今まで、ミュージカル・バトン、コミック・バトン、ジョッキ・バトン…と、色々回ってきたけど、今回はまた変なのが来たものだ。

でも、回されると嬉しいので、張り切って答えよう。

題して、フェチ・バトン。

★1、あなたは何フェチ?

髪フェチ。
これは人に説明するのが非常に難しいのだけど、
すごく好きな髪型(頭の形、髪質、生え方など、首から上の総合芸術ともいえる)があって。
たまにいるのだけど、あまりいない。
ユースケ・サンタマリアと、あと仲村トオルなんかがかなりイイ線をついている。

★2、異性を見る時何処を見る?

シルエット。
総合的にバランスがとれていてほしい。

★3、最近プッシュできる部位

これは私の??
耳かな。すごーくちっちゃいので。
可愛いと思っていただければいいのだが。

★4、異性の好きな部位を5つ。

5つもない。
特に好きなのは胸板。別に分厚くなくてもいいので。
「バカ、バカ!」と言いながらドンドンしたい。
平坦な構成は男を感じる。

★5、フェチを感じる衣装は?

スーツ。正装。
Yシャツで腕まくりをしてる状態がすき。
クールビズ反対。

以上。
今までで一番楽しかったかもしれない。

愛しのエディ

2005年9月9日
いかん。最近明らかに飲み過ぎである。

今日は、高校時代の友人(うち2人はOL)らと飲み@沖縄料理屋。

全盛期の酒井若菜風味の友人は、「まさゆきブラック」とかいうわけのわからない名前の地酒を飲んでゴキゲンだったけど、私は本日も生ビール。せっかく極上の泡盛を多数揃えた店に行ったのだから、珍しいものを飲めばよかったかも。ただ、ラフテーがとても美味しかった。

で、なんか三年振りに相当酔っぱらったようで、電車を降りてからの記憶が欠落している。

自宅から数百メートルの場所にある銀行の前で、小一時間ほど意識を失っていたらしく、さきほど目覚める。母に電話。帰宅。ふとももに石畳の跡。

こういうときは、例によって嫌な夢を見るので眠りたくない。というわけで台所をあさってみたら、父秘蔵の美酒を偶然(←ここポイント)発見したので、早速飲む。今、とてもいい気分である。まだ飲み足りないのか、自分よ。ええ、飲み足らないね。

周りの友人に聞くと、少しずつ元気になってきたように見えるらしいのだが、そのベクトルが若干いや〜な方向に向かっているような気がしなくもない。

そうそう、ここ最近見た夢(後日修正アリ)で一番ヒットだったのが、

(どうやら元カレが私の元へ帰ってきたという設定)

「わたし、もう彼のこと忘れたいの…」
「そんなこと言うなよ。」
「忘れさせて。」
「忘れさせてやるよ…。」
ほわん、ほわん、ほわん、ほわん。。。(効果音)

的な夢。20年前のドラマかよ!って、起きた瞬間から三村ツッコミをするはめになったけど、どうやら自分相当疲れているらしい。というか弱っているらしい。

ってか自分の夢のくせにこう言うのもアレだけど、夢に登場した謎の男性(エディと命名。)がものすごく格好良くてビビった。
ラヴ。ラヴ、エディ!

この際元カレを待つよりも、私のエディを探す旅に出るべきなのだろうか。

でも本当に、今エディの基準を満たす誰か(もちろん厳正なる審査がなされるのは避けられない。)がスーパーマンのように現れたら、私は一体どうなるのだろうか。案外あっさりとエディのものになるのだろうか。それともやっぱり引き摺ったままなのだろうか。

さきほど、無性に元カレに電話したくなり、「そんなことしてもムダなのに…」と思えば思うほど空しい。酔って足もとがおぼつかなくなっても、おんぶしてくれる元カレは(おそらく今頃は)他人様のものだし、私にはエディもいない。
ジョッキ・バトンというものが回ってきた。(色々あるのだなあ!)

お酒は好きだけど、詳しくない。でも頑張って書こうと思う。

★1.いま、冷蔵庫に入っているお酒の容量は?

麒麟・淡麗生(黒)が2、3本。
しがない商人の家の冷蔵庫には、発泡酒がお似合い。
冷蔵庫以外なら、ライチ酎が一本と、ワイルドターキーという洋酒が一本。どちらも水割りでちびちび飲む。

★2.好きな銘柄は?

別になんでもいい。ってか好きなものを選ぶほど、まだ酒をよく知らないので…。
ただ、アサヒ・スーパードライだけは「ちと、苦手かな…」と思った記憶が。それ以来飲んでないけど。

★3.最近、最後に飲みに行ったお店は?

行ってない。合コンで行ったけど、店名不明。
家で一人で飲む派なのかも。本当に素敵なバーを知らないからかな。もし見つけたら気心の知れた人とひっそりと通いたい。

★4.よく飲む、もしくは思い入れのある5杯。

?「チンザノのロッソ(赤)」
しょっちゅう飲む。
ジンジャーエールで割るのがお気に入り。甘いけど。
最近、赤と黒のハーフ&ハーフ(ベルモットと呼ぶの?)にすると美味しいらしいという情報をゲットしたので、試したい。

?「シャンパン(銘柄は何でも)のピーチネクター割り」
大学の友達がとあるバーでピーチ風味のスパークリングを飲んだらしく、それを再現しようということでトライしたら大ヒット。
ただピーチネクターを手に入れるのが難しい。

?「MIDORIをベースにしたミルクのカクテル」
正式名称はあるのでしょうか…
MIDORIのあの安っぽい味が好き。よく行くお店では、これに(多分…)グリーンバナナリキュールを足してさらに不思議な味にしてくれる。レシピ聞けばよかった。

?「ZIMA」
ま、とりあえずね。みたいに飲む。
でも「女の子が瓶に直接口づけ」という図があまり好きではないので、彼氏と飲むとき限定にしている。
どうでもいいけど、ダーツやりながら瓶飲みしてる人って、なんかいいですよね。

