今日は「神秘性」についての話。

自分にとって得体のしれない何かを前にしたとき、心の中には二つのものが発生する。「畏怖」と「好奇心」だ。畏怖、つまり、怖くて近づけないという気持ち。好奇心はその通りの意味だ。まったく正反対に思えるこの二つの感情が同時に発生するのは、対象に「神秘性」を見いだしたときである。と、私は思う。

この「神秘性」というのはとてももどかしいようで、実は有り難い。

わかりやすい例を出そう。尊敬するある教授の著書を読んで、その教授の下で勉強したいと思って大学に行き、研究室に所属したとしよう。著書をただ読んでいる段階では教授の人となりを知る由もないから(文章からある程度の人柄は滲み出るとしても)、研究室に所属する前は、教授に「神秘性」を認めているということになる。

が、実際に教授に会ってみたら、その教授は意外にいやな奴だったとする。共存していた「畏怖」と「好奇心」は、楔(くさび)を外されバラバラになる。「神秘性」を保っていた段階では、教授のいやな面を認識しつつも、自分が相手をよく知らないという後ろめたさがあるので、あまりクローズアップされないのだ。教授をよく知ることにより、「畏怖」と「好奇心」が絶妙なバランスを保っているイイ状態ではなくなるのだ。

絶妙なバランスを保っている状態がどういうものかというと、「あ、この考え方はいやだな。」と思っても、よく知らないのに判断してはいかんというセーブが入るということ。逆に、「あ、この考え方は素敵だな。」と思っても、よく知らないから盲信するのも危険だなというセーブが入る。これは、ある対象に接する際の理想的な距離感だと思う。

何も知らない子どもにとって、世界が夏休みの太陽みたいに輝いて見えるのは、「神秘性」が崩れるのを間近で見る経験をしていないからだろう。誰もが大人になる課程で、何度も何度もこの「神秘性」崩壊を経験しているのに、それでも懲りずにまた「神秘性」を求めて、そしてまた傷つく。

何遍も恋の辛さを味わったって不気味なくらい私は今恋に落ちてゆくけど、それは、「神秘性」崩壊に向けて確実にスタートしてしまったということだ。もう後戻りはできない。ただ、私より年長の人たちが私よりたくさんの「神秘性」崩壊を経験しているのに、それでも絶望せずに生きているということは、全てが崩れきったゴール地点で何らかの"オトシマエ"をつけたからだと思うのだ。

この「神秘性」崩壊をまったく経験する以前の子ども時代ではなくなった。そして、何らかのオトシマエをつける術を完全に得た大人時代は、まだ遙か前方にある。じゃあどのタイミングでオトシマエをつけるのよ?と私は考えたのだが、それがまさに「恋」でなくアレを学ぶときなのだ、と。このオトシマエをどうしてもつけたいと思うとき、誰もが手に入れたくて仕方ないあの"ハート型の何か"に向けて、まさに手を伸ばしているのだと思う。

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備忘。

●ピーター・J・ボウラーの『ダーウィン革命の神話』(朝日新聞社)

なんだかんだで、こういう本が大好き。

中学や高校時代に歴史の授業で「ダーウィンという人が『進化論』を書いて一世を風靡したのだ。」という記述を読んでも、多くの生徒はへえ〜程度の認識しか持たない。同じく、「コロンブスが1492年に新大陸を発見した。」という記述についても、私はへえ〜としか思わなかった。正常な反応だったと思う。

大きくなってからからわかったのだが、コロンブスの新大陸発見に伴う東インド会社設立などの歴史的事実が、現代日本の経済に関する本でも大きく取り扱われていたりする。同じように、ただ一冊の本を書いただけのダーウィンというオッサンが、19世紀以降の自然科学の発達(のみならず、当時の宗教観)にものすごい影響を与えたということも、歴史とは関係のない書物の中でわかる。

ひしひしと認識しているのは、「わけもわからないまま教えられた歴史」を、大人になる課程で一度整理整頓すると、とても面白いのだということ。これがわかっただけでも大学に行った甲斐があったというものだ。

調整

2005年11月22日
バブリー臭漂うものに対して、私は言いようもない憎しみを抱いている。

というのは、私とある程度親しくしている人ならご存知だろう。婦女子が好みそうなセレブスポットも嫌いである。六本木ヒルズや、お台場や、カレッタ汐留や、天王洲アイルも嫌いである。地域的には、東京の南西(山手線でいえば左下)はやや嫌いだ。好みは北東(同じく山手線でいえば右上)寄りだ。もちろんテーマパークも嫌いである。

閑話休題。

最近話題になっている耐震強度偽造事件に関して。たしかに「オイオイ、ちゃんとしてくれよう。」とは思うが、そもそも、だよ。そもそも、10階だか20階だかの建物を建ててそこに住もうとする行為自体に無理があるのではないだろうか。背の低いものが高いものより安定することくらい、積み木で遊んでいる幼児にだってわかる。びょーんと高い建物にせっせと安定するような工夫を施すこと自体、そもそもキビシイと思う。

…という思考を私はしがちなのだ。つまり、「そもそもさあ。」という考え方。"そもそも論"と名付けよう。

この"そもそも論"で話を進めると、何もかもが本末転倒に思えてくる。この"そもそも論"は非常に便利で、意見を求められたときに「そもそも…」と言いつつ使うと、パッと聞き正論だから、周囲の人を煙に巻くことができる。着眼点が違うなあと言われることもあるだろう。が、よーく考えてみると、何ら根本的解決にならない意見でお茶を濁しているだけなのだ。

そもそも人間が生きていくために最低限必要なもの、と考えていくと、あらゆるもの(バブリーなものはもちろん)は必要なくなってしまう。高層マンションも、きらびやかな洋服も、必要以上に高い食べ物も、高級腕時計も、目が飛び出るような値段の外車も要らない。なぜそれらに対する憎しみが私の中にあるのだろうかと考えると、やはり「そういうものに縁が無かったし、今後も多分手に入らないだろう。」というコンプレックスからきているはず。

本当はコンプレックスからきている憎しみに対して、一見良さそうな"そもそも論"を適用するのは、まるですべてを悟りきった僧侶のような印象を、人々に与える。それって、ずるい。本当は、高度経済成長期にせっせと頑張って造った先人たちの努力に敬意を払って、それらの良い部分は良い部分として享受すべきなのだ。だって、"そもそも論"をただふりかざすだけでは、一向に目の前の問題は解決しないのだから。

ただ、「そもそもさあ。」という気持ちを誰よりも強く意識している私は、馬鹿みたいにバブリーなものの中に浸っている人たちにはできない何かができるんじゃないか、って。そういう気持ちは忘れたくない。でも"そもそも論"を語って満足しているだけでは、コンプレックスからの逃げでしかない。だから私は「そもそもさあ。」と思いつつも、「現実問題としてどうしたらいいのよ?」と考えられるだけの現実性は保っていけるようにしたい。

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備忘。

●『会社は株主のものではない』(洋泉社)

普段ほとんど使っていない脳の部位を刺激しつつ、読んでいる。

「産業資本主義」から「ポスト産業資本主義」へのパラダイム・シフトに関しての記述を読んだ瞬間、あることに気付いた。

"パラダイム"とは、受験生当時(現代文対策をしていた。)の怪しい記憶によると、「ある時代に生きる人々が共有する考え方の枠組み」だが、つまり、今私が当たり前のように捉えている知的な概念の多くは"パラダイム"であるということだ。恐ろしいのは、このパラダイムが、まるで大昔から厳然と存在していたような気がしてしまうこと。それこそ天動説が信じられていた15世紀以前、誰もが地球を中心として空が動いていると信じ、疑いもしなかったように。

ポスト産業資本主義時代の申し子ともいえる私の世代は、戦後の日本人の多くが経験してきたパラダイム・シフトを知らず、つまり、今(厳密な意味で今)当たり前のようにあるパラダイムを、それが既に移行した後のものだと知らず受けとめている。

私がこのような本を読んで驚くのは、就職活動中すら気付かなかった自分にとって当たり前のパラダイムが、本当は厳然たるグローバル・スタンダードでもなんでもなくて、単に「今」そうなっているに過ぎない、ということに気付くからだ。

そういう意味では、世の中のことを勉強するとき、バブル崩壊というタイミングで大きなパラダイム・シフトが為されたときにまだ物心がついていなかった私たちの世代は、それを間近で見ていた団塊ジュニアもしくは真性団塊ジュニアの方々に比べると、少し大変なのかもしれない。
世間(というか、殿方たち?)は紀宮さまに対して色々思うところがあるようだが、私、実は大ファンである。

といっても、皇室関係の番組を録画して見たり、日の丸をハタハタ振るために千代田区に出かけていったりはしない。あくまで彼女は"心の師"なのだ。

最近色々なことがあって、「気品」について考えている。もし私を某シミュレーションゲームのようにパラメータ(知力、体力、容姿、センスetc…)で表したら、「気品」値がかなり平均より低いのではないかと、憂えているのである。(それ以外も低いぞという意見はとりあえず無視する。)

この「気品」というのは本当に不思議なもので、顔の造形その他はそこまで関係ないのだ。現に、私の昔からの男友達で、こう言っては失礼だけどあまり女性にモテるようには見えないけれど、妙に高貴な雰囲気を纏っている方がいらっしゃる。物腰、喋り方、瞳の動かし方、会話の内容、笑い方、とにもかくにも全てにおいて下品さの欠片もない。一般的には下品と思われるようなことをしても、彼の場合、許されるような気さえする。

で。紀宮さまも、こう言っては何かと問題がありそうなので控えめに申しますが、殿方のハートに火をつけることに関しては不得手のような気が致しますが、それでもあの「気品」は半端ない。先日、母上の美智子さまと農家でレタスを収穫してらっしゃる様子を拝見したのだが、泥まみれのレタスをただ手にとるだけなのに、私が紅茶を飲むときに小指を立てても太刀打ちできない「気品」をお持ちである。

人の性質を氏か育ちかで決めようとすると本当に途方もない話になるのだが、どれだけ本人が途中で挽回しようとしても、「生まれ」の問題は消せない気がする。某海有り県の奥地で「だっぺ。」を連発して育った母と、ガラが悪いと言われがちな西のある地で鼻水を垂らして育った父との間に生まれ、ほぼ無法地帯と化した公立の小汚い学校で育った私が、一体今後どのように「気品」を身につけろと?

