夏(初夏含む)は私の一番好きな季節だけど、この時期は最も家事をするのに適していると思う。

汗だくになって洗濯物を干して(私はまず室内で干すタイプ)、ぶら下がったそれらをベランダに吊すためにガラス戸を開ける瞬間というのが、とても好き。

私の住んでいる地域が特に風が強いというせいもあるだろうけど、ガラッと扉を開けた瞬間に吹き付ける風と日差しを浴びるのが気持ちいいのだ。家事はそんなに面白いものではないが、考え方と工夫次第でいくらでも楽しくできるのだと思う。

私は洗濯をしながら音楽を聴く。ジャンルは様々。昔集めまくったバンドのハードロックも聴くし、TKファミリーも聴くし(古いなあ!!)、ユーロビートも聴く。私にとって家事をする時間(掃除機をかける時間を除く)というのは、音楽鑑賞のひとときなのだ。

そんなわけで今日もノリノリで(踊りながら)シーツとか洗ってたのだが、ふと思い立って吹奏楽部時代の録音テープをかけてみた。

私は中・高ずっとパーカッションだったので、どの曲を聴いても自分の音がハッキリわかる。(木管・金管の人だったらソロじゃない限り、なかなかわからないよね…。むしろ一人が目立ってたらだめじゃんって感じだ)当時はつまらんと思ってたけど、今考えるとなかなかおいしいパートだったのかもしれない。

考えてみれば、私はチアリーディングだの吹奏楽だの、ハッキリ数値化できる基準の無い団体競技ばかりやってしまった。これらの特徴というのは、一人が頑張ってもだめってこと。同時に誰か一人が頑張ってなかったらだめとも言える。つまり問題やいざこざが起きやすいのだ。まあその分成功した時の喜びが大きいので、青春してるぜ感も高いのだけど。

色々なことがあり過ぎた中学・高校時代だったのに、今こうして当時の曲を聴いてみるまで思い出せなかったようなことが多くて、ということは、もう完全にあの頃が過去になってしまっているのだろう。

市内からほとんど出ること無く、毎日毎日同じような生活ばかりしていて、でも日々の密度というのは今よりもずっと高くて、悩みや苦悩も今よりずっと多くて。一事が万事大問題のような気がしていたし、私以外の皆も同じように考えていて、今考えると「くっだらねぇ!」と叫びたくなるような問題について、頭付き合わせて何時間も話し合っていた気がする。

あの頃「死んでしまおうか…」と一瞬でも考えてしまった(本当に一瞬だけど)問題が、今でも残っているかというとノーだ。どれもこれも大学に入学した瞬間に消えちゃう問題だったのに、何しろ当時は世界が狭かったから、ずっと悩みは続くだろうと思いこんでいた。

こんな風に過去を客観視できる瞬間がどんどん増えていって、それらがおしなべて美しいと感じる年齢にそろそろなるのだろうか。

何もかもわかりきったようなしたり顔で「あの頃は…」と思い返す老人になるのも嫌だけど、いつでも目の前の問題に全力でぶつかりまくって、過去・現在・未来の境界など見えない若者でい続けるのも嫌だと思う。

夏なんだか春なんだかわからない初夏が、ずっと続けばいいような。

八方美人なイエス

2005年6月16日
「自分の意見を言えよ。」と思わず言いたくなるシーンはよくある。

八方美人と呼ぶのだろうが、いつでも相手に共感している風に装い、人の意見に同調してばかりいる人に対してだ。

いきなり結論から述べるけれど、私は最近それでもいいような気がしてきた。(私がいつでも本音で人と付き合いたいと書いたのは割と記憶に新しいけれど、その矛盾を敢えて認識した上で書きたいと思う。)

私は本音を言いまくっているようでいて、何気に結構人に気を遣っている(つもり)。どういうことかというと、本音と建て前が両方あったら、なるべく本音を言うようにしてはいるけれど、言うべき本音と言わないで済ましておく本音を区別しているということだ。

「そんなの当たり前じゃん。みんなやってるよ。」と言われるかもしれないが。

八方美人という表現が悪い意味で使われているように、自分の意見をはっきり言わないことはあまり良くないことなんだろうと思う。そして誰にでもいい顔をする人も。しかし、そういう人たちを単に「だめな人」と区別してよいのだろうか。

うちの彼氏と私の嗜好は概ね一致しているので、「今晩何を食べるか」というテーマでぶつかることはそこまで多くないのだが、それでもたまーに揉めることがある。つい最近も私は「たまにはイタリアンを食べよう」と思っていたのに、奴が先に「今日はお好み焼きがいい!」と言い出したのだ。

「えー…お好み焼きかぁ…」と一応嫌そうなポーズをとってみたのだが、彼がどうしてもお好み焼きが食べたい食べたいと言いまくるので、結局イタリアンのことは言い出さずに、その日はお好み焼き屋に行くことにした。

いざ焼き上がって、はふはふ言いながら嬉しそうに食べている奴を見ていたら、「ああイタリアンにしなくてよかった。」と私は思った。そして、「本当は何が食べたかったの?」と聞かれても、なんだか最初からお好み焼きが食べたいと思っていたような錯覚すら感じた。

相手が幸せなら自分も幸せなどと書くと、ものすごく偽善の匂いが漂うけれど、本音を隠して誰かに同調することでその場の和が保たれるならば、もっと言うならば喜ぶ誰かの顔が見られるのならば、付和雷同も決して悪いこととは言い切れない。

八方美人と呼ばれる人は、確かに芯がしっかりしていないのかもしれないけれど、単に価値観として人に喜んでもらいたいという思いが強いだけなんだと思う。つまり誰かを押しのけてまで貫きたいという欲求が存在しないだけで、自分の意見を言わないのではないということ。言うほどの意見なり欲求なりが無いのだから。

あまり評判が良くないであろうお調子者というのも確かにいるけれど、真の利他愛とは、八方美人の中にこそその芽が見いだせるのかもしれない。

今の彼氏ともし結婚するならば、少々ぶつかることがあっても、妥協できる範囲で彼が喜ぶことを選択したいと思う。そして彼が快適だと思える状態というのを、なるべく(ほかの人が作れないのなら)私が作り続けていけたらとも思う。

誰かに対するこういった気持ちが最高潮に達したときこそ、結婚すべき時なのかなと思ったりした。

まだ最高潮とは言いきれないし、諸々の現実的な問題もあるので、しないけれど。

脆いがゆえに

2005年6月15日
就職活動を終えて自分がどう変わったかなんて、結局思い込みの要素が大半を占めるだろうし、今更考えたくもないけど、

「理屈っぽくなったね。」

と最近言われる。

昔からたまに言われていたことではあるけど、それにしてもよく言われる。しかも自分でもこの日記を書きながら「そうかもなぁ」なんて思っていただけに、実際本当にそうなのかもしれない(てかこの前置きの時点で既に理屈っぽいや)。

何しろ、自分の考えや経歴をいかにわかりやすくかつ簡潔に示すかということに、全てのエネルギーを費やしていたのだ。私が最も得意としていた戦法は箇条書き。面接の場合は、「三点述べたいと思います」の後に具体例。まあいつもそうしていたわけではないけれど。

昨日、高校の同級生とサシで飲む機会があった。彼は共に浪人を経験した私の数少ない戦友だ。彼も就職が決まり、卒業後は営業として頑張るらしい。しかしいざ職に就いたときに、きちんとした営業マンとして人と話ができるかどうか、若干不安であるとのこと。

それなりに自分のコミュニケーション能力に自負があるからこそ営業を希望したんだろうけど、それはそれとして悩みは尽きないらしい。それを聞き私はもちろん自分の意見を述べたんだけど、結局話があっちこっちにいって(飲みの席ではそうなりがちだけど)自分でも何が言いたいのかよくわからなくなってしまった。

だから最後に「つまりね、私が何を言いたいかというと…」と話をまとめようとしたのだが、彼にこう切り返されてしまった。「いや、いいから。ちゃんとわかるからさ。」と。

うーん…。やっぱり理屈っぽいのかもしれない。

世の中の物事全てに白黒をつけられるはずがないし、それらが全て完全なる秩序に従って構成されているはずもない。シンメトリーの構成を見ると安心するけれども、自然界に完全なる対象性を備えた物など存在していないではないか(人間だって左右対称に見えるけれど、絶対に僅かだがずれているし)。