?「麒麟・淡麗生(黒)」
家ではいつもコレ。
酒好きのうちの両親だけど、のっぴきならない事情から発泡酒ばかり飲んでいる。その流れで、私も家ではビールではなく発泡酒。(ビールを買うと叱られる。)
気持ちよく眠れればOK。我が家的には。

やはり「女の子ですっ☆」という感じのチョイスなのだろうか、これらは。
日本酒やウィスキー、あとワインに滅法弱い(知識が無いということね)ので、どなたか教えてください。

個人的に、付き合うなら断然酒の飲める人がいい。一緒に飲みたいから。できれば嗜好も正反対がいいな。そしたら「少し分けてー」って試せるので。

なんか、楽しかったな、このバトンは。
一応ストップします。
恒例の料理教室へ。

今日のレシピはチョコレートムース。ちゃんとスパテラ(ケーキの凹凸をならすのに使う細長い棒。)と回転台を使って作る。本格的。

ってか、最近メキメキ料理の腕が上がっているワタクシなのだが、食べてくれる人がいない現実にハッと気付いて、若干(いや、かなり)ブルー。ゲストと女子アナのいない「チューボーですよ!」状態。ちょっと失敗して「あちゃー!」とか言ってても、マチャアキ一人きり、みたいな。

いや、またこんなこと書くと周辺各所から叩かれそうで怖いのだけど、「女子の料理は、嬉しそうに食べてくれる殿方のためにある。」と私は信じて疑わない。というわけで…

日本の家庭料理に飢えている殿方、カマン!(泣きながら。)

それはそれとして。今日はよくわからないけど、少し元気。まあ、個人的には壮大な紆余曲折(その詳細はここに書くようなことではない。)を経てこのような心境に至ったのだが。

中学とか高校の頃によく見た、妄想大爆発系の夢を見たというのが大きいかな。ほんと、夢ひとつで簡単に躁になったり鬱になったりするのだから、なんちゅうか…私の人生忙しくてしょうがないや。

もちろん、そんな夢を見たところで現実は昨日からなんにも変わっていないのだけど。でもね、夕立が続きながらも遠くの暗雲の下の方に少し切れ目が見えていて、そこだけ黄金色の日差しの気配が感じられる、って感じで、これがあくまでも「夕立」だということを誰かが教えてくれているような気分なのだ。

実際、今日は夕立があった。空が黒くなったり、黄色くなったり、そのすぐ後に今度はオレンジになったりピンクになったりして。

「ああ。世界はなんて美しいのだろう。」って、私は数年振りに思ったりした。

なんてね。月並みだけど。

手繰り寄る糸

2005年9月6日
「この世は、一人一人の人間が見えない糸で繋がっている。

だから自分が悪いことをしたら、ぐるーっと回って、自分に悪いことが返ってくる。

逆に良いことをしたら、またぐるーっと回って、自分に良いことが返ってくる。周りの人に親切にして、もっともっと幸せになろう。」

これは、小学生の頃に見たアニメ『まじかる☆タルるーとくん』の中で、主人公本丸の母(非常に人間のできた人)が語った台詞である。まさかこんな歳になって覚えているとは思わなかった。

要は「情けは人のためならず」ということで、本丸の母ちゃんに言われなくても、23年生きる中で何回も似たようなことを耳にしたはず。

最近、私の話をゆっくり聞いてくれる人がいる。その人はどうやら過去に色々とあったようで、それが複雑な熟成を経て、巡り回って私を元気にしてくれている。

その人の過去はもちろんその人のものだし、私の身に直接は何も影響していないのだけど、でもその過去が無かったら、おそらくその人の私への対応は違ったことだろう。不謹慎ではあるが、その人がそのような過去を持ったことは、この「見えない糸」が関係しているのではないかなと思ったのだ。

今の私の悲しみとか苦しみは、一見私のものだけのように思えるけど、いつか何かの形で他者に影響を及ぼす日が来るのかもしれない。優しくしてもらったから人に優しくしなくちゃ、とかそういう単純な話ではなく。

つまりね、この世は「見えない糸」だらけだから、自分の身一つに起こったことでも、自分だけで内密に(他者に一切影響を与えること無く)処理して全て無かったことにするのは、ぜっったいに不可能なんだということ。

自分にどんなことが起こっても、この「見えない糸」の原則さえ知っておけば、それがいいことでも悪いことでも真摯に対応するべきだということが、自ずとわかってくる。だから、たとえほんの些細なことでも、それがいずれどんな風に世界に影響を及ぼすのかを少しでも予想しなければいけないのだ。

もちろん予想なんて不可能なんだけどね。

そして結論としては、私に親切にしてくれる人が当時私を元気にすることを全く予想していなかったように、私も何年か後に今回の経験をどうにかして世の中に還元(いい意味でも悪い意味でも)しているであろうことは、推測ではなく確信として私の中にあるということだ。
怒りと悲しみは紙一重なのかな、と思った。

(私にしては珍しく、結論から書いてみる。)

今回の件(彼氏がほかの女のコのところに行っちゃったってことね。しかも結果的に私をキープしつつ。)を人に話すと、彼に対する評判は私の友人サイドではすこぶる悪い。というのはまあ当たり前なんだけど、意外にも彼の友達の間でもかなり悪いらしい。

で、その男たちに話を聞いてみると、どうやら「同じ男だからこそ許せない。」という思いがあるらしく。男どもはよっぽど気を引き締めていないと、うちの彼のような過ちをいつでも犯したくなるらしいのだ。

でもそこで犯すか犯さないかの違いは大きいようで(要は「殺人者の心情を聞けば共感はできるかもしれないけど、でも実際は殺さないだろう。」みたいなものかと。)、やはり彼らの結論としては「次に行け。」ということらしい。

