えるからだ。
あと随分前になるけど、『オーシャンズ11』。
これは最高につまらなかった。初めて映画館で爆睡した。連れは非常に興奮していたので、おそらく映画好きにはとても面白い映画だったんだと思う。案の定続編も出たし。私が理解できない作品はいい作品のケースが多いので、よく続編が出るのである。
こんなアホの私の父親は、とっても映画が好き。父曰く、「映画を見ない人間を、俺は軽蔑する。」と。同感である。
父と一緒に見ると、前述のスパイ物やポリスアクションもとても楽しく感じられる。父は家で映画を見る人なので、私も隣りに座って一緒に見る。彼は私が馬鹿なのをようく知っているので、合間合間に解説を加えてくれる。「さっきのシーンで主人公が〜してただろう?こうゆう意味があったんだよ。」など。一人で見てたら気付かない事がほとんどである。こうゆう時は素直に尊敬してしまう。
恋人と一緒にヴァージンシネマのプレミアシートで見るのもいいけど、私は父の隣りで解説してもらいつつ鑑賞するのが、一番楽しい。
就活中は、一度も映画館に行かなかった。もちろんDVDを借りる事も無く。でもそれが苦痛というわけでもなく。多分、あまり映画が好きな人間ではないのだなと思われる。
実際に見始めると結構楽しいのだが、見始めるまでがめんどくさい。映画館に行く時は時間を調べなくてはいけないし、最寄り駅にレンタル屋が無いので、何か借りる時は車を出さなくてはいけない。めんどくさいのである。
かと言って人が貸してくれる場合、これはこれでまためんどくさい。いざ借りると、返す時には感想を言わなくては失礼だろうから、見る事がなんとなく義務になってしまう。気がむいた時にふらっと見たいのだ。でもなるべく早く返した方がいいし、そうなるとわざわざ時間を作って急いで見る事になる。これも私にはイマイチ合わない。
じゃあテレビでやってるのを見れば、って感じなのだが。これもなんとなく…なのである。他に見たい番組があればそっちを優先してしまう。録画すると結局見ない。
一体なぜなんだろう。
私はそもそも理解力と洞察力に欠けているところがあるので、映画を理解する事が難しいのだ。特にスパイ物とかポリスアクションとかは最もやばい。ミッション実行中も、一体なぜそのミッションを実行しなきゃいけないのかすらよくわかってない時がほとんど。
あとアジア系。これもやばい。高校時代に名作(と思われる。私にはわからない。)の『シュリ』を鑑賞したが、まず登場人物の顔の区別がつかなかった。なんであちらの人はあんなに同じ顔に見えるのだろうか。
そんなわけで、超話題になった『インファナル・アフェア』も私にとってはやばい作品なのである。苦手なポリスアクションとアジアが融合してしまっては、私には手も足も出ない。いえ、一応見た上で言ってるんですよ。でもあれは多分いい作品なんだと思う。私にわからない作品とは、つまり、伏線が絶妙な作品だとも言えるからだ。
あと随分前になるけど、『オーシャンズ11』。
これは最高につまらなかった。初めて映画館で爆睡した。連れは非常に興奮していたので、おそらく映画好きにはとても面白い映画だったんだと思う。案の定続編も出たし。私が理解できない作品はいい作品のケースが多いので、よく続編が出るのである。
こんなアホの私の父親は、とっても映画が好き。父曰く、「映画を見ない人間を、俺は軽蔑する。」と。同感である。
父と一緒に見ると、前述のスパイ物やポリスアクションもとても楽しく感じられる。父は家で映画を見る人なので、私も隣りに座って一緒に見る。彼は私が馬鹿なのをようく知っているので、合間合間に解説を加えてくれる。「さっきのシーンで主人公が〜してただろう?こうゆう意味があったんだよ。」など。一人で見てたら気付かない事がほとんどである。こうゆう時は素直に尊敬してしまう。
恋人と一緒にヴァージンシネマのプレミアシートで見るのもいいけど、私は父の隣りで解説してもらいつつ鑑賞するのが、一番楽しい。
脳にも休暇を
2005年5月1日天気がいいので、朝から洗濯。
家事の中では、洗濯が一番好きだ。衣類と石鹸が混じった匂いが好きなので。きれいになってる、なってる、ふふふ…って感じで。回すのは好きだ。洗濯機を。
干すのも嫌いじゃないが。高校の時ハマッてた某バンドのメンバーがパーソナリティのラジオのテープを、かけっぱなしで干す。つまりゴリゴリのハードロックを聴きながら、ノリノリでパンツとか干してるわけで。なんか映画のワンシーンっぽい。
夕飯は春巻き。具を詰めすぎたらしく、家族から不評。重たいと、箸で持ちづらいそうだ。大分がっかり。近所の料理教室に通おうと目論み中。
就職活動をこの度終了する事にした。
とても平和な私の連休。
こんな日は、小難しい事考えるのやめます。
家事の中では、洗濯が一番好きだ。衣類と石鹸が混じった匂いが好きなので。きれいになってる、なってる、ふふふ…って感じで。回すのは好きだ。洗濯機を。
干すのも嫌いじゃないが。高校の時ハマッてた某バンドのメンバーがパーソナリティのラジオのテープを、かけっぱなしで干す。つまりゴリゴリのハードロックを聴きながら、ノリノリでパンツとか干してるわけで。なんか映画のワンシーンっぽい。
夕飯は春巻き。具を詰めすぎたらしく、家族から不評。重たいと、箸で持ちづらいそうだ。大分がっかり。近所の料理教室に通おうと目論み中。
就職活動をこの度終了する事にした。
とても平和な私の連休。
こんな日は、小難しい事考えるのやめます。
人の話を聞く練習
2005年4月29日二日前に書いた「理想の女性論」が、なんかあちこちで反響を呼んでいる。
大学の友達の何人かにはこのBROGの事を教えているのだが、なんとわざわざ感想メールが来た。そして別のある友達のブログを覗いてみたら、タイトルが「理想の女性像」になっている。そう言えば、初トラックバックもされてしまった。ま、まさかこれがトラバされるとは…
予想外である。もっと考えてから書くべきであった。結構思いつきで書いた文章なので、書き直したい箇所が山ほどある。
最近思うのだが、こうして自分の頭の中のモヤモヤをアウトプットする作業というのは、やはり必要である。鉄は熱いうちに打てじゃないけど、私は思いついた瞬間書きまくる癖があるので、リアルタイムで興奮していた瞬間の自分が、文章にはっきりと表れている。自分がどういう人間で、どういう思考をしがちなのか、ここに書く事で理解できるし、反省の材料にもなる。
という事は、やはり後から書き直してはいかん。後から見たら浅はかな思考だったとしても、そう考えた自分がいた事は紛れもない事実なのだから。浅はかな部分を書き直したいと思ったら、それを修正するのではなく、新たに書き加えるべきである。それによって、昔の自分と今の自分がどう変わっているのかを比較する事ができるはずだから。
さて、今回の「理想の女性論」だが、様々な人の意見を読むうちに、本論を外れて自分の別の側面にスコープがあたることとなった。
私は人の意見を聞くのが苦手である。
私はどちらかと言うと、断定的な文章(〜なのである。〜べきだ。など)を書く傾向があるので、人の反感を買う確率もその分上がるわけである。
自分の意見をはっきり述べる人というのは、大概において自分の意見に自信を持っているから、人の反論に対しても冷静に受け止め議論を膨らませる事ができる。しかし、私は自分の意見にそこまで自信を持っているわけでもないので、やはり人の意見は必要である。それなのに反論されると落ち込む。これは明らかに矛盾している。人から反感を買いたくないというなら、主観性に満ちた断定表現をしなければいいのである。
だが、これはあくまで自分のBROGであるからして、主観性に満ちた文章を書いても一向に構わないはずである。それで批判されるのが嫌なら、自分の部屋の大学ノートに書いてればいいのである。そうじゃなく敢えて人目に触れるような場所に書いているのだから、それは人の意見を期待しているという事で、頂戴した意見はありがたく料理すべきだ。それが自分とは食い違う意見だったとしても、そういう風に考える人がいるのだと受け入れる事はおそらくとても重要だ。そうする事で得られる何かは、部屋でノートに書きなぐって得られるものより価値があるはず。
というわけで、人の意見に耳を傾ける努力をせねばならない。
思い出してみると、私は昔から人の話を聞くのが苦手である。自分に対する批判でなくても、人の意見に対して感想を述べていくうちに自分の話になっていってしまう。これは自分でも気付いている。ということはつまり、いつでも聞き手に回ってくれる友達(私の周りにはかなり多い。)なら話は弾むが、私と同じように話したがりの友達とは対立してしまうという事である。しかも双方が自分の言いたい事だけをまくし立て、双方がお互いの話を全然聞いていないのだとしたら、これは議論として全く価値が無い。
既に私の周りには聞き上手な友達(恋人含む)ばかりになっているという事は、自ら話したがりの友達を排除している事の証拠なのではないか。うわー!これはかなりマズイぞ!