そう考えると、「ああ、この人は育ちがいいのだろうなあ。」と感じる人というのは、確かめてみるとやはり育ちがいい。つまり、そもそも最初からハンデを背負っている私は、やはり意識して「気品」を身につけようとしないと、「下品」に偏りがちなのだ。それに対して四の五の言っても仕方ないから、これはそういうものだと受けとめよう。

というわけで、すべてに対して無意識になりがちな私の生活を、少し意識的にしていく訓練を今日からしていこうと思う。と打ったところでハッと気付いたのだが、私はパソコンに向かいながら片膝を立て、大口を開けてあくびをしているのである。

道のりは、長く険しい。








とか言ってるけど、自分がややブルーカラー育ちであることに誇り(?)を持っている私は、どこかで「てやんでえ!お上品がどれだけのもんだってんだ、すっとこどっこい!」と思っていることも、実は否めない。ただ、就職先が就職先なのでね。

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備忘。

●本日のBGM。

Bill Evans Trioの『Waltz for Debby』。

「ピアノ・トリオとはどういうものか」がよく判るアルバムだそうで、ジャズ界では名盤中の名盤とのこと。ほうほう。チェケ。

演奏の向こう側で、グラスの触れあう音やお客の声が聞こえることがある。というのも、ニューヨークの有名なジャズ・スポットである『ビレッジ・バンガード』におけるライブ録音だからだそうで。数年前に一度だけジャズ・バーに行ったことがあるのだが、そのときも思ったように、こういう雑音の中で聞くジャズこそ、真のジャズなのだろうなあと。そういう意味では、とても臨場感のある一枚。


●里芋のコツと、素揚げの温度。

里芋を剥いていると手がかゆくなったりするのだが、酢を手に塗ると大分緩和されるそうだ。知らなかった。

また、今日はかぼちゃを素揚げにしたのだが、160℃の油というのは木箸を入れて少しするとじんわり泡が出てくるくらい。つまり低温でじっくり(2〜3分)揚げる、と。いつも180℃以上の高温で揚げていたから、表面だけ焦げて中が生だったりするのだな。

私の頭の中の天秤

2005年11月20日
ちょっと前に、「ブログ書いてるなんて、イタイよ。」と言われたことがある。

今日は、電車の中で「イタイということ」について、往復2時間以上かけてじっくり考えてみた。イタイってなんぞや?

仮に、ある人間からすっかり「イタイ」部分を抜き取ってしまったとして、その人は本当に魅力的な人間なのだろうか。「イタイ」部分は、裏返せば強烈な個性である。

当時「イタイ」という言葉はそこまで一般化していなかったように思うが、私は中学生くらいまで、イタさと表裏一体になった「魅力」をかなり欲していた。そのせいだろうとは思うが、本当にモテなかった。女らしさやモテを追求すると、どんどんと私の欲する「魅力」から遠ざかっていくのである。それが嫌だった。

世の中の指針(いわゆるモテ系)と私の思う「魅力」の間のズレを修正する必要があるな、と気付いた私は、以後絶妙なバランスを求めて保ってきたつもりではあるが、このバランスがやや崩れたときに、私は「イタイ」と人から言われる。

他人事として眺めている分には、「イタイ」人の方が面白い。友達にするなら「イタイ」人に限る。面白いから。じゃあ恋人にするなら?誰もが「イタイ」人は嫌だなあ、と思う。では恋人と友達を仕切るそのラインは何だろう。そして、イタさと実は表裏一体になっている「魅力」の問題に、初めて気付くのである。"恋に落ちる"とは、その人が持っているその人特有の「魅力」を前に全面降伏することだと思うけど、それってつまりは相手の一番人に見られたくない「イタイ」部分を認めることではないか?

「イタイ」と「魅力的」が表裏一体として、この両者は常に危ういバランスを保っている。そして、たとえ私を好きだと思う人たちが私の「魅力」に惹かれたのだとしても、それはいつでも「イタイ」部分に変わってしまう危険性があるのだということ。この危険性をいつでも認識しているからこそ、私は好き勝手に生きられないし、未だに本来の自分(が仮にあるとして)と世の中とのバランスを取らなければいけない気がして、苦しいのだ。

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備忘。

●本日のお食事。

某繁華街にて、中華料理。

紹興酒を生まれて初めて飲む。甘い。濃ゆい。美味しい。今回は熱燗だったが、次回は冷やでも飲んでみたい。青島ビールを飲むのも、生まれて二回目くらい。これも甘い。冷たい(当たり前)。美味しい。

中華料理を食べる度に思うのだが、本当に多勢向きの食事だよなあ、と。がっぷり日本人気質(たくさんの種類を色々食べたい)の私は「あれもこれも食べたい!」と思うのだが、実際はそんなに頼んでも少人数では食べきれない。


●中国料理の正しいマナー(『女性の美しいマナー』(昭文社)より。)

中華は、日本料理や西洋料理ほど厳しいマナーは無い。
ただ中華の場合、皿や器を持ち上げないのが良いそうで。メモメモ。

コースの場合、「前菜→湯(スープ)→大菜→麺類またはご飯→点心(デザート)」という順が標準。前菜は冷たいものと温かいものが同時に盛られることがあるので、冷たいものから食べる。大菜は一種類ではなく素材や調理方法を変えて4〜5品出されるので、薄味のものから食べる。

円卓は時計回りに回す。基本、手酌。全員に行き渡るように、一週目はやや控えめに。一回りしたら、その後は自由に料理をとってOK。取り皿は、味が混ざらないように料理ごとに取り替える。ちりれんげはスプーンのように持つのではなく、溝に人差し指を入れて、親指と中指で挟むように持つ。汁麺の場合、左手にちりれんげを持って箸で麺を少量ずつ取り、ちりれんげを添えながら食べる。

ふう。(←頭が痛くなっている。)

料理なんて美味しく食べられれば、なんでもよろしいっちゅうねん!!

個人的には、「お紅茶」などという単語を使ってオホホしているセレブリティは嫌いだが、せめてトイレを「お手洗い」もしくは「化粧室」と自然に言えるくらいの人にはなりたい。がんばろう。
私はほとんどテレビを観ない人間だが、それでもオリンピックの時期になれば多少は気にする。

同じく、普段はまったく興味ないが、サッカーのワールドカップの時期になればやはり多少は気にする。つまり、私のような俗事への興味の薄い人間でも気にするくらいの、国民的イベントなのだ、どちらも。

オリンピックもワールドカップも、普段は交流の少ない国同士が一同に会し、なんちゅうかパッと見は"良さげなイベント"である。会場に足を運ぶ人もテレビで中継を観る人も、大いに盛り上がる。立派な"娯楽"として成り立っているし、私はそれらを本当に完全なる"娯楽"として認識していた。"娯楽"以外の何物でもないと思っていた。

オリンピックを仕切っているのは、日本ではD通という会社で、そこと契約しているM下電器はオリンピックを肴に様々な宣伝ができるけど、たとえばM下と似たような会社のS●NYはどうかといえば。S●NYは広告の中で「オリンピック」という単語を使うことすら許されない。D通の許可を得ていないからだ。

ある一大イベントを取り仕切る大会社(主に広告代理店)は、"娯楽"を肴に様々な会社(主にメーカー)に、「この指とーまれ!」と声をかける。"娯楽"はみんな大好きだから、みんながテレビを見るよ、宣伝になるよ、と言う。メーカーはお金を出して、"娯楽"のスポンサーとしての権利を買う。そうして集まったお金で、広告代理店は"娯楽"を開催する。むしろ、代理店はメーカーが出してくれるお金が無いと、開催することすらできない。

"娯楽"はいつも立派な謳い文句を背負っている。私は「うさん臭いなあ。」と思いつつ、その謳い文句の精神(「世界の国々がみんな仲良く!」みたいな。)は嫌いではなかった。ただ、その精神を100%鵜呑みにして、完全なる"娯楽"として享受している人々の知らないところに、私の予想もできない何かが、ある。

テレビも、雑誌も、街の広告も、扱っている商品を「素敵でしょ?」と私たちに広める。それら広告媒体が無ければ、私たちの生活は味気ないものになってしまう。だって、メーカーがいくら良いものを作っても、知ることができないから。"娯楽"も「素敵なイベントでしょ?」と私たちに訴え、現に私たちはそういうイベントがあるから生きてて楽しいと思えるし、つまり、"娯楽"を取り仕切る代理店様々なのだ。

ただね。

ほんのつい最近まで、私はそういった街の広告の"商品"だけを見ていた。そして一大イベントを単純に"娯楽"として見ていたんだ。"商品"と"娯楽"以上のものではないと思っていたんだ。広告もイベントも、消費者である私たちのためのものだと思っていたんだ。現に、私たちのものである。

でも、「私たちのものである」というのはそれら広告媒体の一側面で、別の見えない側面がたしかに存在することを、私は恋人の腕の中で知った。

じゃあ広告は必ずしも悪かといえば、多分そういう単純な話ではない。そういう単純な話ではないのだけど、子どもの頃おもちゃで遊びながら「楽しいなあ!」とただ喜んでいたように、素敵に見えている社会の中で「楽しいなあ!」とただ喜んでいるだけでは、私は来年以降、きっと溺れてしまう。

なら、どうする?

どうもしない。私にはどうにもできないのだけど、こんな馬鹿な私を後ろから抱きしめてくれる恋人の腕をつかみながら、いつまでもこの二本の腕だけを頼りにしていては駄目だなと、せめて横に並んで手を繋ぎながらともに闘っていけるだけの知恵や知識や体力を、私はどうしても手に入れなければいけないんだ。

なんとなくではなく、たしかな決意として、そういう気持ちが私の中にはあります。

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備忘。

●文庫版『東京都市図』(昭文社)購入。

行ったことのない場所へ行く機会が増えたので。
道に迷うのを防止というよりは、行った場所を記録するために。素敵なお店の電話番号も一緒にメモしておこうという魂胆。ふふふ。

私はどうして就職活動中にこのような地図を買わなかったのか、不思議でならない。やっぱり就活をナメてたのだろうか。

地図って、本当に便利ですね。

THE SPECIAL NIGHT

2005年11月17日
食材の上等な部分だけをちょっぴりつまむように、数多の中から「本当に話したい。」と心から思う人とだけたまに美味しいお酒を飲む、という交友関係が理想だなと思っている昨今(実際そんなわけにはいかないけど)。

本日は、最近親しくして頂いているおねえさんと飲み。

繁華街からちょっと離れた場所にある、落ち着いたワインバーにて。ナイフとフォークがあるだけで緊張してしまう私。粗相が無かったことを願う。初めて食べるレバーペーストに感動。とても美味しい。とにかく色々な話をした。以前から「二人きりで女同士の話をしたい。」と思っていただけに、念願叶って実現する"女飲み"にピッタリの話題を提供しようと、向かう途中の電車で色々考えていたのに、おねえさんの顔を見たら全部忘れてしまった。

「私、今まで何やってたんだろう!?」と思う出会いが恋愛にはある、という話が印象的だった。おねえさんも私と同じ位の歳の頃に、そういう人に出会ったそうだ。過去に付き合ったその方のことをさらりと「素敵な人だった。」と語る表情や物腰に、未来の理想型を見た気がした。

