大学生のうちにしておくべきことを問うたとして、もちろん時間に余裕がない社会人の方々なら素敵な解答を用意してくれるだろうけど、私は「運転免許を取得しておくこと」だと思っている。

私は大学一年の冬〜大学二年の春にかけて取得したので、今年の秋(誕生月)に初めての更新を迎える。

学生としては割りと乗っている方なので、さすがに若葉マークを貼り付けるレベルではなくなった(と思う)。運転に慣れてきたこの位の時期が一番危ないらしいけど。

相変わらず前置きが長くて自分でも呆れてしまうけど、つまり私の趣味(の一つ)はドライブなのである。大勢で遠出するのも好きだし、仲のよい友達を助手席に乗せて近所を走るのも好きだし、一人で好きな音楽をかけて乗るのも好き。

で、特に一人きりで走るときにいつも思うこと。閉め切られた車内は程よく狭くて、しかも空調設備もあって快適だし、更にオーディオもあるなんて、車というのはなんて考え事をするのに適しているのだろう、と。

今日はリビングに置く小物を探している母に代わって、ちょっと遠くのホームセンターへ。で、また色々考えたわけなんだけど。

最近は色々な人の話を聞く機会が多くて、その度に色々と考える。完璧な大人がいるとしてその人が100だとするなら、自分は50にも到達していないけど、それでも中・高時代が20位だったと思えば、それなりに成長したような気もする。

それくらい今の私は大人でも子どもでもない半端者(もちろん年齢的には大人なんだろうけど)で、そんな私が50から70にステップアップするにはどうしたらいいのかなと。

今は自分が「大人だな。」と感じる人の意見を、そのまま正しいと受け止めてしまう。それくらい彼らの意見には隙がない。別に批判したくないわけではなくて、批判したい部分が見つからないというだけ。

ただね、少しずつだけど、自分なりの正義みたいなものが構築されつつもあるのね。それは善か悪かに分ければ100%善だとは言い切れないけど、自分はそれを頼りにしたいと思う。

今までは「おまえのは善ではないぞ。」と糾弾されると、慌てて自分の正義さえひっくり返したりしたけど、これからは「そうだよ。でも自分の中ではこれこそが善なの。」と言えるようになりたい。

100%の善を構築している人が大人なのではなくて、たとえ限りなく悪に近い正義でも、自分の正義に何かしらの自信(ときにそれは責任ともいえる)を持っている人が大人なのかな。

と、今日はホームセンターへの道すがらこんなことを考えた。

夏 孵化の季節

2005年7月29日
久々に美容院へ。

衝動的に切りたくなって、速攻予約。肩より短くするのは高校卒業以来である。なんとなくスカスカして落ち着かないが、身軽になった気がして爽快。

そう言えば、今までの私は「なりたい髪型」というものが切る前にイメージされていて、それを再現するというのが常であった。そのイメージは雑誌のモデルのスタイルだったり、芸能人のものであったり、友達のものであったり。自分が似合うかどうかはとりあえず二の次で、まずそれを「真似したい」という気持ちが先立っていた。

私の髪は「多い・固い・太い」という三重苦を抱えており、必然的に長く伸ばすことが人より困難である。朝のスタイリングが私の貴重な時間をどれだけ浸食していたことだろう。でもどうにかして「なりたい髪型」にするために、私は手間暇を惜しまなかった。何年もね。

そもそも私のキャラは「守ってあげたくなる系」では決してないし、その割りにはいつもキュートな雰囲気をオーダーしていた気がする。ここ一・二年は華奢で愛らしい服装を好んでいたから、髪型もそれに合わせて巻いてみたりなんだかんだしていたけど、でもそれって私のキャラだったのかな。

などと思ったので、今日はいつもの美容師さんに短くしたい旨だけ伝えて、私のクセや頭の形を考慮してもらうということで全てお任せした。ちなみに私は彼(A氏・30歳)を全面的に信用している。いつも無理難題を申しつけていたけど、彼に頼んで失敗したことが無かったから。

そして完成したのが、ちょっと前下がりのストレートボブ。前髪はセンターパートにも横流しにもアレンジ可能で、短いけど応用が利く。そして何より最初に鏡を見て出たのが、「うわあ、私っぽい。」という率直な感想。

どのようなファッションが好きかと問われて「その人に似合ったスタイル」と答えるのは簡単だけど、実はこれが一番難しいと思う。似合っているということは、その人の顔や体型云々も重要だけど、いわゆる「キャラ」という要素が多く含まれるのだろう。ふわふわしてて優しい雰囲気のコならゆるゆるパーマが似合うかもだし、意志が強くてハッキリ意見を言うコならストレートの辛口ヘアがいいのかもしれない。

自分が着たい服とかなりたい髪型を追求するのが悪いと言いたいのではなく、本来の自分をないがしろにしてはいけないということ。自分がどうすれば一番気持ちよく生きていけるのかを考えるのは重要だし、見た目(服装とか髪型とかメイクとか)だってそれに準じていいはずだ。

あるべき理想に自分をすり寄せるのは私の必殺技だ。でもそろそろ現実に目を向けなくてはいけないのだろうと思い始めた22歳の夏である。

まずは簡単にできる見た目からね。

こんな日もある

2005年7月25日
携帯料金の引き落としが今日だったのに、残高が千円にも満たないということについさっき気付き、うっかりバイト先で「やばーい!」と叫んでしまった。

というわけで、がっくりと肩を落としながら地元のauショップへ。雨に降られるわ道路は渋滞するわで散々な目に遭った挙げ句に到着。

そういえばこの営業所には、私の10年来の友達の知り合い・Nさんが勤め始めたらしく、もし見かけたら挨拶でもしようと思っていたところ、なんといきなり本人登場。(といってもお互い初対面だが。名札で確認。)

どうやら向こうも私を知っていたらしく、面倒な手続きの時間がちょっぴりほんわかムードに。

だが。(↓以下、会話再現。)



Nさん:「○○ちゃんの中高時代のお友達ですよね?」
私  :「はい、そうなんです。」
Nさん:「いつも○○ちゃんのおうちでごはんおかわりする方ですよ    ね?○○ちゃんのお母さんから聞きました。」



マジかよ。

「素敵な人よ。」

2005年7月23日
夢を見た。

夢の話というのは、本人にとっては人に知らせたいほどのものであっても、いざ口に出すと映像を知らない人にとっては全く面白くない、という場合がほとんどである。

それを知っていて敢えて書くわけだが、そもそもこれは自分のBLOGだった。つまり何を書いても多分OK。(だと思う。)