どうして人の話を聞くのが苦手なのだろう。
やはり、自分の意見を否定されたくないという気持ちがあるからだと思う。小心者なのだな、つまり。あとは自信満々に語った事の矛盾を指摘されると、やっぱ恥ずかしいしね。プライドが高いのだな、つまり。
あと、私じゃなくても万人が否定したくなるような論を述べる人ってのもいる。そういう人の意見をどう受けとめるかも大事だと思う。みんなが見向きもしない論を押し通そうとしている人は、大抵の場合見苦しいが、こちらとしてもただ「君の意見は変だよ。」と批判するだけでは、相手のためにも自分のためにもならない。まあ相手が死ぬほど嫌いな人なら敢えて本人に言わなくてもいいだろうけど、「あいつの意見はイケてないな。」と思うだけでは、結局その人と同類であろう。彼/彼女の意見がどうしてイケてないのかを自分のと比較分析して、自分の意見の正しさを(あくまでも自分の中でね。)立証できなくては、自分の理論だって結局は大した事無いという事だ。
つまり人の話を聞くというのは、結局自分の意見を洗練させていく作業なのであろう。こちらが相手に対してレスポンスする事で、相手も更に考える糧を得るだろうし、自分の意見は更に磨かれる。磨いた上での意見を相手に返せば、更に磨く材料をよこしてくれるかもしれない。成長はエンドレスなのだ。
まあ相手がそれなりに「考える人」でないと、議論は息詰まってしまうのだけどね。こちらの意見をなんでもかんでも否定しまくる人は、やはり存在する。そういう点では、話をする相手を選ぶ必要はやはりある。しかし一通り意見を聞いてみてからだろうね、それは。こちらから相手を選んでいては、いつまでたっても自分の好きな意見しか得られないから。
そう考えてみると、相互リンクしてくださる人の存在はやはりありがたい。現実の私を知らないという事は、純粋に文章(思想)だけで私を見ているという事であり、限りなく客観的な評価が得られているという事だ。
えーと、なんだか文章がわけわからなくなってきたので、ここらへんでまとめを。
とりあえず私の今後の課題は、「人の話を聞く。」という事であって、私の理想とする女性とは、自分の意見をきちんと持っている(豊富な教養に基づいて)上で、人の意見を興味深く聞ける人だ。どれだけ自分に都合の悪い反論であっても、それを真摯に受け入れられる謙虚な姿勢を持っている女性に、私はなりたい。
大学の友達の何人かにはこのBROGの事を教えているのだが、なんとわざわざ感想メールが来た。そして別のある友達のブログを覗いてみたら、タイトルが「理想の女性像」になっている。そう言えば、初トラックバックもされてしまった。ま、まさかこれがトラバされるとは…
予想外である。もっと考えてから書くべきであった。結構思いつきで書いた文章なので、書き直したい箇所が山ほどある。
最近思うのだが、こうして自分の頭の中のモヤモヤをアウトプットする作業というのは、やはり必要である。鉄は熱いうちに打てじゃないけど、私は思いついた瞬間書きまくる癖があるので、リアルタイムで興奮していた瞬間の自分が、文章にはっきりと表れている。自分がどういう人間で、どういう思考をしがちなのか、ここに書く事で理解できるし、反省の材料にもなる。
という事は、やはり後から書き直してはいかん。後から見たら浅はかな思考だったとしても、そう考えた自分がいた事は紛れもない事実なのだから。浅はかな部分を書き直したいと思ったら、それを修正するのではなく、新たに書き加えるべきである。それによって、昔の自分と今の自分がどう変わっているのかを比較する事ができるはずだから。
さて、今回の「理想の女性論」だが、様々な人の意見を読むうちに、本論を外れて自分の別の側面にスコープがあたることとなった。
私は人の意見を聞くのが苦手である。
私はどちらかと言うと、断定的な文章(〜なのである。〜べきだ。など)を書く傾向があるので、人の反感を買う確率もその分上がるわけである。
自分の意見をはっきり述べる人というのは、大概において自分の意見に自信を持っているから、人の反論に対しても冷静に受け止め議論を膨らませる事ができる。しかし、私は自分の意見にそこまで自信を持っているわけでもないので、やはり人の意見は必要である。それなのに反論されると落ち込む。これは明らかに矛盾している。人から反感を買いたくないというなら、主観性に満ちた断定表現をしなければいいのである。
だが、これはあくまで自分のBROGであるからして、主観性に満ちた文章を書いても一向に構わないはずである。それで批判されるのが嫌なら、自分の部屋の大学ノートに書いてればいいのである。そうじゃなく敢えて人目に触れるような場所に書いているのだから、それは人の意見を期待しているという事で、頂戴した意見はありがたく料理すべきだ。それが自分とは食い違う意見だったとしても、そういう風に考える人がいるのだと受け入れる事はおそらくとても重要だ。そうする事で得られる何かは、部屋でノートに書きなぐって得られるものより価値があるはず。
というわけで、人の意見に耳を傾ける努力をせねばならない。
思い出してみると、私は昔から人の話を聞くのが苦手である。自分に対する批判でなくても、人の意見に対して感想を述べていくうちに自分の話になっていってしまう。これは自分でも気付いている。ということはつまり、いつでも聞き手に回ってくれる友達(私の周りにはかなり多い。)なら話は弾むが、私と同じように話したがりの友達とは対立してしまうという事である。しかも双方が自分の言いたい事だけをまくし立て、双方がお互いの話を全然聞いていないのだとしたら、これは議論として全く価値が無い。
既に私の周りには聞き上手な友達(恋人含む)ばかりになっているという事は、自ら話したがりの友達を排除している事の証拠なのではないか。うわー!これはかなりマズイぞ!
どうして人の話を聞くのが苦手なのだろう。
やはり、自分の意見を否定されたくないという気持ちがあるからだと思う。小心者なのだな、つまり。あとは自信満々に語った事の矛盾を指摘されると、やっぱ恥ずかしいしね。プライドが高いのだな、つまり。
あと、私じゃなくても万人が否定したくなるような論を述べる人ってのもいる。そういう人の意見をどう受けとめるかも大事だと思う。みんなが見向きもしない論を押し通そうとしている人は、大抵の場合見苦しいが、こちらとしてもただ「君の意見は変だよ。」と批判するだけでは、相手のためにも自分のためにもならない。まあ相手が死ぬほど嫌いな人なら敢えて本人に言わなくてもいいだろうけど、「あいつの意見はイケてないな。」と思うだけでは、結局その人と同類であろう。彼/彼女の意見がどうしてイケてないのかを自分のと比較分析して、自分の意見の正しさを(あくまでも自分の中でね。)立証できなくては、自分の理論だって結局は大した事無いという事だ。
つまり人の話を聞くというのは、結局自分の意見を洗練させていく作業なのであろう。こちらが相手に対してレスポンスする事で、相手も更に考える糧を得るだろうし、自分の意見は更に磨かれる。磨いた上での意見を相手に返せば、更に磨く材料をよこしてくれるかもしれない。成長はエンドレスなのだ。
まあ相手がそれなりに「考える人」でないと、議論は息詰まってしまうのだけどね。こちらの意見をなんでもかんでも否定しまくる人は、やはり存在する。そういう点では、話をする相手を選ぶ必要はやはりある。しかし一通り意見を聞いてみてからだろうね、それは。こちらから相手を選んでいては、いつまでたっても自分の好きな意見しか得られないから。
そう考えてみると、相互リンクしてくださる人の存在はやはりありがたい。現実の私を知らないという事は、純粋に文章(思想)だけで私を見ているという事であり、限りなく客観的な評価が得られているという事だ。
えーと、なんだか文章がわけわからなくなってきたので、ここらへんでまとめを。
とりあえず私の今後の課題は、「人の話を聞く。」という事であって、私の理想とする女性とは、自分の意見をきちんと持っている(豊富な教養に基づいて)上で、人の意見を興味深く聞ける人だ。どれだけ自分に都合の悪い反論であっても、それを真摯に受け入れられる謙虚な姿勢を持っている女性に、私はなりたい。
一言の重み
2005年4月28日携帯が壊れたので、地元のauショップへ。
ってゆうか壊れたのは先週なのだが。買った当初(今年の正月)からそこはかとなく調子が悪かったのを、だましだまし使い続けてたわけだが、ついにお亡くなりになった。いきなり電源が落ちて、全てのユーザメモリが消失。痛過ぎる。
というわけで壊れた翌日すぐに修理を依頼。それが昨日返って来たわけで。ふんふん♪と鼻息まじりに帰宅後、メールを打とうと思ったらいきなりフリーズ!!とにかくキーを押しても何しても画面が全然動かない。電源を切る事もできないので、誰かからの着信が溜まる、メールが溜まる。でも見れぬ!!出れぬ!!
修理に出したばっかなのに、三たびauショップへ。それが今日の事である。
正直、私はかなり立腹していた。だって修理に出して返ってきた携帯が、また壊れたのである。ってか壊れたままだったのではないか。どうなってんだ、京○ラ関東修理センター!!
auショップの姉ちゃんに事情を話すと、また修理に出すとの事。ちょっと待て!買った当初からそもそもこの機種は調子が悪かったのだ。それが一度修理に出しても良くならない(むしろひどくなってる)のだから、もうこの際新しい機種に替えてくれと。
すると「一度だけの修理で良くならなくても、新しい機種をご用意する事はできないんです。もしどうしても新しいのがいいようでしたら、再度お客様にご購入頂くしか…」との事。
なにーーーッ!?
「もう一度修理に出して良くならなかったら、その際はこちらがご用意致しますが…」
なにーーーッ!?