遅れて、マイ・ラヴァー登場。三人揃ってからは、社会人二名のお仕事の話を中心に。普段はあまり聞けない話だけに、興味深い。

おねえさんの仕事も、マイ彼の仕事も、具体的な業務内容は異なる。会社ももちろん違う。私は就職活動中に色々な「業界」を見て、どの「業界」が自分に合うのかをそれこそがぶり寄りで考えていたけれど、「ああ、社会は繋がっているんだ。」と、陳腐ながら知った。おねえさんもマイ彼も、なんちゅうのか、社会を動かす大きな歯車の"歯"として単体で働いているけど、同じスピードでゆっくり世の中を動かしているのだ。二人とも、それぞれ別の場所で。

私はいざ社会人になったら、自分の業務に手一杯になるのはわかりきっている。けれど、目の前の「お金」を動かすことのみに注目するのではなく、目の前の「お金」の奥でカラカラと回る社会の歯車を、ちゃんと見られるようになりたいなと、冷えた白ワインを飲みながら思った。自分で歯車を動かしたいという欲求は、残念ながらびっくりするほど無いけど、問題は歯車があることを意識しているか否かだと思う。意識できるようにしたい。二人のように。

私たちは、事実は小説より奇なり的出会い方をした三人だが、本来ならこの場にもう一人座っていてほしい方から、唐突に電話が(テレパシー!?)。

いつか、私が一人前の歯車の"歯"になる頃、四人で美味しいお酒を飲みながらもっと色々な話をしたいと思った夜だった。

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美貌ではなく、備忘。

●『女性の美しいマナー』(成美堂出版)購入。

目上の方と食事する機会が増えたのだが、自分が情けなくて、食卓に頭をガンガン打ち付けたくなることばかりである。このままでは、お里が知れる一方だ(実際、大したお里でないあたりが問題だが)。遺伝子の本を読んでいる場合ではない。

それにしても、正式な場であればあるほど男性は大変なのだなあ。「男性がいる場合は、男性にお任せしましょう。」という記述があまりにも多いぞ。

テーブルマナーを中心に、一通りのおさらいを。どうやら私は本当に「なってない人」だということが本を読んでますます判明し、今度は自室のデスクに頭をガンガン打ち付けたくなった。

目指せ、イイ女(泣きながら)。


●ボジョレー・ヌーヴォー解禁。

「ボジョレー・ヌーヴォーって結局、何?」と聞いてしまい、またしてもマイ・ラヴァーを困らせたのだが。

フランスのボジョレ地区で毎年採れるフレッシュなブドウ(ガメイ種)で作った、出来たてのワイン。それがボジョレー・ヌーヴォーだそうで。軽快で渋みがほとんど無くやさしい口当たりで、初めてでも飲みやすい。全世界一斉に、11月の第3木曜日の解禁日に飲めるようになるとのこと。ふむふむ。

本日いただいたものは「ボジョレー・ヴィラージュ・ヌーヴォーなんちゃらかんちゃら」らしい(後ろの方は聞き取れなかった…)。

世界の一大事

2005年11月16日
恋にとち狂っていた昔(今も?)に思ったことなのだが。

どれだけ本人たちがロマンティックかつ劇的な恋をしていたところで、そんなことは世間の知ったこっちゃないのである。たとえば私がジュリエットで、毎日ロミオのことを想って胸を苦しくしていたとしても、私の隣の友人は「今日、夕飯何にしようかしら?」などと考えていたりするのだ。

クリスマスシーズンに向けて、我がバイト先は、新しいお菓子を用意したり店内を飾り付けたりして、準備に追われている。お店にとっては年に一度のビッグイベントで、まさに「世界の一大事」なのだが、ふと我にかえると、たかがちっぽけなカフェの「お祭りごと」に過ぎない。私はお店で扱うコーヒー豆の勉強会を開いたり、新しく出るお菓子のディスプレイマニュアルを作成したり、それぞれの〆切を山ほど抱えているのだが、その大変さを人に話したところで一体何になるのだろう。

大切なのは、どれだけ自分にとって「世界の一大事」たることでも、それが他人には所詮「お祭りごと」に過ぎないということを、いつでも理解しておくことだろう。

自分の話を他人にとっても面白いに決まっていると思いこんで話をしていると、ふと、友人の冷めたような視線に気付くことがある。ただ、不思議なもので、友人や恋人が自分にとっての「世界の一大事」を、私が所詮「お祭りごと」だと思うであろうという前提で話をしているのを聞いていると、「もっと聞きたい。」と私は思う。

さらに、補足。

人間は身勝手だから、大好きな人が自分の「世界の一大事」を嬉しそうに語るのを聞くのは、許せたりもするのだ。そして、私が私の「世界の一大事」を照れたり怒ったり喜んだりしながら話すのを、「そっか、そっか。」と嬉しそうに聞いてくれる人たちがいる。それって、実はものすごい尊いことなのだろうな、と。

ただね。

私の大好きな人が「世界の一大事」たる一日の仕事を終えて、でもそんなことは何も無かったかのように電話をくれたりメールをくれたりすると、私もどれだけ大変な一日を送ったとしても、何事も無かったかのような声で「おつかれ〜」と言ってあげたいなと、今は思うのだ。

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備忘。

●本日の卒論向けBGM。

HANK MOBLEYの『DIPPIN’』
どうやらジャズ界ではとっても有名なCDらしい。

自慢じゃないが、ジャズは今までまったく聴かなかったし本当に疎い。が、そろそろ聴ける年齢になったのか、にゃはーと癒される。イイ。私は今まで何をしていたのだろうか。

しかしジャズを部屋で聴いていると、ほとんど条件反射的にエロい気分になってしまうのだが、どうしたらいいのだろう?


●自家製牛丼(もうチェーン店に頼らない)。

牛切り落とし、長ネギ、しいたけ、しらたき、
お好みで榎茸。

鍋に、酒と醤油と砂糖を入れて材料を煮詰める。味が染みたらほくほくごはんの上に。これで終了。素敵だ。簡単だ。レパートリーに加えよう。
卒論対策につき、プチ引きこもり状態継続中。

三浦展の『下流社会』(光文社新書)を一気に読了。

端的に述べるが、私はこのような本があまり好みではない。というのも、いわゆる枠組み的考え方が嫌いとかそういうことではなく、社会がどうなっているのかを数値化して「目に見えるもの」として検証するスタイルに、そこまで興味を覚えないということなのかもしれない。(だったら、新書を読むなという意見が出そうだ。)

新聞も、ニュースも、カルチャーも、社会に関するすべてに対してそうなんだけど、どこかで「どうでもいいわ。」と思っている。それを自分で潔しとしていないので努力こそしてはいるが、どうしてもこの「どうでもいいわ。」感だけは消えない。こういった目に見えるものより形而上学的な何かを重視する傾向が、とにもかくにも私の中にはある。

それはそれとして、今回のこの本、好きではないがタメにはなった。というのも、以下のことがわかったから。

私の父親はそこそこ高学歴の人なのだが、のっぴきならない事情で脱サラした。家族三人(父、母、私)まごうかたなき「中」だと思っていたのに、一瞬ではあるが「下の下」に没落した。旅行もして、美味しいものを食べて、高度経済成長の恩恵を受けてすくすく育った私(世代でいえば、真性団塊ジュニアのちょっと下か。)は、日本人全体の「中」意識が崩れる前に、ちょっと早めに没落の恐怖と「下」意識を植え付けられてしまった。

戦後、多くの人が「下」から「中」へ這い上がろうと努力したようなことを、今の私はやっているのだ。我が家の生活水準がどうかはともかく、父も母もやや「下」意識があるし、「中流」が既に私の中では神々しいもののような。それって、高度経済成長以前の感覚である!

つまり私は若干古臭く、団塊の世代が築き上げた(まさに今崩れようとしている)「平均的日本の中流家庭」を誰よりも求めるという、まさに時代の現象に逆行した生き方をしているわけだ。そりゃあ、上昇志向も強くなるわけで。しかも初めから「下」だったわけではないので、周りの目と残った持ち物には「中」の匂いが色濃くある。ギャップがある。

著者の造語「下流」の特徴として、「自分らしさを求める」という傾向があるらしい。そして、「自分らしく生きられればいいや。」という考え方が、上昇意欲を低下させる。ふむ。それを踏まえると、私は本当に上昇志向が強い(単に、多くの収入を得たいというだけでなく、精神的な意味でも)ので、この定義でいえば「下流」ではないのかもしれない。

が、それがわかったからといって、何がどうやねん、と。



ともかく、読後の正直な感想としては、「生きていくのがこわくなった。」



私がハッと物心ついたときには既にバブルが崩壊していて、環境問題は深刻化していて、高校受験の頃は就職氷河期だった。将来の進路を決めようとした秋に、あの9.11のテロが起こった。私は持ち前のハングリー精神を発揮して、「なにくそー!」と必死こいて生きてきたし(幸い、体も丈夫だ。)、今後も真の「下流」のように「まあいっか。」とは決して思わない。だが、それはそれとして、生きていくのがこわい。

嫌なことや辛いことばかりじゃないことはわかるけど、それでもドブの中から綺麗なものを必死で探していかなければ自分が自分でいられない世界に、来春以降とうとう放り出されると思うと、「一人じゃいや。」と、強く思う。




追記。

この本では、団塊ジュニア世代の男女を大きく類型に分けているのだが、「そこまで分けなくても…」と思いつつ、あまりに具体的過ぎてちょっぴり面白かった。

ちなみに私は、ロハス系とSPA!系を足して二で割ったあと、ちょっとロハス寄りにしたような一見「いけすかない男性」がタイプです。よろしくお願いします。

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★ゲルタ改さま。

以前から欠かさず読ませていただいておりましたが、今回、ついにリンクさせていただきました。下品でくだらん中に(失礼)、ものすごい知性を感じますよ。
よろしくお願いします。
知り合いが結婚することになった。

この知り合いというのは、私が今のバイト先に入店したばかりの頃、社員として教育してくれたおねえさんだ。おねえさん(仮にRさんと呼ぼう)は夢を抱いて地方から出てきた。大学を出たものの夢は叶わず、学生時代から続けていたバイト先に就職した。

今回の結婚のキッカケは、おそらく「できちゃった」だろう、と私は推測する。

もう一人。私が小学校の頃から仲良くしている友だち(仮にYちゃんとする)は、ずっと近所に住んでいて、私とそこまで変わらない人生を歩んでいた。それが、こう言ってはなんだが本当にどうしようもないオトコの子を孕み、今はどうしているのやら。同じ校庭で一輪車を練習し、同じ中学の制服を着て、同じ漫画を一緒に読んでいたのに。

