地味に忙しい。さすが年末。

生まれて初めての「クリスマスパーティー」の準備に大わらわ。適当に集めて適当にやるべ、と思っていたのに、もう一人の幹事が大マジということに気付き、慌てて私も本気(本気と書いてマジ)モードに。それ以外に忘年会と新年会。今年はどうも"幹事年"らしい。あひーん。

ごちそうのレシピを考えて、ケーキを予約して、東急ハンズで紙コップとお皿と部屋の飾りを買って、ディズニーストアでメインゲストへのプレゼントを買って、Francfrancでプレゼント交換用のプレゼントを買って、BGMを用意して、招待状を手作りして、出し物の手品を人に依頼して…と、やることは山ほどある。

平日にも関わらず繁華街は人でごった返しており、「みんな仕事はどーしたのよ!」と、通りすがる人を片っ端から捕まえて聞きたくなるほどの混雑。早朝バイト明けの体にはこたえる。が、今日、気付いたことがありまして。

「意外だ。」と言われるのだが、私は「楽しいこと」が苦手だ。ずっとそう思いこんでいたのだが、それはやはり「思いこみ」に過ぎないのではないだろうか。ディズニーストア(普段、滅多に行かない。)できゃあきゃあ言いつつ物色する女子たちを眺めながら、私は、自分の中にかつて無かった感情が生まれていることに気付いた。

お約束通りのサプライズに興じる自分が恥ずかしくて、そういったバレバレのサプライズが溢れている施設(普通の女子なら喜ぶモノ)がどうしても好きになれなくて、かと言ってそういう自分が好きかといえばあまり好きではなかった。というのも、私にもきっと「はしゃぎたい心」があるに違いなくて、本来はそれに従う素直な女のコになれたかもしれない可能性に、今日(正確に言えば先週末)気付いたんだ。

神戸の臨海新都市で、人口雪と気付かずに「わっ、雪だ!」と思った瞬間。たしかに私ははしゃいでいた。ただ電球が光っているだけのクリスマスツリーを見た瞬間も、はしゃいでいた気がする。今思うと、それらはすべて「お約束通りのサプライズ」である。問題は、お約束通りのサプライズ側にあったのではなく、それらサプライズを受けとめる私の精神にあったのだ。

以前、「ろ過」をテーマにした日記(10月3日参照)を書いたことがあった。つまり、最近の私は「ろ過」が大分進んで、(便宜上こういう言い方をするのだが)以前より"綺麗"になったのだと思う。そして、自分の周りの親愛なる人々と楽しい時間を過ごせることに以前より大分敏感になっていて、ほんの些細なことが尊く感じられて、どうにも嬉しくてたまらないのだ。

2005年は、私にとって決して悪くない。

…なーんて、すっかり浸りながら買い物をしてたら、せっかくの招待状を出し忘れていたことについさっき気付いた。あひーんあひーん。

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本日は、深刻な備忘。

●肉体美化キャンペーン、実施中。

マイ・ラヴァーより、週末の旅行の写真を賜る。
写真を撮るのは久しぶり。自分のあまりの醜さに目を覆いたくなる…。ぽっちゃりめが好きという恋人の意見を盲信していたら、女は堕落する一方だ。

というわけで、肉体美化キャンペーンを本日より開始する。「ダイエット」というのではなく(何しろ、体重はそこまで増えていないし)、肉体を美しくすることに重点を置く。


<本日の肉体美化メニュー。>

朝:デニッシュサンドイッチ、バナナ、
  飲むヨーグルト(ブルーベリー)
昼:トマトたっぷりミネストローネ、小松菜のおひたし、
  アイスティー
夜:自家製牛丼、冷や奴、ニラと油揚げの味噌汁、
  鰯の佃煮、麦茶

お風呂上がりに筋トレ。大胸筋と二の腕20回1セット×2。

絶対、綺麗になってやる!!
二日目。

記憶を失った人に昨夜の醜態を報告するところからスタート。「ショックだ。」とのこと。何も覚えていないというのはある意味、とても幸せなことだ。すべてを鮮明に覚えている私の方がショックだ。今日一日でどれだけ名誉挽回できるかに期待。

Yさんと彼女さん特製のあたたかい朝ゴハンを頂く。ニッポンの朝がなべてこういう朝食と共に始まれば、人間同士の摩擦も無くなるだろう。石川県産の霊水入り醤油(?)と、土鍋で炊いたゴハンのあまりの美味しさに、目を丸くしてしまった。

本日は、彼女さん(神戸出身)の案内で神戸散策。二日酔いに苦しむ二名を伴って、いざ出発。


●北野〜南京町にて、ランチ。

阪急三ノ宮で下車。大阪とはまた違った景色。次々と現れる小洒落たお店群に感動しながら坂を上り、異人館の建ち並ぶ北野へ。

阪神・淡路大震災の写真を展示しているらしい場所へ行こうとしたのだが、どうも今はやっていないらしい。Yさんが「ぜひ見た方がいい。」と言っていただけに、とても残念。だが、山にほど近い高地から眺める神戸の景色を堪能できたので、大満足。

その後、横浜の中華街のようなエリア・南京町で昼食。何が楽しいって、観光地巡りもさることながら、ただ四人で食卓を囲んでいるだけで楽しい。

その後、Yさんの彼女さんが以前から目を付けていたという「メイド喫茶」でアフタヌーン・ティーをすることに!「男女四人でメイド喫茶に行くのはどうかと思う。」と言うYさん。到着した場所は、普通のエレガントな喫茶室をおとぎ話風にアレンジしたかわゆいお店。給仕してくれたウェイトレスさんは確かにメイドの格好をしていたのに、「俺は認めないぞ!」とケチをつけていたYさんが印象的だった。


●神戸港〜ハーバーランドにて、風に吹かれる。

メリケンパークと入り江を隔てた西に広がる臨海新都市へ。コンセプト的にはお台場と似ているのに、そこは歴史の違いなのか、どれだけ人の手が入っていても何とも言えない情緒がある。

人口雪の舞い散る中、彼女さんが青く輝くクリスマスツリーを発見。はしゃぐ女性陣。いたって冷静な男性陣。夜は宝石箱のような街になるという風景と海をバックに、写真撮影。パチリ。

港にはたくさんの船が停泊している。そのうちの一つである「コンチェルト」は、ジャズやクラシックの生演奏を聴きながら中華料理や鉄板焼を味わえるという、ミュージックグルメ船。「あら素敵。」という感じなのに、あくまで観光客用なのか、神戸の人がこれに乗るのはあり得ないことらしい。Yさんとイイ雰囲気になった後に危うくコンチェルトに乗りそうになったと語る彼女さんに、爆笑。


●旧居留地にて神戸ルミナリエ鑑賞→帰還。

神戸駅〜元町駅〜三ノ宮にかけて、東海道線の高架下に連なる"老舗"商店街を突き抜ける。

戦後いち早く闇市が開かれたところらしく、「商売成り立ってるんですか!?」と聞きたくなるような店ばかり。ファミコンのソフトが300本くらい並べてあったり、動くのかわからないワープロが積んであったり、驚きの連続である。

旧居留地に出て、あの「神戸ルミナリエ」を観ることに。街が薄暗くなる頃、どこからか徐々に人が集まり始め、まるで初詣のような人の海になる。「このまま悠長に歩いていたら、帰りの新幹線に間に合わない!」と気付き、作戦変更、迂回。居留地40番地に建つ神戸大丸前を通り、フラワーロードを渡り、メインたる東遊園地で「光の彫刻」を鑑賞。感激。(さりげなく)涙。

「ここで撮らなかったらいつ撮るのだ!?」というコンセプトの元、押しも押されもせぬ混雑の中、4人並んで写真撮影。出来上がった写真は、既に私のPC内に入っているけど、得難い一枚だと思う。ルミナリエが期間限定だからというのではなく、この4人で会うことが滅多に無いからというのでもなく、得難く楽しい思い出が凝縮されたという意味で、だ。(連れの無精ひげだけが悔やまれる。)

握手をして、別離。「土日って、こんな風に過ごせるものなんだ…。」という連れの台詞に激しく共感しながら、帰宅。まだ夢の中にいるような気分だ。

また必ず会いましょう。
サドルの外れた自転車で通勤しているという男気溢れる友人と、その彼女さんに会うため、大阪へ。

小さい頃、毎日のように日が暮れるまで遊んで、家に帰る頃には「あー!楽しかった!!」と思うのが普通だった。それがいつからか「はしゃぐこと」が苦手になり、楽しいはずのことをしても「ま、楽しかったけど、くたびれたな。」などと思うことがほとんどで、純度100%の「楽」感情を味わえなくなっていたのだ。

今年に入って、心の底から「楽しかった!!」と言える日が多くなってきた。今回の旅行は、まさに純度100%の"楽しかった旅行"である。紀行文というジャンルが何故存在するのかが、ちょっとわかったような。楽しかった思い出はどんどん薄れていくけど、どうにかして記憶に留めておきたかったのだろう。と、思う。


●心斎橋〜難波にて、プチ・カルチャーショック。

宵っ張り二人組が頑張って6時半に起床。東京駅から新幹線で新大阪へ。

私の生まれ故郷である大阪。親戚の大半は大阪在住で、これまで何度も訪れているにも関わらず、あまり土地勘が無い私。連れをしっかりナビゲートするはずが、「太陽があっちにあるから南はこっちだ。」と言われるままに付いていく羽目に(トホホ)。

御堂筋を吹き抜けるブリザードに翻弄されながら、アメリカ村を流し、心斎橋筋に寄りつつ、「THE・大阪」な街、難波へ。

「別にええやん。」な基本精神が街に充満している。東京なら、「ここはこういうテーマね!」とエリア全体が暗黙のうちに主張しているものだが、大阪の場合、「隙間があるし、ええやん。」と思ったのか思ってないのか、そこにそれを作るか!というタイミングできんつば屋があったりたこ焼き屋があったりする。

笑えるのは、いちいち商魂たくましいことだ。何の変哲も無い時間制パーキングなのに、「○○町イチの駐車場!!」と書き添えてあったり。でも、「あそこの駐車場って本当にいいよねー。」と考えた上で駐めに行くことってほとんど無いような気がする。連れと共に大笑い。

食いしん坊で有名な連れと食い倒れの街へ行くことに対し、少々不安を覚えてはいたが、不安的中。一泊二日の旅程、食事の回数は限られているので、何を食べるかは深刻な問題だ。で、やはりというかなんちゅうか、最初の食事はカレーに決定。自由軒本店にて、文豪が愛した名物カレーを食す。自由軒に余程思い入れがあったのか、店構えをデジカメに収めている連れを、眩しい目で見る羽目になった私である。