ってか、私は就職活動中なのである。今回だけで三回もauショップに赴いている。これで修理から返ってきたのをまた取りに行ったら四回、更にそれでもまだ調子が悪くてじゃあ新機種にという事で行ったら五回、そんなにせこせこ足を運べる程暇じゃない。ガソリン代出してくれるというのか、auさんよ。ってか京セ○関東修理センターさんよ。
それよりも何よりも一番頭に来ているのが、フリーズしている間の着信やメールを確認する事が、永遠に不可能になってしまったという事だ。どうやら基盤を交換する際にデータが消えるそうなので。
もし企業からの電話だったらどうしてくれるのだ。現在結果待ち(多分電話で連絡が来る)の企業は五社程ある。いつ電話が来てもおかしくない状況なのだ。もし留守電が残されてたにも関わらずこっちがシカトしたら、その企業との縁はおそらく失われる。
私は怒ろうと思った。ショップの姉ちゃんに怒りをぶつけたところでどうなるものでもないが、何か言ってやらなきゃ気が済まない。
しかし、言えなかった。
私は「言えない」人なのである。
なぜ言えないかと言うと、百パーセント相手が悪いという状況など滅多に無いわけで、多少なりとも自分に責任があれば(たとえ自分側の責任が相手より軽かったとしても)、大きな顔などできないと考えてしまうのである。
もしくは怒りをぶつける相手に直接の責任が無い場合。つまりこの場合、auショップの姉ちゃんは別に悪くないわけで。悪いのは○セラ関東修理センターの技術者なわけで。こういう場合は非常に多い。人身事故で電車が遅れた際に、駅員のおじちゃんに噛みついている人がよくいるが、あれだってそうである。駅員さんが事故に関わったわけではないから、直接的な責任は駅員さんに無い。しかしこちらとしては駅員さんに怒りをぶつけるしかないのである。
クレーム処理というものは、非常に難しいと思う。大体の状況に置いて、クレームを受ける本人には責任が無い。
今回の福知山線の事故で、JR西日本職員の遺族への対応が問題になっているそうだ。目が開いたままになっている遺体の目を閉じてやってくださいという遺族の訴えに対して、「それは葬儀屋がやりますから。」と突っぱねられたとの事。確かに心無い対応だなとは思う。
直接遺族に関わっている人は、列車を動かしていた運転士でも車掌でもない。それはそうだ。確かに彼らには直接的責任は無い。それはそうなのだが…
本当に困っている人(クレームを発する人)は、そこにいる人にぶつけるしかないのである。彼らはただただ誠実な対応を求めている。何かしなければ、という使命感にかられる必要は無いと思う。ただ相手の怒りを受け止め同意してあげるだけでいいのだと思う。
私は結局auショップの姉ちゃんに何も言わなかった。ただ修理依頼書にサインをしていた。すると姉ちゃんは、突然言った。
「アドレス帳とかも全部消えてしまったんですよね?お気の毒に。お気持ち察します。修理依頼書には今度こそちゃんと調べてくださいと書き添えておきますね。」
このような一言があるかないか。
クレームが更に大きくなるかどうかは、このような一言があるかないかに懸かっていると思う。
ってゆうか壊れたのは先週なのだが。買った当初(今年の正月)からそこはかとなく調子が悪かったのを、だましだまし使い続けてたわけだが、ついにお亡くなりになった。いきなり電源が落ちて、全てのユーザメモリが消失。痛過ぎる。
というわけで壊れた翌日すぐに修理を依頼。それが昨日返って来たわけで。ふんふん♪と鼻息まじりに帰宅後、メールを打とうと思ったらいきなりフリーズ!!とにかくキーを押しても何しても画面が全然動かない。電源を切る事もできないので、誰かからの着信が溜まる、メールが溜まる。でも見れぬ!!出れぬ!!
修理に出したばっかなのに、三たびauショップへ。それが今日の事である。
正直、私はかなり立腹していた。だって修理に出して返ってきた携帯が、また壊れたのである。ってか壊れたままだったのではないか。どうなってんだ、京○ラ関東修理センター!!
auショップの姉ちゃんに事情を話すと、また修理に出すとの事。ちょっと待て!買った当初からそもそもこの機種は調子が悪かったのだ。それが一度修理に出しても良くならない(むしろひどくなってる)のだから、もうこの際新しい機種に替えてくれと。
すると「一度だけの修理で良くならなくても、新しい機種をご用意する事はできないんです。もしどうしても新しいのがいいようでしたら、再度お客様にご購入頂くしか…」との事。
なにーーーッ!?
「もう一度修理に出して良くならなかったら、その際はこちらがご用意致しますが…」
なにーーーッ!?
ってか、私は就職活動中なのである。今回だけで三回もauショップに赴いている。これで修理から返ってきたのをまた取りに行ったら四回、更にそれでもまだ調子が悪くてじゃあ新機種にという事で行ったら五回、そんなにせこせこ足を運べる程暇じゃない。ガソリン代出してくれるというのか、auさんよ。ってか京セ○関東修理センターさんよ。
それよりも何よりも一番頭に来ているのが、フリーズしている間の着信やメールを確認する事が、永遠に不可能になってしまったという事だ。どうやら基盤を交換する際にデータが消えるそうなので。
もし企業からの電話だったらどうしてくれるのだ。現在結果待ち(多分電話で連絡が来る)の企業は五社程ある。いつ電話が来てもおかしくない状況なのだ。もし留守電が残されてたにも関わらずこっちがシカトしたら、その企業との縁はおそらく失われる。
私は怒ろうと思った。ショップの姉ちゃんに怒りをぶつけたところでどうなるものでもないが、何か言ってやらなきゃ気が済まない。
しかし、言えなかった。
私は「言えない」人なのである。
なぜ言えないかと言うと、百パーセント相手が悪いという状況など滅多に無いわけで、多少なりとも自分に責任があれば(たとえ自分側の責任が相手より軽かったとしても)、大きな顔などできないと考えてしまうのである。
もしくは怒りをぶつける相手に直接の責任が無い場合。つまりこの場合、auショップの姉ちゃんは別に悪くないわけで。悪いのは○セラ関東修理センターの技術者なわけで。こういう場合は非常に多い。人身事故で電車が遅れた際に、駅員のおじちゃんに噛みついている人がよくいるが、あれだってそうである。駅員さんが事故に関わったわけではないから、直接的な責任は駅員さんに無い。しかしこちらとしては駅員さんに怒りをぶつけるしかないのである。
クレーム処理というものは、非常に難しいと思う。大体の状況に置いて、クレームを受ける本人には責任が無い。
今回の福知山線の事故で、JR西日本職員の遺族への対応が問題になっているそうだ。目が開いたままになっている遺体の目を閉じてやってくださいという遺族の訴えに対して、「それは葬儀屋がやりますから。」と突っぱねられたとの事。確かに心無い対応だなとは思う。
直接遺族に関わっている人は、列車を動かしていた運転士でも車掌でもない。それはそうだ。確かに彼らには直接的責任は無い。それはそうなのだが…
本当に困っている人(クレームを発する人)は、そこにいる人にぶつけるしかないのである。彼らはただただ誠実な対応を求めている。何かしなければ、という使命感にかられる必要は無いと思う。ただ相手の怒りを受け止め同意してあげるだけでいいのだと思う。
私は結局auショップの姉ちゃんに何も言わなかった。ただ修理依頼書にサインをしていた。すると姉ちゃんは、突然言った。
「アドレス帳とかも全部消えてしまったんですよね?お気の毒に。お気持ち察します。修理依頼書には今度こそちゃんと調べてくださいと書き添えておきますね。」
このような一言があるかないか。
クレームが更に大きくなるかどうかは、このような一言があるかないかに懸かっていると思う。
オタクでもセレブでもなく
2005年4月27日私が内定を頂いた企業の一次面接で、「あなたの理想とする女性像を教えてください。」と言われた事があった。
その際に何と答えたのか、ちょっと今は思い出せないのだが、もう一度考えてみようと思った。なぜか。私の目指す女性像とは、就職後になりたい自分の事であって、それは同時に企業を選ぶポイントにも繋がる。なりたい自分が最初にあって、それによって入りたい企業というものが構築されるのではないか。
私のなりたい女性。
はっきり言うならば、「美しい女性」である。
「外見よりも内面が美しい女性になりたい。」というのは20代後半に差し掛かった女性向け雑誌によくある、もう外見だけじゃ若い子に太刀打ちできないから内面で勝負するしかないわ的言い訳がましさを感じるので、嫌だ。
内面が美しい女性が、外面に手を抜くわけがなかろう。というのが、私の持論である。
そりゃもんのすごく性格良くて仕事もできてセンスも良くて働き者で優しくてって言っても、中学生がお母さんに買って来てもらったような服で通勤していたら、やっぱりだめな気がする。
というわけで、外面なんかあったりまえに綺麗で、更に内面も洗練されている女性、これを私は目指したいと思う。
外見の磨き方は簡単だと思うけど(まあ金かければそこそこにはみんななるし)、問題は内面である。これははっきりとした理想像を成文化して毎日努力していかないと、絶対に無理であろう。これも私の持論なのだが、目標というものは漠然としたままではダメである。具体的に書き出してみないと忘れてしまうし、客観的に判断し反省できる材料が無ければ、やはり自分には甘くなってしまう。