そうだ。夢の話をする前に、長過ぎる前置きをしておこう。実は夕べ糸井重里さんのコラムを読んだのだけど、それがなかなか興味深かった。(興味のある方は『ほぼ日刊イトイ新聞』をご参照あれ。ネットで閲覧可能です。)

なんでも廃盤レコード収集が趣味の方が、いつものようにそういうものを集めた店に行ったところ、「こんなレコードを一体誰が買うのだ!?」と強く思ったそうで、でその瞬間「ああ、俺が買うのか!」と思いついたそうなのだ。で、この「ああ、俺が買うのか!」というのが重要で。

つまりね、こういうこと。「こんな男誰が好きになるんだろう!?」と強く思うようなときってよくあると思う。でも、そういうときはほぼ間違いなく、そう思った女はそいつに惚れているそうで。「ああ、私が好きになるのか!」ということだそうだ。

私は友人に紹介すると首をかしげられるような人と付き合うことが多いのだけれど(今の彼氏はそこそこイケてると思ってたのにそういえば誰にも羨ましがられないな。)、だからこそ誰かに「彼氏はどんな人?」と聞かれたとき、まずけなすことにしている。「やってられないわよ、ったくもう!」と話しつつも、「まあ結局好きなんだけどね。」で締めくくるのだ。

で、ようやく夢の話。

私は洒落たカフェのような場所で、誰だかわからない人とお茶をしているという設定だ。その人と私は気のおけない仲で、今更お互いに関して知らないことも遠慮することもない。で、対面に座るその人が「あなたの今度の彼氏はどんな人?」と聞いてくる。

「素敵な人よ。」

普段饒舌で言わなくていいこともまくしたてる私が、たった一言そう言って、さりげなくコーヒーだか紅茶だかを飲むのだ。

あとはよく覚えていない。でもこの夢に出てきたワタシは、今私が望む理想のワタシのような気がする。素敵なものを素直に素敵と言える姿勢も良いけど、それ以上に、その素敵さを人に話すことでこぼれるように消えてしまう部分さえ勿体なく思っているような。良いものを自分だけで全て舐め尽くしたいと思っているような。エゴイストではあるんだけど、自分ではそれでいいと割り切っているような。

「理想のワタシ」が心の奥底に深く眠っていることは知っていたけれど(もちろん自分で認識している「理想のワタシ」だっているよ。)、何もここまで露骨に夢という形をとって現れなくてもいいじゃない、と目が覚めて思った。

最高の相談相手とは

2005年7月21日
「相談」って、すごくナンセンスだと思う。

なぜなら「切り札」があるからだ。つまり、「まあ最後はあなたが決めることだから」って言ってしまえば、そこに至るプロセスが大したものでなくても、それなりに綺麗にまとまるということ。

でも1対1のババヌキがつまらないのは、確実に目の前の相手がババを持っているのがわかるからでしょう?それと同じだ。「切り札」があるのを知っていながらゲームを始めたところで、全然面白くないではないか。でも人は人に相談する。もちろん私も。なぜだろうと思う。

私が第三者に意見を求めるのは、その相手が、自分に責任の無いことに対して好き放題言うのを聞きたいからだ。むしろそうでなければ聞きたくない。相談するこちらサイドとしては、最後に自分が決めなくてはいけないこと位、百も承知である。

ということで、私は最近色々とあるので、人から相談されたり相談する頻度も高いのだが、その度になんとも言えない白々しい気分を感じたりする。つまり、自分で相談に答えながら「私、使い古された綺麗事ばっかり言ってるなあ」と思うのだ。

よくわからないけど、人に気を遣いすぎているのかなぁと。本当は「あなたの人生がどうなろうと私に影響は及びません」という位のスタンスで、好き放題言っていいのかもしれない。もちろん相手を傷つけないレベルで、というのは重要だろうが。

一番多感な時代を一緒に過ごしたというのも、ときに厄介なものだ。彼女たちの長所・短所も知っているし、乗り越えた苦悩の数も把握できてしまうから。

一番的を射た(ときにそれは辛辣でもある)解答というのは、そこまで距離が近くない人からこそ飛び出るものかもしれない。その相手がある程度年上で経験豊富であるなら、なお良い。

子宮が訴えること

2005年7月15日
最近何もしていないというわけではないのに、でも忙しくはなくて、かつ暇というわけでもないというバランスの取れた日々を送っている。

考えてみると、私の人生はなんて慌ただしかったのだろう。

中学校入学と同時に塾に通い始め、さらに部活も始まった。三年間勉強した割には大したことない地元の公立高校に進学し、またしても部活に励む日々。その後浪人し、毎日予備校通い。大学前半はチアにのめり込んで恋に狂い(まさに狂うという表現が正しかった)、激動の就職活動期を終えて、今に至る。

不思議なもので、肉体が休まると、それとは反比例するかのごとく精神は研ぎ澄まされるようで。どうして私は今まで恋をしまくってきたのかとか、そういうことを考えている。

大掃除中に高校生のとき書いた作文が出てきて、「女は子孫を残すために生まれてきた。それ以上でもそれ以下でもない。」みたいなことが書いてあって、この頃から私の人生観(のようなもの)は既に固まっていたのだなと。

今思うと、欲しいのに子どもに恵まれない方々にすごく失礼だ。子どもを生めなかったら生まれてきた意味が無いとでも言いたげだし、本気でそう思いこんでいた当時よりは視野も広がったけれど。

男であれば誰でも恋愛対象としてまず見るような女がいたら、大抵嫌われるだろうけど、私たち女にとって男はそういう対象であってよいのではないか。同時に男にとっても女はそれでいいと思う。それとは別に、セックスしないけどお互いを大事にし合える関係だってあるけど、それこそが高尚なものだとする見方はあまり好きではない。

つがいで飼うと必ずその雌雄で交尾する虫がいるけど、よく考えるとつまりそういうものなのかなぁと思うのだ。「結婚」なんて制度がやたら仰々しくなっているからみんな構えちゃうけど(つまり結婚相手を選ぶのに慎重になるけど)、もしそうじゃなかったらどうなっているのだろう。

結婚して何十年も一緒に生きていかねばならないとなれば、誠実で人の気持ちを思いやれて堅実で…って人がいいに決まっている。となると恋愛する時の価値観が作られてしまう。あくまでも結婚を前提にして付き合うとすればだけど。でもこの価値観があるから苦しむ人が多いのは事実だ。

今部屋の窓から見える通行人とセックスすることだってできるし、実際それで妊娠することもあるだろうし、じゃあ結婚って何なんだろうと。そんな二人の間に生まれた子どもだってこの世に存在した瞬間から意志を持つわけだし、それがきちんとした夫婦の間に生まれた子どもと何か違うのかといえば何も違わない気がする。