●万博記念公園にて、太陽の塔を仰ぎ見る。

御堂筋線で千里中央へ。ちょいと郊外ということで、吹きっさらし。顔をパキパキにされながら、有名な「太陽の塔」に謁見。

万博記念公園に併設している遊園地・エキスポランドは、2歳の頃に両親に連れられて来たことがあるらしく、証拠の写真もある。が、記憶には無い。当時の私がまったく知らなかった人(当たり前だが)と共に、21年後再訪することになろうとは。


●友人に再会→ディナー。

阪急を使い、市街地へ舞い戻る。梅田で降り、阪急三番街で喫茶難民(なんであんなに人がいるのだ)になった挙げ句、友人(便宜上、Yさんと呼ぼう。)の元へ。

遅れて登場した彼女さんが某有名人に似ていて、「うまくやりましたねぇ、旦那ぁ。」とオヤジみたいなツッコミを入れたくなった。いやはや。

大阪にお越しの際はぜひ、と伺っていたお店は、「サービス抜群・店主小粋・美味しい」という、三拍子揃った素敵なお店で、ああいうお店は流行らなければならないと心から思う。乾杯のビール、お店の計らいによるワイン、ボトルキープされていた芋焼酎で、すっかりイイ気分になる。今思うと、このとき既に悲劇の種は蒔かれていたのだ。


●深夜のカクテル・パートナー。

二軒目。Yさんは相当の常連らしく、来る人来る人面識があるようだった。「大阪は人情の街だからなあ。」という有言実行の暮らしぶりを垣間見る。

そうそう。一流の船乗りが風の匂いを嗅いで「嵐の気配がする。」と察知するように、実は私、この時点でソコハカとなくイヤ〜な気配をピピピとセンサー感知していたのだが、私以外の三名(もちろん本人を含む)が、どれくらいそれに気付いていたかわからない。店を出て(このとき私の不安はややMAXに達しつつあった)、Yさんのマンションへ。コンビニで買ったつまみとウィスキーとカクテルで、仕切り直し。

そして、悲劇到来。「りんの素敵なOLへの道」始まって以来の痛恨の一撃!コマンド「どうする?」(←ドラクエ風に。)

とりあえず。二名(Yさんと彼女さん)にはくつろいでいただき、見えない所(トイレ&客間)で秘密裏に面倒を見る。「生き恥」とはよく言ったものだが、人は生きているということがそもそも恥ずかしいことなんだ…と、人のために洗面器を抱えながらしみじみ。

ただ、平気そうに見えたYさんもそれなりに酔ってはいたようで、「君たちは大丈夫?じゃあ、三人で飲もう!」と自分から言い出したのに、いきなり「寝るわ。」と言っていなくなってしまった(私、心の中で爆笑)。その後、必然的に女飲みに。初対面なのにとても楽しくて、朝まで話していたかった。が、翌日のために彼女には先に休んでいただく。

お風呂を借りた後広いリビングを占領して、一人、残った「カクテル・パートナー」をやる。しーんと静まりかえった部屋で、私の喉の音だけが聞こえる。ネガティブな意味合いではなく、「私はどうしてここにいるのだろう。」と思う。去年の今頃は今日共に飲んだ三人と知り合ってもいないのに、今年の冬、私は人の部屋で裸足になり、たった一人で酒を飲んでいるのだ。

今は「こうしたらこういう未来になるかな?」と考えながら生きているけど、その通りになる方が稀なんだ、と。そして、それはしばしば「一寸先は闇」という言葉に例えられるけど、闇ということは「何も見えない。」ということで、そこに素敵なものだってあるかもしれないということだ。

ソレはソレとして。朝起きて私の愛が冷めたまま回復しなかったらどないしよ、と本気で憂いつつ、洗面器のある部屋で就寝。ぐう。
私は実家暮らしだけど、「生活費」のようなものはありまして。

内訳は、食費、衣料費、通信費、交際費、維持費(美容関係、コンタクトetc…)などなど。人の「生活費」の内訳を見せてもらったことは無いので比べられないけど、どうも私の場合、エンゲル係数(全支出に対する食費の割合)が異様に高いのではないか、という気がした。

私は"物欲"がそんなに強くないのだなあ、と最近知った。つまり、月の給料を、どうしても必要なものに払う以外は使わず、刹那的なものに回していたということ。刹那的なものとは、「モノ」として後に残らないもの。誰かと美味しいゴハンを食べたり、美味しいお酒を飲んだり、だ。人より食べるので食費が高くなる、というせいもある。

そんな私が最近知った、「所有する喜び」。

こうして毎日のように日記を書いていると、記録としてずっと残る。で、それをコレクションのように並べると、また違ったものが見えてくることに気付いた。同じように、本やCDを、お小遣いをちょっとずつ切りつめて「買う喜び」がある。単品で味わう分には借りても同じはずだが、そうして少しずつ集めた「モノ」たちが、私の記録として残っていく様はなんだか悪くないなあ、と。

実は、今日、ショッピングというものをしてしまった。

野暮用があって学校に行って、その後、丸々午後の時間が余った。「さあ、これから何するか!」と。で、あても無く(←ここポイント。)街をぶらついて、大きな本屋に入った。買う本を決めずに本屋に行くことはあまり無い。だが今日は、「わあ、読みたい!」と一目で気に入った絵本を買った。衝動買いのようでドキドキした。

まだ時間が余ったから、友人が働いている化粧品売り場に行った。大きな百貨店のキラキラしたカウンターで働く彼女は美しかった。丁寧にカウンセリングしてもらって、「わあ、欲しい!」と思ったファウンデーションを買った。お直し用のパウダーも買った。両方とも切れてたから買わなきゃいけなかったんだけど、なんちゅうか、そこで「買う」行為をしたかったんだよね。

どうしても必要な物だけを買うのとは違う、「買う喜び」があるんだな、と。贅沢しちゃったかな…という後ろめたさは、より一層それらを美しく見せる効果があるよな、と。そして、人に借りることでは得られない「所有する喜び」は、私の殺風景な部屋(意外にモノが少ない。)を不思議な空間にすると気付いた。

いざ所有すると、実益としてのモノの価値(本だったらもちろん内容。CDだったらもちろん曲そのもの。)以外に、たとえばジャケットの写真が美しいとか、化粧品の瓶をいくつも並べると互いが反射し合って綺麗、とか、そういった別の価値が生まれる。実益ばかりを重視していた私は、モノ自体が持つ価値の一側面しか知らなかったのだな、と。

そうはいっても、"特別な"ショッピングをルーチンワークにしてしまっては、モノが増えるだけだし、「喜び」の純度も下がるだろう。ただ、たまになら悪くない。「買わなくても困らないもの」を欲しいなと思う気持ちをうまく飼い慣らし、適度な幸福感を自身に与え続けて、それで気持ちが穏やかでいられるなら、それが健全な生き方というものだ。





あまり女子大生っぽくないことを書いてしまった。

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備忘。

●プチ旅行。

今週末、関西方面へ遠出の予定。
この日記始まって以来の旅行(?)である。実は、かなりはしゃいでいる。

8時丁度の(丁度ではないけど)、あずさ二号で(多分のぞみだ)、わたしはわたしはアナタから旅立ちます(アナタも一緒だけど)。


●『暮らしの絵本 食べ方のマナーとコツ』(学習研究社)購入。

最近、この手の本ばかりだ。

堅苦しいマナー本ではなく、カラフルかつ可愛らしいイラストで、大人の女性のテーブルでの振るまい方を教えてくれる。正式なレストランでの作法も載っているけど、たとえば、バーによくあるスツールに上品に腰掛けるには、とか。さりげない中座の仕方、とか。

一緒に食事をする誰もが嘆息するような美しい物腰を身につけて、素敵なお店でも物怖じしないようになりたい。

Winter has come!

2005年12月14日
卒論、終了。

解き放たれた鳥の如く、大空に舞う。(つまり、遊ぶってこと!)

というわけで、以前から気にしていた映画・『SAYURI』(ロブ・マーシャル監督)を鑑賞。音大の院に通う友人と待ち合わせ、真っ昼間から。レディースデイなのでレディが殺到するかと思いきや、さすが平日、という程度の混み具合。

既に鑑賞した人いわく。"ニッポンが嫉妬するJAPAN"というキャッチフレーズ通り、ハリウッドないしアメリカが抱くステレオタイプな日本を感じた、とのこと。「ハリウッド映画とはなんぞや?」を考えさせられる映画だと言うてたけど、個人的には「そうか?」といった程度。むしろ私は、「アメリカ&日本」の構造ではなく、「男&女」の構造について考えさせられる点が多かった印象だ。

考えたことは二つ。

●『SAYURI』に思う。一つめ。

芸者は、好きな男(初桃にとっては幸市、さゆりにとっては会長)を想うことが許されない。心を無にしたあやつり人形のように、踊って、三味線を弾いて、男の望む「人形」に近づけば近づくほど、芸者の望む幸せが手に入るのだ、と。これは、「女の不自由さ」をテーマにした作品だ。

私はかねがね思っていたのだけど。

そもそも、女は、なぜ"選択"をしなければいけないのだろう。たとえば、初桃が売れっ子芸者という地位を捨てて、幸市との普通の幸せを"選んだ"場合、得られるはずだったものは手に入らない。豆葉姐さんは「それが芸者(女)の生き方よ。」と言った。どちらを選ぶかはその女次第だけど、この"選択"の概念は女に特有のもののように思えるのだが。

『タイタニック』(ジェームズ・キャメロン監督)にも似たようなシーンがあった。家の存続を懸けた結婚を控えるローズが、一文無しのジャックとの交際を禁止されるシーンだ。ローズの母親は、「私たちは女。それが宿命なのよ。」と彼女をたしなめた。

それもこれも、女には「切り札」があるからだ。男が一文無しになったら路頭に迷うところだが、私たちには他にやりようがある。それって、一見、セーフティガードのように思えるけど、それくらいにパワーがある切り札だ。これは現代でも同じ。いつでも覚悟さえ決めれば、おまんまの心配はしなくてもいいのだ。

ただ、それは"選択"を伴う。一生選択を迫られる状況にならなければラッキーだが、前提としてすべての女に「切り札」が配られている以上、意識下に"選択"の概念がそもそもある。

何も生きるか死ぬかという切羽詰まった状況に限らず、女は、究極的には二者択一の問題を抱えているのではないだろうか。それこそ芸者のように、男の望む「いわゆる女」を演じるのか、演じないのか。明らかにこちらを選んでいる、とわかっちゃうような場合は現代では少ないけど、決して消えていない現象だ。社会的地位の獲得を目指すのか、「いわゆる女の幸せ」を選んで勝ち犬になるのか。そして勝ち犬になるためには(男を喜ばせるためには)、元々持っている性質を殺す才能が必要だ。それが、演じるということだ。

●『SAYURI』に思う。二つめ。

さゆりが会長に"惚れた"のは、弱りきった彼女に優しい言葉をかけたからだ。べそをかくさゆりに、(気まぐれだったかもしれない)親切を施した会長。ここから派生して、女が男に"惚れる"理由について考える。(←映画を観ろ。)

なんだかんだいって、衰弱しているときに優しくされると弱いよなあ。そして、「まあ、なんて優しい人!」という思いのパワーは、十分"恋"に発展し得るものだよなあ、と。

弱っているときに選んだオトコ、というと、その選択眼が鈍っていたかのような印象を与える。オトコもまるで弱った隙につけ込んでるみたいだ。冷静だったらどうなのよ、と。でも私はハッとしたのだが、女が"惚れる"べきオトコというのは、そういう気まぐれ親切を頻繁にするホスピタリティの持ち主ということではないか?