同じ速度で落下し続けているように見える物体が、実は等加速度の法則に従っているように、現実はいつでも少々歪んでいる。でも学校で習わなかったら私はそのことを知らなかっただろうし、つまりは何もかもが完全なる秩序の上にできているのだと思いこんでいたはずだ。

私もこうして書くと上記のことを理解しているように思えるけれど、人に言わせると、いつでも何かに秩序を見いだそうとしているように見えるそうだ。そして自分なりの秩序の入れ子の中に、世界(もしくは宇宙)の核ともなり得る、純然たる真理があると思いこんでいるのかもしれない。

理論的

とはまたちょっと違うようだ。

私はもしかしたらものすごい不安を抱えていて、それをなんとかして解消するために、拠り所となる確固たる(ように見える)何かを、人より余計に欲しがっているのかもしれない。

深夜のパラドックス

2005年6月11日
せつないとは、どういうことなのか。

意味は昨日の日記に書いた通りだけど、私が知りたいのは定義ではなくて、いざせつなくなったときにどう振る舞えばいいのかということだ。

うちの彼氏は一つのことに集中し過ぎる傾向があって、しかも集中している間はあまり疲れを感じないタイプであるらしい。つまりその気になれば、週7バイトに入っても全然へっちゃらということ。

就職活動中に大量の服を購入する羽目になった奴は(彼が受けていたのはアパレル関係だったので、私服面接だったらしい)、すっかり貯金が底をつき、今バイトに燃えている。そして恐ろしいことに、午前中〜昼過ぎまで某百貨店で婦人服の販売員として働き、夕方〜夜は飲食店で酒を作るというスケジュールを週6でこなしている。

「アンタ死ぬぞ!」

と言ってやりたいところだが。(てゆうか言った。)

別に「全然会えなくてちゃみちいよ〜」ということを言いたいわけではない。彼は彼なりにスケジュールを調整してくれているので、その点に関してはあまり問題は無い。

本人は多分疲れをそこまで感じていない上に、私と定期的に会うという最低限のことはこなしているから、多分大丈夫と思っているに違い無いけど、それでも普通の学生に比べ連絡をとり辛いことは確実だ。

夜11時半までは連絡を取れないということを知っているから、私は伝えたいことがあっても、その時間まで待っていたりする。しかし既にバイトが終わっている時間になってもメールが返って来ないので「一体何をやっているんだ」と思うと、バイト先の飲み会だったりする。しかもその飲みというのが翌朝の7時位まで続く。

問題はこういう時である。飲みに行くのは彼の判断でしていることだし、本来は私が口を挟むべきことではない。しかし待っていた身としては、腹が立つ。かといって

「なんで飲んでんのよ!!私ずっと待ってたのに!!」

なんて怒ってしまっていいものだろうか。

もし相手を繋ぎとめたいと思うならば、自分の思っていることをきちんと伝えるべきだというのが、私の持論だ。怒りであっても悲しみであっても、今自分がどう思っているのかをなるべくその場で伝えることが重要なのだ。異論はあるかもしれないが、私はこのやり方で3年弱やってきた。

しかしその方法が必ずしも有効でないときが、やはりあるわけで。

不倫中の夫が、毎晩どんなに遅く帰宅しても、妻があどけない笑顔で「おかえり〜!待ってたよ〜!」なんて迎えてくれると、直接責められるよりもよっぽど罪悪感を感じるという。

解決したい問題があって、そのために何かを頑張ればいいと判明したら、私はいつだって全力で頑張るけれど(その方が、達成できなかったときに「努力が足らなかったんだな」と納得できるので、きっと楽なのだ。)、直接アクションを起こすことが一番いい方法じゃないときも多くあって、私はそういうケースに対応するのが苦手なんだとわかった。

あえてアクションを起こさないことが結果的にいい方に繋がることも多分あって、でもそれには確証が無くて、後から考えたら「動いておけばよかった」ってなることもたまにはあると思う。

ただ少なくとも言えるのは、「じっとしていられないから動く」ことを努力と履き違え、それをしているから自分は正しいんだと思い込むこと、それを私はやりがちだということだ。

せつないね

2005年6月10日
『せつないね』というタイトルの漫画を読んだことがある。確か小花美穂の作品だったと思う。

言わずと知れた彼女の代表作は『こどものおもちゃ』(集英社・りぼんマスコットコミックス)だけど、それ以前はこの『せつないね』や『この手をはなさない』など、結構ウルウルのドラマチック作品が多くて、どちらかと言えばこの手の作品の方が私の好みだった。

この『せつないね』が連載されていたのが、あの集英社りぼんなのだからびっくりしてしまう。ほとんどの読者が小学生なのに、せつないね、って!

せつない

どんな意味?

よくわからなかったけれど、ぽそっと「せつないね」と口に出すだけで、自分がトレンディードラマのヒロインになったような気がしたものだ。

今日は彼氏と食事をした。彼はアパレルメーカーに内定を貰い、来春には地方転勤が決まっている。1、2年で帰って来るらしいのだが、それまでは遠距離恋愛になる。

シンハービールを飲みながらした会話。

「俺が遠距離中に浮気したらどうする?」
「うーん…殺す」

その時、彼はなんだかすごく悲しそうな顔をした。私は別に本気で言ったわけではないのに。

「じゃあ、どうにか浮気を阻止する方法はあるかな?もしあるなら言って。頑張って綺麗になるし、遊びに行く時は美味しい料理作れるようになっとくよ。」

「多分無いね。おまえがどんなにいい奴で素敵な女でも、100%阻止する方法は無いよ。」

そんなことは知っている。私は彼をかっこいいと思ってるし大好きなのに、結局ほかの男に惑わされた。だから私が選ぶどの選択肢に従っても、つまり可能な限りの手だてを尽くしても、それとこれとは無関係だということだ。

問題というのは、解決できるうちはまだいい。解決までの方法が思いつくのなら、それをするまでだ。解決策を知っているのに文句を言ってやらないのは、ただの怠慢なのだから。

お母さんに怒られたくなければお片付けをすればいい。大学に入りたいなら勉強すればいい。レギュラーになりたいなら練習すればいい。今まではどんなに辛いことがあっても、解決策が明確な場合がほとんどだったけど、本当に辛いのは、解決しようと努力することよりも、解決策が見つからなくて途方に暮れることだ。

もちろん、可能な限り自分にできる全てをやるべきだけど。でもどんなに努力したところで、それとは無関係に動くのが俗に"運命"と呼ばれるもので、あがいた挙げ句にそれに身を任せるしかないんだとわかってしまったとき、人は「せつない」と思うのではないだろうか。

手元にある辞書を引いてみた。

せつない【切ない】(形容詞)
−自分の置かれた苦しい立場・境遇を打開する道が全く無く、やりきれない気持ち。

言葉の意味を、辞書よりも先に自分で認識できたことは嬉しいけど、漫画を読んで想像していたせつなさは、なんかもっと甘美だったような気がする。

夏遠からじ

2005年6月9日
私が内面の向上に常日頃励んでいるのは、皆さんご存じの通り(?)だが、なんだかんだでやっぱ即物的な部分にも目を向けなきゃいかん。

と思ってみた。

まあ早い話が、ステータスアップを図らなきゃってこと。(まだわかりにくいな…)

というわけで、来週から近所のお料理教室に通うことに。携帯代をちょっと節約すれば十分払える月謝なのが、決め手。これから週一回位のペースで、日本の家庭料理を勉強。月一回はケーキの日。1レッスン二時間というのもお手頃。

わーわーと偉そうなことを言っておいて、生活能力が無かったらカッチョ悪いと思う。しかも私の場合社会人になったら、忙しさを理由に家事をサボるのが目に見えているので、そうなると頑張るのは今しか無い。

そして洗濯&掃除もただこなすだけじゃなくて、早さと正確さ(家事にそんなもん無いとか思ってたけど。甘かった。)を極めるべし。というわけで、二日に一回の洗濯と掃除は必ず私がやることに決定。洗濯をするということは、午前中に家にいなくてはいけないということなのでちと難しいが、今やらなきゃいつやるって感じなので頑張ろう。

そしてそして、最近手を抜いていた肉体美化も。

ちょっと会っただけで女の内面の良さを見抜いてくれる男なんて、そうそういないと思われるので、となると外見が汚いというのは大いに不利である。媚びるとかじゃなく、うまく生きていくためには美しい方が有利に間違いない。

