雨と、ワイシャツと、わたし
2005年10月6日つい最近、「日曜日の幸福」をテーマにした日記を書いたが、今日はその続編。「アフター5の幸福」について。
私は学生だが、最近は8時半〜17時という「OLかよ!」的シフトを組まれているので(もちろんアルバイト。)、しかも私の勤め先は場所柄OLさんがとても多く、仕事を終えて外に出ると、彼女たちの「これから約束があるの♪」的ウキウキオーラにすっかりあてられてしまう。
そんな今日。17時に上がったものの、新人が多い本日、イレギュラーな業務が大量発生しボランティア延長。待ち合わせは19時過ぎだったので余裕で間に合うだろうと思いつつも、迅速に対応し脱出。地下のトイレ(OL占有率高し。)で念入りにおめかし。チークをぼかして、グロスを塗って。とはいうものの、雨だったので足下はスニーカー。首にはヘッドフォン。個人的にはこの絶妙なアンバランスさがポイントでは、と思っていたのだが。
それにしても、彼女ら(OLさんたち)を美しくさせ得るその相手、というのがそれこそこのトイレを埋め尽くす数と同等に存在するのだなと思うと、妙な気分でもある。互いに牽制し合っているわけではないが、幸福感を共有しているというほのぼのさは無い。どちらかといえば緊張感が満ちている。誰一人口をきかず黙々と鏡を見つめているのだが、その鏡の先にそれぞれ大切な「アフター5を過ごす相手」を見ているのだろう。
すっかり美しくなったところで、駅に向かう。待ち合わせ場所はハッキリ決まっていないので、私の「アフター5を過ごす相手」の連絡を待つべく、彼の勤め先の最寄り駅へ。10月ということでもうすっかり日が暮れて、でも晩になって空気がひんやりするのも、街に大人が多くなるのも、小娘の私にはなんだか嬉しくて「ああ、そうか。晩(夜ではなく)というのは、幸福な時間帯だったのだな。」ということに、23年間生きてきて初めて気付く。何を今更。別に、晩に約束するのが生まれて初めてというわけではないのに。
19時過ぎには上がれるという話だったが、どうも「刈り取り業務」が難航している模様。「本当にすまん!」という内容の現状報告メールを随時受け取りながら、彼の会社にほど近いカフェで、結局21時まで待ちぼうけ。熱々だったブラックコーヒーも冷めちゃった(マイルドなブレンドも、時間が経つと酸味が際だって、すっぱい。)。彼から借りた本(最近、色々借りっぱなしである。)も読んじゃった。でも不思議と嫌ではなくて、「そういえば、昔、"待つ時間を食べて女は生きる"というフレーズを聞いたな。あれはどこで聞いたのだっけ?」ということをぐるぐる考えているうちに、待ちに待った着信。
あああ、お待ちしておりました。
ネクタイが若干緩んでいるのが、なんだか嬉しい。そういえば、この前は白いワイシャツだったけど、今日は青いのだな。男のスーツなんてみんな一緒だと学生の私は思っていたけど、ワイシャツとネクタイの組み合わせが、彼ら・彼女ら(私含む)にとって如何に重要か、ということに初めて気付く(初めて気付くことばっかりだ)。
一緒に焼肉を食べながら、「どうして人は人を好きになるのだろう。」というおよそ焼肉に不釣り合いな深遠なテーマについて、一人きりで考える。(と言いつつ、これは個人的な意見だが、「焼肉」ほど人生の深い部分に結びつく食事は無いような。イタメシとかじゃ、こうはいかない。すみません、余談です。)話題は、今私たちの間で流行している「"ファンタジー"としての女」に関して。もちろん熱い議論を繰り広げるのだが、私は終始「どうして人は人を好きになるのだろう。」ということばかり考えていた。どうしてだろう。
たとえば、私は坂口憲二がどうしても好きになれないのだが、あの人は実際かなり「イイ男」だと思う。「理性」として、そう思う。でも好きにはならない、と思う(いや、会ったらわかりませんが)。同時に、私は陣内智則を「イイ男」だとは思わないが、会ったら好きになりそうな予感がする(まあ、これもわからないのですけど)。これは「理性」ではない。
人が人を好きになるとき、「観念」の要素がどれくらい入り込むのだろう、と。私は人よりかなり「観念の世界」に生きている傾向があるので、最近はすっかり混乱している。私は彼を「イイ男」だと思っているが、じゃあ私の親友も彼を好きになるかどうかといえば、わからない。好きになるかもしれないし、ならないかもしれない(なったら嫌だ)。つまり万人に共通する「客観的な項目」ではない。「観念」は主観的なものなのだ。でも、私の中に確かに存在している。彼は、私の目の前で「観念」として存在するが、私の心の中では揺るぎない客観性を持ってもいる(私は彼を格好いいと確かに思っているから)。
そうか!目に見えるものが「客観的」ではないのか。むしろ目に見えない心の中にあるからこそ、絶対的な「客観性」を持つのだな!そうか、そうか、そうだったのか。と、一人、唐突に導き出された結論に満足し、〆の冷麺をすする。それにしても、一緒に焼肉を食べながらこんなことばかり考えている頭の固い女と、この人よく付き合っていられるなと私は思ったりもするのだが、彼も私と同じかそれ以上に「観念の世界」に生きているし、すぐに難しいことばかり言ったりするので(基本的に彼は前置きが長く、前置きばかり話しているうちに本論に入らないまま終わったりする。)、お互い様さまかもしれぬ。
そんな感じ。
頭の固い男と女と、雨と、緩んだネクタイとワイシャツと、すっぱいブラックコーヒーを抱きつつ、「幸福なアフター5(アフター9?)」は幕を閉じました、とさ。
私は学生だが、最近は8時半〜17時という「OLかよ!」的シフトを組まれているので(もちろんアルバイト。)、しかも私の勤め先は場所柄OLさんがとても多く、仕事を終えて外に出ると、彼女たちの「これから約束があるの♪」的ウキウキオーラにすっかりあてられてしまう。
そんな今日。17時に上がったものの、新人が多い本日、イレギュラーな業務が大量発生しボランティア延長。待ち合わせは19時過ぎだったので余裕で間に合うだろうと思いつつも、迅速に対応し脱出。地下のトイレ(OL占有率高し。)で念入りにおめかし。チークをぼかして、グロスを塗って。とはいうものの、雨だったので足下はスニーカー。首にはヘッドフォン。個人的にはこの絶妙なアンバランスさがポイントでは、と思っていたのだが。
それにしても、彼女ら(OLさんたち)を美しくさせ得るその相手、というのがそれこそこのトイレを埋め尽くす数と同等に存在するのだなと思うと、妙な気分でもある。互いに牽制し合っているわけではないが、幸福感を共有しているというほのぼのさは無い。どちらかといえば緊張感が満ちている。誰一人口をきかず黙々と鏡を見つめているのだが、その鏡の先にそれぞれ大切な「アフター5を過ごす相手」を見ているのだろう。
すっかり美しくなったところで、駅に向かう。待ち合わせ場所はハッキリ決まっていないので、私の「アフター5を過ごす相手」の連絡を待つべく、彼の勤め先の最寄り駅へ。10月ということでもうすっかり日が暮れて、でも晩になって空気がひんやりするのも、街に大人が多くなるのも、小娘の私にはなんだか嬉しくて「ああ、そうか。晩(夜ではなく)というのは、幸福な時間帯だったのだな。」ということに、23年間生きてきて初めて気付く。何を今更。別に、晩に約束するのが生まれて初めてというわけではないのに。
19時過ぎには上がれるという話だったが、どうも「刈り取り業務」が難航している模様。「本当にすまん!」という内容の現状報告メールを随時受け取りながら、彼の会社にほど近いカフェで、結局21時まで待ちぼうけ。熱々だったブラックコーヒーも冷めちゃった(マイルドなブレンドも、時間が経つと酸味が際だって、すっぱい。)。彼から借りた本(最近、色々借りっぱなしである。)も読んじゃった。でも不思議と嫌ではなくて、「そういえば、昔、"待つ時間を食べて女は生きる"というフレーズを聞いたな。あれはどこで聞いたのだっけ?」ということをぐるぐる考えているうちに、待ちに待った着信。
あああ、お待ちしておりました。
ネクタイが若干緩んでいるのが、なんだか嬉しい。そういえば、この前は白いワイシャツだったけど、今日は青いのだな。男のスーツなんてみんな一緒だと学生の私は思っていたけど、ワイシャツとネクタイの組み合わせが、彼ら・彼女ら(私含む)にとって如何に重要か、ということに初めて気付く(初めて気付くことばっかりだ)。
一緒に焼肉を食べながら、「どうして人は人を好きになるのだろう。」というおよそ焼肉に不釣り合いな深遠なテーマについて、一人きりで考える。(と言いつつ、これは個人的な意見だが、「焼肉」ほど人生の深い部分に結びつく食事は無いような。イタメシとかじゃ、こうはいかない。すみません、余談です。)話題は、今私たちの間で流行している「"ファンタジー"としての女」に関して。もちろん熱い議論を繰り広げるのだが、私は終始「どうして人は人を好きになるのだろう。」ということばかり考えていた。どうしてだろう。
たとえば、私は坂口憲二がどうしても好きになれないのだが、あの人は実際かなり「イイ男」だと思う。「理性」として、そう思う。でも好きにはならない、と思う(いや、会ったらわかりませんが)。同時に、私は陣内智則を「イイ男」だとは思わないが、会ったら好きになりそうな予感がする(まあ、これもわからないのですけど)。これは「理性」ではない。
人が人を好きになるとき、「観念」の要素がどれくらい入り込むのだろう、と。私は人よりかなり「観念の世界」に生きている傾向があるので、最近はすっかり混乱している。私は彼を「イイ男」だと思っているが、じゃあ私の親友も彼を好きになるかどうかといえば、わからない。好きになるかもしれないし、ならないかもしれない(なったら嫌だ)。つまり万人に共通する「客観的な項目」ではない。「観念」は主観的なものなのだ。でも、私の中に確かに存在している。彼は、私の目の前で「観念」として存在するが、私の心の中では揺るぎない客観性を持ってもいる(私は彼を格好いいと確かに思っているから)。
そうか!目に見えるものが「客観的」ではないのか。むしろ目に見えない心の中にあるからこそ、絶対的な「客観性」を持つのだな!そうか、そうか、そうだったのか。と、一人、唐突に導き出された結論に満足し、〆の冷麺をすする。それにしても、一緒に焼肉を食べながらこんなことばかり考えている頭の固い女と、この人よく付き合っていられるなと私は思ったりもするのだが、彼も私と同じかそれ以上に「観念の世界」に生きているし、すぐに難しいことばかり言ったりするので(基本的に彼は前置きが長く、前置きばかり話しているうちに本論に入らないまま終わったりする。)、お互い様さまかもしれぬ。
そんな感じ。
頭の固い男と女と、雨と、緩んだネクタイとワイシャツと、すっぱいブラックコーヒーを抱きつつ、「幸福なアフター5(アフター9?)」は幕を閉じました、とさ。
A man of letters will write at midnight.
2005年10月5日昨日の文章の勢いで書いてしまおう。もう"淫乱"と呼ばれてもいい。
「セックスとは、文学である。」
と、私は思うのだが。
(いつもいつもセックスだのメスだのオスだの愛だの恋だの書きやがってよー、このあばずれー、と、私の日記をしょっちゅう読んでくださってる方なら思うだろうが、とりあえず黙っててくれ。実は私の卒業論文のテーマにもこれは大きく関わる。セックスを科学することこそ、人間の根本にもっとも近づく行為だ。つまり、それが"生きる"ということで…以下略。)
そう、セックスとはこの世に存在する何よりも文学的な行為である、と。そういう話をしたいのだ。
たとえば、私は、こうして自分の頭の中にぼんやりとあるものを文章にすることが好きで、つまりは脳内のイメージを可能な限り写実的に表そうと、いつでも躍起になっているのである。それはある種、不毛な行為ともいえる。脳内の不可視なものを100%再現することなんて、不可能だ。限界があるのだ。それでも書きたい。なぜだろう。
文学作品が表現するもの、苦悩、愛、喜び、悲しみ、怒り、その他。それはどんな形で表現してもいい。必ず著者には主張したい何かがあるはずなのだ。それを表すのに一番ベストな方法で言葉や形式(文体?)を選んでいく。自由なのだ。
で。
セックスも、本当に自由である。最終的にどうするか(まあ、ほら、こうすれば終わりだみたいなやつがあるじゃないですか。)ということ以外は、すべて個人の裁量に任せられている。でも「目的」が必ずあるはずなのだ。それは文学でいうところの「主題」である。
主題をいかに表現するか。そして、文学にもセックスにも共通する事項として、必ず相手(読者)がいるということが挙げられる。コレ、すごく大事。相手に伝えたいという強い思いが、その作品を良くするし、セックスが盛り上がるかどうかはここに懸かっている。
先述の通り、脳内のイメージを100%言葉にすることなんて不可能だ。だから、「あなたが好き。」という想いが強ければ強いほど、どう表現するかに関して慎重になる。これは私の場合ね。できる限り、そっくりそのまま表現したいのだ。でも「好きだから唇を求める」とかそういう単純な話ではないし、じゃあ「好きだから背中に爪を立てる」のかといえば、そうでもない。ううう…と、私の頭は沸騰してしまう。
ただ、そういう「あなたが好き」という想いをなんとか表現しようと、躍起になって「あーでもない、こーでもない。」と考えている自分はなんとなく好き。最終的に表現できているかどうかは別問題としてね。
で、私のことを(多分?絶対?)好き、と思っている相手が、同じように躍起になって「あーでもない、こーでもない。」と考えているのを見るのも、なんとなく好き。さらに、「これ、うまく伝わってるかなぁ…?」って同時に思ってて、その瞬間ふいに目が合ったり、というタイミングが好き。
セックスとは、文学である。
良さげな結論の後にこんなこと書くのも、すっげアレですけど、「文章を書くのが上手い人」って、多分セックスも上手ですよ。
というか、文章を書くのが好きだと自分で思うなら、それは既にある種の才能(セックスのね)を持っているということ。でも、それを発揮できるかどうかは別問題だ。だって、自分が相手を愛しいと思わなければ「この人は上手だな。」と思えないだろうし、相手がこちらを愛しいと思っていなければ、きっと発揮もしてくれない。
昔、美容師とかコックはテクニシャンらしいという噂があったけど(未だ未確認)、いやいやいや…みたいな。あーやっぱこんなこと書くと、台無しだな。
「セックスとは、文学である。」
と、私は思うのだが。
(いつもいつもセックスだのメスだのオスだの愛だの恋だの書きやがってよー、このあばずれー、と、私の日記をしょっちゅう読んでくださってる方なら思うだろうが、とりあえず黙っててくれ。実は私の卒業論文のテーマにもこれは大きく関わる。セックスを科学することこそ、人間の根本にもっとも近づく行為だ。つまり、それが"生きる"ということで…以下略。)
そう、セックスとはこの世に存在する何よりも文学的な行為である、と。そういう話をしたいのだ。
たとえば、私は、こうして自分の頭の中にぼんやりとあるものを文章にすることが好きで、つまりは脳内のイメージを可能な限り写実的に表そうと、いつでも躍起になっているのである。それはある種、不毛な行為ともいえる。脳内の不可視なものを100%再現することなんて、不可能だ。限界があるのだ。それでも書きたい。なぜだろう。
文学作品が表現するもの、苦悩、愛、喜び、悲しみ、怒り、その他。それはどんな形で表現してもいい。必ず著者には主張したい何かがあるはずなのだ。それを表すのに一番ベストな方法で言葉や形式(文体?)を選んでいく。自由なのだ。
で。
セックスも、本当に自由である。最終的にどうするか(まあ、ほら、こうすれば終わりだみたいなやつがあるじゃないですか。)ということ以外は、すべて個人の裁量に任せられている。でも「目的」が必ずあるはずなのだ。それは文学でいうところの「主題」である。
主題をいかに表現するか。そして、文学にもセックスにも共通する事項として、必ず相手(読者)がいるということが挙げられる。コレ、すごく大事。相手に伝えたいという強い思いが、その作品を良くするし、セックスが盛り上がるかどうかはここに懸かっている。
先述の通り、脳内のイメージを100%言葉にすることなんて不可能だ。だから、「あなたが好き。」という想いが強ければ強いほど、どう表現するかに関して慎重になる。これは私の場合ね。できる限り、そっくりそのまま表現したいのだ。でも「好きだから唇を求める」とかそういう単純な話ではないし、じゃあ「好きだから背中に爪を立てる」のかといえば、そうでもない。ううう…と、私の頭は沸騰してしまう。
ただ、そういう「あなたが好き」という想いをなんとか表現しようと、躍起になって「あーでもない、こーでもない。」と考えている自分はなんとなく好き。最終的に表現できているかどうかは別問題としてね。
で、私のことを(多分?絶対?)好き、と思っている相手が、同じように躍起になって「あーでもない、こーでもない。」と考えているのを見るのも、なんとなく好き。さらに、「これ、うまく伝わってるかなぁ…?」って同時に思ってて、その瞬間ふいに目が合ったり、というタイミングが好き。
セックスとは、文学である。
良さげな結論の後にこんなこと書くのも、すっげアレですけど、「文章を書くのが上手い人」って、多分セックスも上手ですよ。
というか、文章を書くのが好きだと自分で思うなら、それは既にある種の才能(セックスのね)を持っているということ。でも、それを発揮できるかどうかは別問題だ。だって、自分が相手を愛しいと思わなければ「この人は上手だな。」と思えないだろうし、相手がこちらを愛しいと思っていなければ、きっと発揮もしてくれない。
昔、美容師とかコックはテクニシャンらしいという噂があったけど(未だ未確認)、いやいやいや…みたいな。あーやっぱこんなこと書くと、台無しだな。
りん的ジェンダー論(本領発揮?)
