We were bone to
2005年10月28日ヘレン・E・フィッシャーの『結婚の起源-女と男の関係の人類学-』(どうぶつ社)読了。
初めて知ったことは多かった。しかし、著者がこの本を通じておそらく言いたかったこと(データや仮定ではなく、著者自らの意見)を、私はかなり昔から考えていたように思う。
人間がそもそもどうして"つがう"ようになったのか。それは様々な環境の変化により、「メスが自力で子どもを育てられなくなったこと」に端を発する。性の契約を結んだ夫婦は、規則的なセックス(動物の中で、人間のメスだけが常にセックスができる。)によってその絆を強め、オスはメスの子どもを守るようになる。
では、メスが自力で子どもを育てられるようになれば、"つがい"関係は必要ないということか。おそらく、そうだろう。片親で子どもを養育することが経済的に可能な現代、もはや子どもの生存という点に関しては必要でなくなっているのだ。それでも、"つがう"ということは無くならないと、著者は語る。私もそう思う。なんとなく。
"つがう"ということは、人間の心の奥深くに刻み込まれているのだ。若者は自然につがうことを覚えるし、それを望む。子どもを作ろうという意志が無くてもつがうし、同棲をする二人もつがうし、子どもを作る時期がとうに過ぎた年輩の男女もつがう。人類が祖先から受け継いできた生得的な行動は、今(現代)も決して失われていない。今でも私たちは、類人猿がするように握手をし、肩を軽く叩き、キスをし、抱き合って親愛の情を表現する。身振りや表情で自分の気持ちを相手に伝えようとするし、相手のエリに糸くずを見つけると、毛づくろいでもするかのように指先でつまみとってやる。
私は、しばしば自分を「動物的なのでは?」と思っていたが、人類の祖先(プロトホミニド)の記憶を、ほかの人より強く残しているのだ。私は、誰かとつがいたい。それは、現代の基準でいえば、ちょっと傾向として強いのかもしれないね。
それでも皆は、私を「恋愛至上主義」とか「男好き」と罵る?人類学者や歴史家は長い間、原始人の狩猟採集生活を「苦しい生活」、「絶え間ない食物探索」などと表現していたけど、当時は今よりもっと豊かだったのではないかな。昔の一週間の労働時間は、本当に短かった(一週間に一回しか狩りをしないこともあった)。皆で必要な分働いた後、昼寝をし、おしゃべりをし、ゲームをし、食べ、歌い、踊り、儀式を行い、祭りを楽しむのだ。
随分昔から、ぼんやり考え続けてきたのだが。
私は、好きな人を見つけて、その人と一緒に食べていくものをなんとか確保して、一緒に「おいしいね。」と言い合って暮らしたい。ほんのちょっとこだわる部分を見つけて、それに関してはちょっとだけ奮発して、一緒に楽しみたい。たとえば、二人して美味しいお酒が好きだったら、たまにはそういうものを飲んだり。料理を覚えて、家でしかできない温かいメニューやお菓子を食べてもらいたい。贅沢はできなくてもいいから、限られたお金の中から本を買って読み合って、たまには映画やお芝居を観に行って、感想を言い合いたい。空いた時間は歌を歌おう。一緒にいる間(労働以外の時間)は、互いの心の中をさぐって交感し合いたい。旅行に行けなくても、そうすることで「ここではないどこか」へ行けるから。いつまでも(それこそ私の両親のように)キスをしたり抱き合ったりしていたい。
それが、"つがう"ということなのだろうか。もしそうなら、私は「結婚」できなくても仕方ないとは思うけど、"つがう"ことは諦めたくないな。
私のこの思いをきちんと受けとめてくれる人がもしもいるなら、私はこの世に生まれて、「メス」に生まれて、これほど幸せなことはないのだけど。
--------------------------------------------------------
本文が超長いにも関わらず、備忘。
●アーティスティックな夜
音大の院に通う友人と、クラシック鑑賞。
(某ホールにて、ヴィオラ・リサイタル。)
仕事のため来られなくなった人が一名。
弦の生演奏を聴いて、改めて思ったこと。
音というのはどこから鳴っているのだろう?友人の解説によると、ヴァイオリンやヴィオラは表の弦から音が出ているのではなく、木の中で反響したものを私たちが「音色」として聴いているのだそうだ。わかったような、わからないような。
理屈ではもちろんわかる。音はあの「茶色い木の物体」から出ているのだ。でも、指を切ったら血が流れるから、血はポイントとしての「傷口」から出ているとわかるけど、音って不思議である。ポイントとして、どこから鳴っているのだろう?
野暮な疑問かもしれないけど。
●本日のお食事
コンサート終了後、会社から脱出した人と合流し、三人で飲む。
「オヤジ。酒をくれ。」と言いたくなるような居酒屋にて。
生ビール×2。その後黒ビールを注文して、ハーフ&ハーフ。本日も焼き鳥を誰よりも多く食べてしまった(あまり反省が生かされていない)。
今後の教訓として。お座敷とわかっているときは、ブーツを控えよう。着脱はスムーズに!人の上着をハンガーにかけてあげる位の余裕を作るためにも。
初めて知ったことは多かった。しかし、著者がこの本を通じておそらく言いたかったこと(データや仮定ではなく、著者自らの意見)を、私はかなり昔から考えていたように思う。
人間がそもそもどうして"つがう"ようになったのか。それは様々な環境の変化により、「メスが自力で子どもを育てられなくなったこと」に端を発する。性の契約を結んだ夫婦は、規則的なセックス(動物の中で、人間のメスだけが常にセックスができる。)によってその絆を強め、オスはメスの子どもを守るようになる。
では、メスが自力で子どもを育てられるようになれば、"つがい"関係は必要ないということか。おそらく、そうだろう。片親で子どもを養育することが経済的に可能な現代、もはや子どもの生存という点に関しては必要でなくなっているのだ。それでも、"つがう"ということは無くならないと、著者は語る。私もそう思う。なんとなく。
"つがう"ということは、人間の心の奥深くに刻み込まれているのだ。若者は自然につがうことを覚えるし、それを望む。子どもを作ろうという意志が無くてもつがうし、同棲をする二人もつがうし、子どもを作る時期がとうに過ぎた年輩の男女もつがう。人類が祖先から受け継いできた生得的な行動は、今(現代)も決して失われていない。今でも私たちは、類人猿がするように握手をし、肩を軽く叩き、キスをし、抱き合って親愛の情を表現する。身振りや表情で自分の気持ちを相手に伝えようとするし、相手のエリに糸くずを見つけると、毛づくろいでもするかのように指先でつまみとってやる。
私は、しばしば自分を「動物的なのでは?」と思っていたが、人類の祖先(プロトホミニド)の記憶を、ほかの人より強く残しているのだ。私は、誰かとつがいたい。それは、現代の基準でいえば、ちょっと傾向として強いのかもしれないね。
それでも皆は、私を「恋愛至上主義」とか「男好き」と罵る?人類学者や歴史家は長い間、原始人の狩猟採集生活を「苦しい生活」、「絶え間ない食物探索」などと表現していたけど、当時は今よりもっと豊かだったのではないかな。昔の一週間の労働時間は、本当に短かった(一週間に一回しか狩りをしないこともあった)。皆で必要な分働いた後、昼寝をし、おしゃべりをし、ゲームをし、食べ、歌い、踊り、儀式を行い、祭りを楽しむのだ。
随分昔から、ぼんやり考え続けてきたのだが。
私は、好きな人を見つけて、その人と一緒に食べていくものをなんとか確保して、一緒に「おいしいね。」と言い合って暮らしたい。ほんのちょっとこだわる部分を見つけて、それに関してはちょっとだけ奮発して、一緒に楽しみたい。たとえば、二人して美味しいお酒が好きだったら、たまにはそういうものを飲んだり。料理を覚えて、家でしかできない温かいメニューやお菓子を食べてもらいたい。贅沢はできなくてもいいから、限られたお金の中から本を買って読み合って、たまには映画やお芝居を観に行って、感想を言い合いたい。空いた時間は歌を歌おう。一緒にいる間(労働以外の時間)は、互いの心の中をさぐって交感し合いたい。旅行に行けなくても、そうすることで「ここではないどこか」へ行けるから。いつまでも(それこそ私の両親のように)キスをしたり抱き合ったりしていたい。
それが、"つがう"ということなのだろうか。もしそうなら、私は「結婚」できなくても仕方ないとは思うけど、"つがう"ことは諦めたくないな。
私のこの思いをきちんと受けとめてくれる人がもしもいるなら、私はこの世に生まれて、「メス」に生まれて、これほど幸せなことはないのだけど。
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本文が超長いにも関わらず、備忘。
●アーティスティックな夜
音大の院に通う友人と、クラシック鑑賞。
(某ホールにて、ヴィオラ・リサイタル。)
仕事のため来られなくなった人が一名。
弦の生演奏を聴いて、改めて思ったこと。
音というのはどこから鳴っているのだろう?友人の解説によると、ヴァイオリンやヴィオラは表の弦から音が出ているのではなく、木の中で反響したものを私たちが「音色」として聴いているのだそうだ。わかったような、わからないような。
理屈ではもちろんわかる。音はあの「茶色い木の物体」から出ているのだ。でも、指を切ったら血が流れるから、血はポイントとしての「傷口」から出ているとわかるけど、音って不思議である。ポイントとして、どこから鳴っているのだろう?
野暮な疑問かもしれないけど。
●本日のお食事
コンサート終了後、会社から脱出した人と合流し、三人で飲む。
「オヤジ。酒をくれ。」と言いたくなるような居酒屋にて。
生ビール×2。その後黒ビールを注文して、ハーフ&ハーフ。本日も焼き鳥を誰よりも多く食べてしまった(あまり反省が生かされていない)。
今後の教訓として。お座敷とわかっているときは、ブーツを控えよう。着脱はスムーズに!人の上着をハンガーにかけてあげる位の余裕を作るためにも。
"ホワイト・ラブ"のアフターストーリー
2005年10月27日母と晩酌。
母と私は、似ているようで似てないし、似てないようで似ている。で、酒が入るとようやく「親子」でなくなり、一人の人間同士として話ができたりするのだが、それにしても誠に気が合わない。水と油のようだ。「この俳優いいわね。」なんて滅多に言わないのに、まさにそのタイミングで私が「この俳優の顔は嫌いだな。」と思っていたり、というシンクロニシティに関しては抜群である。
そんな私たちである。が。「ああ、やっぱ親子だな。」と痛感しちゃうところもなくはない。
我が両親は、かれこれ25年以上前にゲレンデで劇的に出会った、小田和正もビックリのカップルだそうで。まさに「あの日、あのとき、あの場所で」だったそうで、その後ゲレンデの雪も溶けよと言わんばかりの情熱的な大恋愛の末に、私は生まれ落ちた。「偶然が偶然を呼んだ出会い」だと母は語る。
もともと、母は「あの日」スキーに行くつもりは無かったと。しかし、インカレの某大学の男の子と知り合いたいと騒ぐ友人と共に、半ば渋々参加したそうな。今考えると、「あの日」スキーに行かなければ父と出会わなかったということは、その友人が「りん生誕」に関してものすごいキーパーソンだったといえる。しかも、スキーに参加した後、父が何かの間違いで母に電話しなかったら(父は相当葛藤したらしい)、やはり「りん生誕」はあり得なかった。
こうひとつひとつ検証していくと、父と母がもんのすごい偶然で出会って、その後も「偶然に見える」ひとつひとつの"必然"に従って、私はようやく生まれたのだ。そう、とにもかくにも("偶然"だろうが"必然"だろうが)私は生まれた。父と母だけのラブ・ストーリーから、私だけの新しいストーリーが23年前に始まったわけだね。
ここからは私の話。私も当然の如く、近い未来を予想しながら最善と思われる選択肢を選んで生きているのだが、ふと過去を思い返すと、「あの日、あのとき、あの場所で」何気なく行動を起こしたことが、今の私にとってものすごい結果をもたらしていることが多々ある。それこそ、私の周りにいる大切な人たちとの出会いは、結構「あの日、あのとき、あの場所で」的だ。大学の入学式でたまたまあのコの側に座らなかったら。たまたまあのとき大学の食堂に行かなかったら。就職活動中にある業界を志望しなかったら。父からセットアップされた専用のパソコンを貰わなかったら。挙げたらキリがない。
(とりあえず、大学入学をひとつの節目として)たまたま最初に出会ったあるコがいて、そのコを大元にして多くの"偶然"が生まれた。そう考えるとあのコの存在はかなり重要だったのだが、そもそもあのコとの出会い自体が、"偶然"なのだ。そして、私の人生はそういう「偶然のあのコ」ばかりでできている。多くの「あのコ」が、私のストーリーに関わったのだ。
ストーリーの大元を知った現段階で、「あの日、あのとき、あの場所」を思い出すと、とてもくすぐったい気分になる。くすぐったいけど、つい「ああ、よかった。」と誰かに教えたくなっちゃうような気持ち。まるで自分がドラマのヒロインになったような、くすぐったい気持ち。そしてくすぐったい気持ちをもって当時を思い出すと、すべてが"偶然"でなく、"必然"だったように思えるのだ。
母も、おそらくそういうくすぐったい気持ちをもてあまして、私に当時のことを語るのだろう。素敵なラブ・ストーリーだと私は素直に思う。彼女のラブ・ストーリーは父と結婚して完結したと本人は思っているのだろうけど、いやいや、そこから発生した私によって、今ここに「続編」ができかけている。もちろん私のストーリーはまだまだ続くし、今が第何話なのかもわからない。でもゲレンデを溶かすような母あっての私だから、しばらくは同じような情熱(ここだけはそっくりである。)を燃やすのだろうな、と。
私も25年後に、缶ビールを片手に、娘(息子)の前で自身のラブ・ストーリーを語るのかな。そのとき「母さん、素敵!」と彼女・彼がはしゃいでしまうような"必然"ができるように、頑張らなくてはいけないな。さて、話に興じる私の側で、照れくさそうに笑うラブ・ストーリーの男主人公は、はたして誰になるのでしょう。(いるのかな?)
-------------------------------------------------------------
備忘。
●地元のスーパーで肌着購入
夕飯の買い物がてら。
おへその上まで包まれるのではないか!?という、「ゆったりショーツ」発見。色はベージュ(というか、ラクダ色)。温かそうだ。激しく欲しい。と思いつつ、庶民に優しい地域密着型スーパーにあるにしては、比較的可愛めのものをチョイス。
早く、おばさんになりたい。
●『きみに読む物語』(監督:ニック・カサヴェテス)
買い物中にDVD発見。
「身分違いの純愛を貫く若き恋人同士の情熱的な愛と彼らの行く末がつづられる。」
うーむ。猛烈に観たくなった。
上映中から気にはしていたのだ。再チェケ。
「ベタなラブロマンスを好む婦女子」になるのが嫌だという気持ちは、なぜか結構昔から強いのだけど、もう無理しなくていいかな。ベタなラブロマンスが好きだよ、あたしゃ。
映画といえば「アクション」だという父親の影響で、小さい頃から本来趣味じゃないものを見せられ続けたせいで、映画が嫌いになってしまったのだろうか。この際、本来の自分に立ち返ろう。無理せずに。武士じゃないんだから。(女のくせに、よくわからない武士道精神が強くて困る。)
●オーディエンスの一員(かなり最前列)であることを認めつつ、声援を送ることも無視することもできないワタシ(ひとりごと)。
母と私は、似ているようで似てないし、似てないようで似ている。で、酒が入るとようやく「親子」でなくなり、一人の人間同士として話ができたりするのだが、それにしても誠に気が合わない。水と油のようだ。「この俳優いいわね。」なんて滅多に言わないのに、まさにそのタイミングで私が「この俳優の顔は嫌いだな。」と思っていたり、というシンクロニシティに関しては抜群である。
そんな私たちである。が。「ああ、やっぱ親子だな。」と痛感しちゃうところもなくはない。
我が両親は、かれこれ25年以上前にゲレンデで劇的に出会った、小田和正もビックリのカップルだそうで。まさに「あの日、あのとき、あの場所で」だったそうで、その後ゲレンデの雪も溶けよと言わんばかりの情熱的な大恋愛の末に、私は生まれ落ちた。「偶然が偶然を呼んだ出会い」だと母は語る。
もともと、母は「あの日」スキーに行くつもりは無かったと。しかし、インカレの某大学の男の子と知り合いたいと騒ぐ友人と共に、半ば渋々参加したそうな。今考えると、「あの日」スキーに行かなければ父と出会わなかったということは、その友人が「りん生誕」に関してものすごいキーパーソンだったといえる。しかも、スキーに参加した後、父が何かの間違いで母に電話しなかったら(父は相当葛藤したらしい)、やはり「りん生誕」はあり得なかった。
こうひとつひとつ検証していくと、父と母がもんのすごい偶然で出会って、その後も「偶然に見える」ひとつひとつの"必然"に従って、私はようやく生まれたのだ。そう、とにもかくにも("偶然"だろうが"必然"だろうが)私は生まれた。父と母だけのラブ・ストーリーから、私だけの新しいストーリーが23年前に始まったわけだね。
ここからは私の話。私も当然の如く、近い未来を予想しながら最善と思われる選択肢を選んで生きているのだが、ふと過去を思い返すと、「あの日、あのとき、あの場所で」何気なく行動を起こしたことが、今の私にとってものすごい結果をもたらしていることが多々ある。それこそ、私の周りにいる大切な人たちとの出会いは、結構「あの日、あのとき、あの場所で」的だ。大学の入学式でたまたまあのコの側に座らなかったら。たまたまあのとき大学の食堂に行かなかったら。就職活動中にある業界を志望しなかったら。父からセットアップされた専用のパソコンを貰わなかったら。挙げたらキリがない。
(とりあえず、大学入学をひとつの節目として)たまたま最初に出会ったあるコがいて、そのコを大元にして多くの"偶然"が生まれた。そう考えるとあのコの存在はかなり重要だったのだが、そもそもあのコとの出会い自体が、"偶然"なのだ。そして、私の人生はそういう「偶然のあのコ」ばかりでできている。多くの「あのコ」が、私のストーリーに関わったのだ。
ストーリーの大元を知った現段階で、「あの日、あのとき、あの場所」を思い出すと、とてもくすぐったい気分になる。くすぐったいけど、つい「ああ、よかった。」と誰かに教えたくなっちゃうような気持ち。まるで自分がドラマのヒロインになったような、くすぐったい気持ち。そしてくすぐったい気持ちをもって当時を思い出すと、すべてが"偶然"でなく、"必然"だったように思えるのだ。
母も、おそらくそういうくすぐったい気持ちをもてあまして、私に当時のことを語るのだろう。素敵なラブ・ストーリーだと私は素直に思う。彼女のラブ・ストーリーは父と結婚して完結したと本人は思っているのだろうけど、いやいや、そこから発生した私によって、今ここに「続編」ができかけている。もちろん私のストーリーはまだまだ続くし、今が第何話なのかもわからない。でもゲレンデを溶かすような母あっての私だから、しばらくは同じような情熱(ここだけはそっくりである。)を燃やすのだろうな、と。
私も25年後に、缶ビールを片手に、娘(息子)の前で自身のラブ・ストーリーを語るのかな。そのとき「母さん、素敵!」と彼女・彼がはしゃいでしまうような"必然"ができるように、頑張らなくてはいけないな。さて、話に興じる私の側で、照れくさそうに笑うラブ・ストーリーの男主人公は、はたして誰になるのでしょう。(いるのかな?)
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備忘。
●地元のスーパーで肌着購入
夕飯の買い物がてら。
おへその上まで包まれるのではないか!?という、「ゆったりショーツ」発見。色はベージュ(というか、ラクダ色)。温かそうだ。激しく欲しい。と思いつつ、庶民に優しい地域密着型スーパーにあるにしては、比較的可愛めのものをチョイス。
早く、おばさんになりたい。
●『きみに読む物語』(監督:ニック・カサヴェテス)
買い物中にDVD発見。
「身分違いの純愛を貫く若き恋人同士の情熱的な愛と彼らの行く末がつづられる。」
うーむ。猛烈に観たくなった。
上映中から気にはしていたのだ。再チェケ。
「ベタなラブロマンスを好む婦女子」になるのが嫌だという気持ちは、なぜか結構昔から強いのだけど、もう無理しなくていいかな。ベタなラブロマンスが好きだよ、あたしゃ。
映画といえば「アクション」だという父親の影響で、小さい頃から本来趣味じゃないものを見せられ続けたせいで、映画が嫌いになってしまったのだろうか。この際、本来の自分に立ち返ろう。無理せずに。武士じゃないんだから。(女のくせに、よくわからない武士道精神が強くて困る。)
●オーディエンスの一員(かなり最前列)であることを認めつつ、声援を送ることも無視することもできないワタシ(ひとりごと)。
志学の秋
2005年10月25日吾十有五にして学に志す。by孔子
とは言うものの。孔子さんに倣うなら、私の場合、「吾二十三にして学に志す。」といったところか。遅いと思う。我ながら。
卒業に必要な単位は既に取得した。が、色々と事情があって四年後期も授業に出ている。「やってられねー。」と言いたいところではあるが、最近ようやく"学生"らしい精神が芽生えてきたようだ。大学一年の頃から今のような気持ちで世の中を見ていたら、さぞ楽しい学生生活が送れていただろうに…とも思うが、大抵の人は何かが過ぎ行く頃にそのものの良さに気づくそうなので、まあこれも世の常だと思おう。
というわけで、本日は"学生"らしく、勉学に勤しんだ。
ノートの取り方も変わったな。板書を丸写ししてどーする。そして、綺麗に書いてどーする。(単に面倒くさがりになっただけ?)