つまり、そのオトコが、女が惚れる要素の絶対量を保持しているかどうかの問題ではなく。100点満点中、80点のオトコだったら惚れるけど、20点じゃ惚れない、とかじゃないんだな。20点のオトコに惚れる女がもしいたら、20点分の才能をピンポイントで開花させたに過ぎない。逆を言えば、いくら80点のオトコでも機会に恵まれなければ誰も惚れない。

そう考えると、恋って、やっぱりデスティニー♪

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それにつけても最近寒すぎる!本日、デニムの下にタイツを履いて初登校。

夏と太陽が大好きという暑苦しい私だけど、冬好きが意外に多くて驚いている。冬が好きという人の意見を聞くと、「ピリっとした空気独特の緊張感がイイ。」と。冬の良さがわかる人は、情緒的なのでは?

ただ、「冬が好きだ。」という人と過ごす冬は、いいものかもしれない。

ザ・ピ〜ス!

2005年12月12日
昨日の日記。

旧友宅にお呼ばれ。

10年来の友だち(近所在住。)のお宅で、晩ご飯をご馳走になる。これぞニッポンのおかあさんです!的ママンの手料理は、毎回ウマイ。死ぬほど唐揚げを食べる。「どんどん食べてね。」と言われるままに食べる。

彼女は中学・高校と一緒なのだが、気付いたことがある。10年間イヤっちゅうほど遊んだのに、二人でどこかに食事に行ったことがまるで無い。いつもどちらかの家に集合して(必ず13時に)、日が暮れるまで喋って、それだけ。それでも帰る頃にはまだ喋り残したことがあるような気がして、いつも別れ難い。

10年間誕生日プレゼントをあげ続けているので、今年の分(2ヶ月遅れだが)を頂戴する。彼女とは多分一生付き合うのだろう、そうありたい、と柄にも無く真剣に思った。

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今日の日記。

昨夜は電話で「俺が如何にカレーを愛すか」について30分以上聞かされてから就寝したため、脳みそまでカレー色になってしまった。タマネギとニンニクのみじん切りの幻を見ながら、ふらふらと起床。

今朝は3週間振りのアルバイトなわけで(卒論のために休みを頂いていた)。私が四季の移り変わりを意識するのは、必ず早朝四時半だ。目覚めて外がうっすら明るければ、「夏が近いな。」と思う。今朝は真っ暗。「師走だな。」と納得した瞬間、寒くて死にそうな事実に気付き凍える。感傷に耽る暇もありゃしない。

宵っ張りで寝坊助の私が、なぜこんな過酷なバイトを2年近く続けているかというと、"早朝"という世の中から取り残されたような時間を、ちょっといいな、と思ってしまったからかもしれぬ。始発間もない電車には私以外誰も乗っていないこともしょっちゅうで、そういうときは「25時」の存在を教えてくれた友人のことを思い出す。人間の体内時計はもともと25時間で、それを私たちはムリヤリ24時間に調節しているという話。

彼女は高校の文集にこの話を寄稿していて、私はその数年後に、同じ「25時」の話を山田詠美の短編集で発見する。だから余計に印象に残っている。

誰もいない電車の4両目(私はいつもこの車両に乗る。)の座席と座席の間に立って進行方向を見ると、なぜか毎朝開け放されたままの車両間の繋ぎ目の向こうに運転席が見えて、不思議な気持ちになる。振り向いても誰もいない。ずんずんと突き進む電車の中で一人きりという奇妙な感覚は、私に、体のどこかに削られて残った「1時間」を思い出させる。それがどんな意味を持つ「1時間」かと聞かれると困るのだけど。

外国のお客が多い我が店では、バイリンガル(大阪弁・千葉弁の2カ国語を操る)の私が大活躍する。今日もうっかり「めい・あい・へるぷ・ゆ〜?」と聞いたら、「ワッチュハヴァなんちゃらかんちゃらでばぁ〜?」とか言われちゃってまったくわけがわからなくて、冷や汗をかいた。が、意外と通じるものである。

昨夜のカレー・トークのせいでカレーが食べたくなったので、就業後にラーメン屋に寄り、とんこつラーメンを食す。このラーメン屋、大好きなのにほぼ1年振り。「アブラ多め、中盛り」にするか、「アブラ普通、大盛り」にするかで一人悶々と悩む。

そうそう、私は何でも大量に食べることで有名ではあるが、「好物」って何なんだろう?とちょっと気になってしまった。マイ・ラヴァーには「鳥の唐揚げだよ。」などと言ってしまったけど、今思うとあまりイケてなかった。でも事実だから仕方ないし。よく考えると、こってりとんこつラーメンも相当好きだ。あとは生モノ(とろサーモン、ユッケなど)も好きだな。内臓(砂肝、ハツなど)にも弱い。嗜好を再確認。

卒論のせいで体がオーバーヒート気味なので、お馴染みの"中国から渡来した仙人"に会うために、地元の気功整体院へ。母の回数券を拝借。痛いような、くすぐったいような、とにかく40分間フルに苦しい。コリをほぐされていると頭がクリアになって、どうでもいいことを思い出す。今日もなぜか『らんま1/2』の面白かったシーンを思い出して一人でおかしくなっちゃって、笑いを堪えるのに苦労した。くすぐったくておかしいのか、想像がおかしいのか、わけがわからなくなる。

今日は平和ナリ。

Dear 企業戦士s

2005年12月10日
内田樹の『知に働けば蔵が建つ』を読む。(卒論はどーした。)

資本主義企業における「労働に対する対価としての賃金」はつねに労働が生み出した価値よりも少ない、という記述にハッとさせられる。日本というシステムはサラリーマン諸君の滅私奉公的オーバーアチーブによって支えられている、とのこと。うへぇ。

話はズレるが、最近、社会人の方々とメールをやり取りする機会が多い。メールの冒頭に「お疲れ様です。」と書き添えることが多くなったのだ。これは学生同士の付き合いでは無かった現象で、新鮮なこと。

私にとって一番身近な社会人はやはりマイ・ラヴァーなのだが、彼は、んもう本当によく働いているなあ、と毎日のように思う。小学生の頃よく見たあのCM(「24時間はたらーけますか?ビジネスマーーーン♪(リピート)」ってやつ。)を思い出す。誠にお疲れ様である。ちとオーバーアチーブなのではないかい?と私は密かに思っていたが、どうも彼に限ったことではなさそうだ。

さらに話はズレるが、私はかつて、男の人と付き合うたびに「尽くすこと」と「媚びること」の違いに悩まされていた。尽くすことと媚びることを混同している女は、相手にそっぽを向かれた原因が媚びている自分にあることに気付かずに、「あんなに尽くしたのに!」といって相手を罵って、そしていつまで経っても成長しないのだ。私は、相手を罵りたくなるたびに、尽くしていたのは相手のためではなく、尽くすことによって得られる快感を自分が欲していたに過ぎない、という事実に直面する。

人間の人間性は「わが身を供物として捧げる」ことのうちに存在する、と内田さんは語る。

「わが身を供物として捧げる」という行為は、一見利他的であり、非合理的だ。しかし、猿が人間になったのは、猿の中に"複雑な感情"が発生したからである。そして、なんでそんな感情が生まれたのかといえば、オスとメスが「契約」を結ぶようになったからである(byヘレン・E・フィッシャー『結婚の起源』)。自分の食べる分を自分で確保できていた頃は、シンプルでわかりやすい「利己主義」が表出していた。

最近、どんな本を読んでも、結局同じところをぐるぐると回っているような気がしてならない。著者の言いたいことはそれぞれ別なのだが、私が注目するところは同じ部分のようだ。

私は、猿が人間になった瞬間に、つまり一見自己犠牲的な奉仕の感情が生まれたことに、ものすごい興味を抱いているらしい。社会学の本を読んでも、生物学の本を読んでも、現代思想の本を読んでも、どうも「非合理的」がキーワードであるようだ。「非合理的」なことというのは、「なんでそうなるんだよ!人間はよう!」ってな具合に理解し難いから問題となり、人間の目指す「理想=合理的な世界」の間に歪みを生むのだ。

マイ・ラヴァーを見ていると、「お兄さん、なんでそんなに働くんだよう。」と心配になるが、内田さんいわく「サラリーマンはその労働の対価として不当に安い給料で働くことを通じてはじめて、労働しているという実感を得ることができる。労働する能力、労働する身体を有し、労働者としての社会的承認を獲得することができる。」とのことなので、彼の姿にこそ、人間の人間らしい何かが見えるような気がする。人間は「すねを囓られる」という経験を通じてはじめて「自分にはすねがある」ことを確認するのだ。

適正な支出に対する適正なリターンを求めることは、たしかに「合理的」だけど。賃金と労働が釣り合うということは、どうも原則的にありえないことらしい。これは来春以降の自分のためにも覚えておこう。

私が社会人の皆様に「お疲れ様です。」と言うとき、たとえ彼らが上記のようなことをわざわざ考えていないとしても、誠に人間らしい何かに触れるような気がして、ある種のリスペクトを抱かざるを得ないのよね。







…でも、デートのときに顔がゲッソリしているリーマンの彼氏(目の下に隈付き)は、ちょっとイヤン。

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備忘。

●本日のBGM。

小曽根真の『OZONE』。(すごいタイトルだ。)

父のCD棚に埋もれていたホコリだらけの盤。ボストンのバークリー音大を1983年に主席で卒業し、83年夏のクール・ジャズ・フェスティバルで、初めての日本人ソロ・ピアニストとしてカーネギー・ホールの舞台に立った人、だそうだ。

このCDは、彼の恩師のゲーリー・バートンがプロデュースと共演を買って出たものらしい。

ピアノの良し悪しはさっぱりわからないけど、静かな気持ちで聴くことができる素敵なCDだと思います。ただ、80年代のCDということで、ジャケットの小曽根さんの髪型や眉毛など、気になる部分が多少ある気はします。
私の父は、酒飲みだし、食い意地が張っているし、すぐに歌うし(うるさい)、部屋を散らかすし(しかも片付けない)、脳天気だし、スケベだし、結構サイアクだ。

だが、サイアクな彼も子どもの教育には色々と思うところがあったようで、「本を読みなさい。読んで頭のいい人になりなさい。」と口癖のように言っていた。彼の娘(私)は、今頃になってその言葉の深刻さに気付いている。