かといって、今から家を飛び出していきなりセックスしたりはしないけど。

ただ初潮が遅かった私(こんなことここで書いていいかわからないけど)はようやく子宮がちゃんと機能するようになってきて、とすれば今が丁度子作りの時期に決まっているのに、どうでもいいルーチンワークにばかり貴重な時間を費やしているような気がしてならないのだ。

別に性的欲求が高まっているとかそういうことを言いたいのではないけど、でも神の御意志になんとなーく逆らっているような。

そんな感じで居心地が悪い。
私は長い間、「頭が良い」というのは善いことに違いないと思っていた。いた、という部分に注目。

そしてそれと同じように、「理屈が通っている」ということに対してもある種の絶対的な価値を与えていたようだ。これも善い意味で。世の中の事柄が全て何らかの秩序に従っていれば(しかも例外無く)、なんて素敵なのだろうと。

でもどうやらそうでもないらしい。

かといって「理屈が通っている」ことが悪いことだと言いたいのではない。「理屈が通っていない」ことが必ずしも悪いことではないとわかったのだ。

世の男性諸君は「女心がわからない…」といって苦労されているようだけど、こう言っちゃなんだが多分未来永劫わからないと思う。そもそも「わかる」ということは、混沌の中に自分なりの秩序を発見することだけど、女心には秩序となり得そうなちょっとのとっかかりさえ無いときがあるから。

わかり辛いから、例を出そうか。

あの有名すぎる青春小説『ノルウェイの森』(村上春樹著)の登場人物で、ミドリという女性がいる。彼女が確かものすごく良い例となる発言をしていたので紹介しよう。(でも手元に本が無いのでかなり正確さに自信が無い。)

ミドリの理想とする男性は、たとえば彼女が何の脈絡も無く「イチゴのショートケーキが食べたい」と言い出したら、何もかもを中断して買いに行く人だそうだ。そして彼が散々苦労して買って来ても、「もうこんなの食べたくなくなっちゃったわよ!」と言って箱ごと窓から投げ捨てるとする。でも彼はこう言うべきなのだ。「ごめんよミドリ。君がイチゴのショートケーキを食べたくなくなっちゃうことを、僕は予想するべきだったんだ。じゃあ今は何が食べたい?またすぐに買いに行くよ。」と。

「なんだオマエは!!」と言いながら思わずケーキをぶつけてやりたくなりそうだが、この発言は時に秩序の存在しない女心を、かなりピンポイントで捉えていると思う。

私が何とも言えず不機嫌な時、多くの男性(ってそんなに多く付き合ったことないけどさ)は私に理由を問う。でも理由というのは、それなりに理屈が通ってないと相手に納得してもらえないし、だからこちらは説明できないのだ。かなりストレートに言って構わないなら、「よくわかんないけどあんたが私の言うことを何でも黙って聞いてくれないのがムカつく!!」ってやつだ。

全く理屈は通っていない。でもそれが正しいか正しくないかの問題以前に、既にそういう感情が存在しちゃってるんだから、それはそれでなんとか対処するしかない。

それはわかっているのだが。

大きな腕

2005年7月12日
彼氏と距離を置き始めたのをきっかけに、やはり私の運勢は右下がりになるのだろうかと思いきや、実は交友関係は活発化している。

今日はバイトの後、先輩サヤカさん(4月30日の日記参照)と焼肉屋へ。

ここ最近は毎日家でごはんとみそ汁ばかり食べていたので(私はごはんもみそ汁も好きなんだけど)、かなり新鮮。女二人で開店早々入店し、大盛りライスを注文。酒は頼まず水で、というあたりから「使える金は全て肉に!」という気合いが感じられたハズ。

サヤカさんは私より6つ年上だが、最近これ位歳の離れた友人と話す機会が多い。そしてそれはとても楽しい。

女の子は年上の男性に弱いと言われている。個人的には5つも6つも歳の離れた恋人を持つ友人の気持ちはさっぱり理解できなかったが、それは単に年上と話す機会が極端に少なかったせいかもしれない。そしてたまたま同い年の男性とばかり付き合いを続けてしまったため、「私には年上は合わないんだな」と勝手に思いこんでいたようにも思う。

サヤカさんを含む年上の方と話しているとき、私はなぜかいつもよりリラックスできる。所詮私のような小娘がどんなに頑張ったところで、彼らは私より一枚も二枚も上手なのだ。(まあ歳の割に子どもっぽい人もいるんだろうけど)隙を見せるまいと努力しても、きっとあちらには丸見えなのだろうと思う。だったらいっそがら空きの状態で臨もう、といったところ。

彼らは私が一所懸命話したことでも「それは違うよ」と否定するが、その否定ぶりが私には心地よかったりする。いつもの私なら「相手の臨む理想の自分」になるべしと肩を張るところなので、否定されるともちろんとても恥ずかしい。でも同時に心地よい。不思議な感覚だ。

なんちゅうか、尊敬する師匠と試合したもののやっぱり一蹴されて、負けたからすごく悔しいんだけど、でも「師匠…さすがです…」という思いでなんだか清々しいみたいな。

サヤカさんは女の人なのにガーリック好きで、脂の乗ったハラミ・ニンニク風味をたっぷり食べていたので、私は「あーあ」と思ったけど(いや、もちろん私も食べたのだが)、ニンニク臭い息を吐きながらもそれでも素敵さを失っていなくて。年齢を重ねただけで私も素敵な女性になれるのかといえば、それだけじゃ駄目だろうなと思った。

だから30になるまではひたすら走り続けるつもりだけど、そんな私にあからさまに支援をしてくれる男性ではなく、ちょっと離れたところから余裕を持って見守ってくれるようなちょい年上の男性が私には必要なのかなぁ、と思ったりした。

でも同じ立ち位置にいるからこそ共有できるものもあるだろうし。そう思いつつ、机の上の同い年の彼氏の写真は伏せたままだが。
私は、「良い人ぶる」という癖が脳天からつま先まで染みついているので、何かにつけ中庸を好む。

「言わなくてもいいことを言うよね」と人に言われながらも、「でも極端な意見を言うことはないよね」と思われるよう調整しているのだ。極端に甲がいいと言うと、乙を好む人からの攻撃を受けるからだ。

幸い「どうしても甲(または乙)がいい!!」と思うことはあまり無いし。でも場合によっては甲が好きな人の前で「甲が好き」と言ってみたりする。しかしすぐその後に「え、私乙が好きなのに…」という人が出現したりして、焦るのだ。いつもいつも他人に迎合しているわけではないのだが、それ以前に物事の好き嫌いがイマイチはっきりしていないあたりに原因があるのかな。