陽の下で一人ランチ(ミックスサンドイッチ&野菜ジュース)を楽しみながら、読書。周りにはサークルの学生たちが大勢いて大分邪魔ではあったが、そういえば一年の頃、一人でお昼を食べるのが嫌で、二限が終わった瞬間に携帯の「大学の友達」に片っ端から電話していたが、そういうとき、ベンチを一人で占領しているお姉さんが静かに何かを食べているのを見て、「孤独ね。友達いないのかしら。」と思ったことがある。
今日、周りのサークル学生(たぶん、テニスかスノボ。派手だったから。)から「孤独ね。友達いないのかしら。」と思われていただろうか。でも歳をとるということは、孤独になり友達がいなくなることではないかな。でも同時に、歳をとるということは、孤独でなくなり友達ができることだとも思う。「なんだそりゃ。結局どっちなんじゃ!」と自分ツッコミをしながら、小春日和の本日は過ぎ行く。
(大学に来ると、ほぼ確実に感傷的になっていかん。)
-----------------------------------------------------------
備忘というか、メモ。
●素敵な目覚め方
どうにも宵っ張りな私。最近、画期的な起床法を開発中。
起きた瞬間、枕元のラジカセ(コンポではない)をON。
朝一でノリノリなロック(朝に似つかわしいクラシックではない)を聴きつつ、起きて早々PCをチェック。こうすると、絶対起きれる。イイ。
今朝は、北出菜奈の『18-eighteen-』から、
一曲目の「KISS or KISS」をエンドレスリピート。
それにしても、"KISS or KISS"ってタイトルは秀逸というかなんちゅうか。
「キスしかない…!!」って、相当切羽詰まってるよな。
人のこといえないけど。
●ヘレン・E・フィッシャーの『結婚の起源-女と男の関係の人類学-』
今、コレを読んでいる。
如何にも私が読みそうなタイトルではあるが、如何にも読んでいる。
文化人類学の観点は私の卒業論文にも必要なので、その関連で。
そもそも、私たちの祖先である「メス」は、男性の力を借りずに、自分の力だけで子どもを育てていたのである。それが、大体1400万年位前までの話。その頃は、豊富な雨の恩恵を受けた密林が覆い尽くしていたから。どこでも食べ物があったから。「メス」は自分と子どもが食べるだけの食物を、自力で確保できた。
でも段々と気候が変化した。何百万年も経つうちに、温暖な気候は徐々に失われ雨期と乾期ができ、乾期には密林の食べ物は減少する。サバンナが出現し、「メス」も「オス」も食べ物を探しに遠出しなければいけなくなった。サバンナは危険だ。外敵から身を守るために、サルたちは二足歩行を覚え、それが「性の革命」を起こした。二足歩行に適応した体つきになったのはいいのだが、骨盤が変型して出産が難しくなった。そのため、私たちの祖先は「早産」をするようになったのである。
「早産」をするようになると、子どもがなかなか大きくならないので、「メス」は狩りに行けなくなる。ということは…「オス」と契約を結ばざるを得なくなる。「オス」に取り入るために、「メス」はいつでも(発情期でなくても)セックスできるように進化していく…。
…。
う、うわー!!
そうだったのかーーー!!!!!
目から百万個ほどウロコをボロボロボロボロ落としながら、某ターミナル駅で涙ぐむほど感銘を受けてしまった(別に感動系の本ではないのだが)。この本を知るきっかけとなった某日記の作者のお姉さんと、そのご友人に深く感謝したい。
しかし。まだ中盤だが、疑問も多々あるな。
早く読み切らねば。
とは言うものの。孔子さんに倣うなら、私の場合、「吾二十三にして学に志す。」といったところか。遅いと思う。我ながら。
卒業に必要な単位は既に取得した。が、色々と事情があって四年後期も授業に出ている。「やってられねー。」と言いたいところではあるが、最近ようやく"学生"らしい精神が芽生えてきたようだ。大学一年の頃から今のような気持ちで世の中を見ていたら、さぞ楽しい学生生活が送れていただろうに…とも思うが、大抵の人は何かが過ぎ行く頃にそのものの良さに気づくそうなので、まあこれも世の常だと思おう。
というわけで、本日は"学生"らしく、勉学に勤しんだ。
ノートの取り方も変わったな。板書を丸写ししてどーする。そして、綺麗に書いてどーする。(単に面倒くさがりになっただけ?)
陽の下で一人ランチ(ミックスサンドイッチ&野菜ジュース)を楽しみながら、読書。周りにはサークルの学生たちが大勢いて大分邪魔ではあったが、そういえば一年の頃、一人でお昼を食べるのが嫌で、二限が終わった瞬間に携帯の「大学の友達」に片っ端から電話していたが、そういうとき、ベンチを一人で占領しているお姉さんが静かに何かを食べているのを見て、「孤独ね。友達いないのかしら。」と思ったことがある。
今日、周りのサークル学生(たぶん、テニスかスノボ。派手だったから。)から「孤独ね。友達いないのかしら。」と思われていただろうか。でも歳をとるということは、孤独になり友達がいなくなることではないかな。でも同時に、歳をとるということは、孤独でなくなり友達ができることだとも思う。「なんだそりゃ。結局どっちなんじゃ!」と自分ツッコミをしながら、小春日和の本日は過ぎ行く。
(大学に来ると、ほぼ確実に感傷的になっていかん。)
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備忘というか、メモ。
●素敵な目覚め方
どうにも宵っ張りな私。最近、画期的な起床法を開発中。
起きた瞬間、枕元のラジカセ(コンポではない)をON。
朝一でノリノリなロック(朝に似つかわしいクラシックではない)を聴きつつ、起きて早々PCをチェック。こうすると、絶対起きれる。イイ。
今朝は、北出菜奈の『18-eighteen-』から、
一曲目の「KISS or KISS」をエンドレスリピート。
それにしても、"KISS or KISS"ってタイトルは秀逸というかなんちゅうか。
「キスしかない…!!」って、相当切羽詰まってるよな。
人のこといえないけど。
●ヘレン・E・フィッシャーの『結婚の起源-女と男の関係の人類学-』
今、コレを読んでいる。
如何にも私が読みそうなタイトルではあるが、如何にも読んでいる。
文化人類学の観点は私の卒業論文にも必要なので、その関連で。
そもそも、私たちの祖先である「メス」は、男性の力を借りずに、自分の力だけで子どもを育てていたのである。それが、大体1400万年位前までの話。その頃は、豊富な雨の恩恵を受けた密林が覆い尽くしていたから。どこでも食べ物があったから。「メス」は自分と子どもが食べるだけの食物を、自力で確保できた。
でも段々と気候が変化した。何百万年も経つうちに、温暖な気候は徐々に失われ雨期と乾期ができ、乾期には密林の食べ物は減少する。サバンナが出現し、「メス」も「オス」も食べ物を探しに遠出しなければいけなくなった。サバンナは危険だ。外敵から身を守るために、サルたちは二足歩行を覚え、それが「性の革命」を起こした。二足歩行に適応した体つきになったのはいいのだが、骨盤が変型して出産が難しくなった。そのため、私たちの祖先は「早産」をするようになったのである。
「早産」をするようになると、子どもがなかなか大きくならないので、「メス」は狩りに行けなくなる。ということは…「オス」と契約を結ばざるを得なくなる。「オス」に取り入るために、「メス」はいつでも(発情期でなくても)セックスできるように進化していく…。
…。
う、うわー!!
そうだったのかーーー!!!!!
目から百万個ほどウロコをボロボロボロボロ落としながら、某ターミナル駅で涙ぐむほど感銘を受けてしまった(別に感動系の本ではないのだが)。この本を知るきっかけとなった某日記の作者のお姉さんと、そのご友人に深く感謝したい。
しかし。まだ中盤だが、疑問も多々あるな。
早く読み切らねば。
解放の気配がする
2005年10月24日ごくごく控えめに書かせていただくが、ディズニーランドがちょっとばかし嫌いである。
特に、男性とサシでランドに行くとか、私の中では本当にあり得ない。「嫌だ」ではなく、「できない」のだ。ついでに言うなら、男性とサシでカラオケに行くのも辛い。ゲームセンターに行くのも辛い(プリクラなんて、もってのほかである。いや、昔は撮ってたけどさ)。
これ、実は昔からの悩み。デートが「恥ずかしい」のである。で、なんでなのだろうと考えていたのだが、仮説ではあるけれど理由は判明している。私は多分、「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」が好きになれないのだと思う。その施設で、制作者の意図通りまんまと喜んでいる自分を目の当たりにするのが、「恥ずかしい」のだ。はしゃぐ自分が「恥ずかしい」。興じる自分を、もう一人の冷静な自分が見てしまうのだ。
それでも、自分の恥ずかしさだけならまだなんとかできる。なぜ男性と一緒に行きたくないのかというと、私にとって「はしゃぐべきではない男性」が、そういう施設で私以上にはしゃいでいたらどうしよう、という恐怖があるからだ。それこそ、極上のさわやかスマイルにこれまた極上のさわやかヴォイスで「りん、俺とディズニーランド行こうぜ☆」なんて誘われたら、私は本当に困ってしまう。どうも、多くの男性は私たち女性がおしなべてディズニーランドを愛していると思ってらっしゃるようで、多分その読みは正しい。だが、私に関しては当てはまらないのである。
数多の「ディズニーランド行こうぜ☆」攻撃に対して。銃弾の嵐の中を致命傷を負いながら生還してきたつもりだが(皆さん、本当にすみませんでした…)、この恥ずかしがり性質は、今後なんとかすべきだと心底思う。ディズニーランドだけならかわしようがあるものの、前述の「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」というのは本当に多く、それこそ飲食店のすべては広い意味でこれに該当する。そうなると、本当にどこにも行けないではないか。
私は、システマティックな状況というのが、多分恐い。「こうして、こうして、こう楽しむべき。」と既に決められている状況で、なんらかの事情でそれに乗れない自分たちを想像するのが恐い。
わかりやすい例を出すと、初めて訪れる飲食店に入店した瞬間。リピーターたちがごく自然に楽しんでいる中、自分たちはまず料理の注文方法を考えねばならない。「この店は大皿で一つ頼んで分け合うのか?」とか「コースは一応あるけどアラカルトにするのがツウなのか?」とか、色々考えて結局選択した手段が、いまいちその店のシステムに馴染んでいなかったと判明したとき。ううう…恥ずかしい…。「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」というのは、多くの場合、システマティックなものなのだ。そして、私が頼りにしている男性がシステムに乗れない様を見るのが、多分恥ずかしい。なんとかしてくれ、この性分。
ただね、これは一生直らないのかなーと思ってはいたが、今日(本当に今日)、ハッと気付いたことがあるので、ちょっと聞いてほしい。
たとえば、そういうシステマティックな状況でも、本当の「大人の男性」ならわからないときは店員さんに聞くのである。「これはどういうもんですかね?」なんて、ジェントリーに、自分たちがわからない人たちであることを明かすのだ。何が一番恥ずかしいかって、自分たちがわからないのに無理してわかっているフリをして、結局失敗すること。でも、「なんかよくわからないね。」って素直に同意を求められると、私は恥ずかしくなくなる。
この性質を話すと、「めんどくさい女だな。素直に楽しめよ。」と思われることはわかっているから、23年間内緒にしてきた。人に「恥ずかしがっている自分」を知られるのが怖かった。
でも私は確信しているが、多分、近々色々なことが恥ずかしくなくなると思う。一皮剥けた。たとえシステマティックな状況でも、「ま、とりあえず堂々としてようぜ。楽しめばいいじゃん。ほら、楽しいだろ?」って自然に(ほんとに自然に)思わせてくれる男性が、私を色々なところに連れていってくれるから。そして、私が恥ずかしさをもてあましている状態を、すごく大きな「余裕」で包んでくれているのを感じるから。徐々に免疫ができつつあるの。ほんとだよ。
私は、かつての私から解放されたいとずっと思っていた。この恥ずかしがり性質からも。信じてもらえなくてもいいが、きっと大丈夫だと思う。
んが。しかし。
そうはいっても、ディズニーランドには行けない。うん。最近よく遊びに行く人は、さわやかではあるが「ディズニーランド行こうぜ☆」と自分から言い出すことはまず無いと思われるので、それだけは本当によかったと思う。
さて。来週はどこに行こうか。
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備忘。
●本日、免許更新。
初の更新。
初回の講習は2時間だと聞いて、思わず県警に殺意を抱く。
ニュー免許証の写真は実物より良く撮れていて、大満足。
●俵万智の『あなたと読む恋の歌 百首』(朝日新聞社)読了。
誰も知らないだろうけど、私は短歌好き。俳句じゃなく短歌。
印象に残った歌が何首か。
"唇をよせて言葉を放てどもわたしとあなたはわたしとあなた"(阿木津 英)
"洋服の裏側はどんな宇宙かと脱ぎ捨てられた背広に触れる"(永井陽子)
"一度にわれを咲かせるようにくちづけるベンチに厚き本を落として"(梅内美華子)
"私をジャムにしたならどのような香りが立つかブラウスを脱ぐ"(河野小百合)
…エロい。エロ過ぎる。
官能小説なんて目じゃない大和の楚々としたエロさが、たった三十一文字に凝縮されている。(なんて素晴らしいんだ!)
たまに自分でも「この気持ちをどうしたらいいの?」と持てあまして胸が震える瞬間があるが、短歌や詩を読むと、自分だけのものだと思っていた感覚の多くが、先人たちのなぞらえであるとわかる。
ますます、詩人(歌人)になりたくなった。
特に、男性とサシでランドに行くとか、私の中では本当にあり得ない。「嫌だ」ではなく、「できない」のだ。ついでに言うなら、男性とサシでカラオケに行くのも辛い。ゲームセンターに行くのも辛い(プリクラなんて、もってのほかである。いや、昔は撮ってたけどさ)。
これ、実は昔からの悩み。デートが「恥ずかしい」のである。で、なんでなのだろうと考えていたのだが、仮説ではあるけれど理由は判明している。私は多分、「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」が好きになれないのだと思う。その施設で、制作者の意図通りまんまと喜んでいる自分を目の当たりにするのが、「恥ずかしい」のだ。はしゃぐ自分が「恥ずかしい」。興じる自分を、もう一人の冷静な自分が見てしまうのだ。
それでも、自分の恥ずかしさだけならまだなんとかできる。なぜ男性と一緒に行きたくないのかというと、私にとって「はしゃぐべきではない男性」が、そういう施設で私以上にはしゃいでいたらどうしよう、という恐怖があるからだ。それこそ、極上のさわやかスマイルにこれまた極上のさわやかヴォイスで「りん、俺とディズニーランド行こうぜ☆」なんて誘われたら、私は本当に困ってしまう。どうも、多くの男性は私たち女性がおしなべてディズニーランドを愛していると思ってらっしゃるようで、多分その読みは正しい。だが、私に関しては当てはまらないのである。
数多の「ディズニーランド行こうぜ☆」攻撃に対して。銃弾の嵐の中を致命傷を負いながら生還してきたつもりだが(皆さん、本当にすみませんでした…)、この恥ずかしがり性質は、今後なんとかすべきだと心底思う。ディズニーランドだけならかわしようがあるものの、前述の「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」というのは本当に多く、それこそ飲食店のすべては広い意味でこれに該当する。そうなると、本当にどこにも行けないではないか。
私は、システマティックな状況というのが、多分恐い。「こうして、こうして、こう楽しむべき。」と既に決められている状況で、なんらかの事情でそれに乗れない自分たちを想像するのが恐い。
わかりやすい例を出すと、初めて訪れる飲食店に入店した瞬間。リピーターたちがごく自然に楽しんでいる中、自分たちはまず料理の注文方法を考えねばならない。「この店は大皿で一つ頼んで分け合うのか?」とか「コースは一応あるけどアラカルトにするのがツウなのか?」とか、色々考えて結局選択した手段が、いまいちその店のシステムに馴染んでいなかったと判明したとき。ううう…恥ずかしい…。「明らかに人を喜ばせるために作られた施設」というのは、多くの場合、システマティックなものなのだ。そして、私が頼りにしている男性がシステムに乗れない様を見るのが、多分恥ずかしい。なんとかしてくれ、この性分。
ただね、これは一生直らないのかなーと思ってはいたが、今日(本当に今日)、ハッと気付いたことがあるので、ちょっと聞いてほしい。
たとえば、そういうシステマティックな状況でも、本当の「大人の男性」ならわからないときは店員さんに聞くのである。「これはどういうもんですかね?」なんて、ジェントリーに、自分たちがわからない人たちであることを明かすのだ。何が一番恥ずかしいかって、自分たちがわからないのに無理してわかっているフリをして、結局失敗すること。でも、「なんかよくわからないね。」って素直に同意を求められると、私は恥ずかしくなくなる。
この性質を話すと、「めんどくさい女だな。素直に楽しめよ。」と思われることはわかっているから、23年間内緒にしてきた。人に「恥ずかしがっている自分」を知られるのが怖かった。
でも私は確信しているが、多分、近々色々なことが恥ずかしくなくなると思う。一皮剥けた。たとえシステマティックな状況でも、「ま、とりあえず堂々としてようぜ。楽しめばいいじゃん。ほら、楽しいだろ?」って自然に(ほんとに自然に)思わせてくれる男性が、私を色々なところに連れていってくれるから。そして、私が恥ずかしさをもてあましている状態を、すごく大きな「余裕」で包んでくれているのを感じるから。徐々に免疫ができつつあるの。ほんとだよ。
私は、かつての私から解放されたいとずっと思っていた。この恥ずかしがり性質からも。信じてもらえなくてもいいが、きっと大丈夫だと思う。
んが。しかし。
そうはいっても、ディズニーランドには行けない。うん。最近よく遊びに行く人は、さわやかではあるが「ディズニーランド行こうぜ☆」と自分から言い出すことはまず無いと思われるので、それだけは本当によかったと思う。
さて。来週はどこに行こうか。
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備忘。
●本日、免許更新。
初の更新。
初回の講習は2時間だと聞いて、思わず県警に殺意を抱く。
ニュー免許証の写真は実物より良く撮れていて、大満足。
●俵万智の『あなたと読む恋の歌 百首』(朝日新聞社)読了。
誰も知らないだろうけど、私は短歌好き。俳句じゃなく短歌。
印象に残った歌が何首か。
"唇をよせて言葉を放てどもわたしとあなたはわたしとあなた"(阿木津 英)
"洋服の裏側はどんな宇宙かと脱ぎ捨てられた背広に触れる"(永井陽子)
"一度にわれを咲かせるようにくちづけるベンチに厚き本を落として"(梅内美華子)
"私をジャムにしたならどのような香りが立つかブラウスを脱ぐ"(河野小百合)
…エロい。エロ過ぎる。
官能小説なんて目じゃない大和の楚々としたエロさが、たった三十一文字に凝縮されている。(なんて素晴らしいんだ!)
たまに自分でも「この気持ちをどうしたらいいの?」と持てあまして胸が震える瞬間があるが、短歌や詩を読むと、自分だけのものだと思っていた感覚の多くが、先人たちのなぞらえであるとわかる。
ますます、詩人(歌人)になりたくなった。
Am I ready for?