夏も近いし、筋トレを中心にボディシェイプからスタート。

たまにチアの練習に顔を出すと、バリバリ鍛えてる方々の美し過ぎる肉体におののく。いや、あそこまで鍛え上げるのは最早不可能なので、当時を思い出しながら少しずつやっていこう。ダンベル捨ててなくてよかった。

なんか目標多いな。頑張ろう。

身一つ、未だ一人

2005年6月8日
母が短大時代から仲良くしている友達がいて、最近しょっちゅうメールをやりとりしている。

母がメールをするのは私か父かに限られていたので、「一体何を話しているのさ」と聞いてみたところ、どうやらそのお相手さんの家庭というのがなかなか複雑らしく、その相談に乗っているとのこと。

その友達というのが、当時大恋愛の末、仲間内では一番早く結婚したらしい。なのにいざ結婚してみたら、旦那との関係がいきなり冷め切ってしまったそうで。そんなこんなでなんとか20ウン年やってきたのだが、最近親の介護のことやらなんやらでますます問題が複雑化し、最早にっちもさっちもいかなくなってきているそうなのだ。

「はあ〜、大変ですな〜」なんて反応もそこそこに、私は部屋に引っ込んだのだが、例の分度器の友人(4月11日&5月17日の日記参照)がまたもや遊びに来たので、その対応。彼女の仕事場からの帰り道上に丁度我が家があるので、最近よく遊びに来るのである。

彼女と何を話したかというと、やはりお互いの恋バナがメイン。そして彼女の仕事のこと。私のバイト先のこと。最近買った化粧品のこと。共通の友人の近況など。

改めて気付いたけれど、やはり私と友人の話というのは、お互いの身一つに関する話題ばかりで(まあ恋人も厳密な意味では他人だし)、母と友人のそれに比べると規模が小さい。

母たちの話題は、どうしても自分の属する世帯に関することが中心になるそうで、ということはそれぞれの「家」を単位として、お互いを見るのであろう(もちろん買ったばかりの化粧品の話をすることもあるだろうけど)。

でもきっと母が私位の歳だった頃は、今悩んでいるその友人とも他愛ない恋愛話をしただろうし、「今度あそこの服を買いに行こうよ」なんて話もしたに違いない。

一体いつからそうなってしまうのだろうと思うけれど、今私たちは日本一楽しい時期を過ごしているに違いなくて、例えるならそれは線グラフの頂点にいるようなものなのかも、と。

結婚して世帯を新たに持つということは、相手が好きだとか価値観が合うとかいう問題以前に、全然関係無かった他人たちがいきなり親戚という枠に収められて、本来なかなかうまくいくはずがないものを「なんとかうまくやらねば」と奮闘する覚悟を共に持つことなんだなぁと。

そしてどんな家庭にも大なり小なり問題があって、自分が何が好きかとか何がしたいかよりも、その問題ばかりが自分の心を占拠してしまうようになり、でもそれを当然のように受け入れなきゃいけない歳になるんだろうと思う。

「線グラフが下降する」と言ったら、多分母世代は怒ると思うけれど、とりあえず今はもう少しだけ(グラフがギリギリ頂点を保っている間だけ)自分の身一つのことを考えていようと思う。

なるべくなら、グラフが永遠に上がり続ける人生を送りたいと思うけれど。

同じようにそう考えて共に生きてくれる、そして共に奮闘してくれるパートナーに、巡り逢いたいと思う。
私は一人っ子なので、小さい頃から何度も「姉弟がいたらいいのになあ」と思い続けてきた。

実際に母の足下を走り回りながら「兄と姉は諦めるから、弟か妹を作って!」と懇願したことも、一度や二度ではない。

まあ当時はどのように子どもが作られるのかといった仕組みを理解していなかったからこそ、こんなことができたのだが。そのうち「もうあの二人には無理かな…」と理解できる歳に達し、素直に現実を受け止めるようになった。

だから私は姉弟がいる場合を空想する機会が多かったのだが、その度に欲しいと思うのは、姉でも弟でも妹でもなく、"お兄ちゃん"だった。どうしてなのだろう。歳の近い妹か姉がいれば服なども借りっこできるし、ずっと楽しいだろうにとも思うのだが、今神様が「一人作ってあげる」と言ってくれたら、私は兄を希望すると思う。

自分にとって親しい友人というのは、大抵同年代かつ同性に偏りがちだ。だから私にとって一番身近なのは、やはり同年代の女の友達。そして次に多いのは、同年代の男の友達。

つまりこうしてカウントしていくと、極端に縁遠いのは歳の離れた男の友人なのだ。

私は大概において、自分の目に映るものとそれらに対する自らの判断を信頼しているけれど、後になってみると「浅はかだったな」と思うことも多い。しかも最近では、自らの生き方がある意味では浅はかだということを認識した上で走っていたりもする。どういうことかと言うと、「どうせ歳とらなきゃ何が自分にとって正しいかなんてわかりゃしないんだから、今は自分がいいと思うことをしよう」ということ。

しかしそんな判断も、時には「浅はかだった」で済まされないこともあるだろう。そんな私にストップをかけてくれるのは、歳の離れた異性の存在ではなかろうかと。

もちろんその役目を担うのは、同年代の友達でも構わない。けれど彼らの意見も、種類の違いこそあれ、私の抱くそれと基本的には大差無いのではないかと。たまにはものすごく成熟した友人というのもいるだろうけど。

そして同性の考えることというのも、根本的な部分では一致してしまいがちだ。同性だからこそわかるということも多くあるけれど、そういった内容を話す相手には恵まれているし、何よりも同性の先輩となるべき母親の存在が私には大きい。

じゃあ「歳の離れた異性」として、父親がそれに該当するのではないかとも思われるけど、残念ながら彼はあまりにも成熟し過ぎている。

例えば父と話をすると、彼は結論を先に話してしまいがちなので、多くの場合私と対立するのである。帰納法じゃないけれど、私はまだデータとなる多くの事象を自ら体験していないので、そこから導き出された結論だけを提示されても、説得力に欠けるのである。父は既に自らの体験が前提としてあるので、私のような未熟者がどんな状態にあるかをいまいち想像しきれていない。(これは我が家に限ったことじゃないと思うので、ほとんどの家庭での親子喧嘩の原因なんじゃないかな。)

そう考えるとやはりベストなのは、社会に出てある程度の経験を積み、既に自らの判断力に何かしらの自信を持っている男性ではないかと思うのだ。

しかも彼らはきっと未熟だった頃の自分を忘れきっていないと思われるので、私の放つ疑問にも説得力のある答え(あくまでも彼らの中での真実だけど)を用意してくれるんじゃないかな、と。

残念ながら年上の男性と付き合ったことが無いのでわからないけれど、私のような小娘が年上に憧れてしまいがちなのは、身の周りにかつてあまりいなかった存在が、自分にとって新鮮な意見を与えてくれるからなんじゃないかと思われる。(単純に年上はお金を持ってるから、ってだけかな)

というわけで、私は「"お兄ちゃん"がいたらなぁ」と最近切に願うのである。

私の無鉄砲っぷりを「馬鹿だなぁ」と思いつつも見守ってくれて、でも本当に危ないときは助言を与えてくれる、そんな存在がいたらなぁ、と。

私が年上の男性の日記にブックマークを貼りがちなのは、こういった理由からかもしれない。
誰でもそうだと思うのだが、携帯のメモリーのうち半分以上(私の場合は七割位)は、ほとんど連絡しない人の番号ないしアドレスだろう。

最近修理(なんだかんだで三回修理に出した)に出して戻ってきたマイ携帯なんですが、どうもデータ自体に不具合があるのではということで、データそのものを一度消去することに。

つまり、一旦代用機に移した私のアドレス諸々を全て消去し、もう一度新しく打ち込み直すことになったのだ(こんな症例は稀だろうけど)。当然打ち込むのはauショップの姉ちゃんではなく、自分。

ちくしょー。何件あると思ってるんじゃー。

ということで、この機会を利用してメモリーを整理。

中学・高校時代の友達で三年以上連絡を取っていない人を、ざっくざっくと消去。さすがに勇気が要ったが、どうしても連絡を取らざるを得ない場合は何かしら方法があるだろうという考えに至り、最終的に残ったのは整理前の半分以下。うーん、すっきり。