その話を聞いていると私はとても悲しい。"悲しい"以外に表現方法が無い。

私も(多分)馬鹿ではないので、重々理解はしているつもり。彼のよくないところは奴のお母さんの次くらいに認識している自信があるし、そうでなくても彼らの言い分はよくわかる。

でもね、それとは全く関係なくこの感情は存在してしまうの。私は皆に「待つな。」と言われると、とても"悲しい"。

この悲しみは一体何だろう。何かを乗り越えるときには必ず痛みが発生するけど、この悲しみがその痛み?ということは、私は彼を待ちたいという気持ちを断ち切って(つまり痛みに耐えつつ)、新しいところに行かなければいけないのだろうか。そうでなければ成長できないのだろうか。

そして悲しみに打ちひしがれたそばから、私は唐突に"怒り"を感じたりもする。

「待つな。」と言われると、「じゃああなたが私を彼以上に大切にしてくれるの?」と言いたくなってしまうのだ。「待つなと言って私を一人にしておいて、結局私を助けてくれないわけでしょう?」って。この"怒り"がとても理不尽なこととは知っていても。

悲しみは純度100%であればあるほど、それをどうしても解消できないとき、怒りに変換して消費していかないと精神に異常をきたすのだ。そうしてどんどん怒りがまき散らされて、私の周りの人がきっと不幸になっていく。

だから、「待つな。」と言わないで。
今日、すごいことに気付いた。

(余談だけど、バイト先のカフェでミルクをスチームする時間が、私にとってうってつけの「考える時間」だったりする。)

私が、ちょっとでも「この男を好きになりそう。」と思ったり、あるいはものすごく惚れてしまったりという人は、まず間違いなく剣道かサッカーの経験がある。例外なく、ある。

まあサッカー部が無い学校は滅多に無いし、男の子にとってはかなりポピュラーなスポーツなわけだけど。つまり、サッカー部に一度でも所属したって人の絶対数がそもそも多いのかもしれないけど。それにしても、だよ。

最初からサッカー部か剣道部の人とわかって好きになっているわけではない。むしろ最初に選べるなら、私はバスケ部を選ぶ。後から「昔、部活何に入ってた?」と聞くと、絶対に「剣道部」もしくは「サッカー部」と言うのだ、奴らは。

これはかなり興味深い統計ではないだろうか。

「こういうタイプが好きなの!」と断言できる程ストライクゾーンは定まっていない。と思っていたけど、実はそうでもないのかもしれない。サッカー/剣道をやっている人を1万人くらい集めてみたら、何かしらの共通点が見つかって、もしかしたらそれが私の好きになる要素なのかもしれない。

中学・高校時代を思い出していただきたい。各部活に所属する人々が醸し出す雰囲気というのは確かにあって、大抵は「あー。○○さんっぽいよねー。」というところに入っていたと思う。ちなみに私の場合、中学・高校は吹奏楽部で、大学はチアリーディングである。これが私らしかったかどうかは全く不明だが。

血液型は4種類しかないけど、部活は一般的なものだけでも結構な数がある。これだけあるのだから、ちょっとした傾向はありそうである。少なくとも嗜好は思考に(シャレじゃないよ。)かなり影響を及ぼすから、まんざら外れでもないのでは、と。

(またまた余談だけど、好きになった人が全員「水球部」とか「箏曲部」だったらスゴイよね。好み偏りすぎ…)

今日は綺麗にまとまったな。

何でもかんでも枠にはめるのは良くないことだけど、こういう傾向を個人的に知っておくのは面白いと思うのだが。あくまで個人的に、ね。

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そういえば、元カレは激しくサッカーの上手い人でした。

私はサッカーに全く精通していないので(どれくらい精通していないかというと、最近まで「オウンゴール」を知らなかったくらいである。)、上手い・下手はさっぱり判断できないけど、周りの男たちが一様にそう言うから多分そうなんでしょう。

ろくでなしの奴の唯一の自慢というのが、昔、読売クラブだかどこだかの監督(コーチ?)から「ぜひ!!」とスカウトされたことだそうで。

これを読んだ人は「だから何?」と思っていることでしょう。いいじゃん、ただの彼氏自慢ですよ。あ、彼氏じゃなかった、元・彼氏でした。あーむなしい。やってられないね、こりゃ。

2005年8月31日
自惚れかもしれないけど、最近電車の窓に映る自分の顔を見て「サマになってきたなぁ。」と思ったりする。

色々な友達の相談を受けたり、人様のBLOGを読んだりすると、みんなそれぞれに辛いことや大変なことがあったりして、そういうときは自分も「ああ、大変よね。」ってわかったフリをしていたけど、どこかで他人事のように捉えていたのだ。

それなのに、さも全てを知り尽くしたようなしたり顔で他人様の心に土足で踏み込んだり、ここに偉そうな文章を書き散らかしたりしていたのだ。

今まで挫折という挫折を知らなかったのも、単に運が良かっただけで、私が強かったからとかでは決してない。その運の良ささえも、私には与えられて当然とまでは思ってなかったけど、それに近いものはあった。

ふと気付くと、私の周りには沢山の修羅場を乗り越えてきた人々がいて、彼ら・彼女らは一様に優しい。

今回のことをきっかけに、少しは人の痛みがわかるようになったかなと思えば、今の苦しみも乗り越えられる気がするけど、乗り越えすぎないようにしなければとも思う。

どういうことかというと、私の周りには3タイプの人間がいて、一つ目はついこの前までの私のように「挫折を知らないのにしたり顔で話す人」で、二つ目は「挫折を知ったことで満足してやはりしたり顔で話す人」だ。残りはどちらでもない人である。

私は今回のこういう経験を乗り越えたことで、「自分は少し大人になった。」と思いこまないだろうか。いや、間違いなく少しは成長したから、それは悪いことではないのだけど、何年か後に私のように苦しんでいる人の前で「あー、若い頃は仕方ないよ。」なんてわかったような顔をしない自信が無い。