2005年10月23日読書量、急増中につき。
警戒警報発令。
なんのことだかさっぱりわからないだろうけど。とにかく最近の私はスゴイ勢いで本を読んでいるのだ。卒業論文のための文献がほとんどだが、それ以外のものも時間を見つけてちょこちょこ読んでいる。
私は「超・文系」を公言する割に、高校〜大学前半にかけてほとんど本を読まなかった。恥ずかしい話である。アウトプット(文章を書くこと)が好きなわりに、インプット(文章を読むこと)が嫌いだったようだ。正直、後悔している。発想に弾力性がある若い時期にもっとたくさんの本を読んで、素養を積むべきだった。しかし、「ま、それもアリだったな。」と思っている自分がいたりもする。
自分で言うのもなんちゅうかアレだが、敢えて言う。私は両親から「大器晩成タイプ」だと言われており、事実、同年代のコらより発育が遅かった。ことばを覚えるのも遅かったそうだし、幼稚園でも集団行動ができず泣いてばかりいた。中学に入る頃には皆落ち着いてくるのに、一人だけ小学生のような真似をして友人から批判されていた(らしい。ショック)。高校の頃は、皆が中学のときにとっくに済ませているような"ミーハー"行動全開で、これまた結構迷惑をかけていた(らしい)。
当時、本を読まなかったのも「読めなかった」からではないかな、と思っている。何しろ幼過ぎた。そんな私が最近何を読んでも「ふわぁ〜」と感動してしまうのは、この歳(23)になって、ようやく"人並み"の感受性や理解力を持つようになったからではないのか。
(「それは言い訳ではないか?」という意見が出ることもわかっている。どんな書物でも、その全貌(著者の言いたいこと)を100%理解できるはずがないし、17歳は17歳なりに、60歳は60歳なりに、それぞれの年齢で得るところはあるはずなのだ。)
私は、最近になって「なんか、世の中って面白いかも…」と思うけど、同世代のみんなはもっと昔にそれに気付いて、何かしらの世界を広げていたのではないかな。私が大学入学と同時に恋にとち狂って、即物的なものに最上級の評価を与えていた頃、周りのみんなは静かに本を読んだり映画を観たりして、人生の深い深いところを探る努力をしていたのではないかな。
私は、ようやく彼・彼女らに追いついたと、自惚れではあるが思っている。でも、何しろ猪突猛進型の人生しか経験していない私だから、多くの書物をいきなり読むというのも、良いとは言い切れないのだ。盲信してしまう危険性がある。そして、本を読んで得た知識をあたかも自分が思いついたことのようにひけらかし、発育が遅い友人を論破して「自分は頭がいい。高尚なことをしている。」などと陶酔しないだろうか。もともと理屈っぽい性分なのだから、なおさら。
そういう危険性をちゃんと認識しつつ。私がもし本当に「大器晩成タイプ」なのだとしたら、みんなが一足先に色々なことを積み重ねていた時期に、一人、思いっきり"バカ"をやった。全力で恋をして、全力で失敗して、全力でムダなことに労力を注いだし、全力で即物的な楽しみを満喫した。オタクもやったし、部活命の熱血少女もやったし、芸能人の追っかけもやったし、ギャル(お姉寄りだが)もやったし、ついでに浪人までしたし、とにかく色々"バカ"をやってみた。それは、今後何かをじっくり吸収するときに、決して決して無駄にはならない。むしろ、私は「これから」なのだ。
たくさん本を読んで、たくさんのことを知りたい。でも、理屈でしか世の中を見ることができない"頭でっかち"にもなりたくない。そうなりそうな自分を最近ハッと発見するけれど、そういう時、当時の"バカ"な私が後ろから見ている気がして、私は「ああ、そうよね。」と同意して手を握りたくなる。
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備忘。
●公開ホヤホヤの『ランド・オブ・プレンティ』鑑賞。
なんちゅうか、音楽がイイ。
連れが早速サントラを購入していたので(素敵だ。)、後日借りよう。
どうもこの監督(ヴィム・ヴェンダース)は、作品が公開されると主演俳優よりサウンドを気にするファンがいる位、音楽にコダワリのある人らしい。チェケだな。
内容について。私は楽しめました。面白かったです。
主人公ラナともう一人の主人公ポールがせっかく対照的に設定されているのだから、もう少し(ほんと、もう少し)会話で"魅せる"部分があってもよかったかな、と。自分でもそれと気づかずアメリカの矛盾を語るポールを、信心深いラナが無垢な疑問で指摘する、みたいな。それこそ幻想的な車のシーンで。
映画について語ってしまったよ。オロオロ…
●本日のお食事
某駅ガード下にて、ドイツ料理。
"ドイツ料理を出す店"で、"ドイツ料理"を食べるのは初めて。
ドイツのビールって、苦いものが多いのだろうか。
それにしても、オイルサーディンとビールの組み合わせは、ほんと反則だと思うの。
〆のピラフは、思わず笑顔で「おかわり!」と言いたくなる代物だった。バターのからめ方など、参考にしたい(家で応用できないだろうか)。
また「初めて食べるもの」を食べてしまったよ。
警戒警報発令。
なんのことだかさっぱりわからないだろうけど。とにかく最近の私はスゴイ勢いで本を読んでいるのだ。卒業論文のための文献がほとんどだが、それ以外のものも時間を見つけてちょこちょこ読んでいる。
私は「超・文系」を公言する割に、高校〜大学前半にかけてほとんど本を読まなかった。恥ずかしい話である。アウトプット(文章を書くこと)が好きなわりに、インプット(文章を読むこと)が嫌いだったようだ。正直、後悔している。発想に弾力性がある若い時期にもっとたくさんの本を読んで、素養を積むべきだった。しかし、「ま、それもアリだったな。」と思っている自分がいたりもする。
自分で言うのもなんちゅうかアレだが、敢えて言う。私は両親から「大器晩成タイプ」だと言われており、事実、同年代のコらより発育が遅かった。ことばを覚えるのも遅かったそうだし、幼稚園でも集団行動ができず泣いてばかりいた。中学に入る頃には皆落ち着いてくるのに、一人だけ小学生のような真似をして友人から批判されていた(らしい。ショック)。高校の頃は、皆が中学のときにとっくに済ませているような"ミーハー"行動全開で、これまた結構迷惑をかけていた(らしい)。
当時、本を読まなかったのも「読めなかった」からではないかな、と思っている。何しろ幼過ぎた。そんな私が最近何を読んでも「ふわぁ〜」と感動してしまうのは、この歳(23)になって、ようやく"人並み"の感受性や理解力を持つようになったからではないのか。
(「それは言い訳ではないか?」という意見が出ることもわかっている。どんな書物でも、その全貌(著者の言いたいこと)を100%理解できるはずがないし、17歳は17歳なりに、60歳は60歳なりに、それぞれの年齢で得るところはあるはずなのだ。)
私は、最近になって「なんか、世の中って面白いかも…」と思うけど、同世代のみんなはもっと昔にそれに気付いて、何かしらの世界を広げていたのではないかな。私が大学入学と同時に恋にとち狂って、即物的なものに最上級の評価を与えていた頃、周りのみんなは静かに本を読んだり映画を観たりして、人生の深い深いところを探る努力をしていたのではないかな。
私は、ようやく彼・彼女らに追いついたと、自惚れではあるが思っている。でも、何しろ猪突猛進型の人生しか経験していない私だから、多くの書物をいきなり読むというのも、良いとは言い切れないのだ。盲信してしまう危険性がある。そして、本を読んで得た知識をあたかも自分が思いついたことのようにひけらかし、発育が遅い友人を論破して「自分は頭がいい。高尚なことをしている。」などと陶酔しないだろうか。もともと理屈っぽい性分なのだから、なおさら。
そういう危険性をちゃんと認識しつつ。私がもし本当に「大器晩成タイプ」なのだとしたら、みんなが一足先に色々なことを積み重ねていた時期に、一人、思いっきり"バカ"をやった。全力で恋をして、全力で失敗して、全力でムダなことに労力を注いだし、全力で即物的な楽しみを満喫した。オタクもやったし、部活命の熱血少女もやったし、芸能人の追っかけもやったし、ギャル(お姉寄りだが)もやったし、ついでに浪人までしたし、とにかく色々"バカ"をやってみた。それは、今後何かをじっくり吸収するときに、決して決して無駄にはならない。むしろ、私は「これから」なのだ。
たくさん本を読んで、たくさんのことを知りたい。でも、理屈でしか世の中を見ることができない"頭でっかち"にもなりたくない。そうなりそうな自分を最近ハッと発見するけれど、そういう時、当時の"バカ"な私が後ろから見ている気がして、私は「ああ、そうよね。」と同意して手を握りたくなる。
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備忘。
●公開ホヤホヤの『ランド・オブ・プレンティ』鑑賞。
なんちゅうか、音楽がイイ。
連れが早速サントラを購入していたので(素敵だ。)、後日借りよう。
どうもこの監督(ヴィム・ヴェンダース)は、作品が公開されると主演俳優よりサウンドを気にするファンがいる位、音楽にコダワリのある人らしい。チェケだな。
内容について。私は楽しめました。面白かったです。
主人公ラナともう一人の主人公ポールがせっかく対照的に設定されているのだから、もう少し(ほんと、もう少し)会話で"魅せる"部分があってもよかったかな、と。自分でもそれと気づかずアメリカの矛盾を語るポールを、信心深いラナが無垢な疑問で指摘する、みたいな。それこそ幻想的な車のシーンで。
映画について語ってしまったよ。オロオロ…
●本日のお食事
某駅ガード下にて、ドイツ料理。
"ドイツ料理を出す店"で、"ドイツ料理"を食べるのは初めて。
ドイツのビールって、苦いものが多いのだろうか。
それにしても、オイルサーディンとビールの組み合わせは、ほんと反則だと思うの。
〆のピラフは、思わず笑顔で「おかわり!」と言いたくなる代物だった。バターのからめ方など、参考にしたい(家で応用できないだろうか)。
また「初めて食べるもの」を食べてしまったよ。
食らわば皿まで
2005年10月22日食べ物って、本当に「おいしい」ものだと思う。
何も高い食材でなくていい。夕食に関してなら、私は極端に外食率が低い。だから毎日特に美味しいものを食べているとはいえないが、それでも、最近、食べ物が「おいしい」。
それとも関連するような気がするが、世界がとても美しく見えるのだ。どんよりする内容のテレビニュースでも、噛み砕いて理解しようと努めると、とても「おもしろい」。つまらない卒業論文用の文献も、知らない世界がわかって「たのしい」。眠ろうと思って布団に入ると、これからやってくる安息への期待が高まって、「きもちよい」。外から入ってくるモノたちは、本質的には今までとまったく変わらないのに。それを受信する側の私が、すべてに対してとても敏感になっているのだろうか。
たとえば。たまーに外食をすると、私の食べたことのないような料理がある。飲んだことのないようなお酒がある。(余談だが、私はまだ食べたことのないものが結構ある。)で、何しろ味をよく知らないから食べる前は不安なの。好き嫌いはそんなに無いが、「これは本来あまり好きじゃないな。」とおそらく思うはずの味でも、なんか「おいしい」のだ。うまく説明できる感覚ではない。
そういうとき、私は「おいしー!」としか言えない。くうぅ…と唸ってしまうときもある。だって、「おいしい」から。特に、最近飲むようになった日本酒など、本当に心の底から「おいしい」と思う。なんで今まで飲めなかったのか理由もわからないほど、舌に沁みてじわーっと温かくなって、胃に流れ込む頃には私はとても「しあわせ」な気持ちになる。ワインも同じである。初めて口に入れるものが新鮮で、それで興奮しているとかではない。なぜなら、きっと半年前に同じものを食べても、ここまで「おいしい」とは思わなかったであろう自信があるから。
私は「味わう」ことを知らなかったのだろうか?その食材の本来の美味しさが、仮に85だとするなら、私は今まで40くらいしか味わえてなかったのではないか。理由はわからない。とにかく、今は85のギリギリまで味わえている気がする。たとえ、その食材が18程度で本来あまり美味しいものではなくても、限界の18まで全部味わい尽くせるなら、それで満足なのである。
何を見ても「おいしい」し、「たのしい」し、「きもちいい」のだ。だから、私を取り囲む状況が今までと何も変わらなくても、色々なことを吸収するのにとても忙しくて、毎日目が回りそうなのだ。物事は、ただそこにあるだけでかまわない。新しいものでなくてもいいし、珍しいものでなくてもいい。私がそれらの端々まで舐め尽くせばいいだけの話だ。言語化を忘れて「味わう」喜びというのが、少しわかったような気がする。
10しかないものを捨てて、80のものを求めても仕方ない。たとえ、そのものの本質が10しかなくても、10を10だけ味わおう。得たものの総量ではなく、達成率に限れば、私はきっと今誰よりも世界を美味と思っている。
何も高い食材でなくていい。夕食に関してなら、私は極端に外食率が低い。だから毎日特に美味しいものを食べているとはいえないが、それでも、最近、食べ物が「おいしい」。
それとも関連するような気がするが、世界がとても美しく見えるのだ。どんよりする内容のテレビニュースでも、噛み砕いて理解しようと努めると、とても「おもしろい」。つまらない卒業論文用の文献も、知らない世界がわかって「たのしい」。眠ろうと思って布団に入ると、これからやってくる安息への期待が高まって、「きもちよい」。外から入ってくるモノたちは、本質的には今までとまったく変わらないのに。それを受信する側の私が、すべてに対してとても敏感になっているのだろうか。
たとえば。たまーに外食をすると、私の食べたことのないような料理がある。飲んだことのないようなお酒がある。(余談だが、私はまだ食べたことのないものが結構ある。)で、何しろ味をよく知らないから食べる前は不安なの。好き嫌いはそんなに無いが、「これは本来あまり好きじゃないな。」とおそらく思うはずの味でも、なんか「おいしい」のだ。うまく説明できる感覚ではない。
そういうとき、私は「おいしー!」としか言えない。くうぅ…と唸ってしまうときもある。だって、「おいしい」から。特に、最近飲むようになった日本酒など、本当に心の底から「おいしい」と思う。なんで今まで飲めなかったのか理由もわからないほど、舌に沁みてじわーっと温かくなって、胃に流れ込む頃には私はとても「しあわせ」な気持ちになる。ワインも同じである。初めて口に入れるものが新鮮で、それで興奮しているとかではない。なぜなら、きっと半年前に同じものを食べても、ここまで「おいしい」とは思わなかったであろう自信があるから。
私は「味わう」ことを知らなかったのだろうか?その食材の本来の美味しさが、仮に85だとするなら、私は今まで40くらいしか味わえてなかったのではないか。理由はわからない。とにかく、今は85のギリギリまで味わえている気がする。たとえ、その食材が18程度で本来あまり美味しいものではなくても、限界の18まで全部味わい尽くせるなら、それで満足なのである。
何を見ても「おいしい」し、「たのしい」し、「きもちいい」のだ。だから、私を取り囲む状況が今までと何も変わらなくても、色々なことを吸収するのにとても忙しくて、毎日目が回りそうなのだ。物事は、ただそこにあるだけでかまわない。新しいものでなくてもいいし、珍しいものでなくてもいい。私がそれらの端々まで舐め尽くせばいいだけの話だ。言語化を忘れて「味わう」喜びというのが、少しわかったような気がする。
10しかないものを捨てて、80のものを求めても仕方ない。たとえ、そのものの本質が10しかなくても、10を10だけ味わおう。得たものの総量ではなく、達成率に限れば、私はきっと今誰よりも世界を美味と思っている。
神に愛された
2005年10月21日「私のどこが好き?」と聞きたくなるのはコレ人情ではあるが、逆に「俺のどこが好き?」と聞かれると相当困る。みんなもそうよね?
(いやいやいやいやいやいや、ちょっと補足。私の恋人の名誉のために補足しよう。彼は「俺のどこが好き?」という質問をダイレクトにぶつけてきたわけではなく、私が全力で好きになるオトコにはどのような要素があるのか、つまり、前のカレと俺に共通する部分は果たしてどういうものなのだ、と。おそらく、純粋なる知的好奇心に従って放たれた質問であろう。「なあ〜俺のどういうとこが好き〜?」「ええ〜わかんないよう〜。」という不毛な会話をしたわけではない。これは高尚な質問なのだ。なのだなのだ。)
そんなわけで。ロングな電話を切った数時間前から、私はマジに考えているのだが(おかげで眠れない)。
そもそも、人が人を好きになるとき、やはり「外せない要素」はあるのだろうか。私の恋人は「やっぱ、あるって。」と語る。そうなのかな?あるのかな?とりあえず、あるということを前提として考えてみよう。
端的に言えば、元カレと今の恋人はまるっきり正反対なのだ。少なくとも、私にはそう思える。共通点よりむしろ相違点の方が多い。しかし、前提として、私が多勢のオトコの中から「ある要素」を持つ人に惹かれるとするならば。あくまで前提とするならば。ひとつの仮説を打ち立てよう。
"すくすく育った"人。
その要素がある人に、私は惹かれる。
また大袈裟な言い方だが、私は、元カレも今の恋人も、"神に愛された人"だと思っている。二人とも、それ相応の年齢なりの「汚れ」は持っているのだが、そもそもさ、自然界のもの(神が愛するもの)って汚い部分があるのだよ。人工的に作られたものはピカピカできちんとしているけど、自然界のものは放置しておけば腐敗するし異臭(人間が勝手にそう思ってるだけなんだけど)を放ったりもするわけで。つまり、人間から見たら「汚い」のだ。その「汚れ」は、やはりすくすく育たないと得られないのだ。「汚れ」をムリヤリ排除しようとして、歪んだ教育を受けてしまったら、それこそ「純粋」な人工物のような、不自然な美しさを持つ人になってしまう。
彼らは二人とも両親を愛している。そして、多分、本当に本当の根っこの部分では「生まれてきてよかった」と思っている。世界を愛している。生まれて最初に自分たちを受け入れてくれた存在を後ろ盾に、"すくすく育った"のだ。苦労をしていないとか、そういうことじゃない(苦労したかどうかは私にはわからない)。生きていれば当然ある苦労さえも、彼らはちゃんと養分として吸収し、その後もちゃんと排泄したのだ。その排泄が「汚れ」として、ときに彼らを醜く見せたりもするのだけど、神はきっとそういう彼らを愛している。
具体的にどういうところが、と言われても、こればかりは説明できない。なんていえばいいのかな、たとえば彼らはごはんを美味しそうに食べる。気持ちよさそうに眠る。楽しそうに笑う。人間として当たり前のことなのだけどね。
そして、ここは前のカレと今の恋人の相違点なのだが、今の恋人は自身が「男」に生まれたことをごく当たり前のこととして、きちんと受けとめている。神に逆らっていないのだ。だから、「男」であるが故の「すべきこと」「すべきでないこと」をちゃんと果たそうとしている。それは、裏返せば私の「女」であることを受けとめている証拠でもある。自然界には「男」と「女」がいて、それは歪めようのない事実。だから、私たちはたまたま得たこの性差を「そういうものだ」と受け入れて、それぞれ「男」なりに、また「女」なりに生きるしかないのだ。
文句つけたってしょうがない。今、ここに、こうして生まれちゃったの。私たちは。それをただただ受けとめて、神を愛して、その中でもがき苦しむしかない。今の恋人は、そのように生きているように私には見える。実際、「やってられねーよ。」的事はあるのだろうし、やさぐれたくなる時期だってあるのだろう。でも、"神に愛された"今の恋人を、神に愛されてるかどうかわからないこの私が愛する行為自体が、神の愛を乞うことではないかと。やはり大袈裟だろうか。
おかしいな。またノロケで終わってしまった。ううう…反省。
なんだかんだで、彼らは両方とも「酒好き」なんだよね。もしや、それだけだったりして。あはは。(←照れ隠し故のムリヤリな結論。)
寝ます。
(いやいやいやいやいやいや、ちょっと補足。私の恋人の名誉のために補足しよう。彼は「俺のどこが好き?」という質問をダイレクトにぶつけてきたわけではなく、私が全力で好きになるオトコにはどのような要素があるのか、つまり、前のカレと俺に共通する部分は果たしてどういうものなのだ、と。おそらく、純粋なる知的好奇心に従って放たれた質問であろう。「なあ〜俺のどういうとこが好き〜?」「ええ〜わかんないよう〜。」という不毛な会話をしたわけではない。これは高尚な質問なのだ。なのだなのだ。)
そんなわけで。ロングな電話を切った数時間前から、私はマジに考えているのだが(おかげで眠れない)。
そもそも、人が人を好きになるとき、やはり「外せない要素」はあるのだろうか。私の恋人は「やっぱ、あるって。」と語る。そうなのかな?あるのかな?とりあえず、あるということを前提として考えてみよう。
端的に言えば、元カレと今の恋人はまるっきり正反対なのだ。少なくとも、私にはそう思える。共通点よりむしろ相違点の方が多い。しかし、前提として、私が多勢のオトコの中から「ある要素」を持つ人に惹かれるとするならば。あくまで前提とするならば。ひとつの仮説を打ち立てよう。
"すくすく育った"人。
その要素がある人に、私は惹かれる。
また大袈裟な言い方だが、私は、元カレも今の恋人も、"神に愛された人"だと思っている。二人とも、それ相応の年齢なりの「汚れ」は持っているのだが、そもそもさ、自然界のもの(神が愛するもの)って汚い部分があるのだよ。人工的に作られたものはピカピカできちんとしているけど、自然界のものは放置しておけば腐敗するし異臭(人間が勝手にそう思ってるだけなんだけど)を放ったりもするわけで。つまり、人間から見たら「汚い」のだ。その「汚れ」は、やはりすくすく育たないと得られないのだ。「汚れ」をムリヤリ排除しようとして、歪んだ教育を受けてしまったら、それこそ「純粋」な人工物のような、不自然な美しさを持つ人になってしまう。
彼らは二人とも両親を愛している。そして、多分、本当に本当の根っこの部分では「生まれてきてよかった」と思っている。世界を愛している。生まれて最初に自分たちを受け入れてくれた存在を後ろ盾に、"すくすく育った"のだ。苦労をしていないとか、そういうことじゃない(苦労したかどうかは私にはわからない)。生きていれば当然ある苦労さえも、彼らはちゃんと養分として吸収し、その後もちゃんと排泄したのだ。その排泄が「汚れ」として、ときに彼らを醜く見せたりもするのだけど、神はきっとそういう彼らを愛している。
具体的にどういうところが、と言われても、こればかりは説明できない。なんていえばいいのかな、たとえば彼らはごはんを美味しそうに食べる。気持ちよさそうに眠る。楽しそうに笑う。人間として当たり前のことなのだけどね。
そして、ここは前のカレと今の恋人の相違点なのだが、今の恋人は自身が「男」に生まれたことをごく当たり前のこととして、きちんと受けとめている。神に逆らっていないのだ。だから、「男」であるが故の「すべきこと」「すべきでないこと」をちゃんと果たそうとしている。それは、裏返せば私の「女」であることを受けとめている証拠でもある。自然界には「男」と「女」がいて、それは歪めようのない事実。だから、私たちはたまたま得たこの性差を「そういうものだ」と受け入れて、それぞれ「男」なりに、また「女」なりに生きるしかないのだ。
文句つけたってしょうがない。今、ここに、こうして生まれちゃったの。私たちは。それをただただ受けとめて、神を愛して、その中でもがき苦しむしかない。今の恋人は、そのように生きているように私には見える。実際、「やってられねーよ。」的事はあるのだろうし、やさぐれたくなる時期だってあるのだろう。でも、"神に愛された"今の恋人を、神に愛されてるかどうかわからないこの私が愛する行為自体が、神の愛を乞うことではないかと。やはり大袈裟だろうか。
おかしいな。またノロケで終わってしまった。ううう…反省。
なんだかんだで、彼らは両方とも「酒好き」なんだよね。もしや、それだけだったりして。あはは。(←照れ隠し故のムリヤリな結論。)
寝ます。
not so much the ”MOON” as the ”EARTH”
2005年10月20日朝からバイト。
最近、重役出勤(とはいっても、早朝には違いないのだが)が許されるようになり、やや嬉し。
今年に入って新人のトレーニングを任されるようになり、最初は「私が人を指導する」という事実に既にビビっていたのだが、ようやく冷静になってきた。教える内容も大事だけど、「教える」という行為そのものについて考えられるようになってきたのだ。
何人のOJT研修をしたかもはやわからないが、ひとくくりに新人といっても色々なタイプがいるものだ。と書くと、すっかり酸いも甘いも噛み分けた熟練っぽくてナマイキだが、一番最初の反応(話の聞き方だね)で大体どんな働き方をするかは予想がつくし、概ねその予想は的を外さない。ような気がするな。私の中途半端な指導経験からすると、だが。
で、たとえその新人がどんなタイプであろうと、どうにかそのタイプに応じて「使えるコ」に育てていかなければいけないのだが、それでも「うーん…こやつは…」と頭を抱えてしまう"タイプ"が、いるにはいる。
どんなタイプか?