内面が美しい、とはどういうことなのだろうか。ここ最近の企業研究・自己分析に引き続き、頭が沸騰しそうなテーマである。
まず、最初に思い付くのは、やはり教養がある事だと思う。しかもある一分野にものすごくものすごく詳しいというのではなく、平均的に皆が知っておくべき事をムラ無くカバーしているのが望ましい。その上で専門的知識がある事はさらに素晴らしい事だと思うが、専門分野にはめちゃめちゃ詳しいのに、一般常識は全然だめですーじゃやはりいかん。
では大人として一通りカバーしておくべき事とはなんだ。
まず政治ネタ・経済ネタにある程度精通している事。ここが極端に欠けていると、もうそれだけで馬鹿のレッテルを貼られる危険がある。
あとは国語能力に長けている事。基礎漢字を堂々と間違えて書いている美人OL。これはかっこわるい。あとはボキャブラリーが豊富なこと。「チョー好きー!」では無く、「好き」という言葉を何種類(愛しい、惹かれる、魅入られるなど)にも使い分けられる能力がある事が望ましい。
これだけならまあいっぱいいるんだろうけど、私は更にもう一歩踏み込んだ部分にも精通したい。
例えば外見が綺麗で教養もある程度あっていかにも普通の女性なのに、仲のいい男と話す時にはガンダムの話ができる。これはポイント高い。あとは二大RPGの「FF」と「ドラクエ」程度は、一通りエンディングを押さえていたり。もちろん2ちゃんねる用語も網羅しているが、連発すると知らない人が読みにくいわよね、という位の配慮ができる事。うむ、これはいい。
要は、カマトトぶる女が敢えて踏み込まない領域(一般にオタクの好む傾向がある)にもそれなりに精通していたら、それはかっこいい事ではないか。
かと言って、いわゆるミーハーカマトト女が好むもの(化粧品とか流行の服とか)に関する知識は当然押さえていなければならない。はっきり言える事だが、毎年有明に通っちゃうような同人狂いのオタクとも、CanCamを毎号購読してるようなセレブとも、分け隔てなく会話ができる綺麗な女性というのはあまりいない。
パッと見はただの小綺麗なお姉系なんだけど、売れっ子AV女優位何人かは言えるわよ、あとやおいという言葉の意味だって知ってるわよしかも読んだ事もあるわよ、下ネタなら一晩中でもできるわよ来るなら来なさい、しかも相手がアニメ好きだったら、さらりと「ふたりがプリキュア」位なら知ってるわよって言えちゃう女性。ゲームが好きな相手だったら、『To Heart』って面白いの?でも一時期のメイドブームだけはほんと理解できないわとか言えちゃう女性。
そんな事言いながらも、きちんと爪の先までお手入れしてあって、ピアスも日替わりで服に合わせて選んでる。しかもTPOに合わせた着こなしができていて、嫌味が無い。さらに「私はエビちゃんOLか優OLかで言えば、まあ優OLの方かしら?」なんて言って、ブランドのVignyをうっかり「ビグニー」なんて言い間違えたりすることなく、きちんと季節に合わせて服を選んでいる。つまり外見上はとてもオタクには見えない。
そんな女性がいたらかっこよくないだろうか。
つまり知識に偏りが無いこと。どんな分野でも一通りカバーできている事。本当の意味での教養がある事。とりあえずこれは、私の中では外せない。
ほかには何かあるだろうか。たぶんもっともっといっぱいある。少しずつ考えていこう。
その際に何と答えたのか、ちょっと今は思い出せないのだが、もう一度考えてみようと思った。なぜか。私の目指す女性像とは、就職後になりたい自分の事であって、それは同時に企業を選ぶポイントにも繋がる。なりたい自分が最初にあって、それによって入りたい企業というものが構築されるのではないか。
私のなりたい女性。
はっきり言うならば、「美しい女性」である。
「外見よりも内面が美しい女性になりたい。」というのは20代後半に差し掛かった女性向け雑誌によくある、もう外見だけじゃ若い子に太刀打ちできないから内面で勝負するしかないわ的言い訳がましさを感じるので、嫌だ。
内面が美しい女性が、外面に手を抜くわけがなかろう。というのが、私の持論である。
そりゃもんのすごく性格良くて仕事もできてセンスも良くて働き者で優しくてって言っても、中学生がお母さんに買って来てもらったような服で通勤していたら、やっぱりだめな気がする。
というわけで、外面なんかあったりまえに綺麗で、更に内面も洗練されている女性、これを私は目指したいと思う。
外見の磨き方は簡単だと思うけど(まあ金かければそこそこにはみんななるし)、問題は内面である。これははっきりとした理想像を成文化して毎日努力していかないと、絶対に無理であろう。これも私の持論なのだが、目標というものは漠然としたままではダメである。具体的に書き出してみないと忘れてしまうし、客観的に判断し反省できる材料が無ければ、やはり自分には甘くなってしまう。
内面が美しい、とはどういうことなのだろうか。ここ最近の企業研究・自己分析に引き続き、頭が沸騰しそうなテーマである。
まず、最初に思い付くのは、やはり教養がある事だと思う。しかもある一分野にものすごくものすごく詳しいというのではなく、平均的に皆が知っておくべき事をムラ無くカバーしているのが望ましい。その上で専門的知識がある事はさらに素晴らしい事だと思うが、専門分野にはめちゃめちゃ詳しいのに、一般常識は全然だめですーじゃやはりいかん。
では大人として一通りカバーしておくべき事とはなんだ。
まず政治ネタ・経済ネタにある程度精通している事。ここが極端に欠けていると、もうそれだけで馬鹿のレッテルを貼られる危険がある。
あとは国語能力に長けている事。基礎漢字を堂々と間違えて書いている美人OL。これはかっこわるい。あとはボキャブラリーが豊富なこと。「チョー好きー!」では無く、「好き」という言葉を何種類(愛しい、惹かれる、魅入られるなど)にも使い分けられる能力がある事が望ましい。
これだけならまあいっぱいいるんだろうけど、私は更にもう一歩踏み込んだ部分にも精通したい。
例えば外見が綺麗で教養もある程度あっていかにも普通の女性なのに、仲のいい男と話す時にはガンダムの話ができる。これはポイント高い。あとは二大RPGの「FF」と「ドラクエ」程度は、一通りエンディングを押さえていたり。もちろん2ちゃんねる用語も網羅しているが、連発すると知らない人が読みにくいわよね、という位の配慮ができる事。うむ、これはいい。
要は、カマトトぶる女が敢えて踏み込まない領域(一般にオタクの好む傾向がある)にもそれなりに精通していたら、それはかっこいい事ではないか。
かと言って、いわゆるミーハーカマトト女が好むもの(化粧品とか流行の服とか)に関する知識は当然押さえていなければならない。はっきり言える事だが、毎年有明に通っちゃうような同人狂いのオタクとも、CanCamを毎号購読してるようなセレブとも、分け隔てなく会話ができる綺麗な女性というのはあまりいない。
パッと見はただの小綺麗なお姉系なんだけど、売れっ子AV女優位何人かは言えるわよ、あとやおいという言葉の意味だって知ってるわよしかも読んだ事もあるわよ、下ネタなら一晩中でもできるわよ来るなら来なさい、しかも相手がアニメ好きだったら、さらりと「ふたりがプリキュア」位なら知ってるわよって言えちゃう女性。ゲームが好きな相手だったら、『To Heart』って面白いの?でも一時期のメイドブームだけはほんと理解できないわとか言えちゃう女性。
そんな事言いながらも、きちんと爪の先までお手入れしてあって、ピアスも日替わりで服に合わせて選んでる。しかもTPOに合わせた着こなしができていて、嫌味が無い。さらに「私はエビちゃんOLか優OLかで言えば、まあ優OLの方かしら?」なんて言って、ブランドのVignyをうっかり「ビグニー」なんて言い間違えたりすることなく、きちんと季節に合わせて服を選んでいる。つまり外見上はとてもオタクには見えない。
そんな女性がいたらかっこよくないだろうか。
つまり知識に偏りが無いこと。どんな分野でも一通りカバーできている事。本当の意味での教養がある事。とりあえずこれは、私の中では外せない。
ほかには何かあるだろうか。たぶんもっともっといっぱいある。少しずつ考えていこう。
許すことと、愛すること
2005年4月26日「臭い」という言葉って、強烈だ。(いきなりですが。)
世の中のどんな悪口雑言よりも攻撃力があると思う。特に現代社会では。だってみんな、臭くならないように必死だし。女子共は制汗スプレーを買いまくり、ブレスケアを噛みまくり、靴の中に防臭剤を入れまくる徹底ぶりだ。それもこれも、やはり他人から「臭い」と思われたくない故だろう。
(ある人のBROGで、「一緒に寝ている息子の寝息が臭くて眠れない。」という内容があった。とてもウケた。早朝だったので、家族に迷惑をかけないように声を殺して笑い転げた。)
「臭い」という事はなるべく避けたい。それは自分から臭さを発する場合もそうだし、人の臭さを感じる場合でも同様である。どちらも嫌だ。
最近、感じるのだけど…
うちの彼氏さんの口臭がひどい時がある。
奴は酒飲みなので、飲み会の次の日に会ったりすると、十中八九「臭い」。しかもビールじゃなくてテキーラとか飲んでるから、胃に入って分解された後の匂いたるやすさまじい。