こういうのは直したいところだと思うのだが。

つい最近も「おしゃれ頑張ってない人は嫌い」とうっかり書いてしまったため、よくわからない焦りを感じる羽目になった。

実際はどうなんだろう。好き嫌いを書く時はきちんと自己分析ができる機会でもあるので、この際真剣に考えてみよう。

……(考え中)。

うん、「好きではない」というあたりが一番正しいか。

(余談だけど、「嫌い」と「好きではない」を取り違えて後で厄介なことになるケースは私の人生で多い。このへんの微妙な判断ができるようになれば、今後大人に近づけるのかな。)

そしてもう一つ重要なこと。「甲が好きだ」と認識する場合、必ずしも「だから乙が嫌い」とはならないってこと。その逆も然り。人間がコンピューターと違ってすごく複雑な所以は、多分こういうところにあるんだろうなと思う。甲と入力してすなわち「乙はナシ」って出てきちゃえば、アンドロイドも簡単に作れるだろうに。

おっと。話がずれたけど、結局おしゃれを頑張るか頑張らないかなんてその人の問題だし、尊敬する友人いわくの「自分に決定権が無いことは気にしない」ってやつを適用するのがふさわしいかと。だからこそ「嫌い」ではなく、「好きではない」なのだ。

でもみんな第一印象で誰かを見るときはやっぱおしゃれしてる人の方が評価高くなるし、それはどうしてなのかと考えると、多分「自分に決定権が無いことではない」からだ。だってその人がおしゃれしてるかしてないかは、自分がその人を好きになるかならないかに関わってくる(それがどれくらい判断に食い込むかは個人差だけど)でしょう?

でもきっと忘れちゃいけないのは、おしゃれしてたからって後で評価がグンと下がることもあるし、逆におしゃれしてなかったけど後で挽回できるときもあるってこと。ぶっちゃけ今の彼氏は、二回目に会ったときも私の名前だけ覚えてなかったし。(あとで聞いたら格好が好きじゃなかったそうな。ひどいですねぇ。)

でもそれさえわかっておけば、おしゃれしてた方が何かと便利な気がする。多分。(名前も覚えてもらえるし…)
ここ最近色々あったけど、こういう時は気分転換がいいのかなと思い、部屋の模様替えを。

年末の大掃除ができていなかったので、掃除も兼ねた。そして自分に自信を付け直すために、バイト先でもらった表彰状を壁に貼り付けた。鬱々した気を払拭するために、就職活動グッズと受験生時代の残りかすをまとめて燃えるゴミへ。

ついでに洋服ダンスも洗いざらい整理。要らない服(って言ってもそんなに無いんだけど…)を全部処分。バッグも処分。いつか使うかもと思ってとっておいた化粧品の残りとか空き箱とかも全部処分。ついでに今更読まない雑誌も処分。青春時代の思い出も処分。そしたら

あーら、不思議。

部屋にはほとんど何も無くなってしまったYo!!

夜はいつも通りバレーボールWG(日本対タイ)を観戦。大好きな菅山が最近出ないので、少し機嫌悪め。でも結構好きな杉山が調子よさげなので良し。そしてかなり好きな宝来が今日も素敵だったので、やっぱり良し。でも最後に頼るのはやっぱり高橋か。うん、高橋も好き。(みんな好きなんじゃん、私。)

今日はちょっと遅めの夜10時スタート。そのせいで予定が後ろにずれこむ。今日消化するはずだったメニューがまだ消化できてないぞ。ってか秘密日記は文字数が少なすぎて全然だめだ。

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父と共に久しぶりにレンタルビデオ屋へ。

昔は一緒に行くといつもアニメコーナーに連れて行かれたなぁ、などと思い出しながら父を見ると、私が見てるのを知っててAVコーナーに入るフリをしたりして笑っている。
まるでお子様である。

今日借りたのは「グッバイ、レーニン!」と、なんかよくわからないアクション物(父が見たいらしい)。綺麗になった部屋で、とっておきのアップルティーを入れて(おおーなんかセレブっぽいぞ)鑑賞しよう。

今からね。

欲しいもの 図太さ

2005年7月7日
夕べドラマに出てきた男の子は、一種の強迫神経症のようで突然泡を吹いて失神した。

医者に言わせると、「良い子でいなきゃという思いが強くて、そうでない自分を認識すると正常でいられなくなる」病気だそうだ。回復するには様々な価値観に触れさせる(例えば良い子じゃなくてもいいんだ、みたいな例を実際に見せてやるとか)しかないとのことで、私はこれを見てものすごい衝撃を受けた。

最近、私はこの脅迫神経症の気があるのではないかと思ったりする。

誰かの反対を受けてまで押し通したい強い願望は滅多に無くて、どちらかといえば自分が希望を引っ込めることで相手が喜ぶなら、そっちの方がいいなと思うことが多かった。だから相手によって違うことを言ってしまったりして、「自分の意見が無い」と批判され、ひどく落ち込んだ。もう10年近く昔のことだが。

それというのも、「相手が望む理想の自分」でいたいという思いが、人一倍強いせいだと思う。そして実際の自分が、そうあるべき理想の自分の基準を満たしていなかったとしても、無理にそうあるかのように見せたりして苦しむのだ。それは文章にだって表れる。いや、むしろ文章にこそ強く出ている気がする。

私はバイト先でそれなりに上のポジションにいるのだが、それでも大好きな上司に注意されることがあって、本当はすごくショックで泣きそうにもなるけど、「怒られてもめげない彼女」とか「本当はそんな凡ミスなどしない彼女」の像を壊したくなくて、言い訳しないで受け入れるフリをするのだ。今日もそうした。

注意される自分がすごく嫌で、だから注意されても全力で受け入れる姿勢を見せることで、逆に私は自分を守っている。そうすればそれ以上の攻撃は受けないから。

この日記に書く内容だって、本当はものすごく自己中心的で主観性に充ち満ちた私の本音が奥にあって、でも公の場に晒す以上どこかしらに落としどころを用意しておかないと、いざ矛盾を指摘されたときに言い訳ができない。例えば本当はAがいいと思っていても、さりげなく「でもBを選ぶ人がいることは知っている」などと書き加えることによって、客観的な視点を持っている自分がいるかのように振る舞うのだ。

以前、私の日記をいつも読んで下さっている方から「あなたはバランス感覚がいい。読む人の頭の中でどう消化されるかを考えて書いている」みたいなコメントを頂いたことがある。そのときは浅はかにも嬉しいと思ったが、よく考えてみると、このような私の弱さが他者にも伝わっているという証拠である。