一言で言うなら「COOLなコ」である。
この場合の"COOL"は、文字通り、「温度を感じられない」という意味で受けとめてほしい。ツンとしているとか、素っ気ない、とか、そういうことではない。なんちゅうか、魂の奥に熱いものを持っているのかいないのかそこんとこどうなの、と聞きたくなってしまうのが、この「COOLなコ」の特徴である。
余談だが、私はどちらかといえば「暑苦しい」タイプだし、余分に情熱的な人間だと思う(そんなの、この日記を読んでいればわかると思うが)。とにかく血の気が多いし、その血液自体が常時高温である。自分では「少しクールダウンせねばいかんなあ。」と思っているし、だからこそ「COOLなコ」に人より注目してしまう傾向がある。しかしね、それはそれ。私がHOTであるから、対照的にCOOLな彼・彼女らがムカつくとか、そういう話ではないのよ。
HOTよりCOOLが推奨される傾向は、確実にある。というわけで、私は大変生き辛い。昔のドラマに出てきそうな熱血漢が疎まれることからも、またCOOLには「素敵な・イカした」という意味があることからも、この事実は明白だ。
しかし、彼・彼女らのCOOLさは、地球のように内部にマグマを宿した星の表面を冷たい海が覆うようなCOOLさなのだろうか?月のように(月にもかつては"マグマ・オーシャン"という溶岩があったらしいが)芯から冷え切った何の温もりも感じさせないCOOLさなのではないか?
ホッブズは嫌いだが、彼の提唱した「万人の万人に対する闘争」にはちと賛成。たしかに、人間は、本来「熱いもの」を持っていて、それに素直に従っちゃえば闘争になるのである。だから、皆、超個人的な自我をなるべく落ち着かせて「冷静」になろうとする。COOLが推奨されるのは、そういうわけだと私は思う。だからって、何があっても動じないことや、周りに関心を示さないことや、目標(大層なものじゃなくていいんだよ)を一切持たないということが、果たして格好イイことなのだろうか。私は、違うと思う。
個人的にはね。「俺(あたし)はこれだけは譲れねぇんだよ!」という情熱がある人が好きだ。ただ、そのコダワリに固執し過ぎて社会性を失っちゃうような人は困る。ものすごく絶妙なバランスではあるが、話をしている最中にたまーに「マグマ」の存在を感じられる人、そしてその「マグマ」を噴出させるのは危険だと自分でちゃんとわかっててセーブできている人、そういう人に私は惹かれる。男女問わず、ね。
というわけで。その「マグマ」が本来無いんじゃねぇのか?と思わせる奴は、私がぶっとばしてやる。これも男女問わず。ぶっとばして、「マグマ」の存在を思い出せてやろうかオラァー!
今日は、ちょっとマグマ噴出気味のりん(23)なのです。
最近、重役出勤(とはいっても、早朝には違いないのだが)が許されるようになり、やや嬉し。
今年に入って新人のトレーニングを任されるようになり、最初は「私が人を指導する」という事実に既にビビっていたのだが、ようやく冷静になってきた。教える内容も大事だけど、「教える」という行為そのものについて考えられるようになってきたのだ。
何人のOJT研修をしたかもはやわからないが、ひとくくりに新人といっても色々なタイプがいるものだ。と書くと、すっかり酸いも甘いも噛み分けた熟練っぽくてナマイキだが、一番最初の反応(話の聞き方だね)で大体どんな働き方をするかは予想がつくし、概ねその予想は的を外さない。ような気がするな。私の中途半端な指導経験からすると、だが。
で、たとえその新人がどんなタイプであろうと、どうにかそのタイプに応じて「使えるコ」に育てていかなければいけないのだが、それでも「うーん…こやつは…」と頭を抱えてしまう"タイプ"が、いるにはいる。
どんなタイプか?
一言で言うなら「COOLなコ」である。
この場合の"COOL"は、文字通り、「温度を感じられない」という意味で受けとめてほしい。ツンとしているとか、素っ気ない、とか、そういうことではない。なんちゅうか、魂の奥に熱いものを持っているのかいないのかそこんとこどうなの、と聞きたくなってしまうのが、この「COOLなコ」の特徴である。
余談だが、私はどちらかといえば「暑苦しい」タイプだし、余分に情熱的な人間だと思う(そんなの、この日記を読んでいればわかると思うが)。とにかく血の気が多いし、その血液自体が常時高温である。自分では「少しクールダウンせねばいかんなあ。」と思っているし、だからこそ「COOLなコ」に人より注目してしまう傾向がある。しかしね、それはそれ。私がHOTであるから、対照的にCOOLな彼・彼女らがムカつくとか、そういう話ではないのよ。
HOTよりCOOLが推奨される傾向は、確実にある。というわけで、私は大変生き辛い。昔のドラマに出てきそうな熱血漢が疎まれることからも、またCOOLには「素敵な・イカした」という意味があることからも、この事実は明白だ。
しかし、彼・彼女らのCOOLさは、地球のように内部にマグマを宿した星の表面を冷たい海が覆うようなCOOLさなのだろうか?月のように(月にもかつては"マグマ・オーシャン"という溶岩があったらしいが)芯から冷え切った何の温もりも感じさせないCOOLさなのではないか?
ホッブズは嫌いだが、彼の提唱した「万人の万人に対する闘争」にはちと賛成。たしかに、人間は、本来「熱いもの」を持っていて、それに素直に従っちゃえば闘争になるのである。だから、皆、超個人的な自我をなるべく落ち着かせて「冷静」になろうとする。COOLが推奨されるのは、そういうわけだと私は思う。だからって、何があっても動じないことや、周りに関心を示さないことや、目標(大層なものじゃなくていいんだよ)を一切持たないということが、果たして格好イイことなのだろうか。私は、違うと思う。
個人的にはね。「俺(あたし)はこれだけは譲れねぇんだよ!」という情熱がある人が好きだ。ただ、そのコダワリに固執し過ぎて社会性を失っちゃうような人は困る。ものすごく絶妙なバランスではあるが、話をしている最中にたまーに「マグマ」の存在を感じられる人、そしてその「マグマ」を噴出させるのは危険だと自分でちゃんとわかっててセーブできている人、そういう人に私は惹かれる。男女問わず、ね。
というわけで。その「マグマ」が本来無いんじゃねぇのか?と思わせる奴は、私がぶっとばしてやる。これも男女問わず。ぶっとばして、「マグマ」の存在を思い出せてやろうかオラァー!
今日は、ちょっとマグマ噴出気味のりん(23)なのです。
徒然なるままに(たまにはね。)
2005年10月19日自宅以外で初更新。
(大学のパソコンルームに潜入。)
今日は、世の勤め人が起床すべき健全な時間に起床し、世の勤め人が活動し始めるだろう健全な時間に登校。なんて健全な朝のスタートなのだ。
といっても、書くことがないので(単に、自宅以外の場所で更新してみたかっただけ。)昨日の備忘をいくつか。
色々考えたのに、書いておかないと忘れそうだ。
●夕飯は中華(リーズナブルなのに激ウマ)。
3〜4種をアラカルトで。ビール×2。
麻婆豆腐を注文。手持ちのライスにぶっかけて「麻婆丼」にしつつ頂く。ただ、連れと食べるペースが違うため、最終的に"麻婆"を私が大量消費してしまい、連れのライスが余っちゃった。ペースに関しては、今後要研究である。。。
デザートのマンゴープリンに感涙。また食べたい。
●立ち位置と客観的評価
たとえ、自分の主義・主張が変わらなくても。
自分の主張が世の中的には「左派」と捉えられていても、世の中が左寄りにシフトし始めたら、いつの間にかその人は「右派」になってしまう。逆も然り。(あれ?違ってます?)
つまり。自分が「左派」か「右派」のどっちなのかを考えていても、そもそも駄目だということだな。まず、自分ありき。世の中がどう動いても、自分の立ち位置だけは、自分で決めなくてはいけないのだろう。議論はそれからだ。
●文章(随筆系)を書くという行為は、自身の内を見つめることだと知ってはいたが。「人様用の自分」がONになっている状態で何かを考えようとしても、それは人の目を意識しながら耳掃除をするようなものだ。つまり、無理。
ぼんやり歩いているとき(通学中・通勤中)の顔が、その人本来の顔だということだな。鏡の前に立つときではなく。
●自信とプライド
「自信がある」ということと「プライドがある」ということは、似て非なることのような。どう違うのかと言われてもわかりませんが。
●「あいしてる」の効用
うまく使わないと、これほど陳腐な言葉はないだろうが。
「これこれこういう感情が愛だ!」と認識できるまで使えないとしたら、たぶん一生「あいしてる」とは言えないと思う。
スイングの練習をするとき、「完全なイメージを構築してから。」と思っても、まず振ってみなきゃ始まらないでしょ。わけもわからず何百回も振ってるうちに、ようやくわかってくるのだと思う。とりあえず、バカみたいに何かを前提とする勇気は必要なんだろうね。
ということは。
まあいいや。やめよう。。。
●物がぴしいっ!と整理整頓されている状態が「秩序」だと思っていたが。荒れ果てた空間も、それこそ「まあ、あのあたりにあれがあるんじゃないか?」とさえわかれば、それは「混沌」という名の「秩序」ではないかと思ったりした。
●今、ここにあるもの
私と誰かが恋をしたとして。
私とその相手の間に、「恋」という(それこそハート型の)物体が存在しているわけではない。
私の現在の心理状態を脳が分析して「恋だ」と出力しているだけ。相手も然り。ということは、「恋」とは、ひとつの物を共有することではなく、それぞれ勝手に出力した状態が"同時に"起こっているに過ぎないのだな。音波が共鳴しているようなものだ。
「恋」を「今ここにあるもの」として見てはいけない。でも、だからこそ半永久的ともいえるな。だって物じゃないから壊れないし。
さて、ぼちぼち昼食にしようかね。
今日は、一日中図書館にオコモリの予定。
ふあー。難しいこと考えてたら、頭痛くなってきた。ねむねむ。
(大学のパソコンルームに潜入。)
今日は、世の勤め人が起床すべき健全な時間に起床し、世の勤め人が活動し始めるだろう健全な時間に登校。なんて健全な朝のスタートなのだ。
といっても、書くことがないので(単に、自宅以外の場所で更新してみたかっただけ。)昨日の備忘をいくつか。
色々考えたのに、書いておかないと忘れそうだ。
●夕飯は中華(リーズナブルなのに激ウマ)。
3〜4種をアラカルトで。ビール×2。
麻婆豆腐を注文。手持ちのライスにぶっかけて「麻婆丼」にしつつ頂く。ただ、連れと食べるペースが違うため、最終的に"麻婆"を私が大量消費してしまい、連れのライスが余っちゃった。ペースに関しては、今後要研究である。。。
デザートのマンゴープリンに感涙。また食べたい。
●立ち位置と客観的評価
たとえ、自分の主義・主張が変わらなくても。
自分の主張が世の中的には「左派」と捉えられていても、世の中が左寄りにシフトし始めたら、いつの間にかその人は「右派」になってしまう。逆も然り。(あれ?違ってます?)
つまり。自分が「左派」か「右派」のどっちなのかを考えていても、そもそも駄目だということだな。まず、自分ありき。世の中がどう動いても、自分の立ち位置だけは、自分で決めなくてはいけないのだろう。議論はそれからだ。
●文章(随筆系)を書くという行為は、自身の内を見つめることだと知ってはいたが。「人様用の自分」がONになっている状態で何かを考えようとしても、それは人の目を意識しながら耳掃除をするようなものだ。つまり、無理。
ぼんやり歩いているとき(通学中・通勤中)の顔が、その人本来の顔だということだな。鏡の前に立つときではなく。
●自信とプライド
「自信がある」ということと「プライドがある」ということは、似て非なることのような。どう違うのかと言われてもわかりませんが。
●「あいしてる」の効用
うまく使わないと、これほど陳腐な言葉はないだろうが。
「これこれこういう感情が愛だ!」と認識できるまで使えないとしたら、たぶん一生「あいしてる」とは言えないと思う。
スイングの練習をするとき、「完全なイメージを構築してから。」と思っても、まず振ってみなきゃ始まらないでしょ。わけもわからず何百回も振ってるうちに、ようやくわかってくるのだと思う。とりあえず、バカみたいに何かを前提とする勇気は必要なんだろうね。
ということは。
まあいいや。やめよう。。。
●物がぴしいっ!と整理整頓されている状態が「秩序」だと思っていたが。荒れ果てた空間も、それこそ「まあ、あのあたりにあれがあるんじゃないか?」とさえわかれば、それは「混沌」という名の「秩序」ではないかと思ったりした。
●今、ここにあるもの
私と誰かが恋をしたとして。
私とその相手の間に、「恋」という(それこそハート型の)物体が存在しているわけではない。
私の現在の心理状態を脳が分析して「恋だ」と出力しているだけ。相手も然り。ということは、「恋」とは、ひとつの物を共有することではなく、それぞれ勝手に出力した状態が"同時に"起こっているに過ぎないのだな。音波が共鳴しているようなものだ。
「恋」を「今ここにあるもの」として見てはいけない。でも、だからこそ半永久的ともいえるな。だって物じゃないから壊れないし。
さて、ぼちぼち昼食にしようかね。
今日は、一日中図書館にオコモリの予定。
ふあー。難しいこと考えてたら、頭痛くなってきた。ねむねむ。
”LOVE BATON” from my close friend
2005年10月17日いつか来るだろう、いつか来るに違いないと思っていたが。
むしろ今まで来なかったのが不思議なくらいだ。ジョッキ・バトンやコミック・バトンの前に、今回のバトンこそ、真っ先に答えるべきだったのである。というか、いちいちバトンとして回答しなくても、この日記そのものが「ラヴ・バトン」ではないかという説もある。
まあ、前置きはいいや。実は、ついにラヴ・バトンが回ってきてしまったのだよ。何かと不都合がありそうなので本来はスルーさせていただくバトンだが、「このコが回してくれるなんて!」というお友達から回ってきてとても嬉しいので、今回だけは(次回があるのか?)有り難く頂戴することにする。
では、始めよう。(ひー。ドキドキ。)
■Q1■理想の恋人像を教えてください。
"情緒的・文学的素養がある人"。
(「AはAである」という誠に単純な事象に
対しても、「いや、Aは本当にAなのか?」と
自分の頭で考えられる人。目に見えるものから、
目に見えない思想を引き出せる人。)
あと追加するなら、"お酒が飲める人"。
■Q2■恋人選び、見た目と性格を重視する割合は?
10月11日の「特別な日に、思う」を
ご覧ください。
■Q3■今日は一日好きな人と一緒。あなたの考えるデートプランを教えてください。
最終的に美味しいお酒で〆られれば満足です。
■Q4■好きな人と、はじめて二人でカラオケにいくことになりました。 さぁ、どんな曲を歌いますか?また、相手には何を歌ってもらいたい?
えー!!
まあ、万が一行くなら…
シャウト系(B’zとか)はあまり歌わないでほしい。
いや、どうしても歌いたいなら盛り上げるけど。
タンバリン使って。
マラカスも使って。
(元パーカッションの私が。)
■Q5■夜の遊園地、はじめて二人で観覧車に乗りました。ドキドキクライマックス!手をつなぐ?つながない??
手だけで済めばいいが。
■Q6■楽しいデートの時間はあっという間。いつの間にか、終電がなくなっていました! そんなとき、あなたならどうする??そして、相手になんて言う?
「お持ち帰りでよろしいですか?」
どうするもこうするも…
■Q7■相手をかなり気に入ったあなた。告白は自分からする?相手からされるのを待つ?
告白が必要な恋は、もうできないかもしれない。
■Q8■ずばり、いま好きな人、気になる人がいますか?
…。
■Q9■その人は、mixi内に生息しますか?
なんですと。
mixiはやってないんじゃないかな。
■Q10■Love Batonをまわす5人の人たち
困ったなあ。
カドミウムさま、お嫌いじゃなければぜひ。
starletteちゃん、ありがとね☆
こんなのでよかったのかな?
むしろ今まで来なかったのが不思議なくらいだ。ジョッキ・バトンやコミック・バトンの前に、今回のバトンこそ、真っ先に答えるべきだったのである。というか、いちいちバトンとして回答しなくても、この日記そのものが「ラヴ・バトン」ではないかという説もある。
まあ、前置きはいいや。実は、ついにラヴ・バトンが回ってきてしまったのだよ。何かと不都合がありそうなので本来はスルーさせていただくバトンだが、「このコが回してくれるなんて!」というお友達から回ってきてとても嬉しいので、今回だけは(次回があるのか?)有り難く頂戴することにする。
では、始めよう。(ひー。ドキドキ。)
■Q1■理想の恋人像を教えてください。
"情緒的・文学的素養がある人"。
(「AはAである」という誠に単純な事象に
対しても、「いや、Aは本当にAなのか?」と
自分の頭で考えられる人。目に見えるものから、
目に見えない思想を引き出せる人。)
あと追加するなら、"お酒が飲める人"。
■Q2■恋人選び、見た目と性格を重視する割合は?