2005年10月4日思い出話を、ひとつ。
私は、元カレと最後にセックスした日を覚えていない。元々、そういう欲求の少ない人だったように思う。本人もそう言っていた。それに関する私の見解はここに書くようなことではない。なぜなら、彼は「そういう(あまりセックスが好きじゃない)人」だからだ。
どういうことかというと、「そういう人」に私が何かを強く求めるというのは、私の過剰要求ということになり、つまり私が悪いのである。ことセックスに関してだと話がややこしくなるので、別の例を挙げると、たとえば私が甘い食べ物をあまり好まないのに、相手が「でも俺は食べたいの!だから今日もケーキバイキングに行きたい!」と言ったら、「まあ、なんて思いやりのない人…。」と誰もが思うでしょう?そういうことだ。
基本的に、彼は私に「女らしいこと」をしばしば要求したが、その割りには私の「女」の部分に発情しているように見えなかった。これは不思議な矛盾である。なんとなくそう思っているのが私にはわかったので、その不安を打ち消したくて、ますますセックスを要求した。「女」として認めてもらうために必死だったのだ。セックスそのものがしたいというよりも、「私とセックスしたがる彼」を見たかったのだと思う。それさえわかれば、実際にコトをいたさなくても満足だったかもしれない。
彼は、私のことを、「いい奴だ。」とよく言っていた。別れるときも言っていたし、別れた後もどうやらそう思っているらしい。このことを人に話せば、「素晴らしいじゃない。セックスしなくても認め合えるなんて。つまり、彼は体が目的じゃなくて、本当に人としてあなたのことが好きなのね。」と言うだろうが、果たしてそうなのだろうか。「人として」というのは、「女として」を飛び越えて、先に成立するものなのだろうか。
「女」が「女として認められる」って、ものすごく基礎的な満たされなくてはいけないポイントだ、とある女性は語る。そうなのだ。つまり、「女」として認められることで十分安心し、そこから「人としての自分」にようやく関心が向かうのである。まず「女としての自分」ありき、なのである。「人としてどうか」は、その後の問題なのだ。ここの順番が前後していたからこそ、私は元カレとの間の違和感を消すことができなかった。
私は、セックスがしたかったんじゃ、ない。
ただ、「人」として中途半端な評価を受けている気がして嫌だったのだ。足し算ができないのに、いきなり分数のかけ算ができるわけないじゃない。まず、足し算を二人で覚えて(つまり「男」と「女」として、二人で認め合ってから)、それから一緒に難しい分数のかけ算(「人」として、どう生きていくか)をしたかった。
「女」としての自分を「人」としての自分以上に意識するなんて、ジェンダーフリーが奨励される現代では疎まれるだろうか。でも、私は、誰よりも「女冥利」を求めている。それは「女」という性に固執しているフェミニストだからではなく、むしろ誰よりも「人」であることを認めてもらいたがっているからなのだ。逆説的な話だが。
男子たるもの、エロであれ!
そして、私が「女冥利」を大切にするのと同じ位、「男冥利」を大切にしてほしい。「守ってほしい」と女のコが思っていても、「甘えるな!」と言わないでほしい。なぜなら、「何があってもこの人が守ってくれる。」という安心感を得ることで、私たち(女)は男より強くなれるのである。またまた逆説的な話だが、「この人が守ってくれる。」と思わせてくれる男性だからこそ、私は守りたいのである。
というわけで、もう一度。
男子たるもの、エロであれ!!
あ、好きな人限定ね。(←これ、書いておかないと大変なことになるな。)
私は、元カレと最後にセックスした日を覚えていない。元々、そういう欲求の少ない人だったように思う。本人もそう言っていた。それに関する私の見解はここに書くようなことではない。なぜなら、彼は「そういう(あまりセックスが好きじゃない)人」だからだ。
どういうことかというと、「そういう人」に私が何かを強く求めるというのは、私の過剰要求ということになり、つまり私が悪いのである。ことセックスに関してだと話がややこしくなるので、別の例を挙げると、たとえば私が甘い食べ物をあまり好まないのに、相手が「でも俺は食べたいの!だから今日もケーキバイキングに行きたい!」と言ったら、「まあ、なんて思いやりのない人…。」と誰もが思うでしょう?そういうことだ。
基本的に、彼は私に「女らしいこと」をしばしば要求したが、その割りには私の「女」の部分に発情しているように見えなかった。これは不思議な矛盾である。なんとなくそう思っているのが私にはわかったので、その不安を打ち消したくて、ますますセックスを要求した。「女」として認めてもらうために必死だったのだ。セックスそのものがしたいというよりも、「私とセックスしたがる彼」を見たかったのだと思う。それさえわかれば、実際にコトをいたさなくても満足だったかもしれない。
彼は、私のことを、「いい奴だ。」とよく言っていた。別れるときも言っていたし、別れた後もどうやらそう思っているらしい。このことを人に話せば、「素晴らしいじゃない。セックスしなくても認め合えるなんて。つまり、彼は体が目的じゃなくて、本当に人としてあなたのことが好きなのね。」と言うだろうが、果たしてそうなのだろうか。「人として」というのは、「女として」を飛び越えて、先に成立するものなのだろうか。
「女」が「女として認められる」って、ものすごく基礎的な満たされなくてはいけないポイントだ、とある女性は語る。そうなのだ。つまり、「女」として認められることで十分安心し、そこから「人としての自分」にようやく関心が向かうのである。まず「女としての自分」ありき、なのである。「人としてどうか」は、その後の問題なのだ。ここの順番が前後していたからこそ、私は元カレとの間の違和感を消すことができなかった。
私は、セックスがしたかったんじゃ、ない。
ただ、「人」として中途半端な評価を受けている気がして嫌だったのだ。足し算ができないのに、いきなり分数のかけ算ができるわけないじゃない。まず、足し算を二人で覚えて(つまり「男」と「女」として、二人で認め合ってから)、それから一緒に難しい分数のかけ算(「人」として、どう生きていくか)をしたかった。
「女」としての自分を「人」としての自分以上に意識するなんて、ジェンダーフリーが奨励される現代では疎まれるだろうか。でも、私は、誰よりも「女冥利」を求めている。それは「女」という性に固執しているフェミニストだからではなく、むしろ誰よりも「人」であることを認めてもらいたがっているからなのだ。逆説的な話だが。
男子たるもの、エロであれ!
そして、私が「女冥利」を大切にするのと同じ位、「男冥利」を大切にしてほしい。「守ってほしい」と女のコが思っていても、「甘えるな!」と言わないでほしい。なぜなら、「何があってもこの人が守ってくれる。」という安心感を得ることで、私たち(女)は男より強くなれるのである。またまた逆説的な話だが、「この人が守ってくれる。」と思わせてくれる男性だからこそ、私は守りたいのである。
というわけで、もう一度。
男子たるもの、エロであれ!!
あ、好きな人限定ね。(←これ、書いておかないと大変なことになるな。)
ここでろ過して
2005年10月3日自分で言うとやな感じなのは百も承知だが、敢えて書かせていただく。
私は、最近、ようやく「本物」と「ニセモノ」の区別がつくようになってきたと思う。まだ、「これはニセモノだからやめよう。」と事前に分別することはできないのだが、たとえば知らずにニセモノをチョイスしてしまった後に、「あらま!これはニセモノじゃないの!」とわかるレベルにはなってきたということ。
すごく抽象的な話なのだが、私という人間は、生まれたときから大切にしてきた「素の自分」と、後から注入した「外的要因」をブレンドした総体なのだ。「素の自分」のまま、温室のような場所ですくすく育ったら今の私は無かった。だから、それはそれでいい。でも、その「外的要因」も、やはり全てが全て必要だったわけではない。
「外的要因」の要素が、「素の自分」を上回るようになると、きっと私は「ニセモノ」しか見えなくなる。わかり辛いから例を出すと、大学でできた彼氏(これがまた、やたらオシャレに気を使うシティシティシティボ〜イ♪で。)が「俺は、JJ系の派手めなスタイルが好きだな。あーゆー格好をしてよ。」と言えば、合点承知、いざ鎌倉、いきなりお姉雑誌を買い漁り、服だのアクセサリーだので身を飾り、そんな自分が好きだったのだ。尽くす自分が好きだった。
だから、私は「この愛は本物だ!」と信じて疑わなかったけど(今も、正確に言えば、ニセモノだとは思っていないが。あれはあれで、確かに存在していた「愛」だった。)、あの自分はものすごく不自然である。「ニセモノの自分」である。お姉の格好が悪いのではなく、たとえば、TPOを考えずにフワフワのファーがついたトップスにカツカツのピンヒールにぐるぐるの巻き髪で授業に出るなんて、なんちゅうかものすごく不自然である。気合いが空回りというか、「あなた、頑張りすぎててダサイよ…」と肩の一つも叩いてやりたくなるような。
学校に行くのだから、ノートが入るナイロン素材(軽いし)のトートバッグでいいではないか。冬なのだから、いくらニットでもノースリーブを着るべきではない(冷えるよ…)。放課後に友達とお出かけする用事があるなら、歩きやすいスニーカーでいいではないか(靴擦れもできないし)。ナイロンと長袖とスニーカーが「本物」だと言いたいのではないけど、要はそういうこと。目が曇り、正確な判断ができない状態。それが「外的要因」に負けているとき。
だからね。
今は、その「外的要因」を"ろ過"しているのだと思う。
23年間、取り入れられるものは全部注入してきた。それがいいものか悪いものかもわからずに。そう、悪いものだけではなかった。お姉が好きだった元カレがくれた「本物」だって、確実にあるのだ。でも、今はやはり混沌としている。だから、"ろ過"するのだ。必要なものと不必要なものを選り分けて、「素の自分」と混ぜたときにもっと綺麗になるように。純度100%(素の自分のまんまってことね)では体現できないハイブリッドの最高級を、自分の中で完成できるように。
あの人は、決して頑張り過ぎているわけでもなく、(自分は成熟しているのに)未成熟なままの私を見下すこともない。そして、「本物」と「ニセモノ」を選り分ける力も、持っている。多分、私よりも。本人に伝えたら、「褒め過ぎだ。」とか「俺もまだまだだ。」などと言うかもしれないけど、私も多少「本物」を見抜ける目を持てるようになったから、彼の良さがわかるのだと思う。他人が目の前で食事をしていても平気で化粧を直すようなあの頃の私だったら、きっとわからなかったと思うよ。
それでもおめかしはするけどさ。おめかしは、本来こういうときにするものではないかな。ちょっと特別な人に会う日に、ちょっと特別な自分になるために。学校に行くときではなくて。だから、また、今週末、私は少しだけ「本物」のおめかしをして、"ろ過"してくれる彼に会いに行こうと思う。
私は、最近、ようやく「本物」と「ニセモノ」の区別がつくようになってきたと思う。まだ、「これはニセモノだからやめよう。」と事前に分別することはできないのだが、たとえば知らずにニセモノをチョイスしてしまった後に、「あらま!これはニセモノじゃないの!」とわかるレベルにはなってきたということ。
すごく抽象的な話なのだが、私という人間は、生まれたときから大切にしてきた「素の自分」と、後から注入した「外的要因」をブレンドした総体なのだ。「素の自分」のまま、温室のような場所ですくすく育ったら今の私は無かった。だから、それはそれでいい。でも、その「外的要因」も、やはり全てが全て必要だったわけではない。
「外的要因」の要素が、「素の自分」を上回るようになると、きっと私は「ニセモノ」しか見えなくなる。わかり辛いから例を出すと、大学でできた彼氏(これがまた、やたらオシャレに気を使うシティシティシティボ〜イ♪で。)が「俺は、JJ系の派手めなスタイルが好きだな。あーゆー格好をしてよ。」と言えば、合点承知、いざ鎌倉、いきなりお姉雑誌を買い漁り、服だのアクセサリーだので身を飾り、そんな自分が好きだったのだ。尽くす自分が好きだった。
だから、私は「この愛は本物だ!」と信じて疑わなかったけど(今も、正確に言えば、ニセモノだとは思っていないが。あれはあれで、確かに存在していた「愛」だった。)、あの自分はものすごく不自然である。「ニセモノの自分」である。お姉の格好が悪いのではなく、たとえば、TPOを考えずにフワフワのファーがついたトップスにカツカツのピンヒールにぐるぐるの巻き髪で授業に出るなんて、なんちゅうかものすごく不自然である。気合いが空回りというか、「あなた、頑張りすぎててダサイよ…」と肩の一つも叩いてやりたくなるような。
学校に行くのだから、ノートが入るナイロン素材(軽いし)のトートバッグでいいではないか。冬なのだから、いくらニットでもノースリーブを着るべきではない(冷えるよ…)。放課後に友達とお出かけする用事があるなら、歩きやすいスニーカーでいいではないか(靴擦れもできないし)。ナイロンと長袖とスニーカーが「本物」だと言いたいのではないけど、要はそういうこと。目が曇り、正確な判断ができない状態。それが「外的要因」に負けているとき。
だからね。
今は、その「外的要因」を"ろ過"しているのだと思う。
23年間、取り入れられるものは全部注入してきた。それがいいものか悪いものかもわからずに。そう、悪いものだけではなかった。お姉が好きだった元カレがくれた「本物」だって、確実にあるのだ。でも、今はやはり混沌としている。だから、"ろ過"するのだ。必要なものと不必要なものを選り分けて、「素の自分」と混ぜたときにもっと綺麗になるように。純度100%(素の自分のまんまってことね)では体現できないハイブリッドの最高級を、自分の中で完成できるように。
あの人は、決して頑張り過ぎているわけでもなく、(自分は成熟しているのに)未成熟なままの私を見下すこともない。そして、「本物」と「ニセモノ」を選り分ける力も、持っている。多分、私よりも。本人に伝えたら、「褒め過ぎだ。」とか「俺もまだまだだ。」などと言うかもしれないけど、私も多少「本物」を見抜ける目を持てるようになったから、彼の良さがわかるのだと思う。他人が目の前で食事をしていても平気で化粧を直すようなあの頃の私だったら、きっとわからなかったと思うよ。
それでもおめかしはするけどさ。おめかしは、本来こういうときにするものではないかな。ちょっと特別な人に会う日に、ちょっと特別な自分になるために。学校に行くときではなくて。だから、また、今週末、私は少しだけ「本物」のおめかしをして、"ろ過"してくれる彼に会いに行こうと思う。
sunnyday,happyday
2005年10月2日前回に続き、日記っぽい日記を。
春先に内定を貰い、大学の単位も取り終わり、あとは卒業論文を仕上げるのみという立場の私にとって、世間が日曜日かどうかということはあまり関係がない。それはそうなのだが、「日曜日の幸福」というのは、たしかに存在すると思う。
土曜の夜、いい具合に酔っぱらって化粧も落とさずにバタンキュー(←この表現は今もアリなのか?)し、目覚ましを使わずに目覚めた。起きたら午前八時。なんかいい感じ。しかもとってもいい天気の様子。日差しの気配を感じつつ、寝床でぐずぐず。布団の周りに散らかっている雑誌を読んでみたり。