わかりきったような顔をする人は「おそらく真実であろうこと」を私に話してくれるけど、そんなものは今は要らないのだ。だって私は十分それらを理解しているのだから。

最近、確実にひとつ修羅場を乗り越えた人が、わかりきったような顔をせずに私にある意見をくれた。

とてもありがたいと思った。その意見は、はっきり言って私の今後進むべき道を示唆してくれるものではなかったけど、それでいいのだと思う。

だから私は、大人でも子どもでもない今の自分をいつまでも維持していきたい。大人になるためのステップを上りつつあるけど、絶対に下の段にいる人たちを蔑んだりしたくない。「自分も昔はそこにいたけど。」なんてわかったような顔をしたくない。

成熟が必ずしもいいこととは限らないのだ。成熟し過ぎた人は、ときとして未成熟の人を傷つけるときがあるのだ。それでも未成熟の人にはわからないことを知っているから、その良さは失わずにいるべきだ。でも成熟した自分に自惚れてはいけないのだ。

そのバランスをうまくとっている自分になれたらいいな。後ろを見るでも前を見るでもない自分を保ちつつも、人の痛みがわかる女性。そういう女性を「凛とした女性」と呼ぶのではないかな。

陳腐と言われても

2005年8月30日
大学の友人たちと、焼肉パーティ兼お泊まり会を開催。

八畳一間にホットプレートを持ち込んで、わーわー言いながら焼いて食べて、ぎゃーぎゃー言いながら酒(シャンパンのピーチネクター割り。これはイケる。)を飲んで、酔ったまま桃鉄(しかもスーファミ版)をやって、明け方に寝た。

部屋を借りているという罪悪感ももちろんあるけど、私はこういうときの後片づけを率先してやる方だったりする。

私が洗い物をして掃除機をかけている間、家主は「あいのり」を観ていて、「片付けはいいから、一緒に観ようよ〜」と言っていたが、それに対して「はいはい、今終わるから待っててね。」と声をかけている自分を発見したとき、私はなんともいえない気持ちになった。

「ああ、こういう感じ好きだなあ。」って。

別に片付けが好きとかじゃなくて、甘ったれ気質のその友達の世話を、かいがいしくやいている自分がなんとなく好きなのだ。傍から見たら、私だけ流しに立ってそのコはテレビを見ているなんて、「ちょっとひどくない?」って感じなのに、私はなぜか幸福だった。

もし私が結婚したら、こういう関係を夫との間に構築できたらいいなと思う。

アパートかマンションか一軒家かはわからないけど、台所はリビングと隔たれてない方がいい。で、私がこしらえた料理をおなかいっぱい食べた旦那さまは、「片付け手伝おうか?」なんて一応言ってみるんだけど、本当は「いいよ、一人でできるから。」って私が言うのをわかってて、結局寝ころんでテレビを見るのだ。

で、私だけ台所で働いてるのに、下らないテレビを観ながら笑ったりとかしててめちゃめちゃ無神経なんだけど、「やれやれ。」と思いつつ実は自分が一番幸福なんだろうということが、まだ結婚してないのに想像できるのだ。

(別にその相手が元カレだったらいいなーとか、そういうことじゃなくて。)

「ったく、うちの夫は家事ひとつできないんですよう!」って文句言ってる奥様方の98%は、実はこれ系の幸福感を満喫しているはずだと断言してもいい。本当に夫に腹が立っていたら、そもそもそんな言い方はしないと思われるからだ。

「尽くす幸せ」というのは確かに存在する。ただ、本人はその幸せを存分に味わっているにも関わらず、「奉仕している」ということですっかり義務を果たしたような気に陥って、ときに相手を傷つける。それは本末転倒なのだ。

「あんなに尽くしたのに!」と後から相手を責めたとしても、そんなのは相手の知ったことではない。自分が尽くしたいから尽くしただけの話だ。

ホットプレートに飛び散った油をゴシゴシしながら、うっかり未来の自分の愛の巣にワープしてしまった。

でも、二十歳を過ぎてようやくぼんやりと形になってきた自分の将来の夢を、こういうなんでもないときに確認して、それが今日と明日と明後日と生き続けていく私の原動力になるんだ。

なんとなくそんな気がした。

酔っぱらいの戯言

2005年8月28日
気のきく友人が、私のために合コンを開催してくれた。

というわけで、三年振りに出陣。

ハッキリ言って「気に入られたい!」などという欲望は皆無。むしろ、飲み放題なんだから前後不覚になるまで飲んでやるぜという意気込み。会話も「可愛くて優しそうな女のコ☆」な装いは一切するもんか。「カシスオレンジください♪♪」なんて絶対言わんぞ、むしろ鏡月グリーン持ってこい!ってか鏡月は飲み放メニューに含まれてませんなんて展開だったら許さんぞ。

という、相当やさぐれた気持ちで参加したのだが、どうやらこんな女でもいいという人もいたりいなかったり。

あらそうなの!?(びっくり。)みたいな。

睡眠欲も食欲も性欲も一般的な数値より高めですが、それでもいいんですか。

ちくしょー、私を放っておいたらどうなるかわかってんのかあいつー、今に見てろよコンチクショウのべろぼうめ。

わたしは発光体

2005年8月26日
リアルの私を知っている人になら理解してもらえるはずだが、私は割と「がんばる人」のような気がする。

こう言うと「えらいねえ。」などと人に言われたりするのだが、実はそうでもない。

むしろ「がんばること」の方が楽な場合が多いからだ。とりあえずがんばっておけば、後で失敗しても諦めがつくし、何より途方に暮れて為すすべもない状態の方が、「がんばること」よりよっぽど辛い気がするから。

で、まさに今がその途方に暮れて為すすべもない状態だったりするのだけど、さてどうしたものかともがき苦しんで、私は少しずつ自身の気持ちを安定させるコツみたいなものを手に入れ始めている。

発信者と享受者が双方存在する状態というのは、そのどちらかが独りよがりになるとバランスを崩す恐れがあるということで、ある種の緊張状態になるけど、これはよくもあり悪くもある。享受者がいるからこそ発信者はよいものを発信しようとするし、つまり可能性は無限大だ。