10月11日の「特別な日に、思う」を
ご覧ください。
■Q3■今日は一日好きな人と一緒。あなたの考えるデートプランを教えてください。
最終的に美味しいお酒で〆られれば満足です。
■Q4■好きな人と、はじめて二人でカラオケにいくことになりました。 さぁ、どんな曲を歌いますか?また、相手には何を歌ってもらいたい?
えー!!
まあ、万が一行くなら…
シャウト系(B’zとか)はあまり歌わないでほしい。
いや、どうしても歌いたいなら盛り上げるけど。
タンバリン使って。
マラカスも使って。
(元パーカッションの私が。)
■Q5■夜の遊園地、はじめて二人で観覧車に乗りました。ドキドキクライマックス!手をつなぐ?つながない??
手だけで済めばいいが。
■Q6■楽しいデートの時間はあっという間。いつの間にか、終電がなくなっていました! そんなとき、あなたならどうする??そして、相手になんて言う?
「お持ち帰りでよろしいですか?」
どうするもこうするも…
■Q7■相手をかなり気に入ったあなた。告白は自分からする?相手からされるのを待つ?
告白が必要な恋は、もうできないかもしれない。
■Q8■ずばり、いま好きな人、気になる人がいますか?
…。
■Q9■その人は、mixi内に生息しますか?
なんですと。
mixiはやってないんじゃないかな。
■Q10■Love Batonをまわす5人の人たち
困ったなあ。
カドミウムさま、お嫌いじゃなければぜひ。
starletteちゃん、ありがとね☆
こんなのでよかったのかな?
懺悔は三度でいい
2005年10月16日中学〜高校時代の友人来訪。そのおかげで、今日は色々なことを思い出したのだが。
高校生の頃、初めて付き合った男の子をひどく傷つけた。
彼とは半年ほど付き合ったが、私にとっては「ありえない男」だったようだ。まず、暗い。覇気が無い。オタクっぽい。スポーツが下手。制服の着こなしが変。そういうことが、当時の私には我慢できなかった。そして、別れた後はここぞとばかりにそういう彼の"短所"を誇張して、周りの友人に面白可笑しく言いふらしたのだ。
彼の(私にとってもなのに)生まれて初めてのキスが少々滑稽だったのだが、本当に「ネタ」としては最適で、私の友人たちには好評だった。彼が実はキャラクター好きであることなど、「あいつ、家ではミッ●ィーのペンとか使ってるんだよ〜」「ウソー!キモーイ!」なんて感じで、これも好評だった。
彼を揶揄することで、必死に自分を守っていたのだと思う。「自分の中の"悪"を摘出すればするほど、それを見事に摘出してみせるもうひとりの「ちゃんとした自分」をフィーチャーしてる」と以前誰かの日記で読んだけど、つまりそういうことだ。その"悪"に気付ける今の自分はエライ、という。完全なる自己防衛だ。自分にとって「ありえない男」と付き合ったことを、周りにイタイと思われることが恐かったから、先手を打ったのだ。
その次に付き合った男も、これまた「ありえない男」で。まず、かなり不細工(こういう表現は本当に憚られるのだが、便宜上致し方ない。)だった。もう、その事実だけで相当の「ネタ」だった。半年で別れた。別れた後は、「あいつ、あんな顔であんなことするんだよ〜」「マジー!?イターイ!」ってな感じで、これも「ネタ」として大好評だった。
その次に付き合った彼とは、三年弱続いた。彼は「ありえない男」だったのだろうか?多分、「ありえない男」だったと思う。色々な意味でね。でも、私は彼を「ネタ」にしない。「ネタ」にすることはいくらでも可能なのだ。ミッ●ィーのペンや不細工なこと以上に、強烈な「ネタ」がたくさんある。それこそ、彼のほぼ生まれて初めてのエッ●など、絶好の「ネタ」にできるだろう。でも、私は「ネタ」にしない。
今、付き合っている彼のことは?彼は「ありえない男」なのだろうか?多分、「ありえない男」なのだと思う。でも、私は彼を「ネタ」には決してしない。現在ラブラブだからという問題ではない。彼には「ネタ」になるようなところなど、これっぽっちも存在しない。そして、振り返るに、私が過去付き合った三人の男にも、「ネタ」になる要素などこれっぽっちも存在しなかったはずなのだ。
上から見るわけではないが、自分の関わった男に関して「あいつはダメだ。」と批判する女性を見ると、私は何とも言えない気分になる。たしかに「ダメな男」なのだと思う。ってか、「ダメでない男」なんて、日本中に一人もいないのだ。そして「ダメな男」を批判・揶揄することで、きっと自分まで「ダメな女」になってしまう。それはあまりにも寂しい。
どんなにダメな要素を発見しても、吹聴してはいけない。もし、吹聴するときは、自分が周りに「ダメな女」と思われることをちゃんと認識した上で、それでも、と思ったときに限定しなければならないと、私は思う。それでも言いたいときはある。ガス抜きは必要だからね。でも、そういう女性をあちこちで見るにつけ、ルーズソックスにミニスカートのあの頃の自分とかぶるような気がして、私はとても悲しくなるのだ。
高校生の頃、初めて付き合った男の子をひどく傷つけた。
彼とは半年ほど付き合ったが、私にとっては「ありえない男」だったようだ。まず、暗い。覇気が無い。オタクっぽい。スポーツが下手。制服の着こなしが変。そういうことが、当時の私には我慢できなかった。そして、別れた後はここぞとばかりにそういう彼の"短所"を誇張して、周りの友人に面白可笑しく言いふらしたのだ。
彼の(私にとってもなのに)生まれて初めてのキスが少々滑稽だったのだが、本当に「ネタ」としては最適で、私の友人たちには好評だった。彼が実はキャラクター好きであることなど、「あいつ、家ではミッ●ィーのペンとか使ってるんだよ〜」「ウソー!キモーイ!」なんて感じで、これも好評だった。
彼を揶揄することで、必死に自分を守っていたのだと思う。「自分の中の"悪"を摘出すればするほど、それを見事に摘出してみせるもうひとりの「ちゃんとした自分」をフィーチャーしてる」と以前誰かの日記で読んだけど、つまりそういうことだ。その"悪"に気付ける今の自分はエライ、という。完全なる自己防衛だ。自分にとって「ありえない男」と付き合ったことを、周りにイタイと思われることが恐かったから、先手を打ったのだ。
その次に付き合った男も、これまた「ありえない男」で。まず、かなり不細工(こういう表現は本当に憚られるのだが、便宜上致し方ない。)だった。もう、その事実だけで相当の「ネタ」だった。半年で別れた。別れた後は、「あいつ、あんな顔であんなことするんだよ〜」「マジー!?イターイ!」ってな感じで、これも「ネタ」として大好評だった。
その次に付き合った彼とは、三年弱続いた。彼は「ありえない男」だったのだろうか?多分、「ありえない男」だったと思う。色々な意味でね。でも、私は彼を「ネタ」にしない。「ネタ」にすることはいくらでも可能なのだ。ミッ●ィーのペンや不細工なこと以上に、強烈な「ネタ」がたくさんある。それこそ、彼のほぼ生まれて初めてのエッ●など、絶好の「ネタ」にできるだろう。でも、私は「ネタ」にしない。
今、付き合っている彼のことは?彼は「ありえない男」なのだろうか?多分、「ありえない男」なのだと思う。でも、私は彼を「ネタ」には決してしない。現在ラブラブだからという問題ではない。彼には「ネタ」になるようなところなど、これっぽっちも存在しない。そして、振り返るに、私が過去付き合った三人の男にも、「ネタ」になる要素などこれっぽっちも存在しなかったはずなのだ。
上から見るわけではないが、自分の関わった男に関して「あいつはダメだ。」と批判する女性を見ると、私は何とも言えない気分になる。たしかに「ダメな男」なのだと思う。ってか、「ダメでない男」なんて、日本中に一人もいないのだ。そして「ダメな男」を批判・揶揄することで、きっと自分まで「ダメな女」になってしまう。それはあまりにも寂しい。
どんなにダメな要素を発見しても、吹聴してはいけない。もし、吹聴するときは、自分が周りに「ダメな女」と思われることをちゃんと認識した上で、それでも、と思ったときに限定しなければならないと、私は思う。それでも言いたいときはある。ガス抜きは必要だからね。でも、そういう女性をあちこちで見るにつけ、ルーズソックスにミニスカートのあの頃の自分とかぶるような気がして、私はとても悲しくなるのだ。
Bye bye boy
2005年10月15日「あのときの願いが叶わなくてよかった。」
これは大切な友だちの日記に出てきた台詞なのだけど。彼がこの台詞に何かしらの感慨を抱いたように、私も今になって、不思議な気持ちでこの台詞を読む。
日記の著者曰く、「「願い」は叶ってほしいからするもので、叶わないとすごく悲しいものでもあるんだけど、長い時が経ち、めぐりめぐって、新たな願いが届いた時に、叶わなかった願いすらも浄化して、新たな願いへの光となる。」とのこと。
私はほんの二ヶ月ほど前、強烈な願い事を神に託した。もちろんすぐに叶うはずなどなく、そのときは真剣に神を呪ったものだ。周りの人が一般論として「今回は叶わないことも、あとで見たら意味があるのだよ。」と言ってくれたが、そんな馬鹿なと思っていた。まさかたった二ヶ月でその意味に気付くとは思わなかったが、とにかく「あの時の願いが叶わなくてよかった」のだよ。本当にそう思う。
とか、言っておいて。
実は、二ヶ月というインターバルはあったが、当時の心からの願いは叶いつつある。
願いや祈りには、捧げもの(犠牲)が必要らしい。たとえ全財産を失っても叶え給えと思っていたから、私は八月に何かしらの犠牲を払ったのだと思う。自分が信じていた「真実の愛」の定義、元カレ色に染められた身体、相手のろくでなしな部分さえ許してしまう献身的姿勢、などなど。逆説的な話だが、それらを捧げものとして失ったから私の願いは叶ったのだが、叶ったあとにそれらが手元に無かったらまったく意味が無いのではないか?
村の「平和」を守るために怪物に自分の一番大切なムスメを捧げた村長も、こんな気持ちだったのかなあ、なんて。「平和」とは、一番大切なムスメがいてこその「平和」なのだ。体裁は保たれていても、中身はからっぽなのだ。むなしいよね。
皆さんも、祈る前によく考えた方がいい。「祈り」には、多分犠牲が伴う。本当にそれが叶うなら、ほかの大事なことを一切失っても構わない!という覚悟が必要なのだ。しかし、本当にそれくらいの覚悟をしてもいいほどの願い事なんて、この世にあるのだろうか。
うーん。
上記とは矛盾するが。私は「あの時の願いが叶わなかったから出会えた人」を、今、また唐突に失うことを考えると、やっぱりやりきれない気持ちになる。もう失うのはいやだ。だから、「あの時の願いが叶わなかったから出会えた人」のために、きっとまた祈るのだろうな。懲りない奴だとは思うけど。
これは大切な友だちの日記に出てきた台詞なのだけど。彼がこの台詞に何かしらの感慨を抱いたように、私も今になって、不思議な気持ちでこの台詞を読む。
日記の著者曰く、「「願い」は叶ってほしいからするもので、叶わないとすごく悲しいものでもあるんだけど、長い時が経ち、めぐりめぐって、新たな願いが届いた時に、叶わなかった願いすらも浄化して、新たな願いへの光となる。」とのこと。
私はほんの二ヶ月ほど前、強烈な願い事を神に託した。もちろんすぐに叶うはずなどなく、そのときは真剣に神を呪ったものだ。周りの人が一般論として「今回は叶わないことも、あとで見たら意味があるのだよ。」と言ってくれたが、そんな馬鹿なと思っていた。まさかたった二ヶ月でその意味に気付くとは思わなかったが、とにかく「あの時の願いが叶わなくてよかった」のだよ。本当にそう思う。
とか、言っておいて。
実は、二ヶ月というインターバルはあったが、当時の心からの願いは叶いつつある。
願いや祈りには、捧げもの(犠牲)が必要らしい。たとえ全財産を失っても叶え給えと思っていたから、私は八月に何かしらの犠牲を払ったのだと思う。自分が信じていた「真実の愛」の定義、元カレ色に染められた身体、相手のろくでなしな部分さえ許してしまう献身的姿勢、などなど。逆説的な話だが、それらを捧げものとして失ったから私の願いは叶ったのだが、叶ったあとにそれらが手元に無かったらまったく意味が無いのではないか?
村の「平和」を守るために怪物に自分の一番大切なムスメを捧げた村長も、こんな気持ちだったのかなあ、なんて。「平和」とは、一番大切なムスメがいてこその「平和」なのだ。体裁は保たれていても、中身はからっぽなのだ。むなしいよね。
皆さんも、祈る前によく考えた方がいい。「祈り」には、多分犠牲が伴う。本当にそれが叶うなら、ほかの大事なことを一切失っても構わない!という覚悟が必要なのだ。しかし、本当にそれくらいの覚悟をしてもいいほどの願い事なんて、この世にあるのだろうか。
うーん。
上記とは矛盾するが。私は「あの時の願いが叶わなかったから出会えた人」を、今、また唐突に失うことを考えると、やっぱりやりきれない気持ちになる。もう失うのはいやだ。だから、「あの時の願いが叶わなかったから出会えた人」のために、きっとまた祈るのだろうな。懲りない奴だとは思うけど。
Too too too late to say to me "I love you".
2005年10月14日天高く馬肥ゆるこの時期。
卒業論文のために、普段読まないような本ばかり読んでいる。おかげで私の頭は高速回転しっぱなしである。ところで今読んでいるのは、アメリカの建国史に関する文献。はっきり言ってつまらない。しかし、思わず「おおっ」と思う瞬間もあって。ちなみに「おおっ」と思ったのは、以下の記述を読んだとき。
1620年末に分離派ピューリタンの一行がメイフラワー号から
上陸した時、その土地は「空地」だった。
それは先住民のパクセント族が、三年前にニューイングランド
海岸地方一帯を襲った伝染病によって絶滅してしまったからである。
(中略)ただ、「神が伝染病を遣わして、われらの行く手を清掃
し給うた」ことに感謝の祈りを捧げるだけでよかった。
いや、普段、こんな堅苦しい文章を読んでも「おおっ」と思うことなんて無いのだが。というのも、これはいわゆるアメリカの「マニフェスト・デスティニー」思想が如実に顕れている一文なのだ。自分にとって都合のいいことを、すぐに「神の定めた運命」として受けとめるのだね。運命… 運命…
そうか!運命だあああああ!!!バサッ!(←文献を投げ出した音)
私は「運命」を信じる。
「自分の力で運命を切り開くのだ。神に決定などされてたまるか!」と鼻息荒く否定するお方もいるだろう。でも私から言わせてもらうと、その「自分の力で切り開く」ことが既にプログラミングされているのではないか、と。誤解してほしくないが、私は何もアメリカが新大陸を支配したことが「運命」だと言いたいのではない。単に、「運命」それ自体について、考察したいだけだ。
しかし。アメリカの人々が(たぶん。たぶんね。アメリカの人には言わないでね。)たぶん間違っているように、それは「運命」ではない。みんなもそう思うでしょ?ごっつ自分たち中心の解釈である。たまたまこの話はスケールが大きいから、「いや、違うでしょ。」とわかったけど、たとえば誰にも迷惑かけない自分だけの問題だったら、私は結構これに似た「自分中心解釈主義」かもしれない。だって、「運命」と信じた方が素敵なんだもの。
元カレに「オマエ以外に好きな人ができた。」と告げられたとき、私は「私とカレはこうして一度離れてみて、それからうまくやり直すはずだ。」と、目の前の事実を自分勝手に「運命」付けた。カレが私を捨てる→後悔する→戻ってくる、という事実は事実として何ら変わらなくても、私はもはやこれを「運命」とは思えない。少し、遅かった。だから、私もアメリカと同じくやはり残酷な「自分中心解釈主義」なのだ。アメリカの先住民も、元カレも、納得いかないかもしれない。でも、カレが私を捨てる→後悔する→戻ってくる、という運命は、既に「明らかな運命」ではない。今は、カレが私を捨てる→私は悲しむ→別の誰かのために成長する、という新しい「運命」にすり替わっているのだ。
「運命」は、自分勝手な認識の産物。でも、それでいいじゃんか。誰になんと言われても、たとえ先住民に文句を言われても、絶対に曲げられないものが私にはあるんだ。
卒業論文のために、普段読まないような本ばかり読んでいる。おかげで私の頭は高速回転しっぱなしである。ところで今読んでいるのは、アメリカの建国史に関する文献。はっきり言ってつまらない。しかし、思わず「おおっ」と思う瞬間もあって。ちなみに「おおっ」と思ったのは、以下の記述を読んだとき。
1620年末に分離派ピューリタンの一行がメイフラワー号から
上陸した時、その土地は「空地」だった。
それは先住民のパクセント族が、三年前にニューイングランド
海岸地方一帯を襲った伝染病によって絶滅してしまったからである。
(中略)ただ、「神が伝染病を遣わして、われらの行く手を清掃
し給うた」ことに感謝の祈りを捧げるだけでよかった。
いや、普段、こんな堅苦しい文章を読んでも「おおっ」と思うことなんて無いのだが。というのも、これはいわゆるアメリカの「マニフェスト・デスティニー」思想が如実に顕れている一文なのだ。自分にとって都合のいいことを、すぐに「神の定めた運命」として受けとめるのだね。運命… 運命…
そうか!運命だあああああ!!!バサッ!(←文献を投げ出した音)
私は「運命」を信じる。
「自分の力で運命を切り開くのだ。神に決定などされてたまるか!」と鼻息荒く否定するお方もいるだろう。でも私から言わせてもらうと、その「自分の力で切り開く」ことが既にプログラミングされているのではないか、と。誤解してほしくないが、私は何もアメリカが新大陸を支配したことが「運命」だと言いたいのではない。単に、「運命」それ自体について、考察したいだけだ。
しかし。アメリカの人々が(たぶん。たぶんね。アメリカの人には言わないでね。)たぶん間違っているように、それは「運命」ではない。みんなもそう思うでしょ?ごっつ自分たち中心の解釈である。たまたまこの話はスケールが大きいから、「いや、違うでしょ。」とわかったけど、たとえば誰にも迷惑かけない自分だけの問題だったら、私は結構これに似た「自分中心解釈主義」かもしれない。だって、「運命」と信じた方が素敵なんだもの。
元カレに「オマエ以外に好きな人ができた。」と告げられたとき、私は「私とカレはこうして一度離れてみて、それからうまくやり直すはずだ。」と、目の前の事実を自分勝手に「運命」付けた。カレが私を捨てる→後悔する→戻ってくる、という事実は事実として何ら変わらなくても、私はもはやこれを「運命」とは思えない。少し、遅かった。だから、私もアメリカと同じくやはり残酷な「自分中心解釈主義」なのだ。アメリカの先住民も、元カレも、納得いかないかもしれない。でも、カレが私を捨てる→後悔する→戻ってくる、という運命は、既に「明らかな運命」ではない。今は、カレが私を捨てる→私は悲しむ→別の誰かのために成長する、という新しい「運命」にすり替わっているのだ。
「運命」は、自分勝手な認識の産物。でも、それでいいじゃんか。誰になんと言われても、たとえ先住民に文句を言われても、絶対に曲げられないものが私にはあるんだ。
ただ今インストール中!
2005年10月13日こんなことを日記に書くのは私らしくないのだが。
基本的に私は俗っぽいこと(下らないことという意味ではないよ。)を日記で取り上げないタイプだが、それはなぜかというと、自分のあまりにも貧困な知識に基づいた滑稽論を展開するのがこわいからだ。そんな…そんな私が…敢えてバキューンと書かせていただく。
「雑誌」って、そもそも誰のものなんですか?