その後も寝っ転がったまま、抱くという動詞の変型「抱き合う・抱きしめる・抱きしめられる」のうち、どれが一番イイかという件について、下らない議論を展開。で、「抱きしめる」を受動態にするといきなり一方通行感が漂う、という私の論を尊重していただき、やはり「抱き合う」がイイのではないか、というあたりに着地して議論終了。
ダウナー系のBGMをかけつつ、ようやく起床。冷蔵庫を開けたら何も無いので(本当に何も無かった。砂糖も無いって、ちょっと。)、Tシャツと短パンのまま、一人、徒歩一分の場所にあるスーパーへ。日曜日のスーパーは夫婦連れが多くて、確実に「休日の幸福感」が漂っている。これは平日の夕方には見られない現象である。適当に見繕って964円。千円札一枚に収まり、満足。それにしても、本当にいい天気。
ぺたぺたとサンダル(持ち主と足のサイズがほぼ同じ模様。これは便利!!)を鳴らしつつ帰宅。お湯を沸かしながら、遅めの朝食の支度。甘みが足りなかった気もするけど、まあまあの出来。インスタントのカプチーノもこういう気分のまま飲めば、まるで極上のアラビカ種のように感じられたりするから不思議である。
ベッドにもたれつつ、お昼のニュースを鑑賞。バリ島で爆弾テロがあったらしい。日差しがまぶしくて風も心地よく吹いているこんな穏やかな日なのに、地球のどこかでは今、確実に辛い思いをしている人たちがいるのだ。それはテロが起こらなくてもいえることだけど。でも、申し訳ないけど、隔世感がある。優しい時間が流れるぽかぽかした日に、テレビニュースの「爆弾テロ」なんて。味噌汁にソフトクリームを付け合わせるくらい、相性が悪い。
食器を洗ったり、唇をぶよぶよいじったりしているうちに、いつの間にか出かける時間になっていることに気付く。電車の時間が迫っている。前日の洗濯物が干しっぱなしになっていることにも(出発間際になってから)気付き、服の所有者がネクタイを締めている間に、私が取り込む。慌てていたので、ベランダのサッシのすぐそばにある本棚を蹴っ飛ばし、上空から本落下。まったく、本があり過ぎなのだ。本と暮らしているのか。
どたばたと出発し、寄るはずだった本屋にも行けないまま、最寄り駅へ。それでも、電車を一本逃す。「ま、予定の電車に乗るよりも大事なことがあったからね。」なんて言われ、「あれが大事なことか…?」と考える私。うっかり大きな声を出して、叱られる。ホームでペットボトルのお茶を買って、飲む。私も分けてもらう。一本遅い電車に乗る。
三駅乗ったところで別れ、午後の幸福な昼下がりを電車の中で一人満喫。別に何がどうというわけではないのに、なんともいえず幸福な休日だ。私がどうのというよりは、なんちゅうか、「日曜日の幸福」が街全体を包んでいるのだ。日差しのように。もちろん、今日だって、(ついこの前の私のように)どん底の気分の人がどこかにいるに違いないのだが。でも、きっと、いいことがあるよ。だから、泣かないでほしい。幸せな日曜日はきっと来るから。
と、誰にともなく言ってみた。結局、人が幸福を感じるに必要なものなんて、「気心の知れた相手」と「太陽の光」だけなのかもしれない。「インスタントのカプチーノ」を加えてもいい。
春先に内定を貰い、大学の単位も取り終わり、あとは卒業論文を仕上げるのみという立場の私にとって、世間が日曜日かどうかということはあまり関係がない。それはそうなのだが、「日曜日の幸福」というのは、たしかに存在すると思う。
土曜の夜、いい具合に酔っぱらって化粧も落とさずにバタンキュー(←この表現は今もアリなのか?)し、目覚ましを使わずに目覚めた。起きたら午前八時。なんかいい感じ。しかもとってもいい天気の様子。日差しの気配を感じつつ、寝床でぐずぐず。布団の周りに散らかっている雑誌を読んでみたり。
その後も寝っ転がったまま、抱くという動詞の変型「抱き合う・抱きしめる・抱きしめられる」のうち、どれが一番イイかという件について、下らない議論を展開。で、「抱きしめる」を受動態にするといきなり一方通行感が漂う、という私の論を尊重していただき、やはり「抱き合う」がイイのではないか、というあたりに着地して議論終了。
ダウナー系のBGMをかけつつ、ようやく起床。冷蔵庫を開けたら何も無いので(本当に何も無かった。砂糖も無いって、ちょっと。)、Tシャツと短パンのまま、一人、徒歩一分の場所にあるスーパーへ。日曜日のスーパーは夫婦連れが多くて、確実に「休日の幸福感」が漂っている。これは平日の夕方には見られない現象である。適当に見繕って964円。千円札一枚に収まり、満足。それにしても、本当にいい天気。
ぺたぺたとサンダル(持ち主と足のサイズがほぼ同じ模様。これは便利!!)を鳴らしつつ帰宅。お湯を沸かしながら、遅めの朝食の支度。甘みが足りなかった気もするけど、まあまあの出来。インスタントのカプチーノもこういう気分のまま飲めば、まるで極上のアラビカ種のように感じられたりするから不思議である。
ベッドにもたれつつ、お昼のニュースを鑑賞。バリ島で爆弾テロがあったらしい。日差しがまぶしくて風も心地よく吹いているこんな穏やかな日なのに、地球のどこかでは今、確実に辛い思いをしている人たちがいるのだ。それはテロが起こらなくてもいえることだけど。でも、申し訳ないけど、隔世感がある。優しい時間が流れるぽかぽかした日に、テレビニュースの「爆弾テロ」なんて。味噌汁にソフトクリームを付け合わせるくらい、相性が悪い。
食器を洗ったり、唇をぶよぶよいじったりしているうちに、いつの間にか出かける時間になっていることに気付く。電車の時間が迫っている。前日の洗濯物が干しっぱなしになっていることにも(出発間際になってから)気付き、服の所有者がネクタイを締めている間に、私が取り込む。慌てていたので、ベランダのサッシのすぐそばにある本棚を蹴っ飛ばし、上空から本落下。まったく、本があり過ぎなのだ。本と暮らしているのか。
どたばたと出発し、寄るはずだった本屋にも行けないまま、最寄り駅へ。それでも、電車を一本逃す。「ま、予定の電車に乗るよりも大事なことがあったからね。」なんて言われ、「あれが大事なことか…?」と考える私。うっかり大きな声を出して、叱られる。ホームでペットボトルのお茶を買って、飲む。私も分けてもらう。一本遅い電車に乗る。
三駅乗ったところで別れ、午後の幸福な昼下がりを電車の中で一人満喫。別に何がどうというわけではないのに、なんともいえず幸福な休日だ。私がどうのというよりは、なんちゅうか、「日曜日の幸福」が街全体を包んでいるのだ。日差しのように。もちろん、今日だって、(ついこの前の私のように)どん底の気分の人がどこかにいるに違いないのだが。でも、きっと、いいことがあるよ。だから、泣かないでほしい。幸せな日曜日はきっと来るから。
と、誰にともなく言ってみた。結局、人が幸福を感じるに必要なものなんて、「気心の知れた相手」と「太陽の光」だけなのかもしれない。「インスタントのカプチーノ」を加えてもいい。
親愛なる
2005年10月1日たまには日記っぽい日記を。
私の人生ではかつて無かったような、すぺしゃる☆な飲みに参加。
ずっとお会いしたかった方々にお会いできて感激。感激って書くと陳腐で嫌なのだが、感激としか言いようがない。お初にお目にかかった二名は想像した通りのお人柄で、いや、人柄は既に知っていたのだけど、実際にコンタクトをとるのは今夜が初めて、という21世紀ならではの現象である。四人で23時まで飲む。
それはそうと、お初にお目にかかった幹事様チョイスのお店は、本当に素敵だった。実はワインをあまり飲んだことが無かったのだけど、「こんなに美味しいものなの!?」とまたしても感激。(普通を装っていたけど、本当は「ぎゃー」と言いそうな程に大感激していた。)それにしても、私以外の全員がワインに馴染んでいる。みんななんて大人なのだろう…と、こんなことを思っている時点で既に子どもじみた23歳・女子大生の体たらくである。
ワイン以外のお料理もとっても素敵。キッシュ(フランスの郷土料理でしたっけ?)は好物だし、店のウリらしいお肉料理は口の中でとろけるし、ムール貝は身が締まってて、またしてもまたしても感激。(「ぎゃー」)私だけちょっと多めに食べ過ぎたかもしれぬ。いやー、最近色々あって美味しいものばかり食べているのだけど、このままじゃ「にわかグルメ」みたいになりそうで自分がちょっと怖い。
しかし、人と人の繋がりというものは本当に不思議で、たとえば昨日は、四人中全員と面識があるのは一人しかいないにも関わらず、まるで十年来の友達のような感覚で話が盛り上がった。それはどうしてなのかしらんとトイレで一人考えたのだが、思うに、話の内容はあまり関係が無いのだね、この場合。
つまり、私たちは、お互いの枝葉部分(プライベートな部分ね。どんな仕事をしてるかとか、普段何して遊んでるかとか)を既在の友人たちのように理解し合っているわけではないのだけど、幹の部分(どう生きていくべきかとか、ね。根本的な考え方)が一緒だから、しかもそれを全員が知っているから、だからリラックスできるのだろう。好きな本の話とか音楽の話とか、そんなことは一致していなくてもいいのだ。「話すネタ」ではなく、「ネタをどう話すか」が大事なわけだね。そして、全員が「ネタの料理方法」に関して、それぞれを完全に信頼している。
特に、「この人は生き別れのお姉様なのでは…?」と密かに思わせていただいている方が、本当にうっとりするような素敵な女性で、しかもどうやら私に好意を抱いてくださっているらしいということで、大変恐縮。「あーもうほんとすみません、こんな私で。」って感じ。伝え忘れてしまったので、ここに書きますけど、あの、またお会いしたいです。お姉様の語りはたまに私には難しいなと思うのですが、あと何年かしたらこういう風になりたい!と思わせるようなお人柄です。男性陣は排除して、女同士でしかできない濃ゆ〜い話をぜひしたいです。うふふ。
そして幹事のお兄様へ。いや、ほんと、笑わせていただきました。八墓村のネタは個人的に大ヒットでした。二次会ではちょっとノロケ過ぎました。いや、一次会でもノロケてたかもしれません。すみませんすみません。家に帰ってからちょっと恥ずかしくなりました。今回の件は色々とお見守り下さったそうで、しかも萌え死にしそうになったということで、ありがとうございます。これからも頑張ります。止められても、なんとかオブラートに包みつつ、報告を続けます。そうそう、お店、とっても素敵でした。この場でお礼申し上げます。
それにしても、本当にすぺしゃる☆な夜だった。人生、案外、「辛いことと楽しいことのバランス」はとれているような気がする。
私の人生ではかつて無かったような、すぺしゃる☆な飲みに参加。
ずっとお会いしたかった方々にお会いできて感激。感激って書くと陳腐で嫌なのだが、感激としか言いようがない。お初にお目にかかった二名は想像した通りのお人柄で、いや、人柄は既に知っていたのだけど、実際にコンタクトをとるのは今夜が初めて、という21世紀ならではの現象である。四人で23時まで飲む。
それはそうと、お初にお目にかかった幹事様チョイスのお店は、本当に素敵だった。実はワインをあまり飲んだことが無かったのだけど、「こんなに美味しいものなの!?」とまたしても感激。(普通を装っていたけど、本当は「ぎゃー」と言いそうな程に大感激していた。)それにしても、私以外の全員がワインに馴染んでいる。みんななんて大人なのだろう…と、こんなことを思っている時点で既に子どもじみた23歳・女子大生の体たらくである。
ワイン以外のお料理もとっても素敵。キッシュ(フランスの郷土料理でしたっけ?)は好物だし、店のウリらしいお肉料理は口の中でとろけるし、ムール貝は身が締まってて、またしてもまたしても感激。(「ぎゃー」)私だけちょっと多めに食べ過ぎたかもしれぬ。いやー、最近色々あって美味しいものばかり食べているのだけど、このままじゃ「にわかグルメ」みたいになりそうで自分がちょっと怖い。
しかし、人と人の繋がりというものは本当に不思議で、たとえば昨日は、四人中全員と面識があるのは一人しかいないにも関わらず、まるで十年来の友達のような感覚で話が盛り上がった。それはどうしてなのかしらんとトイレで一人考えたのだが、思うに、話の内容はあまり関係が無いのだね、この場合。
つまり、私たちは、お互いの枝葉部分(プライベートな部分ね。どんな仕事をしてるかとか、普段何して遊んでるかとか)を既在の友人たちのように理解し合っているわけではないのだけど、幹の部分(どう生きていくべきかとか、ね。根本的な考え方)が一緒だから、しかもそれを全員が知っているから、だからリラックスできるのだろう。好きな本の話とか音楽の話とか、そんなことは一致していなくてもいいのだ。「話すネタ」ではなく、「ネタをどう話すか」が大事なわけだね。そして、全員が「ネタの料理方法」に関して、それぞれを完全に信頼している。
特に、「この人は生き別れのお姉様なのでは…?」と密かに思わせていただいている方が、本当にうっとりするような素敵な女性で、しかもどうやら私に好意を抱いてくださっているらしいということで、大変恐縮。「あーもうほんとすみません、こんな私で。」って感じ。伝え忘れてしまったので、ここに書きますけど、あの、またお会いしたいです。お姉様の語りはたまに私には難しいなと思うのですが、あと何年かしたらこういう風になりたい!と思わせるようなお人柄です。男性陣は排除して、女同士でしかできない濃ゆ〜い話をぜひしたいです。うふふ。
そして幹事のお兄様へ。いや、ほんと、笑わせていただきました。八墓村のネタは個人的に大ヒットでした。二次会ではちょっとノロケ過ぎました。いや、一次会でもノロケてたかもしれません。すみませんすみません。家に帰ってからちょっと恥ずかしくなりました。今回の件は色々とお見守り下さったそうで、しかも萌え死にしそうになったということで、ありがとうございます。これからも頑張ります。止められても、なんとかオブラートに包みつつ、報告を続けます。そうそう、お店、とっても素敵でした。この場でお礼申し上げます。
それにしても、本当にすぺしゃる☆な夜だった。人生、案外、「辛いことと楽しいことのバランス」はとれているような気がする。
was bone to
2005年9月29日「なぜ人間は生まれたのか。」なんて、そもそも愚問である。
なぜなら、答えは無いからだ。大草原は、「大草原としてただ存在する」ために、草を生やし、風を吹かせている。人間に家を建てる場所を提供しているわけでもないし、動物たちに子を産ませるためでもなかろう。「ただ存在する」という、動かしようのない事実のみだ。人間もそう。いきなり生まれて、「ただ存在する」。理由なんて要らないのだ。
以上のことは、昨日書いた通り。
ただ、それはそれとして、「理由」自体は発生して構わないはず。どういうことかというと、たしかに大草原が存在するのは「ただ存在する」ためなんだけど、人間が「家を建てるためだ」と思えば、それが真実になるのだということ。家を建てて幸せに暮らすことができれば、そこに住む人間たちは「ああ。この大草原は俺らのためにあったのだ。」と思うだろう。彼らにとって、それは紛れもない「理由」であり、「真実」なのだ。本質はどうであれ、ね。
そんなわけで、私たちは「生まれた理由」をやはり求めてしまう。自分の中で「これこそが真実だ。」と思いこめるほどのそれっぽい「理由」をね。なかなか見つからないよ。でも、しばらく人生を過ごしていれば、何回かは思う瞬間があるのではないかな。
ちなみに、私は、最近掴み始めていたりする。そう、自身の「生まれた理由」を。
最初に断っておくけど、これはあくまでも23歳の現時点での考察である。来年には違うことを思っているかもしれない。でも、何度も言うように、そもそも本質は「ただ存在する」ためだし正解なんて無いのだから、今の私にとっては本当に完璧過ぎる「真実」なのだ。
教えてあげようか?