で。

これも私だけじゃなく皆がぶち当たる問題ではあると思うんだけど…

元カレ、どうしよ。

初めて男の子と付き合ったのは高校二年生の時(遅いとか言わないで)で、何しろお互いに浮かれていたから、早々と親を説得してPHSから携帯に変えたのだ。愛する二人にとってPメールの20文字では、愛を伝えるに十分ではなかったの。(とか言ってみた。)

だから家電よりも何よりも、真っ先に登録したのは当時の彼の番号。アドレスナンバー1。ってかあんまり嬉しかったから、今でも覚えているくらいだ。だから本当は登録する必要も無かったのだけれど。

その後機種変更をする度に消すことができず、驚くべきことにあれから5年経つ今でも残っている。しかし今では彼と会う可能性なんて、それこそ私が成宮寛貴と結婚できる可能性と同じ位低いし、つまり取っておく必要も全く無いわけで。

初彼とは五ヶ月付き合ったけど、私の幼さが原因でジ・エンドした。今思うと本当に下らない理由。彼が男なのにたれぱんだが好きなのが嫌だとか、パソコンのソリティアばっかりやってるのがオタクっぽくて嫌だとか、そういった馬鹿げた理由が大半を占める。

彼と最後に話したのがいつだったのかも、思い出せなくなってしまった。

今日の『エンジン』を見ていて思ったけど、やはり「別れ」は辛い。昔出された謎々、「人生で出会う人と別れる人の数はどちらが多いでしょう」というものの答え(数は同じ)を聞いたときは、衝撃を受けたものだが、結局どんなに親しい人でも別れる日は来るのである。

そして親しい人や愛する人との別れはとても苦しく辛いけれど、世の中には「今が別れの時だ」とわからないまま会わなくなってしまう人が多すぎて、むしろ涙を流して別れを告げることのできる時というのは、ある意味では幸運なのではないかと思う。

容量が少し減ってすっきりした携帯だけど、少なくともこの中に登録された人にだけは、別れるときに「さよなら」と言いたいと思う。

というわけで

さよなら
初めて付き合った人。
ある機械が目の前にあるとする。

そしてAさんとBさんがいるとする。

この機械にはスイッチが付いていて、それを押すと上面の吹き出し口から火が出るとする。これを人からあてがわれ、「火が必要なときはこれを使いなさい」と言われたとしよう。

Aさんは、「この機械からは火が出るんだ」という仕組みを素直に受け止め、必要なときにスイッチを押した。

Bさんは、「なぜ火が出るんだろう」と疑問に思い、その機械をひたすら観察し、考えた。

このように、ある仕組みを与えられたときに人が取る行動パターンは、概ねこのどちらかであると思う。私を含む多くの現代人は多分Aさんであろう。

生まれたときから、「決められた年齢に達すれば学校に行き、卒業したら働くんだよ」という世の中の仕組みを叩き込まれている。それは誰かに強引に教え込まれたわけではなく、ごくごく自然なこととして(つまり、人は生きるために食事をするのだということと同じくらいに)理解されている。あまりにも多くの人がこの仕組みを素直に享受し、納得している。

それというのも、この社会の仕組みに反旗を翻しているBさんのような人は、子どもの目に触れないところに排除されているから、疑問を抱く余地も無かったのだ。

しかし、その子どもが大きくなってある年齢に達したとき、Bさんのような疑問を抱くか、それとも一生何の疑問も抱かずに死んでいくのかというところでは、大きな違いがあると思う。

私の周りに、「どうして大学に行かなければいけないのか」ということで頭を悩ませている人がいる。その人は現役の大学生だ。

日本に何万人の大学生がいるか知らないけれど、この大いなる仕組みの前で一度立ち止まり、自分なりの答えを出してから大学に通おうと決めた人が、一体どれくらいいるんだろう。

私は何も悩まずに大学3年間を過ごし終え、いざ就職活動を始めようとしたところで、これとは性質が違う(だが根本は同じ)疑問にぶち当たった。つまり「なぜ就職しなければいけないのか」ということだ。未だに完全な答えは出ていない。けれどそれでも来年の春には就職する。火が出る仕組みを素直に受け入れるように。

私がぶち当たった疑問に対しての答えも、一応出せと言われれば出すことができる。「社会(というか国だな)が私に投資してくれた分、自分も何らかの形で還元せねばなるまい」ということだが…

実はコレ、そこそこ納得できる答えだとは思うけど、根本的な疑問に答えていない。序盤の例えで言うなら、「なぜ火が出るか」じゃなくて「なぜスイッチを押すのか」に近いものがある。つまり自分が火を使いたいという前提の上に、ただスイッチを押す答えを用意しただけに過ぎない。だからその機械を分解して分析して「こういうわけで火は出ます」と言ったわけではないのだ。

しかし、この答えを模索する行為というのは、なかなかにしんどい。何しろ仕組みがあまりにも大きくなっているから、どこから分解していいかわからないし、もちろん自分なりの答えが出たからといって答え合わせもできない。

そして何より、いくら火が出る仕組みがわかったところで、結局その機械を使わざるをえないというところに、最たる問題があると思う。どうせ原理を知ったところで使うしかないんだから、知らなくたって知ってたって一緒じゃねーかってやつだ。

そうなのだ。それはわかっている。

じゃあこの大いなる仕組みがもし崩壊したとしたら?

つまりもしこの機械が故障したらどうするのだ、ということだ。

Aさんは、スイッチを適切なときに適切な用途で押すということに関しては長けているけれど、結局原理を知らないからただただ途方に暮れるだけではないだろうか。

しかしBさんは原理を知っているから、自分で故障を直すことができる。もしくは新たに材料を探してきて、自分で違う機械を作ることだってできるだろう。物事を理解しているということは、そういうことだ。使い方を知っているだけでは、真に理解したとは言えない。

現在、日本人の多くが、この大いなる仕組みの前に何の疑問を抱いていないのは、この仕組みが崩壊する危険性が限りなくゼロに近いことを、なんとなくでも知っているからではないだろうか。

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今日の文章は、小学生の頃に読んだ星新一のショート・ショート(「高度な文明」/新潮文庫『かぼちゃの馬車』より)に原点が探せるような気がする。興味がある方はどうぞ。

ただほんと、原理を知っていたところで「幸せかどうか」には全く関係なかったりするような気がします。

研究室に育つ若芽

2005年5月31日
今日は動かない足を引きずるような気持ちで大学に行き、渋々ながら授業を受けた。

っていっても、90分間我慢して講義を聞いていたわけではなく、専攻のゼミに出ただけだが。しかもたった6人だけのゼミ。ダルーダルーと音が聞こえてきそうな程、ダルいゼミである。

うちのゼミの教授は、大変理解があるというかなんというか、自分が大学生だった頃の気持ちを未だに引きずっているような人だ(教授自身、うちの大学の卒業生のせいかもしれない)。口癖は「早く休みになんないかねー」。全員が集まるまで私たちが無駄話をしていると、本来教授は始業のベルと共にそれをうち切る立場のはずなのに、にこにこして自分も話に加わったりしている。

以前など自分の奥さんとの馴れ初め話だけで、90分終わってしまったことがあった。その前は「今日は天気がいいからやめ。」と言われたこともある。教務科にバレたら結構やばいんじゃないか…という感じだが、彼自身「僕はいつでも解雇されていいんですよ」なんて普段から言っているから、実際そうなっても案外平気なのかもしれない。

そんな素敵すぎる教授がお送りする毎週90分のゼミに、今日は久し振りに参加した。就活が激化する前に参加したっきりだったので、本当に久し振りだ。しばらく御無沙汰するうちに、ちとメンバーが変化していた。

我がゼミは3・4年生が一緒に研究(?)をする。ゼミを履修しなければいけないのは2・3年生だが、4年生も卒業論文の準備があるので、結局参加しなければいけないのである。というわけで本来は3年生だけで行われるゼミに、私たちがお邪魔するのだ。

いやー、ビックリした。今年の3年生可愛いのよ!!