(私は、年齢を問われると恥ずかしくなる位、んもう絶望的に読書量が少ない。たぶん、あなたが予想するより遙かに遙かに少ない。間違いない。謙遜ではない。だからこそここに書く内容は「聞きかじり」でない自信が、すげーある。基本的に私は、「無」から自力で発生させた「思想」なり「疑問」なりをここに書いているつもり。もちろん、無菌室で育ったわけではないから、完璧な「無」ではないし、どっかで何かしらの影響を受けているに決まっているのだが、それにしても。)
たとえば50ページに及ぶ特集があるとして。私はほんの最近まで、その50ページというのは、誰か特定の人間が何かを訴えたくて作った50ページだと思っていたの。たとえば、太郎くんが『美味しいラーメン屋の条件とは』という特集をやりたいなと思ったら、自分で東京中のラーメン屋を取材して考えて、まとめたものがその50ページなのだろうと。もちろん、実際は太郎くん一人では時間が足りないから、花子ちゃんや次郎くんにも手伝ってもらうのだが、でも基本は「太郎くんのやりたいこと」なの。その50ページは太郎くんのもの、なのだと。
ただ、これだけ世の中が複雑になると(つまり、読まれる雑誌の数と読者の数が多くなると)、ちょっと話は変わるらしく。太郎くんが「東京の美味しいラーメン屋」を発掘したくて始めた雑誌は、どんどん人気が出てみんな買うようになる。だから太郎くんは似たような「東京の美味しいカレー屋」の雑誌、もしくは「東京の美味しいジンギスカン屋」の雑誌を作ることに決めるの。だからもうラーメン誌だけにかまってられなくなるの。でもラーメン好きの人たちは太郎くんの雑誌を楽しみにしてるから、太郎くんはアルバイトの山田くんと川野さんを雇って、ラーメン誌を代わりに作ってもらうの。太郎くんが「最低限、こういう風にはしないでね。」と言ったことを、山田くんと川野さんは守るの。
太郎くんの作った三つの雑誌の売れ行きは好調だ。ただ、太郎くんはそろそろ疲れたので、もう引退しようと思った。山田くんと川野さんに「頼りになりそうな友だちを選んでおいで。その人たちに手伝ってもらってもいいよ。」と言い残し、太郎くんはいなくなった。もともと太郎くんが始めたくて始めた"器"だけ残った。山田くんも川野さんも、そこまでラーメンが好きじゃないの。でも無くすわけにはいかないから、人を増やして頑張るの。ただ、その特集は、もはや太郎くんのものではない。
つまり、今、世の中の雑誌はこういう状態なのよね?(全部が全部そうとは言わない。)
たとえば。ほんの4ページほどの特集でも、その中の記事は「兵士」のような人たちが、ただ自分の割り振られた分だけを取材して、あとでそれらがツギハギのようにまとめられてできているのだと。これは、私にとってまさに青天の霹靂。で、その4ページが、趣旨としてめっちゃあることに「賛成」でも、その「兵士」たちはそれぞれその趣旨に批判的だったりするわけ。嫌だなあと思いながら戦争に行くのだそうで。
「え!?」みたいな。
「え!?」としか胃炎。まちがえた。言えん。
そんな馬鹿な話があるものか。単体としてそれぞれの「兵士」が戦争に「反対」なのに、全部の「兵士」を集めて兵隊にしてみたら、戦争に「賛成」してる一軍になっているようなものだ。誰も戦争をやりたくないんでしょ?おかしいではないか。火の無いところに煙が立っているようなものだと、私はこの話を聞いて思った。
いやー。今回、超バカっぽく書いてみたけど。私は世の中の多くのことを、無知な小娘の「バカな視点」でバッサバッサと斬りすてられる予感が、なんとなくだが、する。たとえ滑稽だと思われても、おかしなことに「おかしいと思う。」と告げられるのは、無知が許される今だけではないのか、と。
まあ、バカでない大人(それなりの知識アリ)が、後ろから「オイオイ、大丈夫か?」と見守ってくれてる前提がないと斬れないけどね。そうでないと、結局返り討ちにあってそれでオシマイである。
だいじょぶ、だいじょぶ。
そこらへん、ノープロブレム☆
うふっ♪
た、たぶんな…
基本的に私は俗っぽいこと(下らないことという意味ではないよ。)を日記で取り上げないタイプだが、それはなぜかというと、自分のあまりにも貧困な知識に基づいた滑稽論を展開するのがこわいからだ。そんな…そんな私が…敢えてバキューンと書かせていただく。
「雑誌」って、そもそも誰のものなんですか?
(私は、年齢を問われると恥ずかしくなる位、んもう絶望的に読書量が少ない。たぶん、あなたが予想するより遙かに遙かに少ない。間違いない。謙遜ではない。だからこそここに書く内容は「聞きかじり」でない自信が、すげーある。基本的に私は、「無」から自力で発生させた「思想」なり「疑問」なりをここに書いているつもり。もちろん、無菌室で育ったわけではないから、完璧な「無」ではないし、どっかで何かしらの影響を受けているに決まっているのだが、それにしても。)
たとえば50ページに及ぶ特集があるとして。私はほんの最近まで、その50ページというのは、誰か特定の人間が何かを訴えたくて作った50ページだと思っていたの。たとえば、太郎くんが『美味しいラーメン屋の条件とは』という特集をやりたいなと思ったら、自分で東京中のラーメン屋を取材して考えて、まとめたものがその50ページなのだろうと。もちろん、実際は太郎くん一人では時間が足りないから、花子ちゃんや次郎くんにも手伝ってもらうのだが、でも基本は「太郎くんのやりたいこと」なの。その50ページは太郎くんのもの、なのだと。
ただ、これだけ世の中が複雑になると(つまり、読まれる雑誌の数と読者の数が多くなると)、ちょっと話は変わるらしく。太郎くんが「東京の美味しいラーメン屋」を発掘したくて始めた雑誌は、どんどん人気が出てみんな買うようになる。だから太郎くんは似たような「東京の美味しいカレー屋」の雑誌、もしくは「東京の美味しいジンギスカン屋」の雑誌を作ることに決めるの。だからもうラーメン誌だけにかまってられなくなるの。でもラーメン好きの人たちは太郎くんの雑誌を楽しみにしてるから、太郎くんはアルバイトの山田くんと川野さんを雇って、ラーメン誌を代わりに作ってもらうの。太郎くんが「最低限、こういう風にはしないでね。」と言ったことを、山田くんと川野さんは守るの。
太郎くんの作った三つの雑誌の売れ行きは好調だ。ただ、太郎くんはそろそろ疲れたので、もう引退しようと思った。山田くんと川野さんに「頼りになりそうな友だちを選んでおいで。その人たちに手伝ってもらってもいいよ。」と言い残し、太郎くんはいなくなった。もともと太郎くんが始めたくて始めた"器"だけ残った。山田くんも川野さんも、そこまでラーメンが好きじゃないの。でも無くすわけにはいかないから、人を増やして頑張るの。ただ、その特集は、もはや太郎くんのものではない。
つまり、今、世の中の雑誌はこういう状態なのよね?(全部が全部そうとは言わない。)
たとえば。ほんの4ページほどの特集でも、その中の記事は「兵士」のような人たちが、ただ自分の割り振られた分だけを取材して、あとでそれらがツギハギのようにまとめられてできているのだと。これは、私にとってまさに青天の霹靂。で、その4ページが、趣旨としてめっちゃあることに「賛成」でも、その「兵士」たちはそれぞれその趣旨に批判的だったりするわけ。嫌だなあと思いながら戦争に行くのだそうで。
「え!?」みたいな。
「え!?」としか胃炎。まちがえた。言えん。
そんな馬鹿な話があるものか。単体としてそれぞれの「兵士」が戦争に「反対」なのに、全部の「兵士」を集めて兵隊にしてみたら、戦争に「賛成」してる一軍になっているようなものだ。誰も戦争をやりたくないんでしょ?おかしいではないか。火の無いところに煙が立っているようなものだと、私はこの話を聞いて思った。
いやー。今回、超バカっぽく書いてみたけど。私は世の中の多くのことを、無知な小娘の「バカな視点」でバッサバッサと斬りすてられる予感が、なんとなくだが、する。たとえ滑稽だと思われても、おかしなことに「おかしいと思う。」と告げられるのは、無知が許される今だけではないのか、と。
まあ、バカでない大人(それなりの知識アリ)が、後ろから「オイオイ、大丈夫か?」と見守ってくれてる前提がないと斬れないけどね。そうでないと、結局返り討ちにあってそれでオシマイである。
だいじょぶ、だいじょぶ。
そこらへん、ノープロブレム☆
うふっ♪
た、たぶんな…
ことばにできない気持ちは今の気持ち
2005年10月12日BLOGを始めて良かったと思っている。
理由はひとつではない。知っている人は知っているだろうが、まあ、とにかく色々と恩恵があったのだ。ただ、その中にもひとつだけ(今のところひとつだけ思い当たる)もしかしたら恩恵ではなく、弊害かもしれないことがあって。
就職活動を経て「理屈っぽくなったね。」と言われるようになったと以前書いたが、そのときはまだ「私は理屈っぽいのかもしれないなあ…」程度にしか考えていなかった。しかし、確信した。私はやはり「理屈っぽい」のだ。断定したい。理屈っぽく、理論的で、いつでも左脳で世の中を見ている。世の中の全てのことに秩序を見いだそうとしている。世の中の全てのことを「言語」で理解しようとしている。BLOGを綴るようになって、それらは加速化した。
この前の休みの日に、「ある人」と現代アートを観に行った。
この「ある人」は非常に頭が良い(と、私は勝手に思っている)。最近、この人と話していると、「ああ、頭が良いことと理屈っぽいことは違うのだ。」と気付くことになるのだ。たとえば、私は美術館で絵を見るときも、その絵の中に自分なりの秩序を見いだそうとしてしまう。どんなメタファがあるのだろう、とか。とにかく何かしらの意味付けをしたくなってしまうのだ。
一方、私と同じように理屈っぽく見える「ある人」は、多分、"ただ" 絵を見ている。美しい絵は、"ただ" そこにあればいいのだ。なんとなく見て、なんとなくいいなあと思う。それでいいじゃんか、と思っているのが私には伝わった。(余談だが、この「ある人」と私は、世にも稀な位に価値観が似ている。私たちは生き別れの兄妹ではないかとさえ思ったことがある。そう、たしかに私たちは、同じ材料を与えられれば同じ料理を作るのだろうが、それでも調理方法は若干異なる。最終的に同じ皿を持って同じテーブルにつくのだとしても、調理中はきっと背中を合わせて別の方角を見ている。)
私が、「ある人」と違うなと思うのはこういうところ。私は物事を「言語」に変換してから考える。まず、左脳を通すのだ。「ある人」は感覚で受けとめてから「言語」にする。まず、右脳を通しているのだ。実際に目で見たような言い方で恐縮だが、多分そう。そして、この「まず左脳を通す人」(私のことね)というのは概ね理屈っぽい。この世の全てのものが完全なる秩序に従っていて、それらが全て言語化できるはずなどないではないか。でも、私はその思考パターンから逃れられない。全部をBLOGのせいにするつもりはないが。
相手がこちらを愛しいと思っていて、その理由を問うたとき。「血中から神経伝達物質セロトニンの働きを助ける蛋白質が減少しているからだよ。」と答えられたら、引くでしょう?でも、私が行っているのは、それに近い行為だ。「なんとなく好き」としか言えない気持ちはある。
しかし、私はそれを放置できない。どうして好きなのかを考えてしまう。だから、思っていることをうまく言葉にできない人たちの気持ちを、たまに傷つけてしまう。彼らから「なんとなく辛い」という気持ちを打ち明けられても、なんとなく辛くなくなるまで"ただ"そばにいてあげることができない。なんとなくとしか言えない気持ちを、自分勝手に言語化してムリヤリなアドバイスを与えて、自己満足に浸ってしまうのだ。
秩序から解放される日はくるのだろうか。(こう書くと、すごく他人本位だな。)
今は、私の周りにいる人たちが「理屈っぽい」私から離れていってしまわないか、それが怖い。この思考パターンが当分変わらないとしても、少し努力せねばなるまい。そのためには、「言葉」にするのをまずやめよう。最初に、見てから。まず、浸透させてから。そして、それから悩んでいる相手と一緒に考えるようにしていこう。言葉にするのが早すぎるのだ。
今日、悩んでいる私の元に、仕事中の「ある人」からメールが届いた。
美術館に一緒に行った日に私が話したことを、彼は覚えていた。そして、こんな私のために昔読んだという本を紹介してくれた。『ことばと国家』(岩波新書)と、『右脳と左脳―脳センサーでさぐる意識下の世界』(小学館ライブラリー)の二冊である。追伸のように添えられた一文を読んで、つい涙が出そうになる。「キミといると、こっちの、すっかり忘れてしまった「勉強意欲」が刺激されてしまうのです。」とのこと。それは、こんな私でもいいということ?
「理屈っぽい」私が、彼に与えている影響のいいものたらんことを。そう願うしかないよね。うん。私はがんばるよ。
理由はひとつではない。知っている人は知っているだろうが、まあ、とにかく色々と恩恵があったのだ。ただ、その中にもひとつだけ(今のところひとつだけ思い当たる)もしかしたら恩恵ではなく、弊害かもしれないことがあって。
就職活動を経て「理屈っぽくなったね。」と言われるようになったと以前書いたが、そのときはまだ「私は理屈っぽいのかもしれないなあ…」程度にしか考えていなかった。しかし、確信した。私はやはり「理屈っぽい」のだ。断定したい。理屈っぽく、理論的で、いつでも左脳で世の中を見ている。世の中の全てのことに秩序を見いだそうとしている。世の中の全てのことを「言語」で理解しようとしている。BLOGを綴るようになって、それらは加速化した。
この前の休みの日に、「ある人」と現代アートを観に行った。
この「ある人」は非常に頭が良い(と、私は勝手に思っている)。最近、この人と話していると、「ああ、頭が良いことと理屈っぽいことは違うのだ。」と気付くことになるのだ。たとえば、私は美術館で絵を見るときも、その絵の中に自分なりの秩序を見いだそうとしてしまう。どんなメタファがあるのだろう、とか。とにかく何かしらの意味付けをしたくなってしまうのだ。
一方、私と同じように理屈っぽく見える「ある人」は、多分、"ただ" 絵を見ている。美しい絵は、"ただ" そこにあればいいのだ。なんとなく見て、なんとなくいいなあと思う。それでいいじゃんか、と思っているのが私には伝わった。(余談だが、この「ある人」と私は、世にも稀な位に価値観が似ている。私たちは生き別れの兄妹ではないかとさえ思ったことがある。そう、たしかに私たちは、同じ材料を与えられれば同じ料理を作るのだろうが、それでも調理方法は若干異なる。最終的に同じ皿を持って同じテーブルにつくのだとしても、調理中はきっと背中を合わせて別の方角を見ている。)
私が、「ある人」と違うなと思うのはこういうところ。私は物事を「言語」に変換してから考える。まず、左脳を通すのだ。「ある人」は感覚で受けとめてから「言語」にする。まず、右脳を通しているのだ。実際に目で見たような言い方で恐縮だが、多分そう。そして、この「まず左脳を通す人」(私のことね)というのは概ね理屈っぽい。この世の全てのものが完全なる秩序に従っていて、それらが全て言語化できるはずなどないではないか。でも、私はその思考パターンから逃れられない。全部をBLOGのせいにするつもりはないが。
相手がこちらを愛しいと思っていて、その理由を問うたとき。「血中から神経伝達物質セロトニンの働きを助ける蛋白質が減少しているからだよ。」と答えられたら、引くでしょう?でも、私が行っているのは、それに近い行為だ。「なんとなく好き」としか言えない気持ちはある。
しかし、私はそれを放置できない。どうして好きなのかを考えてしまう。だから、思っていることをうまく言葉にできない人たちの気持ちを、たまに傷つけてしまう。彼らから「なんとなく辛い」という気持ちを打ち明けられても、なんとなく辛くなくなるまで"ただ"そばにいてあげることができない。なんとなくとしか言えない気持ちを、自分勝手に言語化してムリヤリなアドバイスを与えて、自己満足に浸ってしまうのだ。
秩序から解放される日はくるのだろうか。(こう書くと、すごく他人本位だな。)
今は、私の周りにいる人たちが「理屈っぽい」私から離れていってしまわないか、それが怖い。この思考パターンが当分変わらないとしても、少し努力せねばなるまい。そのためには、「言葉」にするのをまずやめよう。最初に、見てから。まず、浸透させてから。そして、それから悩んでいる相手と一緒に考えるようにしていこう。言葉にするのが早すぎるのだ。
今日、悩んでいる私の元に、仕事中の「ある人」からメールが届いた。
美術館に一緒に行った日に私が話したことを、彼は覚えていた。そして、こんな私のために昔読んだという本を紹介してくれた。『ことばと国家』(岩波新書)と、『右脳と左脳―脳センサーでさぐる意識下の世界』(小学館ライブラリー)の二冊である。追伸のように添えられた一文を読んで、つい涙が出そうになる。「キミといると、こっちの、すっかり忘れてしまった「勉強意欲」が刺激されてしまうのです。」とのこと。それは、こんな私でもいいということ?