私は「歌うために生まれた」と思う。
歌うというのは、とっても比喩的な意味だけど。もっと正確に言うなら、「女に生まれて恋をして歌うために生まれた」という感じかな。(あー。また恥ずかしいことを書いてるな。)
つまりね、私は小さい頃から「国語」が好きで、文章や言葉に、同世代の女子の誰よりも強い価値を見いだしていたのだよ。極端な話、衣・食・住の全てが失われても、言葉だけは失いたくないと思っている。最後のギリギリまで、言葉さえあればいいのではないか。言葉というのは何も口から出るものだけでなく、目に見える文字でもいいし、不可視な言語(雰囲気と書けばいいのかな)でもかまわない。
断言しよう。私は、あなたたちよりも現実とは遠い世界に生きている。ワンダーランドに生きていると思う。現実とワンダーランドの境界は曖昧だから、たまにこっち(現実世界)に帰ってきてはいるけど。
そんな私が、遠慮無くワンダーランドに浸っていられるのは、やはり恋をしているときだ。そして、恋をするといてもたってもいられない。「ワンダーランドの住人」としての使命感にかられるのだ。書きたい、言いたい、表現したい、聞いてほしい、見てほしい。私のワンダーランドを知ってほしい。
私がなんで今まで言葉に執着してきたのかが、大分わかってきたのだ。たとえば、古代ギリシアの時代、まだこの世に「文学」が誕生して間もない頃、あの時代の作家たちはきっと私のように恋をして、自分の中で膨らむいてもたってもいられない何かを表現する方法が見つからなくて、どうしたものかと考えて、それで「文学」や「詩」を始めたのだ。間違いないね。間違いないよ!
ただね、本人(恋する相手)に直接想いをぶつけるというのも…なんだかカッチョ悪いよね。スマートじゃないよね。というわけで、間接的に想いを織り込んだ「文学」にして、自分を登場人物に投影させたのだと思う。ズルイよなー。でもわかる。本人に直接言うよりも、もっと恥ずかしいことが書けるし、熱いことが書けるし、「文学」や「歌(詩)」で表した方がよっぽど人の胸を打つのだ。
というわけで、私は、毎日戦っている。自分の中で膨らむ「書いてくれ、歌ってくれ!」という欲求と。そして、ちょこっと負けているからこそ、ここ(BLOG)に書いてしまうのだ。
私は、女に生まれて、恋をして、歌うために生まれた。
なぜなら、答えは無いからだ。大草原は、「大草原としてただ存在する」ために、草を生やし、風を吹かせている。人間に家を建てる場所を提供しているわけでもないし、動物たちに子を産ませるためでもなかろう。「ただ存在する」という、動かしようのない事実のみだ。人間もそう。いきなり生まれて、「ただ存在する」。理由なんて要らないのだ。
以上のことは、昨日書いた通り。
ただ、それはそれとして、「理由」自体は発生して構わないはず。どういうことかというと、たしかに大草原が存在するのは「ただ存在する」ためなんだけど、人間が「家を建てるためだ」と思えば、それが真実になるのだということ。家を建てて幸せに暮らすことができれば、そこに住む人間たちは「ああ。この大草原は俺らのためにあったのだ。」と思うだろう。彼らにとって、それは紛れもない「理由」であり、「真実」なのだ。本質はどうであれ、ね。
そんなわけで、私たちは「生まれた理由」をやはり求めてしまう。自分の中で「これこそが真実だ。」と思いこめるほどのそれっぽい「理由」をね。なかなか見つからないよ。でも、しばらく人生を過ごしていれば、何回かは思う瞬間があるのではないかな。
ちなみに、私は、最近掴み始めていたりする。そう、自身の「生まれた理由」を。
最初に断っておくけど、これはあくまでも23歳の現時点での考察である。来年には違うことを思っているかもしれない。でも、何度も言うように、そもそも本質は「ただ存在する」ためだし正解なんて無いのだから、今の私にとっては本当に完璧過ぎる「真実」なのだ。
教えてあげようか?
私は「歌うために生まれた」と思う。
歌うというのは、とっても比喩的な意味だけど。もっと正確に言うなら、「女に生まれて恋をして歌うために生まれた」という感じかな。(あー。また恥ずかしいことを書いてるな。)
つまりね、私は小さい頃から「国語」が好きで、文章や言葉に、同世代の女子の誰よりも強い価値を見いだしていたのだよ。極端な話、衣・食・住の全てが失われても、言葉だけは失いたくないと思っている。最後のギリギリまで、言葉さえあればいいのではないか。言葉というのは何も口から出るものだけでなく、目に見える文字でもいいし、不可視な言語(雰囲気と書けばいいのかな)でもかまわない。
断言しよう。私は、あなたたちよりも現実とは遠い世界に生きている。ワンダーランドに生きていると思う。現実とワンダーランドの境界は曖昧だから、たまにこっち(現実世界)に帰ってきてはいるけど。
そんな私が、遠慮無くワンダーランドに浸っていられるのは、やはり恋をしているときだ。そして、恋をするといてもたってもいられない。「ワンダーランドの住人」としての使命感にかられるのだ。書きたい、言いたい、表現したい、聞いてほしい、見てほしい。私のワンダーランドを知ってほしい。
私がなんで今まで言葉に執着してきたのかが、大分わかってきたのだ。たとえば、古代ギリシアの時代、まだこの世に「文学」が誕生して間もない頃、あの時代の作家たちはきっと私のように恋をして、自分の中で膨らむいてもたってもいられない何かを表現する方法が見つからなくて、どうしたものかと考えて、それで「文学」や「詩」を始めたのだ。間違いないね。間違いないよ!
ただね、本人(恋する相手)に直接想いをぶつけるというのも…なんだかカッチョ悪いよね。スマートじゃないよね。というわけで、間接的に想いを織り込んだ「文学」にして、自分を登場人物に投影させたのだと思う。ズルイよなー。でもわかる。本人に直接言うよりも、もっと恥ずかしいことが書けるし、熱いことが書けるし、「文学」や「歌(詩)」で表した方がよっぽど人の胸を打つのだ。
というわけで、私は、毎日戦っている。自分の中で膨らむ「書いてくれ、歌ってくれ!」という欲求と。そして、ちょこっと負けているからこそ、ここ(BLOG)に書いてしまうのだ。
私は、女に生まれて、恋をして、歌うために生まれた。
明日からインストール
2005年9月28日さあ、今日は冷静に話を進めてみようか。
(最近、どうも、冷静さに欠ける気がする。)
私は、特に稀有な経験をしたというわけでもないし、誰かを激しく憎むこともなく、誰かに激しく憎まれることもなく、死んでしまおうと本気で思ったこともなく、「将来に何の期待も持てない。」と言い切っちゃうほどやさぐれてもいない。
つまり、どこにでもいるフツウの女のコなのだ。
(そろそろ、"女のコ"と呼ぶのが難しくなる年齢に突入している上に、自ら「フツウ」と言い切っちゃうあたりかなり怪しいが。それはさておき。)
でも、よくわからない自信みたいなものは、ある。
これは小さい頃から思っていたのだけど、「ああ、私は人生や宇宙の根本的なところは理解しているな。」って。そうだな、小学校を卒業する頃にはそう思っていたと思う。
原始の時代にバクテリアとして発生した生命が、いつの間にか進化してこんなの(人間)になっちゃったけど、所詮バクテリアはバクテリアなのだよ、と。バクテリアに「哲学」も「思想」も「苦悩」も必要ない。もしバクテリアに生まれた理由(そもそも理由付けという行為自体が不毛なのだが)があるとしたら、「殖える」ためだ。それだけだ。本当にそれだけだ。私たちは、いきなり生まれてただ殖えるためだけにここにいる。
正しいか正しくないかというのは、人間が後からくっつける理由に過ぎず、そんなものの以前に、「いきなり生まれてただここにいる」という純然たる事実があるだけだ。それだけなのだ。私はこれをもう随分小さい頃から考えている。
だからね、私にとって、人間社会のあらゆる雑多なことは…結構どうでもいいのだよ。文明や、社会や、そんなものは進化した「人間」が勝手に作ったものなのだ。後天的なものだ。本来、地球に必要あるものだったのだろうか、って。政治や経済に興味が持てないのもそのせいだ。選挙にも行くし、ニュースも見るけど、そんなものは反吐が出るほど下らないと思っている節がある。「難しいこと考える暇があるならセックスしろよ、セックスをよー。」と思っている節がある。(待て、淫乱とか言うな。)
私が考えるべきこと(宇宙のこと、愛のこと、男と女のこと)は、バクテリアに近づく最も根源的なことなのだから、ほかの即物的なこと(政治のこと、経済のこと、日本のこと、世界のこと)はアナタたちで考えておくれと思っている節があった。そして、それでいいと思って生きてきた。
で、ここからが本論。
最近、そんな自分の姿勢に疑問を覚えるようになってきたのだ。ちょびっとずつ、ね。
だって、いくら元はバクテリアだったとしても、今は「人間」なのだから。そして「人間」として、「人間」の作った社会に住んでいるのだから。私は人よりわかっているフリをして、本来考えなければいけないことを人に押しつけていただけではないのか。
うん。
だから、今は、もっと色々なことを知りたいし、考えたいのだよ。だって、もう私は小さい女の子でもないし、心も肉体も大人と呼べるそれに近づいてきたのだから。時間はかかるかもしれない。今まで放棄していた分があるから。
システムも、処理速度も、多分人並みなのだ。だから、これからたくさんのことをインストールしたい。政治のことも、経済のことも。日本のことも、世界のことも。娯楽や風俗や、本当に下らなくてヘソが茶を沸かすようなことでもいい。即物的なものでもいいのだ。きっと、もっと人生が楽しくなる。
(最近、どうも、冷静さに欠ける気がする。)
私は、特に稀有な経験をしたというわけでもないし、誰かを激しく憎むこともなく、誰かに激しく憎まれることもなく、死んでしまおうと本気で思ったこともなく、「将来に何の期待も持てない。」と言い切っちゃうほどやさぐれてもいない。
つまり、どこにでもいるフツウの女のコなのだ。
(そろそろ、"女のコ"と呼ぶのが難しくなる年齢に突入している上に、自ら「フツウ」と言い切っちゃうあたりかなり怪しいが。それはさておき。)
でも、よくわからない自信みたいなものは、ある。
これは小さい頃から思っていたのだけど、「ああ、私は人生や宇宙の根本的なところは理解しているな。」って。そうだな、小学校を卒業する頃にはそう思っていたと思う。
原始の時代にバクテリアとして発生した生命が、いつの間にか進化してこんなの(人間)になっちゃったけど、所詮バクテリアはバクテリアなのだよ、と。バクテリアに「哲学」も「思想」も「苦悩」も必要ない。もしバクテリアに生まれた理由(そもそも理由付けという行為自体が不毛なのだが)があるとしたら、「殖える」ためだ。それだけだ。本当にそれだけだ。私たちは、いきなり生まれてただ殖えるためだけにここにいる。
正しいか正しくないかというのは、人間が後からくっつける理由に過ぎず、そんなものの以前に、「いきなり生まれてただここにいる」という純然たる事実があるだけだ。それだけなのだ。私はこれをもう随分小さい頃から考えている。
だからね、私にとって、人間社会のあらゆる雑多なことは…結構どうでもいいのだよ。文明や、社会や、そんなものは進化した「人間」が勝手に作ったものなのだ。後天的なものだ。本来、地球に必要あるものだったのだろうか、って。政治や経済に興味が持てないのもそのせいだ。選挙にも行くし、ニュースも見るけど、そんなものは反吐が出るほど下らないと思っている節がある。「難しいこと考える暇があるならセックスしろよ、セックスをよー。」と思っている節がある。(待て、淫乱とか言うな。)
私が考えるべきこと(宇宙のこと、愛のこと、男と女のこと)は、バクテリアに近づく最も根源的なことなのだから、ほかの即物的なこと(政治のこと、経済のこと、日本のこと、世界のこと)はアナタたちで考えておくれと思っている節があった。そして、それでいいと思って生きてきた。
で、ここからが本論。
最近、そんな自分の姿勢に疑問を覚えるようになってきたのだ。ちょびっとずつ、ね。
だって、いくら元はバクテリアだったとしても、今は「人間」なのだから。そして「人間」として、「人間」の作った社会に住んでいるのだから。私は人よりわかっているフリをして、本来考えなければいけないことを人に押しつけていただけではないのか。
うん。
だから、今は、もっと色々なことを知りたいし、考えたいのだよ。だって、もう私は小さい女の子でもないし、心も肉体も大人と呼べるそれに近づいてきたのだから。時間はかかるかもしれない。今まで放棄していた分があるから。
システムも、処理速度も、多分人並みなのだ。だから、これからたくさんのことをインストールしたい。政治のことも、経済のことも。日本のことも、世界のことも。娯楽や風俗や、本当に下らなくてヘソが茶を沸かすようなことでもいい。即物的なものでもいいのだ。きっと、もっと人生が楽しくなる。
くちびるからマジック☆
2005年9月27日注:この文章はノロケ成分を含みます。
お気をつけください。
映画でも小説でもなんでもいいけど、「やられた…」と嘆息して立ち尽くしちゃいたくなるような「台詞」って、ある。
たとえば、高校生の頃読んだ山田詠美の小説の中に、こういう「台詞」があった。
「岩がごつごつしてて、砂浜が広がってるの。
岩陰では真水も湧いてるのよ。」
「聞いてるだけで絵が描きたくなってくる感じね」
「あれっ?あなた絵なんて描いたっけ」
「ううん。でも、マリ、そう思わなかった?」
「思わなかった。絵の中にいる人間は、絵なんて描かないもんよ。」
私が、まいったと思うのは、こういう時だ。
(山田詠美『放課後の音符』・"Crystal Silence"より引用。)
うわー。こんなことを言う女のコが現実にいたら、私ならイチコロだ。
もう一つ。こちらは原田宗典の作品から。
素裸のはずの彼女の足首に何かがあってぼくの肩口に
軽く触れた。見ると
それは銀のアンクレットだったぼくは動きをとめ
−どうしてこんなもんしてるの?