そうでなくても、恋人同士というのは非常に接近する場面が多い。つまり友達として付き合ってる時は気付かないような、ごく僅かなレベルの口臭でもキャッチしてしまうのが、彼氏と彼女の関係なのだ。はっきり言ってこれはかなり厳しい。
もっと言うならば、「この人の口臭ならば一生嗅いでもいいッ!」と思えるような人というのが、結婚する上での必須条件なのではないだろうか。まあ大抵の場合、この人の口臭だけは一生嗅ぎたくないと思うタイプの人は、自分の中での付き合いたくないタイプとほぼリンクしている。しかし、逆に付き合ってもいいかなぁと思うような人といざ接近してみたら…臭かった場合。結構困る。
しかし、最近気付いた事もある。
この前色々あって、久し振りに彼氏さんと接近した日があった。そしたらその日は「臭い」日だったのである。どうやらネギがたっぷり入ったラーメン(しかも奴はにんにくをどっさり入れる。)を昼に食べたらしい。その後確実に私と接近する事がわかっているのに、敢えてそんな臭くなりそうな食材を選んで食した彼を呪ったが、奴はまっったくそんな事を気にしていない様子であった。腹が立ったので、私は奴に言った。
「あんた、今日、口が臭いよ。」
すると彼はこう返した。
「そう?でもおまえも今日は臭いよ。アハハ。」
どうしても人に見せたくない部分は、誰にでもあると思う。それはこの世で自分しか知らないような事だ。排泄に関する全ての事はそうだし、要は自分が動物であると認めざるを得ない部分であると思う。動物、つまり自然界の物は臭いのである。それは人間が勝手に臭いと思っているだけで、本来はごくごくナチュラルな真理なのだと思う。異臭の元となる細菌や微生物は、皆理由があってそこに存在している。
自分の中の一番ナチュラルな部分(なぜかそれは現代では人に見せたくない部分になっているが)をさらけ出せる。そして相手が同じようにそれを受け止めてくれる。難しい事だとは思うけど、できない事ではない。
誰かを嫌う理由というのは、実は表裏一体で、誰かを愛する理由にもなるのではないだろうか。
他の人だったら死ぬ程嫌なような事が、その人に限っては許せる事。探してみれば、いっぱいあると思う。そしてきっと誰かを愛している人は、それを許してあげられる自分自身もまた愛しているのだと思う。
奴が臭いという事を、おちょくりながらも許せる私は、実はとても奴を愛しているのかもしれない。
世の中のどんな悪口雑言よりも攻撃力があると思う。特に現代社会では。だってみんな、臭くならないように必死だし。女子共は制汗スプレーを買いまくり、ブレスケアを噛みまくり、靴の中に防臭剤を入れまくる徹底ぶりだ。それもこれも、やはり他人から「臭い」と思われたくない故だろう。
(ある人のBROGで、「一緒に寝ている息子の寝息が臭くて眠れない。」という内容があった。とてもウケた。早朝だったので、家族に迷惑をかけないように声を殺して笑い転げた。)
「臭い」という事はなるべく避けたい。それは自分から臭さを発する場合もそうだし、人の臭さを感じる場合でも同様である。どちらも嫌だ。
最近、感じるのだけど…
うちの彼氏さんの口臭がひどい時がある。
奴は酒飲みなので、飲み会の次の日に会ったりすると、十中八九「臭い」。しかもビールじゃなくてテキーラとか飲んでるから、胃に入って分解された後の匂いたるやすさまじい。
そうでなくても、恋人同士というのは非常に接近する場面が多い。つまり友達として付き合ってる時は気付かないような、ごく僅かなレベルの口臭でもキャッチしてしまうのが、彼氏と彼女の関係なのだ。はっきり言ってこれはかなり厳しい。
もっと言うならば、「この人の口臭ならば一生嗅いでもいいッ!」と思えるような人というのが、結婚する上での必須条件なのではないだろうか。まあ大抵の場合、この人の口臭だけは一生嗅ぎたくないと思うタイプの人は、自分の中での付き合いたくないタイプとほぼリンクしている。しかし、逆に付き合ってもいいかなぁと思うような人といざ接近してみたら…臭かった場合。結構困る。
しかし、最近気付いた事もある。
この前色々あって、久し振りに彼氏さんと接近した日があった。そしたらその日は「臭い」日だったのである。どうやらネギがたっぷり入ったラーメン(しかも奴はにんにくをどっさり入れる。)を昼に食べたらしい。その後確実に私と接近する事がわかっているのに、敢えてそんな臭くなりそうな食材を選んで食した彼を呪ったが、奴はまっったくそんな事を気にしていない様子であった。腹が立ったので、私は奴に言った。
「あんた、今日、口が臭いよ。」
すると彼はこう返した。
「そう?でもおまえも今日は臭いよ。アハハ。」
どうしても人に見せたくない部分は、誰にでもあると思う。それはこの世で自分しか知らないような事だ。排泄に関する全ての事はそうだし、要は自分が動物であると認めざるを得ない部分であると思う。動物、つまり自然界の物は臭いのである。それは人間が勝手に臭いと思っているだけで、本来はごくごくナチュラルな真理なのだと思う。異臭の元となる細菌や微生物は、皆理由があってそこに存在している。
自分の中の一番ナチュラルな部分(なぜかそれは現代では人に見せたくない部分になっているが)をさらけ出せる。そして相手が同じようにそれを受け止めてくれる。難しい事だとは思うけど、できない事ではない。
誰かを嫌う理由というのは、実は表裏一体で、誰かを愛する理由にもなるのではないだろうか。
他の人だったら死ぬ程嫌なような事が、その人に限っては許せる事。探してみれば、いっぱいあると思う。そしてきっと誰かを愛している人は、それを許してあげられる自分自身もまた愛しているのだと思う。
奴が臭いという事を、おちょくりながらも許せる私は、実はとても奴を愛しているのかもしれない。
結果が全てか否か。
2005年4月25日何日か前に結果が全てだというような事を書いた。
それに関して痛烈なコメントを頂いた。やはり人に「あなたの考え方が嫌いです。」と言われるのは、とても辛い事だ。
しかし私の「結果が全て」という考え方を採用するのであれば、ここに書いた事が原因で人からバッシングを受けようとも、私が一体どういう経過を辿ってこういう考え方をするに至ったかも、読む人にとっては関係無い。他人にとってはここに書いてある事(結果)が全てであり、私が普段どのように人と接しているかとかどういう経験を積んだかとか(プロセス)の全容はわからないのだから。
ちなみに、どうして私は「結果が全て」と書いたのか。
それは就活を続けるうちに、多くの面接官から教わった事だからだ。これは確かに世の中の真理ではない。でも世の中の一側面ではあると思う。
面接官は全くの他人であり、普段の私の事なんて知る由も無い。でも彼らとしても、たった何回かの面接で学生を判断するしかない。じゃあ彼らは何を頼りにして私を判断したのだろう。私が履歴書に書いた事、私の面接中の言動・態度、筆記試験の成績である。この三点だけだ。たった三点。
私を愛してくれる恋人・友達は、皆この三点以外で私を判断している。私のどこが好きでどこが嫌いなのか詳細までは知らないけど、見放されていない点を考えると、総合的には好きが上回っているから関係を維持してくれているのだろう。つまり私にだっていいところはあるという事だ。
しかし、そのいいところを面接官に確実に伝えようとするのは至難の業だ。理想を言えば、私と半年位山奥の保養所で寝食を共にしていただければ、と思う。でもそんなのは無理。つまり、彼らとしても無理矢理物差しを作らざるを得ないわけで。その物差しは無理矢理作られたものだから、絶対的に信頼できるものではないわけで。(というか世の中の事全てを絶対的に判断する事なんて不可能なんですが。)
それでも選ばなくてはいけないのだ。基準は限りなく公平に近くしているのかもしれないが、それでも不公平な基準である事は確実だ。面接は不公平なのだ。そしてそこで選ばれた人(つまり内定した人)が立派な人だとも言い切れない。確かにある意味では立派な人なんだろうけど、ある意味ではだめな部分だってあるはずだ。しかし、そこには紛れも無い事実がある。選ばれた人と選ばれなかった人がいるという事実だ。これは確実な事実であり、客観的だ。
そう、問題は客観的かそうでないかという事だ。
どちらが正しくて、どちらが正しくないかという事ではない。
結果は非常に客観的である事が多い。結果は数字に置き換える事が多いからだ。そしてプロセスというのは多くの場合、主観的である。自分しか知らない部分があるからだ。
だからといって、プロセスはあっても無くても一緒で、結果だけが正しいという主張をするわけではない。そんな主張をする奴は私だって嫌いだ。どんな時でも自分の頑張ったプロセスは自分で知っておきたいし、大事にしたい。
ただそのプロセスをいざ他人にわかってもらうのは難しい。二者(プロセスと結果)があったら、人は多くの場合(もう一度言っておくが、例外はいつだってある。)、結果を優先しがちだからである。万人が受け入れやすい客観性があるからだ。
つまり私が言いたいのは、「結果が全て」という思想が正しいか正しくないかではなく、「結果が全て」というのが世の中のある一面では真実だという事である。
私が嫌なのは、自分にできる最善の努力(プロセス)をしなかったのに、満足できない結果に対しては目を瞑り、「世の中は結果じゃないから。」と自分を擁護しようとする姿勢だ。
どうしてそういうのが嫌いなのか?