うちの両親が頭がいいか悪いかは私には判断できない(なぜなら、私は自分の両親以外に両親を持たないので、比較分析することができないのだ。)が、小さい頃の私は彼らを「頭がいい」と信じ込んでいた。それゆえに、「大人」は皆頭がいいのだろうなあ、という漠然とした予感を抱いたまま大きくなってしまった気がする。

つまりね。

私という子どもは、「頭がいい」ということを、「大人」と同等に扱っていた節があるのだよ。「大人」にも「頭が悪い」人たちがいる、ということを理解しなければいけないようだ。

たとえるなら、私にとっては東大に入ることがつまり大人になることで、東大に入りさえすれば(大人になれば)、頭のいい人たちに会えると思って頑張ってきたんだ。しかし、東大の中にも話を聞くべき人とそうでない人がどうやらいるのではないか、と。あくまでたとえば、だよ。じゃあ頭のいい人と悪い人をどうやって見分ければいいのかな、と。それを見分ける力は自分で培うしかないんだよなあ。

で。

まさに今、父が放った言葉が生きるのだろう。父は色々なことを教えてくれたけど、それは「知識」であり、「知恵」ではない。どれもこれもすぐに使えるものではあったけど、「頭のいい」人を見分けるためには、「知恵」が必要なのだ。「知恵」とは、集めた知識を元に私が自分で生成するものだ。そのために本を読め、ということだったのだろう。父がくれる「知識」だけでは、「知恵」を作るのに必要な絶対量が足りない。

大人の皆様はこの文章を読んで、何をいまさら、とお思いになるかもしれない…。

ただ、両親や小学校の先生が言うような"当たり前"のことの中に、生きていくために必要なすべての根本があったのだなあ、と、私が「自発的」に気付いたということ。それは皆が想像する以上に衝撃的な出来事なのよ、と言いたかったのよね。

もはや父は何も言わなくなったけど、私は彼の言葉の意味を今頃になって心から理解し、いつしか本を読むようになり、頭のいい人にならなければと自発的に思う昨今なのである。

(なんか、随分とイイコちゃんな文章だな。)

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備忘。

●パスポート申請。

生まれて初めての海外旅行が迫っているので、ついに。
申請や手続きというのはおしなべて面倒なのが常だが、やはり面倒だった。

就活で余った証明写真を流用しようとしたら、顔の大きさが2ミリほど足らなくて使えず。700円の出費。(悔しい。)小顔なのかと思って喜びそうになったが、単に倍率の問題じゃないか。(ますます悔しい。)


●リベンジ・クリームシチュー。

クリームシチューばかり作っている。

ホワイトソースを作るときに失敗しがちだったが、タマネギとバターを絡めた後に粉をふるい入れ、ちょっとずつ牛乳を加えていく、という「初心者用」の作り方を知った。イイ感じにできた。(我が母のやり方は上級者用だと知る。)

具を炒めた後にのんびりホワイトソースを作っていると、煮崩れしたり、具(特にカブ)が柔らかくなり過ぎるので、ザルに揚げておくと良いみたいだ。き、基本?
二年ほど前から同じ美容師さん(A氏。31歳。イケメン。)に髪を切ってもらっているのだが、私が進むべき道を見失っていた頃に、印象的な言葉をいただいたことがある。

わたし:「Aさんは結婚しないんですか?」
A氏 :「ベクトルが重なる相手が見つかったら、するだろうね。」

ベクトルが重なる、というのは、当時は「へえー。」程度にしか思わなかったけど。思えば、私は随分と長い間、「恋愛」をすごろくのようにゴールがあるものだと捉えていたような気がする。最近になって、A氏の発言の底深さがわかってきたような。

スタート(出会い)してから、試行錯誤(2コマ戻る、とかな…。)して、それでもちょびっとずつ進んで、ある地点でチェックポイント(めでたく付き合う)を迎え、また試行錯誤して、ときには別れて(スタートに戻る)しまったり。「恋愛」をそのような時間的枠組みで捉えると、当然ゴールが発生するわけだが、じゃあゴールって何?

ゴールがもしもあるなら、そこに到達するまでは頑張るとして、それ以降はどうなるのだろう。仮に結婚がゴールだとして、二人はネクストステージに進むわけだが、そうなるとまた試行錯誤することになる。じゃあ次のゴールは何になるのだろう、という疑問が当然発生する。「妊娠・出産」か?なんか違うなあ。「死別」だろうか?

時間的枠組みで「恋愛」を捉えると、すべての出来事に一喜一憂するはめになるけど、どうもその考え方はイケてないんじゃないかな、と思う今年の冬。そもそも出会いをスタート地点として捉えるところからして、たぶん違う。

そう、出会った瞬間がゴール地点なんだ。「恋愛」とは、スタートからゴールに到達する一連の流れではなく、ゴールのように見える魂と魂の共鳴を、何度も何度も何度も何度も重ねていく行為を、俯瞰して眺めた"状態"だ。そこにステップや段階のようなものは無い。あくまでも一瞬でしかない共鳴を、何個もかき集めて後から眺めるからそれらがひとまとまりに見えるだけだ。バラバラに切断されたタクアンを、まとめて並べれば一つの大根の原形が想像できるように。

私の人生が未来(こうありたいと思う方向)に向かってまっすぐ伸びているとするなら、私の好きな人の人生も、彼の向かうべき方向へまっすぐ伸びているはず。そのベクトルが、素敵な偶然によって一瞬重なり合った。付き合うべくして付き合った二人は、その最初の重なり合い(共鳴)を、後から見て「出会い」と呼ぶ。本当は「スタート」であり、「ゴール」なのだ。その共鳴の鮮度は、時間的枠組みに捕らわれないはずだから。初めて会った頃も愛しいし、50年後も愛しい(と思える二人がどれだけいるか知らないけど。)のだ。

「時間」という概念が、私たちの豊かな人生の構築をどれだけ邪魔しているのだろう。私はこれ関係の文献を読んだことが無いので、このことに自力で気付くまでに23年かかった。好きな人と見つめ合っていると時を忘れるとはよく言うけど、最初にそう言い始めた人の感覚はかなり鋭い。「恋愛」とは、「時間」に縛られているが故に発生する"終局"に対する恐怖(死、とかね。)から、解放される行為だ。なのに、その「恋愛」に「時間」の概念をはめ込んでは本末転倒じゃないか。だから「恋愛」は、"終わって"しまう。

私の現状を、「付き合い始めのラブラブ期」(←やだなー、この表現…。)と捉えるのではなく、50年後のものと鮮度としては等しいはずの「共鳴」と捉えよう、と。

ええ、まさに"時間を忘れるような瞬間"に思いついたことだYO!

以上。

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備忘。

●打倒・卒論!

愛について難しいことを考えている場合じゃないんだ。

先日マイ・ラヴァーにメッタ斬りにされた私の論文。「私が考えたこと」・「二次文献で誰かが言っていること」・「史実が書かれている史料」の境目が曖昧だとのご指摘。口語も多すぎるそうだ。きびしいアルヨ。

引用を積極的に活用かつ、「これは〜に書かれていることだが…」という文章を多く取りいれたら、大分すっきりした。残る問題は、「補足」をどれだけ充実したものにするかだ。あまり補足し過ぎても、論文そのものを通して何を言いたかったのかが曖昧になってしまう。

なんしか、がんばろう。


●本日のBGM。

スキマスイッチの『夏雲ノイズ』。

これがファーストアルバムだったのか。とにかく、声がイイ。セカンドアルバムも聴いてみたい。

「奏(かなで)」を聴いて思ったこと。先日、平井堅の「センチメンタル」、槙原敬之の 「answer」を立て続けに聴いたせいでわかったのだが、"駅の改札を挟んで別れる瞬間の切なさ"を題材にした歌というのは、多い。

歌に扱われやすいシーンを集めてみるのも面白そうだ。それこそ時間的枠組みを活用して、「恋愛初期→後期」の順で再生するの。(日本語の曲限定だな。)
むむむな日々、更新中。

最近、苦しいながらもわかったことがある。

「大人」とは、「子ども」にありがちな欠点を埋めていく作業をすべて完了した人のことではなく、ある程度埋めた後に「ここは埋められないぜよ。」と判断した部分を放置できる人のことではないだろうか。

というのも、私が限りなく「大人」と判断した多くの人にも、やはり欠点がある気がしてならないからだ。私は、最近、少しだけ大人になったような気がしているけど、それは欠点を埋める作業がまあまあ済んできたから。しかし、彼らのように割り切れない。

「大人」は欠点たるネガティブな部分をあまり露出しないなあ、と思っていたけど、それはそういった欠点が無いからではなく、「ここは埋められないぜよ。」と納得しているからというのもあるのだろう。

どこを埋めてどこを埋められないかは、たぶん人によって異なる。私が「大人」だと思う人たちにも、「オイオイ…」っていう部分はある。彼らの埋めきれない部分だ。私が「オイオイ…」と気付くところは、自分に関してなら埋められるかもしれない部分だ。だからそういう彼らの真似をするのはやめよう。彼らに「あんたのそこはどーなの?」と言われる私の部分も少しは解放してあげようかな、と。

なんつーか、大人の言うことを素直に聞く行為がすなわち「大人になること」だと思っていたけど、そうではなくて、彼らの言うことに対しての解答(「私はこう思うのです。」という)をたった一人で思いつくことが、「大人になること」なのかもしれない。それを彼らは待っているのかもしれない。彼らは「埋めよ!」と指摘してくるけど、「ここは埋められません!」と力強く断言できる私の姿こそ、正しくはないけど、誠の「大人」たる姿なのかも。

そう考えると、「大人」って、もしかしてあまり素晴らしいものではないのか?

「大人」って、多分、"正しい人"ではないな。正しくはないけど、"楽に生きている人"のような気がするな。少なくとも、「子ども」よりは楽に生きている。

私が社会に出たら、私にとって譲れない何かが出来上がるのだろう。それは彼らに教えられて作るものではなく、私が自分の力で探し出して守らなければいけないものだろう。「大人」になったら批判されなくなると思っていたけれど、たぶん、「大人」になっても批判はやまない。でもその批判を取捨選択できるようになるのだろう。すべての批判に正面からぶち当たって、必要以上に傷つくのではなく。

私が「大人」になる日は、リスペクトする両親や、恋人や、大人の友人たちに対し、「あなたのそこは良くないと思う。」と指摘できる日だろう。今は、まだできない。

こうして、一日、一日、欠点を埋めよう。

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備忘。

●本日のランチ。

音大の院に通う友人と、地元の仏風(?)カフェにて。
この寒いのに、ロコモコを召す。アイスコーヒーを頼んだのは失敗(冷えた)。

彼女は、私と同じく激動の2005年・夏を経て、ようやく落ち着くべきところに落ち着いた模様。一時は(お互いに)どうなることかと思ったが、「生きてればイイこともあるよのう。」とばばくさい話で〆。もしまた「もう死んだ方がいいかな…。」なんてことがこの先起こっても、今日のことを思い出そう。

幸せになってくれ!