言い訳は嫌いだ。でも言い訳をいつでも言えるようにしている(しかも言い訳を言うときは、文章をうまいこといじくって言い訳っぽく見えないようにするのだ)のは自分ではないか。

誰に対しても「良い子」でいる必要なんて無いはずなのに。いつでも本音を書いていたいと書いたのは自分なのに、本音を書いているという前提仕掛けそのものがすでに言い訳じみている。だから日記ひとつひとつがこんなに長くなるのだ。

そして今日のこの文章自体、私のブログの存在意義を揺るがす程の「言い訳」の集大成なんだろうと思う。

無題

2005年7月7日
私は浪人しているので、昔同級生だった友達は今年新社会人になった。

遠隔地へ引っ越すような友達はいなかったし、それなりに皆気に入ったところへ入社したようだから「うまくやってるんだろうな」なんて思っていたけれど、まあそれが社会の常よという感じで、結構色々あるらしい。

何が辛いのと聞いてみると、85%位の割合で「人間関係」とのこと。

みんなが苦しみながら就職活動をしていたのはよく知っているし、苦労して自分の適正を見極めて、これまた大変な努力をして内定をもぎ取ったわけで、それでもやっぱ最終的に問題となって浮上してくるのがコレなんだろうな。という感じ。こればっかりは入ってみないとわからないし。

改めて考えて(みなくてもわかるけどさ)みると、もし人間関係のトラブルさえ無くなれば、この世はものすごく快適かつ暮らしやすくなるのではないかと。それくらい思うようにいかないのがこの問題なんだな、と。

ここで、今回の議題。

私は「自分を嫌っていない」という前提があれば、大概の人とは話を合わせられる気がしていたけど、果たして本当にそうなのだろうか。

世の中にはもしかして、どうしようもない位考え方が違っててお互いにどうしても分かり合えない人同士というのもいたりするのだろうか。

やることなすこと裏目に出て、誤解が誤解を読んで、最終的に顔を見るのも嫌になってしまう関係というのは存在するし(現にうちの母親とその姑はそうだ)、それは最初からそうなるべくしてそうなった二人なのだろうか。

それとも違うプロセスを踏んでいれば、お互いの関係はもっと良い状態を保っていられたのだろうか。お互いがもう少し早い段階で歩み寄れる努力をしていれば、違った結果になっていたのだろうか?それとも?

諦めなきゃいけない位どうにもならないことなんて無いと信じ切っていたのが小学生位のときだけど、今はそれでも少なからずどうにもならないこともあるだろうと思っている。でも実際諦めなきゃいけないことって、今の私が思っているより多いのかな?

家族を見ててもそう思うし、実際自分について考えてみてもそう思う。最近。
例えば、自分がものすごく読書が好きで、かつインドアなタイプの人間だとする。そして相手が情緒的なことは苦手で、でも体を動かすのが大好きな人間だとする。

この場合、本人たちはお互いに自分のタイプを認識しているから、自分と同じような趣味や特性を持つ相手を欲するのだろうか。誰だって自分が良いと思うことを共有できる楽しさは知っているだろうし、その相手が生涯の伴侶となり得るのなら、こんな楽しいことはないだろうし。

もう一つ例えを上げる。多くのエンターテインメントにはロマンスの要素が含まれるが、第三者(現実に生きる私たち、つまり鑑賞者ね)から見るとお似合いなカップルでも、当の本人たちはそれぞれ理想とする異性像を持っていたりもする。「あーあ。こんな奴じゃなくてもっと…」なんて言っている彼らの様子こそ、とても微笑ましく見えるのだが。

つまり、「似た者同士」がいいのか、それとも「お互いの足りない部分を補い合う関係」がいいのかという問題である。

前述のインドア対アウトドアの二人の場合、本ばかり読んでいて外に出ない相手をもう一人が外に連れ出すことが考えられる。そして外で遊ぶことばかり考えていて本を読まない奴には、もう一人が彼/彼女でも読めそうな本をあてがえる可能性もある。

ただその一方で、もしインドア&インドア、アウトドア&アウトドアという組み合わせのカップルが誕生したら、お互いに好きな本の話をしたり、新しい遊びスポットを一緒に開拓できるかもしれない。それはそれで楽しそうである。

もちろんこういった実利的な問題だけではなく、精神的な相性の問題だってあるだろう。読書好きな人間は多くの場合理屈っぽい(必ずしも全員がそうだと言っているわけではない)し、理屈っぽい人間同士がくっついたら、なーーんとなく厄介そうである。

そう考えると、理屈っぽいけど机上でしか論を進められないタイプの人間には、やはり外の世界に連れ出してくれる相手が必要なのかもしれない。この理論が効をなすと、いわゆる「お互いの足りないところを補い合う」良い二人になれたりするのであろう。もちろんそれは第三者から見たときの話であるが。

そう、第三者から見た場合に…というのが、この問題の厄介なところである。

大抵そのカップルがお似合いかどうかなんてのは、本人たちにはわからない。(自分たちがお似合いだと認識し合ってる二人ってのもそれはそれで気持ち悪い)「私たちってどうなの?」と思いながらもなんとなく付き合ってる二人こそ、彼らの友達は「なんだかんだでお似合いだよ」などと評したりするのだ。

誰しも理想(イデア)を追い求めるエロスの感情を持っている、と前回書いたけれど、理想じゃなくて今ある現実を客観的に眺めたとき、それはそれであるべき良い姿だったなどという例は、多分ものすごい数で存在するだろう。

小説でも映画でも漫画でもゲームでもアニメでもいいけど、いわゆるエンターテインメントに登場するカップルが素敵に見えるのは、それらを鑑賞する私たちがおしなべて「傍観者」だからではないだろうか。

そして現実がつまらないと嘆く私たちは、皆自身がエンターテインメントの中に生きる主人公だから(映画みたいに波瀾万丈な日々でもないだろうが)こそ、苦しんだり戸惑ったりするのだ。

生身の異性ではなく架空のキャラクターに恋する人たちは、こういった意味で現実逃避していると言わざるを得ないけれど、いわゆる「カップリング」を構築して萌えている少女らを、私は否定することができない。