私はね、人生には「グローバル・スタンダード」のようなものがあると長い間思っていたんだ。日本だけでなく世界中の人が、「小→中→高→大→就職→結婚→妊娠」という道を歩むのだろう、と。自分も当たり前のようにその流れに乗るのだろう、と。で、途中でドロップアウトしちゃう人の人生がちょっと稀なのだろう、って。

参考書をいつも見て勉強していた私だから、いつでも「お手本」たる何かが存在するような気がしていて、世の中を二分化していたんだ。概念でしかない「お手本」たる生き方と、それに近付こうとする自分の「人生」を分けて考えていた。でも「お手本」(グローバル・スタンダード)なんて本当に概念でしかないということを、最近、頭ではなく実感として理解したんだ。

もう一人。Uちゃんというこれまた中学時代の友だちがいる。この子には高校の頃から付き合っている医大生の彼がいるのだが、医大に入るまでに何年も浪人したから、彼が医大を卒業して研修医期間を終えて立派に医者になるにはあと5年くらいかかる。そして本人には絶対に言えないし言わないけど、Uちゃんと彼はそのうち別れてしまうと思う。Uちゃんとその彼の人格に何の問題が無くても、二人の相性がたとえ抜群であっても、結婚ってたぶんそういうもんじゃない。

そう。「お手本」たる素晴らしい恋愛を誰もが経た上で結婚するのだろうと、これまた幼い私はずっと考えていたんだ。素晴らしい二人は、抜群の相性を持つ二人同士で、何年も付き合って、その気持ちが最高潮に達したころ、男から女にプロポーズする。それが「お手本」で、たとえ諸々の障害(就職のタイミング、引っ越しなど)があっても、その障害に負けてしまうってことは「お手本」たる愛じゃないんだ、って。

でも、そうじゃないんだ。

「どうしようもないこと」が稀なのではなく、その「どうしようもないこと」を排除した「お手本」たるものがそもそも稀な存在なんだ。稀どころか、どこにもない。私の人生も「お手本」にはなり得ないんだ。

これから一緒に生きていきたい人(←結婚相手という狭い意味ではない)を探すなら、もう夢みる少女時代の基準では選べない。友だちも、恋人も、家族も、全てはそう。今、私の周りには、魅力的な人々がいっぱいいるけれど、この人たちはドロップアウトしてもちゃんと生きていこうとするかしら?と。今、イイ感じに見えるその人たちのイイ感じっぷりは、単に安定した(ように見える)基盤の上のものではないよね?と。

問題は、急にすべてを失ってもやる気を無くさずに立ち上がれるか。

私は、準備OK。

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プチ引きこもり状態。本読むか、論文書くかしかやってない…。
ともかく、本日の備忘。

●卒論向けBGM。

難しいことを考えるときはインストゥルメンタルがいいなーと思ってはいたが、卒論執筆にうってつけなのは、ジャズでもピアノソロでもなく、ゲームのサントラ!!これに限る。

本日は、NTT出版から出てる『ロマンシング・サガ3』オリジナルサウンドトラック。
「四魔貴族バトル?」とか「術戦車バトル」とか、とにかくバトル系がいいことに気付く。オラオラー!!と書けるから。

ゲーマーを経ておいて良かったなと思うのは、我が家に当時の私の趣味でゲームのサントラが結構あること。ちなみに、私はあの大御所・植松伸夫も好きではあるが、どちらかといえばロマサガシリーズの伊藤賢治、クロノの光田康典寄りである。(音楽詳しくないのに、こんなとこだけ妙に知っててどーする、自分。。。)

ダダダダダダダダ…っていう、あのイントロも好きだけどね。
(↑これだけでわかる人いるのか?)



●リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(紀伊国屋書店)

なかなか手強い本。
結論としては「われわれは生存機械−遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。」という一言に、尽きる。

これが1980年代に過激かつ論争的な本だと騒がれたのも、かなり納得。人間を遺伝子レベルで見ることにかなり好意的な私でさえ、むずがゆいものを感じるのだから。

ただ、著者が「学生が動物学以外のことを勉強するなんて信じられない!」と語るくだりでは、思わず苦笑い。私が著者のもとで研究を行う学生だったら、さぞ気に入られることだろうな、と。(ちなみに、私の現在の専攻は動物学ではないが。)

最近、一度に何冊もの本を"同時読み"しているが、健全な肉体と健全(たぶん)な精神を持つ23歳の女子が、一度に読んできちんと理解できる最大数が知りたい。

to live for

2005年11月12日
最近、日記を書いてて思うのだが。

「こんな本を読みマシタ!」と書く私って、もしや「ちょっとインテリっぽい自分をアピールしたい人」なのではないだろうか。もともと恋愛とオシャレが大好きな小娘だからこそ、なおさら「こんな自分もアリマス!」て言いたい、みたいな。

「文化」(←ここでは"俗っぽいもの"に近い意味で使っている)は、いつだって暇を持てあましている裕福な貴族層から生まれた。スポーツも、芸術も、そういうものが多い。明日生きるか死ぬかの闘いを繰り広げている「下層」の人々は、そんなことをしている暇はない。本なんか読む前に、おまんま食えなきゃ意味ねーんだよ!と思うことだろう。

最近本屋に通うことが習慣化したから気付いたのだが、本はやはり安いものではない。食べたいものを切りつめて、余ったお小遣いから、私は得たい知識を買っている。それは、高尚か低俗かの問題はまったく別として、やはり「余裕がある」が故の行動だと思う。

大好きな人にこっぴどくフラれて絶望していた頃、本なんかとても読む気がしなかった。そんな「余裕」は無かったのだ。だから、日々の日記に読んだ本の感想や映画のレビューを書いている人を見ると、「ああ、この人は概ね幸せなのね。」と思った自分がいた。

別に、全力で苦悩して「余裕」が無い人生を送っている人がより素晴らしいと言いたいのではない。ただ、皮肉なことに、世の中が荒廃していることを嘆く内容の本をもっともらしく読んでいるのは、荒廃していく現実を目の当たりにしている人々ではなく、荒廃を横目に自分は「余裕」のある生活を楽しんでいる人々なのだなあ、と。

そういう意味で、何不自由なく大きくなり、当たり前のように高校→大学と進学し、当たり前のように(もちろん大変だったけどさ)来春の勤め先を決めた私が、真の「下層」が存在するこの世の中を、本を読んだだけで理解できるのかな?そんなうわべだけの知識に意味はあるのかな?

一瞬でも「生きるか死ぬかの世界」に没落しそうになった我が家の実態を踏まえても踏まえなくても、私の中には、何らかの拭いきれないコンプレックスがあるのだろう。

サークルの女友だちが、親の金で海外旅行に行くこと、ブランド物を親に買ってもらうことに、強烈な憎しみを抱いていた。バイトをしない人が大嫌いだった(正確に言えば、今も嫌いだ)。そして、同じように、何の不自由もなく(そんなことはないとわかったけどね。社会人は見えないところで本当に大変な思いをしていたんだって。)お金を稼いでいる人たちでさえ、難しそうな本を読んでいるだけでインテリを気取っているような気がして、それがどうしても憎かった。

本を手にとってレジに向かうとき、一瞬、このコンプレックスと私は闘う。「おまえは余裕ぶっこいたインテリか?」と。

ただね。真の「下層」が本当に存在して日々の糧のために闘っているのなら。私はそういう心配を(今のところ)しなくていいのだけど、それならなおさら「余裕」がある人なりの努力をしなくてはいけないんだ。うわべだけの理解じゃ意味ないからといって、本も読まない、ニュースも見ない、では駄目なんだ。それは恋にとち狂って自分を見失う以上の悪行だ。

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備忘。

●三浦展の『下流社会』(光文社新書)

読み始めたキッカケは、周りのそんけーすべき大人たちがみんな読んでいるとわかったからという、誠に子どもっぽい理由。

まだ序盤だが、私の中の闘志に早くも引火。ボッ!

皆がどのように「次に読む本」を決めているのか。それが今一番興味のあるところ。私は上記のように、好きな人が読んでいるからとか、近づきたいあの人が読んでいるからとか、そういう理由で選んでいるけど、方向が定まるまではこのままでやっていくしかないな。そのうち、チョイスする本に「私の色」が出てくるのだろうか。



●ホイットニー・ヒューストンの『そよ風のおくりもの』

このCD、邦題のすべてがクサ過ぎる。

「やさしくマイ・ハート」と「シンキン・アバウト・ユー」がブログを書くときにうってつけ。

もう何年も昔に父に貰ったのだが、初めて聴く。いいね、ホイットニー!!これからはこっち系(何系??)で行こうと思ったので、備忘。
田中克彦の『ことばと国家』(岩波新書)読了。

この田中克彦という人は「闘う言語学者」とのこと。著作を一冊しか読んでいない私がこう言い切るのもアレだが、私もこの人は「闘う言語学者」だなあと率直に思った。

何かを解明しなければいかん!という使命感を抱く「科学者」は、きっとこの著者のような闘志を何らかのかたちで持っているのだろう。というのも、著者・田中氏が「言語は"差異"しか作らない。その差異を"差別"に転化させ云々…」という表現を用いているからだ。この人は、言語学を「社会的なものをばらばらに解きほぐして、底にひそむ蔑視の性質をあきらかにしようするためのもの」と認識している。

私が思うに。

「科学者」も色々なタイプがいて、たとえば、様々な事象を集めていわば帰納法的にデータを導き出すこと、それ自体を目的にしちゃってる人がいる。機械的に結果だけを求めている人のことだ。そうねー、例を出すなら、恋人の人となりを知りたくて部屋に侵入したカノジョが、カレの部屋に散らばる要素(ダンベル、プロテイン、筋力アップのハウツー本)を発見して、「私のカレは肉体派だわ!」と理解しただけで満足しちゃう、みたいな。

大切なのは、それら要素から導き出された「カレは肉体派だわ!」という事実を、カノジョがどう捉えるかだ。なぜその肉体派のカレは肉体派になろうとしているのか、それは愛するカノジョを守りたいという感情から出発したのかもしれない。そういう、そもそもの原点をカノジョなりに考えなければ、導き出されたデータは単なるデータに過ぎない。データに意味づけ(正しいか間違っているかはどうであれ)をするのが、「科学者」の使命ではないか?