●本日のBGM。

YMO(Yellow Magic Orchestra)の『SUPER BEST OF YMO』・二枚組。

リンク先のある方に薦められて。78年〜84年にかけて活躍したらしいので、まさに私が生まれた頃だな。細野晴臣(key,b)、坂本龍一(key)、高橋幸宏(ds,vo)の三人組。ふむ。まさにテクノ。「テケテケ♪」音が大好きな私にはたまらない。欲を言うと、全体的にもう少しハイテンポならなお良かった。

ディスコビートとビデオゲームの電子音で包んだということで、DISC1は特に、ファミコンの音を彷彿とさせる。繰り返しのみで構成されるあの冷たいメロディは、嫌いじゃなかった。余談だが、私の家のファミリーコンピューターはまだ動くので、あの電子音を聴くためだけに起動して、それを流しながら日記を書くこともある。

伝説のバカゲー『チャイルズ・クエスト』のフィールドの曲が特に好きなのだが、あれの作曲者をどうにかして知る手はないだろうか。(EDのスタッフロールをわざわざ見るのは、あまりに馬鹿らしいので…。)

それにしても、ファミコン全盛期には山ほど存在したはずの愛すべきバカゲーたちは、一体どこに行ってしまったのか。「絶対クリアさせる気ないだろう!?」と制作者につかみかかりたくなるようなゲームは、一本に対する制作費が安かったあの時代だからこそ作れたのだろう。PSPや任天堂DSであんなバカゲーを出したら、今の時代、多分訴訟が起きるぞ。

いかん。ゲームネタになると、未だに熱くなってしまう自分がいるな。
誰か、私と一緒にファミコンの話をしませんか?

むしろ、やろう。私の家で。2コンのマイクも使えるヨ!

これが私の卒業制作

2005年12月6日
最近の私の近況をお話しすると、んもう、たった一言で尽きてしまう。「卒業論文を書いてます。」の一言だ。

さて、「2005年度○○学科卒業論文について」というプリントを見てみると、卒業論文とはつまり、今まで蓄えてきた知性や感性やらを総動員してひとつにまとめ上げるものだとのこと。社会に出て役に立つかはわからないけど、自分だからこそ持てる抜き差しならないこだわりを誠心誠意集中して表現するプロセスが、例の"リベラル・アーツ"の精神とのこと。ほう。

私は一体大学で何を学んだのか。

私は4年間の大学時代を経てあることに気付きとても感動したので、それをマイ・ラヴァーに話した。何に気付いたのかというと、私は専攻の分野に関してはまったく不勉強だが、関係ない本を読んだり、インターネットをしたり、自分が素敵だと思う人の話を聞いたり、とにかくなんだかんだの課程で、「世の中の学問の配置図」のようなものが自分の中に出来上がったということ。

かのアリストテレスは、古代ギリシア時代に「諸学問を体系化した」ということで知られている。どういうことかというと、歴史学や生物学や倫理学や政治学は、かつてごちゃまぜだったのだが、それら雑然とした知識の中に割って入って勉強しやすいように整理したのが、アリストテレスだそうで。歴史学と生物学が異なる分野だということは、今の私たちにとっては当たり前のことだけど、彼のようなエライ人が整理してくれた後だからこそ、私たちは体系立てて勉強できるのだと思う。

で。私は歴史学と生物学が違うということは知っていたけど、それでも小さい頃から漠然としてた何かが、大学時代に一つの「体系」になったのだ。

例えるなら、私は新宿と秋葉原が違う土地だということは知っていたけど、中央総武線で簡単に移動できるものだから、まさに点と点でしか考えていなかった、みたいな。でも今は新宿と秋葉原が山手線でどの位置にあるのかがわかるから(つまり地図を手に入れたってこと。)、同時に品川や池袋に行く方法もわかるようになった。これはあくまで比喩的な意味で、ね。まだ行ったことのない土地と行ったことのある土地を、俯瞰して理解できるようになったということ。

なんちゅうか、「個々をバラバラに見てるようではだめよね。」ということが、感覚としてわかったのだ。就職活動も、それぞれの業界をバラバラに見てるようでは、多分だめ。極端な話、今は「自分が世の中のどのポジションにいるのか」がちょっとわかったので、もう一度就活をするなら、あまり業界にはこだわらないかもしれない。何しろ、社会は繋がっているのだ。

…というようなことをマイ・ラヴァーに話したら、彼は「そういうのを世間ではリベラル・アーツ(教養)って言うらしいぜ。」と、おっしゃった。

(草木も眠る丑三つ時に、こんな色気のない話をやや興奮気味に話すカノジョを持って、本当に彼は大変だろうなあと思う。)

サークル活動と恋にのめり込んじゃったせいで、大学時代になし得たことなんてひとつもないぞ、と思っていたけど、もしも我が大学が推奨する"リベラル・アーツ"が彼の言うようなものであるとするなら…

なんとか来年の春に胸を張って卒業できるのかもしれないわん。

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備忘。

●本日のBGM。

浜崎あゆみの『RAINBOW』。

あゆに関しては、ここで語るまでもないが。未だにすべての作詞を手がけるあたりに、彼女の、音楽に対する真摯な姿勢のみならず、「言葉」に対するコダワリが感じられる。私は頭で良し悪しを考えてばかりで(エンタメ系は特に。)、感覚的に「わー。好きだなー。」って感じることがあまり無いのだが、彼女に関しては、よくわからないけどなんか好きだ。

「Free&Easy」を聴いて思ったこと。

こんなこんな汚れた世界で
あなたはただ美しいものを
拾って救ってそして私に
見せてくれる人

この人、当時はアホそうに思えたけど、ものすごくイイ恋愛をしたんだろうなー、ってのが本当に伝わる。イイかどうかは他人が判断することじゃないけど、少なくとも、今までの自分がひっくり返っちゃうような恋愛をしたんだろうな、と。友だちになりたい。

ただ、イイ恋愛中ってどうしても自己に陶酔しがちだから、歌詞にすると上記のようなクサイものになりがちだよな。同じく陶酔してる人にしか、その真髄は理解できないのだろう…。


●意外な個人差・vol.2
鼻毛の生え方にも個人差があると、前々回の日記に書いたけど、どうやら私の鼻毛の生え方は、割と「女らしい」もののようだ。もっとわかりやすい部分で「女らしさ」をアピールしたいよ。

鼻毛に関しては、やはり住む地域(空気が綺麗かどうか)が重要なのだろうか。

諸々・?

2005年12月5日コメント (3)
本日も備忘のみ。

●口調と文体。
素直なのか単純なのか順応性が高いのかは知らないが、読んでいる本(堅めの文献にシフト中)や頻繁に接する人の口調がすぐに移ってしまう癖は、なんとかならないものだろうか。しかも指摘されるまで気付かない。なんとかならないものだろうか。

●MTGメモ。
かねてからの戦友・Y嬢と緊急会議。彼女は、すぐに暴走しがちな私の舵を取り続けて三年以上経つが、いかんせん男運が悪い。そろそろ自分の舵も取った方がいいのでは、なんて私は思うのだが、そこんところは本人も重々承知のご様子。最近、何かと相談を持ちかけてくる。

あまりに言い得て妙というか、むしろありきたり過ぎて笑ってしまったが、やはり世の中の真実というものは、言葉にするととてもシンプルなものなのだ。ということを、二人で再認識。どういうことかというと、そのときの自分の器に合う相手しか自分に惚れてくれない、ということだ。

「ちっともイイ男いねえな。ちっ。」と思うなら、それは自分がイイ女じゃないという証。探しても探しても見つからないと言う彼女に、本日も"アンタ何様や発言"をしてしまった。自分にしっくりくるだめんずがいるのなら、それは自己を映す鏡のようなもので、自分もだめ女でしかないということを悟るべきだ。ジタバタせずに、じっと自分を磨くべし。

恋人の欠点は、そっくりそのまま自分の欠点なのだろう。

自戒を込めて、備忘。


●オイスターと水菜のスープ。
祖父から牡蠣を頂く。父を欠く母子家庭には多すぎる量。せっかくだから、創作料理をば。

魚介用のソルト(イタリア産)とチキンコンソメで味を整え、牡蠣と水菜を投入。牡蠣のダシが出てかなりイイ感じ。ポイントは、ダシを楽しむために敢えて水菜をチョイスしたこと。ほうれん草だとアクが出るし、キャベツだと牡蠣を邪魔してしまう。

水菜のような女性になりたい。


●諦念とは。
NHKの「スパイウェア」なるものの特集を観る。HPや添付ファイルから「スパイウェア」が入り込み、クレジットカードやキャッシュカードの情報を盗んでしまうらしい。

なんちゅうか、もう、そんなの防ぎようがないでしょ的犯罪が多すぎる。犯罪のみならず、政治、経済、とにかくそういった情報を扱うメディアに触れる度に、私が今後生きていく世界が、まるで銃弾の嵐の中をヒイヒイ言いながら逃げまどう世になっていく気がしてならない。

「諦念度」のようなものがもしあるなら、私という人間はかなりその値が高い気がする。


●本日のBGM。
オアシスの『Don’t Believe The Truth』。

実は、初オアシス。「わあああああ!!」と叫びたくなってしまった。特に一曲目の「ターン・アップ・ザ・サン」のイントロ&最後の部分がヤバイ。メロディアス!超好み!すきっ☆(ひどいレビューだ…。)

音楽に関してなら、私は持ちネタが少ないのは認めるが、ストライクゾーンが広い自信がある。真のノンポリ目指して爆進したい。

諸々

2005年12月3日
備忘のみ。

●「飲み会」とは、一つの作品。
たとえ自分が幹事でなくとも。人数が少なかろうと多かろうと。システム(店を予約→集合→歓談→会計)が発生した瞬間、そのクオリティは問われるべきだろう。たった一人でも不愉快な思いをする人があってはならないし、培った全てのバランス感覚が試される場所だと思う。

ただ、そのクオリティを判断するのは解散後の自分自身でしかないというあたりに、セツナイものがある。願わくば、全ての人が楽しめる飲み会にしたいものだ。これは合コンのようなシステマティックなものではなく、普通の飲みの後にこそ思うこと。

個人的に大反省な飲み会が一件。別に酔いつぶれてはいないけれど。もう少しやりようがあったのではないだろうか。


●意外な個人差。
顔がそれぞれ異なるのは当たり前だが。手や足の形も人によって違うのだなあ、と気付いたのは、たしかある程度大きくなってから。

最近になって気付いたこと。耳の形も結構違う。あと鼻毛の生え方(密集具合とか。太さとか。長さはもちろん。)にも個人差がある。


●部屋が汚い人の法則。

こう見えても私はわりと綺麗好きなのだが(「部屋が散らかってそう。」と言われがちなので、個人的には心外である。)、随分と小さい頃はお片付けが苦手な子どもだった。私が掃除を好きになったのも、おそらく母の教育のおかげだろう。