自分がそうだったからである。そして今もたまにそういう事をしているからだ。
自分が正しいわけではない。いつだっていい結果ばかり残せるわけではないくせに、そういう自分は棚に上げて、次の瞬間には結果だけで他人を判断している自分がいる。結果の方が目に付くからだ。いつでも他人を総合的に判断しろ!と言われたら、私は甚だ自信がない。それは私じゃなくてもそうだと思う。
だから私は自分を判断してもらう時に、結果だけで判断されても仕方の無い事だと思っている。それはとても辛い。でも自分だけはプロセスを知っているんだから、いつでも自分だけは自信を持てるプロセスを常に作っていたい。自分にだけは嘘がつけないから。主観的な事実も、自分の中だけなら、他のどんな事よりも客観的だ。
それはそれとして、このBROGを書いていて初めてひどく落ち込んだ。結果で判断されていいと言っているくせに、ここに書いた事(結果)で人に自分自身を否定された時はやはり落ち込んでいる。
「結果が全て」
ある種の真実だとは思うが、好きか嫌いかで言えば、決して好きではない。好きな人なんていない。
それに関して痛烈なコメントを頂いた。やはり人に「あなたの考え方が嫌いです。」と言われるのは、とても辛い事だ。
しかし私の「結果が全て」という考え方を採用するのであれば、ここに書いた事が原因で人からバッシングを受けようとも、私が一体どういう経過を辿ってこういう考え方をするに至ったかも、読む人にとっては関係無い。他人にとってはここに書いてある事(結果)が全てであり、私が普段どのように人と接しているかとかどういう経験を積んだかとか(プロセス)の全容はわからないのだから。
ちなみに、どうして私は「結果が全て」と書いたのか。
それは就活を続けるうちに、多くの面接官から教わった事だからだ。これは確かに世の中の真理ではない。でも世の中の一側面ではあると思う。
面接官は全くの他人であり、普段の私の事なんて知る由も無い。でも彼らとしても、たった何回かの面接で学生を判断するしかない。じゃあ彼らは何を頼りにして私を判断したのだろう。私が履歴書に書いた事、私の面接中の言動・態度、筆記試験の成績である。この三点だけだ。たった三点。
私を愛してくれる恋人・友達は、皆この三点以外で私を判断している。私のどこが好きでどこが嫌いなのか詳細までは知らないけど、見放されていない点を考えると、総合的には好きが上回っているから関係を維持してくれているのだろう。つまり私にだっていいところはあるという事だ。
しかし、そのいいところを面接官に確実に伝えようとするのは至難の業だ。理想を言えば、私と半年位山奥の保養所で寝食を共にしていただければ、と思う。でもそんなのは無理。つまり、彼らとしても無理矢理物差しを作らざるを得ないわけで。その物差しは無理矢理作られたものだから、絶対的に信頼できるものではないわけで。(というか世の中の事全てを絶対的に判断する事なんて不可能なんですが。)
それでも選ばなくてはいけないのだ。基準は限りなく公平に近くしているのかもしれないが、それでも不公平な基準である事は確実だ。面接は不公平なのだ。そしてそこで選ばれた人(つまり内定した人)が立派な人だとも言い切れない。確かにある意味では立派な人なんだろうけど、ある意味ではだめな部分だってあるはずだ。しかし、そこには紛れも無い事実がある。選ばれた人と選ばれなかった人がいるという事実だ。これは確実な事実であり、客観的だ。
そう、問題は客観的かそうでないかという事だ。
どちらが正しくて、どちらが正しくないかという事ではない。
結果は非常に客観的である事が多い。結果は数字に置き換える事が多いからだ。そしてプロセスというのは多くの場合、主観的である。自分しか知らない部分があるからだ。
だからといって、プロセスはあっても無くても一緒で、結果だけが正しいという主張をするわけではない。そんな主張をする奴は私だって嫌いだ。どんな時でも自分の頑張ったプロセスは自分で知っておきたいし、大事にしたい。
ただそのプロセスをいざ他人にわかってもらうのは難しい。二者(プロセスと結果)があったら、人は多くの場合(もう一度言っておくが、例外はいつだってある。)、結果を優先しがちだからである。万人が受け入れやすい客観性があるからだ。
つまり私が言いたいのは、「結果が全て」という思想が正しいか正しくないかではなく、「結果が全て」というのが世の中のある一面では真実だという事である。
私が嫌なのは、自分にできる最善の努力(プロセス)をしなかったのに、満足できない結果に対しては目を瞑り、「世の中は結果じゃないから。」と自分を擁護しようとする姿勢だ。
どうしてそういうのが嫌いなのか?
自分がそうだったからである。そして今もたまにそういう事をしているからだ。
自分が正しいわけではない。いつだっていい結果ばかり残せるわけではないくせに、そういう自分は棚に上げて、次の瞬間には結果だけで他人を判断している自分がいる。結果の方が目に付くからだ。いつでも他人を総合的に判断しろ!と言われたら、私は甚だ自信がない。それは私じゃなくてもそうだと思う。
だから私は自分を判断してもらう時に、結果だけで判断されても仕方の無い事だと思っている。それはとても辛い。でも自分だけはプロセスを知っているんだから、いつでも自分だけは自信を持てるプロセスを常に作っていたい。自分にだけは嘘がつけないから。主観的な事実も、自分の中だけなら、他のどんな事よりも客観的だ。
それはそれとして、このBROGを書いていて初めてひどく落ち込んだ。結果で判断されていいと言っているくせに、ここに書いた事(結果)で人に自分自身を否定された時はやはり落ち込んでいる。
「結果が全て」
ある種の真実だとは思うが、好きか嫌いかで言えば、決して好きではない。好きな人なんていない。
りん的自己分析其の四(そろそろ最終章)
2005年4月25日私はどうして会社に入りたいのか。
前回の続きから始めようと思う。
小さい頃から、大人になったら働くものだと思っていた。それはなぜか。周りの大人がみんな働いていたからだ。つまり働くという事は、大人と認められる上での必要条件であるという事だ。
しかし残念ながら、働いていない大人というものもやはり存在する。彼らは社会的拘束も無く、自由だ。だが同時に社会的権威と呼ばれるものも得られず、多くの還元(国からのね。)も得られない。
では私は社会的権威が欲しいから、会社に入りたいのか。確かにそれもあるようだ。でも多分それだけではない。
大人になるためには、義務教育を受けなければならない。これを受けずに大人になった人はいない。まあ不登校とか病気とかで学校に通えなかった人もいるだろうけど、一応名目上は小中学校を卒業している。
義務教育は基本的にお金がかからない。なぜか。国が私たちの未来に期待して、投資しているからだ。(私は富国強兵を唱える右派ではないです。念のため。)投資されたからには、それに報いる必要がある。つまり何らかの形で国に貢献しなくてはいけない。貢献できる位の知識と肉体の双方が備わった、それが大人になったという事だ。
現在、日本はびっくりする位不況の模様。それはなぜか。デフレーション状態だからだ。もっと言うと、デフレスパイラルという現象が未だに収まっていないからだ。
年金問題などで皆が日本の未来を明るく考えられない、だから将来のために貯蓄しようとする、そうすると消費は抑えられ、物が売れなくなる。物が売れないから企業はまた値段を下げる、そうすると企業の利益が減るから給料が減る、給料が減るとますます消費は抑えられる…。悪循環(デフレスパイラル)だ。
私たちは財布の紐をゆるめ、お金を使わなくてはいけないという事だ。私たちの財布からお金が流れ出て、市場に通貨が増えれば、お金の価値が下がって逆に物の価値が上がるはず。(インフレーション)
お金を使いたい。じゃあお金を稼がなきゃ。
私は自分と家族のためにお金を稼いでいいはずだし(権利)、日本のために消費活動を活発化させてお金を回転させねばなるまい(義務)。同時に会社に属して厚生年金を払う事で、更なる貢献をする事にもなる。
うむうむ。段々肉薄してきたぞ、私の中の真理に。
じゃあどこの会社でもいいではないか。でもどこでもいいわけではない。じゃあ、企業を選ぶポイントって?
これも次回。
前回の続きから始めようと思う。
小さい頃から、大人になったら働くものだと思っていた。それはなぜか。周りの大人がみんな働いていたからだ。つまり働くという事は、大人と認められる上での必要条件であるという事だ。
しかし残念ながら、働いていない大人というものもやはり存在する。彼らは社会的拘束も無く、自由だ。だが同時に社会的権威と呼ばれるものも得られず、多くの還元(国からのね。)も得られない。
では私は社会的権威が欲しいから、会社に入りたいのか。確かにそれもあるようだ。でも多分それだけではない。
大人になるためには、義務教育を受けなければならない。これを受けずに大人になった人はいない。まあ不登校とか病気とかで学校に通えなかった人もいるだろうけど、一応名目上は小中学校を卒業している。
義務教育は基本的にお金がかからない。なぜか。国が私たちの未来に期待して、投資しているからだ。(私は富国強兵を唱える右派ではないです。念のため。)投資されたからには、それに報いる必要がある。つまり何らかの形で国に貢献しなくてはいけない。貢献できる位の知識と肉体の双方が備わった、それが大人になったという事だ。
現在、日本はびっくりする位不況の模様。それはなぜか。デフレーション状態だからだ。もっと言うと、デフレスパイラルという現象が未だに収まっていないからだ。
年金問題などで皆が日本の未来を明るく考えられない、だから将来のために貯蓄しようとする、そうすると消費は抑えられ、物が売れなくなる。物が売れないから企業はまた値段を下げる、そうすると企業の利益が減るから給料が減る、給料が減るとますます消費は抑えられる…。悪循環(デフレスパイラル)だ。
私たちは財布の紐をゆるめ、お金を使わなくてはいけないという事だ。私たちの財布からお金が流れ出て、市場に通貨が増えれば、お金の価値が下がって逆に物の価値が上がるはず。(インフレーション)
お金を使いたい。じゃあお金を稼がなきゃ。
私は自分と家族のためにお金を稼いでいいはずだし(権利)、日本のために消費活動を活発化させてお金を回転させねばなるまい(義務)。同時に会社に属して厚生年金を払う事で、更なる貢献をする事にもなる。
うむうむ。段々肉薄してきたぞ、私の中の真理に。
じゃあどこの会社でもいいではないか。でもどこでもいいわけではない。じゃあ、企業を選ぶポイントって?