そりゃ現実の恋なんて、苦しいばかりだもん。

夢みる神経症患者

2005年7月1日
何かにハマってる状態、というのが自他共にオタクと認めさせる上での必須条件だと思えるが、この「ハマる」という行動自体がそもそも謎に満ちている。

ネットサーフィン中に衝撃的な記述を見つけてしまったのだけど、恋愛、つまり誰かを好きになってる状態を科学的に説明すると、いわゆる「脅迫神経症」なのだそうだ。1日に4時間以上一人の特定の相手のことを考えると、血中から神経伝達物質セロトニンの働きを助ける蛋白質が減少するらしい。その対象は実在の人物のときもあるし、架空の人物(もしくは遠すぎて会えない人物)のときもある。

そして後者の場合、あまり「恋愛している」とは言いにくい場合が多いから、こういうときに関しては「ハマっている」と形容するのだろう。

恋愛の初期段階はいつでもそうだけど、片思い中って苦しいフリして結構楽しいし、下らないこと(それこそ授業中に目が合ったとかその程度)がきっかけで、普段じゃあり得ない位ハイテンションかつはっぴ〜〜〜♪になったりする。現実の恋だとこの状態は意外な展開でぶち壊れることもあるが、ハマってるときに関しては(自分で望む限り)永遠に継続する。ここがリアルとバーチャルの大きな違いであろう。

…ってな感じで結論の出そうなことを書くつもりだったのに、なんか自分でも何が言いたかったのかよくわからなくなってしまった。

「ハマってる」時に愛しているキャラクターは、いつだって架空の存在(どう頑張ったって会うことはできない)だ。でも二次創作の中でオリジナルを上回る存在感を付与されていき、制作者と莫大な数のファンによって深く練り上げられた設定は、私たちの中途半端な自己分析を遙かに凌駕する位に完璧なキャラクター(性格)になる。

最近思うのだけど、「私」という存在は現時点で確かに存在しているから、その点では紙の上のキャラクターに勝っていると言えるけれど、では死んでしまったらどうなるのだ、と。

「私」がたった今死んでしまったら、私を知る親・友人・恋人位しか今の「私」を記憶しない。かろうじて子どもを作った後に死んだとしても、その子の世代までしか記憶されない。その証拠に、私はひいおじいちゃんのお父さんがどんな人だなんて知らないもの。ということは、あと100年以内に確実に「私」は消滅するのだ。

「私」が死んだ後に私の娘なり息子なりが「お母さんはこんな人だった。好きだったな。」などと思い出すことと、今の「私」が紙の上のキャラクターを「格好いいな。好きだな。」と思うことに、果たしてどれだけの違いがあるのだろう。どちらも実体が無いけれど、思う人の心の中に存在しているということは、それが「生きている」ということなのではないか。

そう考えると、「ハマってる」という状態が既に恒久性を持っているわけなのだから、比較法の論理により、架空のキャラに恋することの方が、現実の人に恋することよりもかなり理想的な愛の図だとも言える。(この場合の"理想"とは、いわゆるプラトン主義でいう"イデア"ではなく、欠点たる要素が無いという意味で使っている。)

架空のキャラを愛してしまうオタクたちは、人間がどうしても理想とか本質に恋いこがれてしまう(こういう感情をエロスと呼ぶらしいね)宿命から目を背けずに、むしろそれらに素直に従っている真っ直ぐな人々とも言える。そして案外こういう人たちは多いね。誰だって、幼少時代に培われた理想の恋人像と現在の恋人との食い違いに悩むんだから。

さてこれが人間の本能だとわかったところで、それがいいか悪いかに関して絶対的な判断は誰にも下せない。いつだってそうだ。比較分析して磨き上げられた結論(仮定ともいえるな)は、善悪の基準と何の接点も無い。
オタク問題(なにそれ)に真っ向から立ち向かってる最中、ナイスタイミングというかむしろバッドタイミングか?ってな感じで、今度は「コミック・バトン」が回ってきてしまった。

私は何気にプライドが高い(ような気がする。最近)ので、こういう場でメジャーなものを挙げることに抵抗があったりするのだが、いかんせん漫画に関してはメジャーなものしか読んでないから仕方ないや。

というわけで、早速始める。

★1.本棚に入っている漫画単行本の冊数

約150冊。今改めて本棚を漁ってみたが、こんなにあったのか!!高校時代に1/10に減らしたのに…

★2.今面白い漫画

最近は全然読んでいない。
過去の名作をBOOK−OFFで(マン喫ですらないあたりに
私の貧乏っぷりが窺えるな)立ち読む位。
あ、嘘。『ブラックジャックによろしく』だけはチェックしてる。

★3.最後に買った漫画

文庫シリーズの『ドラえもん・感動編』。ドラえもんが未来に帰る話を読みたくて買った。ドラえもん大好き。

★4.よく読む、または特別な思い入れのある漫画

1.『YAWARA!』−もはや説明の余地も無い名作。

2.『カンナさん大成功です!』−一ヶ月に一回のペースで読み返すほど愛してたのに、友達に借りパクされて行方知れずに…

3.『賭博黙示録カイジ』−友達の家で読んだら続きが気になって眠れなくて、大学サボって立ち読みした思い出が。ネクラな友達には必ず勧めてる。

★5.つぎのヒト5人

えー、この質問が一番困る。ミュージカルバトン回した後だから気まずいなー。

じゃあ、ゆーちゃん!

私の読んでなさそうな漫画を紹介してくれそうなので。よろしく!暇だったらで結構なので。
ステディ(この書き方、「彼氏」とか書くより新鮮でいいな。)と「電車男」を鑑賞。

何も映画の感想を書こうというのではない。そもそも公の場で作品のレビューを綴ること自体が、あまり好きではない。作品の善し悪しは、どんなに頑張っても主観的な枠組み内でしか語ることができないから。(糾弾されるのが怖いだけだが)

今回の鑑賞に関して一番印象的だったのは、後ろの席から聞こえてきたコメントだ。

「こんなの作ったら、アキバ系が調子乗るよな。」

おおぉ。なんてキビシーお言葉。この言葉を取り上げるだけで、アキバ系というかオタクの方々が、世間でどんな目で見られているかということを察することができよう。そう、彼らは調子に乗ってはいけない人々(のように見られている)なのだ。

一体なぜオタクが嫌われるのかを検証してみようと思う。

オタクにも色々と種類があるが、今回はいわゆる王道(?)のアニメ&ゲームヲタに焦点を絞ることにする。フィギュア好きとかもこれらから派生したものだと思うし。

誰にでも趣味はあるだろうに、どうしてこれらを好きだという人に限って嫌われてしまうのか。元"腐女子"の私が名誉をかなぐり捨てて語るけど、彼らは一様に現実逃避をしている。多分、そのあたりに問題があるのではなかろうか。