「理屈っぽい」私が、彼に与えている影響のいいものたらんことを。そう願うしかないよね。うん。私はがんばるよ。
特別な日に、思う2
2005年10月11日今日は、ある年上の友人(男性)の話を聞いて考えたことを書く。
先日、「自分は少し大人になった。」などと私も書いたが、こういう思想はものすごく危険である。
今秋、誕生日を迎えた私は23歳になった。年齢で「大人」か「子ども」かを判断するわけではない。しかし、ついこの間まで「私は子どもだな、うん。」と何の疑問もなく思っていたのだが、今は「子どもだと自信を持っては言い切れないぞ…」と思うようになってきたのだ。これは事実なの。どうしてかはわからないが、自分ではこういう理由からかなと思っている。
自分が「子どもゾーン」にどっぷり浸かっているとき、私は周囲の大人(年上の人々)を無条件に崇拝していたように思う。同年代の友達ばかりと付き合っていて、年上といえば親や教師しか知らなかった。日記を書くようになって、また就職活動をするようになって、年上の人と話す機会がぐっと増えた。今年になってたくさんの年上の友人ができた。彼らの話は私にはとにかく刺激的で、早く彼らに追いつきたくて、自分を必要以上に良く見せようとして(つまり自分も大人だと思って欲しかったのだね。)、肩に力が入っていた。
「子ども」の特徴として、「大人」がおしなべてスゴイと思えることが挙げられる。自分にとって受け入れがたい意見も、「良薬口に苦し」のように捉え、私は消化しようと努めた。"反発すること"はすなわち、自分を彼らより「子ども」だと認めることだったから。
でも、最近は、自分よりはるかに年上の人の意見にも「それは違うような気がする。」と言いたい。「子ども」か「大人」かでいえば、私はまだ「大人」の新人みたいなものだが、完全な「大人」の落ち着き払った態度になんともいえない"反発"を覚える。でも、これは私が「子ども」だからではないと思う(まあ、それもあるんだろうけど…)。「素敵な大人」と「素敵でない大人」がいると気付いただけだ。
「大人」になれば、帰納法の理論から、多くの事象を自ら経験してそれらから導き出された「一般的なこと」を知るようになるのだろう。これは十分想像できる。現に、私も10年前よりはそれら「一般的なこと」をたくさん知ることとなった。それらを知れば、多分うまく生きられるようにはなる。でも、それは諸刃の剣なのだ。そのことを知らないで、「ま、ボクも色々経験したからね、チミの知らないことを。」などとあぐらをかく姿勢のなんと無様なことよ。
まあ、そんな大人は完全なる「素敵でない大人」なので、ここでは問題にもしない。私が今一番なりたくないのは、諸刃の剣の存在を知りながらも諦めつつある、「一見素敵なように見える、素敵でない大人」である。
「一見素敵なように見える、素敵でない大人」は、潜在的に多くいる。そして、永遠に自分たちがそうだとは気付かないだろう。そして、気付いても修正できないだろう。一見、素敵に見えるからだ。しかし、私は指摘する。彼らはたしかに「大人」ではある。多くの「一般的なこと」を知り、何かを始めるときにも失敗した過去の経験をふまえ、それゆえに瞬発力を失うのだろう。(余談だが、結局失敗したのなら、それはもう純粋に「失敗」ではないか、と。成功したかもしれないのに、「失敗」を栄光のように扱ってはいけないと思うの。)それは仕方のないことだ。でもその事実に納得しきってはいけないと思う。いや、納得することはかまわない。瞬発力を失っていることは紛れもない事実だからだ。瞬発力を失ったことを自ら暴露することがいけないのだ。人前では、どこまでも否定し続けてほしい。「私はまだ大人ではない。」と。
実際に「大人」か「子ども」かどうかの信憑性は関係ない。自分で「まだ大人ではない。」と言い張れば、若さゆえの弾力性をかりそめでも持つことができる。とはいっても、年齢的に言い切るのが厳しい時期に突入することは、私も予想がつく。私たちは三十路や四十路を過ぎた大人が「大人」であることなんて知っているし、それでいいのだ。でもね、諸刃の剣の存在を知っているのに諦めモードに入っているのは、いいか悪いかは別として…私は好きじゃない。
こんな意見を吐いて、やはり「まだまだ子どもよのう。」と皆は思うだろうか。いや、こんなことを言っている私も、あと10年位したら(もしかしたらもっと早く)「素敵に見える、素敵でない大人」になることはわかっている。それが宿命だということも。だから、この「大人でも子どもでもない23歳」の、一番弾力に富み輝いている時期に、こう思っていることを今の大人たちと未来の自分に伝えなければいけないのだ。それが23歳の使命であると思う。期間限定の、使命である。
諦めてはいけない。少なくとも、もがき続けて頂きたい。もがくことは一見「子ども」のようで格好悪いけど、物理的にもがくことが本当に不可能になるまでは、まだまだ「自分は若い」と思っていてほしい。
23歳の「大人でも子どもでもない私」より、現在を生きる「大人」たちと未来の私へ。
先日、「自分は少し大人になった。」などと私も書いたが、こういう思想はものすごく危険である。
今秋、誕生日を迎えた私は23歳になった。年齢で「大人」か「子ども」かを判断するわけではない。しかし、ついこの間まで「私は子どもだな、うん。」と何の疑問もなく思っていたのだが、今は「子どもだと自信を持っては言い切れないぞ…」と思うようになってきたのだ。これは事実なの。どうしてかはわからないが、自分ではこういう理由からかなと思っている。
自分が「子どもゾーン」にどっぷり浸かっているとき、私は周囲の大人(年上の人々)を無条件に崇拝していたように思う。同年代の友達ばかりと付き合っていて、年上といえば親や教師しか知らなかった。日記を書くようになって、また就職活動をするようになって、年上の人と話す機会がぐっと増えた。今年になってたくさんの年上の友人ができた。彼らの話は私にはとにかく刺激的で、早く彼らに追いつきたくて、自分を必要以上に良く見せようとして(つまり自分も大人だと思って欲しかったのだね。)、肩に力が入っていた。
「子ども」の特徴として、「大人」がおしなべてスゴイと思えることが挙げられる。自分にとって受け入れがたい意見も、「良薬口に苦し」のように捉え、私は消化しようと努めた。"反発すること"はすなわち、自分を彼らより「子ども」だと認めることだったから。
でも、最近は、自分よりはるかに年上の人の意見にも「それは違うような気がする。」と言いたい。「子ども」か「大人」かでいえば、私はまだ「大人」の新人みたいなものだが、完全な「大人」の落ち着き払った態度になんともいえない"反発"を覚える。でも、これは私が「子ども」だからではないと思う(まあ、それもあるんだろうけど…)。「素敵な大人」と「素敵でない大人」がいると気付いただけだ。
「大人」になれば、帰納法の理論から、多くの事象を自ら経験してそれらから導き出された「一般的なこと」を知るようになるのだろう。これは十分想像できる。現に、私も10年前よりはそれら「一般的なこと」をたくさん知ることとなった。それらを知れば、多分うまく生きられるようにはなる。でも、それは諸刃の剣なのだ。そのことを知らないで、「ま、ボクも色々経験したからね、チミの知らないことを。」などとあぐらをかく姿勢のなんと無様なことよ。
まあ、そんな大人は完全なる「素敵でない大人」なので、ここでは問題にもしない。私が今一番なりたくないのは、諸刃の剣の存在を知りながらも諦めつつある、「一見素敵なように見える、素敵でない大人」である。
「一見素敵なように見える、素敵でない大人」は、潜在的に多くいる。そして、永遠に自分たちがそうだとは気付かないだろう。そして、気付いても修正できないだろう。一見、素敵に見えるからだ。しかし、私は指摘する。彼らはたしかに「大人」ではある。多くの「一般的なこと」を知り、何かを始めるときにも失敗した過去の経験をふまえ、それゆえに瞬発力を失うのだろう。(余談だが、結局失敗したのなら、それはもう純粋に「失敗」ではないか、と。成功したかもしれないのに、「失敗」を栄光のように扱ってはいけないと思うの。)それは仕方のないことだ。でもその事実に納得しきってはいけないと思う。いや、納得することはかまわない。瞬発力を失っていることは紛れもない事実だからだ。瞬発力を失ったことを自ら暴露することがいけないのだ。人前では、どこまでも否定し続けてほしい。「私はまだ大人ではない。」と。
実際に「大人」か「子ども」かどうかの信憑性は関係ない。自分で「まだ大人ではない。」と言い張れば、若さゆえの弾力性をかりそめでも持つことができる。とはいっても、年齢的に言い切るのが厳しい時期に突入することは、私も予想がつく。私たちは三十路や四十路を過ぎた大人が「大人」であることなんて知っているし、それでいいのだ。でもね、諸刃の剣の存在を知っているのに諦めモードに入っているのは、いいか悪いかは別として…私は好きじゃない。
こんな意見を吐いて、やはり「まだまだ子どもよのう。」と皆は思うだろうか。いや、こんなことを言っている私も、あと10年位したら(もしかしたらもっと早く)「素敵に見える、素敵でない大人」になることはわかっている。それが宿命だということも。だから、この「大人でも子どもでもない23歳」の、一番弾力に富み輝いている時期に、こう思っていることを今の大人たちと未来の自分に伝えなければいけないのだ。それが23歳の使命であると思う。期間限定の、使命である。
諦めてはいけない。少なくとも、もがき続けて頂きたい。もがくことは一見「子ども」のようで格好悪いけど、物理的にもがくことが本当に不可能になるまでは、まだまだ「自分は若い」と思っていてほしい。
23歳の「大人でも子どもでもない私」より、現在を生きる「大人」たちと未来の私へ。
特別な日に、思う
2005年10月11日(こんな時間に更新するのはどうかと思うが、たった今思ったことだから、この瞬間に書いておかないと。)
唐突だが、私は「面喰い」だと思う。
ついでに言うなら、この文章を読んでいるアナタも多分「面喰い」だ。それは個人の判断・感情ではどうにもできないことだからだ。つまり、DNAに刻み込まれた宿命なのだ。色鮮やかな花に虫たちが引き寄せられるように、私たちは「美しい」異性に惹かれ、その「美しい」遺伝子を残したいと思うのだ。だから、「面喰い」であることを恥じる必要は無いし、美しくないことを理由に異性に捨てられても、それは責められることではない(すごく傷つくけど)。
私は生殖の適齢期を迎え、自分にしっくりくる異性を探している。こんなにたくさんいるオスの中から選ばなくてはいけない。さて、そういうときはやはり「美しい」オスがいいなあと思うのだ。ただ、ここで注意すべきなのは、その「美しさ」がものすごく主観的な基準によるということ。速水もこみち(実は大好き)や永井大(この人も大好き)の美しさが私の中で98だとしても、親友Aちゃんの中では25かもしれないではないか。
主観的でいいのだ。その基準の振り幅が、多分「好み」と呼ばれる。とにかく、ものすごく主観的な基準で、私は多くのオスの中から一人を選ぶのだ。今回私がわかったのは、このときに使われる主観基準と、いざ付き合ってからそのオスを見るときの主観基準が、似て非なるということ。
どういうことかというと、その他大勢のオスの中で「ある異性」を見るときと、自分だけを愛してくれる存在として「その彼」をオスと見るとき、「美しさ」って微妙に変化するのだ。敢えて大ざっぱに言うなら、チョイスの段階では誰もが辛口でそれこそ好みにうるさくなるのだが、一度愛し合う準備さえできれば(このオスと生殖したいと心が決めてしまえば)、「美しさ」はその価値を失うのだ。甘い匂いに誘われてその花に惹かれ、でもめしべの本当に近くまで寄ってみたら(その花の花弁の中に腰を落ち着けてみたら)匂いが強すぎて、私は麻痺する。アナタも麻痺する。そして、その花が本来いい匂いを漂わせていたかどうかなんて関係なくなるのだ。
「妥協」では決してない。(まあ、中にはそういう人もいるだろうが…。)
正直に書いていいかな?超絶美形を含むこの世の全ての男性の中で、はたして私の現在の恋人がどの位置にいるのかと考えると、「彼がこの世で一番格好いい!」とは言えない。「なんてひどいことを…」と思われるかもしれないが、彼も私を「この世で一番美人だ!」などとは絶対に思っていないはずだから、それでいいのである。不思議だが、とにもかくにも私と彼はお互いをチョイスした。で、これは私に関してだが、かつて自分の信じていたはずの主観基準が「絶対」を失っていくのを、心で、体で、感じるのである。主観とは曖昧なものなのだ。
「面喰い」の貴女(小娘含む)たちへ。絶望したくなるほど曖昧な自らの主観に固執してはいけない。まず目を瞑って、心で何かを感じ取れ。目を瞑って、その彼の内面から溢れ出る不可視なオーラに身を任せてみて、それが自分にとって受け入れられ得るものかどうか、まず考えよ。わかりやすく言うなら、その彼の発する声が好きかどうか。そしてその声が綴る彼の考え方や価値観に共感できるかどうか。その彼の魂が向かう方向を見定めよ。
そして、こちらも同じように声を発して、自分の考え方をその彼がどう受けとめてくれるかを、今度は目をしかと開いて、確認せよ。笑ってくれるか、頷いてくれるか、彼の瞳が自分を捉えているかどうかを確認せよ。自分の魂の向かう先が、彼のベクトルと交わっているのかどうかをもう一度見定めよ。
「なんだかんだでルックスは重要!」という意見には大いに賛成だが、大声でそう言うのは、魂で交感し合える年齢に達し、一度でも愛し合うことを経験してからでないと。私だってまだまだ小娘だし、今自分の信じているものが「愛」だと大きな顔をするのは憚られるけど。でも、今、私は間違いなく彼を世界で一番「美しい」と思っているし、チョイスした後に構築された新たな主観だが、本当にいい加減なチョイス前の主観とは全く異なるものだと、信じている。いずれ信じられなくなる日が来るとしても、23歳の「今」の鮮やかな気持ちを、自分のために彼のために書き残しておこうと思う。
唐突だが、私は「面喰い」だと思う。
ついでに言うなら、この文章を読んでいるアナタも多分「面喰い」だ。それは個人の判断・感情ではどうにもできないことだからだ。つまり、DNAに刻み込まれた宿命なのだ。色鮮やかな花に虫たちが引き寄せられるように、私たちは「美しい」異性に惹かれ、その「美しい」遺伝子を残したいと思うのだ。だから、「面喰い」であることを恥じる必要は無いし、美しくないことを理由に異性に捨てられても、それは責められることではない(すごく傷つくけど)。
私は生殖の適齢期を迎え、自分にしっくりくる異性を探している。こんなにたくさんいるオスの中から選ばなくてはいけない。さて、そういうときはやはり「美しい」オスがいいなあと思うのだ。ただ、ここで注意すべきなのは、その「美しさ」がものすごく主観的な基準によるということ。速水もこみち(実は大好き)や永井大(この人も大好き)の美しさが私の中で98だとしても、親友Aちゃんの中では25かもしれないではないか。
主観的でいいのだ。その基準の振り幅が、多分「好み」と呼ばれる。とにかく、ものすごく主観的な基準で、私は多くのオスの中から一人を選ぶのだ。今回私がわかったのは、このときに使われる主観基準と、いざ付き合ってからそのオスを見るときの主観基準が、似て非なるということ。
どういうことかというと、その他大勢のオスの中で「ある異性」を見るときと、自分だけを愛してくれる存在として「その彼」をオスと見るとき、「美しさ」って微妙に変化するのだ。敢えて大ざっぱに言うなら、チョイスの段階では誰もが辛口でそれこそ好みにうるさくなるのだが、一度愛し合う準備さえできれば(このオスと生殖したいと心が決めてしまえば)、「美しさ」はその価値を失うのだ。甘い匂いに誘われてその花に惹かれ、でもめしべの本当に近くまで寄ってみたら(その花の花弁の中に腰を落ち着けてみたら)匂いが強すぎて、私は麻痺する。アナタも麻痺する。そして、その花が本来いい匂いを漂わせていたかどうかなんて関係なくなるのだ。
「妥協」では決してない。(まあ、中にはそういう人もいるだろうが…。)
正直に書いていいかな?超絶美形を含むこの世の全ての男性の中で、はたして私の現在の恋人がどの位置にいるのかと考えると、「彼がこの世で一番格好いい!」とは言えない。「なんてひどいことを…」と思われるかもしれないが、彼も私を「この世で一番美人だ!」などとは絶対に思っていないはずだから、それでいいのである。不思議だが、とにもかくにも私と彼はお互いをチョイスした。で、これは私に関してだが、かつて自分の信じていたはずの主観基準が「絶対」を失っていくのを、心で、体で、感じるのである。主観とは曖昧なものなのだ。
「面喰い」の貴女(小娘含む)たちへ。絶望したくなるほど曖昧な自らの主観に固執してはいけない。まず目を瞑って、心で何かを感じ取れ。目を瞑って、その彼の内面から溢れ出る不可視なオーラに身を任せてみて、それが自分にとって受け入れられ得るものかどうか、まず考えよ。わかりやすく言うなら、その彼の発する声が好きかどうか。そしてその声が綴る彼の考え方や価値観に共感できるかどうか。その彼の魂が向かう方向を見定めよ。
そして、こちらも同じように声を発して、自分の考え方をその彼がどう受けとめてくれるかを、今度は目をしかと開いて、確認せよ。笑ってくれるか、頷いてくれるか、彼の瞳が自分を捉えているかどうかを確認せよ。自分の魂の向かう先が、彼のベクトルと交わっているのかどうかをもう一度見定めよ。
「なんだかんだでルックスは重要!」という意見には大いに賛成だが、大声でそう言うのは、魂で交感し合える年齢に達し、一度でも愛し合うことを経験してからでないと。私だってまだまだ小娘だし、今自分の信じているものが「愛」だと大きな顔をするのは憚られるけど。でも、今、私は間違いなく彼を世界で一番「美しい」と思っているし、チョイスした後に構築された新たな主観だが、本当にいい加減なチョイス前の主観とは全く異なるものだと、信じている。いずれ信じられなくなる日が来るとしても、23歳の「今」の鮮やかな気持ちを、自分のために彼のために書き残しておこうと思う。
利己的な遺伝子
2005年10月10日「俺がおまえを守るから。」と言われて、嬉しくない女がいるだろうか。
(貴女がそうなら、この文章を読まない方がいい。)
じゃあ、「私が貴男を守るから。」と言われたとき、男の人ははたしてどういう感情を抱くのだろうか。というのが、今、かなり気になるところ。
「人が人を守る」ということについて、少し考えてみよう。そもそも、誰かを全力で守らなければいけない状況なんてそうそう無いような気がするのだが、どうだろうか。たとえば、私が悪の組織から命を狙われている伝説の一族の末裔とかだったら、恋人が私を剣林弾雨から守るという状況もなくはない、だろう。否。物語でもあるまいし。時は平成だし、ここは日本なのである。
「帰り道は暗くて危険だから送っていくよ。」くらいの"守り"なら、まあ今もある。実際、夜道は危険だ。しかしこれはあくまでも男性→女性の話に限定される。じゃあ、女性が必死になって大切な男性を守るという場面は、この時代、この国のどこにある?という話になるのだ。(まあ、たまには女性の方が肉体的に強靱で、逆に男性を守った方がいいケースもあるのかもしれないけど。)
しかし、私は気付いたのだ。何も「身体的・肉体的に危険な状況」に限定する必要はないのだと。そして、「守る」という行為が、有事の際にのみ認められるのでは必ずしもないということにも。
わかり辛いだろうか。つまりね、実際に危険な状況(誰かに襲われるとか)じゃなくても、「人が人を守る」ことは可能だということ。そして、「守るモード」でスタンバイしてさえいれば、実際に襲われることがなくても十分誰かを守っている状態なのだ、と。行動としてではなく、状態として「守る」を捉えればいいのだね。「守る」という行為は、(あくまでも私の中で)「大切な人の背中を後ろから見つめる」に近いものがある。実際に火の粉が飛んできたら、すぐに教えてあげられるようにね。本当に火の粉が飛んでこなくても、私はきっとそのとき、誰かを守っている。
さて、話はここで終わりかと思いきや。「守る」という行為は一見素敵で尊いことのように捉えられがちだが、実はそうでもない。ということが、今日一番言いたかったこと。「守る」って、なんてエゴイスティックな行為なのだろう、と。
誰かを守りたいと思うとき、そのとき、その人は確実にエゴイストになっている。一番わかりやすい例を挙げれば、母親が乳飲み子を抱いて逃げまどうとき、どんな犠牲を払ってもその子を守るだろう。その子が世間的に見て「守られるべきもの」かどうかは一切関係ない。単に、自分にとって大切だからだ。自分にとって大切かどうかに正当な理由は必要ない。ただ、「大切」だから。これほどエゴイスティックなことはないよ。その乳飲み子のために誰かの命を奪うことだって、十分ある。「ただなんとなく大切」な人のために、不公平に他人を傷つけるのだ。
もう一つ例を挙げるか。たとえば、私が母親だとして、自分の「大切」な息子が、よせばいいのに自分より年少の子を「年上のロンリ」で責め立て泣かせたとしよう。年少の子が息子に噛みついたって、まあしょうがないではないか。公平に見て、悪いのはたぶん私の息子である。オマエが悪い!お兄ちゃんでしょ!と私は息子を叱るべきかもしれない。でも、私は多分、息子を守る。だって、「大切」だから。ひどいよね。ごっつ不公平だよね。公平さの欠片もないよね。でも、そういうことなのだ多分。誰かを「守る」ということは、そういうこと。とてもエゴイスティックなこと。
「あんた大人げないよ。」と批判されることなど、承知の上である。ただ、私は「大切」な人が「ダサい」などという言葉で批判されることが、我慢できない。ただ、嫌。それだけである。そういうときも真なる公平さを持ちつつ傍観できるもしくは無視できる人が、私のなりたい「素敵な大人の女性」ならば、そんなものにはなりたくないし、エゴイスティックな自分の方が好きである。
誤解しないでほしい。私は大人ではない。ただ、エゴなだけ。
(貴女がそうなら、この文章を読まない方がいい。)
じゃあ、「私が貴男を守るから。」と言われたとき、男の人ははたしてどういう感情を抱くのだろうか。というのが、今、かなり気になるところ。