これも次回。
りん的自己分析其の三
2005年4月24日先日は、会社がそもそも誰のためにあるのかを考えた。
「金はあるけどアイディアが無い人」と「金が無いけどアイディアがある人」のため、というのがある意味での真実で、会社が誕生したのも最初はこの二者があったからである。そして、一起業家(金が無いけどアイディアがある人)に同調・共感できる人が、同じ目的を達成するためにその会社に入社するのである。
今回は、もっと突き詰めて考えてみようと思う。
ここに「金が無いけどアイディアがある人」の代表として、コロンブスがいる。彼が必ず成功すると信じたからこそ、イサベル女王(金があるけどアイディアが無い人)は資金を援助したのである。そしてコロンブスに共感した友人達が航海士となり、彼を助けた。ポイントはここである。
このコロンブスに共感した多くの友人達は、「金も無いしアイディアも無い人」である。彼らは起業家にもなれないし、資産家でも無い。彼らはコロンブスのお手伝いをする事によって、最終的に得られる利益の一部を貰うのである。
つまり現在の私を含む多くの就活生達は、皆この「金も無いしアイディアも無い人」という事である。そうではないと否定するのならば、株主となってどこかの会社に投資するか、もしくは自分で会社を作ればいいのである。既存の会社に入社しようとしている時点で、皆コロンブスの友人状態なのである。
つまり就職活動を行う前に、この三者のうち自分は一体誰なのか、もしくは誰の役割を演じたいのかをまず考えねばならんという事だ。圧倒的多数がコロンブスの友人だからといって、自分もコロンブスの友人だと思い込む必要は無いはずだ。
ただ残念ながら、私はイサベル女王でもないし、コロンブスでもなさそうだ。それは非常に信頼性の高い事実であると思われる。
というわけで、私は就職活動をしている。そして一番共感できるコロンブスを見つけねばならない。
だが、ここでもう一つ疑問が。
共感できるコロンブスが見つからなければ、別に就職しなくてもいいのではないのか。
その場合、利益が得られない。ならば餓死か。いや、就職しないで食べていく方法も無くはない。それは第一次産業に関わり、生産活動(農業とかね。)に携わればいいのだ。むしろ世界に会社などが存在する前から、この方法が一番ポピュラーだったのだから。働かざる者食うべからず、という事だ。しかし現在の日本では、実家が代々生産活動をしていない場合、自分で一から始める作業は、会社を一つ起こす事と同じくらいの労力を伴う。
ではやはり利益を得るためには、就職した方が手っ取り早そうだ。しかしそれだけだとちと弱い。生産活動ができない→就職、ではあまりにも安直過ぎるし、皆何らかの理由を添えて就職活動を行うべきだ。(まあ惰性やなりゆきで活動している人が大多数ですけどね。ここにきてそうなりたくないと思い始めてきた。)
私はどうして会社に入りたいのか。
ううー…
頭が沸騰しそうだ…。今まで如何に惰性で活動をしてきたかが明らかになってきた…。
これは次回に回そう。
「金はあるけどアイディアが無い人」と「金が無いけどアイディアがある人」のため、というのがある意味での真実で、会社が誕生したのも最初はこの二者があったからである。そして、一起業家(金が無いけどアイディアがある人)に同調・共感できる人が、同じ目的を達成するためにその会社に入社するのである。
今回は、もっと突き詰めて考えてみようと思う。
ここに「金が無いけどアイディアがある人」の代表として、コロンブスがいる。彼が必ず成功すると信じたからこそ、イサベル女王(金があるけどアイディアが無い人)は資金を援助したのである。そしてコロンブスに共感した友人達が航海士となり、彼を助けた。ポイントはここである。
このコロンブスに共感した多くの友人達は、「金も無いしアイディアも無い人」である。彼らは起業家にもなれないし、資産家でも無い。彼らはコロンブスのお手伝いをする事によって、最終的に得られる利益の一部を貰うのである。
つまり現在の私を含む多くの就活生達は、皆この「金も無いしアイディアも無い人」という事である。そうではないと否定するのならば、株主となってどこかの会社に投資するか、もしくは自分で会社を作ればいいのである。既存の会社に入社しようとしている時点で、皆コロンブスの友人状態なのである。
つまり就職活動を行う前に、この三者のうち自分は一体誰なのか、もしくは誰の役割を演じたいのかをまず考えねばならんという事だ。圧倒的多数がコロンブスの友人だからといって、自分もコロンブスの友人だと思い込む必要は無いはずだ。
ただ残念ながら、私はイサベル女王でもないし、コロンブスでもなさそうだ。それは非常に信頼性の高い事実であると思われる。
というわけで、私は就職活動をしている。そして一番共感できるコロンブスを見つけねばならない。
だが、ここでもう一つ疑問が。
共感できるコロンブスが見つからなければ、別に就職しなくてもいいのではないのか。
その場合、利益が得られない。ならば餓死か。いや、就職しないで食べていく方法も無くはない。それは第一次産業に関わり、生産活動(農業とかね。)に携わればいいのだ。むしろ世界に会社などが存在する前から、この方法が一番ポピュラーだったのだから。働かざる者食うべからず、という事だ。しかし現在の日本では、実家が代々生産活動をしていない場合、自分で一から始める作業は、会社を一つ起こす事と同じくらいの労力を伴う。
ではやはり利益を得るためには、就職した方が手っ取り早そうだ。しかしそれだけだとちと弱い。生産活動ができない→就職、ではあまりにも安直過ぎるし、皆何らかの理由を添えて就職活動を行うべきだ。(まあ惰性やなりゆきで活動している人が大多数ですけどね。ここにきてそうなりたくないと思い始めてきた。)
私はどうして会社に入りたいのか。
ううー…
頭が沸騰しそうだ…。今まで如何に惰性で活動をしてきたかが明らかになってきた…。
これは次回に回そう。
りん的自己分析其の二
2005年4月22日実は、某企業から内定を頂いた。
でも自己分析なるものをやめようと思わない。というか、ますます必要性が増した気がする。
久々に今まで書いた履歴を読み直してみた。…我ながら稚拙過ぎる。よくぞ今までこんなものを自信満々に世の中に公開していたものだ。自分でもちょっとびっくりしているが、内定を一社もらっただけでも、つまりは社会人予備軍になったわけで。そして社会人予備軍として自分の過去(つまりはこのBROGね。)を見直してみると、とてもアラが目立つ。
就職活動は、学生の古株として世の中を見るのではなく、社会人の新参者としてやるべきなのだ。いや、なんとなく知ってはいたけど、ここらへんがやはり自分は甘かった気がする。特に何日か前の「自己分析其の一」はあまりにも馬鹿で、今すぐ消してしまいたいが、これはこれでこういうアホな自分がいたことの証明なので、とっておくべきかもしれない。
まず会社そのものが、そもそも何のためにあるのか。
会社に就職しようとしてる人間なのに即答できなかった。これはまずい。今日母のために買ってきた「婦人公論」に衝撃的(まあ私にとってはって事ですが。良識ある大人はまあ知っている事でしょうね。)なコラムが載っていたので、忘れないうちに書き留めておこうと思う。
会社とはそもそも、「金は無いけどアイディアがある人」と「金があるけどアイディアが無い人」のためにあるものである。
会社の起源は古く大航海時代まで遡る。インドを経由して香辛料を得ていたヨーロッパに生まれたコロンブスは、「本当に地球が丸いならば、インドとは逆の方向から回って直接香辛料を取りに行けば、マージンが発生しないではないか!」という事に気付き、海を越える事を決意。しかしそんな金、一個人に集められるわけがない。そこでコロンブスは女王に相談!強力なパトロンを得て、海を越え、大成功を収めましたとさ。これがあの有名な東インド会社の始まり、会社の始まりである。
ううー。こんな事を理解しきってなくて、本当に歴史を勉強したといえるのか。ただ単純にコロンブスは新大陸を発見したんだ、という認識では、あってもなくても関係ない知識である。歴史は様々な切り口から考えなくてはいかんという事を再認識。
そして西洋の会社思想を日本は輸入した。江戸後期、この思想は大いに斬新とされたそうだが、時代が進むにつれて日本独特の「いじり」がなされ、会社は出資者と起業家の物だけではなくなった。幕藩体制を引きずる者たちの掃き溜めとなり、終身雇用制が誕生する。目的のために作られた会社がその目的を見失い、そこに所属し続けたいと願う者たちの受け皿に変わってしまうのだ。
天才(賛否両論あるだろうけど)と呼ばれるホリエモンは、誰から習わずともこのあたりを最初から完全に理解しているように思える。異端と呼ばれる彼の思想は、実はとてもシンプルかつ合理性のあるものなのではないかと思えてきた。急に。ちょっと読んでみようかな、著作を。
そんなわけで。
会社に就職するとはつまり、一起業家(コロンブスみたいなアイディアマン)に共感し同調し、目的を達成するためのお手伝いをする事である。夢のために就職とか、好きを仕事にしたいとかの理由がとっても馬鹿らしくなってきたぞ。
じゃあ私は内定先に同調できるのか。
それをこれから調べる。考える。「資本論」の概要だけでも読んでみるかな。今なら興味深く理解できそうな気がする。
でも自己分析なるものをやめようと思わない。というか、ますます必要性が増した気がする。
久々に今まで書いた履歴を読み直してみた。…我ながら稚拙過ぎる。よくぞ今までこんなものを自信満々に世の中に公開していたものだ。自分でもちょっとびっくりしているが、内定を一社もらっただけでも、つまりは社会人予備軍になったわけで。そして社会人予備軍として自分の過去(つまりはこのBROGね。)を見直してみると、とてもアラが目立つ。
就職活動は、学生の古株として世の中を見るのではなく、社会人の新参者としてやるべきなのだ。いや、なんとなく知ってはいたけど、ここらへんがやはり自分は甘かった気がする。特に何日か前の「自己分析其の一」はあまりにも馬鹿で、今すぐ消してしまいたいが、これはこれでこういうアホな自分がいたことの証明なので、とっておくべきかもしれない。
まず会社そのものが、そもそも何のためにあるのか。
会社に就職しようとしてる人間なのに即答できなかった。これはまずい。今日母のために買ってきた「婦人公論」に衝撃的(まあ私にとってはって事ですが。良識ある大人はまあ知っている事でしょうね。)なコラムが載っていたので、忘れないうちに書き留めておこうと思う。
会社とはそもそも、「金は無いけどアイディアがある人」と「金があるけどアイディアが無い人」のためにあるものである。
会社の起源は古く大航海時代まで遡る。インドを経由して香辛料を得ていたヨーロッパに生まれたコロンブスは、「本当に地球が丸いならば、インドとは逆の方向から回って直接香辛料を取りに行けば、マージンが発生しないではないか!」という事に気付き、海を越える事を決意。しかしそんな金、一個人に集められるわけがない。そこでコロンブスは女王に相談!強力なパトロンを得て、海を越え、大成功を収めましたとさ。これがあの有名な東インド会社の始まり、会社の始まりである。
ううー。こんな事を理解しきってなくて、本当に歴史を勉強したといえるのか。ただ単純にコロンブスは新大陸を発見したんだ、という認識では、あってもなくても関係ない知識である。歴史は様々な切り口から考えなくてはいかんという事を再認識。
そして西洋の会社思想を日本は輸入した。江戸後期、この思想は大いに斬新とされたそうだが、時代が進むにつれて日本独特の「いじり」がなされ、会社は出資者と起業家の物だけではなくなった。幕藩体制を引きずる者たちの掃き溜めとなり、終身雇用制が誕生する。目的のために作られた会社がその目的を見失い、そこに所属し続けたいと願う者たちの受け皿に変わってしまうのだ。
天才(賛否両論あるだろうけど)と呼ばれるホリエモンは、誰から習わずともこのあたりを最初から完全に理解しているように思える。異端と呼ばれる彼の思想は、実はとてもシンプルかつ合理性のあるものなのではないかと思えてきた。急に。ちょっと読んでみようかな、著作を。
そんなわけで。
会社に就職するとはつまり、一起業家(コロンブスみたいなアイディアマン)に共感し同調し、目的を達成するためのお手伝いをする事である。夢のために就職とか、好きを仕事にしたいとかの理由がとっても馬鹿らしくなってきたぞ。
じゃあ私は内定先に同調できるのか。
それをこれから調べる。考える。「資本論」の概要だけでも読んでみるかな。今なら興味深く理解できそうな気がする。
軌跡に誇りもて
2005年4月19日「大学名や成績では一切判断しません!」
これって、おかしくない?