最近ン年振りにゲームをして痛感したことだから断言してもいいけど、何かに夢中になっている時って結構ほかのことがどうでもよくなるし、それはノーマルな人でもかっこ悪いことだと思う。趣味をやりつつやらなければいけないこともやる、ってのが理想的なのだ。

そして、アニメやゲームといったジャンルはおそらく子ども向け(だと思うんだけどなぁ。最初は子どものために作られたように思えるのだが。)の要素が根強いので、やらなければいけないことから逃げつつこれらに没頭することのかっこ悪さたるや、ここに書くまでもない。

オタク登場(厳密な意味では何百年も昔からいたと思うが)の初期段階では上記の理由が有効だとも思えるが、近年はカオス→コスモスの達成がこれに追い討ちをかけているように思える。

どういうことかというと、より「アキバ系」というジャンルが一つのジャンルとして確立されたってことだ。何でもそうだと思うけど、秩序立てられた瞬間に、それ以前はどこにも属していなかったものたちまで無理やりどこかに所属してしまうということはままある。そんなわけで、昔より「アキバ系イコール悪」みたいな概念が、広く浸透してしまったということ。

ってな感じでここまで書いてみたけど、「じゃあ仕事もバリバリこなしてて社内でも高い評価を得ているサラリーマンが、たまの休日だけはってことで家でギャルゲーのなんとかちゃんに萌えまくってる」なんて図ならアリなのかと問われると、やっぱりナシのような気がする。おかしい。やらなければいけないことをやってないからだめという理論が破綻している。

結局、私が一番オタクを嫌っているのかもしれない。

かっこ悪かった頃の自分を否定することで、他人には「でも今は違うんだけどね」と逆説的に自分を肯定する手法を私はよくとるけれど、今日の文章なんてまさにそれの典型だ。
いつ位から流行り始めたのかわからないが、BLOG上でミュージカルバトンなるものが横行している。

…と、人事のように眺めていたのだが、私のところにもついに回ってきたので書いてみようと思う。(バトンを受け取った100人中83人が、私と同じような前置きをしているに違いない。)

★Q1.コンピュータに入ってる音楽の容量は?

バイト数で答えるべきなんだろうか。
約300MB。CD10枚分位だろうか。基本的に音楽はCD(自分で焼く)で聴くので大した容量ではないが、最近CREATIVE MuVo(iPodの子分か)を手に入れたので、今後増えそうな予感。

★Q2.今聞いている音楽は?

Tata Young(タタ・ヤン)の「I BELIEVE」。
最近までこの人を知らなかったのだが、タイ人とアメリカ人のハーフで、アジアを中心に人気が出ているらしい。
TUTAYAでランキング一位になっていたので、何気なく借りてみたのだが、近年稀に見るヒット(私の中で)。

★Q3.最後に買ったCDは?

記憶に無い。
CDは買わずに借りる(友人から、父から、レンタル屋から)タイプなので。CDがまだ今の大きさでなく、細長いシングルで売られていた当時まで遡らなくてはならない。

★Q4. よく聞く、もしくは思い入れのある5曲は?

1.中島みゆきの「空と君のあいだに」
確か初めて買ったCDなので。初買いが中島みゆきってあたりからして、現在の私を知る多くの人が「なんかわかる…」って言いそうであまり言いたくなかったけれど、時効にするために敢えて告白。

2.SIAM SHADEの「1/3の純情な感情」
バンド全盛期の洗礼をモロに受けた世代なので。変なビジュアル系がポッと出てはあっという間に消える中、「ほかの人と同じバンドを好きになりたくない」という思いから好きになり(当時はそんなこと考えてなかっただろうが)、なんとファンクラブにも入っていた。とりあえず解散まで好きでい続けた。
なぜかイロモノ呼ばわりされてるバンドだが、理由が未だにわからない。

3.ザ・ガレージランドの「バンビのうた」。
凹んだときに聴く歌。ヴォーカルの方とたまたま知り合って、その縁でCDを頂いたのがきっかけ。

4.Crystal Kayの「CK5」(アルバム)
これは別に思い入れというのはないけど、車に積んであるので、ドライブ中によく聴くもの。ドライブといえば彼女。余談だが、ドライブ向きのシンガーというのはいると思う。

5.映画「チアーズ!」のED曲、「Mickey!」
ゴリエがCD出したことで、変な感じに有名になってしまったけど、これは元祖の方。チアリーダー時代、この曲に合わせて何度も何度も踊ったので、耳にする度に披露したくなる。

★Q5. バトンを渡す5人は?

私がリンクしている人はほとんどバトンを受け取っているようなので、回す人がいないようだ。しかもこういうのは好き・嫌いがあると思うので、受け取った方がどう思うかということを考えると、ドキドキして渡しにくい。

もし嫌でなければ、

かれいおうさま。
るーどさま。
カドミウムさま。
ヤンさま。
Dr.ユーさま。

お願いします。「忙しくてそんな暇ねーよ!!」とか「こういうの嫌いなんだよ!!」だったら、無視してください。
バトン楽しいけど、渡すのは結構勇気がいると思うのは私だけだろうか。

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実は今回の日記、アップ後に修正しようとして消えたのです!

もう一回書くのダルいから「もうやーめた!」とも思ったけど、せっかくバトンを回してくれた方々にも申し訳ないので、思い出しながら再度アップしました。

そういうわけで、最初にアップしたものと若干違ってる箇所あります。(だからなんだと言われたらそれまでなんですが)
最近全然更新してなかったけど、今日から復活。

一体なぜかというと、非常にありふれた理由ではあるが、書くことが無かったから。つまりここに書くようなことを考える思索の時間があまり取れなかったから。そしてさらにそれはなぜかというと、ここ一週間ずーーーーっとプレステをやっていたから。

一人っ子だったので、元々ゲーマーだった私。特に一人でもできるRPGがお気に入りで、さらに絵だの文章だのを書くのも好きだったので、小学校高学年〜中学時代は若干道を踏み外してたけど、まあ今となってはそれも美し…くはない思い出だ。

最近はハード機(余談だが、うちのファミリーコンピュータ本体はまだ稼働します)に埃がかぶる程ゲーム自体に触れていなかったけど、大人になった今になってストーリー性のあるRPGをやると、下手な小説より色々考える(プレイした後になって思うことだけど)こともあり。

ちなみにソフトはナムコの『テイルズ・オブ・エターニア』。スクウェアエニックスもいいけど、私はファミコン時代からナムコが好きだ。地味だけど良作が多い気がする。いわゆる王道RPGだが、「これ、ちょっと深いよなぁ」と思う台詞が多くあった。

小説や映画など、どんなエンターテインメントにも言えることだと思うけど、あまりにも見る目が肥えていてさらに年齢も重ねていたりすると、「批評家」の目で作品を見てしまうようだ。例えば小学生が見て「スカッとした!感動した!」と思える冒険アドベンチャーでも、小利口な大人が見ると、「CGが安っぽい。主人公の心境の変化の描写が甘い」などと感じたりするでしょう?