ではもし発信者だけが存在していて、だーれも享受する人がいなかったら。

うわつまんねぇ、って思う。でもこれが今回の「自身の気持ちを安定させるコツ」に繋がるような気がしたのだ。

最近の私は一人でいると泣いてばかりで、でもそういうとき、ただ涙を流し続ける自分を部屋の天井から眺めるような視点で、ふと客観視できる瞬間がある。「ああ、私は泣いているんだ。」って。

で、なんで涙を流しているのかを、これまた客観視して考えるの。すると絶対行き着くのは、小難しいことじゃなくて、ただ「あの人が好きだから。」というめちゃめちゃ簡単な理由だってわかるのだ。

と、わかった途端に、とても安らかな気持ちになるから不思議である。

今の「あの人が好き」という想いは、ただただ発信されるばかりで、どこかで受けとめてもらえるはずもないけど、でもそれは悪いことではないはず。むしろ発信し続けるだけであっても、それはそれで無限の何か(可能性、とかじゃなくて)をやはり秘めてるんだよね。

「好き」という気持ちは受けとめる人がいなければ意味が無いと、はっきり意識してはいなかったけど、私はきっとそう思いつつあったのだ。「好き」という気持ちは、私が発してあの人が受けとめて、その移動がお互いを幸せにするのだと。

でも「好き」という気持ちは、ただそこにあるだけで、発する者自身を幸せにできる圧倒的な力を既に持っている。

発光する太陽みたいだ。

太陽の光は、地球にも届いて私たちに恵みをもたらすけど、太陽そのものが既にあったかいのだ。光を与える対象である惑星が消滅しても、自らが光るのをやめる必要も理由も無い。

これを読んでくださる人に言うでもなく、あの人に言うでもなく、ただ自分が光りたいからここに書こうと思う。相当独りよがりな内容でもいいと割り切って書こうと思う。

あの人が好きだ。


「暑いね。」と言うと、「ねっ、暑いね。」と答えてくれるところが好きだ。

「あのね。」と言うと、「うん、なぁに?」と聞いてくれるところが好きだ。

「どう思う?」と問うと、「よくわかんないや。」と言うところが好きだ。

「何考えてるの?」と問うと、「何も考えてないよ。」と言うところが好きだ。

「それは自慢?」と問うと、「うん、自慢だよ。」と言うところが好きだ。

「自分のこと格好いいと思ってるでしょ?」と問うと、「うん、思ってるよ。」と言うところが好きだ。

「私のこと今うるさいと思ったでしょ?」と問うと、「うん、思ったよ。」と言うところが好きだ。

「私のこと好きでしょ?」と問うと、そこだけは「ううん、好きじゃないよ。」と言うところが好きだ。

どうにもできない

2005年8月25日
アルコールも抜けて、目が覚めたら晩夏の夕暮れである。

私は夏が大好きだけど、一応コダワリがあって、特に好きなのは初夏なのだ。で、同じ夏であってもほかのどんな季節より嫌いなのは、晩夏だったりする。

普通の精神状態でも晩夏の夕暮れはわけもわからずブルーになるのに、こんなときは一体どうすればよいのだろう。元気になるためのあらゆる手段を講じているのに、どうしていつまでも前に進めないのだろう。

昔はいつだって一人で楽しく生きていたのに。
ビールがとても美味しい。

食卓で家族のものをちょこっと舐めさせてもらうというレベルでなく、本格的に酒というものを味わったのは18歳のときだ。高校の文化祭の打ち上げで居酒屋に初めて行って、たしか「青りんごサワー」とかを注文したのだと思う。

甘いんだか苦いんだかわからないその液体を2、3杯は飲んだはずだけど、当時は"飲み会"という雰囲気に既に酔っていたように思うから、美味しかった記憶は無い。でもろれつが回らなくなって人に迷惑をかけた形跡も無かったから、元々酒が飲めない体質ではないのだろう。

大学に入った瞬間に酒を飲む機会がグンと増えて、でも"ビール"を自ら注文した最初の記憶は失われている。ただ一つ言えるのは、最初は美味しいフリをしながらもかなり無理をしながら飲んでいたということ。

ところで、最初からビールが旨くてたまらないと感じた人っているのだろうか。もしもそんな奴が本当にいても、私は絶対に信用しないぞ。

コールを繰り出しながら浴びるように酒を呑むサークルに入らなかったので、私は個人的に仲の良い友達と行く居酒屋でいつもサワーを頼んだ。乾杯の時だけ瓶ビールの1/4を分けてもらったりして。元カレが酒好きだったので、しょっちゅうバーに行ったけど、私は大抵複雑な名前のカクテルを飲んだ。そういうときは、彼が必ず一杯目に飲む生ビールをちょこっとだけ飲ませてもらった。

慣れと書いてしまうとつまらないけど、今年の夏になって心からビールを美味しいと思っている自分に気付いて、驚いている。

「酒の味がわかる」というのが大人の条件だと思っていたから、私は早くそうなりたくて、訳もわからず酒を飲んでいた。でもいざ美味しいと思った今になっても自分が大人になったとは思えないし、世の中の多くのことはやはりそうなのだろうか。

これがわかれば大人だろうという具体的な一つが失われてしまった。これからどんどんそれらが無くなっていって、あっという間に当時なりたくて仕方なかった大人になっているのだろうか。

ビールをグラスで「早くこの一杯が無くならないかな」と我慢しながら飲んでいた自分と、飲み放題中に中ジョッキで10杯近くも注文してしまう自分と、一体何が違うのと聞かれたらうまく説明できないけどね。

ただ、ズタズタにされた心を慰める手段の一つとして酒があることは、今の私にとって非常にありがたいし、こうなることを私のDNAが初めから予知していて、知らず知らずに酒を好きになるように自らを仕向けていたのかな。