うちの学科は世間的にはマイナーというか日陰の学科なので、みんななんか暗いんだけど、今日の3年生はなんちゅうかオシャレというか華やかというか、とにかくあまりうちの学科にいない種類の人々であった。ていうか去年のゼミにはいなかった(なんか地味なのよ、うちのゼミ)。

そして久し振りのゼミは、なんだか議論も盛り上がっていた。今日のテーマはアメリカのマニフェスト・ディスティニーについて。要は、アメリカが本土を広げ支配することは神様が祝福しているのだ!という当時の思想が、現代ではどんな風に広がっているのかということについて。

アメリカの商品や文化が世界中に広まることで、世界中の人は理論でアメリカを批判していても、実際使っているのはディズニーのキャラクター商品だったり。もしくはいつも飲んでるコーヒーはスターバックスだったり。これは結構恐ろしいというか、アメリカが100年計画で意図していたことなのではないか、と持論を述べた男の子(3年生)がいた。

今年の3年生は熱いというか、議論中の発言も活気に満ちている。特に印象的だったのは、持論を述べた彼はしきりに「何が正しいか」ということを見つけようとしていて、でもなかなか見つからなくて、終いには「何が正しいんだかわからねぇや…」と肩を落としていた。

そんな彼に対して私(すみっこの席で議論を眺めていた)が思ったことは、「彼は若いなぁ」ということ。

まだこの世には、正しいこと・正しくないことの2種類しか無いように思っているのかもしれないなぁ、と。

世の中には正しいことと正しくないことが確かにあるけれど、それは自由に変化するアメーバのようなものだ。だって正しいか正しくないかを判断しているのは、どんな時だって自分なのだから。どこまでいっても主観的な枠組みから出ることのできないものには、きっと永遠に客観性が見つけられない。

だから世の中のもの全ては、ただ「それがそこにある」というだけで、それに付随する意味(正しいか正しくないか)は自分で決めるしかないのである。そして主観性に満ちたその判断は、結構簡単にひっくり返ったりもする。つまりなかなか判断できなくて立ち止まる時、本人にとってその物事は正しくないし正しくなくもないのである。

私は結構年齢にこだわるところがあるのだが(柔軟性が無いなぁとも思うが)、一浪している私と彼は2つ違いなのだ。「だから何だ」とも思うが、2年間という短く思われる期間も、案外人が大きく変わるに十分な時間なのかもしれない。

弱冠22歳の私でも、年下を見ているとこんなことを考えたりするのだから、いつもこの日記を読んで多くのコメントを下さる年上の方々は、一体どんな気持ちで私を見ているのだろうとも思う。

やっぱり、「まだまだ若いなぁ」と思っているのかもしれないな。
誰かに似てる似てると思ってたのだ…。

藤原竜也だ!!!

しかも喋り方はキムタク風。(「ぅおい、まぁてぇよ!」とか言いそうな感じ。)なんでそんな素敵過ぎるコラボレーションが実現するのだ。

ウンウン、よかった。謎が解決した。
すいません、独り言です。本文には全く関係ありません。

今日は昨日の続き。本音と建て前についてもう少し。何しろしつこい人間ですから。

私の書いた昨日の日記に関して、ある友達がコメントしてくれていた。その中の一文を引用。

"お世辞とか建て前とかは苦手です。
でもこのごろ
そういうことをすらりといえるのは
美徳なんじゃないかなと
思います。"

勝手に引用したりして大丈夫かどうかちょっと不安だけど、とにかく私はこれを読んで、深々と三十センチ位頷いたわけだ。批判を承知で書いた(別に批判は無かったけど)昨日の文章だけど、日記それ自体が限りなく私の本音に近いもので、昨日のタイトルで言えばつまりはストレートボールだったわけだ。

彼女の書いた文章を読んだとき、私は「ああ、打たれた」と思った。そう、私は真正面から打たれた。気持ちいいくらいの打球音と共に。しかしなんだか爽快だった。(彼女はヒットを狙ってやっきになる強打者タイプではないので、心外かもしれないが…)

本音だけで純粋に振舞うことが必ずしも大人ではないということ。それは重々承知しているつもりだけれど、"本当の建前"を言えるようになるためには、本音をいつでも言える勇気を持っている人にならなければとも思う。

なぜなら建前は便利だからこそ、連発されがちなのである。そして本音を言うよりは建前を言っておいた方が大体うまくいくし、昨日も書いたように建前イコール美徳だということを、芯からではなく表面的にしか理解していない人は多くいるから。

そしてそういう人は、建前を建前と自分で認識せずに使っていたりもする。そうなると段々自分でも本音なんだか建前なんだかわからなくなって、会う度に(もしくは人によって)違うことを言っていたり。そしてそういう人が、いわゆる八方美人と呼ばれる人なんだろうと思う。確かに世渡り上手だとは思うけれど。

私が命をかけてもいいと思うほど何かを強く主張することはあまり無いけれど(「うそー!?いつも強気だぞ!?」とか言わないように)、これだけははっきり言いたい。

本音を言えない人間は、建前なんてもっと言えない。

ストレートを練習してない投手が、いきなり美しいフォークを投げられるはずがない。

確固たる本音を形作る信念があるからこそ、それを隠すための建前が存在するはずなのだ。相手に合わせてうまいことを言うだけの人は、建前を言っていると思い込んでいるだけで、結局は自分の意見が無いだけだ。

どうしても譲れない強い想いであればあるほど、それが相手を傷つけるであろう可能性を予測できるから、だからこそそれを隠すのだ。建前は、大抵どうでもいいような人をあしらうときに使われがちだけど(もちろん私だって使う)、本当に大切な人を守るためにこそ使いたいと思う。もちろん使用方法は人それぞれ。いつだってどこだって使えるから普及しているし、でも私たちの判断次第でその価値が高まったり下がったりする。まるで貨幣のように。

私は本当に傷つけちゃいけないときのためにこそ、建前を使えるようになりたい。

(私は本音と建前を取り違えて、最近大切な人を傷つけた。)

でもそのためには、本音を上手に言える訓練をしなければいけない。相手に合わせた"建前のように見える本音"が、TPOにあわせて自然と出てくるような女性がいたら、つまり本人はいつでも本音を喋っているんだけれど、それが相手に不快感を与えないような正当性と気配りに満ちている、そんな女性がいたらいいと思う。

なれないかもしれないけれど、目指すことはできると思う。
私はよく「言わなくてもいいことを言う人だよね」と言われる。

私から言わせてもらうと、むしろ「言ってもいいのに」ということを言わない人が多すぎる気がするのだが。どちらにしろ、私が人よりややオープンマインド気味だということは間違いない。

日本人の美徳に照らし合わせると、「泣かぬホタルが身を焦がす」じゃないけど、とにかくあまり思ってることを率直に言わない方がよろしいという風潮は、確かにある。そういうわけで、私にとっては大層生きにくい世の中であるということかもしれない(たった今思ったことだけど)。

さて、ここに恋愛ステージ1の女と男がいるとする。彼らはお互いに好意を抱いていて、双方それに気付いているとする。そして男の方から女を誘ったとして。この場合女があからさまに喜びを表現し、「やったー!!行く行く!私も誘われるのずーっと待ってたのー!!」なんてメールを送ったら…

やっぱ引くんじゃないだろうか、男としては。

(どうなんですか、男性の皆さん)

でね、こういう時にうっかりこういうメールを送りがちなのが、私という女で。いつの頃からかなんとなく「あまり本音を出さない方がよろしいようだ」と気付いた私は、以後"建前"というテクニックを学ぶことになったが。

でもこれね、いわゆる"アタシ流"ではないのだ。本音は本音として本人に知らせたい。

たとえば念願叶って実現した食事の席でも、「今日ね、すっごく楽しみだったから、わざわざ前日にエステに行って脱毛しちゃった」とか「夕べは超高いSK−?のホワイトニングマスク使って今日に備えたよ」とか言いたくなっちゃうのである。実際そうしていれば(脱毛もSK−?も経験無いけど)。

そして一回目の食事以降、こういう二人にはほぼ間違いなく駆け引き期間が訪れる。

オープンマインドの私は大抵押す。押して押して押しまくる。だが私の友人である恋の達人(21歳。元チアリーダー。容姿端麗。)に聞くと、それではいかんとのことで。ギリギリまで押して押しまくった後は、一気に退け。もしくはこっちの"好意"は悟らせても"好き"という気持ちは最後まで明かすなと。

そういう彼女は確かにすごくモテているので、おそらくこの方法はそこそこイケてるのだと思うが、それは"アタシ流"ではない気がする。好きで会いたいなら、「好きで会いたい」と言いたい。

というわけで、私は駆け引きなんて嫌いである。

でも最近思ったのだが、本音と建て前をうまく使いこなすのって疲れないだろうか。心の底で「離れたくない」と思っているのに、頭で考えて敢えて言わないことで、相手が離れていってしまうことは無いのだろうか。