でもそれって確かにすごい(甘さを指摘できることは)ことだけど、実際にどちらが幸せなのかと考えたら、間違いなく小学生の方だ。

映画なども、ヤフーのレビューを見ると五つ星を付けている人もいるのに、「あんな作品は見る価値が無い」と言い切っちゃう人もいる。全ての人に受け入れられる作品というのはあるはずが無いけれど、辛口な視点を持っている上に「俺はちょっと映画にはうるさいよ」などと自慢に思っているのであれば、それはまてよと言いたくもなる。

結論を言うならば、私は今回のソフト(TOE)がとても楽しかったのである。

下らないと言えば下らない部類に入るゲームというジャンルだけど、そしてその下らなさを楽しめる素質を人より多く持っていると「オタクだ」と揶揄されたりもするけれど、でもそれって実は結構幸せなこと。成熟しきった大人は素敵だけど、"おもちゃ"でまだまだ楽しめる自分も結構好きだ。

でも今年23になるというのに、RPGのエンディングで涙流して馬鹿じゃない、という気も若干…した。
ネットにハマっているような気がして認めたくなかったけど(なんで認めたくなかったのかも謎だが)、最近改めて色々なことを感じている。

時として人の流れは急に動くものだけど、本当にそうだなと思う。私が気に入ってリンクしていた人の日記が急に読めなくなったり、いつもメッセージをやりとりしていた人たちに、(ちょっと見ない間に)一気に色々なことがあったり。

ネットは仮想世界だから、自分が信頼していると思っている相手の経歴が全て嘘だったりということも、ままあると思う。だから本当は男なのに女のフリして日記を綴ったり、あることないこと書いても誰にも責められない。そもそもネットで付き合うとは、その危険性を知っていることを前提としているので、最初から信じ込む方がバカだと言われても仕方ない。

でもね、その仮想世界も全く虚無の空間の上にできたものではないでしょう?

つまり、りんというハンドルネームが綴るこの日記の中のことはすべてバーチャルだけど、それでも私という人間が実際に生きているリアルな世界での全ての体験を元にしてできているのだ。

ネットは完全なるバーチャルではない。バーチャルに見えるその奥に、それぞれ(それこそBLOG人口は何万人いるかわからないけど)の完全なるリアルがあるのだ。

そう考えたら、実際の友人との付き合いだって同じことだ。その友人の全ての生活を知っているわけではないのだから。自分が相手を信じて判断していることの全てが、本当に正しいと言えるだろうか。

たまたまネット上ではその程度が大きくなっているだけではないか。人は匿名では生きることができないから、リアルな世界ではあまり見られない現象が、ネットの中で爆発しているのだと思う。

『マトリックス』を作った監督は、とても大きい傷を負ったのかもしれない。(私はあのシリーズを見ていないのでよくはわからないけれど。)

今は、ネットという一大バーチャルワールドが存在するからこそリアルな世界との比較ができるけれど、そうでなければ、自分がいつだってバーチャルな世界に生きるしかないことをなかなか理解できない気がする。

でもこれだけは言いたいけど、私は仮想世界でも現実世界でも、誰かを信頼して付き合うということをないがしろにしたくない。

たとえその相手の実際が、自分の信じるものと違っていたとしても。
打算的

というのは、やはり悪い意味で使われる言葉だと思う。では

計画的

というのはどうなんだろう。これは良くも悪くもといった感じであろうか。私はむしろ良い意味で使うことが多い。「もっと計画的にやりなさいよ。」などと言ったり。

私の大好きなサークルの仲間たち(全員女で構成されている)は、しばしば合コンを開く。大抵同じ人が話を持ってくるのだけど、つい最近もお誘いがあった。メンツは某有名大医学部生と超有名大の大学院生とのこと。おおー。(思わず拍手)

話を持ってきた彼女の台詞は、「将来はあるよね」であった。

彼女はとてもしっかりした人で、どんな時にも隙が無い。いや、とてもいいコなのだが、「妥協を許さない上にそのための努力を惜しまない」とでも言えばいいのだろうか。とにかく口だけは立派なことを言うけど努力はしない人とは全然違って、言うことも立派だしそのために頑張る姿勢も立派な、見習うべき人物なのだ。

さてここからが本論。

これは推測に過ぎないけど、彼女はおそらく「好きだから」という理由だけでは結婚しないと思う。

結婚を決意する条件はもちろん複数あるだろうけど、「好きだから」という理由は必要最低条件であるような気がする。でも必要十分条件ではない。たとえ「好きだから」を満たしていても、その他の条件がアウトなら彼女は許さない気がする。何度も言うようだが、これはあくまで推測である。

妥協と言ったら相手に失礼だけど、もし彼女が妥協せずにその相手を切り捨てた場合、それは「打算的」とされやはり悪い評価に繋がるのであろうか。

「結婚は恋愛と違うから、好きなだけではやっていけない」というのは、多くの既婚者が口を酸っぱくして言うことだし、ある意味では彼女の選択は英断だ。つまり「計画的」ではないのか。

私は行き当たりばったり的なところがあるので、いまいちクールにさりげなく生きることができない。私を愛してくれる友人たちは「何事にも一生懸命だよね」と言ってくれるけれど、自分では厄介な性分だと思っている。なぜなら自分にとって不利益な何かが降りかかっても、それらに全力でぶつかってしまうからだ。「これは自分にとって利益をもたらさない」と判断したら、その場で切り捨てるべきで、それがCOOLに生きるということなんだろう。

5つ選択肢があるのなら、まず飛び込む前にどれが見込みがありそうなのかを判断し、そのうち2つが有効と思えたら、あとの3つは遮断するべきだ。そして2つに全力投入すればいい。私の好きな彼女はそういう生き方をしている(ように見える)。

話がわかりにくくなってきたけど、つまり私は「好きだから」という必要最低条件だけで結婚してしまいそうだということである。

これは「打算的」ではないから褒められることなのか。それとも「計画的」でないという理由で責められることなのか。

私の母は、無計画に結婚してしまった行き当たりばったり人である。現在彼女は非常に苦労している。でも父を愛している気持ちは25年経つ今も全く変わっていないから、私には幸せそうに見える。

問題は、その必要最低条件が本当に信頼し得るものなのか、それともただの幻想なのか、それを判断できるかどうかといったところだろうか。

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