酒の飲めない人は、どうやって気を静めているのでしょう。

しばらく飲んだくれの日々は続きそうである。
女が「こういうタイプの男が好き。」と言っていたら、絶対にそれを信用してはいけない。好きなあのコがそう言っていても、そういう男になろうと努力しなくてもよい。

頭で考えて、「多分私にはこういう人が合っているだろうな。」と結論付けても、それはなんちゅうか人知を超えていないというか、所詮机上の空論というか。実際に誰かを好きになるときは、人知を超えた何者か(神って書くと安易過ぎるんだよね。)の力が働いているとしか思えない。

私は人一倍寂しがり屋だから、そんな私を温かい目で見守ってくれる懐の広い人があんたには必要だ、なんて人は言う。理屈っぽいからそんなあんたを負かしてくれる位理屈っぽい人がいい、なんて人は言う。自分でもそうかななんて思ってた。さてさて、そんな人がもし現れたとして、本当に私たちはうまくいくのだろうか。

幸せになれる条件みたいなものがあるとして、いわゆる「理想の亭主像」が本当にあるのなら、そうなれない男性は全員結婚できないではないか。でも実際は多くのろくでなし女とろくでなし男はちゃんと結婚して、幸せに(?)暮らしている。

雑誌やハウツー本の「こうすれば女にモテる」とかいう文句を一切信用してはならない。いや、まあ、それを施行すれば最初の一瞬は喜んでもらえるだろうけど、ちゃんとろくでなしの部分を好きになってくれる人はいるから。無理してろくでなしの自分を隠す必要は無いと思う。

そうはいっても、私から見て「これは真性のろくでなしだな。」と感じる男というのも少なからず存在する。そういう男のろくでなしっぷりを好きになることはおそらく無い。

って書くと「さっきと矛盾してるじゃねーか!」と言われるかもしれないけど、そういう真性ろくでなし男には、ちゃんとその真性部分を愛してくれる真性ろくでなし女が、私以外に必ず現れるであろうということ。(自分が真性ろくでなしじゃないと言いたいのではないよ。)

私は「こうあるべき理想の女性像」に自分をはめていかなければ誰かに愛されないと本気で信じていたし、みんながそういう理想像を追求していくのが青春時代で、それを達成した人たちが結婚できるのかなと思っていたんだ。

ここで今回も例を出そうか。

たとえば、「セックスするときにムダ毛を剃らない女」がいたらどうでしょうか?

ハウツー本に照らし合わせたら「どんなに親しくなっても女らしさを失ってはいけません。」などと書いてあることは間違い無いし、私が男性になったと仮定してそんな女が彼女だったらいやだなあとも思うのだが。

貴男がとても愛している彼女がいるとして、そのコはいつもは色々なことに抜かり無いのだけど、たまたまマズイタイミングでエッチすることになっちゃって、申し訳なさそうに剃り残した部分があることを白状したと想像してほしい。

それはいわゆるろくでなし女だけど(女はいつだってキレイにしてなくちゃいけないからね。)、じゃあそのコを嫌いになるだろうか。

ここで嫌いにならないと思うなら、貴男はそのコを心から好きなんだと私は思うよ。逆に「かなり冷める。」とお思いになるのでしたら、まあ相手が違うのだろうと。

今日書いたことは、別に私が声高らかに発表しなくても、随分多くの場所で言われているはずだろうと思うけど、それでも文章に残しておきたかったんだ。どこかで聞きかじって覚えたことと、実際に自分で思ったことは、同じ内容でも本人にとっては天と地ほどの差があるってわかったから。

世の男性に語りかけるような文章になってしまったけど、私は別に誰かに訴えたかったわけではなくて、ただ心のモヤモヤを「問いかけ」というスタイルで書き残すことが、現段階では一番自然な気がしたからそうしただけである。

だから私は私のままでいいはずだし、そういう私を愛してくれる人が多分いるはずだし、同時に元カレもあのままでいいはずだし、そういう彼を愛してくれる人も多分いるだろう。

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とか書いておいてアレだけど、私たちはそういう二人であったはずなのにという心理が、行間からビシビシ溢れてるね。消そうかと思ったけど、どうせ新たに書き直してもまた同じような未練タラタラの内容になるに決まってるから、もうこれでいいや。
人生は旅だとよく言うけれど。

では、もしもあなたが選んで進んでいるその道が「実は地獄に続いているよ。」と言われたら(そしてそれはかなり確実性の高い予測だとする。)、あなたは進むのをやめるだろうか。

私と元カレの今回の事件を友人たちに話したところ、全体の90%が「彼が帰ってきてもやり直してはいけない。」とおっしゃった。これは興味深い統計だと思う。

無論、私もそうすべきだと思う。ここでやり直したら彼にとっても私にとってもよくない。私と同じ立場の友人(時期こそずれているが、これが結構いるんだよね。)から相談を受けたとき、私も「やり直すべきではない。」と強い口調で言ったことを覚えているし。

以前、「相談ってナンセンスだ。」などと書いたことがあったけど、あの時以上に今そう思う。人から相談を受けるとき、相談された側の持ちうる情報数は、大抵の場合当事者たちのものより圧倒的に少ない。

だから「相談された側は正しい判断を下せない。」とそういうことが言いたいのではなく、どこかで当事者たちに「自分たちだけが知っている。」と感じる要素があることが問題なのではないかと。相談している側であるにも関わらず、相手から至極まっとうなことを進言された瞬間、「何も知らないくせに。」と思ってしまうことはないだろうか。

そう感じてしまう人は相談するべきではない。そしてそれは私のことだ。

私は最近まで「真実は必ずある。」と思いながら生きていたから、どんな現象が起こってもそれらに共通する一般的な何かがあると思っていたの。で、時々例外はあるけれど、それはそれとして、人に進言するときはその「おそらく一般的であろうこと」を言ってあげなくちゃと思っていたの。