という経緯があるので、私は、「掃除が苦手な人」と「整理整頓ができる人」の二つの視点を併せ持っている。そんな私が最近確認した(現在、サンプル回収中。)「部屋が汚い人の法則」。

<1.物を思いついた場所に置く。>
要は、物の置き場所が決まっていないということ。こうなってくると、すぐに物を無くす。帰宅直後がもっとも危険。無意識にあちこちに置いているケースがほとんどである。

<2.床に物を並べる。>
床にひとつでも何かを置くと、そのスペースはその瞬間から「物を置いていい場所」と化す。するともうひとつ置きたくなる。さらにその隣にもうひとつ置きたくなる。そうしてどんどん「物を置いていい場所」が、生活空間を浸食し始めるのだ。

<3.物を使用した後、元に戻さない。>
CDの聴き方を見れば、この癖は一目瞭然である。ケースを開けてディスクを取り出し、空のケースを無意識にそのあたりに置いてしまう。するとケースが見つからないので、聴き終わったディスクを戻せなくなり、裸で放置するハメになる。さあ、二つはバラバラになるので、ますます元に戻すことが困難になる。

<4.直置きの罠。>
細々したものを机に直置きすると、雑巾がけが面倒になる。当然、ホコリは溜まる。箱にさえ入れておけばその箱を持ち上げるだけでいいので、掃除の頻度も上がるのだ。一度細々した物(文房具類が危険)にホコリが付いてしまうと、一つ一つを綺麗にするのが大変なので、ますます放置しがちだ。いざ使うときも気持ち良くない。

<5.ゴミ箱が少ない。>
一部屋に一つは置くべきだ。居間(メインの部屋)に置く人は多いだろうが、洗面所と台所にも必須だ。できれば玄関にも欲しい。手の届く範囲にゴミ箱が無いと、捨てに行くのが面倒なのでその場所に放置したくなるのである。

<6.本棚やキャビネットに余裕を作らない。>
本棚を整理する時に陥りがちな罠だ。整理している段階では、そこに収まる物の最大量に併せるのだろうが、物というのは常に増えていくのだから、余裕を作っておくべきだ。ギチギチになった本棚は美しいが、後日新しく本を買った時にその本を収める場所が無いので、床に置くハメになる。本棚やキャビネットは仕切られているので、最低一カ所は臨機応変に使える場所を設けなくてはいかん(もちろんその臨機応変スペースは頻繁に整理する前提で)。


●人数と親密度。
何年も昔から考え続けているが、「サシだと緊張する。」というのは、実は嘘ではないか。この歳になると、サシで話す方が普段の自分を出せるような気がする。サークルやゼミに馴染めなくなったのは、「確固たる自分」が徐々に確立されてきたからではないだろうか。

アルバイトなど、嫌でも仲良くしなければいけない状況ならば、最初から割り切っている。しかし、個人的に仲良くしたい人が複数いる状況で当たり障り無く過ごそうとすると、「確固たる自分」が、ときにはA寄り、ときにはB寄りに揺れ動くので、普段の何倍以上もの集中力が発揮されてしまう。しかしそんなことにビビっているようでは社会人になれんし。ああ。

My imaginings

2005年12月2日
バトンを頂いた。「イメージバトン」というものだ。

スルーすべきかどうか悩んだ。んが、しかし、「結婚バトン」をスルーしたばかりだし、バトンは好きだからなるべく答えたいし、最近リンクしていただいた方からのせっかくのものだし、勇気(?)を出して答えてみようと思う。


【イメージバトンのルール】
1.前の方から頂いたキーワードを挙げて、
  そのイメージについて答えて、さらにそこから連想して
2.自分がイメージしたキーワードを挙げて、
3.バトンを渡してくれた方へコメントを書いて、
4.次にお願いする3人へほいっとお渡ししてしまう



★1.頂いたキーワード

  エロ

よりによって…。
この際、この私が大まじめに「エロ」について語ってあげましょう。

エロいとは、つまり、"セクシャル(sexual)である"ということだよね。で、セクシャルってのは、書いて文字の如く"性的な"という意味だよね。性、つまり、男なら「男」を感じさせるような言動を吐いたり行動をとったりすると、相手は「この人、男なんだわ。」と認識するので、そのとき相手には"セクシャル"だと思われているのでしょう。

そんなの当たり前じゃん、って感じなのだけど、私はこのことをもう一度認識する必要があると思う。セクシャルでないエロは、真のエロではないのよね。自分の「男」らしさを相手にわかってもらおうと努力する行為こそが大事なのよね。「エロい」と「下品」は全く違うと思う。

で、その理屈を採用すると、私は「エロい」男が好き。私が「あなたってとってもエロいわね。」と言うとき、それは褒め言葉だと思ってほしい。「男らしいわね。」って言っているのと同じなのだから。

自分がエロくて困っているという方は、一度冷静になってみてほしい。そもそもエロくて当たり前なのだから、完全に隠そうとすれば当然ボロが出る。だからエロを隠そうとするのではなく、エロさを全面に押し出すのでもなく、「男」らしく振る舞えばいいのだよ(ときに、それは「キザ」とも言う)。ここらへんを生理的に理解できている男性は、確かにエロくて困るけど、とっても魅力的だと思うな、私は。

な、なーんちゃって…。(ちょっとオロオロ。)


★2.自分がイメージしたキーワード

エロ → セクシャリティ → セクシー

って、なんか元のキーワードとあんまり変わってないけど、よろしければお願いします。


★3.バトンを渡してくれた方へコメント

浜乙女さまへ。

最初は「えー!?」って思いましたけど、なんか楽しかったです(笑)。

今回の日記(『モテる男と電車男というもの 』)は、色々と考えさせられました。色々な要素(それこそ、見かけとかお金とか)になびきそうにもなっちゃうけど、「俺はおまえが好きだし、おまえも俺を好きになってくれるだろ?」という自信がちゃんとある男性は、たしかに素敵です。

問題は見かけとかお金とかに簡単になびいちゃう女性側にもあるのかも。でも、きっとどんな女性も、散々ウロウロしたとしても、最終的には自信のある男性の元に落ち着くのだと思います。その方が幸せだと私は思います。うん。(ナマイキですみません…。)


★4.次にお願いする3人

Dr.ユーくん
初夏ちゃん

お忙しかったらお気になさらず。よろしければ。

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備忘。

●レンタル袴。

卒業式における女子大生の袴の割合は、昨今どうなっているのだろう。高いお金かける割に一日しか着ないし「どーしよー。」と思ってたけど、学科の友人に背を押され、手配することに。

本日、試着。流行りのものではなく、「THE・袴」という矢羽根柄(安かった。)をチョイス。大正っぽい。

着物  ¥15000
袴   ¥10000
ブーツ ¥3000
着付け ¥3300
ヘア  ¥3675

しめて、¥34975 → 学割効いて ¥32475!
ひょえー!!

サンキュ

2005年12月1日
自分がすごく好きなものがあると、それを知らない人に対して「○○を知らない奴はバカだ!」と思ったりするでしょう?

私は、最近、あることに気付いた。

世の中のすべてのカルチャーに良し悪しがあって、それらの"良い度"が数値化できると仮定しよう。もしそうなら、サントリーホールで演奏されるようなクラシックは"良い度"が98で、くだらない(と言われる)J−POPが"良い度"17になるのかな?うん、もしそうだとするなら、私はいわゆる"良い"ものをあまり知らない。

自分がすごく好きなもの(自分にとって"良い度"が高いもの)をどうして好きになったのか、考えてみよう。小さい頃、周りにそれの"良さ"を知っている人がいたからではないかな?もしくは、何かしらの偶然が重なって、それの"良さ"を知るタイミングに恵まれたのだと思う。

つまり、自分という人間が世の中のカルチャーの"良し悪し"を判断する力に長けているとか、そういう話ではないと思うんだ。自分の力で"良い"ものと"悪い"ものを選り分けたのではないと思うんだ。

私は、クラシックとJ−POPの"良い度"は変わらないと思うの。最近ジャズを聴くようになったけど、ジャズが必ずしも、売れ筋ヒットチャートの曲より優れているとも思えないんだ。ただ、今までジャズの"良さ"を知らなかったから、「知ることができてラッキー!」とは思う。

だからね。

人生で、何かしらの好きなもの(自分にとって"良い度"が高いもの)が出来上がっていく課程というのは、生まれてからどんな人に出会うか、どんな場所に行くか、自分ではなかなか選択できない要素によるものだと思うんだ。自分が"良し悪し"を客観的に判断できているからではないと思うんだ。一般には"良い"と思われるクラシックを好きな人でも、多感な思春期に憧れのあの人がクラシックを好きだったから聴き始めたとか、そういう理由からかもしれない。

世の中のカルチャーに貴賤が無い(と私は信じている。)なら、自分がそのうちのどれでも好きになる可能性を秘めているわけで、本当にたまたまそのうちのどれかに当たるというだけで、その偶然を生み出すパワーは"恋"によるものではないかな、なんて思っている。

大学に入ってすぐに付き合い始めたカレは、田舎者の私に、都会のオシャレと、スノーボードのやり方、ダーツのやり方、酒というものの存在を教えてくれた。私は都会のオシャレな女子大生になり、スノボが好きになり、ダーツバーに通うようになり、ビールが飲めるようになった。

今の恋人は、幼い私に、本を読むこと、映画を観ること、音楽を聴くこと、酒を楽しむことを教えてくれている(過去形でないあたりがポイント)。私はamazonで本を買うようになり、情報誌で新作の映画をチェックするようになり、J−POP以外を聴いてみたくなり、日本酒やワインを美味しいと思うようになりつつある。

自分が大人になったから物事の"良し悪し"が判断できるようになったわけじゃないんだ。どんな人に出会うかを選択することはできないから、「自分はちょっとこれらにうるさいぜ。」とあぐらをかくのではなく、自分の好きなものが出来上がっていく課程で出会った人に感謝するようにしたいと、私は思う。

「恋人を選ぶ」とは、「人生を選ぶ」に、ニアリーイコール。

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備忘。

●本日のBGM。

Wham!の『the Final』。
シーズンですので。

言わずと知れた(この私でも知ってるくらいなので)名曲ばかりだが、やっぱなんだかんだで「Last Christmas」と「Careless Whisper」、「Wake Me Up Before You Go-Go」に落ち着いちゃう。

それにしても。「Careless Whisper」を聴くと、なぜか私はある人を思い出す。その人がケアレスにウィスパーするとかそういう話ではなくて、哀愁漂う泣きのメロディーがなんちゅうかそれっぽいというか。だからどーしたって話だな。(私はいつでも勝手に周りの人々のテーマソングを作ってしまう。)
書くことが無い。本日を振り返ろう。