これは主に付き合ってからの二人にこそ重要だと思うが、本音を敢えて隠さなくてもいいのではないか。確かに付き合う前は建前こそが重要だけど、付き合ったらなるべく本音の方を中心にしていくべきではないか。本気で傷付いた時はその気持ちを隠して相手を責めるよりも、ただ「悲しい」と言うべきではないのだろうか。

アルバイト先にちょっと小狡い子がいる。先日も電話で何分か遅刻するというので、理由を問うたところ「電車が遅れて…」とのこと。「じゃあ遅延証明持参してね」と言ったのに、到着した彼女は「あれ〜?ポケットに入れたのに…。」と。

こういう時も「すみませんっ。電車遅れたとか嘘なんです。実は寝坊しちゃったんです。恐くてつい嘘ついちゃいました!」とか言えば、そっちの方がよっぽど本人も周りも楽なんじゃないだろうか。

まあ、いつでも本音だけで生きている人なんてのがいても困るけれど。やはり大人は本音と建て前の使い分けができてこそ、大人だろう。

それでも私は、本音と建て前の本音の部分を、少し人より多くさらけ出せる人になりたい。駆け引きができない女ではあるけれど、そんな私の直球な想いをこそ可愛いと思ってくれる人に出会いたい。愛されたい。

====================

書いてから気付いたのだが、やっぱあまり本音を出し過ぎてもいけないな。本音は人を傷つける。

程度の問題

2005年5月28日
今(あくまでも厳密な意味で「今」である)私が一番関心を寄せている人物は、就職活動をしている。

その人は既に内定を一つ貰っていて、そこはかなり行きたい企業であるらしい。「え、じゃあ就活終わりじゃないの」って感じなのだが、ちっとも行きたくない大手食品メーカーとかを受けまくっている。意味不明である。

今日、理由が判明した。親が受けてほしいと言っているのだそうだ。内定が出た企業はそれなりに(というかかなり)有名企業ではあるが、まあヤクザな業界といえばそんな感じもするので、一般的な親世代に受けがよくないのであろう。

まあ色々大変だなぁとは思うが、蚊帳の外の人間から言わせてもらえば、「親の人生じゃないじゃん、自分の意志を持てよ」という感じか。おそらく多くの人がそう思うであろう。

そういえば高校を卒業した春に、仲の良い友達四人で伊豆に旅行する計画を立てたことがあった。その時本当に直前になって、一人がドタキャンするという騒ぎになった。理由は「子どもだけで伊豆に行くなんて」と親が反対したとのこと。当時ものすごく納得がいかなかったことを、今思い出した。

なんてことを書いているけれど、うちの両親も世間的に見れば、かなり小うるさい親であることは確実だ。まず私は一人娘なので、深夜の外出は父が許さない。オールなんてほぼありえないし、子ども(あのー、一応私今年23になるんですけどね)だけで外国に行くなんて言ったら、多分卒倒するだろう。というわけで留学なんて絶対に無理。

最近は諦めつつあるが、このように、人にはそれぞれ足枷のようなものがあるのだなぁと。

たとえば私が留学などできない一方、女の子なのにバックパックを背負って一人海外へ旅立っちゃう人もいる。私が終電を逃して誰かの家に泊めてもらう事が二年に一回位の頻度なのに対して、毎日夜遅くまで遊び歩くのが日常になっている人もいる。

親が受けろ受けろとうるさいから仕方なく就活を続けている彼は、地方から出てきて一人暮らしをしている。だから彼は自由気ままに日々を送っているのだろうと思い込んでいたし、大学の単位を取り終わり就職まで間がある彼ほど、自由で解放された人生を送っている人はいないだろうとも思っていた。

そんな彼にも色々あるのだなぁ、と。

そして思った。人はきっと誰にでも、足枷のようなものがある。

足枷は多くの場合その人(というかその家族)にしかわからないものであり、全くの他人がそれを理解することはできないのではないかと。頭では理解できても、理解しようと務めるときに使う尺度は、その人が生まれ育った環境のスタンダードでしかないから。火星で生まれた人が地球の人を理解しようとしてもね。

そして人は誰でも「この足枷が無かったら」と思わずにいられない。

程度の違いだとは思うが、私から見れば、チアの練習が九時に終わった後に皆で食事をする人たちが、どんなに羨ましかったことか。そりゃ夜遅くまで遊べる彼女らにも(しつこく言うが程度の違いこそあれ)何らかの足枷があったに違いない。しかし自分の足枷はあくまで自分だけのもので自分にしかわからないから、それが無いことだけを切に願ってしまう。

でもきっと私よりも不自由な生活をしている人なんて本当に相当な数存在していて、その人たちより少しだけ私は自由だけど、そんな私よりも少しだけ自由なのが、練習後にごはんを食べていた彼女たちなんだろう。つまりそういうことだ。全ては程度の問題だ。

100あるうちの90恵まれていたら、それだけで50しか恵まれていない人より幸せなはずなのに、持っている90ではなく、足りない10を見てしまうのが人間なのだろう。そしてきっと100持っている人間など存在するはずがなくて、足りない部分を指して私は「足枷」と呼んでいる。

私は今それなりに不自由を感じているけれど、きっと足枷は年齢によって変化していく。そして確実に予想できるのは、今後その足枷は一旦減少することはあっても、その後また増え続け、今よりもっと重荷になるのだろうなということ。

つまりどういうことかというと、私は来年社会人になることで、一般的な意味での親の保護から外れるから、現在抱えている足枷はおそらく無くなる。けれど結婚し、子どもが生まれ、諸々の責任を今度は自分が持つことになる(夫に対しても子どもに対しても)。そうしたら、今ほど身勝手な行動はきっとできない。どんな時でも、自分の家族のことをまず考えるようになるだろう。

かといって、それが不幸せなことであるはずがない。90恵まれていようが、50恵まれていようが、それが0にならない限り。

足枷を見てはいけない。今自分がいくつ既に持っているのか。いつだってそれが重要なのだ。
秘密日記のみ。さっきの続きです。
本文はありません。
私が映画の見れない女というのは有名な話(?)だが、実はドラマもあまり得意でない女だった。

まあ映画に比べればドラマの方が若干わかる。てかドラマの場合、ストーリーは絶対わかる。じゃあなんでドラマ見ないのって感じだが、要は毎週固定のスケジュールじゃないので、「あっ、今日は九時からドラマだから帰らなきゃ!」みたいに見る事が義務化するような気がして、嫌なのだ。

そんな私も最近頑張って(なぜ頑張らなきゃいけないのかわかんないけど…)、毎クール一本だけは見るようにしている。一本なら大丈夫なの。前回は『救命病棟24時』、その前は『ラスト・クリスマス』、そして今回はあの『エンジン』。

はっきり言って今日の『エンジン』は沁みた。辛かった。ストーリーとか構成とか音楽とかテンポとかそういう専門的な話をしたいのではない。(ってかできない。)

要は、今話のヒロイン・春海にどっぷり感情移入してしまったのだ。

(以下、ネタバレを含みますので、録画しててまだ見てない方は読まないように)

春海は17歳で、四つ年上の大学生と結婚の約束をした。幼い頃からうまく恋愛できない母親を見ていたから、幸せな恋愛・結婚に憧れていた。いざ母親たちに彼を紹介しようとしたら、約束の時間になっても彼が現れない。結局彼は本気ではなかったので、この後春海は泣くはめになるのだが、来ない彼について母親たちに訴える時の台詞が

「ママとは相手が違うもの。トシくんは違う。すごく真面目だし、私を大切にしてくれる。」

と。

(うろ覚えだけど…)

悪いけどこの大学生、遊び人を絵に描いたような奴である。まあそりゃドラマだから、役柄をわかりやすくするためにそうなっていたんだろうけど、第三者が見たら春海が騙されている事は明白だったのだ。

架空の物語だから「あーあ、馬鹿だなー」と言って受け流しがちだけど、私は受け流さないぞ。だって、皆自分だけは騙されないと思って生きているんだろうけど(無論私も)、実際騙される春海と自分たちの間にある隙間には、蟻の子一匹たりとも入れない。比喩がわかり辛くなってしまったけど、つまり大差無いという事。

一度も騙された事が無い人にこの気持ちを説明するのは、非常に骨が折れるのだが、騙される場合において何が一番の問題かというと、大抵の場合、本人は騙される危険性を十分に認識した上で騙されているのだ。よっぽどの馬鹿じゃあるまいし、世の中の人間が皆信用できるなんて誰も思ってないはず。