と愚問としかいいようのないことを訊いたその時の彼女の
答えをぼくは今でもはっきりと覚えてる。
彼女はこう言ったんだ。
−目印よ。これしとけば、どっちが右足か、すぐ分かるでしょ。
そうなんだぼくは
この一言にすっかりまいっちゃったんだよその答えは
その時のぼくにとって文句なしに
最高だった。
(原田宗典『優しくってすこし ばか』より引用。)
いいなあ、いいなあ。こういう、本人は何気なく言ってる「台詞」で、私もノックアウトされてみたい。こういうことをいちいち妄想してはしゃいでいる私は、んもうどうしようもなく文系の女で、「言葉」によって得られる目に見えない快感をいつだって欲しているのだ。
というわけで。
最近私がノックアウトされた、ある「台詞」を紹介しようと思う。ちなみに、これは映画でも小説でもない。
「手、というか、腕が三本あればいいのに、って
思うときがある。」
「へえ。なんで?どういうときですか?」
「こう、後ろからぎゅっとしてるっしょ?
両手がふさがってるからさ、なでなでできない。
腕が三本あれば、抱きしめつつ頭をなでられるから。」
(りん『りんの素敵なOLへの道』・
"りんの紛れもない現実の話"から引用。)
こう、なんちゅうか…もう、
あー、やめてくれ!!
って感じ。
He often takes me to the wonder land…
(私の日記は、やはり、恋愛カテゴリに移動させるべきなのでしょうか。)
お気をつけください。
映画でも小説でもなんでもいいけど、「やられた…」と嘆息して立ち尽くしちゃいたくなるような「台詞」って、ある。
たとえば、高校生の頃読んだ山田詠美の小説の中に、こういう「台詞」があった。
「岩がごつごつしてて、砂浜が広がってるの。
岩陰では真水も湧いてるのよ。」
「聞いてるだけで絵が描きたくなってくる感じね」
「あれっ?あなた絵なんて描いたっけ」
「ううん。でも、マリ、そう思わなかった?」
「思わなかった。絵の中にいる人間は、絵なんて描かないもんよ。」
私が、まいったと思うのは、こういう時だ。
(山田詠美『放課後の音符』・"Crystal Silence"より引用。)
うわー。こんなことを言う女のコが現実にいたら、私ならイチコロだ。
もう一つ。こちらは原田宗典の作品から。
素裸のはずの彼女の足首に何かがあってぼくの肩口に
軽く触れた。見ると
それは銀のアンクレットだったぼくは動きをとめ
−どうしてこんなもんしてるの?
と愚問としかいいようのないことを訊いたその時の彼女の
答えをぼくは今でもはっきりと覚えてる。
彼女はこう言ったんだ。
−目印よ。これしとけば、どっちが右足か、すぐ分かるでしょ。
そうなんだぼくは
この一言にすっかりまいっちゃったんだよその答えは
その時のぼくにとって文句なしに
最高だった。
(原田宗典『優しくってすこし ばか』より引用。)
いいなあ、いいなあ。こういう、本人は何気なく言ってる「台詞」で、私もノックアウトされてみたい。こういうことをいちいち妄想してはしゃいでいる私は、んもうどうしようもなく文系の女で、「言葉」によって得られる目に見えない快感をいつだって欲しているのだ。
というわけで。
最近私がノックアウトされた、ある「台詞」を紹介しようと思う。ちなみに、これは映画でも小説でもない。
「手、というか、腕が三本あればいいのに、って
思うときがある。」
「へえ。なんで?どういうときですか?」
「こう、後ろからぎゅっとしてるっしょ?
両手がふさがってるからさ、なでなでできない。
腕が三本あれば、抱きしめつつ頭をなでられるから。」
(りん『りんの素敵なOLへの道』・
"りんの紛れもない現実の話"から引用。)
こう、なんちゅうか…もう、
あー、やめてくれ!!
って感じ。
He often takes me to the wonder land…
(私の日記は、やはり、恋愛カテゴリに移動させるべきなのでしょうか。)
落下
2005年9月26日cannot help 〜ing "〜せざるを得ない"
受験英語には必須のこのイディオム。浪人中は特によく目にしていた。で、当たり前のように書いたり聞いたりしていたのだけど、この構文はなかなかロマンチックだと今更ながら思う。
で、私は日本人だからこそ思うのだけど、実際の生活で、思わずこの構文を思い出してしまうような「〜せざるを得ない」状況になることってあまり無いのではないか。
たとえば、「付き合ってみようかな。見た目もタイプだし。クリスマス近いし。」と最初に考えて、つまり"cannot help 〜ing"ではなく、"should"で表した方がいいような感情のもとに、男の子と付き合ったことがある。三回もある。もちろん、それは今だから言えることだし、当時はそれなりに盛り上がって下した決断であると信じているが。
しかし、「あなたを好きにならずにいられない」という、notを敢えて使わなくては表現できないような気持ちになって始まったことはないと思う。メスとしての本能が疼く(こう書くとまた"淫乱"とか言われるのだろうが)といえばいいのか、DNAに組み込まれた60億年の記憶に突き動かされるように、「きっかけも、時間も、会った回数も、周りの状況も関係ないわ。ただあなたが欲しい。」と思って自分が抑えられなくなるような状況って、映画や小説以外で存在するのかな…って。
要は、現代日本はやたらシステマティックになっているから、いつからか「する恋」と「落ちる恋」が分別されるようになってしまったということ。本来、恋は「落ちるもの」なのだ。しようと思って始めるものではない。(補足。「する恋」が必ずしも悪いと言いたいのではない。そのように付き合い始めたカップルが、いつの間にか「落ちて始まった二人」と同じような関係になることもままあると、私は理解している。)
だからね、"I cannot help falling in love with you."と言えるような状況を、生まれてから死ぬまでに一体どれだけの人が、経験できるのだろう、と。できないからといってその人がおかしいとは思わないし、こればかりは本当に本当に本当にタイミングの問題だと思うし、つまり「運」だ。そんな、神様、殺生な。
でもね。
案外、世の中は、私が思うよりロマンチックにできていると思うのだよ。
どうしたら神様の恩恵にあやかれるかはわからないけど、もしそのような状況になったら、とりあえず誰か(神様?)に感謝すべきだとは思う。感謝という陽性の波動は、きっと巡り回って各所に良い影響を及ぼすと思うから。
ああ。
落ちていく。
(ちょっと、今日は、自分に酔ってます。)
受験英語には必須のこのイディオム。浪人中は特によく目にしていた。で、当たり前のように書いたり聞いたりしていたのだけど、この構文はなかなかロマンチックだと今更ながら思う。
で、私は日本人だからこそ思うのだけど、実際の生活で、思わずこの構文を思い出してしまうような「〜せざるを得ない」状況になることってあまり無いのではないか。
たとえば、「付き合ってみようかな。見た目もタイプだし。クリスマス近いし。」と最初に考えて、つまり"cannot help 〜ing"ではなく、"should"で表した方がいいような感情のもとに、男の子と付き合ったことがある。三回もある。もちろん、それは今だから言えることだし、当時はそれなりに盛り上がって下した決断であると信じているが。
しかし、「あなたを好きにならずにいられない」という、notを敢えて使わなくては表現できないような気持ちになって始まったことはないと思う。メスとしての本能が疼く(こう書くとまた"淫乱"とか言われるのだろうが)といえばいいのか、DNAに組み込まれた60億年の記憶に突き動かされるように、「きっかけも、時間も、会った回数も、周りの状況も関係ないわ。ただあなたが欲しい。」と思って自分が抑えられなくなるような状況って、映画や小説以外で存在するのかな…って。
要は、現代日本はやたらシステマティックになっているから、いつからか「する恋」と「落ちる恋」が分別されるようになってしまったということ。本来、恋は「落ちるもの」なのだ。しようと思って始めるものではない。(補足。「する恋」が必ずしも悪いと言いたいのではない。そのように付き合い始めたカップルが、いつの間にか「落ちて始まった二人」と同じような関係になることもままあると、私は理解している。)
だからね、"I cannot help falling in love with you."と言えるような状況を、生まれてから死ぬまでに一体どれだけの人が、経験できるのだろう、と。できないからといってその人がおかしいとは思わないし、こればかりは本当に本当に本当にタイミングの問題だと思うし、つまり「運」だ。そんな、神様、殺生な。
でもね。
案外、世の中は、私が思うよりロマンチックにできていると思うのだよ。
どうしたら神様の恩恵にあやかれるかはわからないけど、もしそのような状況になったら、とりあえず誰か(神様?)に感謝すべきだとは思う。感謝という陽性の波動は、きっと巡り回って各所に良い影響を及ぼすと思うから。
ああ。
落ちていく。
(ちょっと、今日は、自分に酔ってます。)
私信。みんなへ。
2005年9月25日名作ドラマ『あすなろ白書』に登場する、「あすなろ会」のような仲間が私にはいる。
大学に入ってすぐに、なんとなくつるむようになって、でも各の生活は別個にあって、決して馴れ合う関係ではない。でもたまに一同に会するととても落ち着く。
今日は、そんな「あすなろ会のようなもの」の日だった。
仲間は全部で6人(男2:女4)で、まあ男女が仲良くなろうとすれば色々厄介なことも発生するのだけど、そんなものはとうの昔にぶっ飛んでいる。おかげで、普通なら話しにくいあんなことやこんなことも話すことができるし、でも話さなくてもいいダルイ雰囲気もあって、うまく説明できないけど、みんな気ままに過ごした。
で、これは「2005年に生きる大学生」だからこその現象だけど、6人のうちの5人は、それぞれBLOGを書いていて、みんなそれを読んでいる。BLOGに自身の胸のうちを書くようになって、私たちはなんとなくだけど、以前より近づいたような気がする。
誰でも人に言えない部分があることは知りつつも、人間は、どこかで「自分だけが苦しんでいる、考えている」と思いがちだ。でも互いのBLOGを公開するようになって、やはり、みんなも自分と同じように考えて生きていたんだとわかった。
そのせいかどうかはわからないけど、私はうかつなことを言えなくなった。
みんなに対してできるだけ誠実でありたくて、だからこそ言葉を選んでしまう。そして、みんなが話すことを聞くときも、その意見に対してちゃんと自分の意見を言ってあげたくて、ものすごく考えてしまう。これはBLOGを書くようになって発生した弊害でもあるけど、恩恵でもある。
そんな感じで少し自己嫌悪になったりもしたのだけど、帰り道を共にした子が、自身のBLOGで嬉しいことを書いてくれていたので、お礼のようなものを言いたくなってしまったのだよ。これは彼女に対しての私信です。
私はあなたの考え方が、自分と少し違うなということがわかります。だから、なんか自分がたまに恥ずかしくもなったりするのだけど、私はあなたを素敵な女性だと思っています。
そんなあなたにも悩んでいることがあるのだということを、私は知りました。100%共感はできないのですが。だって、きっと、あなたと同じような悩みを私が抱くことはないと思うから。でも、もし私の話を聞く姿勢が好きだと思ってくれたのなら、それはあなたを含むみんなや、今好きな人や、かつて好きだった人が教えてくれたことがあるからなんです。
言葉を選ぶ難しさ、話を聞くことの難しさ、それと今私は戦っています。その戦いっぷりがあなたには素敵と映ったのかもしれません。ありがとう。
私は、あなたを応援しています。これは本当。今度、飲もうね。
そして、Tくんへ。ありがとう。楽しみに待っています。私は舞い始めていますよ。
Hくんへ。CDありがとう。あなたのBLOGを読んで、「わかるわかる!」と129回くらい頷いたよ。これからも更新楽しみにしています。
ちっちゃい方のAへ。今日会えなくてものすごくものすごく残念です。あんたの頑張ってるとこは私には真似できないけど、心の底から応援しているよ。
最後に、K子へ。からかってばかりですまん。キミがここを読んでくれているかどうかを聞き忘れたような気がするけど、私はあなたを人間的に貴重な人だと思います。ということをここに書いておきます。こんな私でごめんね。
大学に入ってすぐに、なんとなくつるむようになって、でも各の生活は別個にあって、決して馴れ合う関係ではない。でもたまに一同に会するととても落ち着く。
今日は、そんな「あすなろ会のようなもの」の日だった。
仲間は全部で6人(男2:女4)で、まあ男女が仲良くなろうとすれば色々厄介なことも発生するのだけど、そんなものはとうの昔にぶっ飛んでいる。おかげで、普通なら話しにくいあんなことやこんなことも話すことができるし、でも話さなくてもいいダルイ雰囲気もあって、うまく説明できないけど、みんな気ままに過ごした。
で、これは「2005年に生きる大学生」だからこその現象だけど、6人のうちの5人は、それぞれBLOGを書いていて、みんなそれを読んでいる。BLOGに自身の胸のうちを書くようになって、私たちはなんとなくだけど、以前より近づいたような気がする。
誰でも人に言えない部分があることは知りつつも、人間は、どこかで「自分だけが苦しんでいる、考えている」と思いがちだ。でも互いのBLOGを公開するようになって、やはり、みんなも自分と同じように考えて生きていたんだとわかった。
そのせいかどうかはわからないけど、私はうかつなことを言えなくなった。
みんなに対してできるだけ誠実でありたくて、だからこそ言葉を選んでしまう。そして、みんなが話すことを聞くときも、その意見に対してちゃんと自分の意見を言ってあげたくて、ものすごく考えてしまう。これはBLOGを書くようになって発生した弊害でもあるけど、恩恵でもある。
そんな感じで少し自己嫌悪になったりもしたのだけど、帰り道を共にした子が、自身のBLOGで嬉しいことを書いてくれていたので、お礼のようなものを言いたくなってしまったのだよ。これは彼女に対しての私信です。
私はあなたの考え方が、自分と少し違うなということがわかります。だから、なんか自分がたまに恥ずかしくもなったりするのだけど、私はあなたを素敵な女性だと思っています。
そんなあなたにも悩んでいることがあるのだということを、私は知りました。100%共感はできないのですが。だって、きっと、あなたと同じような悩みを私が抱くことはないと思うから。でも、もし私の話を聞く姿勢が好きだと思ってくれたのなら、それはあなたを含むみんなや、今好きな人や、かつて好きだった人が教えてくれたことがあるからなんです。
言葉を選ぶ難しさ、話を聞くことの難しさ、それと今私は戦っています。その戦いっぷりがあなたには素敵と映ったのかもしれません。ありがとう。
私は、あなたを応援しています。これは本当。今度、飲もうね。
そして、Tくんへ。ありがとう。楽しみに待っています。私は舞い始めていますよ。
Hくんへ。CDありがとう。あなたのBLOGを読んで、「わかるわかる!」と129回くらい頷いたよ。これからも更新楽しみにしています。
ちっちゃい方のAへ。今日会えなくてものすごくものすごく残念です。あんたの頑張ってるとこは私には真似できないけど、心の底から応援しているよ。
最後に、K子へ。からかってばかりですまん。キミがここを読んでくれているかどうかを聞き忘れたような気がするけど、私はあなたを人間的に貴重な人だと思います。ということをここに書いておきます。こんな私でごめんね。
Let’s Go
2005年9月24日「自分が実際に体験して理解したこと、それしか信じてはいけないよ。」
そんなのは乱暴な意見だと思うし、もはや、自分の知識のどれが「自分で知ったこと」で、どれが「他人様(もしくは本)の受け売り」かどうかも判別できなくなっている。だから、人にアドバイスしたりされたり、そういうときはいつも「なんとなく信じていること」をなんとなく話し、なんとなく理解するようにしている。
それでも、「明らかにそれは"世間一般の綺麗事"だろーよ。」と噛みつきたくなるような相手、というのもおりまして。
たとえば、「りん、男は見た目じゃないよ、中身だよ。」と言われてもね。「本当かよ。」と私は今でも思う。「あなた、本当にそう思っていますか?」と聞きたくなってしまう。(実際聞いた。)
それでもその人が、本当に「顔は悪いけど性格最高!」という相手と付き合っていて、今も幸せにしているなら話は違う。もしくは「イケメンだけど性格最悪…」という相手と付き合った経験があってそれを悔いているとかね。
でも、その人は、やたら素敵なイケメンとばかり付き合っているのだから(一体どこで見つけてくるのだろう…)、なんちゅうかこう、説得力に欠ける。こう書くとまるでひがんでいるみたいだけど、そうではないのだ。
ここで私の話になるけど、私は「だめんずウォーカー」と不名誉な呼称をつけられるくらい、わりとダメな男と付き合ってきたようだ。(付き合っているときはダメじゃないように見えたりもするから不思議である。)で、まさにダメ男と盛り上がりまくっている頃、同じくダメ男と付き合っている戦友(彼女の相手もかなりダメだ。即刻別れるべきである。ラブホに行くのに一銭も出さない、余裕で二時間遅刻、スロットで稼いだ大金を一晩で使い込む等、根拠を書くとキリがない。)といつも語っていたのだが、
「男は中身だよ…。」と。(二人して肩を落としつつ。)
そう頭でわかっていつつも、「ダメなところを私がなんとかしてあげたい!」と心から思っちゃう暑苦しい情熱タイプの女はこの世に溢れる程いらっしゃるので(フツウ、自身に尊敬語を使うことはありませんが。)、まったく困ったものである。
でも、そのだめんず仲間の彼女が、フラれてどん底だった私に、今になってもう一度同じ言葉をくれて、それがもう本当に心にビシビシ沁みてしまった。
「男は中身だよ。」(今回は力強く。)
ああ、そうだね。本当にそう思うよ。まったく同感だ。
==========================
追記
とりあえず、あんたも早くマトモな男を見つけなさいよ、
私たちもうそんなに若くないんだから…
レッツゴー・トゥ・ネクスト・ナイスガイ!!