亡霊のように起床。プチ寝坊。

起きて早々、パソコンの電源をON。奴(PC)が起ち上がっている間に、カーテンを開け、朝一のBGMを選択。本日はボン・ジョヴィ。朝の一発目はロックと決めているのだ。寝起きに騒々しくないか、と思われるだろうが、そうでもしないと目が覚めないのだから仕方ない。急を要するメールが無いかをサッと確認し、お気に入りのブログを二つ三つ読んでから朝食を摂るのが、私の日課。読んでるうちに目が覚める。

朝食はトースト。ここ何年かはずっとそう。パンが焼ける前に、コーヒーの支度。両親はペーパーフィルター&ドリップ派だが、私はプレスで淹れる。某シアトル系カフェで購入した私専用プレスに、お湯を張る。本日は、期間限定のクリスマス・ブレンド。今年のクリスマス・ブレンドはなかなか。生豆のまま何年も寝かせたエイジドが入っているので、香りが良い。

私にはささやかな夢がある。お給料が入って一人(じゃなくてもいいのだけど)暮らしをするようになったら、エスプレッソマシンを買うのだ。Saeco社のものは有名だけど、ミルクをスチームするノズルが360度回転しないので、ちと不満。できれば海外で買いたい。それで毎朝新鮮なフォームミルクを自分で泡立てて、カプチーノやラテを作るのだ。技術は修得済みなので、問題無し。

本日は洗濯の日。洗濯機にお風呂の残り湯を溜めている間に、新聞をナナメ読み。いつものことだが、ほとんど頭に入らない。回る衣服たちを眺めながら、愛について考える。私は暇さえあれば愛について考えている。大抵は結論が出る前に"すすぎ"に入ってしまう。愛もすすがれちゃったら嫌だなあと思うも、早くしないと太陽が傾いてしまうので、急いで第二陣(靴下たち)を投入。そしてすぐに干す。踊りながら干す。

今日は気分が良かったので、机周りの掃除。ダスキンと掃除機は毎日かけたいけど、なかなか難しい。私の部屋には写真立てが四つあるが、そのうちの一つ(特等席たるパソコンの横)は数ヶ月前から空っぽだ。そうだ、写真が必要だな…と気付く。綺麗になったら卒論タイム。エンジンがかからないうちに出かける時間になってしまい、あわあわと化粧をして登校。本日たった一つの授業に出るために。

授業の前に教授の研究室へ。マイ・ティーチャーは素晴らしくラブリーなお方。先週提出した分の卒論の感想をいただく。読んだのか読んでないのかわからないような感想。多分今日は眠かったのだと思う。眠くない日に当たりたいものだが、周期が不定期なので予測がつかない。来週は眠い日でないことを期待しつつ、今週の分を提出。読まなくても構わないけど、持ち帰るのだけは忘れないでほしいものだ。

授業は毎週のことだが、退屈極まりない。大切な部分だけをメモ。大切じゃないことを話してる間は、「年末どーしよーかにゃー。」と考えたり、教授の薄くなった頭を眺めつつ「ハゲと愛の相関性」について考えたり。チャイムと共に脱出。

クレンジングが切れているので、学校近くの百貨店に寄る。クリスマスプレゼント買え買えモードの店内。サングラスを物色する友だちに遭遇。「そうか、グラサンか…。」と一瞬候補に加えようと思ったが、私のプレゼントを贈る相手はサングラスがとても似合わなそうなのでやめた。

帰宅。夕飯はクリームシチュー。牛乳が足りないというアクシデントに見舞われたり、バターの溶かしが上手くいかなくて母と交替したり、散々な今晩。今に至る。さーて、卒論書かなくちゃー。
オープン・マインドは美徳なのだろうか。

私は定期的に自分の日記を読み返すのだが、以前ある日記(2005年・5月29日&30日)を書いた自分が、もはやどこにもいないことに気付いた。

心の奥のやわらかい部分を解放することは、私の愛情表現であり、たとえそれが「心の闇」と呼べるものであっても、それすらを愛してくれる人が好きだった。親愛なる人だからこそ「心の闇」を見せるべきであり、腹を割って話してくれない人を「信用ならない人」だと思いこんでいた節がある。私にとって、オープン・マインドは紛れもない美徳だったのだ。

今も「本音」を悪いものだとは思っていない。ただ、全力で闇を隠してあげることこそが、優しさだったり思い遣りだったりするんじゃないかと思うようになった。

私がどうしてオープン・マインドを重んじていたのかがわかった。私は「闘う」という行為がたぶん好きで、鞘から刀を抜いて闘う武士道精神にものすごい価値を認めていたのだ。「本音」を隠すことは、臆病者の農民が戦場に行くことを拒否する行為と同じだと。だから私は戦場に出ていた。自分が"倒すべきもの"に対して刀を振り回し、その姿を美しい・立派だと思ってくれる人を探していたのだ。元服したばかりの若武者のようだ。

でも気付いた。

私は戦場で闘っている自分にちょっと酔っていて、家に帰っても家族の前で刀を見せびらかしたかったのだよ。家族に文句を言われても、「あなたたちを斬ることはないから安心して。」と言えばそれで事が済むと思っていた。でも本当に立派な侍は、自分の大切な人の前では鞘から刀を抜かないのだ。それが「心の闇」を全力で隠すということだ。

ものすごい闘志を持っているはずの人たちが、私の前でその闘志たる「本音」を見せないとき、じれったいなあと思っていた。でもそういう人たちは、あっさり刀を抜いて、そのつもりがなくても、万が一でも私を傷つけてしまう可能性を恐れていたのかもしれない。

あの日記を書いた私は、「本音」を野球の直球に例えていたけど、その例えをもう一度採用するなら、私はもはや直球だけを投げ続けるピッチャーではない。打たれても構わないとがむしゃらに自分の信念を貫くことは今も否定しないけど、これからは「今がそのときだ。」と思うまでは、マウンドに立つこと自体をやめよう。どうしても「本音」を言わなければいけないとき、自分の中でどうしても譲れないことがあるときに限り、私は全力で直球を投げよう。

力を誇示しない侍と、ピンチの際だけ出てくるピッチャーは、似ている。

どちらも普段は頼りないように見えるし、私はかつてあからさまなものをとても愛していたけど、最近、色々なものが一本の糸に繋がったような気がして、少し嬉しい。

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備忘。

●卒業論文、難航。

もはや肉付けは終わった。あとはその肉の中に、ぶっとい一本の骨を埋め込むのみ。「骨を固めてから肉付けをするのが普通の順序では?」と思うかもしれないけど、卒業論文とは、多分こういうものなのだ(と、思う)。

肉は、文献を集めれば容易に手に入る。骨は、私にしか作れない。


●ジャズブーム継続中。

本日は、マイルス・デイビスの『RELAXIN’』。

最近聴いたばかりの『Waltz for Debby』とは、全然違う。あれはTrio(三人)で、今回はQuintet(五人)なのだから、違って当然といえば当然だ。タイトル通り、リラックスできる一枚。コーヒーを飲みつつまったりできる。

史上名高いマラソン・セッション(って何だろう?)で吹き込まれた四部作中の一枚、だそうだ。「いいなあ。」と思いながらこうしてちょっとずつ聴いていくうちに、皆詳しくなっていくのだろうか。

Shall we go for a walk?

2005年11月26日
久々に外出。(ようやく日記っぽい日記が書けそうだ。)

高校時代の友人とランチ。私のお気に入りの店でイタリアンを食す。

相変わらず時代の最先端を行く彼女からは、いつもキラキラしたオーラが出ている。お堅い文献を読んだり、論文を書いたり、世の中を憂えたりと、最近やたらめったら難しいことばかり考えていたのだが、一気に癒された。オナゴたるもの、たまにはキャピキャピしないと駄目だ。クリームタイプのチークを貰ったものの、「家に専用ブラシが無いからつけられないYO!」と言ったらツボだったらしく、大いに笑っていただく。二時間ほど近況報告し合い、解散。

解散後は、マイ・ラヴァーと合流して散歩&紅葉狩り。

最近「地図」にハマっている私は、東京の地理に詳しい彼と歩いていると、とても楽しい。「この道を真っ直ぐ行くとあそこに出るんだよ。」とか、「このビルからはあの競技場が眺められる。」などと聞いていると、本当に飽きない。よく「ディズニーランドに行くカップルは別れる。」などと言われているが、それはアトラクションの順番を待っているときに会話が続かないせいだとのこと。散歩も同じだと思う。会話が続かなければつまらない。私に関して言えば、歩きやすい靴と彼の話さえあれば、一日中でも歩いていられる。

ドラマでも使われる有名なイチョウ並木は、今がまさに見頃だった。枯れ葉舞い散る並木道で好きな人と手を繋いでくるくると回る計画だったのに、「イチョウ祭」なるものが開催されていて、休日の原宿・竹下通りかここわ!?というレベルの賑わい。くるくる回るどころではない(萎えた)。くるくる回る代わりに、屋台で焼きそばを購入。朝&お昼ごはん抜きの彼にはもちろん食べていただいたが、私は控えた。デート中の焼きそばは危険である(青海苔の罠)。

その後繁華街へ出て、映画鑑賞。先週から公開されている『大停電の夜に』を。作中で使われている音楽は、なんと、ジャズを知らない私のために彼が貸してくれたばかりのビル・エヴァンスの名曲、「MY FOOLISH HEART」。このタイミングでこの映画に誘うなんて、「この曲を二人の"思い出の曲"にするつもりかしら!?相変わらずキザね!」と、キザ好きの私はちょっとトキめいていたのに、どうやらまったくの偶然で何も知らなかったそうだ。がっかりと言うしかない。

映画を観た後は、また散歩。就職活動以外では滅多に訪れない場所を中心に、色々と。高速道路は川の上に造られていることを知ったり、日本の五街道の名称を復習したり、江戸の賑わいの面影もない土地に一抹の寂しさを感じたり。ひとしきり歩いてようやく電車に乗り、環状線の中心の「知る人ぞ知る居酒屋」にて、夕食。正直、泣きそうになった。本当に美味しいものを食べたときは言葉が出ない。じゃこ奴とネギマが天下一品!!久しぶりに芋焼酎なぞ飲む。私は今回つくづくわかったけど、こういう食事が一番好き。またしても食べ過ぎた。

もうひとつ、最近わかったこと。

「道の歩き方」は、「人生の歩み方」である。

マイ・ラヴァーは私と一緒なのに絶えずキョロキョロしていて、「あの店は旨そうだ。」だの、「本屋がある。寄りたい!」だの、とにかく道の周りの色々なものに注目しながら歩いている。私はといえば、別に足下だけを注視しているわけではないが、道を道として捉えていないことが多い。だから、後から「さっきの店の前にさ…」と言われても、「そんな店あったっけ?」ということがよくある。じゃあ歩きながら何をしているのかというと、一緒に歩く人の顔を見たり、話をしながら思いを馳せたりしている。