でも意外に世の中は例外ばかりで、一般的に正しいと思われることが何の役にも立たないことが少しづつわかってきたんだ。何の役にも立たないって決めつけちゃうと、今日私が語っている本文すら矛盾してくるし、私に「一般的に正しいこと」を教えてくれた友人たちにも失礼だ。

"相談"という行為が、単に「答えを探すこと」以外の効用を持つことをある人に教えられたから、私は皆に相談したことは全く後悔していないし、今後も誰かに相談することをやめないと思う。

でも「最終的には自分で決めることだ。」ということが、これほど強い存在感を持ってのしかかってきたことはかつて無い。でもだからといって絶望しているわけではなく、むしろ最後に残ったその決定権は、今の私にとって光り輝いているようにすら思えるのだ。

というわけで、私も序文の問いかけに答えよう。

「地獄に続くと知っていても、その地獄を自らの目で見てみないことには進むのをやめられない。」

私の素敵なOLへの道

2005年8月22日
「男がいればそれでいい。」と本気で思っている女がいたとしたら、さぞ嫌われるだろうなーと思うけど、ぶっちゃけ共感するものがある。

って書いてから思ったけど、やっぱりこういうことを公の場で言うのはあまり良くないな。

「男がいればそれでいい。」とは思わない。しかし「男がいなくてもそれでいい。」とも多分思えない。「男」と書くから誤解が生じるのだろうか。なら表現方法を変えよう。「大切な人がいればそれでいい。」と私は思う。もちろん一人とは限らない。友人も家族も含むなら、複数存在するのが当然だ。

私は両親からかなりの愛を受けて育ったことを認識しているから、愛情に対して相当貪欲だ。純度100%の愛情を注げる人を随分幼い頃から探し続けていた。父とラブラブな母をずっと見続けていたせいもある。

「誰かを心から愛する。」というのが私の人生の目標だったのだろう。随分アホな目標を掲げてしまったものだと、今は激しく後悔している。

だってこれほど頼りない目標も無い。愛したはいいけど、その後壊れたらどうすんのという感じではないか。元カレ(まだこの言い方が馴染まないな。)が刹那的だったと前回書いたばかりだが、私だってかなり刹那的なものを求めていたのだから、結局似た者同士だったのかもしれない。

私のBLOGはやたら愛だの恋だのというテーマが出てくるので、そういったフレーズに嫌悪感を感じる方は即刻退散していると思われる。だから開き直って書いちゃうけど、私はこの度「愛」とかいうものの端っこ位は理解できたように思える。

いや、実際私のような小娘が、「愛」とかいう誰も理解できない大層なものの定義を知っているとは到底思えないのだが、でも偉い人に「おまえのは所詮愛ではないぞ。」と言われたら激しく反発したいんだもん。

ユーミンの「卒業写真」の中に

"あなたは私の青春そのもの"

というフレーズがあることはどなたもご存知のことと思う。この歌詞を照らし合わせるまでもなく、元カレは私の大学時代そのものだったと言えるが、いざ別れると決まったとき、私は「彼を失って私の大学生活何が残るのかな。」と一瞬でも思ってしまった。後から考えてみればほかの素晴らしい思い出が後から後からどんどん思い出されるのに。

誤解を恐れずに書くけど(だって心からそう思うんだもん。)、私は大学四年間を費やして、「人を愛すること」を学んだのだと思う。学費を払ってくださった父母に申し訳ない。私は本来の授業以上に、この課外活動に夢中になってしまったよ。

しようと思ってできることではないから貴重だったとも言える。しかし、そもそもこのような「どっぷり恋愛体質」なところが私のよくないところで、今回の失恋が「成長期」なのだとすれば、それに気付けと運命が教えてくれているのだろう。

「意味の無いことはこの世に何一つ無い。」と言ってくれた友人がいる。そうだよね。きっと今回の失恋も、長い目で見れば必ず意味があることなんだ。

祈りの原点

2005年8月22日
私は毎年初詣に行く。

生まれてから一体何度神に祈ったか見当もつかないが、ものすごく鮮明に覚えている元旦がある。

高校時代に初めて付き合った彼と一緒に行った初詣だ。恋愛小説になりそうなほどの強烈な片思いの末に付き合った彼だったので、さぞ盛り上がったかと思いきや、私の心は当時急速に冷め始めていた。

「心から好きになれる人ができますように。」と、当時の私は神に祈ったのだ。そんな願い事を新年早々している時点で、彼に対する気持ちが無くなっていると悟るべきだったのだが、「初めてできた彼氏」を捨てる勇気が無くて、ずるずると半年も続けてしまった。

次に付き合った彼と行った初詣でも、私は同じことを神に祈った。

私はなぜか年末に彼氏ができるパターンが多かったのだが、普通なら最高潮に盛り上がるべき時期にこのような願い事をしていたことを考えると、恋愛体質でありながら「付き合い始めると冷めてしまう」という厄介な性分を持っていた証拠である気がする。

さて、あれから幾星霜。(って言うほど時は経ってないけど。)

当時の私の願いは見事叶った。普段は全く足遠い神社に年明けだけ赴くという罰当たりな私の願いを、神は長い時を隔てて叶えてくださったのだ。

"祈り"は通じるのだろうか。

目に見えないものを信じるということは、とても難しいことだと私は知っている。でも科学的に解明できないことは全て嘘っぱちだという乱暴な意見を信じるというのも、個人的には違和感を覚える。だって世の中にはそうと知っていても不思議なことが多すぎるから。

うちの彼(今書いていて気付いたけど、すでに「元カレ」ですね。)は自己主張が無い割にわがままという面倒臭い性格の人で、何よりも自分の身なりを気にしていて、「オマエ、もっと世の中には大切なことがあるだろうよ。」と諭したくなるような人だった。

誠に刹那的に生きていて、「今、この飯がうまければそれでよろしい。」という考えの人だった。私が小難しい話を持ち出すと「真面目な話は好きじゃない。」と一蹴され、キスをしたいと言えば拒否され、エッチしたいと言えば「そんな気分じゃない。」と言われ、そのくせ私が乗り気じゃなくても自分のペースだけは崩さない人だった。