トゥギャザー!!
と、彼女には言いたい。次会ったら言わなきゃ。
そんなのは乱暴な意見だと思うし、もはや、自分の知識のどれが「自分で知ったこと」で、どれが「他人様(もしくは本)の受け売り」かどうかも判別できなくなっている。だから、人にアドバイスしたりされたり、そういうときはいつも「なんとなく信じていること」をなんとなく話し、なんとなく理解するようにしている。
それでも、「明らかにそれは"世間一般の綺麗事"だろーよ。」と噛みつきたくなるような相手、というのもおりまして。
たとえば、「りん、男は見た目じゃないよ、中身だよ。」と言われてもね。「本当かよ。」と私は今でも思う。「あなた、本当にそう思っていますか?」と聞きたくなってしまう。(実際聞いた。)
それでもその人が、本当に「顔は悪いけど性格最高!」という相手と付き合っていて、今も幸せにしているなら話は違う。もしくは「イケメンだけど性格最悪…」という相手と付き合った経験があってそれを悔いているとかね。
でも、その人は、やたら素敵なイケメンとばかり付き合っているのだから(一体どこで見つけてくるのだろう…)、なんちゅうかこう、説得力に欠ける。こう書くとまるでひがんでいるみたいだけど、そうではないのだ。
ここで私の話になるけど、私は「だめんずウォーカー」と不名誉な呼称をつけられるくらい、わりとダメな男と付き合ってきたようだ。(付き合っているときはダメじゃないように見えたりもするから不思議である。)で、まさにダメ男と盛り上がりまくっている頃、同じくダメ男と付き合っている戦友(彼女の相手もかなりダメだ。即刻別れるべきである。ラブホに行くのに一銭も出さない、余裕で二時間遅刻、スロットで稼いだ大金を一晩で使い込む等、根拠を書くとキリがない。)といつも語っていたのだが、
「男は中身だよ…。」と。(二人して肩を落としつつ。)
そう頭でわかっていつつも、「ダメなところを私がなんとかしてあげたい!」と心から思っちゃう暑苦しい情熱タイプの女はこの世に溢れる程いらっしゃるので(フツウ、自身に尊敬語を使うことはありませんが。)、まったく困ったものである。
でも、そのだめんず仲間の彼女が、フラれてどん底だった私に、今になってもう一度同じ言葉をくれて、それがもう本当に心にビシビシ沁みてしまった。
「男は中身だよ。」(今回は力強く。)
ああ、そうだね。本当にそう思うよ。まったく同感だ。
==========================
追記
とりあえず、あんたも早くマトモな男を見つけなさいよ、
私たちもうそんなに若くないんだから…
レッツゴー・トゥ・ネクスト・ナイスガイ!!
トゥギャザー!!
と、彼女には言いたい。次会ったら言わなきゃ。
不可視なものを内包せよ
2005年9月23日「大人になる」とは、目に見えないものが見えるようになることだと思う。
たしかに現実に生きているのに、ふと現実と夢の世界との境界が曖昧になるときがある。そういうとき、私は何をしているかというと、何もしていない。「へぇ〜」とか、「あ、そう〜」とか、「なるほど〜」とか言っている。あらぬ方向を見ているときもある。
子どものときは目に見えるものが全てだから、みんなが同じ漫画を好きになるし、同じ食べ物を好きになるし、同じクラスメイトを好きになるでしょう?でも、歳をとるにつれて、それぞれ「あいつの好みはよくわからん。」なんて言われるようなものを好きになったりするじゃない?趣味、といえばいいのかな。
で、それはなんでかというと、「目に見えないもの」に気付くようになるからだと思うのだ。この世の全てのものが、完全に客観化された数値のようなもので表されていて、私たちがその数値を基準に物事の善し悪しを決めているとしたら、みんなが同じものを好きになるはずなのだ。そしたら、もっと世の中はシンプルだったし、つまらなかったと思う。
で、その「目に見えないもの」は、とにかく目に見えないから、ほかの人がどんな風にそれらに気付いているかすらわからないのよね。まあ、別に知る必要は無いのかもしれない。自分にしか見えていないものだってあるかもしれない。
いかん。また観念で物事を語っているな。
たとえば、私の思う「素敵な人」というのは、顔が格好良いとか、スタイルがいいとか、センスがいいとか、あとはー…なんだ?まあいいや。それだけじゃ不十分なのだよ。(まあ、格好良い人は大好きだけど…。)オーラ、と書くと途端に陳腐になるけど、どれだけ私をワンダーランドにとばしてくれるかどうかが重要なのだよ。
どうしたらとべるの?と聞かれても答えられないけど。
魂に流れ込むような言葉(現代文の試験で○をもらえるような優等生的なものでなくてもいい)とか、耳を溶かすように心地よい声(別にしゃがれててもいい)とか、こちらをハッと射抜くような視線(瞳が綺麗でなくてもいい)とか、女が感じる要素は色々あると思うけど、どこをどう素敵と思うかは人によるし、少なくとも私は上記を全て満たしているからといって、客観的に「これこれこうだから好きになる。」と、多分一生かかっても言えるようにならないと思う。
現段階で、その「目に見えないもの」を、成文化するならば…
それらは全て、"形跡"なのだ。
その人がいなくなっても物に宿る何か、その人が歩いていった後に影のように残る何か。
別に人間に限らず、素敵な絵を見た後や、素敵な小説を読んだ後に、ふっと余韻に浸る瞬間があるでしょう?そういうとき、あなたも私も「目に見えないもの=形跡」を確実に発見していて、それを貪欲に味わっているのだと思う。そういうことのできる人が「大人の女」であり、「大人の男」なのだと思う。
========================
どうでもいいのですが…
「詩人」という職業がもっと社会的に認められていたとして、就職活動中に今日書いたようなことをもっと理解できていたら、私は絶対に「詩人」になっていたでしょう。(やはり止められていただろうか。)
まあ、今、この場で「私は詩人だ!!」と一人で決断したら、その瞬間から詩人なんでしょうけど…
作家・原田宗典も自らのエッセイの中で語っていたけど、谷川俊太郎とか、本当にいいですよね。誰憚ることなく、自らの恋とか愛とか何やかやを詩ってしまえる「詩人」という職業が、私も羨ましいです。
(前回も同じようなこと書いたな、私。)
でも、実際、詩人ってそばにいたらはた迷惑ですよね。
たしかに現実に生きているのに、ふと現実と夢の世界との境界が曖昧になるときがある。そういうとき、私は何をしているかというと、何もしていない。「へぇ〜」とか、「あ、そう〜」とか、「なるほど〜」とか言っている。あらぬ方向を見ているときもある。
子どものときは目に見えるものが全てだから、みんなが同じ漫画を好きになるし、同じ食べ物を好きになるし、同じクラスメイトを好きになるでしょう?でも、歳をとるにつれて、それぞれ「あいつの好みはよくわからん。」なんて言われるようなものを好きになったりするじゃない?趣味、といえばいいのかな。
で、それはなんでかというと、「目に見えないもの」に気付くようになるからだと思うのだ。この世の全てのものが、完全に客観化された数値のようなもので表されていて、私たちがその数値を基準に物事の善し悪しを決めているとしたら、みんなが同じものを好きになるはずなのだ。そしたら、もっと世の中はシンプルだったし、つまらなかったと思う。
で、その「目に見えないもの」は、とにかく目に見えないから、ほかの人がどんな風にそれらに気付いているかすらわからないのよね。まあ、別に知る必要は無いのかもしれない。自分にしか見えていないものだってあるかもしれない。
いかん。また観念で物事を語っているな。
たとえば、私の思う「素敵な人」というのは、顔が格好良いとか、スタイルがいいとか、センスがいいとか、あとはー…なんだ?まあいいや。それだけじゃ不十分なのだよ。(まあ、格好良い人は大好きだけど…。)オーラ、と書くと途端に陳腐になるけど、どれだけ私をワンダーランドにとばしてくれるかどうかが重要なのだよ。
どうしたらとべるの?と聞かれても答えられないけど。
魂に流れ込むような言葉(現代文の試験で○をもらえるような優等生的なものでなくてもいい)とか、耳を溶かすように心地よい声(別にしゃがれててもいい)とか、こちらをハッと射抜くような視線(瞳が綺麗でなくてもいい)とか、女が感じる要素は色々あると思うけど、どこをどう素敵と思うかは人によるし、少なくとも私は上記を全て満たしているからといって、客観的に「これこれこうだから好きになる。」と、多分一生かかっても言えるようにならないと思う。
現段階で、その「目に見えないもの」を、成文化するならば…
それらは全て、"形跡"なのだ。
その人がいなくなっても物に宿る何か、その人が歩いていった後に影のように残る何か。
別に人間に限らず、素敵な絵を見た後や、素敵な小説を読んだ後に、ふっと余韻に浸る瞬間があるでしょう?そういうとき、あなたも私も「目に見えないもの=形跡」を確実に発見していて、それを貪欲に味わっているのだと思う。そういうことのできる人が「大人の女」であり、「大人の男」なのだと思う。
========================
どうでもいいのですが…
「詩人」という職業がもっと社会的に認められていたとして、就職活動中に今日書いたようなことをもっと理解できていたら、私は絶対に「詩人」になっていたでしょう。(やはり止められていただろうか。)
まあ、今、この場で「私は詩人だ!!」と一人で決断したら、その瞬間から詩人なんでしょうけど…
作家・原田宗典も自らのエッセイの中で語っていたけど、谷川俊太郎とか、本当にいいですよね。誰憚ることなく、自らの恋とか愛とか何やかやを詩ってしまえる「詩人」という職業が、私も羨ましいです。
(前回も同じようなこと書いたな、私。)
でも、実際、詩人ってそばにいたらはた迷惑ですよね。
とどけ愛のうた
2005年9月21日BLOGを書こうと思う人って多かれ少なかれそうだと思うのだけど、私は、自分の中の負のパワー(いわゆるルサンチマンってやつか?)をうまく処理できない人のような気がする。
そうは言いつつも、リアルワールドで「あいつヤバイよね。」と気付かれることは多分無い。そう信じたい。私は普段の生活の中で発生するモヤモヤを、ここにこうして書くことで認識し(文章化しないと気付けないときが多い。)、整理して、笑顔で現実世界に帰っていくのだ。
しかし、ここまで書いて気付いたが、負のパワーだけではないな。
人を愛しいと思ったり、何かを美しいと思ったり、ときには尊ぶべきものが発生するときもあるのだ。そういうものを言語化すると、とても楽しい。楽しいという表現が適切かどうかは怪しいが、とりあえず良い気持ちになる。
でもそういう感情も、上手に表現しないとやはり人に嫌われたりするので(たとえば、いくら好きだからって、好きな人にいきなりポエムをプレゼントしたら引くでしょう?)、実際は秘密にしている。このBLOGの存在を教える相手も一応選んでいるし。
でも、私の中にはやはり「この内なるものを知ってほしい!」という欲求があるようで、本当に親しくなりたい相手(友人、恋人など)にはこっそりお教えするのだよ。「私ね、人間ってこういうものだと思うの。」なんて言って、熱く語ってしまうわけ。もちろん毎回じゃないけど。
ただ、残念ながら、そういう私の内面世界(たまにオタク性質があるとも言われる。)を教えられて、途端に引く相手もいるのだよ。
「いやらしい感情(まるで童貞の少年がセックスに憧れちゃうような)」、と表現すればいいのかな、そういう下世話な話だったりもするからね、まあ気持ちはわからなくもないよ。
三年付き合った元カレに対して、私はこの内面世界を秘密にしていたわけではないけど、打ち明けるとあまりいい顔をしなかったので(というより、彼は私が言っていることを理解していたかどうか怪しい。)、あまり言わなかったんだ。
親愛なる相手に、どうやってここ(心のやわらかい部分)を解放すべきか。それは私の中での課題。
さて、どうするのだ。
猫かぶらないで、いきなり「"本音"と"建て前"とは…」とか、「女は"形跡"に恋をするのだ!」とか、「"凛とした女性"とは…」とか、言いまくって語りまくって、それを理解してくれる人かどうかを、最初に判断すればいいのではないかな。変に隠して「フツウの女」を装おうとするから、遠回りになっていたのではないだろうか。私は自分を「フツウの女」じゃないと思っているわけではないけど。
ちょっと、そんな風に思っている昨今。
ちなみに、私の夢は、恋をすると途端に甘く切ない愛の歌を作って歌っちゃうような、イカした吟遊詩人になることです。そして、その歌をうっとりと聴いてくれる人と結婚することです。もちろん比喩的な意味で、ですよ。
そうは言いつつも、リアルワールドで「あいつヤバイよね。」と気付かれることは多分無い。そう信じたい。私は普段の生活の中で発生するモヤモヤを、ここにこうして書くことで認識し(文章化しないと気付けないときが多い。)、整理して、笑顔で現実世界に帰っていくのだ。
しかし、ここまで書いて気付いたが、負のパワーだけではないな。
人を愛しいと思ったり、何かを美しいと思ったり、ときには尊ぶべきものが発生するときもあるのだ。そういうものを言語化すると、とても楽しい。楽しいという表現が適切かどうかは怪しいが、とりあえず良い気持ちになる。
でもそういう感情も、上手に表現しないとやはり人に嫌われたりするので(たとえば、いくら好きだからって、好きな人にいきなりポエムをプレゼントしたら引くでしょう?)、実際は秘密にしている。このBLOGの存在を教える相手も一応選んでいるし。
でも、私の中にはやはり「この内なるものを知ってほしい!」という欲求があるようで、本当に親しくなりたい相手(友人、恋人など)にはこっそりお教えするのだよ。「私ね、人間ってこういうものだと思うの。」なんて言って、熱く語ってしまうわけ。もちろん毎回じゃないけど。
ただ、残念ながら、そういう私の内面世界(たまにオタク性質があるとも言われる。)を教えられて、途端に引く相手もいるのだよ。
「いやらしい感情(まるで童貞の少年がセックスに憧れちゃうような)」、と表現すればいいのかな、そういう下世話な話だったりもするからね、まあ気持ちはわからなくもないよ。
三年付き合った元カレに対して、私はこの内面世界を秘密にしていたわけではないけど、打ち明けるとあまりいい顔をしなかったので(というより、彼は私が言っていることを理解していたかどうか怪しい。)、あまり言わなかったんだ。
親愛なる相手に、どうやってここ(心のやわらかい部分)を解放すべきか。それは私の中での課題。
さて、どうするのだ。
猫かぶらないで、いきなり「"本音"と"建て前"とは…」とか、「女は"形跡"に恋をするのだ!」とか、「"凛とした女性"とは…」とか、言いまくって語りまくって、それを理解してくれる人かどうかを、最初に判断すればいいのではないかな。変に隠して「フツウの女」を装おうとするから、遠回りになっていたのではないだろうか。私は自分を「フツウの女」じゃないと思っているわけではないけど。
ちょっと、そんな風に思っている昨今。