だからね、皆一度フィルターを通した上で騙されているって事。銘々のフィルターの強度や信頼性には個人差があるだろうけど、何しろ自分のフィルターなんだから、皆それなりに信用しているでしょう。そのフィルターを審査するフィルターが保護者だったり親だったりするんだろうけど、何しろ自分がその相手を一番理解したつもりでいるんだから、全くタチが悪い。

偉そうに語っているアンタはなんなんだって意見は予測済みである。

私は騙されたことがある。

(もちろん今回のような結婚詐欺ではないけれど。)

私は人一倍真面目であることを認識しているし、親の意に背かないよう着実に道を踏み外さないように生きてきたつもりだし、好きだと思って飛び込む前にきちんと判断したつもりだった。

人間、やはり「自分だけは」と思ってしまう生き物なのかもしれない。それは一生直らないのかもしれない。何しろ研ぎ澄まされたフィルターを持っているように思い込んでいるのは、あくまでも自分だけであって、そのフィルターを審査する第二のフィルターは、決して自分の中には存在できない。それはもしかしたら時に"純粋"と言い間違える程の甘美な過ちだけど、本質はただのお人好しなのだ。

少なくとも相手を心の底から信じきっているとき(ノンフィクション)は、自分こそが一番ベストな選択肢の先にいると思っているわけで、自分の周りを取り囲んでいる全てのものと"愛する彼"は、自分の中だけでどこまでも真実であり続けている。

しかし、"愛する彼"と周りの夢のよう(に見える)な現実は、自分の知らないところではあくまでもかりそめで、ちょっとつつけばすぐに壊れてしまう虚構(フィクション)に過ぎない。

いつでも確実に見える客観的なノンフィクションの世界にいれば、傷付く必要もない。でも私が今大切にしているこのノンフィクションに見える世界が、脆いフィクションに包まれていないなんて、一体誰が教えてくれるの。

不必要なプライド

2005年5月21日
ついこの前、山田詠美が好きだと書いたばかりでアレだが、私は村上春樹も好きだ。

すみません、メジャー好きで。まあ考え直せば、日本人の大半が好きなものが好きだということは、私が日々何かを見たり聞いたりして考えてここに書くようなことも、大半の日本人には受け入れやすいことなのではないかと。違うかな。

というわけで、今日は午前中ダラダラと惰眠を貪った後、村上春樹の『スプートニクの恋人』を満喫。『ノルウェイの森』は図書館で借りたが、これは買った。思うに、小説というものはやはり買うべきだろうと。

一回読んだだけでは良さがわからないと言うと陳腐だが、小説を一度(まあ二回でもいいけど)読み、一旦本棚にしまい、また何年か後に読み直すというのが醍醐味ではないかと。よっぽど下らない本は別として、最初に読んだときそれなりに感銘を受けた本ならば、何年か後に読んだときはきっともっと興味深い。

というわけで、小説は古本屋で買うに限る。本屋にはどうしても新刊が多くなるから(新刊が下らないと言っているのではない)。しかも高い。

しかし上記の事を考えると、どうして古本屋にこそ、すり切れたような名著があるのだろうという気もしてくる。名著(それこそ偉大な文豪のもの)こそ、一度買ったらいつまでも本棚に置いておくべきではないのか。それとも名著を古本屋に売るような人は、単に読書の"量"にのみ重点を置いているのか。つまり一度読んだらもういいと。それは少し寂しい。まあ単に本棚のスペースが無くなった、という可能性もあるだろうが。

私がこの『スプートニクの恋人』を買ったのはわりと最近で、(というかこの本が発売されたのもわりと最近なんだけど)たしか二年位前だ。友の評判はイマイチだったけど、それなりに楽しんで読んだ気がする。

しかし今日読み返してみて(もちろん全部じゃない)、私なりに二年前の私について、絶望とも呼べるほどの感情を抱いてしまった。一体当時の私は、この本のどこを読んで面白いと思っていたのか。今読み返すからこそわかることばかりじゃないか。当時の自分はそれなりにわかりきったような顔をして、人生を見ていた。まあ今もそれなりにわかりきったような顔で、この文章を書いているのだけれど。

たとえば、主人公の"ぼく"に関して。この物語はすみれという女性の話が核になるのだが、"ぼく"についても若干の記述があり、それが今の私にとってはなかなか興味深い。

たとえば、"ぼく"は小学校の教師なのだが、受け持ちのクラスの少年の母親と、月に二回ほど関係を持つということをしている。(これは物語の深部に関わるようなことではないから、ネタバレを恐れる人も心配しなくていい)

当時はただ読み飛ばしていた。だってこれは物語自体にあまり影響を与えていない部分だから。小説というものに無駄なセンテンスなどひとつも無いということはわかるつもりでいるけど、それでもこの部分は結構無駄に近いものであるかもしれない。

まあ能書きはいい。とにかく私は、"ぼく"の行動にこの上もなく興味を覚えていた。

一体いつこんなことを決めたのか謎だけど、私は付き合うときに、常に結婚を前提にしている。つまり私が誰かと付き合うということは、その相手と将来結婚するかもしれない可能性を、その時点では容認しているということ。

だから「この人とは世界が崩壊しそうになっても結婚できないだろう」と思えば、絶対に付き合わない。それはその人自身の考え方や価値観や容姿云々に限らず、肩書きや身分の問題でもある。つまり妻子持ちや、あまりにも年上・年下の場合なんかは、最初から選択肢に入らないということだ。

無駄を避けてると言えば、そう言えるかもしれない。そう、私は無駄な恋愛を避けている。

恋愛は常にフィフティ・フィフティであるべきで、ともに若く未婚の男女が、将来一緒になるためにするものだと位置づけていたのだと思う。そうでない恋愛がこの世にあることは知っていたけど、それは私にとって意味の無いもので、そういう二人をやはりあまり理解できていなかったのだなと。

だから今回で言えば、この"ぼく"の行動は、私にとってはまずあり得ない世界の話だ。未来が無いではないか。"ぼく"は未婚だけど、その相手とどうこうしたいという(つまり旦那と離婚させても手に入れたい)欲求は無い。じゃあなぜ?なんのために会っているの?ともに好意を抱いて行為を重ね(ちょっとシャレ言ってみました)、それが一体何の材料になるというのだ。

とにかく今回私がわかったことは、世の中には数多くの"無駄"が存在しているのに、私は極端にその"無駄"を排除しようとしていたんだなぁと。"無駄"を"無駄"と認めることは以前もあったけれど、それらと自分を仕切る壁だけは、人より頑丈だったようだ。

そう思っていたら、冒頭でとっくに"ぼく"が語っていたよ。


でもあえて凡庸な一般論を言わせてもらえるなら、我々の不完全な人生には、むだなことだっていくぶんは必要なのだ。もし不完全な人生からすべてのむだが消えてしまったら、それは不完全でさえなくなってしまう。
(村上春樹『スプートニクの恋人』より)


さて、それが字面から表面的に理解したことじゃなかったと仮定して、これから私がどううまく生きてくかが問題だな、と。

"無駄"を"無駄"と割り切ってやっていく選択肢を選ぶほどには、私は大人じゃない気がする。
昔、エッセイストになりたいと思ったことがあった。

丁度さくらももこのエッセイ第一段が出たのが、小学校高学年位の時だったので。小説、漫画、詩集以外に「エッセイ」というジャンルがあることに気付いた私は、以後あらゆるエッセイを読み漁った。

読書好きが高じると、そのうち自分でも書いてみたくなるというもので。かといって私が書き始めたのは、エッセイではなかった。8000字〜10000字程度の短編小説ばかりで、わざわざ大学でも小説を書く授業をとったりしていた。

しかしね、本当に小説を書いている人って…あのう、なんかとにかく、「すんげぇ」んですよ。

大学三年の時に履修していた小説の授業は、たしか30人くらいの小さなクラスで(もっといたんだろうけど、実際に作品を持ってくる人はそれくらいだった。)、定期的に発表会を行い、その度に批評をし合うというものだった。でね、まあ、最後まで読むのに相当苦痛を伴う作品というのも無くは無いんですが、「うわ絶対この人プロになろうとしてる」ってわかるようなクオリティの人も少しだけどいたんですね。

はっきり言ってやばいね。あーゆー人たちは、多分読書量からして常人とは違う。負けじと対抗していた私は、当時ものすごい量の小説を書いていた。

でもなんか違うなぁ、と。そのうち、私の書きたいのは小説ではないと気付いたわけだ。(負け惜しみじゃないよ。)