「人が人を守る」ということについて、少し考えてみよう。そもそも、誰かを全力で守らなければいけない状況なんてそうそう無いような気がするのだが、どうだろうか。たとえば、私が悪の組織から命を狙われている伝説の一族の末裔とかだったら、恋人が私を剣林弾雨から守るという状況もなくはない、だろう。否。物語でもあるまいし。時は平成だし、ここは日本なのである。
「帰り道は暗くて危険だから送っていくよ。」くらいの"守り"なら、まあ今もある。実際、夜道は危険だ。しかしこれはあくまでも男性→女性の話に限定される。じゃあ、女性が必死になって大切な男性を守るという場面は、この時代、この国のどこにある?という話になるのだ。(まあ、たまには女性の方が肉体的に強靱で、逆に男性を守った方がいいケースもあるのかもしれないけど。)
しかし、私は気付いたのだ。何も「身体的・肉体的に危険な状況」に限定する必要はないのだと。そして、「守る」という行為が、有事の際にのみ認められるのでは必ずしもないということにも。
わかり辛いだろうか。つまりね、実際に危険な状況(誰かに襲われるとか)じゃなくても、「人が人を守る」ことは可能だということ。そして、「守るモード」でスタンバイしてさえいれば、実際に襲われることがなくても十分誰かを守っている状態なのだ、と。行動としてではなく、状態として「守る」を捉えればいいのだね。「守る」という行為は、(あくまでも私の中で)「大切な人の背中を後ろから見つめる」に近いものがある。実際に火の粉が飛んできたら、すぐに教えてあげられるようにね。本当に火の粉が飛んでこなくても、私はきっとそのとき、誰かを守っている。
さて、話はここで終わりかと思いきや。「守る」という行為は一見素敵で尊いことのように捉えられがちだが、実はそうでもない。ということが、今日一番言いたかったこと。「守る」って、なんてエゴイスティックな行為なのだろう、と。
誰かを守りたいと思うとき、そのとき、その人は確実にエゴイストになっている。一番わかりやすい例を挙げれば、母親が乳飲み子を抱いて逃げまどうとき、どんな犠牲を払ってもその子を守るだろう。その子が世間的に見て「守られるべきもの」かどうかは一切関係ない。単に、自分にとって大切だからだ。自分にとって大切かどうかに正当な理由は必要ない。ただ、「大切」だから。これほどエゴイスティックなことはないよ。その乳飲み子のために誰かの命を奪うことだって、十分ある。「ただなんとなく大切」な人のために、不公平に他人を傷つけるのだ。
もう一つ例を挙げるか。たとえば、私が母親だとして、自分の「大切」な息子が、よせばいいのに自分より年少の子を「年上のロンリ」で責め立て泣かせたとしよう。年少の子が息子に噛みついたって、まあしょうがないではないか。公平に見て、悪いのはたぶん私の息子である。オマエが悪い!お兄ちゃんでしょ!と私は息子を叱るべきかもしれない。でも、私は多分、息子を守る。だって、「大切」だから。ひどいよね。ごっつ不公平だよね。公平さの欠片もないよね。でも、そういうことなのだ多分。誰かを「守る」ということは、そういうこと。とてもエゴイスティックなこと。
「あんた大人げないよ。」と批判されることなど、承知の上である。ただ、私は「大切」な人が「ダサい」などという言葉で批判されることが、我慢できない。ただ、嫌。それだけである。そういうときも真なる公平さを持ちつつ傍観できるもしくは無視できる人が、私のなりたい「素敵な大人の女性」ならば、そんなものにはなりたくないし、エゴイスティックな自分の方が好きである。
誤解しないでほしい。私は大人ではない。ただ、エゴなだけ。
みえない壁とこれからも(私信、含む。)
2005年10月9日私が、もし、親になったら。
ということを、最近真剣に想像する。(別に妊娠はしていない。)
私の場合どうやら今年「厄年」らしいが、本当に激動の年だった。今年はあと三ヶ月弱残っているから、まだ何かあるのかもしれないけど、とりあえずもういい。しかし、「厄年」というのは一般的に悪いことが起こるのだろうが、今年はいいのか悪いのか判断する暇も無いほどに、しかも後から見ると全てが表裏一体で、悪いことばかりだったとも言い切れないのだ。
父の単身赴任、就職活動、浮気、親友との喧嘩、失恋、新しい恋、などなど。そして、本来起こりうるはずもないようなスゴイ出会いが、いくつもあった。いいか悪いかは別として、とにかく色々なことがあったのだ。2005年はおそらく、私の人生の節目となる。確信がある。
「色々なことがあったから成長した。」と書くのは、おそらく愚かしい。しかし、「色々なことがあったから変わった。」となら、言ってもいい?だって、私は間違いなく、去年までの自分と"違う"。しつこいようだが、良く変わったのか悪く変わったのかはわからないし、それは私が自分で判断することではない。(でも、多分、良く変わったと思っているんだな自分は。)
ここからが本論。
これもいいか悪いかは別として、私はやはり少し「大人」になってしまったのだと思う。特に、就職活動が大きかった。そう、若年層を上から見るような視点が、自分の意識とは無関係にできてしまったのだ。これは消えない。きっと、しばらく消えない。「敬うべき大人」がいっぱいいる安全な世界だったのに、今は「見守るべき子ども」がいることに気付いてしまったのだ。私はまだ23歳で、世間的には「大人」でもあり、「子ども」でもある。でも、もう完全な「子ども」ではいられない。いてはいけない。背伸びしてそう思うのではなく、実感として、ある。
問題は、じゃあ就職活動や失恋諸々を経験する前の「ワタシ」に、今の私が感じていることを説明したところで、果たしてわかってくれるのだろうか、ということ。「ワタシ」は多分、「概念」として私の言うことを理解するだろう。でも「実感」は永遠にできないのだ。永遠に、絶対に。養老先生が"バカの壁"の存在を提唱するなら、私はこれを"子どもの壁"と言おう。
誤解しないで!子どもがバカだと言いたいのではない。ただ、そこに壁があるということ。どうしても突き破れない壁があるということ。そして、その壁を無くす方法は、壁の向こうにいる本人(子ども)が自分で武器(経験)を手にして打ち破る以外にない。そちら側(子ども側)からしか、壁は無くせないのだ。絶対にしてはいけないのは、こちら側が壁の存在を相手に教えてしまうこと。「早くこちらにおいでよ。」と言うこともいけない。壁に気付きつつも、何もしてはいけない。じゃあ、どうする?ただ見守るのみ、だ。
私の母は、私のいたらないところを23年間見守り続けてきたようだが、最近、結構腹を割って本音を見せてくれたりする。私が元カレにフラれて「彼は絶対に帰ってくるよね?ね?」とすがりついても、「人生、そんなにうまくはいかないよ。お母さんの経験上云々…」という話は一度たりともしなかった。ただ、今だからわかるのだが、母は彼が帰ってこないこと位知っていたのだと思う。そして「彼を待つもん!」と豪語する私が、彼を忘れて別の誰かを好きになることも、知っていたのだと思う。でも私が自ら気付くまで、何も言わなかった。
そうなのだ。私が子どもにできることは、ない。(ないと言いつつ、書いてしまった。これはルール違反かもしれない。)でもしばらく見守ろうとは思う。すごく、大変だと思う。きっと軌道修正してやりたくもなるし、何しろ相手は子どもだから、こちらのこんな気持ちなどまったく知らずに「ヒドイこと」をしたり言ったりするのだ。それでも腹を立ててはいけない。でも、いつかわかる。ヒドイことや理不尽なことばかり溢れているように子どもには見えるこんな世の中も、実は見えない壁の向こうで多くの人が見守っていてくれるのだ。だから、世界はそんなにヒドイものではない。それだけは知っていてほしい。
なんて、良さげなことを書いた後に、言わなくてもいいことを蛇足のようにくっつけて〆とするのが私流なのですが。
ある戦いを見て、久しぶりに子どもじみた感情を抱いた今夜、珍しく能動的になる。今日みたいな文章を書いておいてなんだが、私もまだまだ子どもだ。本来、スルーすべきである。でも言いたい。たまには熱くなるときだってあるんだ。これは独り言ではない。
どんなに言葉を連ねても、私が永遠に「美的強者」であることは否定できない。実際、私はあなたの馴染めない「イイ人間」であると思う。自分ではそう思いたくないけど、あなたがそう思うのはすごくわかる。でも、それでも、あなたのことは認めていた。いや、過去形ではない。好きか嫌いかはどこかに置いておいて、あなたのことは認めている。応援しているのだ。嘘ではない。お互いに読みつつ腹が立っているのだろうが、別に一方通行でもいい。
そう思いつつも、今日みたいな私信を書くのは、すっげぇ個人的な感情によるものなのだけどね。たしかに、たしかに、たしかに、あなたが腹が立つような文章を書いた人も悪いけども…いや、もういい。個人的な感情なのだからもういい。
悪口はやめてくれ。それだけは許さん。
ということを、最近真剣に想像する。(別に妊娠はしていない。)
私の場合どうやら今年「厄年」らしいが、本当に激動の年だった。今年はあと三ヶ月弱残っているから、まだ何かあるのかもしれないけど、とりあえずもういい。しかし、「厄年」というのは一般的に悪いことが起こるのだろうが、今年はいいのか悪いのか判断する暇も無いほどに、しかも後から見ると全てが表裏一体で、悪いことばかりだったとも言い切れないのだ。
父の単身赴任、就職活動、浮気、親友との喧嘩、失恋、新しい恋、などなど。そして、本来起こりうるはずもないようなスゴイ出会いが、いくつもあった。いいか悪いかは別として、とにかく色々なことがあったのだ。2005年はおそらく、私の人生の節目となる。確信がある。
「色々なことがあったから成長した。」と書くのは、おそらく愚かしい。しかし、「色々なことがあったから変わった。」となら、言ってもいい?だって、私は間違いなく、去年までの自分と"違う"。しつこいようだが、良く変わったのか悪く変わったのかはわからないし、それは私が自分で判断することではない。(でも、多分、良く変わったと思っているんだな自分は。)
ここからが本論。
これもいいか悪いかは別として、私はやはり少し「大人」になってしまったのだと思う。特に、就職活動が大きかった。そう、若年層を上から見るような視点が、自分の意識とは無関係にできてしまったのだ。これは消えない。きっと、しばらく消えない。「敬うべき大人」がいっぱいいる安全な世界だったのに、今は「見守るべき子ども」がいることに気付いてしまったのだ。私はまだ23歳で、世間的には「大人」でもあり、「子ども」でもある。でも、もう完全な「子ども」ではいられない。いてはいけない。背伸びしてそう思うのではなく、実感として、ある。
問題は、じゃあ就職活動や失恋諸々を経験する前の「ワタシ」に、今の私が感じていることを説明したところで、果たしてわかってくれるのだろうか、ということ。「ワタシ」は多分、「概念」として私の言うことを理解するだろう。でも「実感」は永遠にできないのだ。永遠に、絶対に。養老先生が"バカの壁"の存在を提唱するなら、私はこれを"子どもの壁"と言おう。
誤解しないで!子どもがバカだと言いたいのではない。ただ、そこに壁があるということ。どうしても突き破れない壁があるということ。そして、その壁を無くす方法は、壁の向こうにいる本人(子ども)が自分で武器(経験)を手にして打ち破る以外にない。そちら側(子ども側)からしか、壁は無くせないのだ。絶対にしてはいけないのは、こちら側が壁の存在を相手に教えてしまうこと。「早くこちらにおいでよ。」と言うこともいけない。壁に気付きつつも、何もしてはいけない。じゃあ、どうする?ただ見守るのみ、だ。
私の母は、私のいたらないところを23年間見守り続けてきたようだが、最近、結構腹を割って本音を見せてくれたりする。私が元カレにフラれて「彼は絶対に帰ってくるよね?ね?」とすがりついても、「人生、そんなにうまくはいかないよ。お母さんの経験上云々…」という話は一度たりともしなかった。ただ、今だからわかるのだが、母は彼が帰ってこないこと位知っていたのだと思う。そして「彼を待つもん!」と豪語する私が、彼を忘れて別の誰かを好きになることも、知っていたのだと思う。でも私が自ら気付くまで、何も言わなかった。
そうなのだ。私が子どもにできることは、ない。(ないと言いつつ、書いてしまった。これはルール違反かもしれない。)でもしばらく見守ろうとは思う。すごく、大変だと思う。きっと軌道修正してやりたくもなるし、何しろ相手は子どもだから、こちらのこんな気持ちなどまったく知らずに「ヒドイこと」をしたり言ったりするのだ。それでも腹を立ててはいけない。でも、いつかわかる。ヒドイことや理不尽なことばかり溢れているように子どもには見えるこんな世の中も、実は見えない壁の向こうで多くの人が見守っていてくれるのだ。だから、世界はそんなにヒドイものではない。それだけは知っていてほしい。
なんて、良さげなことを書いた後に、言わなくてもいいことを蛇足のようにくっつけて〆とするのが私流なのですが。
ある戦いを見て、久しぶりに子どもじみた感情を抱いた今夜、珍しく能動的になる。今日みたいな文章を書いておいてなんだが、私もまだまだ子どもだ。本来、スルーすべきである。でも言いたい。たまには熱くなるときだってあるんだ。これは独り言ではない。
どんなに言葉を連ねても、私が永遠に「美的強者」であることは否定できない。実際、私はあなたの馴染めない「イイ人間」であると思う。自分ではそう思いたくないけど、あなたがそう思うのはすごくわかる。でも、それでも、あなたのことは認めていた。いや、過去形ではない。好きか嫌いかはどこかに置いておいて、あなたのことは認めている。応援しているのだ。嘘ではない。お互いに読みつつ腹が立っているのだろうが、別に一方通行でもいい。
そう思いつつも、今日みたいな私信を書くのは、すっげぇ個人的な感情によるものなのだけどね。たしかに、たしかに、たしかに、あなたが腹が立つような文章を書いた人も悪いけども…いや、もういい。個人的な感情なのだからもういい。
悪口はやめてくれ。それだけは許さん。
畏怖と愛の相関性
2005年10月8日"リスペクト"というものについて、考える。
(個人的に、早急解決を迫られる致命的な問題。)
人が人を見るとき、その人がどんなことをしているか(仕事内容、勉強内容、などなど)という事項は果たしてどれくらい重要なのだろうか。あとはどこに所属しているか。たとえば、嫌な話だが、私は恋人がもしD通に勤めていたら、「D通の人なのだわ。」というレッテルを捨てきれない。いや、捨てようと思うことはできても、そもそも捨てようと思い頑張ること自体、その概念(「この人はD通の人なのだわ」という)を既に持っているという証明であるし。
いや、まあ、いい。もう率直に書こう。私の恋人は、私の憧れていた会社にお勤めなわけだ。自分が入社できるとは思っていなかったし(現に試験も面接も受けていない)、今「入社できますよ。」と言われても、多分入らない。でも、ソレはソレとして、私はその会社に憧れていた。なんか、すごそうだったから(←めちゃ、的確な表現。今もそう思っている)。
そんな彼はあまり自分の仕事のことを話さないのだけど、夕べは酔っていたせいもあるのか珍しく饒舌で、興奮していた。で、私は就職活動をしていたせいもあるのだけど、社会人の皆様がおしなべて「偉い」ように思えてしまうのだ。どんな仕事をしているかという問題よりも、先にこれがある。「社会人」というだけで、まず「偉い」。しかも、その仕事内容が私の憧れていたものだったらなおさら。総括すると、私は彼を"リスペクト"しているのだ。
私はその"リスペクト"を彼に見せていいものかどうか、悩む。そして、夕べ、ついに見せてしまった。明かしてしまった。「尊敬してるんだからいいじゃん。」という簡単な話ではない。それこそ、私は彼にレッテルめいたものを貼り付けているのではないのか。
敢えてここに書くまでもないが、私は彼が○○社の人間だから好きになったのかといえば、断じて違う。ってか、好きになってから知った(あの瞬間惚れたのだ、と明確に言えないのだが、それにしても)。だから、彼の「どこでどんな仕事をしているか」という事項は、私がその人を好きになるかならないかには多分あまり影響していない。しかしね、実際付き合い始めるとこれは相当重要なのだ。
さらに。
「○○社の人間でこういう仕事をしている。すごいなあ。」という"リスペクト"以外に、私は彼をかなり人間として買いかぶっている傾向があるので、つまり、ダブル・"リスペクト"だ。リスペクトしまくりでどうしましょう、という。神格化しているわけではないのだが(変なこと言ったりもするし。エロだし。)、この感情を抱き続けることは彼にとって迷惑なのではないだろうか。
私も、実は、人に話すとたまに「すごーい!!」と言われたりする大学に通っている。でも、そう言われると、「ありがとう。」と言いつつ、なんか違和感を感じたり。「別にすごくないよ。浪人したし。」とか言いたくなるし、要は快か不快かでいえば、不快寄りの感情が発生する。それはなぜかといえば、私は「○○大の学生だ」という以外のアイデンティティに関して自信があるからだ。身分や肩書きを取っ払っても、残る何かがあると信じているから。だから、そこを見てほしいのだ。
じゃあ、彼に対してそれができているのですか、お嬢さん。という話になる。ええ、できていません。
仮に、彼に対して仕事や肩書きに関する"リスペクト"が消えたとしても、私は彼の考え方や人生の捉え方に深い共感を覚えるので、もう一つ存在する"リスペクト"が消えないの。男として、人間として、彼を「素敵」だと思う。でも、男と女が愛し合うときに、どれくらい「互いを敬う」意識が必要なのだろうと考えると、私は本来必要な分以上に彼を敬っているのではないか、と。「敬う」という感情は、本来よそよそしいものではないのか。だって、下民がやんごとなき人を見るとき、畏怖はすれどもその感情は愛とはほど遠いような気がするから。
そう。「畏怖」は、愛とは違う。
でも、そうじゃないの。
私は彼のふにゃ〜とした笑顔が好きで(笑うと目尻に皺ができるの)、あとは言葉選びに慎重になっているときに見せる陰りが好きで、童顔だけどなぜかセクシーな声や雰囲気が、「ただ」好きなの。それは畏怖でもなんでもない。所属する会社も、人生の捉え方も、そういうときは関係ないのに。
ただ、それがうまく伝えられない。「言葉」の限界を感じずにはいられない。苦しい。
(個人的に、早急解決を迫られる致命的な問題。)
人が人を見るとき、その人がどんなことをしているか(仕事内容、勉強内容、などなど)という事項は果たしてどれくらい重要なのだろうか。あとはどこに所属しているか。たとえば、嫌な話だが、私は恋人がもしD通に勤めていたら、「D通の人なのだわ。」というレッテルを捨てきれない。いや、捨てようと思うことはできても、そもそも捨てようと思い頑張ること自体、その概念(「この人はD通の人なのだわ」という)を既に持っているという証明であるし。
いや、まあ、いい。もう率直に書こう。私の恋人は、私の憧れていた会社にお勤めなわけだ。自分が入社できるとは思っていなかったし(現に試験も面接も受けていない)、今「入社できますよ。」と言われても、多分入らない。でも、ソレはソレとして、私はその会社に憧れていた。なんか、すごそうだったから(←めちゃ、的確な表現。今もそう思っている)。
そんな彼はあまり自分の仕事のことを話さないのだけど、夕べは酔っていたせいもあるのか珍しく饒舌で、興奮していた。で、私は就職活動をしていたせいもあるのだけど、社会人の皆様がおしなべて「偉い」ように思えてしまうのだ。どんな仕事をしているかという問題よりも、先にこれがある。「社会人」というだけで、まず「偉い」。しかも、その仕事内容が私の憧れていたものだったらなおさら。総括すると、私は彼を"リスペクト"しているのだ。
私はその"リスペクト"を彼に見せていいものかどうか、悩む。そして、夕べ、ついに見せてしまった。明かしてしまった。「尊敬してるんだからいいじゃん。」という簡単な話ではない。それこそ、私は彼にレッテルめいたものを貼り付けているのではないのか。
敢えてここに書くまでもないが、私は彼が○○社の人間だから好きになったのかといえば、断じて違う。ってか、好きになってから知った(あの瞬間惚れたのだ、と明確に言えないのだが、それにしても)。だから、彼の「どこでどんな仕事をしているか」という事項は、私がその人を好きになるかならないかには多分あまり影響していない。しかしね、実際付き合い始めるとこれは相当重要なのだ。
さらに。
「○○社の人間でこういう仕事をしている。すごいなあ。」という"リスペクト"以外に、私は彼をかなり人間として買いかぶっている傾向があるので、つまり、ダブル・"リスペクト"だ。リスペクトしまくりでどうしましょう、という。神格化しているわけではないのだが(変なこと言ったりもするし。エロだし。)、この感情を抱き続けることは彼にとって迷惑なのではないだろうか。
私も、実は、人に話すとたまに「すごーい!!」と言われたりする大学に通っている。でも、そう言われると、「ありがとう。」と言いつつ、なんか違和感を感じたり。「別にすごくないよ。浪人したし。」とか言いたくなるし、要は快か不快かでいえば、不快寄りの感情が発生する。それはなぜかといえば、私は「○○大の学生だ」という以外のアイデンティティに関して自信があるからだ。身分や肩書きを取っ払っても、残る何かがあると信じているから。だから、そこを見てほしいのだ。
じゃあ、彼に対してそれができているのですか、お嬢さん。という話になる。ええ、できていません。
仮に、彼に対して仕事や肩書きに関する"リスペクト"が消えたとしても、私は彼の考え方や人生の捉え方に深い共感を覚えるので、もう一つ存在する"リスペクト"が消えないの。男として、人間として、彼を「素敵」だと思う。でも、男と女が愛し合うときに、どれくらい「互いを敬う」意識が必要なのだろうと考えると、私は本来必要な分以上に彼を敬っているのではないか、と。「敬う」という感情は、本来よそよそしいものではないのか。だって、下民がやんごとなき人を見るとき、畏怖はすれどもその感情は愛とはほど遠いような気がするから。
そう。「畏怖」は、愛とは違う。
でも、そうじゃないの。
私は彼のふにゃ〜とした笑顔が好きで(笑うと目尻に皺ができるの)、あとは言葉選びに慎重になっているときに見せる陰りが好きで、童顔だけどなぜかセクシーな声や雰囲気が、「ただ」好きなの。それは畏怖でもなんでもない。所属する会社も、人生の捉え方も、そういうときは関係ないのに。
ただ、それがうまく伝えられない。「言葉」の限界を感じずにはいられない。苦しい。