ちなみに、私の夢は、恋をすると途端に甘く切ない愛の歌を作って歌っちゃうような、イカした吟遊詩人になることです。そして、その歌をうっとりと聴いてくれる人と結婚することです。もちろん比喩的な意味で、ですよ。
23歳の言語学
2005年9月21日価値観の話をしようか。
人と人が関係を持つ以上、この「価値観」の問題を抜きにはやっていけないだろう。でも、結局「価値観って何?」と問われると、私は未だによくわからない。
で、多分一生かかってもわからないとは思うけど(死ぬまでに限りなく真実に近い仮説を提唱したいものだ。)、とりあえず最新の仮説を忘れないうちに書いておこうかと。
結局ね、「価値観」は言語なのだよ。
でね、更に言うなら、言語は「耳から入る情報」なのだよ。
(目から入る情報でもあるが、ことコミュニケーションに関しては耳に分があるということで。)
つまりね、頭の中で「俺はおまえが好きだ。」と至ってシンプルに構築されていても、その人の言語野がやたら成熟していて複雑にアウトプットされちゃうなら(例えば、「ワタクシはあなたを美しいと思うが故に、ほかの誰にも渡したくないという思いを抱いております。」ってな感じに)、それはアウトプットされた方が全てになってしまうのだということ。逆も然り。どれだけ複雑に絡み合った想いも、言語野で「ボク、キミがほしい!」としか変換できなかったら、届けられる相手にはそうとしかとられない。
さて、以上のことを理解した上で。
「価値観」を互いに晒し合うときって、やっぱり自分の言語野で一回変換されているはずなんだよね。だって人は言語無しでは認識すらできないから。(アラスカの人は雪ひとつとっても七色に見えるらしいよ。日本人は「白」としか認識できないから、一色にしか見えないのだそうで。ごっつ基本的な記号論ですんません。)
つまり、自分の中でどんなに曖昧なままでも、綺麗に言葉で表現できるなら、相手はそれをその人の価値観だと思ってしまうんだ。面白いね。
でね、更に「耳から入る情報」ってのは、言葉そのものの意味にプラスして、「声」という余計な情報がくっついちゃうわけだよ。コレ、実は意外に知られてないけど厄介。
私は女なので、視覚よりは、聴覚や触覚など五感を駆使して感じる性質なのね。たぶん。(男性って体を触られても女性より気持ちよくないそうだ。それよりは"見て"興奮したいらしく。それは本当?)で、だからこそ、「価値観」+「声」の場合、かなり「声」の占める割合が高くなってしまうの。もともと価値観の方が先にあるべきなのに…。
甘く柔らかな声と、美しく言語化された価値観がセットになったとき、私はその人の頭の奥に潜んでいる「原型」をきちんと客観的に判断できる自信がありません。
そして、それを自分の価値観と照らし合わせて、合うか合わないか、まともな結論を出せる自信がありません。
色々難しいことを書いてしまったけど、価値観なんてどうでもいいやん、というのがちょっと本音。何が重要かって、ただなんとなく話してて、なんとなく共感できて、なんとなく「あーわかるー。」って言えて、次から次へと飽きもせずに話ができるなら、それは「価値観」が合っているということなのではないかな。
そして、「なんかしっくりこない…。」とか「否定したくなる。」とか「言葉を選ぶのが大変。」と、これもなんとなーく思うなら、それはそういうことなのではないかな。
このBLOGは、「目から入る情報」だけど、皆様の中で私という女がどのような価値観を持っているように映るのだろう。実際に会って話すよりも、客観的に私の「価値観」が垣間見えるのではないかな。
それでも人と人とのコミュニケーションは、携帯のメールや手紙で済ませてはやはりいけないのだ。実際に会って本音をぶつけて、言語以外の情報をより噛みしめて、それで好きか嫌いか合うか合わないか仲直りするか別れるかを判断しなくてはいけないのだ。大事な話であればこそ。
なんか、すごく今更な結論…
こんなに長く書いたのに。もう寝るわ。
#そう、諸々の問題は少し解決の気配。少し、ね。全部ではないです。
人と人が関係を持つ以上、この「価値観」の問題を抜きにはやっていけないだろう。でも、結局「価値観って何?」と問われると、私は未だによくわからない。
で、多分一生かかってもわからないとは思うけど(死ぬまでに限りなく真実に近い仮説を提唱したいものだ。)、とりあえず最新の仮説を忘れないうちに書いておこうかと。
結局ね、「価値観」は言語なのだよ。
でね、更に言うなら、言語は「耳から入る情報」なのだよ。
(目から入る情報でもあるが、ことコミュニケーションに関しては耳に分があるということで。)
つまりね、頭の中で「俺はおまえが好きだ。」と至ってシンプルに構築されていても、その人の言語野がやたら成熟していて複雑にアウトプットされちゃうなら(例えば、「ワタクシはあなたを美しいと思うが故に、ほかの誰にも渡したくないという思いを抱いております。」ってな感じに)、それはアウトプットされた方が全てになってしまうのだということ。逆も然り。どれだけ複雑に絡み合った想いも、言語野で「ボク、キミがほしい!」としか変換できなかったら、届けられる相手にはそうとしかとられない。
さて、以上のことを理解した上で。
「価値観」を互いに晒し合うときって、やっぱり自分の言語野で一回変換されているはずなんだよね。だって人は言語無しでは認識すらできないから。(アラスカの人は雪ひとつとっても七色に見えるらしいよ。日本人は「白」としか認識できないから、一色にしか見えないのだそうで。ごっつ基本的な記号論ですんません。)
つまり、自分の中でどんなに曖昧なままでも、綺麗に言葉で表現できるなら、相手はそれをその人の価値観だと思ってしまうんだ。面白いね。
でね、更に「耳から入る情報」ってのは、言葉そのものの意味にプラスして、「声」という余計な情報がくっついちゃうわけだよ。コレ、実は意外に知られてないけど厄介。
私は女なので、視覚よりは、聴覚や触覚など五感を駆使して感じる性質なのね。たぶん。(男性って体を触られても女性より気持ちよくないそうだ。それよりは"見て"興奮したいらしく。それは本当?)で、だからこそ、「価値観」+「声」の場合、かなり「声」の占める割合が高くなってしまうの。もともと価値観の方が先にあるべきなのに…。
甘く柔らかな声と、美しく言語化された価値観がセットになったとき、私はその人の頭の奥に潜んでいる「原型」をきちんと客観的に判断できる自信がありません。
そして、それを自分の価値観と照らし合わせて、合うか合わないか、まともな結論を出せる自信がありません。
色々難しいことを書いてしまったけど、価値観なんてどうでもいいやん、というのがちょっと本音。何が重要かって、ただなんとなく話してて、なんとなく共感できて、なんとなく「あーわかるー。」って言えて、次から次へと飽きもせずに話ができるなら、それは「価値観」が合っているということなのではないかな。
そして、「なんかしっくりこない…。」とか「否定したくなる。」とか「言葉を選ぶのが大変。」と、これもなんとなーく思うなら、それはそういうことなのではないかな。
このBLOGは、「目から入る情報」だけど、皆様の中で私という女がどのような価値観を持っているように映るのだろう。実際に会って話すよりも、客観的に私の「価値観」が垣間見えるのではないかな。
それでも人と人とのコミュニケーションは、携帯のメールや手紙で済ませてはやはりいけないのだ。実際に会って本音をぶつけて、言語以外の情報をより噛みしめて、それで好きか嫌いか合うか合わないか仲直りするか別れるかを判断しなくてはいけないのだ。大事な話であればこそ。
なんか、すごく今更な結論…
こんなに長く書いたのに。もう寝るわ。
#そう、諸々の問題は少し解決の気配。少し、ね。全部ではないです。
火曜の午後のセンチメンタル(多分ステレオタイプの)
2005年9月20日留学していた友人がいつの間にか帰国していたようで、今日偶然会う。
「いつ振りだっけ!?」と慌てて確認したところ、私が大学一年のとき以来、つまり三年以上も会っていなかったということが判明した。で、そんな彼女の口から飛び出した仰天フレーズなのだが、「○○くんとはどう?」と。
この○○くんというのは、浪人〜大学にかけて半年ほど付き合った甘酸っぱい(いや、本当は塩辛い)思い出の相手で、高校時代同じ部活に所属していた。カウントすると、まあ、「前の前の彼氏」ということになる。
その後も彼女から数多の仰天フレーズが飛び出たことではっきりしたのだが、つまり、彼女の中の「わたし」は、未だに大学一年の頃の私のまま止まっているということだ。
で、まるで思い出を切り取るように、私は今日「当時のわたし」に邂逅した。
「当時のわたし」というのは、もちろん処女で、今より6キロ太っていて、まだサークルに所属していて、暇さえあれば男のことばかり考えていて、素敵な恋を夢見ていて、料理も掃除も洗濯もできなくて、将来の展望も無くて、運転免許をまだ持ってなくて、ミニスカートに抵抗が無くて、お酒はカシスソーダと青リンゴサワーしか飲めなくて、ラブホテルに行ったことが無くて、自分のことをイケてると思ってて、好きな男のタイプは「背が高いスポーツマン☆」で、プリクラをアホみたいに撮ってて、「最初のデートでワリカンなんて最低!」と平気で男を罵ってて、選挙権も無くて、出かけるときもハンカチを持ってなくて、浮気をしたことが無くて、デパートの化粧品カウンターに行ったことが無くて、よく行く店は「サイゼリヤ」で、合コンに行ったことが無くて、眉毛を抜かずに染めていて、「最初にエッチする人と結婚する!」と決めていて、尊敬する人は予備校の世界史講師で、まだ真実は絶対にあると信じていて、友達を傷つけることに無頓着で、「もっともらしく見える偽物」が何より好きで、すごく無邪気で底なしに明るくて鈍感で憎らしいくらい純粋な19歳だった。
彼女に「あれからどうしてたのさ〜?」と聞かれても、一体何から説明すればいいのかさっぱりわからず、談笑もそこそこに別れ、私は今日三ヶ月振りに大学の門をくぐり、昔は当たり前のように通っていた中庭に入った瞬間、自分でもわけがわからず涙が溢れてきて、歩けなくなってしまった。
一体何が悲しいのか、全然わからない。でも30分位泣いていたと思う。
そんな私の元に、6歳年上のある方(おそらく仕事中)からメールが。
19歳の「当時のわたし」が住んでいた場所で、冷静に丁寧な(多分)返事をこしらえる自分が、とても不思議だった。「大人になったな。」とかそういう陳腐な感慨ではなく、「ああ、時間は確実に流れているんだ。」とでも言えばいいのか、その流れに容赦なく流されつつもそれなりにやってきた自分を確認したと言えばいいのか。よくわからない。
とにかく、結論としては、久しぶりに大学に行ったというのに「懐かしいな」と思う暇も無く、なんだかセンチメンタルな気分になってばかりで、よくわからないけどやりきれなかったということだ。
「いつ振りだっけ!?」と慌てて確認したところ、私が大学一年のとき以来、つまり三年以上も会っていなかったということが判明した。で、そんな彼女の口から飛び出した仰天フレーズなのだが、「○○くんとはどう?」と。
この○○くんというのは、浪人〜大学にかけて半年ほど付き合った甘酸っぱい(いや、本当は塩辛い)思い出の相手で、高校時代同じ部活に所属していた。カウントすると、まあ、「前の前の彼氏」ということになる。
その後も彼女から数多の仰天フレーズが飛び出たことではっきりしたのだが、つまり、彼女の中の「わたし」は、未だに大学一年の頃の私のまま止まっているということだ。
で、まるで思い出を切り取るように、私は今日「当時のわたし」に邂逅した。
「当時のわたし」というのは、もちろん処女で、今より6キロ太っていて、まだサークルに所属していて、暇さえあれば男のことばかり考えていて、素敵な恋を夢見ていて、料理も掃除も洗濯もできなくて、将来の展望も無くて、運転免許をまだ持ってなくて、ミニスカートに抵抗が無くて、お酒はカシスソーダと青リンゴサワーしか飲めなくて、ラブホテルに行ったことが無くて、自分のことをイケてると思ってて、好きな男のタイプは「背が高いスポーツマン☆」で、プリクラをアホみたいに撮ってて、「最初のデートでワリカンなんて最低!」と平気で男を罵ってて、選挙権も無くて、出かけるときもハンカチを持ってなくて、浮気をしたことが無くて、デパートの化粧品カウンターに行ったことが無くて、よく行く店は「サイゼリヤ」で、合コンに行ったことが無くて、眉毛を抜かずに染めていて、「最初にエッチする人と結婚する!」と決めていて、尊敬する人は予備校の世界史講師で、まだ真実は絶対にあると信じていて、友達を傷つけることに無頓着で、「もっともらしく見える偽物」が何より好きで、すごく無邪気で底なしに明るくて鈍感で憎らしいくらい純粋な19歳だった。
彼女に「あれからどうしてたのさ〜?」と聞かれても、一体何から説明すればいいのかさっぱりわからず、談笑もそこそこに別れ、私は今日三ヶ月振りに大学の門をくぐり、昔は当たり前のように通っていた中庭に入った瞬間、自分でもわけがわからず涙が溢れてきて、歩けなくなってしまった。
一体何が悲しいのか、全然わからない。でも30分位泣いていたと思う。
そんな私の元に、6歳年上のある方(おそらく仕事中)からメールが。
19歳の「当時のわたし」が住んでいた場所で、冷静に丁寧な(多分)返事をこしらえる自分が、とても不思議だった。「大人になったな。」とかそういう陳腐な感慨ではなく、「ああ、時間は確実に流れているんだ。」とでも言えばいいのか、その流れに容赦なく流されつつもそれなりにやってきた自分を確認したと言えばいいのか。よくわからない。
とにかく、結論としては、久しぶりに大学に行ったというのに「懐かしいな」と思う暇も無く、なんだかセンチメンタルな気分になってばかりで、よくわからないけどやりきれなかったということだ。
混乱中
2005年9月19日最近、ちょっと一筋縄では対処できない問題が打ち上げ花火よろしく随所で発生しまくっているのだけど、未だに一つも解決できていない。
時間の問題もあるし、自分の勇気の問題でもある。かといってあと一ヶ月経ったら何かあるのと言われても現段階ではわからないし、勇気さえあれば状況は動くのと問われるとそういうものでもないような。
まあ、一つだけ言えることは、私は「人生ってどこでどう動くかわからないからさ。」と理解していたつもりではあったけど、なんちゅうか本当に事実は小説より奇なりというか、とりあえず元カレと距離を置き始めた7月からまだ二ヶ月ちょいしか経っていないのに、こんなに色々あっていいのかという気がしている。もちろんラヴ関係の問題だけではないよ。
私の脳内コンピュータは、処理速度が遅いというよりは、むしろいつも早すぎて空回りし結局ショート、というタイプなのだが、それでも解決しなきゃいけない問題は解決しなきゃいけないし、そのためにこうして文章化して頭の中を整理していたのだ。
それにしても。
文章化しても追いつかない。
あまりに抽象的過ぎて、読んで下さる人は「何がなんだか全然わからん!!」とお怒りかつ呆れることでしょうけど、とにかくこんな文章しか書けなくなるほどに私の頭が混乱しているのだということだけでもわかっていただければ、それでいい。
あーーーーーー!!!!!