こう書くと「どこが好きだったのよ?」と言われそうだけど、私は確かに彼を心の底から好きだった。

自分が大した人間だと言うつもりはないけど、私は彼のろくでもないところが好きだった。そのろくでもないところを愛せる自分が好きだった。ろくでもない彼のペースを守ってあげるのが私の使命だと思っていたし、そこまで彼の面倒を見ることができる人もこの世に私以外いないような気がする。別れた今でも。随分上から見ているような意見で恐縮だが。

だから、今は彼と新しく付き合う女の子が彼を私以上に大切にしてくれるのか、それだけが心配でたまらない。

自分が食べたいものがあっても、彼が食べたいものを優先してあげられるか。彼がしたいと思ったタイミングで体を許してあげられるか。五分前まで「○○がしたい。」と言っていたくせに、すぐ次の瞬間には「やっぱりしたくなくなった。」と言ったりする気ままさにも腹を立てずにいられるか。

彼の言うことをただホイホイ聞くのとは違うのだ。そうでなく、彼が快適に生きていける環境をなるべく自分が作ってあげたいという気持ちを持っていられるのか、問題はそこなのだ。

幸せに生きてほしい。新年でも初詣でもないけど、私は神に祈ってそれが叶うなら、祈りたいのだ。

こんな綺麗事を自分が心から言える時期が来るなんて、高校時代の私は予想だにできなかっただろう。でもただ祈るしかできない自分を認識した今は、彼への憎しみも後悔も消え失せて、とても穏やかで静かな気持ちである。

断言してもいいけど、世の中の幸不幸は全てただの事象に過ぎず、いつでも自分の心は平安になる準備ができている。目の前の現象と自らの心持ちは連動しているようで、実はあまり関係無いということだ。究極な話だけど。

宗教さえあれば人は生きていけると思うし、だからこそ世の中から無くならないのだ。神を信じる心も。そして祈りも。
このBLOGを始めてから、そろそろ五ヶ月近く経つ。

最初は、就職活動中に自分を見つめる材料として始めた。そのうち内定が出て、それでも続けていた。その頃には、自分の中での「文章を書く意味」が、「日々の反省」といった次元を超えて確立され始めていたから。

何かしら厄介なことが持ち上がると、その度に私の文章は洗練されていった気がする。今思うと、文章がというよりは自分の考え方自体が変わっていた証拠だったのだろう。

人生には波と節がある。私はそれを切望することはあっても、拒否したことは一度たりとも無い。大きな出来事や転換が自分を成長させると信じていたから。

でも今になって思う。人生をナメていたとしか思えない。

ごはんが食べられなくなる程傷ついたことがかつてあっただろうか。部活でレギュラーになれなかったり、受験に失敗して浪人が決定したり、私はそれらを自分の「成長期」だと信じていた。実際それは成長期だったと思うけど。

こんな悲しいことが世の中にあるのかと思うほど泣いて、自分の全財産を投じてもいいから何とかしたいと強く思って、それでもどうにもならなくてただ時間が経過するのを待つしかなくて。

今、「これは成長期だよ。」と自分に言えるのか。

言いたくない。成長しなくていいから、こんな悲しみは取り除いてほしい。

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長らくBLOGを放置していたから、全く状況が呑み込めないであろう人たちへ。自分への備忘録としても必要なので、ここに事実だけ記載します。

彼氏は私以外に気になる人ができたそうなので、この度別れることになりました。

「十中八九、おまえに戻る気がする…」というわけのわからない予言付きです。彼は女ときちんと付き合うのが今回初めてだったので、ほかの女への好奇心がずっとくすぶっていた様です。「俺、一生こいつしか知らなくていいのかな?」とずっと思っていたのでしょう。

ろくでなしの彼(と敢えて書かせていただく)の面倒を三年近く見続けてきたのがこの私なので、今回のろくでなしっぷりも誠に彼らしいというか、愛すべきものであるような気がします。

しかし、その相手の女と多分うまくいかないであろう予測を、ほかでもないこの私に話していいものでしょうか。うまくいかないような気がするくせにそっちいくのかい、と思いますが。

私は彼が帰ってくるような気がしているけど、こう思ってても帰ってこないのが世の常なんだろうなーと思ったりもします。そう思ってないとまた傷つくわけだし。

さてと。

2005年8月9日
どうやら私以外に気になる人ができた模様。

もちろん彼氏本人から聞いたこと。

さーて、と。
彼氏と距離を置き始めてから一ヶ月以上が経過する。メールも電話も一切していない。まさに冷戦。米ソ。

というのは三日前までの話。ここにきてようやく「一度会って話し合う必要があろう。」という一通のメールが舞い込む。さて、吉と出るか凶と出るか。

そういえば、夕べも夢を見た。

往々にして夢というのは前後の繋がりが曖昧で無秩序なものだが、夕べの夢は今思い出してもなかなか理屈が通っていて、実際に起こり得そうな内容であった。私の住む地域で直下型の大地震が起き、彼が死んでしまうという。

私は危篤の知らせを彼の友人から受け、ようやくたどり着く。しかしすでに彼は息を引き取っていて、私は生まれたての赤ちゃんのように声を放って泣きじゃくる。

まあ、所詮夢なんですけど。

それとも関連するけど、バイト中に仲睦まじいカップルが来店するとついつい隆盛時の自分たちを重ねてしまう。特に付き合ってから随分と長いのだろうなぁと思われるカップルは、役割分担もそれぞれ板についていてナチュラルで、見ているうちに思わず退散してしまいたくなる。

今、こうして冷静な視点を持ちつつ一人になってみると、「誰かの彼女である」という状態って、決して「平常」ではないよね。「異常」とも言えないけど。

それがわかっただけでも、離れてみた価値はあったか。

ああ、なんて脈絡の無い文章。

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