就活を続けていると、上のような文句を謳う企業にたまに出会う。一体これは誰に向けて言っているのだろうか。学生に媚びているようにしか思えない。
大学名で判断しろ!成績証明書を提出させるからには、ちゃんと中身を見ろ!優の数を数えろ!と、私は言いたい。有名大学に良い人材がいるからではない。有名大学に入ろうと頑張った人たちの中に良い人材が多いからである。
小学校、中学校、高校と進む中で、個人が頑張れるものなんて限られている。勉強かスポーツだ。学校でできる事なんてそれくらいしかない。それしか無いんだから、それくらいはそれなりにこなすべきだ。決してこなせない人を馬鹿にしているわけではなく、本当に勉強ができなくて困ってた人はそのほかに何か頑張っていたはずだ。そして、その他で頑張ってた人は学歴主義に文句を言ったりしない。
ではどういう輩が学歴主義に不満を言うのか。
それなりにこなすべきだった勉強をしないで、その他の分野でも何もしなかった奴らである。
有名大学に入学した人は、できなかった人よりも確実に頑張ってきた。それは自己PRの一つと受け止めてもらえないのだろうか。「サークルではいつもまとめ役で、協調性があります。」などと言うよりも、よっぽどわかりやすく客観的ではないか。
だが残念ながら、人より頑張ってたにも関わらず、何らかの事情で試験に失敗し、いわゆる三流校にしか入れなかったとする。そういう僕はかわいそうじゃないですか!という意見もあるだろう。
悪いけど、そんなものは評価されない。
世の中、結果が全てなのである。
もちろん頑張ってきたというプロセスは大事だし、それは本人の中で何らかの形で将来価値あるものになると思う。しかしそれはあくまで主観的な価値基準でしかなく、他人が判断する上では全く意味をなさない。人が人を判断する時は、客観的項目(数字とかね)しか物差しになり得ないのだ。しかも面接官は赤の他人なのだから。
そもそも結果を重視するというのが、社会人の世界の常識ではないのか。取引先と交渉段階ではうまくいってた、でも最後に失敗して結局契約取れませんでした、でも僕は頑張ってたんですよ!などと言っても、誰もその人を認めないだろう。
これから社会人になろうとする人が、学歴主義に文句を言っていてどうするのか。三流大学のあなたは、やるべき時期に全力で頑張れなかったんじゃないか。その分、何か他で頑張っていたというのだろうか。そういう奴に限って、他には何も無いのだ。勉強以外で他人に勝るものがある人は、十分アピールできるところがあるんだから、それこそ学校名なんぞ関係無い。きっと面接官には伝わると思う。全力で何かに打ち込んでいた人は、素人から見てもわかるから。
成績も同じことだ。確かに成績だけで落とされてはたまったものではないが、自己アピールの一つである。人より資格を一つ多く持っているようなものだ。人がサボりたい時に、コツコツ努力していた証である。どうして資格のアドバンテージは受け入れられているのに、成績になると目くじらを立てる奴らがいるのだろうか。
学歴は努力の歴史、であると思う。
口を酸っぱくして言っておきたいが、学歴という一つの物差しだけで判断するのは絶対に間違っている。総合的に人物像を判断する材料の一つとして、学歴も取り入れるべきだと言いたいのである。確かに実際の仕事は、勉強ができるだけでは務まらない。でも勉強ができる人の中に、やはり仕事もできる人の割合が高いのだろうと私は思う。それは、結果的にそうなっているのだろう。
大学名は書かないでください、なんて。
それは「自己PRでサークルのアピールは禁止ね。」と言っているのと同じだぞという事に、早く気付いてもらいたい。
これって、おかしくない?
就活を続けていると、上のような文句を謳う企業にたまに出会う。一体これは誰に向けて言っているのだろうか。学生に媚びているようにしか思えない。
大学名で判断しろ!成績証明書を提出させるからには、ちゃんと中身を見ろ!優の数を数えろ!と、私は言いたい。有名大学に良い人材がいるからではない。有名大学に入ろうと頑張った人たちの中に良い人材が多いからである。
小学校、中学校、高校と進む中で、個人が頑張れるものなんて限られている。勉強かスポーツだ。学校でできる事なんてそれくらいしかない。それしか無いんだから、それくらいはそれなりにこなすべきだ。決してこなせない人を馬鹿にしているわけではなく、本当に勉強ができなくて困ってた人はそのほかに何か頑張っていたはずだ。そして、その他で頑張ってた人は学歴主義に文句を言ったりしない。
ではどういう輩が学歴主義に不満を言うのか。
それなりにこなすべきだった勉強をしないで、その他の分野でも何もしなかった奴らである。
有名大学に入学した人は、できなかった人よりも確実に頑張ってきた。それは自己PRの一つと受け止めてもらえないのだろうか。「サークルではいつもまとめ役で、協調性があります。」などと言うよりも、よっぽどわかりやすく客観的ではないか。
だが残念ながら、人より頑張ってたにも関わらず、何らかの事情で試験に失敗し、いわゆる三流校にしか入れなかったとする。そういう僕はかわいそうじゃないですか!という意見もあるだろう。
悪いけど、そんなものは評価されない。
世の中、結果が全てなのである。
もちろん頑張ってきたというプロセスは大事だし、それは本人の中で何らかの形で将来価値あるものになると思う。しかしそれはあくまで主観的な価値基準でしかなく、他人が判断する上では全く意味をなさない。人が人を判断する時は、客観的項目(数字とかね)しか物差しになり得ないのだ。しかも面接官は赤の他人なのだから。
そもそも結果を重視するというのが、社会人の世界の常識ではないのか。取引先と交渉段階ではうまくいってた、でも最後に失敗して結局契約取れませんでした、でも僕は頑張ってたんですよ!などと言っても、誰もその人を認めないだろう。
これから社会人になろうとする人が、学歴主義に文句を言っていてどうするのか。三流大学のあなたは、やるべき時期に全力で頑張れなかったんじゃないか。その分、何か他で頑張っていたというのだろうか。そういう奴に限って、他には何も無いのだ。勉強以外で他人に勝るものがある人は、十分アピールできるところがあるんだから、それこそ学校名なんぞ関係無い。きっと面接官には伝わると思う。全力で何かに打ち込んでいた人は、素人から見てもわかるから。
成績も同じことだ。確かに成績だけで落とされてはたまったものではないが、自己アピールの一つである。人より資格を一つ多く持っているようなものだ。人がサボりたい時に、コツコツ努力していた証である。どうして資格のアドバンテージは受け入れられているのに、成績になると目くじらを立てる奴らがいるのだろうか。
学歴は努力の歴史、であると思う。
口を酸っぱくして言っておきたいが、学歴という一つの物差しだけで判断するのは絶対に間違っている。総合的に人物像を判断する材料の一つとして、学歴も取り入れるべきだと言いたいのである。確かに実際の仕事は、勉強ができるだけでは務まらない。でも勉強ができる人の中に、やはり仕事もできる人の割合が高いのだろうと私は思う。それは、結果的にそうなっているのだろう。
大学名は書かないでください、なんて。
それは「自己PRでサークルのアピールは禁止ね。」と言っているのと同じだぞという事に、早く気付いてもらいたい。