もう!!!!
どうすりゃいいのさこの事態!!
とりあえず、「嬉しい問題」と「絶望的に迷惑な問題」とを分別するところから始めよう。で、そのあとに「どうにかして解決したいのか」と「別にどうでもいい」のかをそれぞれ考えて、ともかく一息入れよう。
あの、ちょっと、待っててください。(誰に言ってるんだかというツッコミは無視。)
何か書けば頭が冷静になるかと思ったけど、結局あんま変わらないや。ほんと、もしやこれが自分の限界か?
時間の問題もあるし、自分の勇気の問題でもある。かといってあと一ヶ月経ったら何かあるのと言われても現段階ではわからないし、勇気さえあれば状況は動くのと問われるとそういうものでもないような。
まあ、一つだけ言えることは、私は「人生ってどこでどう動くかわからないからさ。」と理解していたつもりではあったけど、なんちゅうか本当に事実は小説より奇なりというか、とりあえず元カレと距離を置き始めた7月からまだ二ヶ月ちょいしか経っていないのに、こんなに色々あっていいのかという気がしている。もちろんラヴ関係の問題だけではないよ。
私の脳内コンピュータは、処理速度が遅いというよりは、むしろいつも早すぎて空回りし結局ショート、というタイプなのだが、それでも解決しなきゃいけない問題は解決しなきゃいけないし、そのためにこうして文章化して頭の中を整理していたのだ。
それにしても。
文章化しても追いつかない。
あまりに抽象的過ぎて、読んで下さる人は「何がなんだか全然わからん!!」とお怒りかつ呆れることでしょうけど、とにかくこんな文章しか書けなくなるほどに私の頭が混乱しているのだということだけでもわかっていただければ、それでいい。
あーーーーーー!!!!!
もう!!!!
どうすりゃいいのさこの事態!!
とりあえず、「嬉しい問題」と「絶望的に迷惑な問題」とを分別するところから始めよう。で、そのあとに「どうにかして解決したいのか」と「別にどうでもいい」のかをそれぞれ考えて、ともかく一息入れよう。
あの、ちょっと、待っててください。(誰に言ってるんだかというツッコミは無視。)
何か書けば頭が冷静になるかと思ったけど、結局あんま変わらないや。ほんと、もしやこれが自分の限界か?
ううう…
2005年9月17日書きたいことは山ほどあるのだが、まったく書ける気がしない。(なら、更新しないでくれって自分にも言いたいけど。)
とりあえず、本日の結論としては、私の「いい女レベル」が某海有り県の鋸山(標高330m)より遙かに低いことが判明したということ。23年間一体何をしてきたのだ!!
と、自分に言いたい。
23年間一体何をしてきたのだ!!(繰り返してみた。)
さて、それはそれとして、やっぱり書ける気がしないのでもう寝よう。
とりあえず、本日の結論としては、私の「いい女レベル」が某海有り県の鋸山(標高330m)より遙かに低いことが判明したということ。23年間一体何をしてきたのだ!!
と、自分に言いたい。
23年間一体何をしてきたのだ!!(繰り返してみた。)
さて、それはそれとして、やっぱり書ける気がしないのでもう寝よう。
深山の花を一人で愛でよう
2005年9月15日思えば、私という女は、気心の知れた人に対しては(いや、たまにそうでない人に対しても)本当に自分のことをよく喋る女だと思う。
秘密めいたことを打ち明けることで、相手に気を許している自分をアピールしたいというときもたまにはあるけど、それよりは、単に自分が話したいから話している。
そんな私が「恋バナ」を好まないはずがない。話すのも聞くのも大好きだ。三年間付き合った彼氏との出会い、なれそめ、初めてキスをした日のこと、初めて旅行に行ったときのこと、大喧嘩をしたこと、マンネリを感じ始めたこと、相手に別の好きな人ができたこと、ついには別れたこと。親友に事細かに報告していた。
彼と付き合ったことはまったく後悔していないし、「もしもあのときああしていれば…」という思いもほとんどない。私はその都度ベストと思われる選択をしていたと信じているし、三年前に戻れるとしても、きっとまた同じように彼と付き合うだろう。
たったひとつだけ、「ああしていればよかった。」ということがあるとしたら、自分たちのことをあまり吹聴するべきではなかったなということだ。
私が自分と彼のことを人に話し過ぎて、彼を傷つけたということは多分ない。(聞かされる友人たちは迷惑だったかもしれないけど…。)実際になにがあったとかではなく、もっと観念的な問題なのだ。なぜなら、幸せはやっぱり目に見えないし、きっとこぼれてしまうものなのだ。
迷信じみた話をそっくり信じ込むほど私は純粋でもないし、馬鹿でもない。でもあんなに幸せだった自分たちが、少しずつ少しずつ終局に向かっていたのは紛れもない事実だし、一体なにが原因だったのだろうと考えると、なかなか思い当たらない。(普通明らかな原因などないものなのだろうけど。)
で、やっぱり私は、「有限の幸せの無駄遣い」をしていたからではないかな、と思ったりするのだ。こっそり味わうべき幸せ(人に分け与えて倍になる幸せとは別に存在している)を自分だけで味わえないほど子どもだった自分は、今になって「ああ。」と思うのだ。秘密めいた女のミステリアスな部分じゃないけど、自分だけのために贅沢な時間を隠し持っている女はやはり魅力的だと思うから。
もし、いつかまた恋をするなら、その人を人に紹介するときに、「素敵な人なの。」と一言でしか語れないほどの素敵な人を好きになろう。
そして、その人との大切で優しい時間の思い出だけは、自分だけでこっそり味わおう。有限な幸せでもいいから。エゴイストと呼ばれてもいいから。
秘密めいたことを打ち明けることで、相手に気を許している自分をアピールしたいというときもたまにはあるけど、それよりは、単に自分が話したいから話している。
そんな私が「恋バナ」を好まないはずがない。話すのも聞くのも大好きだ。三年間付き合った彼氏との出会い、なれそめ、初めてキスをした日のこと、初めて旅行に行ったときのこと、大喧嘩をしたこと、マンネリを感じ始めたこと、相手に別の好きな人ができたこと、ついには別れたこと。親友に事細かに報告していた。
彼と付き合ったことはまったく後悔していないし、「もしもあのときああしていれば…」という思いもほとんどない。私はその都度ベストと思われる選択をしていたと信じているし、三年前に戻れるとしても、きっとまた同じように彼と付き合うだろう。
たったひとつだけ、「ああしていればよかった。」ということがあるとしたら、自分たちのことをあまり吹聴するべきではなかったなということだ。
私が自分と彼のことを人に話し過ぎて、彼を傷つけたということは多分ない。(聞かされる友人たちは迷惑だったかもしれないけど…。)実際になにがあったとかではなく、もっと観念的な問題なのだ。なぜなら、幸せはやっぱり目に見えないし、きっとこぼれてしまうものなのだ。
迷信じみた話をそっくり信じ込むほど私は純粋でもないし、馬鹿でもない。でもあんなに幸せだった自分たちが、少しずつ少しずつ終局に向かっていたのは紛れもない事実だし、一体なにが原因だったのだろうと考えると、なかなか思い当たらない。(普通明らかな原因などないものなのだろうけど。)
で、やっぱり私は、「有限の幸せの無駄遣い」をしていたからではないかな、と思ったりするのだ。こっそり味わうべき幸せ(人に分け与えて倍になる幸せとは別に存在している)を自分だけで味わえないほど子どもだった自分は、今になって「ああ。」と思うのだ。秘密めいた女のミステリアスな部分じゃないけど、自分だけのために贅沢な時間を隠し持っている女はやはり魅力的だと思うから。
もし、いつかまた恋をするなら、その人を人に紹介するときに、「素敵な人なの。」と一言でしか語れないほどの素敵な人を好きになろう。
そして、その人との大切で優しい時間の思い出だけは、自分だけでこっそり味わおう。有限な幸せでもいいから。エゴイストと呼ばれてもいいから。
華麗に盛大に
2005年9月13日元カレと別れてから、普段聴かないような音楽ばかり聴いている。オレンジレンジもその一つ。
意外に知られていない(別に知らなくてもいいけど)が、私はバイトの休憩中もヘッドフォンを装着するほどの音楽中毒者。常に音が鳴っていると安心するタイプである。
そんな私だから、聴く曲と生活が妙にリンクしてしまい、昔よく聴いていた曲を別の場所で聴いたりすると、同時期に身の回りで起こっていた色々なこともセットで思い出してしまう。いいことも悪いこともね。
で、きっと何年か後に(その頃は幸せになっているかな。)、今聴いている曲をどこかで耳にしたら、やっぱり「大学四年の夏」に帰ってしまうのだろうな、という確信がある。
突然フラれて呆然自失になり、ふらふらとTSUTAYAに行って、適当に選んだのがオレンジレンジ(今更。私は人より三歩くらい遅れてるのだ、いつも。)の『musiQ』。
その中に「祭男爵」という曲があるのだけど、こんな歌詞である。
恋も遊びも華麗に盛大に
後悔だけはしたくない タテル限り
笑ってなきゃ申し訳ナイ
一度キリの自分の人生に
おかしいな。こうして書くと、案外普通の歌詞に見える。
音楽を聴いて「そうだよなあ。」と歌詞に共感することはいつもだけど、オレンジレンジみたいな若造(大して歳は変わらないが)たちにシンプルに大胆に訴えられると、
「ああ、だよね。」
という気になるから、不思議である。これは正直、不覚とも思えるのだが。といったらファンに失礼だろうか。
今秋、23になる。今まで元カレがいなくなったら死ぬのではないかとさえ思っていたけど、この若さで死んでどうする。最近は不思議と前向きになれる瞬間が多く、その度に思うのは、「ようやく人生面白くなってきたな。」ということ。
一度キリの自分の人生、恋も遊びも華麗に盛大にぶっぱなしてやる。とりあえず今後華麗に舞うための助走期間は終わったような気がするから、あとはなんとか上昇気流をつかまえるのみかもしれない。
どん底に突き落とされる失恋?上等だ。
意外に知られていない(別に知らなくてもいいけど)が、私はバイトの休憩中もヘッドフォンを装着するほどの音楽中毒者。常に音が鳴っていると安心するタイプである。
そんな私だから、聴く曲と生活が妙にリンクしてしまい、昔よく聴いていた曲を別の場所で聴いたりすると、同時期に身の回りで起こっていた色々なこともセットで思い出してしまう。いいことも悪いこともね。
で、きっと何年か後に(その頃は幸せになっているかな。)、今聴いている曲をどこかで耳にしたら、やっぱり「大学四年の夏」に帰ってしまうのだろうな、という確信がある。
突然フラれて呆然自失になり、ふらふらとTSUTAYAに行って、適当に選んだのがオレンジレンジ(今更。私は人より三歩くらい遅れてるのだ、いつも。)の『musiQ』。
その中に「祭男爵」という曲があるのだけど、こんな歌詞である。
恋も遊びも華麗に盛大に
後悔だけはしたくない タテル限り
笑ってなきゃ申し訳ナイ
一度キリの自分の人生に
おかしいな。こうして書くと、案外普通の歌詞に見える。
音楽を聴いて「そうだよなあ。」と歌詞に共感することはいつもだけど、オレンジレンジみたいな若造(大して歳は変わらないが)たちにシンプルに大胆に訴えられると、
「ああ、だよね。」
という気になるから、不思議である。これは正直、不覚とも思えるのだが。といったらファンに失礼だろうか。
今秋、23になる。今まで元カレがいなくなったら死ぬのではないかとさえ思っていたけど、この若さで死んでどうする。最近は不思議と前向きになれる瞬間が多く、その度に思うのは、「ようやく人生面白くなってきたな。」ということ。
一度キリの自分の人生、恋も遊びも華麗に盛大にぶっぱなしてやる。とりあえず今後華麗に舞うための助走期間は終わったような気がするから、あとはなんとか上昇気流をつかまえるのみかもしれない。
どん底に突き落とされる失恋?上等だ。