そういう意味で、この田中氏には「真の科学者」という称号を与えたい。彼は、言語がどのようなものかをデータとして私たちに提示するだけでは飽きたらず、そのデータを前提にして「なんかマズイんじゃねえのか?」という問いを投げかけている。それは闘志だ。世の中を支配する、"実体は見えないけど倒すべきもの"の存在を意識している。

近代以降の「科学」は、人類の長い歴史の中で作られてしまったこの"実体は見えないけど倒すべきもの"を明確にするためのものだと、私は勝手に思っている。そして、確かな知識を持って(←ここポイント)その敵に立ち向かっている「真の科学者」に、私は強烈な敬意を払う。



追記。

内容に関して。個人的にドキッとさせられたのは、「多様で個性的な文化の出会いの中に置かれている人間現象に、こうした生物主義的な純血概念を持ち込むときに生れるのは人種主義である。」というくだり。「純粋な」言語という概念はあくまで"概念"でしかないのに(つまり、「純粋な」言語などどこにも無い。)、「どこかに本当に純粋な答えがあるのではないか?」と考えてしまう思考の癖は、私の中に脈々と息づいている。

ヒトラーがユダヤ人の一掃を思いついたのは、ゲルマン人種の血の「純血」という、実証不可能な概念を根拠にするものだった、と。つまりこの思考パターンは、進むべき道を誤れば相当危険なものになるということだ。肝に銘じよう。

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真面目な話の後に、アホな備忘。

●本日のお食事。

某遊園地の近所で、焼き鳥と牛スジをいただく。
お新香がさっぱり味の浅漬けで、私好み。まいうー!

本日は「はなきん」につき、お店大繁盛。さてさて、こういうときは注文のぺースが大切である(byマイ・ラヴァー)。入店後、まずは生ビール。それが来るまでに周りを見ておいて、「あ、あの人たちは俺らが来る前に座ってるのに、まだ注文の品が来ていないな。。。」と、その店の"ぺース"を概算すべし、と。ペースを見誤ると、あらかた食べ尽くして目の前に何も無い…ということになりかねん、もしくは妙にいっぱい来すぎて狭いカウンターがぎっしりになる、と。ふむ。

食も、ある種、駆け引きだな。押すのか引くのか。そういった駆け引きは、恋愛はもちろん、ビジネスの現場でも必要なのだろう。人生は駆け引きだ。



●大食いと食いしん坊。

私は自他共に認める「大食い」である。女のくせに男並みに食べる、飲む。

しかし食にうるさいかと言えば、実はそうでもない。口に入るものはなんでも美味しいと思う。そのわりにグルメ雑誌をチェックしたり、ウキウキとお店をセッティングしたり、ということには貪欲でないし、ウロウロしてお店を開拓したいという欲望も、人よりは少ない。

マイ・ラヴァーは決して「大食い」ではないが、食に対して貪欲だ。美味しく食べるための工夫を忘れないし、お店もたくさん知ってるし(職業柄というのもあるかもだけど)。最初は「おおー。」と思ってたけど、実はただの「食いしん坊」なのではないか?と気付いた昨今。

「大食い」と「食いしん坊」は、似て非なるものだ。(←個人的にものすごい発見。)

小娘の沈黙

2005年11月10日
人の心とは不思議なもので、矛盾する感情が、平気で同居することが、しばしばある。そういう場合、いったいどちらの思いがほんとうなのか、本人でもよくわからない。たぶん「どちらか」ではなく「どちらも」ほんとうなのだろう。(by俵 万智)

これは「大人」にとっては当たり前のことなのだろうか?

私は「保留」することが苦手で、白黒つけたがるタイプだ。自分の気持ちに関しても例外ではなく。矛盾する二つの感情が同時に存在しても、今まではそのどちらかに注目していたように思う。どちらかに注目して、言葉にしていた。

ちっとも具体的じゃないから、ある歌を紹介しよう。



春宵の酒場にひとり酒啜る誰か来んかなあ誰あれも来るな -石田比呂志-



つまり、ちょっぴり人恋しくて、でもぼんやり一人でいたい…。二つの相反する感情を同時に抱きつつも、この作者はたぶん酒場のオヤジに「誰かと話したいような、でも一人ってのもいいような、不思議な気持ちなんです。」などと言わないだろう。ひとまず「保留」して、自分は今どちらの気持ちが本当なのか、ちょっと考えてみて、ああどっちも本当なのだと気付いて、そしてどちらの気持ちも口に出さずに、一人静かに歌を詠むだけ。

「保留」できない私ならどうするかというと、あるときには「人恋しい!」と決めてそれを口に出し、またあるときには「一人って最高!」と口にする。強引にどちらかに決めつける。だから、そのときどきで違うことを言っているように思われて、あらぬ誤解を招くのだろう。

「保留」を少し覚えた最近の私は、今度は同居する二つの気持ちを、二つとも口に出す。酒場のオヤジに「誰かと話したいような、でも一人ってのもいいような、不思議な気持ちなんです。」と言っちゃうのだ。たしかにどちらも本当だから、あらぬ誤解を招くようなことは無いだろうが、それもどうなの?という気がする。私の日記が長いのも、またおしゃべりなのも、メカニズム的にはこういうことだろう。

だから、これからは、相反する二つの気持ちを同時に抱いたときは、何も言わないことにしよう。

今までの私がどうしていちいち人に伝えたかったかというと、私が色々なことをちゃんと考えている・感じているのだと証明したかったのだと思う。二つの相反する感情を同時に抱く位に自分は情緒的だ、だからわかってくれ!という押しつけだ。

人を信頼しよう。相手が「りんはきちんとわかっているはず、考えているはず。」と思う気持ちを信頼しよう。なぜこんなことを思うようになったかといえば、私の心の奥に流れる水を既に知っているある人が、私が思っている以上に色々と感じてくれているのだと気付いたから。口に出して「うん、わかるよ。君がそう考えていることは。」と言ってもらうのは嬉しいけど、それだけでは駄目だ。

それこそ、さきほどの例のように、春宵の酒場でそのある人と飲むことがあったなら、互いに相反する気持ちをもてあましているのを知った上で、それにはお互い触れないようにしたい。たぶん、ある人は、素敵な春宵を味わえるくらいに情緒的なのは間違いないし、私が同じものを味わっていることもご存知のはず。証明しなくてもいい。そしてテーブルを挟んで対面するよりも、並んで腰掛けて別のものを眺めながら、たまに目を合わせて「おいしいね。」と言えるくらいでいいね。

黙り込むとはちょっと違うな。あえて口に出さないことは、好きな相手を信頼すること。こんなことは、今まで誰も教えてくれなかったよ。

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備忘。

●俵 万智の『三十一文字のパレット』(中公文庫)読了。

本文にも出てきた通り。

先日の佐藤真由美がひたすら恋愛だけをテーマにしているのに対し、こちらは恋愛以外の歌が多く、男性歌人の作品が多く掲載されているのが特徴。

俳句は必ず「季語」が無くてはいけないらしいが、短歌はどうなのだろう。佐藤真由美(なんだかんだ言ってるけど、私はこの人わりと好きだ。)の歌はつぶやき系で、描写の要素が少ない。一方、今回の本は目の前にパッと情景が広がるような鮮やかな歌が多かった。「季語」というか、そういう情景が浮かぶ単語が入っている作品の方が、私の性に合うのだろう。

火の剣のごとき夕陽に跳躍の青年一瞬血ぬられて飛ぶ -春日井 建-

素敵だ。


●体重増加。

食欲の秋というが。

夏に激減した分はすっかり元に戻ってしまった。それは多分いいことに違いないが、問題は失恋する前より増えてはいかんだろうという。速やかに対策を練るべし!!

とりあえず深夜の寝酒は控えよう。パソコンに向かいながら発泡酒をやるのが習慣化しているが、たぶんこれがまずい。

というわけで、いつも飲む麒麟淡麗(黒)を、麒淡麗麟グリーンラベルにしてみたよ!!糖質70%オフッフッフッフッ。(そもそも飲むこと自体をやめろ、自分。)

オシャレ記念日

2005年11月9日
随分長い時間がかかってしまったが、「りんの"オシャレ"との闘い」がようやく終戦の気配を見せ始めたので、ここに戦況を報告する。

本日も結論から。"オシャレな人"とは、パラドックスを孕んでいる人である!

私は中三くらいまで母と祖母が買ってくる服を着ていたので、割と暗い思春期を過ごした。その後、稲妻に打たれたかの如くオシャレに目覚めたのだが、何しろやり方がわからなかったのでほぼ自己流。サングラスを頭に乗せたり(わー!!)、ファンデーションつけてないのにパールピンクの口紅を塗ってみたり(ひー!!)、色々やった挙げ句に「どうにも自分はダサイ。」とまた気付き、今度はよーく友だちを観察して、さらに売れている雑誌を研究したり、マネをする時期に突入した。

そして「まあ、これをチョイスしておけば恥ずかしくはないだろう。」というものがわかるレベルになった。それらのアイテムはそこそこ知られているブランドのものなので、一見して「あいつやべー!」と言われはしない。そこは居心地が良い世界だった。体じゅうに「恥ずかしくないレベル」のアイテムを配置したかった。とりあえず財布はヴィトンで、時計はフォリ・フォリで、靴はセヴン・トゥエルヴ・サーティとかか。バッグならサマンサ・タバサか?

これらのアイテムが単品としてヤバイと言いたいのではない。それらの裏側で「まあ、これをチョイスしておけば恥ずかしくはないだろう。」と思っているのがバレることがある。途端に今まで輝いて見えたアイテムたちは色を失う。こういう人は「偽オシャレ」なのだな〜。

ここで最初に戻る。パラドックス、つまり「逆説」の話ね。

たとえば、誰もが安心して使えるポーターというブランドがあるけど、私はアレとてもイイと思う。バッグに限れば、軽いし、強いし、値段もバカみたいに高くない。デザインもシンプルで合わせやすい。が、「パラドックスを孕んでいない人」つまり「偽オシャレの人」は、ポーターを使うことをおそらく嫌がるだろう。なぜか?本当にダサイ人も使っているブランドだから。

「偽オシャレの人」は、「まあ、これをチョイスしておけば恥ずかしくはないだろう。」の精神を大切にするので、危険を冒さない。アイテム自体が高得点のもの(本当にダサイ人は手が出しにくいもの)を取り入れるのだ。そうするとパッと見の得点は上がる。

で、私が気付いた「パラドックスを孕んでいる本当のオシャレな人」は、高得点だろうが低得点だろうが、アイテムが機能的且つ優秀だと判断した場合、TPOに応じてそれを使う。「低得点のポーターを使ったらダサくなるのではないか?」と恐れるのは、偽オシャレのすること。

私の言いたい「逆説」とは、ダサイ要素のあるアイテムを恥ずかしがらずに使うことで逆に上級者に見える、という意味だ。恥ずかしくないよ、機能的なんだもん。

結論にさらに補足。結局ね、服にほつれが無いとか、靴が汚れてないとか、シャツにアイロンがかかっているとか、肌が綺麗とか、髪がツヤツヤしてるとか、そういうメンテナンスがなされていれば自然とオーラが出てくるものなのだ。