この状態(彼はキョロキョロ、私はボーッ)は、彼と私の「生き方」そのものだと思う。彼は日々のやることをこなしつつ(つまり道を歩く速度は緩めずに)、それでも目に入るものは常に吸収しようとしてアンテナを張っているのだろう。そして、きっとそれが楽しいのだと思う。私はといえば、意識して周りを見ようとしないとなかなか気付けない。その分、自分の歩く姿勢や隣に立つ相手を気にする時間は長い。そして、私にとってはそれが楽しいのだ。

高架を渡りながら、90年代のヒットメドレーを二人で歌う(バカップル)。夜空と車群のランプに囲まれてくるくると回る(心の中で)。歌と呼べるものが歴史上いつ誕生したのかはまったく知る術も無いが、おそらく、「歌」が初めて誕生した瞬間、そこには複数の人間がいたと思う。「歌」とは、誰かが歌って、それに合わせて歌う相手かそれに聴き惚れる相手か、少なくともどちらかが必要だったはずだ。別にひとりぽっちで歌っても一向に構わないのだけど、それではやはり寂し過ぎるよ。

今 煙の中で 溶け合いながら
探しつづける愛のことば
傷つくことも なめあうことも
包み込まれる愛のことば

実はスピッツのこの曲、随分長い間私の中では意味不明の歌詞だったのだが、本日、ちょっと意味が掴めるような瞬間があったことを、備忘として残す。

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さらに、備忘。

●源孝志監督の『大停電の夜に』(2005年)。

「りんが好きそうな映画」と色々な人に言われたが、たしかに。

「MY FOOLISH HEART」という曲がすべてを表すかのように、登場人物たちに共通するテーマとして「もはやどうにもならないこと」が挙げられる。小さい頃の私は、どうにもならないことを受けとめて諦めてしまうのは意気地なしのすることだと思っていた。「もはやどうにもならないこと」の対処法は、まだ私の中に出来上がっていない。

ただ、最後にひとつだけ「どうにもならないことがどうにかなりそうな予感」がちゃんと表現されていて良かった。どうにもならないことが多すぎる(本当に多すぎるよ…)世の中だからこそ、エンターテインメントには希望の要素がやはり欲しい、と私は思った。

洋画もいいが、邦画もやはりいい。ダンテは、詩は「母語」で書かれるべきだと説いたそうだが、「母語」で語られる映画を観ていると、言葉以外の要素(ノンバーバルメッセージ)に注目する余裕が生まれるので、浸ることが容易である。これからはもっと邦画を観よう。

適温

2005年11月25日
自分の元に降ってきた案件については「とりあえずめっちゃがんばる!」というのが、私の基本ポリシー。

いつでも私の中には熱いものが流れていて、それに従うこと・情熱的になることが、自分にとって一番気持ちのよい生き方だった。そして、そういう自分が好きだったのだけど。

最近になって、ちょっと変わった。少なくとも、今は頑張っている自分を押し出すことに抵抗がある。これは、かつて無かったこと。ターニング・ポイントはいつだったのだろう?と考えてみたのだが、多分、大学三年の春。大学生活のすべてといっても過言ではないサークル活動をやめたときだ。

自分にとって世界のすべてだったあるものを失う体験は、中学の頃から部活一本で生きてきた私には衝撃的だったといえよう。私がどうして目の前のものに熱中するのかといえば、ほかのことを考えなくていいという免罪符が手に入るからだったんだなあ、とそのとき初めて気付いた。

熱中するものが、"世間的に見て良さげなもの"であればあるほど、免罪符の効果は大きくなる。特に部活は立派な課外活動として定着してる感があるし、受験勉強も、就職活動も、頑張ってる人の方が頑張ってない人より、一見"良さげ"に見える。それらを隠れみのにする小狡さを、私は小さい頃からもっていたのだなあ。

サークルをやめてわかったのは、世の中にはやるべきことがたくさんあって、それらの全てが"良さげなもの"ではないということだ。たとえば遊ぶための小遣いを稼ぐアルバイトが、立派な課外活動とはたしていえるだろうか。ものすごく個人的な趣味(オタクっぽいものならなおさら)が、はたして課外活動になるだろうか。私はそれらに貴賤が無いことに気付いた。どれだけ"良さげ"に見えることをやっても、それはギャルゲーにハマっているA系と、本質的には何ら変わりがないのだと。

A系がギャルゲーに熱中して「家のことおろそかになるけど許してよ!」と言っても、こちらとしては「オイオイ。待てよ。」と思う。受験勉強も、部活も、就職活動も、それらに積極的に取り組んでいるとき(ここポイント。つまり、強制されてやっているわけではないとき)に、「ほかのことおろそかになるけど許してよ!」と言っても、「オイオイ、待てよ。」と思う人はいつでもいるということだ。

私はかつて恋にのめり込み過ぎて叱られたことがあるけど、ほかの"良さげなこと"をしているときは許されていた気がする。だから、免罪符たるサークル活動をやめるまで気付かなかった。失ったもの(大切な仲間、誇れる経歴等)はたくさんあったけど、世の中を客観的に見られるようになった。そしていざやめるまで気付けないのなら、私はやはりどうしてもあのときサークルをやめなければいけなかったのだろう、と。

社会人になったら、今まで以上に大きな「仕事」という免罪符を手に入れる。周りの人から「大変だろうから無理しなくていいよ。」と言ってもらえれば甘えようと思っているけど、自分から「大変だから甘えさせて!」と強いてはいけないのだろうなあ、と、ユニフォームを着て笑顔を浮かべる当時の写真を見ながら思う。

触れたら火傷するような私も好きだったけど、私は今の私(ちょうど人肌くらいの温度かしら?)も好き。

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備忘。

●本日のBGM。

『Cyber TRANCE presents SUNSHINE TRANCE』

いつの間にか家にあった。多分、父がどこかから持ってきたもの。ダンス系というのか、テクノ系というのか、よくわかりません。

アコギが染みるバラードや、ジャズや、クラシックも好きだけど、私はこういうモロ機械の「テケテケ♪」音が一番好きなのかもしれない。そんで、基本ハイテンポ。パラパラとかやったことないけど、多分好きだねあのノリは。そうか、ダンスミュージックが好きなのだな私って。

倖田來未の「Trust Your Love(Thunderpuss Radio Mix)」もリピート中。

the best season for reading

2005年11月24日
室田尚子の『チャット恋愛学 ネットは人格を変える?』(PHP新書)読了。

さくっと感想を。

(「さくっと」と言いつつ、多分長くなるな。)

「面白いなあ!」と思ったのは、主に第四章(「チャット恋愛の心理学」)以降。

人は外見以外にもいくつかのポイントで相手に魅力を感じると、進化心理学者のお偉いさんが発見したそうだ。で、具体的には「ユーモアのセンス」、「共感」、「上品さ」、「援助の申し出」、「一緒に時を過ごす努力を惜しまないこと」といった要素は、外見に直接関係がないと。そうだったのか…。

あまりハンサムとはいえないけどとても話の上手い男性なら、合コンなど実際に出会う場面では彼の話が面白いことは誰もが感じても、「面白いけど友だちどまり」という評価を受けるが、チャット(ネット)では彼の容姿ははじめから視野に入っていないので、本来の持ち味の「話が面白い」という部分が、大きくクローズアップされる、とのこと。これは、使いようによっては本人にとって大きな武器になるだろう。この点はチャット(ネット)の積極的に受けとめられる利点だな、と思う。

まあ、この本の趣旨を私なりにまとめると。

そもそも、「ネット」を「現実の世界」と区別している人々が、ネット恋愛の罠に陥るのだ、とのこと。仮想と現実をごっちゃにするから、という従来の理屈とは、まるで逆だ。

自分が誰なのかを隠すことのできる匿名性が「ネット」の特徴だが、バーチャルだから何をしてもいいんだと思ったり、もしくは「ネット」こそ"本来の自分"を発揮できる場だ、と思いこむこと。「現実の世界」と区別してしまうこと。これがイカン、と。

「現実世界の恋愛」と「ネット上の恋愛」も同じだと著者は語る。「現実世界の恋愛」にも陥りやすい罠がある。ほんとうの自分が出せる、そしてほんとうの自分になれる、と思いこみ、許容してくれた相手への自分勝手な依存が引き起こす悲劇は、現実の恋愛でも起こりうること。相手への過度の依存が、ネット恋愛の悲劇を生む。もし、ネット恋愛に特有の特徴さえ忘れなければ、その危険度は「現実世界の恋愛」と同程度まで下がるだろう。

自分が「今、ここにいる」という事実は、ネットだろうが現実世界だろうが、一緒なんだよね。著者はこのことを一番言いたかったのだと思う。






さて。以下、かるーい批判。

タイトルで『恋愛学』と謳っている以上、チャット、いや大きく扱ってネット上で、実際に繰り広げられる"恋愛"にとことんスコープを当ててほしかった、というのが正直な感想。新書を手にとる誰もが理解できるようにとの配慮から、「ネット人間」なら当然知っていることでも懇切丁寧に解説している序盤が存在するのだが、読んでて疲れた。

「知ってて当然よね?」と、いきなりこうした懇切丁寧さをぶっとばしている本というのも、個人的には大嫌いなのだが、これだけ「ネット人間」が増大している今なのだから、ネットなんてやったことも見たこともないよ〜というオジサンはこの際初めから読まないでね、という意気込みで、あくまで「ネット人間」が読むための『恋愛学』を展開して欲しかった。(それとも著者の目的は、チャットもしくはネットに関する知識を単に広めたいというのがそもそもの出所だったのだろうか?それなら仕方ないけど…。)

また、「ネットは悪だ!」と思いこんでいる人って、大抵はネットの楽しさを知らないエセ文化人だけど、この著者は自らがチャット(ネット)を本当に楽しんでいた経験を元に書いているので、その点は好感が持てる。文章の裏に、ネットへの愛が感じられる。裏に根本的なネットへの嫌悪感が感じられるネット批判本は、正論を書いててもなーーーんか信用できない。(人を愛した経験が無いのに、概念だけで「愛」を語るな、ってやつだ。)

んが。その理屈をもう一度採用するなら、たぶんこの著者は『チャット恋愛学』を展開しながらも、自らが「チャット(ネット)恋愛」にどっぷりハマった経験は無いのだろう。もちろん本文内で「様々な恋愛ケースを見てきた」と書いているので、それなりに実態を知ってはいるのだろうが、タイトルを『恋愛学』とする以上、自分のチャット(ネット)で出会った相手との赤裸々な愛のエピソードを元に論を展開して欲しかったな、というのが個人的な感想。

もしかして、実はあるのかな?

いや、もしかしてじゃない。この人、絶対あるはず。

でも隠しているってことは、「今のダーリンとチャットで出会いました!」などと大っぴらに語るのを憚られる感情があることを逆に証明しているのだから、著者は、なんだかんだでネット恋愛への偏見を持った一般人なのではないか?という気がしたぴょーん!(←キャラが違う。)

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卒論、鋭意執筆中でござるよ。

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