小説はテーマがぼやけ過ぎるのだ。小説は必ず主題を持たなくてはいけない(要はそれを書くことによって何を伝えたいのかってこと)から、一応書く前に色々考えるんだけど、私の考えることって二十歳そこそこの小娘の生活にすごく乗っ取った内容で、いわゆる文学的テーマに置き換えるとものすごく陳腐になるのだ。

しかも私はなるべく思ったことをダイレクトに伝えたいのに(つまりセックスが気持ちいいなら、「セックスは気持ちいい」って書きたいの!)、小説ではあまりダイレクトに書くべきではないようだ。美しい文字の羅列の中から溢れる想像の世界に、ぼんやり主題が見えるっていう程度がベストみたいで。

そりゃ小説のスタイルにも色々あるから、一概にそうとは言い切れないけど。たしかチェーホフだったと思うんだけど…(自信いまいち無し)、彼は「雨が降ったら"雨が降った"と書きなさい。」と語ったという。ですよね、チェーホフ!!私もそう思うよ!!ただ私が主人公の心情を書くと、その主人公が考えていることのはずなのに、「これあなたがいつも考えてることでしょう」ってばれてしまう。つまりものすごく著者(私)の存在感を感じてしまうそうなのだ。

そして私は見栄っぱりなので、いざ小説を書こうとすると、異様に肩に力が入ってしまう。ものすごく深淵なテーマを設定してしまって(てか小説ってそういうもんだと誤認していた)破滅するのである。

私が書きたいのは、ほんの些細な日常の中の一コマなのだ。そしてそういった些細な日常、つまり誰もが普通に通り過ぎてしまうような風景の一部分に、私なりの切り口でメスを入れたい。でもその切り口は、開いてみたら「ああ、なるほどねぇ」と誰もが納得してくれるような事であって欲しい。

しかも本当は皆思ってるのにあまり声を大にして言えないような事(特に女が)、「あちゃーそれ言っちゃうんですか」って事ならなおいい。私が言わなかったら誰が言うのさって位であって欲しい。そして私と同じような日々を送っている多感な世代の「ちょっと考える人」に、読んで欲しい。

だからBROGを書いているのかもしれないなぁ。これって割とエッセイに近いものがあるような。(最近はテーマが抽象的過ぎて、日記で無くなりつつあるという説もアリ。)

今日はバイト先でカプチーノの泡を作りながら、そんな事ばかり考えていた。

ミルクの泡がチリチリと出来上がっていく過程というのも、なかなかに文学的だ。少し作り過ぎたか、もう少し泡立てるべきか。生きるべきか。死ぬべきか。愛するべきか。終わらせるべきか。飛び込むべきか。引くべきか。

女は形跡に恋をする

2005年5月18日
だめだだめだだめだ。こんなんじゃ私はだめになる。

というわけで、今日は去年の11月以来に授業を受ける。つまり今期は四月にスタートしているというのに、四年になってから一度も授業に出ていなかったという事。そりゃ頭も腐るわ。

しかしもはや、腐りに腐ってドロドロに発酵してると思われ。たった一コマ(つまり90分)もじっとしていることができず、途中退室。一体何のために片道一時間以上かけて来たんだか。

まあ、それはそれとして。

何で本日はこんなタイトルなのかというとね、今日は昔好きだった人とお茶(は飲んでないけど)する機会があったんですよ。てかその彼はこのBROGを確実にご覧になっているので、あまり詳しく書くと恥ずかしいのだが…ま、いっか。好きだったのはもう何年も昔の事だけど、今日もやっぱり彼は素敵でした。

しかし、ほんと。恋心って摩訶不思議。

彼に対する恋心は結局成就しなかったわけなんだけど、今となってはなんであんなに好きだったのか、超謎である。彼のいいところや素敵なところを何個か羅列せよと言われたら、かなり書くことができると思うけど、それは今もあの頃も同じであって。つまり彼自身は全く変わってないという事。

もちろん彼も就職活動をしているから、あの頃と今では考え方も多少変わっているだろうし、この何年かで全然成長していないとは思えない。私が少しだけど大人になったように。

でも根本的な部分で、彼は今も彼のままで。笑い方とかね。喋り方とかね。だから基本的には、今日私の目の前にいた彼はあの頃私が見つめていた彼のままなわけで。そう、何も変わっていないのに。それでも私はもう彼に恋することは無いのだろう。

つまり私が今日考えた事というのは。

人が恋をする時、その人自身の魅力にのみ惹かれているのではないんじゃないか。

という事。

わかり辛いとは思うけど、つまりこういう事である。

最近ある男の子の家を訪ねた。(と、ここまで書いてふと思ったんだが、最近私男関係の話題ばっかりじゃないか。なんだかなぁ。)その人は一人暮らしなので、室内のアイテムは当然だが確実に彼の物という事だ。テレビや冷蔵庫とかのどんな家庭にもある家電製品はともかく、例えばマイルドセブンのタバコの箱とか。あとはアディダスのハーフパンツとか。

で。

私は特に何も気に留めず、トイレを借りたのだ。

ユニットタイプではないトイレの扉を開けたところ、そこには便座を上げたままにしてある便器があった。

私の父親は、厳格な妻or母親のしつけにより、用を足す際には女と同じように座ってしろとされている。なぜか。飛び散るからだそうだ。私は実際に見た事無いので知らないけど、男の立ち●ョン(なんとなく伏せ字)はかなり飛び散るそうなのだ。だから綺麗好きな女性がいる家庭では、そこそここういう事はあるみたいで。統計を取ったわけではないけど。

だからちょっとびっくりしてしまったのだ。まあよく考えたら、一人暮らしの男性の家の便座が上がっていたって、ちーっとも不思議ではない。

しかし私はみょーーーーに納得してしまった。「ああ、男の子なんだなぁ。」と。

そして彼が席を外した際に、ふと見渡してみたのだが、そこにはさりげなく彼の男を感じさせる"形跡"が存在していた。

それらは本当に特別な物ではない。彼自身、それらを使うことに何の意識も働かせていないような物ばかりだ。しかしそれらのアイテムの全てに彼を感じることができる。それらは本当にシンプル過ぎて、だからこそどんな色にも染まることのできそうな物ばかりだった。

ベランダへと通じるガラス戸にもたれかかるように吊されていた、リクルートスーツの上着なんて特に。おそらく量販店で買ったに違いないから、あれと同じ型の上着はそれこそ何百枚あるかわからない。でもあの部屋にあったあの上着は確実に彼が羽織ったもので、それは日本中に一つしかないわけで。そしてその上着を見ているうちに「ああ、男の子の上着ってこんなに大きいんだなぁ」と、私はなんだか感心した。私もつい最近まで毎日似たような上着を羽織っていたのに、全然違う。ああ、あの大きさは、紛れもなく彼の男の部分であるなと。

ここで話を戻すけど、つまり当時の私に見えて今は見えないもの、それはこういった"形跡"なのではないかと。

今日お茶(は飲んでないけど)を飲んだ彼の"形跡"は、もはや私には見えない。きっと昔は見えたのだ。それこそ彼の使う物の全てにそれらが見えたのだ。でも今、それらは全てただの「物」に戻ってしまっている。

まあ逆を言えば、その人自身の魅力に既に惹かれているから、こういった"形跡"すら愛しいと思えるわけで。つまり"形跡"が好きだからその人を好きになるとかではない。それでは話が逆なのだ。

ただ、人を好きになる過程において、そういった"形跡"が何らかの影響を及ぼしている可能性も否定できない。単純に顔がかっこいいとか、スポーツができるからとかじゃなくて。それこそ「好きだよ」という言葉じゃなくて。そういったさりげない"形跡"にこそ、その人の全てが出る。そして本当にかっこいい人(つまり自分がどういう人間か知っている人、なおかつ自分に似合うものは何かを知っている人)というのは、そういった"形跡"までかっこいい。そして雰囲気を味わえる歳になった女の子は、まず間違いなくそういった物にも惹かれるのだと思う。

やっぱね、表面的に取り繕ってもだめなんでしょうね。

でもこの文章読み返して思ったけど、私って便器見て興奮してる変態女ってことなのでは。それってブルマとか盗んできて匂い嗅いじゃってる変質者と同じじゃない?

うわー!我ながらキモいぞ!!

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