人混みに紛れたら同化してしまうような服を着ている。でも本人が「イイ。」と思って使っている機能的な鞄から、その人自身を本当に表すキラキラした何か(本とか?)が出てくる。そして、人混みに紛れても見つけられるようなキラキラした考えを語ってくれる。そういう人が私は好きです。

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備忘。

●佐藤真由美の『恋する短歌』(集英社文庫)読了。

先日の『恋する歌音』とは別モノ。
テイストは似ているが、こちらは佐藤真由美本人の歌のみ掲載。さらに、短歌+ショートストーリーという構成。装丁もそうだが、女による女のための本だなあ、と。

人のことをとやかく言うつもりはない(というか言えない)が、作者・佐藤真由美は相当の「陶酔系」だな、と。非モテの文学を愛する男性なら虫酸が走るのではなかろうか。

んが。個人的に、この佐藤真由美は「陶酔系」でありつつ、とっても上手にバランスをとっている気がする。「陶酔系」だからこそ、誰よりも「自身を客観する力」が必要なのだ。自分の恋愛に陶酔しているだけではただのクサイ話になってしまうし、照れ隠しに笑いを交え過ぎると主題がぼやけて真剣さが伝わらない。

でもなあ。私が理想とする「陶酔系女流作家(歌人含む)」は、女性が共感するのは当たり前で、且つ男性も同時に痺れちゃうものを書く人なのだよ。そういった意味では佐藤真由美、今一つ!(←何様でしょうね、私は)。


●首から上の総合コーディネート

髪色を落ち着かせた(黒に近い。)わけだが。
そのせいか、やたら顔が白く見える。

髪色、ファンデーション、アイシャドウ、チーク、リップ。これらを分解してチョイスしてはいかんなあ、と気付いた。全ては相互に作用し合うのだから、単に「新色だから」とか「好きな色だから」とかで選んでは失敗するだけだ。新色を取り入れるならそれはそれで、全体のバランスを見なくてはいけないのだろう。

白っぽい肌と黒い髪なので、お蔵入りしていたコスメデコルテのピンク系アイシャドウが映える。さらに、ピンクゴールドの淡い色のネックレス(ニューフェイス!)が絶妙、という。

2005・秋、ワタシが変わる。。。
(化粧品のCM風に。)

減速

2005年11月8日
証人喚問でもないのに敢えて言わなくてもいいことを告白するみたいで気分が悪いが、私は相当おしゃべりな上に、大層早口だ。

今日は結論から書こう。それ(おしゃべり&早口なこと)は良くない、と思う昨今。「昨今」ではない。まさに夕べの午前二時。

頭に思い浮かぶことの方が、口をついて出ることより断然速い。誰でもそうだ。単純にスピードの問題。コンマ何秒の世界で動いている頭の中のうねりを全て口にしたくて、私は早口になるし饒舌になる。相手に伝わるかどうかより、まず、自分が言いたい。だって気持ちいいから。ブレーキが効かないのだ。

私の場合、「ブレーキが効いていない」ということは、ただおしゃべり&早口になるだけでなく、がさつになり、せっかちにもなり、全てに影響を与えている。これは、あまり良くない。ときに「りんは元気がいいね。」とか「りんは一所懸命だよね。」とも言われるので調子に乗って生きてきたけど、それがまかり通る年齢でなくなる日は近い。というか、むしろ終わったのでは?

というわけで。

私は少し「ブレーキをかけて」生きていこうと思う。

100のことが思い浮かんでも、喋る前に一呼吸置いて。そして、100のうち一体いくつ(20にしておくのか、50にするのか)口に出せばいいかを、その都度考える習慣をつけていこう。そう、何をするにも一呼吸置いて。むしろ自分が喋る番なのかどうかも考えよう。私は「相手が喋った方がよかったとき」に、いつも自分ばかり喋って、大切な話を聞きそびれたのかもしれない。

「コレをしたい!」と思っても、すぐに体を動かすとがさつになるから、一瞬(ほんと一瞬)でもいいから、止まろう。そうすることで、大人の女性の物腰みたいなものが、いずれは身に付いていくのではないかな。

それにしても、「ああ、聞き上手なお方だ。」と何の疑問もなく思っていた人が、実は昔私と同じようなことを思って自身を戒めたことがあるというのは、まさに青天の霹靂。人に歴史有りとはいうけれど、つまり、「大人」とは、やはり生まれたときから「大人」ではないのだな。当たり前のことだけど、その単純な真実は今の私にとって大きな希望だ。

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備忘。

●亀井俊介の『ピューリタンの末裔たち-アメリカ文化と性-』(研究者出版)読了。

アメリカに関しての本だが、私は「小泉八雲は偉大かもしれない。」などと、まったく関係のないことを考えつつ読んだ。

"It is I, you woman ,I make my way,
I am stern, acrid, large, undissuable, but I love you,
I do not hurt you any more than is necessary for you,・・・"

(ホイットマン『草の葉』より「女がわたしを待っている」から抜粋。)

この句を、大正時代の民衆派詩人の白鳥省吾はこう訳した。

"それは私である、婦人よ、私は私の道を作る、
私は厳格で辛辣だ、気儘で強情である、然し私は汝を愛する、
私は汝に必要である以上に汝を損なわない・・・"

しかしだね、この詩の"I"は、実はある名詞(とても書けません。)のことだそうで、そうなると全然違う解釈になるではないか!!これに気付いた現代の優れた翻訳家・河野一郎は、なんとこう訳した。

"女たちよ、それはわたしの役なのだ、わたしは突き進む、
堅く、大きく、仮借なく、しゃにむに、だが愛情をこめて。
必要以上の痛みを与えることはすまい、・・・"

私がなぜ日本の短歌を愛するかというと、翻訳家を介さずに読めるからである。一度フィルターをかけてしまうと、作者の意図とはまったく違ったところで解釈してしまうことがあるのだなと、改めて改めて痛感。その点、日本の詩なら一次的に読めるからねー。自分の解釈が正しいかどうかは謎だけど。外国作品を読むときは翻訳家を調べてからの方がいいのかもしれない、と気付いたので備忘。


●『TOKYO一週間(11/8〜11/21)』購入。

クリスマス特集に惹かれて。

クリスマスにはしゃぎたいなどと言ったら斬られるかもしれないと思っていたけど、先日確認したら、斬るどころかそれなりに楽しみにしてくれてるご様子なので、早速。

しかしクリスマスだからといって、思い出したようにこういった特集通りのことをするのもなあ…と。「ありがち」ではなく、でもすぺしゃる☆な感じにはしたい…なーんて贅沢なことを考える女子大生(23)一名。どうしたものか。でもイルミネーション・スポットくらいはチェックしとこ。うひひ。

クリスマス、フォーーーー!!!(レイザーラモン風に。)
私のパソコンの前には大きな窓があって、少しだけ紅くなった落葉樹が見える。いつの間にやらすっかり秋で、いつの間にやら夏の面影もない。

時は既に11月なのだが、さてさてここ数ヶ月の日記をたまーに読み返すと、まったく変化していないように見える日常も、窓から見える落葉樹のように、少しずつ少しずつ色が変わってきているのがわかる。

恐ろしいのは、「今、目の前にある現実」と「今、自分が考えていること」は、その日寝る前に思い返しても、変化しているようには見えないこと。色の濃淡がちょっとずつ異なる10枚の赤いカードがあるとして、一枚だけ見ても「赤」にしか見えないけど、何枚かを並べて比較すると微妙に違うことがわかる。たとえるなら、そういう感じ。

「付き合う直前が一番楽しい。」というのは、ある友人の決め台詞である。かなり共感する一方で、「そうかな?」とも思う。いやいや、やっぱり共感する。「楽しい」という感情を、全く濁りのない無垢なものと定義するのであれば、だが。



あひみてののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり "権中納言敦忠"



なんて歌が千年以上も昔に歌われているのだから、人は何百年、いや何千年もの間、今の私のような「なんともいえない不安」を抱えつつ、それでも恋することをやめられなかったのだろうな、と想像される。

誤解してほしくないのは、私は今「苦しい」わけではないということ。むしろめっちゃ幸福である。でも厄介な性分で、素敵なワイングラスを手に入れてその繊細さを美しいと思う一方で「落として割るかもしれない。」という不安を同時に抱くなら、落としても割れないアルマイト製のカップでいいよと思ってしまうのだ。これは昔から。自分がおいしいポジションにいるのが苦手なの。

そうはいっても、味気ないアルマイトを使っているときは、他人の持つ優雅なワイングラスが羨ましいと思ってしまうのだから、人間というのは生まれた瞬間から死ぬときまで不幸であるなと思う。何をしても、何を手に入れても苦しみはつきまとう。

じゃあどうすればいいのだろう、と。

私は考えた。私の抱く不安が、「諸々の現実問題にまみれて、純粋だった互いへの"リスペクト"が失われていくのかも。」というものだとすれば、熟したワインのような濃い「赤」になる前を、10枚カードを並べてみたら一番薄い「赤」に見えるあの頃を、まだ互いのことを神秘のベールで包んでいたあの頃を、ときどきは思い出せばいいのかな、と。ただ思い出すだけじゃなく、"証拠"として残っているなら、たまには確かめてみるべきだな、と。

(だからね、皆さんも今の恋人と付き合う前にメールや手紙を送り合ったなら、それは"証拠"として残しておいた方がいいと思うよ。)

そして、今「真っ赤」に見えるこのカードが、数ヶ月後、何年か後のカードと比較して、「ああ。一瞬の赤さだったな。」などとならないように、もがこうと思う。何も知らなかった頃、純粋なまま存在していた互いへの"リスペクト"が、色を変えても本質は"リスペクト"のままであってほしいと私は願う。

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備忘。

●世界の女性史9 アメリカ?『新大陸の女性たち』(評論社)読了。

堅苦しくていやだよう、と思ったら、案外興味深い。
17世紀・南部アメリカのプランテーションで生きる奴隷たちの生活について言及が。

その関連で、スティーヴン・スピルバーグ監督の『カラーパープル』を観たくなった。人類のしてきたことの証として、「奴隷制」については最低限知っておくべきだと思う。にも関わらず、私は何も知らない。



●佐藤真由美の『恋する歌音』(集英社文庫)

卒論の合間に、ちょっとずつ。

こういう本の何がいいかって、思いついたときにふと読めることだ。章ごと、ページごとに一首ずつ書かれているので、突然読むのをやめることもできるし、また突然読み始めることもできる。

キスしてと言えばキスしてくれる人 黙って横にいる観覧車 "佐藤真由美"

この歌は秀逸だと思う。
恋人ができて何が嬉しいかって、「キス」がいつでもできるというその安定感が私は嬉しい。でも「キス」をしたからといって何か変わるわけでもないし、かといってしていない時間はまたしたくてたまらなくなったりもする。が、した後の空しさを考えると「キスしたい。」と言い出せない。してもしなくても、なんだか辛い。ああ、人間は贅沢者だ。
本日は日記らしい日記を。

週末は天気が悪いと聞いていたけど、起きてみたらぽかぽかのお散歩日和。めっきり太陽の光を浴びていないというドラキュラのようなある人のために、「ほのぼのデート」を企画。都会なのに森林浴が可能な某国民公園へ。

ぐるりと園内を一回り。歩きながら本日のデートの相手(別に日替わりではない)の話を聞いていると、私の知らない(でも、普通の人は多分知ってる)ことばかり飛び出して、「ふ〜ん。」とか「へぇ〜。」とか「そうなんだぁ〜。」と、私の中の何かがどんどん解放されていくような感覚に陥る。彼が今まで溜め込んでいたらしい「合コンでまったく使えない無駄知識」は、私を解放するためにあったのだ。公園に"楽しめる要素"は何も無いけど、何も無い場所だからこそ、まるで真っ白な台紙に絵の具を垂らしたように、「彼」という人間がぽっかりと浮かび上がって見えて、私は、自分が自分でいられないような狂おしい気持ちになる。

今日のメインイベントは「公園で読書」。昼下がりの太陽が温めてくれた芝生に転がって、読みかけの本をそれぞれ読む。自分の持つ本のバックが一面の青空であることに感動した人が一名。そうそう、この芝生には「幸せそうな人々」しかいないのだ。フリスビーをするカップル(幸せそう)。ちっちゃいボールでサッカーをする父子(幸せそう。)大地を背にして、大人なのに子どもみたいな顔でうたた寝をする私の隣の人も、とても幸せそうだ。お堅い文献を読むフリをしつつ寝顔を盗み見していた私も死にそうな程に幸せだったことは、敢えて書くまでもない。

ぼちぼち閉園の時間。徒歩にて繁華街へ。随分先延ばしになっていた私の誕生日プレゼントを買ってくださると言うので、手始めにティファニーの路面店へ。かるーく冷やかした後、今度は老舗百貨店の一階をチェック。「改めてわかったがやはりティファニー社は偉大である。」とは、我が恋人の弁。ジュエリーは各ブランドに「色」があるが、華やかさと下品さは紙一重であるなと、二人して納得。しかし手が届く範囲のティファニー製品となるとどうにも「ありがち」感が漂うよな〜、と闊歩しながら言いたい放題言いつつ、またしても河岸替え。

ターミナル駅側の某デパートにて、ピンクゴールドの素敵なネックレスを発見。シンプルだが上品で、何より微妙な中間色が私の肌色に合っている。「俺が似合うって言うんだから間違いない。」というお方に背中を押され、これに決定。どうもありがとうございます。普段は持つことのないブランドの小さな紙袋が嬉しくて、ついつい振り回したくなった(私は子どもか)。

夕飯はスペイン料理。ごはんが美味しかったのは良かったのだが、私は最近あることにとても悩んでいて、どうにも食事作法その他諸々が「がさつ」であるらしい、ということ。食べるペースも速いし、食べる量も多いし、こぼすし、落ち着きがないし、声は大きいし、なんちゅうか多分(いや、絶対)エレガントではない。先日はバイト先で「がさつだ。物が壊れる。いいかげんにしろ。」と30分もお説教を喰うし、どうやら「元気のいい女の子」でまかり通る年齢ではなくなった模様。胸元に光るダイヤに追いつかねば。自戒を激しく激しく込めて、備忘。

お店に来ていたある三人家族。2歳くらいの男の子が物珍しそうに店内を歩いていて、私の連れに妙になつく。「男の人を怖がるのに、不思議ねえ。」とのこと。不思議だ。「おまえも私と同志か?」と思わず聞きたくなった。ラテンなお姉さんに見送られ、月明かりの中帰途につく。

「幸せすぎて眠くなった。」などとのたまう家主に代わりバスタブを掃除しながら、α波と眠気の相関性について熟考。α波放出中のうたた寝顔(目尻下がりまくり)を鑑賞するのは、本日二回目。願わくば、いつまでも、私の前でのみα波を出し続けていてほしいと願いながら私も眠ってしまい、いつしか土曜日から日曜日になっていた、とさ。

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本文とは関係ないのですが。

なんと「結婚バトン」が各方面から一気に回ってきた。これを機会に(というわけでもないな。わりと頻繁に考えてきたけど。)結婚について考えてみた。

ただですね。申し訳ありませんが、このバトンだけは、このバトンだけはパスさせていただきたく。。。

「りんのケコン観」を知りたいと思ってくださった方が多くいらっしゃるのはなんだか嬉しいし、普段こんだけ恋愛についての熱い論を展開しているので、皆様が期待する以上のものはおそらく容易に書けると思います。ただ、恋愛や結婚について誰よりも大マジメな私だからこそ、これだけは人に言えないのです。

でも、基本的にバトンは嬉しいので、これ以外であればいつでも喜んで答えさせていただきます。ご容赦ください。

ほんと、すんません。。。

How wonderful loving is!

2005年11月2日
夕飯(オムレツ)を食べながら所さんの番組を観た。

どこだかの夫婦というのが日本テレビにインタビューされていて。奥さんが旦那さんのどこを好きかと聞かれて、「昔はみーんな好きだったけど、今はみーんな嫌い!」と答えており。旦那さん本人の前であっけらかんと毒づけるあたり、むしろ愛があるなあと言えなくもないが、「そうか…。いつかはそうなるのだな…。」と、私は切ないようななんともいえない気持ちになって、オムレツに箸を刺したりしていた(行儀悪し)。

我が家の嫁姑問題というのもわりかし深刻で、母は「楽しいのはせいぜいあんたの歳くらいまで。女の運勢なんてね、今後下降していく一方よ。」などと、若さではちきれそうな私に水を差すかの如くイヤ〜なことを言うのだが、多分、母の予言は当たるだろう。

唐突に話は変わるが、今、『ピューリタンの末裔たち-アメリカ文化と性-』(研究者出版)という本を読んでいる。その冒頭に心打たれる文があったので、引用しよう。



「この問題は、水の流れがせき止められた時のようなものかもしれない。
ダムに水路がひらかれると、水は、本来の川の道を静かに流れるにまかされて
いた時よりも、もっと激しく流れ、もっと音をたて、そうぞうしく騒ぐ。
同様にして、悪はこの地でもっと厳しい法によってさし止められ、
本来流れたい通俗的な自由の道を流れることができないほどしっかり
見張られているので、あらゆるところに出口を求め、
ついに抜け口があるとあふれ出るのだ。」




私はとても真面目だと思うし(当社比)、敷かれたレールから道を踏み外さずに生きてきた。それが良かったか悪かったかどうかを、今は問題にしない。多分、私はダムの如く、自分の中に流れる水をせきとめて生きてきたのだ。

一体何が原因かは知らないけど(嘘。本当は知ってる。)、私の中の水はついにあふれ出てしまった。抽象的過ぎる?私は母の言うように「ピーク」を迎えているのだと思う。今が一番楽しい時期だろうと思う。「好きな人ができたばっかり」とか、そういう単純なことを言いたいのではない。そんな時期は今まで何度もあった。

登山に例えようか。私の人生が仮に80年だとして、死ぬ頃に山を下りるのだとすれば、今、ようやく頂上付近ではないかな。そして、山頂付近から頂ける壮大かつ美しい風景を初めて目にして、感激して、それが私の心のダムに穴を開けてしまったのだ。これから下山するからといって絶望しているわけではないのだが。上るときは必死で見えなかったものが見えてくるはずだからね。

とにかく、私は、山頂まであと一歩の場所にいる。だから、恥ずかしがらずに、山頂でしか見ることのできない景色を味わいたい。全力で味わいたい。「今」しかできないことをしたい。「今」しか人を無邪気に愛せないのなら、全力でぶつかって、全力で「愛してる」と叫びたい。そのうち夢みたいに消えちゃうなら、なおさら。

こんな文章を書けるのも、多分「今」だけだと思う。だからこそ、思った瞬間に書き留めておきたいな、と。すみません、書きます。すみません。

(しかし、何年か後に読み返したら、これは相当恥ずかしいんだろうね。それを承知で、もう下手な修辞をせずに「どん!」と書くけどさ↓)。

人を愛するって、素晴らしい。

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備忘。

●化粧水購入

基礎化粧品はイプサで揃えている。
それにしても化粧水(メタボライザー)5000円は、高い。
プチ財政難。

デパートの化粧品カウンターは本当に恐ろしい。
今日も「お客様のように目が大きい方は、まばたきの際に目にかかる負担が大きいから、早くからシワ対策をした方がいいですよ。」なんてウマイこと言いやがって、危うく「目元専用美容液」を買わされそうになった。こっちも「目が大きい」なんて言われたら悪い気しないではないか。

ただ、仕上げに付けてもらった新商品のリップはいい感じ。
「スキンビューティ・リップ N1」。3000円。チェケ。

OLになったら買おう(先だなあ!!)。



●世界の音楽シリーズ『コンドルは飛んでいく アンデスを聴く VOL.1』

100円ショップでゲット。
100円じゃなきゃCDなんて買わんて。いや、買えんて。

読書にはインストゥルメンタルが良い。これは効果(何の?)テキメン。
ケーナ、最高。飛べます。ビバ、ケーナ。
ビバ、100均。
本日は、メールの持つ「エネルギー値」論について。
(一見堅苦しいけど、内容は馬鹿馬鹿しいです。)

クイック・レスポンスが良しとされるメール社会だが、すぐ返すのが必ずしも良いとは思えない。もちろん、完全な業務連絡ならこの限りではないが。

たとえば恋人同士でメール(携帯)をやり取りする場合。

朝の9時に、100ラヴ(←単位)で届けられたちょっと長めのメールなら、それが(自分の中で)0ラヴになるまでは貪欲に味わうべきだ。何度も読み返したりして。今頃どうしてるのかなとか考えたりして。で、午後3〜4時頃、「エネルギー残量ゼロ」になってから、こっちからまた100ラヴないし90ラヴのメールを、ちょっと長めに返すのである。で、おそらく相手もそれを読みながら楽しい気持ちになる。〆として、真夜中にもう一度、お互いにゼロになった状態を癒し合う。。。というのが、理想。

長いメールを打つことに(というか、長い文章作成に関して)苦を感じない二人であることが、必須条件であろう。

なーんて。

社会学の授業中にこんなアホみたいなことを考えていたのだが、私は平安時代に生まれていたら良かったのではないかと、ちょっと思った。

もともとデートが苦手(最近はそうでもない。)なのだから、基本は「通い婚」。で、待ってる間は妄想。愛を伝えるときは和歌に託す。しかもあの時代の人って、やたら熱い恋文に対しても巧みな比喩で「しれっ」と返したりするでしょう?比喩に対して比喩で返すそのもどかしさを想像するだけで、まどろっこしいもの好きの私は、軽く身悶えする。



かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを −藤原実方−

(こんなに思っていると言えないのだから、あなたは知らない。この燃えるような思いを。)



こういう歌を「しれっ」と作って贈ってみたい。

私はアホだ。

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備忘。

●煮込み醤油うどん

鶏もも肉、長ネギ、しいたけ、みつば、たまご、
揚げボール、油揚げ、うどん玉

ダシ(ダシの素)を入れた後、ちょっと煮て、醤油投入!
…したのはいいのだが、本日は少し薄かった。
「ドボ、ドボ、ドボ」だと足りないようだ。
「ドボ、ドボ、ドボ、ドボッ!」くらいでいいのかもしれない。

しかしなあ、その日の具材の水分量によるしなあ。
そもそも最初に鍋に入れる水の量が適当だしなあ。
料理って、難しい。

でもこれなら簡単かつ場所をとらないから、混沌と化した部屋でも作れそうだ。


●魚を焼いた後、油が残らない裏技

「伊東家の食卓」なんて普段全然観ないのだが。

油の出る青魚を焼くとき、みかんの皮(魚三匹に対して約二個分)を水の中に浸しておくと、焼いた後「キュッ、キュッ!」と音が出るほど綺麗に油がとれるらしい。更にみかんの皮を冷凍保存しておけば、一年中使えるそうだ。

スゴイ!!この裏技スゴイ!!大興奮につき、思わず備忘。

家事をするようになって身にしみる「伊東家の食卓」の偉大さ。
本も出てるらしい。買おうかな。(←超真剣に検討中。)
ある情報によると、元カレはかなり傷ついているらしい。

「あなた無しでは生きていけない。」と泣いてすがりついた女が、僅か二ヶ月かそこらで新しく好きな男を作ってしまったのだから、無理もない。ここだけ切り取ると、まるで私が「悪者」である。

今日、洗濯をしながら考えた。父のパンツを干しながら考えた。

最近私に相談してくる女のコたちの話を聞いていると、結構ヒドイ仕打ちをしている。彼女らは「悪者」なのだろうか?"一所懸命考えて"、それでやむなくヒドイことをしているだけなのに?しかし私は気付いたのだが、この世に芯からの「悪者」なんていないんだよね。「悪者」というと、RPGのラスボスのような生まれつき性悪の何かみたいだが、そんなのはどこにもいない。

私が元カレにヒドイ方法でフラれたとき。彼のしたヒドイ仕打ちだけを取り出すと、皆、カレを「悪者」だと罵った。私はどん底の状態から立ち直るまで本当に大変だったけど、その間は"自分のことだけを考えて"、結果、今は幸せである。しかし、その"自らが幸せになるための努力"を行った私は、今度は元カレにとって「悪者」と見えても仕方ないのだろう。

そう考えると、夏に私をフッた元カレのヒドイ仕打ちも、"自ら(元カレ)が幸せになるための努力"だったと考えるべきだろう。カレは「悪者」だ。そして、私もだ。

私に相談してくる女のコたちに言いたいのは、「悪者」になろうとせずになんとかしようなどと考えちゃダメ、ということだ。自分が「悪者」であること、つまり"自らが幸せになるための努力"をすることは悪いのだということを、認識してほしいのだ。それでもみんな幸せになりたいから、自らの幸せのために本当にヒドイやり方で人を傷つける。でも、そういうものなの。一番良くないのは、自分を正当化すること。もちろん傷を最低限浅くしてあげる努力はすべきだけど、傷を負わせないことなんて不可能なんだから。善人ぶっても既に無理なのだ。

だから、今大学構内で元カレに会っても、「私はとっても幸せよ。」と天使のような(自分で書いちゃった)満面の笑みで言ってやらねばと思っている。そして、カレが悲しそうな顔をもししたとしても、「ごめん。」などと絶対に言うものかと思っている。「ごめん。」ってなんだろうと思うから。私は一所懸命"自らが幸せになるための努力"をしただけなのだから、謝る必要なんてないはずだ。謝ることはつまり、申し訳なさを伝えることにより「自分は悪いと思ってるから許してね。」と正当化することじゃないか。それは、してはいけないこと。

私は「悪者」だろうか。うーん、やっぱり「悪者」だね。でもその代わり、カレのことも「悪者」と罵ることはしない。お互い、悪者同士、別々の地獄で別々の幸せを見つけましょう、と肩でも叩いてやるくらいだ。

父(単身赴任中)が帰省すると、一気に洗濯物が増える。フッた・フラれた男の思い出を整理することは、洗濯物を干すことに似ているなと思った。どう干してもいつかは乾くのだが、なるべくなら早く、しわがつかないように干してあげたい。そしてコインランドリーに行かなきゃいけないほど溜め込んでもいけない。

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備忘。

●鯖の味噌煮

料理教室にて。本日のメインディシュは鯖。

魚の煮付けといえば「落とし蓋」と思っていたが、鯖のような青魚は臭みが強いので、蓋をしないで煮た方が臭みが抜けて良いらしい。なるほど!

さらに一緒に煮るショウガも、皮と身の間に臭み消しの成分があるので皮を剥かずにスライスすべき、と。ネギは上から押して繊維を壊してからの方が良い、と。なるほど!!

さらにさらに、ひっくり返すと身がボロボロになるので、盛りつけるときの状態(つまり青い方を上)のまま煮て、煮汁はおたまで上からかけろ、と。どうしても身を壊したくなければ、切り身の場合特に最初に洗ってはいけない。お湯でサッと霜降りにしろ、と。なるほど!!!


●大前誠司・編著『入試評論分読解のキーワード300』(明治書院)

がっつり読んでいるというわけではないのだが。
大学受験の際に、現代文対策で使っていたもの。

実はこの本が、今、役立っている。卒論用の文献だけではなく、たとえば新書を読むときなど、曖昧にしていた単語を理解すると途端に生き生きと読めるようになってくる。

「観念」と「概念」の違いとかね。「デカルト二元論」とか。世界が「心」と「もの」の二つの要素でできていると考える(私たちにとっては当たり前)この二元論は、実は近代以降の考え方とわかったり。当時(18歳の頃)は難しく思われた各キーワードも、今になってみるとまた違う見方で読めて面白い。
「正論」を言っても、人の心を打つわけでもないし、自分にとってためになるわけでもない。

たとえ「正論」でなくても、それこそ穴だらけの理論であっても、「穴」を糾弾されることを恐れていては、それは意見たり得ない。議論の場で、Aさんが「俺は神はいると思う。」と穴だらけの論を語り、それに対してBさんが「俺は神はいないと思う。」とこれまた穴だらけの論を語ったとする。で、やはりどっちも「穴」はあるわけだよ。それに対してCさんが「神はいるかもしれない。でも、いないかもしれない。」と言うだけだったら、Cさんはいてもいなくても同じなのである。

たしかにCさんは、「穴」のある論を展開していない点で、AさんよりもBさんよりも評価できる。しかし、その状態では、誰の批判も受けないだろうが、同時に誰の賛成も得られないのである。そして、その「穴を恐れる態度」がCさん自身に何かイイ影響を及ぼすかといえば、多分何も無い。

うまく言えないけど、「穴」を恐れずにいわゆる"バカ"になる必要性を、最近ひしひしと感じている。魅力的な大人とは、いわゆる「正論」を言える人ではない。「穴」のある自分だけの理論を確立し、たとえ批判されてもその批判に誠実になれる人(これが一番難しいね)。そしてその「穴」だらけの理論でも受け入れてくれる人を見つけて大事にできる人。それが「素敵な大人」なのではないかな。



ところで、私はどうして「素敵な大人」になりたいのだろう。

日記を読み返すと、自分がやたら「素敵な大人」にこだわっていることがわかる。そもそもタイトルが「素敵なOLへの道」だった。ひとつひとつに答えを求めすぎてもアレだから、まあこの疑問は放置しておこうと思うけど、私はやはり「素敵な大人」になりたい。

とりあえず、今(厳密な意味で、「今」)はこういう理由。

やはり私は「あの人」に近づきたいのだね。ただ、いくら背伸びをしたところで、所詮それは背伸びでしかないから。だから、背伸びを強いるような「大人っぽさ」を持つ人とは一緒にいたくない。背をかがめて私と目線を合わせてくれて、私が「同じ目線で話している」と思ってるうちに、徐々に徐々にかがめた姿勢を元に戻していってくれる。だから、私は自分が大きくなっていることに気付かない。そして、いつまでも「あの人」に追いつきたいと思っているはず。

そういう「あの人」が、私の周りに増えてきました。

「素敵な大人なんて全然いない!」と思っていた頃より、何人かは見つけられるようになった分、私もちょっとは「素敵」になったのかもしれないね。

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昨日の備忘。

●『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(監督:ベルナルド・ベルトルッチ 1973年)

レンタルビデオ屋にて。
「何にしよっか?」と散々迷った挙げ句、これをチョイス。

イタリアでは公開中止になったほどの問題作らしく(観た後に知ったぞ…。)、またこの監督というのが、連れによると「愛の巨匠」だそうで。どうせいやらしいんだろうなーと思って観たら、本当にいやらしかった。

いやらしいシーンはともかくとして。パリの街並みや、汚いアパルトマンや、バスルームや、ホテルの階段でさえも、とにかくどのシーンも切り取って一枚の絵にできるほどに美しい。少女が父親から離れる"通過儀礼"を描いたのだろうけど、そういう難しい主題を忘れて、ぼんやり観ていたい作品だなと思った。(実際、ぼんやり観ていた連れは寝ていた。)

一番印象的だったのが、ラスト。ジャンヌがポールに追われるところ。骨董エレベーターで逃げるジャンヌと、螺旋階段を上って追いかけるポールを捉えたカメラワークは、(私は素人ですが)スゴイの一言。もちろんそれ以外もスゴイ。特にバターを使ったプレ…(省略。)私はバカなコメディとかベタなラブロマンスが好きなので、面白いとは言えなかったけど、イイ作品だと思う。


●最近のBGM

トラヴィスの『12メモリーズ』から。
2曲目の「The Beautiful Occupation」と、8曲目の「Love Will Come Through」がお気に入り。

このグループ、大昔の人たちかと思ったら、97年にデビューしたばかりらしい。99年に一躍UKを代表するバンドになったと。ふむ。チェケ。

先日、映画を観に行ったときに「こういうロックが聴きたい。」と言ったら、貸してくれた。一人で生きていたら絶対に買わないCD。J-POP以外にも精通している人って、それなりに裕福(心も懐も)だと思うのだが、どうだろう。私の場合、ジャケ買いとかあり得ないし、アンテナを張ることすら今までできなかった。世の中には、なんてたくさんの音楽があるのだろう。ワクワクする。

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